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【適菜収の賢者に学ぶ】~「正しい歴史認識」とは何か?~韓国大統領の朴槿恵が、就任以来日本に対し「正しい歴史認識を持つべきだ」との要求を続けている。国連事務総長の潘基文も、日本と中韓の対立について「政治指導者は正しい歴史認識を持ってこそ、他国から尊敬と信頼を受けられる」などと述べている。それでは「正しい歴史認識」とは何か?歴史家のエドワード・ハレット・カー(1892~1982年)は、歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』)であると述べている。「事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけたときだけ語るものなのです」(同上)シーザーがルビコン河を渡ったのは歴史的事実とされている。しかし、それは歴史家が厖大(ぼうだい)な「事実」の中から恣意(しい)的に選び出し、脚色したものである。それ以前にも、それ以後にも、ルビコン河を渡った人間は星の数ほど存在したはずだが、彼らについての資料は存在せず、誰の関心を惹(ひ)くこともない。歴史家の選択や解釈から独立した「歴史的事実」など存在しないとカーは言う。都合のよい事実を選択し配列すれば「正しい歴史認識」などいくらでもつくることができる。つまり、「正しい歴史認識」なるものが存在するというのは、あまりにナイーブな、もっと言えば子供じみた考え方なのだ。 カーは、ベネデット・クローチェ(1866~1952年)の「すべての歴史は『現代史』である」との言葉を引く。歴史は現在の眼を通して過去を見ることで成り立つものであり、「歴史的事実」は歴史家の評価によって決まる。そしてその歴史家もまた、社会状況や時代に縛り付けられている。つまり、歴史家という存在自体が中立ではありえないのだ。過去の優れた歴史家たちを分析し、ここまで論じた上でカーは次のステップに進む。歴史の一切を解釈と考えれば、「歴史家は全くプラグマティック(実利的)な事実観に陥り、正しい解釈の基準は現在のある目的にとっての適合性であるという主張になってしまう」(同上)。そこでカーは歴史家の義務を規定した。それは一切の事実を描き出す努力を続けること。そしてもう一つ大事なのは、歴史家自体を研究することである。歴史家の判断を生み出した社会的、時代的背景を明らかにするわけだ。歴史を「事実の客観的編纂(へんさん)」と考えるのも「解釈する人間の主観的産物」と決めつけるのも一面的である。歴史家の仕事は、この「二つの難所の間を危なく航行する」ことであり、主観による「事実」の屈折を自覚することである。ましてや歴史の専門家ではない政治家は過去に対し謙虚になるべきだろう。最後にクローチェの言葉を。「歴史の物語をするという口実で、裁判官のように一方に向っては罪を問い、他方に向っては無罪を言い渡して騒ぎ廻り、これこそ歴史の使命であると考えている人たちは……一般に歴史感覚のないものと認められている」(同上)より正しい「歴史認識」のためには、殊更に「正しい歴史認識」を言い立てる人間の背景を研究する必要がある。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『適菜収の賢者に学ぶ』は産経新聞のコラムだ。適菜氏のペンは正鵠を射る。何より「賢者に学ぶ」というタイトルが示す通り、筆者お仕着せのコラムでないのがありがたい。このごろの新聞各紙は片寄った思想が丸出しだ。根底にあるのは「私の考え」が即ち「正論である」という筆者の傲慢と読者軽視が読んで取れる。そうしたコラムに辟易するとき、「賢者がこう言う」だから「私はこう考える」、或いは「私の考えはこうだ」それは「賢者がこう言うからだ」という適菜氏のスタイルには安心でき、おおいに納得するのだ。多くの新聞は「正しい歴史認識」を書き立てている。「そうだその通り!」と同調するのは簡単だ。ただ我々はその前に適菜氏の導き出した論理に従って考えてみた方がいい。『「正しい歴史認識」を言い立てる人間の背景を研究する必要がある。』どす黒くいびつに歪んだ新聞の宿痾が見えるかもしれない。さて適菜氏の博覧強記ぶりを以前のコラムからご紹介する。『もっとくちをつぐもう』では流行の市民運動についてキルケゴールを引く。「弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚すると同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう」そして氏はこう喝破するのだ。『意見を持たないことも教養の一つである。知らないことには口をつぐまなければならない。それは発言の価値を確保するためである。「たとえ素人であっても声を上げることが必要だ」という歪んだ考え方が社会に蔓延した結果、傍観者が退屈凌ぎに社会を動かすようになった。』関連して『群れることの危険性』ではこう言っている。『右派だろうが左派だろうが、市民運動的なものは劣化していく傾向をもつ。』引くのはル・ポンだ。『孤立していたときには、恐らく教養のある人であっても、群集に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまう』(趣意)適菜氏の孤高なペンに敬意を表する次第だ。そして今後のご活躍を願ってやまない。
2013.11.19
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【西日本新聞 春秋】〈偽物食材世にあふれ/だますが勝ちの三国志/偽(魏(ぎ))だの誤(呉(ご))だのがのさばれば/食(蜀(しょく))の大義は滅びゆく/オッペケペッポーペッポッポー〉。もう一丁。〈一流ホテルもデパートも/老舗の看板信じちゃならぬ/「シニセ」の中には「ニセ」があり/オッペケペッポーペッポッポー〉。止めどを知らぬ食材偽装問題。明治の演劇人、川上音二郎が平成の世にあれば、こんな「オッペケペー節」が聞けたかも。きのうは音二郎忌。墓所の承天寺(福岡市)で法要があった。1864年、博多に生まれた音二郎は上京後、自由民権運動に傾倒。政治を風刺したオッペケペー節で人気を博した。権力を笑い飛ばす批判精神は、今も十分通用する。音二郎の詞を引きつつ、現代風にアレンジしてみた。()内は筆者。〈権利幸福嫌いな人に/自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい/(お国の秘密は保護すれど/守る気のない知る権利)/うわべの飾りは立派だが/政治の思想が欠乏だ/心に自由の種をまけ/オッペケペッポーペッポッポー〉。〈洋語なろうて開化ぶり/パン食うばかりが改良でない/(国内産業どう守る/交渉ヤマ場だTPP)/自由の権利を拡張し/国威を張るのが急務だよ/知識と知識の競(くら)べ合い/オッペケペッポーペッポッポー〉。きのう、音二郎の墓に参って引用の許しを請うた。木々を揺らす風の音が「オッペケペッポー、オッケー」と聞こえた。(11月12日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~うまい!思わず膝をたたきうなってしまった。だがしかし・・・上等な話だ。彼岸の音二郎は引用は許しくれるだろうが、しかし『権力を笑い飛ばす批判精神は、今も十分通用する』これは現実に通用するかどうか疑問だね、音二郎はそう言うのではないか。なるほど、本当の批判(不満にあらず、昨今の紙面は不満の嵐に他ならない!)と諧謔を現代人が理解できるかどうか。そしてそれを楽しむだけの文化は以前と異なっており、何より楽しむだけの基礎知識を持ち合わせているかどうか。現実は難しい問題だと思う。コラム氏には「オッペケペッポー」が『木々を揺らす風の音』に聞こえるようだ。私には「そんなこッたァ~知らねぇよォ♪」そう歌う音二郎のホンネに聞こえる。そして考えた。なるほど、川上の音さんも新聞も何を言おうが『そんなこッたァ~知らねぇよォ♪』というわけだ。だいいち責任もないし伝家の宝刀「取材の自由と知る権利」を振りかざせばすべてが事すむ仕掛けなのだ。好き勝手をして後はどうするの?と問われたならばそんなこッたァ~知らねぇよォ♪だがこのお気楽こそに平和の真髄を見ることも事実。お互い様というか、バランスの上に微妙に成り立った関係なのである。
2013.11.15
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~島倉千代子さん逝く~【朝日新聞 天声人語】新しい表現を求めて脱皮を繰り返すアーティストがいる。画家でいえばピカソ、音楽でいえばジャズのマイルス・デイビスがすぐに思い浮かぶ。彼らほどの大きな振れ幅ではないにしても、島倉千代子さんの歌も時代によって変わった。 87年の「人生いろいろ」を初めて聴いたときの驚きは忘れない。かつての「泣き節」からは遠い軽快な曲調。♪女だっていろいろ 咲き乱れるの……という歌詞は、自身の波乱多き人生がモデルだった。 出場を一度辞退していた紅白歌合戦に、この曲で復帰。若いファンも増えて、「私にはデビュー曲が二つある」と語っていた。小泉元首相が答弁で引いて話題になったのも、曲の強い印象があればこそだ。 右肩上がりの高度成長時代をスターとして駆け抜けた。田舎の母を娘が呼んで名所見物をする「東京だョおっ母さん」は、当時の世相を象徴的に映す一曲だろう。そして結婚生活に終止符を打った年に、やはり転機となるヒットが出た。 ♪この世に神様が 本当にいるなら……と始まる68年の「愛のさざなみ」は、浜口庫之助(くらのすけ)の流麗なメロディーが不思議な魅力を放った。それまで無縁だった日本レコード大賞の特別賞に。後の「人生いろいろ」とともに島倉さんの思いの深い曲となる。 借金を背負い、病気にもなったが、いつまでも小料理屋の気さくな女将(おかみ)さんのような風情の人だった。享年75。還暦を超えても「いつも恋をしていたい」といっていた。天国で新たな恋をつかまえるだろうか。(11月9日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~また昭和を代表する人の訃報が届いた。今度はお千代さんこと島倉千代子さんである。このごろはお見かけしないとは思ったのだが、まさかの訃報に驚きそして深い悲しみを感じている。天声人語氏はオツなことを言う。『小料理屋の気さくな女将(おかみ)さんのような風情の人だった。』昔見た紅白歌合戦を思い出す。もう何十年も前の話である。家族全員でコタツを囲み、ミカンと落花生をつまみながら紅白歌合戦に見入ったものだ。昭和三十年から四十年は、それが大晦日の正調であり、そういう昭和を象徴するような風景に、お千代さんは誰よりも馴染んでいたた。決して饒舌というのではないが、出演歌手の応援でひと言ふた言を話した。少し照れくさそうにゆっくりと話すお千代さんは、子供にも印象的でその姿は今でも記憶に残っている。どんな人?と問われたら、それはまさに『風情の人』であった。新聞各社とも、コラム氏は昭和を引きずっている方々のようで、筆にも力がこもったようだ。それぞれの紙面に「書かないではいられない!」そういうコラム氏の湧き上がる気持ちを感じ、時間のたつのも忘れて読み耽った次第である。以下に目についた紙の結びを載せる。■ものに憑かれたような迫力があった。戦争の悲惨。戦後の痛苦。昭和の日本人の情念を託せる歌い手が去った。日本経済新聞/春秋■今、演歌歌手の王道を見事に渡り終え、終生「お姉さん」と仰いだ美空ひばりさんの待つ天国へ旅立った。毎日新聞/余禄■澄み切っていて、どこかはかなげで…。秋の青空のような声で、島倉さんは人生を歌いきり、天に召された。中日新聞/中日春秋■「岸壁の母」の二葉百合子さんと双璧を成す、戦争を引きずっていた歌手が舞台を去り、昭和がまた遠くなった。神奈川新聞/照明灯■喜びも悲しみも歌と共にある。昭和歌謡の真骨頂を体現した歌い手が静かにマイクを置いた。徳島新聞/鳴潮■75年の人生、お疲れさまでしたとつづりたい。年末の紅白で、もうあの泣き節は聴けないのか。神戸新聞/正平調■天のお千代さんに歌の題にちなむ句を贈ろう。正直に咲いてこぼれて鳳仙花遠藤梧逸)。中国新聞/天風録■いろんな人が自分を重ね、それぞれの応援歌にした。佐賀新聞/有明抄■華やかな着物でスポットライトを浴びていても「いじらしい」「奥ゆかしい」という言葉が似合う人だった。昭和がまた遠くなった。静岡新聞/大自在■儚(はかな)くも美しい、そして実は強かった。あこがれの人はステージを降りるが、歌は残る。熊本日日新聞/新生面■あちらでは、ひばりさんと「鍋焼きうどん」後の話に花が咲くに違いない。「人生いろいろ」だったわねえと。産経新聞/産経抄私も人生を半世紀以上過ぎ、『人生いろいろ』という意味が少しだけわかるようになった。島倉千代子という女性の一生を想像するに、その『人生いろいろ』は含蓄が海のように深く広い。そして達観だ。ただ、そこはお千代さんである。とどのつまり後悔したり悩んだりしても、でも『人生いろいろ』なのだ。禅問答のようだが簡単で簡潔、つまりは「そういうものよ」ということであろう。だからお千代さん(の歌)は、ソメソしている人に寄り添って甘い言葉をかけているのものではない。お千代さんの達観は潔くも厳しいのだ。人生いろいろなのだからそれはあなたの人生。だからあなたが自分でしっかりするしかないのよ、がんばりなさい。そう力強く叱咤激励するのだと私は思う。なぜなら人生とは「そういうもの」なのだから。最後に産経抄氏のコラムを載せる。不覚にも落涙を禁じえなかった。昭和の日本人の情念を託せる歌い手が逝き、昭和がまた遠くなった。寒気到来で雪マークが目立つ。今宵はアツアツの鍋焼きうどんをすすりながら、しんみりとお千代さんを偲びたいと思う。もちろんBGMは「人生いろいろ」である。早雪や 昭和は遠く なりにけり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【産経新聞 産経抄】昭和62年4月、島倉千代子さんは福岡の病院に緊急入院した美空ひばりさんを見舞った。会ってもらえるか不安だったが「とにかく行かなきゃ」と、かけつけたのだという。案に相違して、ひばりさんは「お千代よく来たわね」と明るく迎えてくれた。その上、島倉さんの好きな鍋焼きうどんの出前を取り、二人ですすったのだという。島倉さん自身がテレビ番組などで明かしていた話である。日本を代表する大歌手同士が、病室でうどんを食べながら話し込んでいる。想像しただけでうれしく、泣けてもくる。島倉さんは昭和13年、ひばりさんは12年の生まれだった。年が近いうえ、二人とも数知れぬヒット曲を出し歌唱力も抜群である。世間は二人をライバルと見なし、ファンもひばり派とお千代派に分かれていた。だが島倉さんによれば「とんでもないこと」だった。昭和30年「この世の花」でデビューしたとき、ひばりさんはもう、大スターになっていた。「追っかけ」をしていたほどのひばりファンで、デビュー後も恐れ多くて口もきけなかった。ひばりさんが亡くなったときは、その自宅で3日間も寄り添ったという。そういえば、長嶋茂雄さんらの国民栄誉賞授与式で、王貞治さんはわがことのように喜び長嶋さんに花束を渡していた。大相撲柏戸の富樫剛さんと大鵬の納谷幸喜さんも引退後は肝胆(かんたん)相照らす仲だったという。相手を認める謙虚さや寛容さが「ライバル」を超越させるのだろう。そんな謙虚さと寛容さを持ってほしい人は内外に多いが、それはともかくお千代さん、75歳であわただしく旅立っていった。あちらでは、ひばりさんと「鍋焼きうどん」後の話に花が咲くに違いない。「人生いろいろ」だったわねえと。(11月10日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~島倉千代子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます、衷心より合掌。
