全28件 (28件中 1-28件目)
1
クロニクル イラクで日本人青年殺害2004(平成16)年10月31日13年前の10月中旬、日本人青年香田証生さん(当時24歳)が、訪問先のイラクで、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループに拉致され、人質とされました。 拉致を実行したグループは、インターネットで犯行声明を出し、日本政府が48時間以内に、イラクからの自衛隊撤退に応じなければ殺害すると通告してきました。これに対し日本政府は、香田さんの解放を求めましたが、要求についてはテロリストとは交渉しないとして拒否しました。この結果、青年はグループにナイフによって首を切断される形で殺害され、13年前のこの日未明、バグダード市内で放置された香田さんの遺体が発見されました。 当時私は、頚椎ヘルニアからくる左腕の筋無力症で入院中でしたから、病院でニュースを見ていたのですが、香田さんが拉致された3日後に、これは助からないと思い、残念ながら香田さんは拉致グループに殺されるだろうと暗い気持ちになりました。 香田さんがヨルダンからバスでバクダッドに移動したことは早くから報道されていましたが、どうやら香田さんは、ヨーロッパからイスラエルに渡り、そこから隣国ヨルダンに渡り、イラク入りしたらしいことが、分かってきたからです。イスラエルに入国した事実はパスポートに記録されます。多国籍軍に加わってイラクに自衛隊を派遣している日本人が、イラクの人々にとって不倶戴天の仇のような存在であるイスラエルからやってきた事実を、拉致グループが知ったらどうなるか、それは想像するに難くないことでした。少なくとも中東情勢に多少の知識があれば、イラク入りを考えながら直前にイスラエルに立ち寄るようなことはしないものです。その点香田さんは、あまりに無知でした。 丁度検温にやってきた看護士さんと共にテレビニュースを覗きながら、思わず「これは助からない」とつぶやき、問われて事情を説明したことを、今でも良く覚えています。その想像は有り難くないことに、当たってしまいました。残念なニュースでした。追記所用のため、本日と明日は皆様のブログを訪問することができません。明日はブログの更新も失礼します。明後日には平常に戻れると思います。
2017.10.31
コメント(8)
クロニクル 上信越自動車道全面開通1999(平成11)年10月30日18年前のことです。この日、関越自動車道の群馬県藤岡ジャンクションから、長野県長野市を通り、新潟県上越市の上越ジャンクションまで、上信越自動車道(正式名称は関越自動車道上越線)が全線開通しました。この高速道は、上越ジャンクションで北陸自動車道に接続しているため、単に長野県北信地方や新潟県上越地方と首都圏を結ぶだけでなく、関東と北陸方面を結ぶ動脈としての役割も持つ幹線道路としても機能しています。
2017.10.30
コメント(16)
クロニクル トルコ共和国誕生1923(大正12)年10月29日94年前になります。関東大震災の約2ヶ月後という時期の出来事です。 第一次世界大戦にドイツ側で参戦したオスマン帝国は、戦い敗れて大きく領土を縮小、屈辱的なセーヴル条約を押し付けられました。この条約に納得できなかったムスタファ・ケマルらは、アナトリア高地中央部のアンカラに連合軍への抵抗政府を組織し、トルコ人のトルコ建設を目指して戦いを開始したのです。 民衆の支持を得たケマルらは、次第に形成を挽回、英仏軍の支持を得てイズミール方面に侵入したギリシア軍との戦いに勝利し、ついにこの日トルコ共和国の成立を宣言するに至ったのです。トルコの独立を主導したケマルは、初代大統領に就任しました。 2020年の五輪開催を東京と競ったイスタンブールは、トルコ共和国最大の都市です。独立100周年を祝った翌年の五輪開催こそ、イスタンブールに相応しいように思っていたのですが、国境を接するシリアやイラクの内戦が続き、イスラム過激派のテロに見舞われる可能性を考えると、イスタンブールを選択することは、難しかったのでしょうね。
2017.10.29
コメント(20)
