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1.『J.S.バッハ/世俗カンタータ全集』ペーター・シュライアー指揮/ベルリン室内管弦楽団/ベルリナー・ゾリステン(合唱) アルヒーフ・ポリドールF00A 29027/34(CD8枚組・国内限定盤) 1889年12月に限定プレスで出たもの。同時期に出た25枚組のカール・リヒターの『教会カンタータ選集』は手に入れることが出来たが、当時、シュライアーの凄さが分からなかった青年はカタログから外した。17年の歳月の後に、ディスクユニオンお茶の水クラシック館で見つけたしだいである。外盤では、廉価盤として容易に手に入れられるのだが、リヒター盤と対で、国内盤が欲しかった。解説書の「パロディー対照表」も収穫。 その作曲家には、その人を代表するジャンルというものがあり、その因縁が最高傑作に結び付く例が多い。モーツァルトはオペラであり、最高作は、後期四大歌劇である。ベートーヴェンは、交響曲ではなくカルテットであり、最高作は、後期弦楽四重奏曲群である。ジャンルにこだわらず千曲以上書いたシューベルトではあるが、やはり、彼を決定付ける分野は歌曲であり、最高作は、三大歌曲集である。それらの代表ジャンルのおおよそを聴いていないで、その作曲家を語るのなら、それはすべて参考にならない、まやかしの評論である。 音楽の父、バッハはというと、むろん、『ミサ曲ロ短調』や『マタイ受難曲』、『フーガの技法』、諸々の鍵盤作品など超傑作はあるものの、バッハの因縁のジャンルは、カンタータである。だから、カンタータの大体を聴いていないで、バッハを語るなど資格なきものである。 青年の頃からいい鼻をもっているつもりだったが、片手落ちであった。教会カンタータさえ聴いていれば、残りのバッハはすべて分析出来るとにらんだものの、世俗カンタータの教養がない私は、やはりバッハをとらえ切れなかった。有名な『狩のカンタータ』『結婚カンタータ』『コーヒー・カンタータ』『農民カンタータ』だけでも聴いて欲しいものである。それらは、モーツァルトのドイツ語オペラとウェーバーをつなぐ線である。ドイツ庶民の愚直かつ機知あふれる娯楽である。 シュライアーはじめ、テオ・アダム、エディト・マティス、ルチア・ポップ等名歌手が勢ぞろい。ポップは、我が青春の永遠のアイドルだ。2.『ザ・コンプリート・ジャック・ジョンソン・セッションズ』 マイルス・デイビスソニー・ミュージックエンタテインメントSICP431~5(CD5枚組・国内限定盤・DSD Mixing) 中古屋で出回っているが、必ず盤質の良いものがあるとは限らない。運よく新品様中古を見付けることが出来た。エレクトリック・マイルスの方向性は、大編成の和声とリズムの混沌たる『ビッチェズ・ブリュー』セッションズと、比較的小編成のタイトなリズム形から一切が構築される『ジャック・ジョンソン』セッションズに代表される。その中間的な混交が『オン・ザ・コーナー』であり、そのどれもがマイルスの金字塔だ。ここでの主役は、マイケル・ヘンダーソンのエレクトリック・ベースの呪術的ともいえるルーティン・リフであり、ジョン・マクラフリンの創造的な短いコードとそのリフである。剥き出しのベースとリズム・ギターが音楽の素形を立ち上げ、マイルスがストレートにジャズのイディオムを振り捨てんばかりにロックンロールを演じる。ところで、出来上がってみれば、それは、徹頭徹尾マイルス・ミュージックだから不思議である。アイデアは、第一にマクラフリンであり、次にヘンダーソンのものだったが、本番のセッションが始まるや、マイルスの強靭な精神のエネルギーに包摂される。マイルスが吹いていないところでも、マイルスが鳴っている。3.『ショスタコーヴィチ/弦楽四重奏曲全集』 フィッツウィリアム弦楽四重奏団ユニバーサル UCCD9292/7(CD6枚組・国内限定盤) 2005/7発売の紙ジャケ限定盤。