2013.11.11
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【佐賀新聞 有明抄】~スパイ天国~暗黙の了解が表沙汰になっては、ほうっておけないのだろう。米国家安全保障局(NSA)による盗聴疑惑で、ドイツのメルケル首相がオバマ米大統領に電話で猛抗議したと外電は伝えている。 NSAは暗号解読、通信傍受、スパイ防止が任務で、メリーランド州アナポリスの陸軍基地内にある。電話やメールなど通信網に「関門」を設けて監視してきた。今回、同盟国首脳の携帯電話や大使館も対象にしていたことが露見し、スキャンダルに発展している。 グーグルが公開している衛星写真で見ると、広大な駐車場に囲まれた建物はモダン。そばにはハイウエーが通っており、辺りには銀行やハンバーガー店も見える。国立暗号博物館もある。スパイ組織の本部をネット上で見られるのも奇妙な感じである。 実際に行ってみると、遠いところから接近禁止の立て札に阻まれるという。存在そのものが機密扱いされた歴史があるそうだ(浅井信雄著『アメリカ50州を読む地図』新潮文庫)。日本では国家安全保障会議の創設準備が進められている。 事務局となるのは同じ名前の国家安全保障局。偶然ではなく、与党内には諜報(ちょうほう)機関が必要との意見もあるとか。スパイ活動はどこの国もやっており、敵味方を問わない活動は国際社会の常識らしい。それでも米国流のスパイ天国は不信を広げている。(宇)(10月31日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~メルケルさんの携帯電話盗聴事件は、どうも新たな展開となりそうな気配だ。合衆国を糾弾した国々も盗聴を準備中だったとか。さもありなん。そう考えたほうが穿った見方ではないか。というか・・・新聞がこぞって「盗聴は信じられない」という報道をすることに違和感を覚え「マジかよ!」と茶番を見ているような気がして鼻白むのだ。新聞がもし本当に「ありえねぇ~」と思っているなら見識不足を批判されるべきだ。そしてあえて現実逃避しているのか、そういう立ち位置にいるのなら、もはや報道の意味をなしてはいない。論客が「平和ボケ」と言うのをよく耳にするが、今回の一件でそれを痛感した。そういった面では報道もある意味で一定の価値はあろうが、それではあまりに情けない。マジかよ!はっきり申し上げて、歴史を学びその上にたち実社会を見渡したとしたら、今回の盗聴事件に際しての論調は「首相の携帯を盗聴される組織(国家)が悪い」というのが穿った見方になるはずだ。『孫子の兵法』をひく。(水野実著「孫子の兵法」参考)『盟主賢将の動きて人に勝ち、成功の衆に出づる所以の者は、先知なり。』聡明な君主、智謀の将軍が、軍事行動を起して敵に勝ち、人並みはずれた成功を収める要因は「先知」にこそある。『爵禄百金を愛(お)しんで敵情を知らざる者は、不仁の至りなり。』爵位・俸禄・賞金を惜しみ敵情を探知しない者は民を憐れまない人でなしの極みである。いずれも『用間篇』であり、字の如く「間を用う」心得が綴られているのだが、まずもって『孫子の兵法』は世界各国において必読の書である。少なくとも、為政者や軍の将校以上で読んでいない者などありえない。なおかつ、遥か昔の夢物語ではなく、政治のそして軍の礎として扱われているのだ。そして着目しなければならないのは『孫子の兵法』は、いまや決して戦争の指南書ではなく、戦わずして勝つといういわば平和をどうやって維持していくかという思考の書であるということだ。『兵は詭道なり』つまり相手を知らずに、そして知ろうともしないで、ただボッとしているだけで均衡を保てるはずはないのである。そして、『兵は詭道なり』の真髄は手の内をみせないことにこそある。そこに最大限の勢力を集中させ、恒常的な努力を注ぐことは、為政者や軍の第一義なのである。それをもってメルケルさんの携帯電話盗聴事件を考えると、ドイツの不手際こそ論じられるべきであり、報道各社が間諜を放った合衆国を糾弾するのは本質を論じていないといわざるを得ないのである。先に「平和ボケ」と書いたが、そういう風潮が蔓延してる我が国において、いわんや日本をや、は必定であろう。報道の有様も見るに誠に恐ろしい限りである。ときにマスコミは「国民の知る権利」を煽り政権への確執を深めているが、それは「間諜に情報を垂れ流す」という側面も報じてもらいたいものである。まず大切なことは、平和とは何か、平和をどうやって守っていくのか、それを皆で等しく真剣に考え、そしておおいに論じていく、そのことであろう。日々深まりゆく秋に諸行無常を観じ、国家の行く末を憂いた次第である。
2013.11.04
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ふたたび岩谷時子さんを偲ぶ【秋田魁新報 北斗星】「大きな空に、梯子(はしご)をかけて、真っ赤な太陽…」。半世紀近くも前に一世を風靡(ふうび)したテレビの青春ドラマ「これが青春だ」の主題歌だ。意外に思われる方もいるだろうが、作詞は「愛の讃歌」の訳詞で知られる岩谷時子さんだ。 「サン・トワ・マミー」「恋のバカンス」「夜明けのうた」「君といつまでも」「いいじゃないの幸せならば」「恋の季節」など、きら星のごとく輝くヒット曲。戦後歌謡史を彩った豪華さに驚かされる。 演歌調の歌やアニメソング、さらには「南太平洋」「エビータ」「レ・ミゼラブル」などヒットミュージカルの訳詞も手掛け、ミュージカル隆盛の一翼を担った。作品のジャンルがバラエティーに富むのも岩谷さんならではか。 二十歳前後から小説や詩を書き、言葉の持つ力を熟知していたのだろう。歌にしろ舞台にしろ、詞が織り成す、おしゃれな岩谷ワールドが多くの人たちの心を捉えてきた。 「芝居好きの少女がそのまま大人になっただけ。詞を書くときは一つのドラマを作っているんです」。かつてこう語っていた岩谷さん。人々は、そのドラマに自分の人生を重ね合わせた。ヒット曲の多さは、こんなところに理由があるのかもしれない。 ここ数年、歌謡や舞台、映画など戦後の芸能界を印象的に彩った人たちが相次いで亡くなっている。今年は田端義夫さん、三国連太郎さんらが逝った。岩谷さんも紛れもなくその一人だった。昭和という時代がまた少し遠ざかっていく。(10月30日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~身体が震えた。こーちゃんもさることながら「これが青春だ」も岩谷さんの代表作である。しかもこちらは作曲をいずみたくさんが受け持っている。二人は飛ぶ鳥をも落とす「黄金コンビ」であった。恥ずかしながら、10年位前のカラオケ絶世期には二人の楽曲を定番にさせていただいた。飲み屋でほえると(恥、嗚呼)いい塩梅に同輩が現れて「青春ソングパレード」が続いたものだ。蛇足ながら「これが青春だ」のB面がまた素晴らしかった。『貴様と俺』である。もちろん黄金コンビによることは言うまでもない。空に燃えてる でっかい太陽腕にかかえた 貴様と俺だバネもきいてら 血もわくさエイコラ ゴーゴー やっつけろ年がら年中 傷だらけ泥んこ苦業は なんのため勝って帰らにゃ 男じゃないこれだけで一篇の青春小説だ。文藝の香りが漂い格調がある。そしてメロディーはマイナーで、実に完成度の高い楽曲であった。ちなみに飲み屋のカラオケではコチラの方がウケてくれた気がする。昔を懐かしむわけではないが、こんな歌詞をかける人はもういない。「貴様と俺」の歌詞を見て思った。勝って帰らにゃ 男じゃない。かつてはこれこそが男子に限らず我々の目的であった。つまり勝つため、成就をとげるために我々は努力をしてきたはずだ。「楽しんできたいと思います♪」スポーツに限らず、世界大会などに出かかける代表者は一応に口にする。背負うものが時代に濾過され薄く軽くなったということか。なるほど昭和が遠くなるわけだ。後ろ髪を引かれながら、それでも進み続けるのは少しの覚悟がいる。大上段に構える気などはもうとうないが、己の分を守り粛々と進んでいこう、そう思った次第である。あらためて岩谷さんの偉大なる仕事を思い、その大往生に衷心からの合掌を捧げたいと思う。合掌※『追悼、岩谷時子さん』はコチラから
2013.10.31
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【東奥日報 天地人】中国の貴重な古本を東京・神保町(じんぼうちょう)の古書店が保有している、と先ごろ本紙が伝えていた。値段は何と4億6千万円。12世紀ごろ刊行された漢詩集「唐人絶句(とうじんぜっく)」全22冊中の21冊で、中国では国宝級とか。古本もバカにできない。 作家の司馬遼太郎は膨大な古本を集めたことで有名だ。「坂の上の雲」を書く際は「日露戦争」の言葉が出てくる古本をことごとく集めたという。作家の出久根達郎(でくねたつろう)が自著「作家の値段」で紹介している。古本が司馬の小説を支えていたと言えるのかもしれない。 古本と接しているうちに、司馬は値段の付け方の絶妙さに感心する。使える本はそれなりの値が付き、使えない本は安いからだ。「古本屋の眼力に恐れ入った」と、心底思ったらしい。 出久根も大好きな津軽の作家・太宰治の著書を集めていた。ビール1本150円のころ、幸運にも「晩年」の初版をわずか800円で偶然手に入れた。10年後、金に困って手放したが、状態が良くないのに8万円で売れたという。すごい価値だ。 漢詩集に法外な値がつくのは初版本に近い唯一の品だからだ。太宰の「晩年」も物によっては300万円もするらしい。こんな話に接すると、何やら古本が宝物のように思えてくる。掘り出し物はどこにあるか分からない。暇な時間は古書店で過ごすことにしよう。(10月23日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~凄い話である。通販CMで「なんと!」の言葉は聞きすぎて意味が薄らいでいたが、これは正真正銘の「なんと!」である。『値段はなんと4億6千万円』の古本にはビックリだ!痛快なのは中国の書物ということ。『国宝級』に胸がすく。それはそれとして、自ら古書店員だった出久根達郎は面目躍如である。「晩年」の初版本を『金に困って手放した』というのが微笑ましくも出久根さんらしくて爽やかではないか。そして司馬遼太郎氏。氏の功は多くの書物を残してくれたことのみならず、日本全国に散逸する「文献的価値の高い古書」をひとところに集めてくれたことにもあるのだ。これはもはや文化事業であり、司馬氏が望むと望むまいと、何かしらの勲章を授与されるに値すべき事だと私は思う。天地人にもあるが、「坂の上の雲」では日本全国の古書店にしかるべきおふれが回り、トラック何台分もの古書が集まったそうだ。司馬氏はそれを値踏みするでもなく(といえ出来ないか・汗)受け入れたという。だから司馬氏に関して、並みの歴史小説とはおおいに異なるのわけだ。一冊の奥に膨大な文献がある。そう思って間違いない。それを想像しながら読書に耽るのも一興である。秋の夜長、そして読書の秋。古本でも新刊でも、或いは図書館の本でもよい。何か一冊手にとってみたいものではないか。この秋、良書にめぐり合えることを願ってやまない次第である。ときに初版本。古本における初版本の価値については学生時代に覚えた。以来「その日」を夢見て新刊を購入するときも初版本に限ってきた。もちろん「その日」はまだ来ない。先日は、学生時代に揃えた大量の本をアマゾンで調べ失望した。たかだか40年弱、あろうはずもないか(涙)こうなれば我が代にあらず、孫子の代に想いを馳せ、せっせと読書に勤しもう(笑)
2013.10.25
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【北國新聞 時鐘】前日のA紙文化欄(ぶんからん)に署名原稿(しょめいげんこう)があり、翌日(よくじつ)のB紙にその人の死亡記事(しぼうきじ)がある。両方を読んでいる読者は「えっ!」と驚(おどろ)く。 コラムニスト天野祐吉(あまのゆうきち)さんの場合がそれだった。80歳。葬儀(そうぎ)はしないという。普段の洒脱(しゃだつ)な筆致(ひっち)からすれば物書きとしては満足ではなかっただろうか。紙面の奥で「どうだ、驚いただろう」と言っているのが聞こえるようだった。 脚本家(きゃくほんか)の久世光彦(くぜてるひこ)さんが亡くなったときも同じだった。本紙「北風抄(きたかぜしょう)」に連載していて突然の死だった。70歳。訃報(ふほう)の10日ほど前に「次の締(し)め切(き)りはいつでしたか?」と電話があったので信じられなかった。前の晩まで仕事をしていて朝、家人が見にいったら亡くなっていたという。 作家の瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)さんが「うらやましい」と書いていたのを思い出す。70歳、80歳まで最前線で活躍(かつやく)しながらある日ぽっくり逝(い)く。一つの理想かもしれない。だが、人生の幕引(まくひ)きに対する思いは人それぞれあるはずだ。 家族、友人に別れを告げたくはなかったか。整理(せいり)しておきたい物、まだ書きたいものはなかったのか。煩悩(ぼんのう)は限りない。とてもマネできるものではない。(10月22日)~~~~~~~~先日、やなせたかしさんに追悼の合掌を捧げたと思ったら今度は天野祐吉さんの訃報が届いた。角界の重鎮が続く。昨日一昨日と各紙で天野氏を悼む記事は載ったが、北國新聞はやはり味があって面白い。ただ、時鐘氏は『まだ書きたいものはなかったのか』と胸中を察しているが、私は少しホットしている。それは近年の氏の言動が気になっていたからだ。私が氏を始めて知ったのは40年前である。黒ずくめの装いに身を固め、ヘンテコ(失礼!)な頭髪をした天野氏は、見るからに「業界風」であり、その胡散臭さたるや、たまらない魅力に溢れていた。当時、広告業界に興味があった私は、天野氏にすっかり魅了された事は言うまでもない。友人が籍を置いていた広告研究会に時折寄せてもらったが、部室に巣食う輩は一応に天野氏の信奉者であり、極めつけはヘンテコな頭髪を模してすらいた。それ以来、雑誌やテレビで活躍する氏を見てはおおいに触発されたものだ。しかしここ十年だろうか、氏の言動がどうも気になりだした。広告批評に続く世相批評は確かに『洒脱な筆致』であったが、それが社会に向けられ批評が批判がましくなり、対象も政府や政治に向けられていった。それ自体は問題はないのだが、その根底に天野氏の不満が見え、言動に不平を感じてきたのだ。天野氏の批評はセンスの良さと瑞々しいほどまでの若さがあったはずだ。残念ながら不平や不満にそれを感じることは出来なかった。そしてそれらが氏の老いに他ならないような気がして、晩節を汚さないかと気になっていたのだ。それにしても見事な最期である。病苦に七転八倒することもなく、いとも簡単にオサラバするあたりは、かつての胡散臭さを髣髴とさせ、天野祐吉らしく感じて何とも嬉しい限りなのである。告別式不要というのもサスガではないか。私の憂いなどクソのほどでもない。天野祐吉は最期まで天野祐吉で逝ったのである。ホットした。偉大なる天野祐吉氏のご冥福を祈り衷心からの合掌を捧げる。追記:落語の「黄金餅」に長屋の二人で棺桶をになう場面がある。指示するのは大家だ。 A 「なんだなぁ、よくおれはかつぐねぇ。この間も、おれとおまえとかついだじゃねぇか。糊屋のばあさんが死んだとき。」 B 「そうだよぉ。」 A 「それでまたかつぐんだなぁ、これで二度目だぜ。」 B 「そうだ。」 A 「もう一度、だれかかつぐぜ。」 B 「大家さん、かつぎゃいい。」大家「何をいってやがる!」先に逝かれたやなせたかしさんと天野祐吉氏が親交があったかは知らないが、三途の川を渡りながら二人で楽しい会話をされていたらいいなぁ。やなせさんが「次は誰?」と聞いたなら、天野氏は飄々としたあの口ぶりで答えるのだろう。ちょっとだけ間をおいて。
