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「無辺行菩薩(むへんぎょうぼさつ)よ、ボンゾは、三世間(さんせけん)をもう一度確認しとう存じます。ここで、もう一度つまびらかに説いていただけますでしょうか」「むろんじゃ、仏法は繰り返し、説き直すことに仏法たるゆえんがある。しかも、万華鏡の即興の言語力(げんごりき)がなければ、説き直すことが許されない。それが、転法輪(てんぼうりん)というものじゃ。 第一に、五蘊世間(ごうんせけん)――。色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)を包括しかつ絶え間なく持続する世界じゃ。色とは、地・水・火・風・空の五大(ごだい)からなる物質のことじゃ。むろん、有情の身体もこれに含まれる。受とは、感覚し感受すること。想とは、表象(ひょうしょう)すること。行とは、意志し要求すること。識とは、認識し判断すること。それらが仮和合(けわごう)することによって、銀河宇宙の物理の世界が成立している。恒星や惑星や彗星(すいせい)を成り立たせている元素から、すべての非情と有情は発現する。物質はさまざま因縁果報に組み合わされ、やがて感受作用をもつようになる。そしてまだ意志はないものの、外界を己のうちに現象として表象するようになる。すなわち、そこには結界が生じ、煩悩の欲求が生ずる。そして、認識作用が生ずる時、物質に魂を吹き込むのじゃ。それを現代の科学文明では生命誕生というのであろうが、仏法の側からすれば、ただの五つのもののあつまりが衆生に結実したに過ぎない。生命体は、地・水・火・風・空の五大(ごだい)のなかに五蘊を結界のうちに固めた衆生世間であるとともに、この宇宙が始まったときより、裾野をどこまでもひろげてゆく絶対持続の世間でもあるのじゃ。生命体の細胞の一つ一つが、太陽系の惑星空間を突き抜け、膨張する銀河の果てまでの世界とはつながっておるのじゃ。千万億の銀河が集まって出来ている宇宙の星辰(せいしん)は、ひとつひとつが生き物なのじゃ。これは、娑婆(しゃば=サハー世界)の結界を超えた、いうなれば、とめどもあふれ出る絶対持続を観ずる時間論じゃ。 第二に、衆生世間(しゅじょうせけん)――。人間を含めあらゆる有情は、五大五蘊が仮に集まって存在するに過ぎず、実体はないのじゃが、これは、娑婆結界にとどまる時間の無常の存在論である。大海原の娑婆のなかの矮小(わいしょう)なDNAを囲んだ細胞が、やがては草木虫獣鳥人へと分化し、40億歳まで種と個体を養生進化させたのじゃ。娑婆有情は、ほとんどが個体の死をもたらすが、種の持続はつづいておる。人間の種は、古いサルから枝分かれし、最初の新しいサルから継承されて500万年という寿命をたもっておる。サルも人類も共に、有情の結界からのスパンとして等しく40億年の進化を経てきた現実に残る兄弟の化石なのじゃ。おぬしは、母さまの胎(はら)のなかでおったときに、魚類、両生類、爬虫類、哺乳動物、人類へと生命進化を十如是(じゅうにょぜ)を自在に生きておったのじゃ。人間界に生を受けたボンゾには、時間を管理し、地球環境を切り開く権利と能力をもつものとの自覚があるかも知れぬが、それは、衆生世間に付随する錯覚なのじゃ。衆生世間においては、時間は伸縮し、時間として外在化する。 第三に、国土世間――器世間(きせけん)ともいう。地獄の住人は、焼け解ける鉄と凍てつく氷に依存して住み、餓鬼は、地獄のすぐ上の地中に依存して住み、時に山や大地にも現れる。畜生は、大地と水と空中に依存して住み、阿修羅は、海辺と海中を本拠地とする。人間と声聞と縁覚は、大地に依存して住み、各々夫々生活する器の区別がある。天上神は、虚空を棲処とし、仏と菩薩は、自在に生き、住処もとどまるところを知らずまた自在である。