クロニクル 「わたし作る人...」なんて差別だわ1975(昭和50)年10月28日今年で42年ですか。当時「わたし作る人、ぼく食べる人...」というハウス食品のコマーシャルが、良くブラウン管を賑わしていましたね。たしか食べ物はカレーだったような...?我家では、当時麺類は私が茹でていたのですが、特に気にすることもなく、ワイフと笑いながら、何気なく見ていましたが、このコマーシャル75年の10月をもって、突然放送打ちきりとなりました。75年は、国際婦人年と銘打たれた年でしたが、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」という、おそろしく長たらしい名称の団体が、当時人気のあった「わたし作る人、ぼく食べる人」のコマーシャルに対し、「男女の役割分担を固定化する差別CMである」として、提供元であるハウス食品工業に抗議文を送り、放送中止を求めたのです。指摘を受けたハウス食品は、食品メーカーとして婦人団体を敵に回すわけにはいかないとして、この日CMの中止を決断。今月末をもって放送を中止する旨を「行動を起こす会」に伝えました。同会は、今後も女性差別に通じるCMには、抗議を続けるとの姿勢を表明したのですが、テレビCMだけを対象としたため、巷に反乱する差別語は平然と見逃してしまい、そうした差別語が今もって平然と使われ続けるという、弱点も露呈しました。一例をあげておくと、子ども達の小・中・高校のPTAの会合の名称です。「父母会」と自覚的に呼んでいる学校はどれだけあるでしょうか。未だに戦前の家父長制社会そのままに、「父兄会」と呼んで憚らない方達が数多く見受けられます。「父兄会」の兄は、家督相続者であり、父に事あれば、弟妹達の生活の面倒を見る責任を負う、浅見光彦君の兄上のような兄を指す語で、今日ではほとんど存在しません、保護者の集まりに兄が出席することも、ほとんどありません。実際の出席者はほとんどが母親で、父親がちらほらといったところでしょうか。現実には子に対して圧倒的な影響力を発揮しているのは母親です。その母親の存在を無視して憚らない鈍感さに、実はわたしは呆れています。さすがに昨今は保護者の皆様という言い方が据えてきてはいますが、まだ残っていますね。「いまどき「父兄会」だなんて、そして「ご父兄の皆様」だなんて、よくもまぁ平気で言ってますねぇ、あんた古いネェ...」これはわたしの1人言です。
2017.10.28
コメント(12)
クロニクル フランス人民戦線崩壊1938(昭和13)年10月27日79年前のことです。この日、フランスの人民戦線が崩壊しました。人民戦線とは、迫りくるファシズムの脅威に対抗することを目指して、1936年にフランスの左翼並びに中道政党や、労組などの各種団体が連合を組んだ統一戦線を指します。政党では共産党、社会党、急進社会党の3党が、「パンと平和と自由と」をスローガンに統一戦線を組んだのですが、当時のフランスの選挙制度が小選挙区2回投票制だったからこそ、実現した緩やかな連合でした。2回投票制とは、第1回投票で有効投票の過半数を獲得した候補がいなかった場合に、上位2名で決戦投票を行なうという制度です。したがって第1回投票では候補者調整の必要はなく、2回目の決選投票に残った候補を互いに応援し合えば良いのですから、協定を結び易かったのです。決戦に残った2名が共に3党の候補だった場合、他の1党は1位の候補に投票する決まりでした。こうして、人民戦線は1936年5月の総選挙に大勝し、社会党のレオン=ブルムを首班とする内閣を組織、労働者に3週間のヴァカンスを保障する労働協定法案などを成立させる成果をあげましたが、スペイン内戦の勃発にどう対応するかで、意見が割れて、戦線は不安定化し、次第に有名無実となり、この日遂に崩壊の憂き目を見たのです。時に第2次世界大戦勃発の、約10ヶ月前のことでした。
2017.10.27
コメント(10)
クロニクル 伊藤博文公暗殺1909(明治42)年10月26日108年前のことです。前韓国統監 伊藤博文(69才)公は、この日、清国黒竜江省の省都ハルビン駅頭にて、朝鮮人青年安重根の凶弾に倒れました。この日、伊藤公は日露戦争後のロシアとの関係修復を探るために、ロシア蔵相ココフツェフとの会談のため,ハルビンを訪れ、駅構内の列車の貴賓車の中で、会談を終えて列車を降り、居並ぶ各国領事と挨拶を交わした直後に安の銃弾に倒れたのです。 日本国内は,この報に強い衝撃を受けましたが、統監として、日本の朝鮮支配を強化した伊藤は、韓国民衆にとっては怨嗟の的であり、暗殺者安重根は、韓国では独立運動の義士として、今も英雄視されています。一つの事件も、見る角度が変わると,全く異なった顔を見せる,歴史理解の難しさの一端を示す、好個の例がここにあります。日中・日韓の歴史理解を擦り合わせる作業はやらなければならないことなのですが、その作業はなお前途遼遠だと思わざるをえません。しかし、ドイツとフランスはヨーロッパ連合の前進に向けて、過去の怨念を捨てて、共通の歴史教科書の作成に向けての困難な作業を続け、遂にその作業を完成させています。 参考 近藤孝弘『国際歴史教科書対話 ーヨーロッパにおける過去の再編ー 』(中公新書)アジア特に北東アジアの日・中・韓の努力が、今や世界から問われています。この事実の重さを、言葉の軽い政治家や、マスメディアの皆さんに噛みしめてもらいたいですね。