すでに、デッカの外盤でもっていたのだが、解説書が読みたいのと、ジャケットに惹かれて、また、「リマスター」とは書いていないが、音質向上を期待して購入した。聴いてみてまずは、音質がリマスターされているのに北叟笑む。全く新しい録音のように聴こえる。非リマスター盤も、もともと悪い音ではなかったが、霧がはれ、弦が一つ一つ太くなり、明確に響くようになった。 繰り返し10回は聴いてしまった。演奏家が生前の作曲家と交流があったという縁をもつが、この演奏の全体の水準は高い。特に、最後の作品となった『15番』は、どれよりも素晴らしい。作曲家の招霊妖術を再現しているのは、この演奏だけだ。 昨年がショスタコーヴィッチ生誕100年に当たっていなければ、もしかしたら購入していなかったかも知れない。それを考えると恐ろしい。デッカ盤は、中古屋に売りに出した。4.『フォアキャスト:トゥモロウ』 ウェザー・リポートCOLUMBIA 82876-85570-2-S1(外盤CD3枚+DVD1枚) 2006の新譜ではあるが、新しい曲は、2曲のみ。しかし、全体が本当の新譜のように聴こえるのは、プロデュースがし直され、おそらくリマスターされたからだろう。ベスト盤としても聴けるのだが、時代によってのアルバムごとのリマスターの凸凹があまり気にならないのが不思議だ。このような、マスター・テープ或は原盤以上の音が家庭で聴けるような時代になって、少し長生きして凡三も本当に感激である。 おまけのDVDは、音質が劣るが、78年当時の最高のリズム隊を抱えていた時のものであり、貴重な映像である。やはり、ライブでの「ウェザー」は、作曲家・プロデューサーのジョー・ザビヌルではなく、演奏家ウェイン・ショーターのサックスが、バンドを動かしていたことが分かる。マイルスの呪術的指導性を、ウェインは、ウェザーで再現している。ウェインのテナーやソプラノが入ると、曲が息づき、生き物のフィギュアを得る。怖い。5.『マーラー/交響曲全集』 ショルティ指揮/シカゴ交響楽団LONDON DECCA 430 804-2(外盤CD10枚組) バラで集めていたが、2番、3番、9番が長年欠落していたので、思い切って、ボックスを購入した。これで、マーラーのボックスは、7種類目だが、バーンスタインのグラモフォン盤と双璧であることを実感。特に、2、4、5、6、8、9は絶品。『大地の歌』は収録されていない。ショルティはその昔、ワーグナーの『指環』やモーツァルトの『魔笛』などオペラ作品にいたく感動し、オペラ指揮者だと思い込んでいたが、このボックスCDを聞き直し考え直させられた。ブラームスの交響曲全集も買ってみたが、こちらも、絶句してしまった。今年は、他の全集も買ってみよう。スコアに忠実で恣意がない。他の指揮者・楽団では聞こえない楽器がはっきりと聞こえる。少し、弦が硬いが、よく鳴っているので文句は付けられない。むしろ、ブルックナーとは異なり、ウィーン・フィルのあの分厚いくすんだ弦よりも、マーラーがねらっていた響きはこちらかも知れない。『9番』の鉄鋼の響きは、メカニカルにしてデモーニッシュ。ショルティに脱帽。6.『ショスタコーヴィッチ/管弦楽曲&協奏曲集』 アシュケナージ、バルシャイ、ハイティンク、プレヴィン、ケーゲル、シャイー他/ロイヤル・コンセルトヘボウ管、フィラデルフィア管、ロイヤル・フィル、ヨーロッパ室内管、ボストン響他 UNIVERSAL DECCA 475 7431(外盤CD9枚組) ショスタコーヴィッチ生誕100年で、出たユニバーサルの企画ボックス・セットの一つ。他に、『交響曲』『弦楽四重奏曲』『声楽』『ピアノ&室内楽』編が出ている。日本盤と外盤では、同じ企画でも、区画分け、CD枚数が違うので、要注意。小生が買った外盤の管弦楽集には、『森の歌』や『ステパン・ラージンの処刑』等の歌もの、ピアノ、バイオリン、チェロの協奏曲も入っている。 このセットのメーンは、映画音楽とバレー音楽である。