報身仏としての阿弥陀仏、薬師如来、大日如来等は、それぞれの西方極楽浄土、東方浄瑠璃(じょうるり)世界、密厳(みつごん)浄土等の主宰国に住しておる。また、観世音菩薩は、補陀落(ふだらく)浄土におられるともいう。因縁果報により衆生の時間が空間に外在化したものが、器の世間である。それとともに、地球環境という器をもあらわしているものなのじゃ。真空のエネルギーのなかに地・水・火・風が混ざり合い、ちりあくたが集積して、生命体もとであるこの星辰は成ったのじゃ。これは、時間が空間に外在化された如是と言っていいじゃろう。 うぬの色心(しきしん)のかげろうの存在そのものを考えてみれば、ボンゾの体は、宇宙の五元素と五蘊から成る宇宙人(びと)の塵芥(じんあくた)であり、衆生世間としてみれば、40億年をDNAを細胞に結界して、生き抜いた生物であり、現存する地球の有情の一つのカテゴリーとしてみれば、500万年の進化を生き抜いた人類という種を維持する乗り物であり、魚類から両生類、両生類から爬虫類、爬虫類から哺乳類、哺乳類から類人猿、そして類人猿から人類への枝分かれの進化の道筋を付けたのが、46億年を五蘊世界に生きた地球の偶然の国土環境であり、文明の名字をもった個人としてみれば、うぬの肉体を養う直接の環境が、21世紀の文化・文明の蝟集(いしゅう)する倭国(わこく)という島嶼国(とうしょこく)の仮名(けみょう)の因縁果報だということじゃ。 うぬの心身は、六道輪廻をめぐる実体のないもので、うぬの過去・現在・未来は、五蘊世間にあつめられ、ある時代の衆生世間に固められ、十如是(じゅうにょぜ)の因縁果報の作用によって、ある器世間の一員となり、十界をめぐるのじゃ。おぬしの一念が、妙法蓮華の仏種(ぶっしゅ)にふれて、菩提心をおこし、成仏を願わば、まずは、この三千法界を観心(かんじん)するところから始めねばならぬのじゃ。 現在のボンゾの一念が、三千の法界宇宙にわたることを認識し、また、法界の三世間の時間とその外在化と、それを超越した絶対的持続を覚り、仮に十如是の和合によって、己が仮名の名字色心(みょうじしきしん)に結実していることを覚り、因縁と果報によって生ずる空観(くうがん)を等しく観じ、十界互具を懺悔(さんげ)と慈悲のもとであきらかに覚るならば、うぬは、法師と呼ばれるに値しよう。 宇宙法界の闇に生まれ、死に、また生まれ、地球という器が出来上がり、こんどは、衆生として生まれ、死に、また生まれ、そして、生きた因業(いんごう)が、果報として生まれ変わり、生きたという世間が化石の器のごとく残されてゆく。しかるに、それもはかないもの、雨風に溶かされ、土に埋もれるも、閉じ込められたぼろぼろの色心は地・水・火・風に帰ってゆく。色は、地水に流され、心(しん)は、風火に昇りて、五蘊を探し求めて、銀河をさまよい、新たな世間を探し求めよう。 しかるに、以上の十界互具(じっかいごぐ)と十如是と三世間の渡り合いについては、仏と仏のみがきわめられているのであって、それがまた久遠仏(くおんぶつ)の特性であり、それを諸法の実相というのである。現象界の諸行無常が諸法実相であるとともに、ブッダの一念三千の覚りを諸法実相ともいうのじゃ。そして、そのまねびを保証するを、妙法蓮華経の仏種()という。このたねは、諸々の大乗経浩瀚(こうかん)ともいえど、妙法蓮華のみに宿るものなのじゃ。わしは、そのことが言いたいがために、厖大(ぼうだい)な三大部をあらわし、三世間を最後に発見し、一念三千の法門を説くにいたったのじゃ」 ここは、どこだろうか。 グリドラクータにあることは間違いはないのだが、周りはすでに夜の闇に閉ざされており、山の地面の自分には足がなかった。虚空の清冽な空気のなかで、ボンゾは、アナンタ・チャーリトラから台(たい)の教えを確実に相承(そうじょう)していた。