2013.10.24
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【神戸新聞 正平調】きょう21日は直哉忌。「小説の神様」とも呼ばれた作家志賀直哉の命日に当たる。 代表作の短編「城の崎にて」を先日、久々に読み返した。手にしたのは城崎温泉(豊岡市)の地元NPO法人が作成した、手のひら大の豆本だ。別冊の注釈書とセットで、かわいらしい水色の箱入り。サイズこそ小さいが、粋な試みで城崎の魅力発信を狙う。 若き志賀がけがの療養のため、城崎を訪れてから今秋でちょうど100年。現地では、「城の崎にて」にちなんだユニークな地域活性化の取り組みが続く。豆本刊行もその一環。小説30ページに対して注釈書は94ページもあり、時代背景などを丁寧に教えてくれる。 東京の列車事故で九死に一生を得た志賀は、城崎で、ハチやイモリの死に遭遇。偶然によって分かたれる生と死に思いをめぐらせる。 小説は、作家自身の体験を無駄のない簡潔な文体で表した傑作として名高い。今回注釈を頼りに再読し、学生時代には理解できなかったその良さが少し分かった気がした。わずかでも、人生経験を積んだおかげだろうか。 城崎では、若手作家万城目(まきめ)学さんに温泉で新作を滞在執筆してもらう計画も進む。平成版「城の崎にて」。湯煙から、奇想天外で摩訶(まか)不思議な物語が生まれそうで胸が躍る。「読書の秋」にふさわしい1冊の誕生を待ちたい。(10月21日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~いっとき志賀直哉に傾倒し全集も揃えた。今でも時折紐解いている。年表を眺めては在りし日の志賀を想像したりもするが、命日には気が回らなかった。10月21日は『直哉忌』とな。まずは知らしめてくれた正平調氏に感謝(^人^)。そして志賀氏を偲び合掌(-人-)。それにしても、城崎温泉も粋なことをするではないか。『湯煙から、奇想天外で摩訶(まか)不思議な物語が生まれそうで胸が躍る。』文学の掘り起こしと地域活性への新たなチャレンジだ。成功したらビジネスモデルとして確立しそうだ。万城目学氏にはおおいに奮闘努力を期待し、必ずや成就されることを願ってやまない次第である。また万城目氏には、志賀の逗留した三木屋の101号室に宿泊し、志賀を偲びながら執筆していただければ幸いである。余談であるが志賀を偲び城崎温泉には二度行った。もちろん三木屋に泊まり、宿の浴衣を着て温泉街をそぞろ歩いたものだ。秋が深まり、湯治にはもってこいである。城崎に心も動くが城崎はあまりに遠し。せめて最寄の温泉につかり志賀を読み返してみようか。
2013.10.22
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【神奈川新聞 照明灯】秋空に誘われて、かねて行きたいと思っていたお宅に足を向けた。小田急線鶴川駅から鶴川街道沿いに徒歩15分ほど。閑静な竹林に囲まれて、その旧家は建っている。 武相荘。吉田茂首相の側近として連合国軍総司令部(GHQ)と渡り合い、新憲法制定に深く関わった白洲次郎と正子夫妻の旧邸が保存、開放されている。読み方は「ぶあいそう」。武蔵と相模の国の境にある地にちなんだ命名で、「無愛想」を掛けている。反骨の人・白洲次郎らしい。 次郎は南多摩郡鶴川村能ケ谷(現・町田市能ケ谷)の農家を買い、1943年に引っ越した。41年12月に太平洋戦争が始まったが、次郎は早くから日本の敗戦、空襲を見抜き、この地に移り住んだという。邸内には次郎にあてた吉田茂の書簡や「葬式無用、戒名不要」と簡潔に記した次郎の遺言書などが展示されている。 次郎は、吉田の三女の結婚相手に九州の炭鉱王の子息・麻生太賀吉を紹介した。2人は結婚、生まれたのが現在の麻生太郎副総理だ。 戦前、日本がナチスドイツに急接近したころ、駐英大使を務めていた吉田は大のナチス嫌いで、日独伊三国軍事同盟に強く反対した。その孫が、憲法改正に関して「ナチスの手口を学んだら」などと言う。祖父の心、孫知らず…。(10月11日)~~~~~~~~実にタイムリーな指摘である。もちろん照明灯ではない。同日の日本経済新聞のコラム「春秋」である。「言葉尻だけを捉えるのはつまらない話です」政治家の言葉をやり玉にあげるマスコミに、6年前に死去した作家の城山三郎がくぎを刺した。日経の春秋氏は、別に照明灯氏を戒めたわけではなく、自戒の念から城山三郎氏を引いたのだが、その妙なる間に思わず唸ってしまった。照明灯の『言葉尻』はここだ。『憲法改正に関して「ナチスの手口を学んだら」などと言う。』まずもって神奈川新聞の論説(社論)は『祖父の心、孫知らず…。』に尽きる。それを踏まえると『言葉尻』は核心の一言であり効果はあったと思う。だがしかし・・・、それはないでしょう照明灯さん。そしておおいに気になるのは、なぜ今頃?、ということだ。『言葉尻』を捉えたように『蒸し返し』てその効果を高めているようで、新聞コラムとしてとても違和感を覚えたのだ。朝日新聞が事実歪曲のそしりをまぬかれぬ事になった『麻生氏のナチス発言』は、はるか8月1日の記事である。よもや台風前の残暑につられ真夏の一件を持ち出したのではあるまいが。新記録を樹立した季節はずれの残暑は、人々を興ざめの渦に巻き込んだが、照明灯も残暑同様おおいに興ざめなのだ。何を今さらと言われそうだが、あらためて『麻生氏のナチス発言』をおさらいする。ことは7月29日に都内で開催された「ニッポン日本再建への道」と題したシンポジュームでのことだ。安倍首相が日本再生のひとつに憲法改正を掲げているにも関わらず、補佐役の副総理たる麻生氏は、いわゆる左よりで護憲的な立場をとっている。シンポジュームでは憲法改正の気炎があがった。その中で護憲派の麻生氏は何度も言ったそうだ。『(憲法改正を)喧騒の中で決めないでほしい』改憲派の多い中で、麻生氏はいわば孤軍奮闘したのだが、その中で不用意にも麻生氏は以下を述べたわけだ。『ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気がつかないでかわった。あの手口を学んだらどうかね?』百歩譲り麻生氏特有の皮肉と認めたとして、それでも総理大臣経験者であり現在副総理たる麻生氏の発言としてはあまりに軽率極まりない。とはいえ、シンポジュームは大人の集団だったようで麻生発言を糾弾することもなく、苦笑(嘲笑か?)で過ごしたそうだ。翌日以降の国外の反応を受け、3日が過ぎてから朝日新聞はその言葉尻をつくように記事にしたわけだ。8月1日のことである。後日出た櫻井よしこ氏の論文「歪曲された麻生発言」にはこうある。「『憲法改正なんていう話は熱狂の中に決めてもらっては困ります。ワァワァ騒いでその中で決まったなんていう話は最も危ない』『しつこいようだが(憲法改正を)ウワァーとなった中で、狂騒の中で、騒々しい中で決めてほしくない』という具合に、(麻生)氏は同趣旨の主張を5度、繰り返した。」これが事実でる。ちなみに櫻井氏は同シンポジュームへの参加者であり、麻生氏の発言に対しては「『ワイマール体制の崩壊に至った過程からその失敗を学べ』という反語的意味だと私は受け止めた。」という感想を抱いたそうだ。そういった事実を前に、朝日新聞は『事実を歪曲』(櫻井氏論文から)して、「護憲派はナチス支持者である」「麻生副総理はナチス支持者である」という論陣をはり、それに追随する新聞社があり終戦の日を前に話題として盛り上がったという次第だ。そしてすっかり忘却の彼方となった今になり『言葉尻』が出てきたわけだ。これは『蒸し返す』と思われてもしょうがないでしょう、照明灯さん。新聞に作意的(どちらかというと悪意)なものを感じるのはやりきれない。それが実感である。照明灯氏には、謹んで再度 城山さんの金言をお伝えする。「言葉尻だけを捉えるのはつまらない話です」
2013.10.18
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新幹線の陣、石川VS長野に群馬も参戦。三つ巴の混戦に!まずもって、「石川と長野の陣」については先日のブログをご覧頂きたい。ナントも悩ましげなるところへもってきて難題が加わった。新幹線の陣に群馬も参戦を表明したのだ。そして上毛新聞はやる気満々である!~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【上毛新聞 三山春秋】「長野県軽井沢町の人口が8月に初めて2万人を突破した。町は「北陸(長野)新幹線効果で定住者が増えた」と分析。別荘が広がった戦後から、1万4000人前後で横ばいだったが、16年前の新幹線開通を機に右肩上がりになった。 次の転機と期待できる同新幹線の金沢延伸が2015年春に迫る中、駅前アウトレットの大幅拡張やゴルフ場のリニューアルが進む。軽井沢ブランドを北陸に発信しようと、結婚式や観光客の誘致も活発化している。 高速交通網は沿線の都市間競争を激化させる。「高崎駅を通過する車両を限りなくゼロにしたい」。高崎市の定例記者会見でも「金沢延伸」が話題になり、富岡賢治市長がJR東日本への働きかけに意欲をみせた。 県内から東京や新潟、長野への利便性が落ちないか心配ということだ。東京 金沢間を主要駅しか止まらない「速達タイプ」が多ければ、高崎も相当規模が通過しかねない。 通過車両を減らすために、高崎と安中榛名の両駅には「止める必然性」が求められる。観光や企業誘致、イベントの面で乗降客が増える見通しがなければ、競争に勝てないだろう。 高崎は競馬場跡地のコンベンション施設や都市集客施設、西口ではイオンモールの計画など駅周辺はプラス材料が目立つ。ダイヤ公表まであと1年。諦めず、県民の熱意で「ゼロ」に近づけたい。(10月10日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~率直に申し上げて、途中駅が多くなればなるほど新幹線本来の魅力は損なわれる。新幹線の各駅停車はどうもヘンテコだ。かつて酔狂からこだまに乗って東海道を下ったことがある。後悔した。各駅停車を乗り継ぐのはオツなものだがそれとはワケが違う。新幹線の途中駅は無用の長物だと思った。とはいえ途中駅にしてみると千載一遇の機会であり、地域発展の明暗を駅に託すといっても過言ではないだろう。群馬の参戦は死活をかけた争いなのだ。ましてや群馬は、それがことを複雑にしているのでもあるが、新駅にあらず既存路線に関することなのだから事は重大だ。群馬県民の感情はおおいに理解できる。そして上毛新聞。私は地方新聞の主な役割を「地方を利せんが為なり」であると思っている。だから地方新聞が先んじて天下国家を論じる必要はない。地域に根ざし、「おらが地」を贔屓にするのは当然である。長野の信濃毎日新聞しかり、石川の北國新聞しかり。私は上毛新聞の「感情」は好意を覚えるのだ(^o^)とはいえ、無責任な言い方で恐縮なのだが、所詮はひと事なのだ。該当県以外の自治体は無関心だ。それが証拠に各地方紙で北陸新幹線(長野行き)をコラムに扱ったところはないはずだ。先回は石川・長野の陣に関してこう書いた。ひとつ、物事には少なくとも側面(両面)があるということ。ひとつ、事実に付随するものは感情的な問題が多々あるということ。ひとつ、物事は多面的(全体的)にとらえて対処するということ。枝葉末節にこだわらないということ。ひとつ、物事は長期的にとらえなければならないということ。ひとつ、既成事実は真実を塗り替えるべく効果を発揮するということ。ひとつ、核心から離れると取るに足らない問題であるということ。ひと事とは、新幹線の該当県以外は「核心から離れると取るに足らない問題」ということだ。さらに、物事の側面は三面になったわけだ。そこへもってきて新潟が「おらが駅にももっと止めるべし」と言い出したら四つの側面となるのだ!北國新聞は『一件落着、名裁き』と楽観してみせたが、どうも一筋縄でいかないようだ。「事実に付随するものは感情的な問題が多々ある。」人の気持ちは誠に厄介なのだ。「所詮はひと事」である私は、該当各県とその新聞社に敬意のエールを送るとともに、穏便に、そして興ざめさせられることのないよう、そう願うのみである。
2013.10.15