2017.10.26
コメント(12)
クロニクル レイテ沖海戦,連合艦隊潰滅1944(昭和19)年10月25日73年前のことです。前日24日からこの日にかけて行なわれたレイテ島沖の海戦で、日本の連合艦隊は米軍の機動部隊の攻撃により、空母4艘以下を失い、潰滅状態となって完敗しました。この作戦は、20日に米軍がレイテ島に上陸したと聞いた大本営の司令で始まりました。連合艦隊は22日に一斉に出撃、米艦隊をレイテ湾外におびき出すことには成功しますが、レイテ湾突入を図った艦隊は、米軍艦載機の波状攻撃に対応出来ず、圧倒的な航空機部隊の機動力の前に、大損害を受けて完敗し、狙いのレイテ湾突入は、果たせませんでした。特筆すべきは、このレイテ沖海戦に際して、虎の子の海軍航空部隊に、神風特別攻撃隊(神風特攻隊)が編成,組織されたことです。250kg爆弾を装着した零戦が、敵艦に体当たり攻撃すために出撃し、25日には敵の空母2艘を撃沈するなど、この時は一定の成果を上げました。しかし、レイテ湾に入れず、レイテ島の日本軍部隊との連絡もとれないままとなり、レイテ島の日本守備隊7万5千人は補給路を断たれて万策尽き、12月には、全滅の憂き目を見ることになりました。
2017.10.25
コメント(18)
クロニクル ウォール街の暗黒の木曜日1929(昭和4)年10月24日88年前のことです。世界恐慌の幕開けだったとされる、有名な株式大暴落の話です。10月はじめから微妙な値動きを示していたNY株式は、この日の朝は平穏でしたが、10時前から急激に下げ始め、売りが売りを呼ぶパニック状態になりました。昼近くには、取引の正確な情報さえ分からないという混乱状態に陥りました。しかし、午後になって金融界が急遽対応策を練っているとの情報が伝わると、急速に持ち直して、この日の取引を終えたのです。しかし、これは1時的な凪に過ぎず、翌週29日火曜日には終日売りの嵐が吹き荒れたのです。 「暗黒の木曜日」に続く「悲劇の火曜日」の追い討ちでした。ここに、株価は10月だけで、37.5%も急落、上場株式の時価総額は9月末評価の896億ドルから、12月1日には、なんと635億ドルへと、259億ドル強の減少となりました。 NY株式の工業株平均は、ニュヨークタイムズの発表によれば、1926年末の180ポイントから上昇を始め、28年1月には240ポイント、29年1月には330ポイントと、倍近くに上昇していました。その後も、実態経済の変調、フォード車の売れ行き不振が報じられる中、なお夢見る投資家の参入で上昇を続け、10月には440ポイントの高値を付けていたのです。バブルの崩壊、ユーフォーリア(根拠のない熱狂)の醒めたあとを知る我々には、何かわが身に起こったことのような感じもします。さて、米国の株価大暴落は、実態経済の変調に目をつぶっての買い漁りの結果でした。それだけに投資家の受けた傷は大きく、資金繰りに窮した投資家は、欧州への投資を回収して、損失の穴埋めをせざるをえなくなったのです。こうした行動は、米国からの資金流入に頼って、第1次大戦の破局から、経済再建を進めていたドイツ経済を直撃し、そのドイツからの戦争賠償に頼って経済再建を進めていたイギリスとフランスの経済にも大打撃となったのです。この混乱は植民地経済にまで波及して、ついにはソ連を除く全世界を巻き込む世界大恐慌となったのは、御存知の通りです。
2017.10.24
コメント(14)
クロニクル 中越大地震発生2004(平成16)年10月23日13年前のこの日、間もなく午後6時になろうとする時刻でした。私の住む神奈川県川崎市北部でも、大きな揺れがありました。これが中越大地震の始まりでした。最初の揺れで震度7を観測した地点もありましたが、中越大地震の恐ろしい所は、その後何度にもわたって、激しい揺れが続いたことにありました。最初の揺れは、多少の地域的ズレを含みながら、5時56分~59分に発生、以後、12分後、35分後、そして106分後の3回にわたって、震度6を超える大きな揺れが襲ってきたのです。翌日以降も激しい揺れが数日間収まらなかったのですから、それは益々厳しい状況でした。あれから13年、大地震の影響はどうなっているのでしょうね。
2017.10.23
コメント(18)
