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・鹿児島 に続く、妻の希望旅行先の 金沢 へは、平成6年(1994年)5月 に行きました。最初に 石川美術館 へ、国宝の 野々村仁清作・雉の香炉 を見に行きました。美術館 には 九谷焼 の名品もたくさん展示してありました。美術館を出て、加賀友禅 や金箔作りの工房・ 九谷焼 の店などを見て回り、夕食は 加賀懐石料理 を賞味しました。翌日、観光タクシーで、名所を見て回りました。金沢 は、前田家 百万石 の城下町。街路は城を取り巻くように通っていたと思います。 尾山神社まず 藩祖 前田利家 を祭る 尾山神社。ついで 卯辰山公園 に登って 金沢 の町並みを見下ろし、市街から離れて、加賀江戸村 という江戸時代の家屋などを再現したところを見ました。 加賀江戸村 金沢城・石川門金沢市街 に戻って、泉鏡花(すずみ きょうか) の旧宅や室生犀星(むろおさいせい) の住居跡を訪れたあと、大通りの裏側に残っている昔の 武家屋敷 の町並みを歩いてから、金沢城・石川門 の前でタクシーを降り、お城を眺めながら昼食をとって 兼六公園 に入りました。兼六公園 は 日本三名園 の随一というだけあって、面積は広く、樹木や池・石の配置もすぐれていて、高台にあるために展望にも恵まれた美しい公園です。高台にあるのに水が豊富なのは、作庭時に、遠くの水源からたくみに水を引く工事がなされたから、と聞きました。 兼六公園にて金沢 は街路がやや複雑ながら、落ち着いた良い街でした。私どもは、金沢 をあとに、福井県の 先祖の地 へと向かいました。
2012年06月29日
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・停年退職 した平成4年(1992年)の5月、京都へ行き、両親・兄姉の墓 に参って、退職の報告 をしました。私も妻も実家が 京都市内 にあり、墓地の場所は離れていますが、どちらも 東山山ろく です。洛西・等持院山内 の、若いときに将来の進路を示してもらった K農場長 の墓にもお参りしました。さて、 「退職して毎日が休日になったのだから、海外旅行をしよう。ヨーロッパでもアメリカでも連れて行くよ」 と妻に持ちかけたところ、 「外国へは行きたくない。それより国内でまだ行ったことのないところを見たい」 との返事。それで、まずは 鹿児島 へ行くことになりました。 > 鹿児島空港平成4年(1992年)秋。そのころはまだ、高松 から 鹿児島 への直行便はなく、大阪空港 で乗り換えて 鹿児島空港 着。始めの宿の、霧島高原・林田温泉ホテル へ入りました。 林田温泉ホテルここに泊まって、えびの高原・霧島高原・霧島神宮 などを観光。韓国岳・高千穂の峰・新燃(しんもえ)岳 もよく見えました。 霧島高原 霧島神宮霧島 から 鹿児島市内 の宿に移って、フェリーで 櫻島 に渡り、島を一周。南岳 はときどき轟音とともに灰を吹き上げていました。 櫻島の噴煙市内では、大久保利通・西郷隆盛・大山巌ら、明治 を創った偉人たちの 屋敷跡 を見ました。ただ、山本権兵衛 の家のあとは病院の中、東郷平八郎 のは高校の敷地内になって、小さい標識が立っているだけなのが残念でした。日露戦争での日本海海戦 の大勝利は、この二人のおかげなのに。 鶴丸城址で 仙巌園御殿鶴丸城址・城山・南州墓地・仙巌園(磯庭園) も見て回りました。仙巌園御殿 でお茶をいただいたときに出たお菓子・飛龍頭 はとても美味しかったので、その後、毎年注文して送ってもらっています。鹿児島旅行。 妻は初めてでしたが、私は3度目。でも 鹿児島 は観るところが多く変化のある街で、何回行っても良いところです。妻も楽しんでいました。
2012年06月25日