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【山陽新聞 滴一滴】こうべを垂れる稲穂のほのかな揺らぎにも喉が鳴ったのだろうか。若山牧水に一首ある。〈秋かぜや日本(やまと)の国の稲の穂の酒のあぢはひ日にまさり来れ〉。さすがは酒を愛した歌人である。 実りの秋、行楽の秋を迎え、これから酒を飲む機会も増えてくる。夜長にひとりしみじみと飲むもよし、祭りでみんなとはしゃいで飲むもよし。ただし、乗るなら飲まない、飲ませない。これは肝に銘じたい。 昨年の飲酒運転による交通事故は4603件で、うち死亡事故が256件を占めた。厳罰化が功を奏したのか、死亡事故は警察庁の記録が確認できる1990年以降で最少という。 いい流れだが、理不尽な事故で命を奪われた犠牲者の無念を忘れてはならない。遺族の怒りや悲しみは件数がいくら減っても決して消えはしない。 酒は百薬の長とも言われる一方で、アルコール中毒などの害も引き起こす。牧水も酒で命を縮めた。厄介な飲み物ではあるが、「生活の中に安全な快楽として定着させたのは人類の偉大な文化的努力であった」(船曳建夫著「一字一話」)。 人生の機微やさまざまな通過儀礼を通して育んできた飲酒文化はマナーやルールを守ってこそ暮らしに潤いをもたらす。飲酒運転許すまじ。先人の苦労の歴史を無にしないためにも根絶に向けて不断の努力が必要だ。(10月6日)~~~~~~~~稲の穂を見て酒を想起するのだから、さすがは大酒豪の誉れ高き若山牧水である。こういうのを「パブロフの犬状態」というのであろうか。コラム氏は酒の害を諌める。まったく悩ましきは「酒」である。そも、2500年以上前にブッダは説いている。『飲酒を行ってはならぬ。この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。これは終に人を狂酔せしめるであると知って。』(スッタニパータ398)我が国では約1200年前に最澄が遺言にまで残し、一門に飲酒を戒めている。『不得飲酒。若違此者。非我同法。亦非佛弟子。早速擯出。不得令踐山家界地。若爲合薬。莫入山院。』(根本大師臨終遺言、一)書き下し文はこうだ。『飲酒することを得ざれ。若し此に違はば我が同法に非ず。亦佛弟子に非ず。早速に擯出して山家の界地を踐ましむることを得ざれ。若し合薬の為にも山院に入るること莫れ。』酒の失態醜態をして、若気の至り、といえない年は遥かであり、酒は『人を狂酔せしめる』と知る年にはなったが、省みると恥じ入るばかりである。まあそれはそれとして、酒の問題はどうやら人類の永遠の課題と思って間違えないようだ。2500年も前から繰り返し説かれてきたのに、その態は何一つかわってないのだ。また我が身。せめていい年をした今となっては、頭を垂れる稲を拝み拍手を打てるくらいの余裕を得たいと思うのである。そういえば、変哲こと小沢昭一さんは、頭を垂れる稲から「新米」を詠んでいる。※コチラから。さすがだなぁ、とあらためて感服するのだ。しかし実に最澄は手厳しい。清々しさを感じさせるほどの厳しさだ。それにしても、ほとんどの大乗仏教は最澄山脈に通じるはずだ。でも、酒を飲まない坊主は少ないのではないか。かつて我が家は母を見送っているが、葬儀も後年の法事も、坊主はヘベレケになるまで飲んでいた。坊主は大酒飲み、知人と話してもそれは定説のようだ。坊主でもそのていである、いわんや我々をや。そう思うと少し気が楽になるのだが・・・実にどうも悩ましきは酒なのである。皆様も、くれぐれもご注意されたし。
2013.10.11
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さても楽しい新幹線の陣。石川と長野の新聞が火花を散らす!首位の決まったプロ野球の外野より、コチラの外野が面白い。『北國新聞 時鐘』VS『信濃毎日新聞 斜面』、まずは両者のコラムをご一読あれ(^o^)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【北國新聞 時鐘】「北陸新幹線(長野経由)」で、一件落着(いっけんらくちゃく)。名裁(めいさば)きだろう。いつまでも、北陸と長野が争うことはない。 「長野新幹線」が定着している、というのは、首都圏(しゅとけん)や地元の言い分。北陸からすれば、いつまで「通称(つうしょう)」を名乗っているのだ、ということになる。だからといって、「北陸」をごり押しするのも、大人(おとな)げない。いささか長いが、カッコ付きは、妙案である。 (秋田新幹線)や(山形新幹線)という表記を、現地の駅で見た記憶がある。東北新幹線と切り離された後、「こまち」も「つばさ」も在来線(ざいらいせん)を走る特急になる。新幹線を名乗るのは、おこがましい。そう言われる前、先手(せんて)を打ってカッコ付き表記を編み出したのでは、と察(さっ)する。 厄介(やっかい)な問題が起きれば、知恵も生まれる。駅名もしかり。上越(じょうえつ)市の駅は、観光地の妙高高原(みょうこうこうげん)と名乗りを争い、結果は両方の顔を立てた「上越妙高」駅。同様の「黒部宇奈月温泉」駅は、日本一長い名前という話題を生んだ。 子どものころ、レールに耳を当て、遠くの列車の車輪の響きを聞き取って胸を躍(おど)らせた。宿題が一つ片付き、新幹線がまた近づいてきた。(10月3日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【信濃毎日新聞 斜面】近く始まる高校野球の北信越大会。出場する県代表の3校が決まった。春と秋に開く大会は今度で129回。北陸と新潟、長野の5県の球児が交流を深めてきた。秋は来春のセンバツにつながる大事な舞台だ。 高校野球では共に歩んできた5県。新幹線の名前ではぎくしゃくしてきた。東京 長野間の長野新幹線が、再来年春に金沢まで延びるのを受けてだ。JR東日本が決めた呼び名は北陸新幹線。「長野」は残らず、「長野経由」と案内することで落ち着いた。 「北陸新幹線(長野経由)」の案内表示や「長野経由」の案内放送である。この決着への受け止めは、いろいろあるようだ。かっこ付きの表記に違和感を覚える人も少なくない。「北陸長野新幹線」はおかしいという北陸側の言い分が通った、大岡裁きとは言い難い の声もあろう。 「長野」から「北陸」への変更で、利用客が戸惑うことも予想される。百科事典によれば、北陸は狭義では富山、石川、福井の3県を指す。長野県を通る新幹線は? といった疑問が出てもおかしくない。利用客の混乱を防ぐのは本来、JRの仕事である。 新幹線が長野まで開業した当時、中南信には冷めた目もあった。今回の名称変更にも、冷静な人がいそうだ。関心事は地元で説明会が始まったリニア中央新幹線、という人もいよう。信州は広い。それぞれの地域の話題に関心を寄せたい。(10月4日)~~~~~~~~古今亭志ん生師匠は『しょうがない』といって物事のケリをつけた。(※過去の記事はコチラから。)つまり、『しょうがねぇやな』で自分の優位をあるいは自分の失態を相手に認めさせる。『しょうがねぇなぁ』で相手の優位をあるいは相手の失態を自分で認める。すべてこれでケリがつくわけだ。その実はほとんど前者であったことは言うまでもない。さて新幹線問題。『しょうがない』といったところであろうが、それでもオヒレハイレがついてくる。こなた『北國新聞』はしてやったり、かなた『信濃毎日新聞』は未練タラタラだ。ただそれらは微笑ましくもあるしそれこそ地方新聞の面目躍如でもあるのだ。そも、地方新聞の役割の第一は「地方を利せんが為なり」であると私は信じて疑わない。地方新聞が先んじて天下国家を論じる必要などないのだ。だから「おらが地」を贔屓にするのは当然だ。私はその感情に好意を覚える。その意味からいって『北國新聞 時鐘』も『信濃毎日新聞 斜面』もしごく全うな論説であるというわけで、謹んで敬意を表したいくらいだ。それでは我々はここで何を見て何を学ぶべきか。見るべきは事実のみである。1.まず新幹線を金沢まで引こうと計画した。2.その途中で長野までを開業した。3.それ以降(長野~金沢間)が開業し完成に至る。事実はそれであり、我々は客観的にそれだけに注目すればよい。そして新幹線の陣が勃発、では何を学ぶべきか。ひとつ、物事には少なくとも側面(両面)があるということ。ひとつ、事実に付随するものは感情的な問題が多々あるということ。ひとつ、物事は多面的(全体的)にとらえて対処するということ。枝葉末節にこだわらないということ。ひとつ、物事は長期的にとらえなければならないということ。ひとつ、既成事実は真実を塗り替えるべく効果を発揮するということ。ひとつ、核心から離れると取るに足らない問題であるということ。ではないだろうか。現実に起こっている諸問題にひとつあてはめてみると、具体的になり理解が増す。そして現実の諸問題も、その核心がより明確になってもくる。例を一つ。隣国は「歴史認識」を振りかざし、事あるごとに横車を押して日本を悩ませ辟易させる。(※歴史認識については長くなるのでここでは扱わない。)見るべき事実は、かつて世界大線が起こった、そのことのみである。では何を学ぶ(解く)のか。隣国と我が国の両国の問題があるということ。それは感情の問題であるということ。世界大線という全体の中で隣国と我が国の問題は枝葉末節に過ぎないということ。両国は先に未来(或いは価値か)ある関係を構築できるのに、その瑣末にこだわるあまりそれが見えてこないということ。隣国が戦闘機や駆逐艦で『領海』を侵犯していると、隣国ではそれが『国土』の一部になるということ。だから世界が今抱えている問題から見れば、両国間の感情的な問題などは本末転倒で取るに足らないことであり、百害こそあれ一利もないというわけなのだ。戻って「石川長野 新幹線の陣」も日本全体として抱える諸問題から見れば、まったくもって取るに足らないことというわけなのである。志ん生師は人物だ。『しょうがない』のひと言でケリをつけたのだから。我々も、ここはひとつ志ん生師を見習い『しょうがない』精神をもって物事に対処しようではないか、そう思った次第である。余談であるが、知人が面白いことを言っていた。『地方の雄たる信濃毎日新聞も今や「支那」の毎日新聞というくらいに中国よりの発言をする新聞である。」「支那の毎日新聞」とはうまい事を言ったものだ。なるほど、コラムは冠を伏せたら、時として天声人語と見間違う事もあるくらいである。面白く思って調べてみるとさもありなん。主幹は朝日から招聘されているのだ。何より社主は若かりし頃、朝日で学んだという。これは筋金入りだ。中国よりになって当然であろう。「支那の毎日新聞」とは誠に言い得て妙である。ところで志ん生師の『しょうがない』については「黄金餅」をお聞きいただきたい。一席終わる頃にはつまらない屈託も「しょうがない」と思えてくること請け合いである(^^)v
2013.10.08
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【日本経済新聞 春秋】A・ガードナーという英国のコラムニストが書いている。「人間というものは、いくつかの習慣に上着とズボンを着せたような存在である」(行方昭夫訳)。そう、人生のほとんどは「いつものように」過ぎていく。しかし、そこに割り込んでくる何事かも、またある。 父の会社で働き、父の運転する車でともに外回りをし、会社に戻る道々遮断機が下りた踏切で電車が通り過ぎるのを待つ。そこまではいつもとなにも変わらぬ日常だっただろう。だが、そこで村田奈津恵さん(40)は線路に横たわる男性(74)を見つけ、車を飛び降りて踏切内にはいり、男性を救って自らは命を落とした。 「助けなきゃ」。父が止めるのを振り切った奈津恵さんの、それが最後の言葉だという。たしかに人間は習慣が衣服を着たようなものかもしれない。が、それだけではない。前触れもなしに人生に割り込んでくるできごとにどう向き合うか。咄嗟(とっさ)だからこそ、人の一番奥に潜むものがのぞく。そんなことを考えさせられる。 糸井重里さんに「ひとつ やくそく」という詩がある。「おやより さきに しんでは いかん/おやより さきに しんでは いかん/ほかには なんにも いらないけれど/それだけ ひとつ やくそくだ」。子を思う親の真情はいくつになっても変わらない。目の前で娘を失った父の無念もまた、思わざるを得ない。(10月3日)~~~~~~~~まずもって、村田奈津恵さんの尊い行いに謹んで敬意を表し、ご冥福を心より祈念申し上げます。いまどきこれほどまでに尊い行いがあるのだろうか、ニュースで一報を目にしてそう思った。翌日、数紙で詳細を読むにつけその思いはいっそう深まり、これこそが慈悲であるのかと確信した。そして村田奈津恵さんの慈悲深い行いに対し感謝の念が心の奥底から湧いた。翻って我が身を省みて思った。咄嗟にしても熟慮の末にしても同じ行いは絶対に出来なかったはずだ。私は感謝の念と同じだけ恥じ入った。最澄が上奏したいわゆる山家学生式(さんげがくしょうしき)にこうある。悪事向己 好事與他忘己利他慈悲之極書き下し文にするとこうだ。『悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。』我々は人として善意を思うとき「悪事を己に向え、好事を他に与え」ということは意識の中で保つことが出来よう。それは我慢や修行といった言わば自分との戦いの中にある意識下の出来事なのだ。ただ「己を忘れて他を利する」ことはその結果であり易いことではない。春秋は『咄嗟だからこそ、人の一番奥に潜むものがのぞく』と書く。つまり、日々どれだけ我慢ができたか、どれだけ修行をつむことが出来たか、そういうことであり、またすべての意識を超越した行為になる。最澄はその域に達した人を「慈悲の極みなり」といった。村田奈津恵さんは慈悲の人であった。慈悲の極みを為した人であった。あらためて村田さんに感謝を申し上げ、少しでも「忘己利他」に近づけるように日々の精進を重ねようと深く誓うものである。村田さんに衷心の合掌を捧げます。それにつけても私も子の親として、ご尊父の胸中は察するに余りある。令嬢を目の前で亡くされ、いまは慈悲もなにもあったものではなかろう。ただただお悔やみを申し上げるのみであるが、我が心を寄り添わせていただく。一切の生きとし生けるものは永遠であれ、安穏であれ安楽であれ。合掌。
2013.10.04