悪くはないが、飯を食うために才能を浪費していたことが分かり、ことさらながらに、ショスタコーヴィッチが、20世紀の職業音楽家であったことを思った。しかし、彼はまた、浪費することをコントロールすることが出来た、意志の人でもあった。それだからこそクラシック音楽の交響曲、協奏曲、室内楽曲等のジャンルで、歴史に残るものを作すことが出来たのである。7.『ブルックナー/交響曲全集』 ロジェストヴェンスキー指揮/ソビエト国立文化省管弦楽団 露ヴェネツィアCDVE04240(外盤CD11枚組) 再発ではあるが、2006年新譜である。同じヴェネツィア・シリーズの同じ指揮者の『ショスタコーヴィッチ交響曲全集』も良かったが、ショスタコーヴィッチばかりになってしまうので、こちらを選んだ。メロディア音源だが、リマスターした感じはしない。音のバランスが少し悪いが、音が悪いと言えるほどではない。『0番』は、ハルモニア・ムンディ盤の方が音が全体に分厚かったが、管楽器はこちらの方がよく聴こえる。 雑で無神経なロジェヴェンの汚名は、このセットを聴けば解消される。また、いわゆる『0番』のみならず、『00番』も全集に含み、両演奏とも、最高水準にある。これだけでも、買うに値する。8.『ディープ・パープル・ライブ・イン・コンサート1972/73』eagle vision EV30140-9(外盤DVD) 昔、『マシン・ヘッド・ライヴ72』で出ていたものの再発盤。おまけに、アメリカでのカラー映像3曲が足されている。国内盤にさきがけて出回っていたので、1月に早々購入した。ビデオ・テープ当時より音がよくなっている。疑似ステレオであろうか。リッチー・ブラックモア、イアン・ギランが凄いのは当たり前のことだが、こうして聴き返してみると、ベーシスト、ロジャー・グローヴァーがバンドのキー・マンだと理解した。よく聴いてみれば、イアン・ペイスのドラムスでもなく、リッチーのカッティングでもなく、ロジャーのリズム形がこの第2期黄金時代の楽曲を隅々まで支配している。おそらく、作曲面でも当時のほとんどの曲に本質的にかかわっていたのではないだろうか。だから、リッチーはロジャーを首にしようとたくらんだのだ。9.『クイーン・オブ・ノイズ』 ザ・ランナウェイズユニバーサルUICY-93042(国内盤CD・2006年24bitリマスター) デビュー30周年ということで、ガールズ・ヘビーメタル・ロックンロール・バンドの草分けの代表作3枚(上記タイトル他に『悩殺爆弾』76年、『ライヴ・イン・ジャパン』77年)が、2006年に24bitリマスターで再発された。3枚とも、素晴らしいアルバムだが、曲がいいのと、ジョーン・ジェット色が強い、セカンド・アルバムをあえて選んだ。ファーストでは、ジャッキー・フォックスのベースが差し替えられてしまったが、セカンドでは、うねりあるジャッキーの音が聴ける。 当時は、なんだか、たいそうな色物として勘違いされていた節もあった。だが、全員が10代で、このボーカル、このギター、このベース、このドラムスである。いま聴けば、曲の良さはむろんのこと、テクニック、音程、品格、ソノリティと申し分ない。リマスタリングで、ギター、ベース、ドラムスの音の分離がくっきりしていて、細部まで聴こえるようになった。それでも、あらはほとんど聴こえて来ない。悪徳プロデューサー、キム・フォーリーの実力も相当なものだ。 昨年10月21日、ドラマーのサンディ・ウェストさんが、肺癌のため他界された。47歳だった。合掌。10.『シベリウス/交響曲全集』 ベルグルンド/ヨーロッパ室内管(Chamber Orchestra of Europe) FINLANDIA RECORDS 3984-23389-2(外盤CD4枚組) シベリウス一筋、ベルグルンド3度目の入魂の全集。交響曲のみで、今までのように余計な管弦楽曲は入っていない。オーケストラの性格から室内楽的に凝縮した演奏となっている。無駄な音を削ぎ落とし、必要な音だけが鳴っている。時折、北欧人ならではの剥き出しの自然が噴き出るところもあり、もしかしたら、これこそが、シベリウスがスコアに描いていた音かと感激してしまう。(この項おわり。陰暦12月朔日記す)