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・平成4年(1992年)3月31日、私は63歳で 定年退職 の日を迎えました。昭和27年(1952年)4月1日に前の勤務先・KF大学に就職してから、ちょうど40年間の “働く人生” でした。退職前に、阪神のある女子大学から 「園芸学の教授として来てくれないか」 と頼まれて、妻に話したところ、「単身赴任までして、第二の勤めなどしないでください。年金で何とか生活して行けるはずです。退職後は、今まで私がしてきた家事を分担してもらいます」との返事。この 鶴の一声 で、第二の勤めは、もったいないが断ることになりました。4月になって、後進の人や卒業生たちが、高松市内のホテルで “退官祝賀会” を開いてくれました。県内農業団体役員・学長・学部の教官・卒業生の方々に加えて、前の勤務先の卒業生の人まで参加して、退職 を祝っていただきました。 退官祝賀会での挨拶とお礼今までに教わった先生方の退職祝賀会に何回も出席してきましたが、とうとう自分が祝ってもらって送り出される日が来たかと感無量でした。妻も並んで出席して、祝辞をいただくやら、花束の贈呈を受けるやら、大変嬉しくありがたい日でした。 花束を贈られる妻 退官祝賀会を終えて退官祝賀会 のあと、出席してくださった人たちや、祝い金を頂戴した人たちに、丁重にお礼状を書き送りました。「まだまだ勤められるのに・・・」 との気もありましたが、大学同級27人のうち、5人もの級友が停年を待たずに亡くなっていることを思えば、元気に停年を迎えられたことを感謝しなけれはならないのでしょう。まだ身体は別段どこも故障はなく、人並みに動けるので、家庭菜園 と 庭の管理 は在職時よりももっと丁寧に、それに加えて家事に励むことになりました。家事と言ってもいろいろあって、掃除・洗濯物干し・炊事・買い物 などなど、きちぅめんな妻の指導 ? を受けてやり始めました。ただ、一方では、毎日こんな日常的なことばかりでは ! との思いもあって、妻とともにできる楽しみのひと時を作ろうと、毎晩、日本の古典文学 を読むことにしました。古典文学 は今までにも断片的に読んできましたが、時間ができたのだからと、古い 「古事記」 から時代を追って順に読みくだることにしました。退官祝賀会 で頂戴した記念品料で、大手出版社が刊行している 日本古典文学シリーズ を何組か買って読み始めました。 日本古典文学書の一部読む といっても古文ですから、私が朗読し、妻は聴き役です。本には現代語訳も付いていますが、なるべく見ないで、「古語辞典」で調べるように努めました。日本古典文学 にも、「源氏物語」のように半年もかかる長編もあれば、「方丈記」のように2~3日で読み終わる短いものもあります。毎晩1時間あまりの朗読。主なもの60篇ほどを読み終わるのに4年近くかかりましたが、二人にとってとても楽しい時間の連続でした。/font> -----------------------------------------------------------------このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは ・・・・・ http://chusan.info/ 題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」
2012年06月18日
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・人間社会に転変は付き物。それは、個人にも集団にも国家にも、やってきます。日本も、昭和 から 平成 になり、経済成長神話 がバブル化して崩壊しました。第二次世界大戦 終結から40年。アメリカ を盟主とする 自由主義陣営 と、ソ連(ソビエト連邦)を中心とする 共産主義陣営 とに別れて、冷戦状態を続けてきた世界にも、双方に変化が起こってきました。共産主義 は、19世紀の思想家・ユダヤ系ドイツ人の カール・マルクス が唱えた、将来あるべき社会の姿でした。当時、貴族や資本家と労働者や農民との社会的経済的格差はあまりにも大きく、いずれは変革を経て平等となり、富を共有する社会となるべきである・・・。これが マルクス主義 といわれる 理想的社会形態・国家の体制 とされました。貴族や資本家に見下げられ搾取されている(と思っている)無産の労働者や農民たちは、この思想に共鳴しました。