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【秋田魁新報 北斗星】神奈川県箱根のポーラ美術館を訪ねたのは4年前。開館からまだ7年しかたっていなかったが、19世紀フランス印象派の絵画を多数収蔵、美術ファン注目の存在になっていた。近年、収集に力を入れているのが藤田嗣治。数では今や国内最大級だ。 そのコレクションを中心とした「レオナール・フジタ展」が東京・渋谷で開かれている(来月14日まで)。出張ついでに足を運んだ。有名な乳白色以外にも、多様な表現に挑んだ藤田の画業をたどる展観だった。会場は人であふれ、あらためて知ったのは藤田人気のすごさだった。 その藤田の代表作の一つである大壁画「秋田の行事」を展示する新県立美術館が本オープンした。新美術館での展示を心待ちにした大勢のファンが詰めかけ、見入っていた。 世界で最も有名な日本人画家と言われながら藤田の芸術と生涯に関する研究は必ずしも十分ではない。母校東京芸大では親族から寄贈された日記などの研究が進められているという。新美術館にも藤田研究の拠点としての役割が期待される。 開館記念展では、ウッドワン美術館蔵の壁画「大地」や、パリにある壁画「花鳥図」の再現展示も行われている。いつか国内屈指とされるポーラ美術館との提携企画があれば、それこそファンも喜ぶであろう。 全国の藤田ファンを秋田に引き寄せるだけの力が大壁画にはある。吉永小百合さんもCMで語ってくれた。「たった一枚の絵を見に行く。旅に出る理由は簡単でいい」(9月29日)~~~~~~~~秋田が熱い。地方の活況を聞くのは嬉しい事だ。国際教養大学、中嶋嶺雄先生が初代学長として奮闘努力をされた。学ぶに足りぬ環境は何一つなく、魅力溢れるキャンパスは思わずそこに身を置きたくなる。そして、何はさておき図書館は是非行ってみたいと思う。秋田県立美術館、藤田嗣治「秋田の行事」。英知を尽くした空間で、その大壁画を前に素直に圧倒されてみたいと思う。藤田の魔力に心地よく押しつぶされるに違いない。想像しただけでもゾクゾクする。秋田新幹線、スーパーこまち。現代デザインの粋を極めた「形」がスーパーこまちであると言っても過言ではありますまい。流線型とあの「あかね色」のボディーは見て飽きることない。そこに身を置く小旅行を想像するのは至福である。吉永小百合さんのCM。中年諸氏は「小百合さんが行った秋田」というだけで効果は絶大だ。さしたる理由は不要、気品とあのインテリジェンス溢れる姿を前に、もはや心は秋田なのである。そして何より、秋田には『秋田魁新報』という地方の雄たる新聞社があるのだ。私は縦書きコラムという秀逸なアプリを使いはじめてから日々、コラム『北斗星』を追ってきた。地方新聞の最大の役割は地方繁栄つまり『地方を利せんが爲なり』だと私は信じて疑わない。だから先んじて天下国家を論じ自己満足に耽る地方紙は鼻白む思いがするのだ。『北斗星』は愚直なまでに身の丈を守る。それがとても真摯なのだ。何よりわかりやすいコラムは、コラム氏が読者を眼に浮かべながら執筆していることを想像するに難くはない。ちなみに、かつての『北斗星』にこうある。『自分の足元に価値を見いだすことができれば、地方だってさらに成熟する。』前向きで建設的な自己分析を、徹底的に重ねて出来上がった崇高な理念だと思う。そしてその最前提として次のキーワードを掲げている。『都市の繁栄をうらやむ地方』その脱却というわけで、秋田はそれに成功したということではないだろうか。翻って鳴かず飛ばずの地方を見るに『都市の繁栄をうらやむ地方』に陥ってしまったように見受けられるのだ。秋田は『都市の繁栄をうらやむ地方』から這い上がったのだ。その結果、秋田は今ベクトルが集結しているのである。そしてそれはとてつもなく大きな力である。少し唐突だが、学力テストの力は見せかけのものではない。私はそう確信する。ベクトルの集結には、やはり教養は絶対条件なのではないだろうか。そう考えると秋田はまだまだ序の口だ。後世畏るべし。そして見習うべし、おおいに見習うべしである。残念ながら私は秋田には縁もゆかりもないのだが、遠地から、そしてさしたる力もないのだが、秋田を応援させていただきたい。それにしてもこれは行かないという法はない。こまちでススッと行くのもよし。左に日本海を眺めながらローカル線で行くもよし。その折はできれば各駅停車を乗り継いでいけたら最高だ。リニアの話は脇におき、ノンビリ日本海を眺めながら行きたいものだ。秋田行きは値千金の旅になること間違いなしだ。眼前の予定を捨ていざ行かん秋田へ。
2013.10.03
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コラムの内容はさておき、日を同じくして二つの新聞社で「歴史観」を語っていた。京都新聞『コインの表裏のように歴史にも両面がある。』南日本新聞『歴史は、見る人の視点で違う風景に見える。』言葉は違えども内容は同じであり、これは我々が歴史について考えるときに、最も前提としなくてはならない根本の根本である。以下、二つのコラムをお読みいただきたい。~~~~~~~~【京都新聞 凡語】~岩倉具視と京都~コインの表裏のように歴史にも両面がある。例えば明治維新。天皇の名で王政復古の大号令が発令された京都御所が表舞台とすれば、洛北の岩倉具視邸は裏舞台といえる。 公武合体策が尊王攘夷派から弾劾され、洛北・岩倉に蟄居(ちっきょ)した具視のもとへ大久保利通らが訪れ、倒幕、王政復古に向けての策を練る。維新につながる密議の場だった。 500円札の肖像になりながらも、地味で人気薄なのは謀略家のイメージゆえか。そういえばNHKドラマ「八重の桜」でタレントの小堺一機さんが演じたのも「くせ者」ふうだった。 京都市歴史資料館で開催中の特別展(10月16日まで)には具視ゆかりの品や文書を並べているが、そこから浮かぶのは通説とは違い「政策通で状況判断に優れた」(同資料館)政治家像というからおもしろい。 保存会から市に寄贈された具視の旧邸(国の史跡)も公開中で、玄孫(やしゃご)にあたる京都大名誉教授、岩倉具忠さんが開館式に寄せた一文がまたいい。 岩倉は維新の夢を育んだ地、具視は援助を受けた地元の人たちへの感謝を忘れなかった。加えて、その子孫が保存会役員として支えてくれたからこそ具視の遺産を守ってこられたと。代々、守り、語り継がれる維新の記憶。ドラマの主人公ではないが、そこには生の歴史が息づいている。(9月13日)~~~~~~~~【南日本新聞 南風録】歴史は、見る人の視点で違う風景に見えるという。鹿児島市の甲突川にかかる武之橋近くに生まれ、明治を生きた乃木静子の人生もそうではないか。 明治天皇の大喪の日に陸軍大将だった夫希典とともに殉死した。今日は101年目の命日である。衝撃的な死に方のせいか、「軍神」とたたえられた夫の印象か、静子には日露戦争で2人の息子が戦死した知らせを聞いても、涙一滴こぼさなかったという逸話が残る。 だが、作家渡辺淳一さんは、長男勝典の戦死を知った静子の様子について小説「静寂(しじま)の声」(角川書店)の中で、「事実は違う」と否定する。「『勝典、勝典…』と叫び、半狂乱のように泣き続けた」と。 静子は4人の子どもを授かったが2人は早世し、残った息子たちも戦争で失った。心情を察すると、小説とはいえ渡辺さんが描く、感情をむき出して号泣する静子の姿は自然に映る。 オバマ大統領が決断したシリアへの軍事介入に、米国では反対が多い。世論を支える多くは、静子と同じ思いをした人たちだろう。長い間大切な人を戦争に駆り出され、ひつぎを迎えてきた国民である。「もうたくさん」と思って不思議はない。 シリア情勢は予断を許さないが、平和的な解決への道筋が見えてきた。ノーベル平和賞を受賞した米大統領が、国民の声で軍事行使をためらう皮肉な構図だが、この流れを止めてはなるまい。(9月13日)~~~~~~~~三十年以上前のことだ。鹿児島を一人旅していた。天文館で席を隣にした隠居風の方から西郷さんへの思い入れを聞いた。そして同じ量の大久保(利通)への罵詈雑言を聞いた。私が歴史の表裏を実感した最初である。それ以来、歴史を考えるとき、ましてや語るときにはそのことを肝に銘じてきた。余談だが天文館では「若輩ではありますが私は西郷先生に心酔しております。」と言うとご隠居さんはおおいに喜んだ。二人で気炎をあげ、私は知らぬ土地でしたたか酔った。深夜、かろうじて酩酊間近に座は引けて店主が教えてくれた。「あの方は○○先生といい元県会議員にして土地の名士、曽祖父は西郷から大薫陶を受けた○○です。」すべて○○先生からゴチになった。おまけに、宿で飲むよう、と芋焼酎を一本土産につけてくれた。酔っていて○○は覚えていないが、あの芋焼酎の味は生涯忘れることはない。私は後にも先にもあれほどうまい芋焼酎を飲んだことがない。余談はさておき『コインの表裏』や『違う風景』について。昨今の近隣諸国との関係は、まさに『コインの表裏』と『違う風景』の問題であろう。日本はコインの「表側」や「コチラ」を見ているが近隣諸国はコインの「裏側」や「アチラ」を見ているのだ。明治大学の山内昌之教授が『歴史の交差点』という小論で正鵠を射た意見を展開している。いわゆる歴史認識について、日本は『歴史を学問や社会科学の領域で議論する素材』韓国は『歴史を外交や安全保障で常に優位に立つ武器として用いる』中国は歴史を『一党独裁を正当化するために抗日戦争を神話化する』いわば手段とし『学問としての歴史の在り方がそもそも日本と違うのである』と言うのだ。極めて客観的であり明解な理論である。もちろん「批判」でなく、近隣諸国がかかえる様々な状況や政治的な背景、民族問題や習慣、そして歴史を鑑みて「歴史認識」を述べているのことは言うまでもない。これらを踏まえて考えるとき、そもそも歴史に同一の「認識」など存在しないと考えたほうがいいのではないか。あるのは(見るべきは)客観的な「事実」のみである。そして論じるとしたら学問的であるべきだ。『表裏』や『違う風景』の一点のみを語るの事は単なる感想を述べているに過ぎないわけで、ストレス解消やカタルシスである。碩学 安岡正篤先生は思考の三原則のひとつにあげている。『物事の一面に捉われないで、出来るだけ多面的に、出来れば全面的に見ること』それを学問的と言っていいであろう。そして気をつけるべき点については筑波の古田博司教授が喝破する。まずもって、所謂歴史の「善悪」をこう前置きする。『最近は世の中が大きく変わってきた。前は善だったものも気がつくと悪になっていることが頻繁にある』そしてこう結論付けるのだ。『歴史の善悪に拘泥してはならぬ』所以はこうだ。『人間の動機に善悪はない』一見、極論に思えるがこう説明する。『小麦を作りパンを得る人もコンビニでパンを買う人もパンを盗む人も動機はただの食欲だ。それが善になるか悪になるかは、その人の見通し次第である』疑問に思えたり異を唱えたい人もあろうが、極めて論理的整合性に合致した合理的理論である。ちなみに古田教授はそれをもって、昨今のマスコミの偏向に警笛を鳴らしているのだ。曰く『最近のマスコミ報道を見ていても、初めから善悪を決めてかかろうとすることが実に多い。(中略)善悪は初めからあるのではなく未来の見通しに過ぎない。最初に善悪を決めつけて取材をしてはいけないのである』誠にごもっともであり、おそらく多くの国民も疑問や憤りをもってこの風潮を観じているはずだ。全世界には、同一の「歴史認識」など存在しないように、普遍的な歴史的善悪など存在しないのだ。くどいようだが歴史には必ず裏と表が存在する。まずはそれを「認識」することが今最も求められていることであると思う。(近隣諸国のいう「正しい」歴史とはそのことであり、自分たちの感想や感情を他人に押し付けることではないのだ)合わせて我々は、家族を愛するように国家を愛してほしい。そして我々が日々の労働の目的を「家族を守るため」とするように、歴史的考察の目的も「国家も守るための」においてもらいたいものだ。
2013.09.26
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【朝日新聞 天声人語】無心の境地ということだろうか。世界のホームラン王はかつてこう語っている。「ぼくは、自分の目の前に来る白い球を、自分の打ち方で、いかに正しく打つかということしか考えていない」(川村二郎『王貞治のホームラン人生』)。 その王さんの、聖域とも言われた大記録を、ヤクルトのバレンティン選手が超えた。実に49年ぶり。あと1本の重圧を跳ね返したのも無心だったろうか。「リラックスをして走者をかえすことを考えた」という談話が、達成の機微を伝えている。 開幕21連勝を成し遂げた楽天の田中投手も、数字へのこだわりを否定する。「記録のためにやっているんじゃない」。それにしても歴史を塗り替える偉業である。力んだりしないのかと気を揉(も)むが、彼らの胆力は凡百の想像を超えるのだろう。 枝葉を払うことの大切さは、分野によらず道を究めた第一人者がこもごも指摘している。将棋の羽生(はぶ)三冠は言う。「大切なのはそぎ落としていく作業です」。余分なことは忘れた方がいい。大事なことも忘れていい。思い出せればいい。その方が独創的な発想が出てくる、と。 中島敦の短編「名人伝」を思い出す。ある男が弓の至芸を身につけた時、弓も矢も不要となった。道具はなくても、その道の「神」が彼に宿ったからだ。最後は弓という名も、その使い道も忘れ果てていた……。 むろん寓話(ぐうわ)である。ボールとバットがなければ野球はできない。ただ、奥義というものの底知れなさを描いて、一分の隙もない。(9月17日)~~~~~~~~さすがは天声人語である。王さん、バレンティン、マー君、羽生さんをひき、とどめに中島敦を持ってくるあたりは実に博覧強記ではないか。その順番に手練手管を感じないでもないがそれも立派だ。何より多くをひいて決しててんこ盛りになっていないのが素晴らしいと思う。それにしても、改めて達人たちはすごいと思った。「彼らの胆力は凡百の想像を超える」まさにその通りであるが、私は特に羽生さんの言葉にしびれた。『大切なのはそぎ落としていく作業です』さっそく座右帳に記す。脇には外山滋比古先生の言葉がある。『知識を捨てよ、思考せよ』文意は羽生さんに通じる。こちらは御年九十の達人であるが、孫ほどの年齢の羽生さんが外山先生の域に達しているということに感動を覚えるのだ。凡百の想像を超える、まさにそういうことだ。余談であるが、縁あって、羽生さんを奨励会の頃から年に一度だけ見てきた。カツ丼をおいしそうにほおばる小学生に「君は強くなるぞ」と声をかけたのだが、今となっては実におそれ多いことである(笑)ところで天声人語。コラム氏(執筆担当)は何人であろうか。その妙にうならないではいられないペンもあれば、自己主張が強すぎて辟易するペンもある。これは人の問題であろうか。そこで本日のコラムの一文をもって謹んで進言申し上げる。余分なことは忘れた方がいい。大事なことも忘れていい。思い出せればいい。その方が独創的な発想が出てくる。新聞は余分なこと(報道はこうあるべきだと思うこと)は忘れた方がいい。大事なこと(かつての大罪)も忘れていい。思い出せばいい。その方が謙虚で独創的なペンが出てくる。そういうことだ。合わせて外山滋比古先生のご意見も進言申し上げる。『知識中心の生き方の欠点である。』つまり、年を取ると若いころ仕事などで得た知識は耐用年数が過ぎて役立たなくなり、新知識の吸収も困難になる(つまり傲慢になる)、とそういうことなのだ。碩学の一言は含蓄に深い。天声人語が毎朝多くの読者をうならせることを願ってやまない次第だ。
2013.09.20