クロニクル キューバ危機発生1962(昭和37)年10月22日55年前のこの日、アメリカ合衆国のケネディ大統領は、カリブ海の隣国キューバに、ソ連がミサイル基地を建設中である証拠を掴んだと発表、今後の武器等の搬入を阻止するためにキューバに対する海上封鎖を実施する、ソ連船といえども臨検の例外とはしないと発表しました。すわっ米ソの軍事衝突は避けられない、第3次世界大戦=核戦争の勃発かと、世界は悲壮な覚悟を迫られました。この日は丁度私の20才の誕生日でした.米国時間の22日でしたので、日本でニュースを知ったのは、23日の夕刊でしたから、良かったのですが、それでも20才になった翌日から暗い気持にさせられるとはと、忘れられない苦い記憶が今も鮮明に残っています。数日後、ソ連共産党のフルシチョフ第一書記は、キューバ近海に達していたソ連船に引き上げを命じ、危機は回避されました。世界が第3次世界大戦に最も近づいた1週間でした。この苦い経験を踏まえて、米ソの首脳間にホットラインが敷設され、相互の意思疎通が図られるようになり、状況は安定に向かいました。
2017.10.22
コメント(22)
クロニクル 中曽根裁定下る1987(昭和62)年10月20日 30年前になります。30年前の10月19日はNY株式市場が大暴落した日で、ブラックマンデーと呼ばれました。このNY大暴落の影響で、この日の東京市場は朝から売り一色。買い物が入らないため、ストップ安売り気配の銘柄が続出するパニック状態にありました。そんな30年前のこの日、引退を表明していた中曽根首相は、後継総裁に名乗りをあげていた、安倍晋太郎・竹下登・宮沢喜一の3氏の白紙委任を取り付けた上で、自らの後継に最大派閥竹下派の竹下登氏を指名しました。 最大派閥からの総理・総裁の登場は、田中角栄元首相の辞任後、13年振りのことでしたから、長期安定政権誕生かと思われたのですが、「好事魔多し」というべきか、竹下首相がリクルート事件に連座して、一般消費税の導入を花道に、在任2年足らずで辞職を表明したのは、89年4月末のことでした。それから自民党ばかりでなく、日本政治の漂流が始まったような気がします。現在の安部内閣も一強体制とか言われる割に、中曽根時代や小泉時代のようなどっしりした安定感は感じられませんね。なんだか危なっかしいですし…
2017.10.20
コメント(24)
クロニクル 運命のロッテ対近鉄ダブルヘッダー1988(昭和63)年10月19日29年前のことです。この年パリーグの優勝争いはもつれにもつれ、西武と近鉄がデッドヒートを繰り広げたのですが、先に全日程を終えた西武に対し、4試合を残した近鉄は3勝すれば優勝という有利な立場に立ったのです。緊張して固くなる選手も多く、17日の阪急戦に敗北、後がなくなりました。18日のロッテ戦に勝ち、こうして19日の対ロッテダブルヘッダーを迎えたのです。第1試合は辛くも逆転勝ちし、最終戦を迎えました。試合は延長戦に入りましたが、審判団は日没を考慮し、延長10回を最終回とする旨を両チームに伝えたのです。しかし、ここでも決着することはなく、近鉄は涙を呑んで、2位に甘んずることになったのです。この悔しさは来年晴らすと、監督以下全選手で誓った近鉄バファローズは、翌年見事に優勝しましたね。
2017.10.19
コメント(12)
クロニクル フラフープ発売1958(昭和33)年10月18日59年前のことになります。フラフープはご存知ですね。特に女性の方はだっこちゃんと一緒にインプットされているのでは…。 実は59年前の今日は、日本でフラフープが発売された記念すべき日にあたります。
2017.10.18
コメント(18)
クロニクル OAPEC石油戦略を発動1973(昭和48)年10月17日44年前になります。この日、ペルシア湾岸6ヶ国は、原油公示価格を21%引き上げることを決定、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国の石油担当相会議は、イスラエル支持国向けの原油生産を5%削減するという、石油戦略を発動しました。6日に始まった第4次中東戦争において、この日いよいよ産業社会の命綱,石油を武器とした石油戦略が発動されたのです。世界経済を大きく揺るがせた、史上に名高い第1次オイルショックは、この日の決定が基となって、始まりました。
2017.10.17
コメント(12)