「無辺行様、無辺行様、どこへゆかれました」「時間のあるところ陰入会(おんにゅうかい)五蘊仮和合があり、衆生仮和合がある。ただ、久遠実成のシャーキヤムニ・ブッダこそは、諸々の仮和合を脱しており、宇宙の膨張時間をも超越しておられる。そこには、すでに輪廻転生があり得ない。とどまる衆生時間のなかで、そして同時にあふれる宇宙の五蘊時間のなかで、この身で覚るを、即身成仏(そくしんじょうぶつ)というのじゃ。それこそは、空間浄土に外在化されない絶対的持続の実存じゃ。これを一念三千の観心に覚ることが出来るか否かに、法華の仏法はかかっておるのじゃ。 『止観』の要諦(ようだい)はこれで終わりじゃ。よう最後までわしの長広舌(ちょうこうぜつ)に堪えたうぬに感謝したい。わしの本懐、一大因縁はうぬに相承された。しかと色心に刻みつけられたはずじゃ。しかるに、わしの理法には、修行法がない。そのことについては、語るをやめよう。それは、蓮の仕事じゃ」 そうして耳のなかの鼓膜が大きく膨らんだり、閉じたりするうちに、ボンゾの意識も朦朧(もうろう)として来た。 シャーキヤムニ・ブッダの声が遠くの闇から聞こえる。「諸々のブッダは、ただ菩薩のみを教化したもう。すべての所作は、この一大事のためなり。ブッダの知見をもって、衆生に示し、導き入れ、衆生をして覚らしめんがためなり」(陰暦10月16日、楽天大衆=だいしゅ=に示す 『法華経秘釈』第2巻おわり ※「お知らせ」をご覧ください)
2007年11月25日
「百界千如(ひゃっかいせんにょ)は有情を尽くすも、一念三千(いちねんさんぜん)は有情非情にわたる。倭(わ)の蓮法師(れんほっし)が後にこれに気付き、主著にもあらわしたが、わしとしては、この世とあの世と、そしてすべての法界が生まれ出づる前より存在している真空の法界をも、すべてに網羅するために前提としておきたかった、わしなりの、いわば阿毘達磨倶舎(あびだつまくしゃ)、すなわち諸法を解説(げせつ)する蔵(くら)というわけじゃ。要するに、仏法ゆきわたらざるところはなく、三千法界にひらく世界どこであろうと、我々、山川草木人獣鳥虫(さんせんそうもくじんじゅうちょうちゅう)が即身成仏(そくしんじょうぶつ)する種は、みおちみちておるのじゃ。その先の観心(かんじん)の観心、すなわち、本尊については、のちの蓮にゆだねるとして、その台(たい)の観心のしんじちの法門の甚深(じんじん)をおぬしに授けよう」「無辺行(むへんぎょう)菩薩よ、ここで、ひとつ質問をさせてください。百界千如に加えられる三世間(さんせけん)は、五陰(ごおん)世間と、衆生(しゅじょう)世間と、国土(こくど)世間とに分かたれますが、その分類に疑義がございます。衆生は、五陰、すなわち五蘊(ごうん)が来り集まって固まったものでありますがゆえ、異なる分類にするには重なりがあるのではないでしょうか。また、器(き)世間とも呼ばれる国土世間は、十界(じっかい)の棲処(すみか)の空間と異なるところはなく、千如を三千に分け隔ててみても、数学の幻術があるだけで、その名字(みょうじ)にはあまり意味がないようにも思えるのですが……」「それは、よい問いじゃ。さればこそ、きょうの説示では、三世間(さんせけん)と十如是(じゅうにょぜ)を乗じて、30世間とし、それに十法界(じっぽっかい)たがいに具(ぐ)する100法界を乗ずる数学を、わしは採用しておらないのじゃ。書では、わしはたしかにそう言った。しかるに、いまは、蓮の分類にもしたがって、十界互具(じっかいごぐ)する法界を十如是で、まずは乗じたのじゃ。これは、いわば生き物の世界じゃ。五蘊と衆生と器との三世間こそは、わしが、『妙法蓮華経』に付け加えた中華台(たい)の観心のための方便じゃった。それを、おぬしに分かりやすいように乗算法を変えてみて、解説して来たわけじゃ。 