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【北國新聞 時鐘】「東京五輪」の決定から一夜明(いちやあ)け、久々の青空を見た。「日本晴(にほんば)れだ」と言ったら「その言葉も、久しぶりに聞いた」と家人(かじん)に笑われた。 1964年10月10日の東京五輪開会式(かいかいしき)の見事(みごと)な「日本晴れ」以来、わが国古来(こらい)の表現は徐々(じょじょ)に勢(いきお)いをなくしたように思う。どの国にもその国自慢(じまん)の青空がある。「日本晴れ」は狭(せま)いナショナリズムを感じさせるのか、あまり耳にしなくなった。 国力の盛衰(せいすい)もあった。前回の五輪をバネにした戦後復興(せんごふっこう)もバブル崩壊(ほうかい)でデフレ経済(けいざい)へ、首相が次々と変わる平成の政治、冷戦終結後(れいせんしゅうけつご)の世界規模(きぼ)の混乱(こんらん)もあった。長い低迷(ていめい)が続く時期と併走(へいそう)して、大災害が次々と襲った。 日本の明日(あす)がどうなるか分からない気分が広がった。その中で「日本晴れ」は影(かげ)を薄(うす)くしていった。長い間に積(つ)み重(かさ)なった暗雲(あんうん)のすべてが五輪で払拭(ふっしょく)するとは思わない。何より、震災(しんさい)復興と福島原発処理(ふくしまげんぱつしょり)の重い課題(かだい)がある。だが、進む方向は明確(めいかく)になった。 行方(ゆくえ)が定まらない「漂流(ひょうりゅう)」から、目的地がはっきりした「航海(こうかい)」へ。老いも若きも世代を超(こ)えて、未来を信じる力を取(と)り戻(もど)す。これが何より大切だ。(9月10日)~~~~~~~~朗報来る!興奮は静まったものの、五輪の話題はまだまだ散見する。前回の五輪世代のシッポにある身にとって、今回の朗報はことさらうれしい。コラムを読むにつけ、気分は鼓舞され久々に血湧き肉躍る思いに包まれた。日本は今、コラム氏の見るように「日本晴れ」である。天は高くどこまでも続く青空だ。誠に晴れ晴れしい限りではないか。決定の日から間をおいて、時鐘ではまた五輪の話題が掲載された。~~~~~~~~【北國新聞 時鐘】乗り合わせたバスで、おばあちゃん同士がおしゃべりしていた。「あんた、あと7年やぞ。長生きせんなん」「さあ、どうやろ」。五輪の興奮(こうふん)は、なかなか冷(さ)めそうにない。 「懐かしいね、三波春夫(みなみはるお)」と、意外な名前が出てきた。アベベでもヘーシンクでも「東洋(とうよう)の魔女(まじょ)」でもない派手(はで)な演歌(えんか)歌手。底抜(そこぬ)けに明るい声で「東京五輪音頭(おんど)」を歌い、前景気(まえげいき)をあおった。本番の熱狂(ねっきょう)より、その前の夢や期待の方が強く記憶(きおく)に残ることがある。 「金(きん)でなければ歴史に残らぬ」と、当時の水泳ニッポンのエースで輪島出身の山中毅(やまなかつよし)さんが語っていた。銀メダルでも歴史に名を刻(きざ)む人だが、東京大会はピークを過ぎていた。選手はライバルや記録だけでなく、年齢とも厳(きび)しい闘(たたか)いを強(し)いられる。 選手に限らない。2度目の五輪は、次代の若者に夢と力を与えるが、年配者(ねんぱいしゃ)も忘れてもらっては困る。「あと7年やぞ」。決して遠い目標ではない。経済効果(けいざいこうか)3兆円も大事だが、「長寿(ちょうじゅ)効果」は、もっと大切だろう。 政治家か経済人か、それとも芸能人か。「長寿五輪音頭」を高らかに歌う「第2の三波春夫」の登場を待ちたい。(9月12日)~~~~~~~~吉川英治先生の「三国志」では成就の要素をこう説く。天の時地の利人の和三国志を初読したとき、この万物の真理に触れて、私は感動の震えがしばらくおさまらなかった。何十年も前の感情ではあるが忘れたことはない。五輪開催の興奮がひとくぎりつき、私は今、三国志を思わないではいられない。三国志は、畢竟「気」を描いた小説であると私は思っている。正気、元気、本気、気力、そしてやる気や気持ちなどの「気」であり、森羅万象を司る根本の根本である。「天の時 地の利 人の和」とはその「気」の集結状態をいい、その三つが重なった時に成就相成る、それを三国志では説いているのだ。私は日本が、まさに気の集結状態にあると感じる。日本は今、「天の時 地の利 人の和」にある、私はそう感じるのだ。そしてオリンピックの開催が決まった。『進む方向は明確になった。』思えば昨年暮れまでの混沌は、明確な方向性がなかったからだ。五輪開催は、はなはだ「明確」である。おそらくすべてがそこに結集され進んでいくことであろう。川が流れるように大きな流れとなって進んでいくはずだ。何故ならそれが真理であるからだ。だから現在我々が抱える様々な内憂は、川にたまった堆積物が水流で押し流されるように解かれていくはずだ。そして厄介な外患も、たうたうと流れる水が周辺の土地を潤すように解かれることであろう。まずはコラム氏の言うように『未来を信じる力を取り戻す。』そうありたいと思う。ただし健全に!『「長寿五輪音頭」を高らかに歌う「第2の三波春夫」の登場』を待つ気分で、穏やかに皆で川の流れに寄り添い力を合わせたいと思うのである。『みんな同じ思いだった。開会式の秋晴れは、心が一つになったおかげだとつくづく思う。晴れただけで日本を世界に誇れる気がした。人間関係が希薄になった今だからこそ、心を一つにして五輪成功という目標に進んでいくべきだ。』作家の山本一力さんはこう語る。
2013.09.19
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橋本武さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。【産経新聞 産経抄】「狐狸庵(こりあん)先生」こと故遠藤周作さんのいたずら好きは、神戸市にあった旧制灘中時代かららしい。毎日のように、教師が黒板に向かっているすきに窓から教室を抜けだしたという。 そんな遠藤さんにげんこつをくらわせていたのが、国語教師の橋本武さんだ。戦争が終わり、教科書は進駐軍からの指示により墨で塗りつぶされた。橋本さんは、愛読していた中勘助の小説『銀の匙(さじ)』を教科書にする授業を思いつく。 橋本さんによれば、「国語は日本人としての常識養成の教科」である。そこで手作りのプリントで行う授業は、意識的に横道にそれるやり方をとった。たとえば小説の中に「百人一首」やたこ揚げの場面があれば、実際にやってみる。干支(えと)が出てくれば、昔の時間のとらえ方に話題が及ぶ。 こうして中学の3年をかけて、200ページあまりの1冊の文庫本を読み込んでいく。精読だけではない。毎月1冊本を指定して、読後感想文を提出させた。高校に上がると、クラスをグループに分けて、古典の共同研究を課題にした。 ユニークな授業で鍛えられた国語力も、要因のひとつだろう。いつのまにか灘校は、遠藤さんがびっくりするような、全国有数の進学校になっていた。灘校での教師生活は50年に及び、教え子は各界で活躍している。その一人、黒岩祐治神奈川県知事が著書で紹介したことから、橋本さんは「伝説の教師」として知られるようになった。 晩年には、数え切れないほどの趣味を楽しみながら、ライフワークの『源氏物語』の現代語訳を完成させた。101歳の天寿を全うした橋本先生を、コラムのテーマにするだけではむなしい。授業を受ける機会があれば、もう少しまともな文章を書けたかもしれない。(9月13日)~~~~~~~~【神戸新聞 正平調】「横道」を辞書で引く。本道から分かれ、それる道。正道に、はずれたものごと。本筋でない事柄。あまりいい意味は見当たらない。 横道にそれた授業で、生徒に国語力を付けてもらおうとした中学教師がいた。いつもオールバックの髪形が、新聞で見たエチオピアの皇太子に似ているぞ。生徒たちは「エチ」「エチさん」とあだ名を付けた。 中学の3年間で、中勘助の小説「銀の匙(さじ)」を、各駅停車のようにゆっくり読み解く。文中の言葉の意味を調べ、登場する遊びを実際に体験する。横道に誘(いざな)う手作りプリントが生徒たちを刺激した。その元灘中学・高校教諭の橋本武さんが、101歳で亡くなった。 中勘助の生前、分からないことがあれば手紙で尋ね会いにも行った。「大事なのは答えでなく過程。早急に答えを求めてはいけない。すぐ役立つものはすぐに役立たなくなる」。持論を実践する姿は、生徒たちを魅了したことだろう。 「成り行き任せの100歳」。本紙にそんな文章を寄せた。大好きなカエルのグッズに囲まれて過ごす。宝塚歌劇の大ファンになったのは、還暦を過ぎてからだ。成り行きと言いながら、分かれ道を選ぶ達人のように見える。 横道に入ったら最後、なかなか戻れませんと相談してみたら…。「大いに迷いなさい」と一笑されたに違いない。(9月13日)~~~~~~~~不見識にも橋本武さんを知らずにいた。ご高名を賜ったのは昨年の夏のことだ。季節恒例 文庫100冊を本屋で眺めていた。そこで目に留まったのが中勘助の「銀の匙」である。それは異彩を放ちながらそこにあった。実に三十年ぶりの邂逅である。夏目漱石の講義で中勘助の名前を知り、「銀の匙」は図書館で読んだ。記憶は定かでないが当時は文庫になかった気がする。講義での勘助は夏目漱石のほんのオマケに過ぎず、実際に勘助が文学史的に薄いことが先入観となっていたのか、私は「銀の匙」が漱石が褒める(鶴の一声ならぬ一褒だ!)ほどにうまい小説であるとは思わなかった。それから三十年、「中勘助」も「銀の匙」も忘却のはるか彼方であったが、本屋で堂々と積まれた「銀の匙」にしばし見とれ、私は何ともいえない哀愁を感じたのだ。そして思った。それにしても何故に今頃 中勘助なのか?調べてわかったのが、灘の国語教師 橋本武さんの存在というわけである。言っちゃ悪いが中勘助が再評価に値したというわけではない。橋本武さんという大人物が扱ったから勘助も一緒に付いてきた。漱石の一褒みたいなものであろう。まあ勘助はさておき、昨年の夏、私は橋本さんにおおいに信服した。『国語は日本人としての常識養成』文献を読み、私は橋本さんの底流にある、日本人としての強烈な自我を感じた。そして氏の言動はその自我意識を基にしたものに思え、我々が日本人として最も大切にしなくてはならない美質を見たのだ。ところで、このたびの訃報に接し不謹慎ではあるが、コラムには失笑も禁じえなかった。「授業を受ける機会があれば、もう少しまともな文章を書けたかもしれない。」実は昨年の夏に橋本さんを知るにつけ、熱病のように抱き続けた感想とまったく同じなのである。稚拙な文章に我ながら嫌気が指すとき、私は呪文のように唱えたものだ。橋本さんの授業を受ける機会があったら、もう少しまともな文章を書けていたことだろう、と。みな同じことを考えるものなのだと思ったとき、不謹慎にも失笑を洩らしてしまった次第なのである。長命であられた橋本さんには、幸いにして薫陶を仰いだ方が多数いらっしゃる。そして特に幸いな事は灘校の面目躍如で、橋本山脈に続く方々の中には各方面のお歴々をお見受けするのだ。願わくは、橋本さんの授業から学んだことを後世に受け継いでいただきたい、切実にそう思うのだ。日本のため、方々にはそう願うものである。『大事なのは答えでなく過程。早急に答えを求めてはいけない。すぐ役立つものはすぐに役立たなくなる。』橋本さんのご冥福を祈り合掌。
2013.09.16
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【山陽新聞 滴一滴】俳人の正岡子規は四季の移ろいとともに変化する雲の特徴を記している。〈春雲は絮(わた)の如(ごと)く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く〉。病床から飽かず眺めていた人の観察眼は鋭い。 春はふわふわとした綿雲を、夏は岩のように盛り上がった入道雲を、冬は鉛色の空に垂れ込む暗雲をイメージしたのだろう。もの思う秋はさざ波のような、砂丘にできる風紋のような「いわし雲」が心の慰みになったのかもしれない。 写真集「空の名前」(光琳社出版)をめくると、同じページに色形が微妙に違う「うろこ雲」と「まだら雲」も載っている。気象観測の国際的な基本形の分類ではどれも巻積雲で一くくりされるが、これでは味気ない。 酷暑の夏が過ぎ、朝夕のひんやりとした空気に秋の気配が感じられる季節になった。秋の天気は変わりやすい。日によって暑かったり、寒かったりするが、その分、雲たちは日替わりのカンバスに多彩な模様を描く。 子規ら明治の先人が抱いた目標を「坂の上の雲」に例えたのは作家の司馬遼太郎だった。遠くの父母を思う望雲の情や青雲の志などの言葉もある。古来、人は流転を象徴する雲に心の内を映してきた。 天地の間をさすらう雲にはしみじみとした情緒がある。からりと晴れた日には、空を見上げる心の余裕を持ちたい。(9月2日付)~~~~~~素晴らしいコラムである。押さえのきいた格調ある文章はまさに秋雲のようだ。子規兄と司馬さんと写真集を引いても、決しててんこ盛りでなく程よく心地よい。結びの主張も説教じみることない。その行間は、秋空に漂う雲のようでコラム氏と読者の何か信頼関係を感じる。まずは、清々しい気分を味合わせてくれたコラム氏に感謝(^人^)(左翼偏重が正論であると曲解し、得意満面の某社コラム氏によく読んでもらいたいものだ。)さて、週末はかんばしくなかったものの、昨日は青空を望むことができた。まさに天高く「秋の空」であった。外出の折に遠回りをし、空を見上げながら散歩に興じたのだが、途中、私は道脇のベンチに腰をおろしてメモ帳に目を移した。彼らは、明治という時代人の体質で 前をのみ見つめながら歩く。上っていく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。司馬遼太郎「坂の上の雲」※いちだ【一朶】:ひとむれ。ひとかたまり。さほど遠くない我らが先祖は真面目だった。一朶の白い雲は彼ら自身だ。そう思うと無性に彼らが誇らしく感じ、また明治という時代にそこはかとない懐かしさを覚えるのであった。明治に想いを馳せ、とりとめもない思念に耽りながら思った。これこそが精神の自由であり普く平等に与えられた幸福なのであると。その時、ベンチに座る私と色とりどりのコスモスと青空と白い雲が一体となった。何か大きな力に優しく包み込まれているような、あたたかくて心地のよい感覚であった。『秋雲は砂の如く』誠に言いえて妙、この感覚こそが『絮(わた)』でも『岩』でも『鉛』でもなく『砂』のそれであるのだ。さすがは正岡子規だ。私は心底感服し、子規の俳句をアレコレ口ずさみながら帰路についたのである。それにしても残念なことに「望雲の情」「青雲の志」という言葉はもはや死語である。『お前も青雲の志を抱いて上るのだからおおいに励みなさい!』三十五年前、私は父にそう言われて上京した。現役受験が全敗に終わり、東京の予備校で勉強しようとする私は父のひと言で震え立った。明大前の浪人下宿から見える東京の低い空は、私に望雲の情を抱かせるに十分であった。あの下宿はもうない。そして東京と故郷を繋いでくれた裏通りの赤い公衆電話ももうない。明治どころか「昭和も遠くなりにけり」そういうことか。ひとのこころのあたたかくひとのおもいのうつくしくひとのなさけのなつかしや昭和は遠くなりにけり昭和は遠くなりにけり天気予報では今日も晴マークだ。子規を持って出かけよう。
2013.09.10