クロニクル 全米にヴェトナム反戦広がる1967(昭和42)年10月16日ちょうど半世紀ですか。50年前のこの日、アメリカ全土30の主要都市で、一斉にヴェトナム反戦を訴える反戦デモが行われました。それは、アメリカにおけるヴェトナム反戦週間の幕開けを飾る行進でした。ニューヨーク、ボストン、ロスアンジェルス等々の都市で一斉にデモ行進が行われたのです。それはアメリカ政府には大きな衝撃になりました。 イラク戦争やアフガン戦争では、こうした大きな反戦行動は起きていません。 それだけ、米国にとって、ヴェトナム戦争は特別の戦争だったのですね。
2017.10.16
コメント(20)
クロニクル 拉致被害者5名帰国2002(平成14)年10月15日あれから15年ですか。朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」)に拉致された拉致被害者のうち、9月の小泉首相の訪朝の際に、「北朝鮮」が生存を確認した5名の皆さんが、この日、日本の土を踏みました。 蓮池夫妻、地村夫妻、そして曽我ひとみさんです。他の方々は死亡と発表されました。この報に接した時の私の印象は、よくぞまぁ、拉致という国家犯罪を認めたものだという点にありました。「国家は過ちを認めないし、あやまらない」の倣岸不遜を貫く日本の官僚機構であれば、拉致を認めるなどということは絶対にしなかっただろうと、考えるからです。それだけに私は、拉致被害者家族会の皆さんが、帰国しなかった自分たちの家族が、なお「北朝鮮」で生存していると思って活動されているお気持ちを理解しながらも、15年前に死亡と発表された皆さんについては、生存の可能性は低いのではないかと受け止めています。ですから、4年前に再々調査を約束した「北朝鮮」側の対応に、いったいどんな答えをもってくるのか。体制内部をまとめ切れるのかと、いくつもの疑問を感じておりました。 果せるかな、金正恩総書記が40日ほど姿を見せなかったり、日本側への中間報告が遅れたりと、「北朝鮮」側の揺らぎを示す兆候が、次々と表面化し、遂にはうやむやになってしまいました。どういう決着になるかはともかく、拉致問題が全面解決に至るには、南北朝鮮の統一が欠かせない。日本側が納得する解決は、統一後になるであろうと、私は考えています。 日本政府のすべきことは、南北統一を早期に実現して、朝鮮半島全域をくまなく探せるような環境を整えることにあると、私は考えています。それはまた、かつて朝鮮半島を植民地として支配した日本が、ひと汗かくべきことでもあるように思うのです。
2017.10.15
コメント(16)
クロニクル 祝日法改正案成立1998(平成10)年10月14日19年前のことです。この日、祝日法改正案、いわゆるハッピー・マンデー法案が成立し、成人の日と体育の日が1月と10月の第2月曜日ということになりました。その後、海の日と敬老の日も7月と9月の第3月曜日に変更され、4つの祝日が日にちと切り離されることになりました。このうち、成人の日は、かつての全国一斉徴兵検査の日という、日本の過去の重い歴史を背負った日で、祝日としても長い歴史を持った日でしたし、体育の日も東京オリンピックの開会式の日という、我々世代の日本人にとって、記念碑的な意味を持つ日でしたから、できれば動かして欲しくない日でした。 何よりも連休を増やして、行楽地に資金が落ちるようにという発想そのものに、いかにもエコノミックアニマルが考えそうな、卑しさが感じられてなりませんし、特定の曜日ばかりに祝日が集中するという点で、特に学校などでは、困った問題を惹き起こしており、私などは困った悪法だと感じています。
2017.10.14
コメント(8)
クロニクル トルコ共和国アンカラに遷都1923(大正12)年10月13日94年前になります。関東大震災から43日後ですね。この日、誕生間もないトルコ共和国のケマル・アタテュルク大統領は、イスタンブールからアンカラへの遷都を正式に発表しました。第一次世界大戦の敗戦国オスマン帝国は、他の敗戦国同様厳しい講和条件を押し付けられたのですが、スルタンの政府は抵抗することもせず、自己の政権の継続を条件にそれを受け入れ、1920年セーヴル条約を結びました。しかし、この条約はトルコ人の主権を著しく制約する内容だったため、ケマルらは敢然と立ち上がって連合国、特に強硬なギリシアとギリシアの肩を持つイギリスに戦いを挑みました。国民の支持を得たケマルらは、アンカラに臨時政府を組織して戦いを進め、1923年トルコ人共和国の独立を認めさせることに成功、セーヴル条約を破棄してローザンヌ条約を結ぶことに成功したのです。こうしてトルコもまた、民族自決権を確保し、同時にスルタン制を廃して、共和国となることを選んだのです。首都のアンカラへの移転は、その帰結でした。