そして、その変革が革命という形で最初に起こったのが ロシア でした。 第一次世界大戦 末期、レーニン 率いる無産階級の力によって革命が起こり、帝政ロシア は崩壊。ロシア皇帝・ニコライ2世 は処刑され、貴族たちは亡命。レーニン 死去後は、権力闘争に打ち勝った スターリン が独裁体制を確立し、周辺諸国を併合して ソビエト連邦 を形成しました。第二次世界大戦 で、ソ連は ナチス・ドイツ軍 に国土深く侵攻されましたが、アメリカ の援助を得てこれを押し返し、ついに勝利。中立条約を結んでいた 日本 にも宣戦して、日本領土を占領しました。第二次世界大戦後 は 東欧諸国 を勢力下におき、アメリカ を中心とする 自由主義諸国 と敵対して、鉄のカーテン と呼ばれる境界を造りました。朝鮮戦争・ベトナム戦争は、実質上 ソ連・中国対アメリカ の戦争でした。スターリン 死去後に権力を掌握した フルシチョフ は、キューバ に ミサイル基地 を作るなどして、互いに原爆・ミサイル を保持しながらの 東西冷戦 は、およそ40年も続きました。しかし 冷戦継続 によって、統制経済下の ソ連 は国家予算の大半が軍事費に消え、民製品の生産や改良が大きく遅れて、国民の不満が次第に高まりました。フルシチョフ を失脚させた ブレジネフ 死去後の ソ連 は、強い独裁的指導者を欠き、東欧諸国 の自由化要求も強まりました。ソ連 最後の指導者となった ゴルバチョフ は、ペレストロイカ(再構築の意) を唱えましたが、もはや自由化への圧力を抑えることはできなかったようです。 ゴルバチョフ1989年(平成元年)、ポーランド が複数政党による選挙によって民主化を果たし、ハンガリー・ブルガリア が続きました。ベルリンの壁崩壊 によって チェコスロバキア で革命が起こり、ブッシュ・アメリカ大統領 とゴルバチョフ との マルタ会談 で 冷戦終結 が決まると、ルーマニア でも革命が起こりました。ソ連 内でも次第に自由化への動きが広がりました。それを先導したのが エリツィン です。ソ連 の正式名称は、“ソビエト社会主義共和国連邦”。その中で最大かつ中心となっていたのが ロシア共和国 です。 エリツィンエリツィン は、ソ連共産党 の中での改革派・ゴルバチョフ のもとで頭角を現してきましたが、ついに 共産党 を離党し、1991年(平成3年)6月の ロシア共和国 大統領選挙 に出馬して、大勝しました。ソ連国民も、長い 共産党支配 からの脱却を望んでいたのです。これを見た ヤナーエフ・ソ連副大統領 らの ソ連共産党守旧派 は、同年8月19日に国家権力奪取の クーデター を起こしました。守旧派 は、当時クリミヤ半島にいた ゴルバチョフ を軟禁し、軍を動員して モスクワ 市内の重要拠点を占拠しました。しかし ソ連国民 は各地で抵抗し、軍の大部分も 守旧派 に応ぜず、守旧派 に命じられて出動した戦車部隊なども エリツィン の説得によって寝返り、クーデター は失敗しました。クーデター 首謀者たちは逮捕または国外逃亡。エリツィン は勝利を宣言しました。 戦車の上で演説するエリツィンこの クーデター事件 によって、ゴルバチョフ の権威も失墜し、ソ連共産党書記長 を辞任。ソ連最高会議 は 共産党 の活動全面停止を決定。ソ連共産党 は廃止されました。次いで バルト3国 が独立。ウクライナ などの ソ連邦諸国 も連邦離脱を決定。その結果、1991年(平成3年)12月25日に、ゴルバチョフ が ソビエト連邦大統領 の辞任を表明し、東側陣営共産主義諸国 の 総本山・ソビエト連邦 はついに崩壊。クレムリン に翻っていた “鎌と鎚の赤旗” は降ろされ、ロシア連邦 の “白・青・赤の三色旗” が掲げられました。 ブッシュ・アメリカ大統領 とエリツィン・ロシア大統領 との握手(1993年)マルクス によって理想の国家体制と理論付けられ、レーニン とその後継者たちによって実践された 共産主義体制 は、70年もの壮大な社会実験を経て、労働者の 理想国家 を実現することなく、独裁下の 全体主義国家 のまま終焉を迎えました。
2012年06月09日