諸法の実相のおもての相をみたならば、そこには環境に変化しない生まれつきの性があり、実体の本質があり、潜在能力があり、そして、それらが顕現(けんげん)すると活動と行為があるのじゃ。因業(いんごう)は、無明(むみょう)と渇愛(かつあい)が縁となってたすけられ、今生と来世の果報を作するのじゃ。因にむくいて報ずるとは、あの世の世界をいったんとおって、輪廻転生することじゃ。相を本とし、報を末とするのじゃ。本末(ほんまつ)は、すべて縁から生ずる。ゆえに、九つの如是(にょぜ)には、実体の本質というものがあったとしも、名字(みょうじ)の空(くう)があるのみじゃ。ゆえに、実体そのものはない。 如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等という、文字(もんじ)という仮名(けみょう)の空が、本末に究竟(くきょう)に平等にゆきわたっているにすぎぬのじゃ。相でおりながら無相、無相でおりながら相、相でもなく無相でもない如是、縁でおりながら無縁、無縁でおりながら縁、縁でもなく無縁でもない如是、報でおりながら無報、無報でおりながら報、報でもなく無報でもない如是……、是(これ)の如(ごとく)く、それぞれがあるがままに空性中道(くうしょうちゅうどう)であり、仮名の言の葉の理屈をも超えて、究極に本と末が平等にゆきわたっているということじゃ。 諸法を客観的かつ内省的に見極めること、そして、おのずからの生と謙虚に重ね合わせること、それを、己が心の中の人間界の十界で覚ることが出来れば、百界が成仏じゃ。渇愛(かつあい)ではなく慈悲の心でもって、鳥や獣の物言えぬ存在の相と非存在の報が分かれば、餓鬼道の飢えの苦しみも分かれば、三百界が成仏じゃ。それらは、十法界がたがいを具する十界互具の世界じゃ。法界が、空性が平等にゆきわたる世界と覚れば、たちまちに百界千如(ひゃっかいせんにょ)に花開こうぞ。しかるに法華の観心は、そこにとどまるものではなかったのじゃ。それは、肉に骨にかたまった有情差別(しゃべつ)の覚りの世界じゃ。応身(おうじん)であらせられたシャーキヤムニ・ブッダが、法華涅槃時(ほっけねんはんじ)にあえて示された慈悲は、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)のあまねきにゆきわたらぬとこなきの仏法だったのじゃ。 十界互具とは、いわば仏法に内在する空間論である。我々は、そこに生きておってじつは生きておらない。菩提心(ぼだいしん)をおこしたものだけが覚る世界じゃ。十如是とは、縁起(えんぎ)の空観(くうがん)の言語体系である。我々は、因縁果報について、言葉という仮名名字(けみょうみょうじ)を用いて、順序だって戯論(けろん)ではなく、かくのごとく解説(げせつ)出来る。これは、いわば仏法の言語学である。 そして、三世間とは、いわば仏法に内在する時間論である。第一に、始まりも終わりもなく、宇宙空間を絶対的に持続する時間。第二に、有情の生活するところに流れとどまり伸縮する時間、第三に、空間に外在化される時間と、時間には三つの区別がある。すなわち、三世間じゃ。世間とはいうが、じつはこれは三つの時間論なのじゃ。 三種の世間を発見し、観心をいたすことこそは、いっしょう生き身に『妙法蓮華経』を読みくだいた、わしの最大の仕事じゃった。これにより、止観(しかん)は有情を乗り越え、無情非情をも乗り越え、ハマー(摩訶)に達し、般若波羅蜜多は成ったのじゃ」 アナンタ・チャーリトラは、いよいよ止観業(しかんごう)の要諦(ようたい)を明かさんと、ボンゾを見つめた。(陰暦9月22日 楽天大衆=大衆=に示す 『法華経秘釈』第2巻つづく)
2007年11月01日
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