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【高知新聞 小社会】10万人以上が犠牲となった関東大震災から、あす9月1日で90年になる。発生時、東京・上野の絵画展会場の喫茶店にいた寺田寅彦は、席を立つことなく揺れを観察していた。 平然とビフテキを口に運んでいた女性もいたが、大方は最初の大きな揺れで出口へと駆けていったという。慌てたのは当然だろう。永六輔さんの「芸人 その世界」にも、俳優らの「そのとき」が拾い集められている。 喜劇俳優の曽我廼家(そがのや)五九郎は浅草の舞台から隅田川に逃げ、水にもぐった。オペラ歌手の田谷力三は浅草金竜館からピンカートンの衣装のまま逃げ出す。落語家の古今亭志ん生はドサクサまぎれに酒屋に駆け付け、浴びるほど飲みまくった…など。 阪神、東日本の大震災を経験した私たちはどうだろう。当時の人たちに比べ、地震や津波に関する知識は増えていよう。情報を提供・入手するための仕組みや機器も格段に発達した。建物の耐震化などを含め、備えが進んでいるのは間違いない。 それでも、いざというときに適切に行動できるかどうか。南海トラフの巨大地震では、激しい揺れが長く続いた後、津波が沿岸部を襲う。平時の訓練では問題がなかったのに、といった事態に直面するのは当たり前ではある。 スポーツの世界では「練習でできないことが、試合でできるわけがない」とよく言われる。その上で、とっさの応用力が求められるのは災害でも同じだ。(8月31日付)~~~~~~【北國新聞 時鐘】1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災(かんとうだいしんさい)から一夜明(いちやあ)け、皇居前広場(こうきょまえひろば)に集まった30万人ともいわれる避難民(ひなんみん)のパノラマ写真が公開された。 詳細(しょうさい)に点検(てんけん)してみると大八車(だいはちぐるま)に家財道具(かざいどうぐ)を載(の)せた人が多いことに気づく。「大人(おとな)8人」が担(かつ)ぐ荷物(にもつ)を1度に運べるので「大八車」と呼ばれた荷車(にぐるま)だ。他には人力車(じんりきしゃ)もあった。こちらは載せる荷物は少ないが、速(はや)く走ることができる。 災害時(さいがいじ)に、車で避難(ひなん)する群衆(ぐんしゅう)をとらえた初の写真として極(きわ)めて重要な一枚だ。広場の空(あ)き地を目指して押し寄せた荷車の列をだれが、どのように整理したのだろう。荷車は走って逃げる人たちのじゃまにならなかったのだろうか。さまざまな思いが浮かぶ。 現代の車社会(くるましゃかい)と災害を考えさせる。先の東日本大震災の時も津波(つなみ)から逃(のが)れるために車に乗った人がいた。徒歩(とほ)で避難した人もいた。車が渋滞(じゅうたい)を招(まね)き途中(とちゅう)で車を捨てて走った人もいたという。車か徒歩か。災害時の避難はどうするか。これからも大きな課題(かだい)だ。 度重(たびかさ)なる大災害と戦ってきた日本人の苦労(くろう)と失敗(しっぱい)と教訓(きょうくん)。そして鎮魂(ちんこん)。90年の歳月(さいげつ)を無駄(むだ)にはできない。(9月1日付)~~~~~~寺田寅彦が何が偉いかといって地震のさなかに「観察」していたことだ。その中でビフテキを食べ続けた女性も実に偉いと思う。宮崎駿監督のお父上は震災の数少ない生存者だそうで、生存のわけをこう語る。『地震後に祖父が命じて家の者がみんな腹ごしらえし、足袋はだしで避難したおかげで助かった』佐賀新聞からの孫引きであるが、記者は「逃げ切るためには体力と足回りが大事なのだろう」と解説している。ビフテキ女子しかりであり、腹が減っては戦が出来ぬというわけで、誠に的確な判断だと思う。高知新聞の小社会にも少しだけ出ているが、古今亭志ん生師のとった行動を詳細するのでお読みいただきたい。最初の小さな揺れは都々逸にして歌った。だんだんと大きくなる揺れに志ん生師は考えた。「こりゃ~あ、日本中の酒がなくなっちまう!」そして、すわっ!とばかり最寄の酒屋に走った。酒屋周辺は揺れと家屋の崩落と出火で大変な状況だ。店先で取り乱す店主をつかまえて志ん生師はこう尋ねるのだ。「酒ぇは大丈夫がすかねぇ?」ただただ酒が心配で仕方がない、それだけなのだ。そして続けた。「あのぉう~、酒ぇをもらいたいんですがな」そう掛け合うと、店主は気色ばんでこう言った。「あぁた、こんな時に何を言ってるの!飲みたいんならもう好きなだけもってらっしゃい。こんなもなぁもうどうせみんなダメになっちゃうんだから。お金なんざぁ、いりませんよ。私はもうこれで逃げますからな、さよなら、ゴメン。」「こりゃぁ~、シメコのウサギ!」志ん生師は水を獲た魚のようだ。揺れに負けぬように、あたりの火花と立ち込める煙を払いつつ倒れた棚や割れた酒壷を越え、どうにか店内に達した志ん生師は手付かずの酒樽を見つけ脇に陣取った。「生一本ならぬ生一樽だぜぇ!ゴウキなもんじゃねぇか、ありがてえなぁ。」そして崩れた棚の中から一升枡を見つけ出し、おもむろに酒をつぐのであった。先のことなどわからないし、第一「この酒が飲めれば死んだってかわうもんかい」というくらいの覚悟があったから、なみなみと注がれた一升酒を息も継がずに飲み干した。「あぁ、もってぇねぇことをした!あんまり急いだもんで味わうことしなかった!」揺れはますます酷くなっていった、とは志ん生師の後日談なのだが、その実は酔いが半分まわっていたからだと推測する。いずれにしても酒飲みの決死隊である。『一生を 一升で終う 酒飲みや』なんてつまらぬ辞世を詠んだかどうかは知らないが、すかさず二杯目を樽からうつす志ん生師であった。「今度は味わって飲むとするさぁ」これが最後の酒かと思い、しみじみ味わい途中で長嘆息のひとつもしながら、二升目も飲み干したのである。いくら酒豪の志ん生師とはいえ、二升の酒をほぼイッキに飲んだのだから酔いもはやい。だがそこが並みの酒飲みと違うところで、志ん生師は酔うに従い知恵が働いた。「ここで今くたばるより、この酒持って外に出れば、まだその分も飲めらぁ」そういう時の志ん生師は、普段のナニから想像もできないほど機敏に動くのだ。どこからか一升瓶二本と漏斗を見つけてくると、早速、枡酒を瓶にうつすのであった。すでに火の気は手がつけられないほどあたり一面に広がっており、揺れはますます酷くなっている。「この酒ぇは命にかえても守らにゃな!」ふらつく足元を「アラ、よいよい~っ」とばかりにやり過ごして表に出ると、回りの家屋はすべて倒壊しており、住民はみな逃げ出したあとで人っ子一人いない。その後の志ん生師の活躍はご承知の通りで、命にかえて守った二升の酒もろとも、無事逃げおうせたということである。はたして『とっさの応用力』とは何だろうか。「90年の歳月」で、関東大震災に限ったことではないが、こうやって散見できる災害報告をもとに考えると、『とっさの応用力』とは、即ちその人がもつ総合的な人間力ということになるのではないだろうか。つまり、内にはその人が何を考え何をしてきたかという人生論から出るものであり、そして外にはその人の生における役割(宿命)であり運命論から出るものである。その二つが即ち『とっさの応用力』となってあらわれるのではないだろうか。先日、スマホを活用する防災訓練の様子をニュースで見た。より役に立つ情報をスマホに送り、その情報を元に安全に迅速に非難するというわけだ。なるほど、空しく過ごすよりはいいかもしれない。だが、スマホが無事でありインフラが万全という「想定」は、はたして健全なことなのだろうか。そう思うのだ。第一、それは「ながらスマホ」になるわけだ。今はその行為を危ぶみ警笛を促しており矛盾した行為にもなる。何より集団の安全面を阻害することにならないか。我ながらひねくれた考えだとも思うが、どうもじれったいのだ。本質をずれて枝葉末節に拘りすぎていないか、そう思うのである。もちろん訓練はもっとも大事であるということは言うまでもない。いざというとき、左に行くか右に行くかで生死が決まる。その判断は自分でしたい。スマホから出る「右に進め」の指示に従うのも、自分がそうすると判断したのだからそれはかまわない。でも、その時点で持ち合わせている自分の人間力に従ってどちらに進むかを判断したい、私はそう思う。だから己の人間力を磨くのみである。それは人それぞれが違うように、課題も人それぞれによって異なるであろう。そも、それを見出すのも人間力なのだ。漠然としているが、それしかない、私はそう思う。志ん生師の落語を聞き、文献でその生き様を知れば知るほど、師の人間力の強さを思うばかりだ。大事なことはみな志ん生師が教えてくれた。スマホから目を離し、志ん生師に付き合ってみればあなたの人間力はきっと鍛えられるはず。かもね(^^)
2013.09.05
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【秋田魁新報 北斗星】極限状態に置かれたとき、人は何を考え、どう動くのか。「自分と一緒に死んでくれる人間の顔を思い浮かべていた」。東京電力福島第1原発の元所長で先月亡くなった吉田昌郎さんが事故当時の心境を語っていた。 「吉田さんとなら一緒に死ねる」。大勢の部下が申し出て、決死隊として復旧作業に当たった。部下にそう思ってもらえる上司はざらにいるものではない。本人にインタビューしたノンフィクション作家門田隆将氏が以前、秋田市で行った講演で紹介していた。 吉田さんのお別れの会が先週末、東京で開かれた。日本を救ったヒーローのような存在であると同時に、過酷な事故を引き起こした原発の現場責任者でもあった。その現場はいま、放射性汚染水の問題でにっちもさっちもいかない状況に陥っている。 原発建屋内に流れ込む地下水が汚染水となって毎日400トンも増え、タンクを造成し続けなければならない。そのタンクから今度は汚染水が漏えい。さらに海洋流出問題まで起きている。 「国が前面に出る」と、政府は汚染水対策にようやく本腰を入れるようだが、問題の深刻さは以前から分かっていたはず。遅過ぎるというものだ。東電に任せきりにしていた責任は重い。 「病気が治ったら現場に戻りたい」と話していた吉田さん。出口の見えない汚染水問題をどう思うだろう。それ以上に、原発とは何なのか。日本の原発政策はどうあればいいのか。語ってほしいことがたくさんあった。(8月28日)~~~~~~~~重いテーマである。『極限状態に置かれたとき、人は何を考え、どう動くのか』その人の経験や教養や知識、そして信念や宗教など、いわば人生のすべてを総結集した結果があらわれるのではないだろうか。おそらく福島の原発事故を最もよく知るであろうジャーナリストの船橋洋一氏(「カウントダウン・メルトダウン」で大宅壮一賞受賞)は、半藤一利氏との対談で、この重いテーマを『精神の領域における、覚悟の話』といみじくも語っている。まさに正鵠を射る一文であると思う。行動結果を、後の人がアレコレ批評することはたやすいが、まさにその時においては「精神」と「覚悟」の問題でしかないのかもしれない。吉田さんは偉大であった。勇気と信念を持ち、ご自身のできることを最後までやり通されたと思う。そしてまた彼の行為は、内においては我々に忘れかけていた日本人の誇りを思い返させてくれ、外へは日本人の精神性の気高さを強烈にアピールする結果となった。吉田さんの御霊に、感謝と尊崇の念を持ち、心からの哀悼の意を表したいと思う。さて、以下は半藤一利氏である。『「吉田所長の最終戦闘プランは、特攻隊による玉砕」でした。命を賭して最後まで一緒に戦ってくれそうな十人ほどの人たちの顔を思い描いていたという。』このごろの、土嚢を積まれただけの汚染水漏れの現場を報道で見て半藤氏の一文について考えてみた。だれがどう贔屓目に見ても、あの現場(土嚢を積まれただけ!)の状況は、心胆寒からしめるに十分であり、何かしらの危惧を抱かないではいられないはずだ。だとすると、何故そういう状況なのか、何故作業がすすまないのか・・・素人が考えても、日本の土木技術が土嚢を積み上げるだけのものだとは思えないのだ。結局のところ吉田さんのような「特攻隊による玉砕」プランを持てる人材がいないのではないか。私にそれを言う資格もないことを承知で言わせていただくと、つまり「命を賭して最後まで」やり遂げようとする指揮官も現場作業員もいないということではないのか。吉田さんが戦線を離脱され、そしてお亡くなりになられた今、現場において「精神」と「覚悟」の象徴であった「命を賭して最後まで一緒に戦ってくれそうな十人ほどの人たち」は、もはや存在しないのか。「お前が行け」「いや、私はいやです。責任者なんだからあなたが行けばいいじゃないか」そういう会話を想像するのは、はたして飛躍に過ぎるであろうか。『吉田所長という指揮官以下の五十人あまりの現場の方たち、いわゆるフクシマ・フィフティは頑張った』(半藤一利)かつてそこには今の日本で最も気高い精神を持った方々が存在した。それを誇りに思い、遅々として進まない作業を見守るのみである。政府は莫大な公的資金を拠出し前面に出て対処するという。まずもって汚染水漏れを何とかしてもらいたいものである。
2013.09.03
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今日も藤桂子さんのお話。昨日、「~情念の歌い手、逝く~」 を綴った後にコラムを読むと、贔屓にしている北國新聞では、まさに同じ日に藤圭子さんを扱っていた。藤さんのご冥福をお祈り申し上げるとともに、今日はまた謹んで北國新聞の「時鐘」を掲載申し上げる次第である。ときに、昨日はふたつの週刊誌の発売日であった。新聞広告で見出しを眺めただけだが、予想通りの藤さんの取扱であった。はたして大衆と雑誌社の欲望を満たすためだけに、霊を汚しているとしか思えず胸が悪くなった。しばらく騒動は続くであろう。藤さんも彼岸で休まる暇はない、南無阿弥陀仏。そうはいっても、藤さん親子と娘の父親が大衆の関心の集まる芸能界という名の苦界に身を置き、マスコミは日々の糧(欲望!)を満たすために良心を捨て、大衆は扇動により不和雷同に明け暮れるという、この悩ましげな三段論法のようなバランスが現代の実相であり、現代を端的に象徴するものだ。藤桂子が「すさまじく暗い歌」?? とんでもない!! 「怨歌」こそ明るく健全である。今の方がよっぽど「すさまじく暗い」気がする。演歌はまた「援歌」なり。だがコラム氏の言うように、中高年向けの歌は乏しい。ご同輩と一緒に『感傷の時代』に戻ってみようか。~~~~~~~~【北國新聞 時鐘】藤圭子(ふじけいこ)さんの突然(とつぜん)の死の後、ぼんやりしていると彼女の曲の一節が浮かぶことがある。「十五、十六、十七と私の人生暗かった」。 すさまじく暗い歌ですね、と若い同僚(どうりょう)に言われた。その通りで、反論(はんろん)も弁解(べんかい)もできない。世代を超(こ)えて歌い継がれる名曲もあれば、そうでないヒット曲もある。小説「親鸞(しんらん)」を連載(れんさい)する五木寛之(いつきひろゆき)さんによると、藤さんの歌は「怨歌(えんか)」。世の中に対する「怨(うら)み節(ぶし)」に共感する時代があった。 アトリエにフラメンコの曲を流すのを好む画家を取材したことがある。風景や静物(せいぶつ)を描くときも、スペインの陽気(ようき)な曲を選ぶ。「元気が出てきて、絵が生きてくる」と音楽の効用(こうよう)を教えてくれた。 往時(おうじ)の「怨歌」のヒットも、心にうごめく恨(うら)みつらみを「薄幸(はっこう)の少女」を演じる歌手に託(たく)し、痛みをやわらげようとしたのか。歌は栄養剤(えいようざい)にも鎮痛剤(ちんつうざい)にもなる。 今どき「怨歌」は、はやらない。明るく元気な時代になったのなら、まことに結構である。本当にそうかな、とも思う。あいにく、中高年向けの歌は乏(とぼ)しい。心のモヤモヤを「怨歌」で洗い流した「感傷(かんしょう)の時代」に、戻ってみたくなる。(8月29日)~~~~~~~~「圭子の夢は夜ひらく」石坂まさを作詞・曽根幸明作曲赤く咲くのは けしの花白く咲くのは 百合の花どう咲きゃいいのさ この私夢は夜ひらく十五 十六 十七と私の人生 暗かった過去はどんなに 暗くとも夢は夜ひらく昨日マー坊 今日トミー明日はジョージか ケン坊か恋ははかなく 過ぎて行き夢は夜ひらく夜咲くネオンは 嘘の花夜飛ぶ蝶々も 嘘の花嘘を肴に 酒をくみゃ夢は夜ひらく前を見るよな 柄じゃないうしろ向くよな 柄じゃないよそ見してたら 泣きを見た夢は夜ひらく一から十まで 馬鹿でした馬鹿にゃ未練は ないけれど忘れられない 奴ばかり夢は夜ひらく夢は夜ひらく