2007年01月19日
1.『精神のエネルギー/ベルグソン全集5』 渡辺秀訳(白水社) ベルクソンのいわゆる四大著作以外に、落ち穂拾いをしている昨今ではある。今年のベルクソンは、上記著と『笑い』を読了。レグルス文庫(こちらは入手可能である)の宇波彰訳と平行させながら読んだ。一つのテーマで、過去の講演・論文を集めたものだが、濃密かつ論理的である。物質的完成を生命進化に重ね合わせ、物質を極めてゆくうちに、物質のエネルギーは蓄えられ、生が自由を得ようと物質を貫く何ものかにぶち当たる。それを、精神のエネルギーと言ってよいのだろうか。非合理主義的哲学者の論述は、実にいつも超合理主義的であって興味深い。1913年のロンドン心霊研究会の講演を含む。2.『大乗仏典1 般若部経典 金剛般若経、善勇猛般若経』 長尾雅人、戸崎宏正訳(中央公論社) 般若経典群の白眉である。『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』には、唯識の論師・無著(むじゃく)の注釈・詩頌(しじゅ)が添えられている。「空」という言葉を一つも使わずして空を説く経である。『般若心経』ほどの凝縮はないが、相当にコンパクトな般若経である。内容的に最もすぐれていると思われる。一節をここに要約して引こう。「スブーティよ、覚りを得た諸々の如来の無上の覚りは、実はこの教え(経文)から生ずるからである。この経文から諸仏世尊が生まれるからである。それはまた、なぜか。スブーティよ、仏陀の教法、仏陀の教法というが、それは、実に仏陀の教法ではない、と如来は説くのであり、それゆえ、仏陀の教法と呼ばれるのだからである」 『善勇猛般若経(ぜんゆうみょうはんにゃきょう)』も、徹底して空を説く。「何々は、何である」という固定概念をことごとく否定してゆく。そして、菩薩の修行すらも否定される。「あらゆる実践は実践から生じる。そして、実践を妄執することによって転倒がある。しかし、菩薩は実践を妄執しない。それゆえに、彼には転倒が伴わない、といわれる。そして、無転倒なものとなった彼は、もはや何に対しても実践するということがない。それゆえに、菩薩の実践には実践がない、といわれる。善勇猛よ、実践がないというのは、何かについて実践するのでもなく、実践しないのでもなく、また、実践のすがたをあらわさないことであり、これこそ菩薩の実践といわれる。このように実践する彼こそ、知恵の完成を実践しているのである」3.『高僧伝 日蓮』 金岡秀友(集英社) 真言宗の僧侶が書いた日蓮伝。凡百の宗門の伝記を凌駕する。日蓮という現象を、密教的変容としてとらえている。また著者は、『法華経』のなかにも密教的な要素を見出し、それが日蓮に影響を及ぼしていることを見る。凡三は、さらに、日蓮を創造的密教僧として位置付けたい。『大日経』や『金剛頂経』を直接使わずして、日蓮は、和様密教を自らの修行のなかから編み出したのだ。題目は、究極のマントラとしてある。『法華経』をよく読み込み、それにより創造的な修行をするならば、万善同帰経ならぬ、万全天地善悪正負能生の曼荼羅経でもある。著者が、薬王麿と蓮長の創造的進化を、伝記物語のなかで肉付けしてくれたらもっとよかった。しかし、それは、すぐれた文学者の仕事であろう。4.『澁澤龍彦 初期小説集』 (河出文庫) 偉大な文筆家であり、日本では珍しい神秘家の澁澤であったが、小説家としては寡作であった。彼の最高傑作は、中編小説『高丘親王航海記』であり、これは動かない。彼には、いわゆる長編小説は一つもない。これは、非常に残念なことであり、当時の編集者の怠慢でもある。 初期小説集は、2005年5月に新刊文庫として出た。9編が収められているが、『エピクロスの肋骨』と『マドンナの真珠』がいい。