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2016.02.14
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カテゴリ: 読書案内
【伊藤比呂美/読み解き「般若心経」】
20160213a

◆般若心経は救いと悟りの「まじない」である
「知っておきなさい 向こう岸に わたれる このちえ。
ここに つよい まじないが ある。
これは つよくて あきらかに きく まじないである。
これは さいこうの まじないである。
これは ならぶものの ない まじないなのである。
どんな 苦も たちまち のぞく。
ほんとうだ。 うそいつわりでは けっして ない。
だから。
おしえよう このちえの まじないを。


ぎゃーてい。
ぎゃーてい。
はーらー ぎゃーてい。
はらそう ぎゃーてい。
ぼーじーそわか。
般若心経でした」

母が亡くなったとき、しきりに叔母が「なんみょーほーれんげーきょー」と
お題目を唱えなさいと、私に勧めて来た。
叔母は某宗教の信者であり、絶対的な信念を持って日夜、唱題に励んでいるのだ。
「お題目を唱えるだけで、必ず道は開けるから」
と言うのだ。

母より先、3年ほど前に亡くなっている父も、これと言って信心は持っていなかった。
一時、クリスチャンとなっていたものの、思うところがり、教会を去った。
戦争を体験し、爆撃で亡くなった戦友の無残な屍を前に、この世に神も仏もあるものかと思ったそうだ。
それでも何かを信じ、すがりたい気持ちはあって、イエス様を信じていたのだが、やはりそれも虚しいことのように思えたのかもしれない。

両親を亡くした私は、今はそのお位牌に手を併せるだけの信心にとどまっている。

しかし、頭であれこれ理屈をこねくり回し、分析している時点で、信心は遠い存在なのだろう。
信仰とは、もっと魂の叫びであり、無我の境地なのだから。

そんな中、私は伊藤比呂美のエッセイを読んだ。
『読み解き「般若心経』というものだ。
群ようこや林真理子のエッセイなどと同じような感覚で“すーっ”と読んでしまった。
何も考えず文字を追ったのだが、意識下では音として私の中に入って来たような気がする。

ぼろぼろになるほど読んだ聖書にも、いかに人間が罪深い生きものであるかが描かれていて、己の背負った罪の重さを思い知る。
たとえ無垢のように思える赤ちゃんだとしても、すでに“罪”という刻印が押され、この世に誕生するわけなので、大人になるにしたがって段々と汚れていく、というわけではない。
もともとなのだ。
これは仏教の基本である因果応報にも通じる。
たとえば、自分の娘が妻子持ちの男とさんざん恋愛をし、男の妻を泣かせ、両親にも心配させるとする。
だがその娘のした似たようなことを母もやっていて、実は、母の母もそういう業を背負って来た、という因果であり、応報である。
一切、消えることはないというものだ。

そんなことをつらつらと考えていると、ありとあらゆることに意味があるのかと、そらおそろしくなる。

でも大丈夫。
般若心経では「空」(empty of meaning)と言っている。
そこにあるものすべて、偶然あるだけなのだ。
別に意味も理由さえもないのだと言っている。
それが、次のとおり。

舎利子
色不異空
空不異色
色即是空
空即是色

「ねぇ、シャーリプトラ。
シキはクウとかわりないのよ。
クウはシキとかわりないのよ。
シキはクウだし、
クウはシキなんだよ」

矛盾に満ちた内容にも思えるけれど、それで良い。
私は癒された。
さすがは般若心経。
最高にして秀逸のお経ではある。

『読み解き「般若心経」』は、詩人である伊藤比呂美のポエムにも思える。
私のような勉強不足で怠惰な者にも、わかりやすく書かれている。
「あーやんなっちゃった」という牧伸二のようなつぶやきを吐きたくなったあなた、ぜひともご一読を。

『読み解き「般若心経」』伊藤比呂美・著

20160213b
大西良慶猊下(元清水寺貫主)筆




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最終更新日  2016.02.14 07:26:45
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