2017.10.13
コメント(8)
クロニクル サラ金の実態調査結果発表 1978(昭和53)年10月12日39年前です。この日,警視庁はサラ金等貸し金業に関する実態調査の結果を公表しました。この時期は、サラ金等による40~60%という高額な利息と苛烈な借金の取立てが社会問題化していた時期でした。調査によると、同年1月から8月までの8ヶ月間で借金苦による自殺者130名、蒸発等行方不明者1,502名、自殺者の88.5%が男性、女性は主婦が大多数だったと報告されています。また特に女性の借金の大部分は、30~50万円の小口で「家計のやりくりのために借りたが、利息があまりに高く、元金が減らずに困っていた」人だったという実態が示され、また家出人の多くが20~40代だった事実も明らかになりました。ここに、サラ金規制の必要性が明かになったのですが、サラ金等からの政治献金がネックになったのか、国会での審議はなかなか進まず、世論やマスコミの指弾を受け、ようやく「サラ金等規正法」が成立をみたのは、なんと1983年11月でした。警視庁による実態調査発表の5年後です。ここで留意したいことは、この時の規制が高利規制、過剰融資規制、強制取り立て規制の3点の眼目を持っていたことです。それでも、利息制限法の上限金利とは別に、出資法に定めるより高い上限金利という2種類の上限金利が併存したために、サラ金各社は、「グレーゾーン」と呼ばれた出資法の上限金利を適用して、高収益をあげていました。こうした実態に対する批判に対しても、「金利を下げれば生活困窮者は融資を受けられなくなる」との主張が業界寄りの議員や官僚からしきりに出され、2006年の最高裁判決で、「グレーゾーン金利は違法であり、その差額は過払い金として返還される必要がある」とされるまで、より高い金利が適用され続けました。その後、過払い金返還請求が殺到し、返還に追われた業界が不振に陥ったのは、まさに自業自得というべきでしょうか。そしていまや、サラ金各社はメガバンクの傘下に入り、メガバンク各社は、臆面もなく競って自行のカードローンのCMに血道をあげるなど、正当な融資ではなく、まさにサラ金のお株を奪う高利貸しと化しています。何とも嘆かわしい時代になったものです。
2017.10.12
コメント(14)
クロニクル 田中金脈事件の幕明け1974(昭和49)年10月10日 前回の東京の五輪開幕からちょうど10年後、43年前の話になります。この日、立花隆氏の「田中角栄研究ーーその金脈と人脈」を掲載した『文芸春秋』11月号が発売されました。 世に言う「田中金脈」問題の口火を切ったこの論文は、発売と同時に大きな話題を呼び、今太閤と話題を呼んだ田中人気は急速に失速、田中首相は11月26日には,辞職を表明するところまで、追い詰められたのでした。その後、「神に祈る気持で…」と表した椎名裁定で、三木武夫氏が総裁に指名されたのは、12月1日のことでした。 追記 一昨日、昨日と地元の秋祭りでした。昨夜7時ころ打ち上げを済ませて帰宅。疲れたからひと眠りするつもりで横になったところ、気づいたら外は明るく、朝になっていました。本日はシニア組で残務整理、まだバタバタしています。 確実に体力が落ちてきていることを、痛感させられたヒトコマ でした。
2017.10.10
コメント(18)
クロニクル 佐藤前首相にノーベル平和賞1974(昭和49)年10月8日43年前のこの日、佐藤栄作前首相にノーベル平和賞が授与されることが発表されました。在職中に実現した「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」の非核三原則の国会決議が、高く評価された結果でした。非核三原則誕生のいきさつを記すと、72年に米国から返還された沖縄の米軍基地に、核兵器が配備されたままではないのかという不安感が拭えず、沖縄の人々が訴えていた「核抜き本土並み返還」が本当に実現したのだろうかと、国会でも厳しい追及がなされました。こうした野党の追及をかわす為に、非核三原則を世界にアピールすることが提案され、国会で満場一致で議決されたのです。ですから。非核三原則は佐藤首相自身が積極的に推進したものではなかったのです。それだけに、国内ではその他のノーベル賞受賞者の時のような、祝賀ムードは見られず、かえってノーベル平和賞の権威を傷つける受賞とさえ、言われました。
2017.10.08
コメント(16)