前者は、肺病病みのコマスケが病院を抜け出すところから始まる。門衛の元校正係をコマスケの詩文の力でヤギに変え、それを売り飛ばして、夜行列車に飛び乗った。その列車には、ヤギ男の娘がちょこなんと猫になってシートに座っていた。夜の街角で、大きな黒い瞳をライターとして淫売する、シャルロット猫娘のこましゃくれた言動がいじらしい。さすがのコマスケの神通力も、この物凄く目の大きい猫娘には通用しなかった。5.『創価学会の実力』 島田裕巳(朝日新聞社) 2006/8の新刊本。私のような部外者にとって、自分が取材したように創価学会の内幕が分かるような構造になっている。高度経済成長期において、犯罪組織にならず、まがりなりにも日本の社会福祉に貢献した“必要悪”だったことが分かる。貧しい地方の次男坊、三男坊が都会にやって来て、頼りになったのが互助会的なこの組織だった。日蓮宗の現世利益的なところだけを切り取り、日蓮の一面である排他性を逆に求心力として利用した。しかし、日蓮正宗から破門されたあと、彼らが一つにまとまるのは至難の業になった。「お山」はすでになく、イベントも力つき、いまや選挙だけが唯一の結束の場になっているという。私は思うのであるが、今こそ学科委員は、宗教を取り戻すべき時なのではないか。創価学会員一人一人が、日蓮とそのルーツである天台の仏教をしっかり学び直し、『法華経』28品(ほん)を繰り返し色読(しきどく)し、折伏(しゃくぶく)ではなくて摂受(しょうじゅ)で平和裏に仏法をやり直すことを期待したい。それが、日蓮のねがいでもあろう。(この項つづく。音楽関係は、後日アップいたします)
2007年01月15日
小生、人間凡三にとっては、ものを食べることや酒を飲むことも楽しみではあるが、それよりいっそう、単独者・凡三としては寝食を忘れ、書を読み、音楽を聴き、音楽劇やパフォーマンスを見ることこそ、我が血潮の生存が最高度にたしかめられる時である。 生来、蒲柳(ほりゅう)の質で、いくら身体を鍛えても、こうして大人になっても、丈夫にならなかった凡三であるから、齢とともに飲食の摂取法を矯正し、高脂肪、高蛋白、高アルコールの相対指数を涙ながらに抑え込み、食いしん坊の化仏が出る前に、黙ってコップと箸を置くことにしている。 しかし、読・聴・観は、いかんともしがたい。三昧(ざんまい)といえば三昧ではあるが、仏教用語としての三昧(さいまい、三摩地=さんまじ)という行為には程遠い。文字に淫し、音響に淫し、形色に淫するのである。おろかなことではある。妄執であろう。だが、私の今のこころを血と肉とに成り立たせたのは、過去に凡三が幼少のころから見聴きして来た字・声・色に他ならぬ。それらが、すべてだとは言わないが、西洋流に言うならば、私凡三の自我を成り立たせたのである。もしも、私が、梶井基次郎や坂口安吾を読まなかったなら、カフカやホフマンやゴーゴリを読まなかったら、幻想家の竺河原凡三は今にないだろう。バッハやシューベルトやブルックナー、コルトレーンやドルフィーやマイルスを聴かなかったら、凡三が今に生きているかも分からなかった。エックハルトの説教文、ショーペンハウアー、ニーチェ、ベルクソンの哲学書をひもとかなかったら、凡三の批判精神は萎縮していただろう。さらに、『法華経』『涅槃経』『金剛般若経』『般若心経』等の大乗仏典や、龍樹(りゅうじゅ)や世親(せしん)の論書、空海、最澄、日蓮、道元、源空、親鸞などの撰述を読まなかったら、仏法家・竺河原凡三は今にあり得ない。 なにも、人間形成の要素として、「読・聴・観」がすべてとは言わない。経験そのものや話し言葉による伝授は直接的に人間を学ばせるものだ。しかし、人間の後天的な性格に大きな影響を及ぼすのは、その人間が何を読み、何を聴き、何を見たか、その質と量である。この三つの学問に終わりはない。大学までの学問は、この三つを容易に身につけさせるための教養を授けるところである。だから、実利的な就職問題と切り離しても、高学歴には意味があるのである。