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・月が替わって、今回から2012年6月。いつも、私のブログ「チューさんの今昔ばなし」を見てくださって有難うございます。このブログでは、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、平成2年(1990年)のこと、私が60歳代に入ったころです。このブログは、私の 想い出日記 ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国の移り変わり でもあります。歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。 ホームページアドレスは http://chusan.info/ 題 名 は チューさんの今昔ばなしと野菜ワールドなお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。 このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆平成2年(1990年)11月12日、今上天皇 の 即位の礼 の式典が東京の 皇居内 で執り行われました。また、即位の礼 のあとに 大嘗祭(だいじょうさい・おおなめまつり) も行なわれました。即位の礼 にかかわる一連の行事は、この年の1月の 期日奉告の儀 からすでに始められていました。即位 は 昭和天皇崩御 のときに行なわれているのですが、即位の礼 は、改めて 皇位継承 を内外に宣言する行事です。これを正式には “即位の礼・正殿の儀” というのだそうです。 即位の礼の日の新聞記事このときの 内閣総理大臣 は 海部俊樹(かいふとしき)。 “即位の礼・正殿の儀” は、国事行為として、158カ国もの外国からの賓客を迎えて行なわれました。 海部俊樹首相新天皇 は、高御座(たかみくら) という特別の座に上り、新皇后 は、高御座 よりやや小さく飾りの少ない 御帳台(みちょうだい) という座に入ります。 高御座 や 御帳台 は 京都御所 に置いてあるのを空輸したそうです。 高御座高御座 に立った 天皇 は、皇位 に就いたことを内外に宣言。そののち 天皇 は参列者の祝福を受けます。今上天皇 のときは、海部首相 が 天皇 の前に立って、万歳を三唱 しました。 万歳を唱える海部首相儀式を終えた 両陛下 は、束帯(そくたい) から 燕尾服(えんびふく) に、十二単衣(じゅうにひとえ) から 純白のドレス に着替えて、皇居正門 から 赤坂御所 まで パレード をされました。 パレードに出発の両陛下“即位の礼・正殿の儀” から10日後の 平成2年(1990年)11月22日、大嘗祭 が行なわれました。大嘗祭 というのは、毎年行なわれる 新嘗祭(にいなめさい) を、天皇即位式 の年だけとくに大掛かりにて、2日間にわたって行なわれる 皇室の公的行事 です。新嘗祭 というのは、その年に収穫された新しい穀物を 天皇 が神に捧げ、天皇 自身も食する行事で、これが行なわれる11月23日は、現代では “勤労感謝の日” として、国民の祝日になっています。この、即位式 の年にとくに行なわれる 大嘗祭 は、大和時代 から続いてきた皇室の伝統行事です。大嘗祭 を行なうために、数ヶ月前から 大嘗宮(だいじょうきゅう) というかなり大掛かりな建物が造られます。 平成の大嘗宮大嘗祭 の行事は、大嘗宮 の中で神代の昔に倣って、深夜に行なわれる日本神道の宗教色の濃いもののようですが、秘儀とされているために、詳しいことは分かりません。“即位の礼” は本来、京都御所 で行なわれる儀式とされ、大正天皇 も 昭和天皇 も京都へ出向いて式を挙げましたが、時代も変わり、警備のこともあって、明仁天皇 の場合は、東京の皇居内で行なわれました。こうした事情への配慮から、両陛下 はこの年の12月初めに、伊勢神宮・神武天皇陵 に参拝のあと、京都に入って 孝明天皇陵 と 明治天皇陵 に参拝し、京都御所 で茶会を開催されました。
2012年06月01日
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