クロニクル 附加価値税導入断念1979(昭和54)年10月7日38年前のこの日、第35回衆議院議員選挙が行われました。前年に就任した大平正芳首相は、財政再建を錦の御旗に附加価値税の導入を掲げて選挙戦を戦い、惨敗しました。その結果、自民党は保守系無所属議員を追加公認するという、窮余の一策で辛うじて過半数を確保したのです。約1ヶ月後の11月9日の首班指名選挙では、自民党から大平総裁の外に、前総裁の福田赳夫氏も出馬、党内を二分する分裂状態となりましたが、田中派の支持を得た大平総裁が新自由クラブの支持も得て、辛うじて勝利する一幕となりました(大平・田中vs福田の30日抗争。この頃から角影内閣の呼称が生まれました)。ここに、附加価値税の導入は頓挫し、中曽根内閣の下での売上税の導入も失敗。竹下内閣の下で、消費税(当初税率3%)と三度名を変えて(課税方法も少しづつ変わっていますが、大型間接税という本質は変わっていません)、ようやく導入に成功したのは、附加価値税構想の頓挫から10年後、1989年のことでした。実際に消費税が課税されるようになったのは、1989年の4月1日のことでした。
2017.10.07
コメント(10)
クロニクル 第四次中東戦争始まる1973(昭和48)年10月6日44年前のことです。この日、エジプト・シリア両軍がイスラエルに対する攻撃を開始、第4次中東戦争が始まりました。過去3度の戦いでは、欧米諸国の支援を受け、空軍力に勝るイスラルが圧勝していました。その反省に立って、第4次の戦闘では、アラブ諸国は石油戦略を発動して原油生産の削減を決定、原油価格の引き上げと、イスラエルを支持する国には、産業の米である石油を売らないことの2点を、各国に通知しました。その結果、アラブ世界から石油を買っている諸国は、先を争ってアラブ支持を表明、欧米諸国もイスラエルを支持するわけにはいかず、やむなく中立を宣言するに至りました。戦いは、欧米からの武器援助を十分には受けられなくなったイスラエルが苦戦し、序盤はアラブ諸国軍が優勢でした。イスラエルは後半必死に盛り返し、辛うじて引き分けに持ち込んだのですが、ここにイスラエルの不敗神話は崩壊ししました。この時OAPEC(アラブ石油輸出国機構)はOPEC(世界石油輸出国機構)の協力も得て、原油の減産を実行して、第1次石油ショックの引き金を引いたのです。ここに、従来1バーレルあたり2ドル~3ドル程度(差は原油の質による)だった原油価格は、15~18ドルに急騰(その後、80年の第2次石油ショックでは30ドル前後に急騰)しました。これでも現在に比べればグンと安いのですが、当時としては大変でした。日本国内では洗剤やトイレットペーパーがスーパーの店頭から消え、パニックが起きましたし、世界的に物価は急騰しながら、景気は最悪と、戦後世界では最初の世界同時不況となり、世界的にスタグフレーション(不況下の物価高)が深刻化しました。
2017.10.06
コメント(14)
クロニクル 山口百恵引退コンサート1980(昭和55)年10月5日あれから37年も経つのですね。この日、俳優の三浦友和との結婚を機に引退を発表した、当時人気絶頂の歌手山口百恵のファイナルコンサートが、東京九段の日本武道館で開かれました。別れを惜しむファンが詰めかけ、会場は12,000人のファンの熱気に包まれました。山口百恵は、当時の人気番組だった、日本テレビの「スター誕生」で見出され、1973年5月「としごろ」で歌手デビュー。桜田淳子、森昌子と3人で、花の中3トリオとして人気を集めました。「コスモス」「プレイバックPart2」などのヒットを飛ばし、引退までにLPレコード485万枚、シングルレコード1600万枚(当時まだCDはありませんでした)を売上げました。三浦友和とは映画「伊豆の踊り子」「絶唱」などで共演、いずれも200万人の観客動員を記録する大ヒットとなるなど、惜しまれての引退でした。引退後一度もマスコミに登場しない姿勢も、一本筋が通っていて好感が持てますね。最近、長男で歌手兼俳優の三浦祐太朗が母の持ち歌「いい日旅立ち」を歌い始めましたね。
2017.10.05
コメント(12)
クロニクル 自自公3党連立政権樹立で合意1999(平成11)年10月4日18年前のこの日、自由民主党・自由党・公明党の3党は、連立政権を樹立することで合意しました。この合意に基づき、翌5日に成立した小渕改造内閣には、自由党から1名、公明党から1名の、計2名が、連立政権の閣僚として参加しました。このうち、自由党の党首は、後に民主党代表になる小沢一郎氏でした。やがて、自由党から、野田毅、扇千影氏らが分離独立して、保守党の名乗りを上げ、その後自民党に吸収されてゆくのですが、小沢自由党は、03年の9月に、民主党との合併に合意して、民主党に合流、政権交代に成功しますが、その後がいけなかったですね。見方を変えると、この頃からの離合集散が、今なお続いているようにも見えます。日本の政治風土に似合わない小選挙区制を、「これぞ政治改革、金のかからない選挙の実現が、これで可能となる」などと、嘘八百を並べて強引に導入したツケが、いまなお続いている。こんなふうに見えてなりません。