学歴によって語彙(ごい)が豊富になれば、人に教えてもらうことなしに、新聞やテレビなどを参考に、「読・聴・観」に挑むことが出来る。ただ、これを学ぶに、学問としての箔や飾りにしようなどという浅はかな魂胆がある場合は、何も得るものはなく、ただの鼻持ちならないスノッブである。みずからに好き好んで、ある作家、経文、音楽家に三摩地(さんまじ)するのである。 仏法は、経文を読み込み、小さくとも、みずからに経蔵を作さねば修行が始まらぬ。作家は、厖大な文字を読み、みずからの辞書を作らねば第一の創作は始まらぬ。音楽家並びに音楽評論家は、厖大な音符を聴き、みずからのレコーダーを作らねば作曲の第一歩は始まらぬ。美術家は、たくさんの風景や色々な人物を見て、みずからのカメラを作らねば筆や鑿をもつことが出来ないだろう。貪欲な凡三は、「読・聴・観」に大楽を得て、この世とあの世とのはざまで、あの世とこの世を観るのである。 例によって、前置きがずいぶんと長くなってしまったが、2006年に凡三が読んだ本と、聴観したCD・DVD・LDのなかで、ベストのものを並べおく。 なお、2006年に読んだ本は、49冊、購入したCD・DVD・LDは、139点(305枚)である。ここで断ると、新譜は一部を除いてほとんど買わない。本も同様である。それでも、実際に計ると、中古と新譜の割合は、本、音楽ともに8:2くらいである。新譜とは言っても、新音源、デジタル・リマスター盤、再編集盤(本)が多い。ただ、ランク・インしたもので、新譜・新刊のものがあれば、解説に説明してある。
2007年01月15日
真説末法にいたり、地獄が徐々に消滅してゆく相を(第6月法で)明らかにしたが、末法突入とともに、地上の人間界はどうなるのか、改めて述べよう。 2020年以降もしばらくは、平均寿命は、先進国、後進国を足して世界平均で80歳くらいまで延び続けるであろう。先進工業国では、30、40歳くらいから心身の五大(ごだい)のバランスがすでに損なわれているにもかかわらず、薬物治療と延命医療により、人間の寿命はさらに増延してゆく。 一つの薬が、ある病気を治すとともに副作用を発症させる。副作用を抑えるために次の薬が与えられる。だが、その薬にもまた副作用がないとは言えないのである。西洋型の対症療法的化学薬剤は、いったん服用するとやめることがなかなか出来ないものだ。何故なら、根本の個々人の体質の改善を図るという治療法ではないからだ。よって、薬物治療は、東洋医学の漢方に頼るべきではあるが、ここにも、問題がある。21世紀の時代では薬剤の元になる草木や動物成分が、相当に汚染されており、処方どおり充分煎じても、効き目がどうしても薄くなるからだ。また、東洋医学では、投薬の前に、脈拍をはじめその人の身体を裏に表にくまなく調べて、正確な体質を見立てられる技量が前提であるが、漢方医の質の低下により、その見立てもあてにならない。よって、たとえ完全な薬材がそろったとしても、適切な処方が出来ないということになろう。 以上をかんがみると、我々がはかれるささやかな防衛策は、自分の体質を自分で正確に知ったうえで、日常の食物の食材を自らの体質に合わせて集め、料理して服用することである。由緒正しき素材であれば、健康食品も利用出来ないことはない。これからは、自己管理の医食同源が問われるということである。そのためには、まず、自らの体質を知り尽くすことである。これは、親が幼少時から子供に諭し、教えるとよい。学校の勉強より、むしろこちらの方が大事とも言えるか知れない。親は教えるばかりではなく、子の体質を知ることによって、また自らの体質を改めて知り、弱点と長所を把捉し、家族の絆を深めるのがよかろう。自らを知ることは、とりもなおさず、仏法を知ること、すなわち、大乗の修行の初歩でもある。(以下本文は、一定期間を経過しましたので削除いたしました)
2007年01月01日
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