2017.10.04
コメント(10)
クロニクル 東西ドイツ統一1990(平成2)年10月3日あれから27年経ったのですね。この日、午前零時、統一ドイツが誕生し、1949年の東西両ドイツ国家の誕生以来、41年に及んだ分断の歴史に終止符が打たれました。前年の11月9日、予想もしていなかったベルリンの壁(壁の設置は1961年の8月でした)が崩壊し、東西ドイツの交流が自由化されて以来、職を求めて西ドイツに流入する東ドイツ国民が急増、何らかの対策を講じる必要が生じていました。しかし、西ドイツ財界は、拙速な統一は基盤の脆弱な東ドイツ経済を崩壊させ、西ドイツの経済的負担を増大させるとして、時間をかけてゆっくりと統一を進める道を提言していました。しかし、功を焦るコール首相は、ドイツマルク(西ドイツ)とオストマルク(東ドイツ)の交換レートを1:1に設定する(当時公式レートは1:4とされていましたが、街中でのレートは1:10程度だったとされています)という経済常識を無視した通貨交換を実施して、通貨を統一。東ドイツ国民の支持を集めて、早期の統一を実現しました。統一ドイツは人口約8000万人、国土面積は日本とほぼ等面積の35,7万km平米となりました。しかし、コール首相の人気取りのための無理な通過統合がたたり、背伸びを強いられた東ドイツ企業は、西ドイツ企業だけではなく、旧ソ連の支配下にあった東欧諸国の企業にも太刀打ちすることが出来ず、次々に倒産、東ドイツ地域の経済再建に10年以上の年月を要する苦難を強いられることになりました。ドイツ経済の復活は、ユーロの誕生によって、ユーロ圏諸国に関税なし、そして為替の障壁もなしに、輸出できるようになったからでした。ドイツにとって、まさにユーロさまさまでした。この東西ドイツの統一以来、私は早期に朝鮮半島の統一が実現する事を期待しているのですが、未だにその気配が見えないのが残念でなりません。何とかわが命が尽きる前に、朝鮮半島の統一実現を喜びたいと願っているのですが…
2017.10.03
コメント(16)
クロニクル 東証ダウ1851円49銭の最高値つける 1968年(昭和43年)10月2日49年前の今日は、日経ダウ平均が1851円49銭と、この日までの東証のダウ平均で、史上最高値を記録した日となりました。因みにこの値が抜かれるのは、翌年のことになります。2000円到達は69年、5000円到達は1972年、1万円到達は84年、2万円は87年、そして3万円は翌88年でした。翌89年大納会の38915.87円が今日までの最高値です。バブルがはじけたのは、翌年1990年のことでした。
2017.10.02
コメント(12)
クロニクル 東海道新幹線開業1964(昭和39)年10月1日今日は、53回目の新幹線開業記念日です。この間大きな事故もなく、旅客を運び続けてきたのですから、凄いですね。53年前、東京オリンピックの開幕を10日後に控えたこの日、東海道新幹線東京~新大阪間が開業しました。東京を出発すると、名古屋、京都、新大阪にしか停車しないひかり号は3時間10分で、新横浜、小田原等各駅に停車するこだま号でも4時間という、当時としては夢のような速さでした。速さの秘密は色々なところにあるのですが、大きな点を2つ上げると、東海道本線開通時とは、各段に進歩した土木技術によって、線路をなるべく直線にと、あちこちにトンネルを掘っては、スピードの出しやすい直線路を延ばしたこと、そしてもう一つは広軌道レールを使用したことでした。新橋~横浜間の鉄道開通以来、日本国内ではずっと狭軌鉄道が使われてきたのですが、新幹線では広軌が使われました。そしてこの広軌の技術は、日本の占領時代に南満州鉄道(満鉄)に派遣された旧国鉄の技術陣がいつの日か日本にも、広軌の鉄道を敷きたいという、夢をもって蓄積した技術が残されていたからこそ、比較的短期間に実現出来たのでした。今では九州や北海道にまで広まった新幹線。大変な本数が走っていますが、6年半前の大震災でも、1つの事故も起こさずに、該当する区間の全ての列車を、停車させました。この危機管理の素晴らしさは、世界に誇れますね。
2017.10.01
コメント(16)
全28件 (28件中 1-28件目)
1