2013.08.30
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藤圭子さんが一人静かに逝った。もう三十年以上前の話だ。原宿で「論楽会」という「音楽会」をもじったオツなイベントがあり参加した。今で言うトークイベントといったところか。ゲストは山崎ハコと半村良など。五木寛之さんが司会をされ、山崎ハコの弾き語りを聴いた後で五木さんが「演歌」について語った。恥ずかしながら具体的な記憶はない。だが五木さんに感化され、すぐに演歌をかき集め(当時はミュージックテープだ!)そして聞き入った。藤圭子さんの歌も揃えたことは言うまでもない。もちろん五木さんの「ゴキブリの歌」も読んでおり、「歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがある」この一文に接した時は全身に悪寒が走り、しばらくは茫然自失から抜け出せなかった事をはっきりと覚えている。突然の訃報に接し、ほとんどの新聞は藤さんの死をコラムで取り扱った。各コラム氏は藤圭子さんをリアルタイムで聞いた年代であるはずだ。各コラムを読み、私は自分が生きた「ひとつの時代」が確実に終わったことを痛感した。そして、今が『もはや「藤圭子」を必要としなくなったこの軽い時代』だとすれば、昭和を生きたそうでない世代は、斜構えでもいいから、自分らしく真っ直ぐに進んで行こう、そう思った。謹んで藤圭子さんのご冥福をお祈り申し上げます、合掌。南無阿弥陀仏。藤さんに敬意を表し、以下に三紙のコラムを紹介する。~~~~~~~~【徳島新聞 鳴潮】演歌は歌謡界の成長エンジンだった。「艶歌(えんか)」「援歌」とも言われ、戦後長く庶民の心をつかんで離さなかった。藤圭子さんも歌姫の一人だった。 「歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがある」。彼女の歌を「正真正銘の〈怨歌〉である」と、エッセー集「ゴキブリの歌」で絶賛したのは、作家の五木寛之さんだ。 代表曲の「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしたのは1970年、藤さんが19歳の時である。「十五、十六、十七と、私の人生暗かった」。冷たい熱を帯びた情念が、しゃがれた声に乗ってあふれ出した。 人の心の奥底に潜んでいる悲しみを歌い上げたといわれる。世は高度経済成長を謳歌(おうか)していたが、そこから取り残された人も多かった。戦争が終わって25年しかたっていなかった。 そのころテレビではザ・ドリフターズのコントと「怨歌」が同居していた。ギャグ漫画の隣で「はだしのゲン」が原爆への憎しみを語り始めたのは数年後。違和感がなかったのは、癒やされぬ悲しみがまだそこここに漂っていたからか。 ほとばしる情念が乾いてしまったのは、いつのことだろう。演歌は邦楽の一つのジャンルにすぎなくなり、「歌謡界」も過去の言葉になりつつある。もはや「藤圭子」を必要としなくなったこの軽い時代に、情念の歌い手が別れを告げた。(8月24日)~~~~~~~~【中国新聞 南風録】~「残酷」と呼ばれた現実~全集や著作集に付された月報は読み応えがある。裏方である編集者の顔が見えるから。古書で全巻そろえた「日本残酷物語」を開くと、はらりと滑り落ちた。あった。民俗学者谷川健一さんの名。きのう訃報が届いた。 若き日は平凡社に勤務。60年安保の時代だった。監修に宮本常一や山代巴らを迎え、あえて残酷の名を冠した記録文学を編む。「小さき者たちにこそ、人間の誇りは最も純粋に現れる」という確信。月報の一文にしるす。 北は開拓期北海道の流刑地から、南は占領期沖縄の本土密航まで、底辺にもがく無名の民。ヤマに、荒海に、稼いだ女子(おなご)衆もいた。「あまちゃん」とはまるで違う。読み手も、わが父祖を思った時代だった。版を重ねた。 10年ほどして白いギターを抱えた黒ずくめの少女が現れる。「新宿の女」の藤圭子さん。怨歌(えんか)と評され、70年安保の世代が受け入れた。だが、その時代は程なく終わる。そして、還暦を経た彼女は現身(うつせみ)を投げ出した。 「一億総中流」なる言葉も今は消え、新たな残酷がそこかしこに。夢は夜もひらかない。都会のど真ん中の孤独死など、あの監修陣も想像しなかったに違いない。新たな物語を誰が編む。(8月27日付)~~~~~~~~【京都新聞 凡語】~藤圭子と怨歌~明治の自由民権運動を広めるための「演説歌」が起源とされる演歌だが、男女の情愛などがテーマの「艶歌」や人生を応援する「援歌」の文字も充てられるようになる。 1969年に「新宿の女」でデビューし、翌年の「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットした藤圭子さんの歌を「怨歌」と名付けたのは作家の五木寛之さんだった。 実名小説で「歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ」(怨歌の誕生)とつづる。 「ばかだな、ばかだな、だまされちゃって」「十五、十六、十七と私の人生暗かった」と文字通りの怨(うら)み節。浪曲師の父、盲目の三味線弾きの母、旅回りの貧しい生活…歌と実生活が重なる。経済成長が続く一方で学生運動は下火になるころだ。 閉塞(へいそく)感が漂う中、ハスキーでドスの利いた歌声が勤労者や挫折した若者の心をもつかむ。虚実ないまぜの世界に嫌気がさしたか79年に突然引退。次に表舞台に顔を見せたのはシンガー・ソングライター宇多田ヒカルさんの母としてだった。 そしてまた突然の悲報。藤さんの怨歌に今も心がうずくのは70年代の空気を知る世代の感傷か。いや、五木さんが指摘したように「凝縮した怨念が一挙に燃焼した一瞬の閃光(せんこう)」ゆえと思いたい。(8月27日)~~~~~~~~藤圭子の世代は娘に関心はない。ただ毎度お馴染みの、傷心をえぐり出すようなマスコミのあり方にはうんざりし、娘さんには同情を覚えもする。特に今回は、そのやり方がとてもえげつなく感じるのだ。親子共々、そして娘さんの父親もまたそんな苦界に身を置くことの因果はわかる。またマスコミも日々の糧たる仕事のひとつであることも理解している。そして何より背後にはそれを好む大衆がいることもわかっているつもりだ。つまりはこの悩ましげなバランスこそが世の中を象徴しているのだ。だが何ともやりきれない思いで胸が悪くなる。願わくは、亡くなられた藤さんの御霊前に真摯なる誠を捧げてほしい。逝かれた人の霊が汚されないよう、マスコミの良心を信じたいと思う。
2013.08.29
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【北國新聞 時鐘】認知症(にんちしょう)の老母(ろうぼ)を見舞(みま)って「どちらさま」といわれたことがある。「私は生きとるがか死んどるがか」と聞かれて答えに窮(きゅう)したこともあった。 やすらかな晩年(ばんねん)だったが、最大の難問(なんもん)は「あんたは生きとるがか」の一言だった。まるで哲学問答(てつがくもんどう)である。認知症にはなりたくないが、認知症にならなければ見えないものがあるのか。何年か後の自分の姿(すがた)だと思うこともしばしばだった。金大や東大など40機関(きかん)が、認知症の一種アルツハイマー病を発症(はっしょう)する前段階(ぜんだんかい)で、脳(のう)にどのような変化が起(お)きるかを探(さぐ)るという。健康な60歳から84歳の300人と、認知症には至(いた)っていないが物忘れが顕著(けんちょ)な200人に参加してもらう3年計画である。 幸(さいわ)い、まだ物忘れもなく認知症の症状もない。年齢条件(ねんれいじょうけん)も合う。冗談(じょうだん)ではなく参加してみたい。研究に協力できるかもしれない。人間の記憶(きおく)の衰(おとろ)えと不可解(ふかかい)さの一端(いったん)を、わがDNAから説明できないだろうか。 自分の息子(むすこ)や娘(むすめ)の顔が分からなくなった老母も孫(まご)の顔だけは分かった。なぜそうなるのか。脳の働(はたら)きと人生の記録(きろく)を合わせながら「生きている」意味を考えてみたい。(8月21日付)~~~~~~齢八十五の父は、幸いなことに認知症は見られないが、コラムは身につまされながら読んだ。まだまだ解明途中とはいえ認知症の研究はすすんでいるようだ。実際に認知症患者を看護する親族にとって、今後の研究結果は朗報となろう。それにしても、コラム氏のご母堂はなぜ「私は生きとるがか死んどるがか」といい、なぜ「あんたは生きとるがか」といったのだろうか。遠い夏の日に、私も祖母から「どちらさま」といわれた経験がある。祖母につきっきりで看護していた母から「おばあちゃんはもうわからなくなっているの」と言われたが、当時の私には「わからなくなっている」ということが理解できなかった。少年にはショックな出来事であった。はたして、「生きているか」「死んでいるか」という問い(或いは独り言か)は本当に「わからなくなっている」のであろうか?私は人間が生きていくことの意味は何かを考えないではいられない。中村元先生は安楽行品(あんらくぎょうほん)の解説で、サンスクリット原文を和訳された。『大いなる志のある求道者が、いかなるものにも心のひかれることなく、それらのものの本質を観察するとき、これらのものについてみだりに思考することなく、分別思量することのないことが「大いなる志のある求道者の行い」といわれるのである。』そしてこう解説をされる。『すべてのものの本質は空であると観じて、現象にとらわれて行動することがない。すべての事物はおこるべくしておこったものであることを認めて、偏執にとらわれて行動することがない。たとえば、病気になったならば、こうなるべくしてなったのだと見究めて、平然として事態に直面する。そうすれば身体の悩みはあるが、心の悩みはおこらない、というのです。』私は医学的に認知症は理解していないが、ご母堂がすでに「いかなるものにも心のひかれることなく」ある状況だということは推察できる。そして日常においても「みだりに思考することなく、分別思量すること」もないはずであるということも。だとすると、ご母堂の言葉は「空を観じ」た上で出てきたもの(実相か?)なのではないか。ひたすら意味深長であり、全く無意味であり。医学は思考であり分別思量の結集である。だからどれほど解明発達しようと、ご母堂の言葉は解き明かされまい。ただ、我々も何かしらの修行を積み「本質は空である」と観じることができたなら、その意味を理解できるのであろう。もしくは、コラム氏の言う「認知症にならなければ見えないもの」だとすれば、我々も認知症になったら理解できるのであろう。いずれにしてもその時は「思考することなく、分別思量することのない」次元の違う人になっているわけだから、理解することはすでに空になっているのだ。コラム氏と一緒に、「生きている」意味を考えてみたい、秋風に吹かれながらそう思った。
2013.08.26
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【朝日新聞 天声人語】職場から出て日陰に入り、東京湾からの海風に吹かれると、心なしか多少過ごしやすくなったと感じる。空が高く、雲の表情も以前と違うように思える。ベンチに腰掛け、本でも読もうかという気になった。 「緑陰読書」という言葉がある。夏休みの読書をそう称することが多い。中国文学者、斎藤希史(まれし)さんの『漢文スタイル』によると、それほど古い言葉ではない。日本では、江戸後期の頼山陽(らいさんよう)の漢詩にその典拠らしき句が見られるという。 詩人の雅(みやび)な境地にはほど遠いが、「積(つ)ん読(どく)」にしていた本を樹下で開く。脳研究者で東大准教授の池谷裕二(いけがやゆうじ)さんと、作家の中村うさぎさんによる『脳はこんなに悩ましい』。驚くような脳の不思議を縦横に語り合い、巻(かん)をおくことができない。 最新の知見が次々と繰り出される。例えば笑い。楽しいから笑うのだと普通は思う。実は笑うから楽しくなるのだという。からだの動きに脳がついていく。そんな仕組みにできている。池谷さんの説明を裏付ける専門文献が257も掲げてある。 かなり深刻な話もある。脳の中も人間社会も、世界は冷徹な不平等の法則に貫かれている。出版界でいえば、一握りのベストセラーと、大多数の売れない本にわかれるように。また、人の自由な意志などというものは存在しない。幻想だ、と。 常識破りの連続に目が回るようだ。その先が知りたいが、ひとまず力尽きた。そういえば斎藤さんが書いていた。木陰の読書に疲れたら「まずは冷たいビール、だな」(8月19日付)~~~~~~~~内容は別にして文章はうまい。さすがは天声人語だと思う。脳学者の話を読み、亡き枝雀師の落語を思い浮かべた。『可笑しいと、思うか思わないかですよぉ。』枝雀師はマクラでよく語った。その所以はというと、『可笑しいことはそれ自体が客体として存在するわけではないのですよ。』そういうことだ。つまり、だから私の話を可笑しいと思って笑いながら聞いてくれ。それもあってか、枝雀師の落語はアクションが大きかった。時に落語から枝雀師の全身全霊を感じることさえあった。ひとしきり大笑いした後に、なぜか一抹のさみしさと漠然とした不安を感じることがあった。おそらくリアルタイムで枝雀師を聞いてきた方はご理解いただけることであろう。そして同じく、何かしらの不安を感じていたことと思う。だから不安が現実となったときには大変なショックを受けた、そして思った。人がいきていくうえので「あわれ」を。つい先日の事として記憶に残っている。話がそれたがコラムの笑うから楽しくなるというのは真実である。たとえば「ここが可笑しいんだよなぁ」という箇所を見つけ同じ落語を10回聞けば、同じところで笑うことが出来るはずだ、間違いない。そのうちに、この落語ではここが可笑しい!!、と自身の中で確信に変わり11回目からは流して聞いてもきっと笑うことであろう。ただし!人前では禁じ手にされたほうが無難である。コラムでは「笑うから楽しくなる」の仕組みをからだの動きに脳がついていくからだと説明する。だとすると逆もまたしかりのはずだ。つまり、怒っているから不機嫌になる、も真ということになる。これを踏まえてコラム後半を考えたい。人の自由な意志などというものは存在しない。幻想だここが肝心なのだ。朝日新聞は安倍政権に批判的だ。ときとして不平不満を並び立てている、そう感じる。だが、その批判は記者の「自由な意志」に基づいているわけではないということになる。つまり、記者が「政策が間違っている」そう思って安倍政権を批判をしているわけではなく、何かの意志、たとえば社是や社論を決定する人の「意志」に従って書いているということなのだ。新聞の根幹は「言論の自由」にあると思うのだが、それに論理矛盾が生じることにならないか?なんだかややこしくなってきたぞぉ(汗)遠くで般若心経が聞こえる。無、無、無・・・ということで、結論(当方の希望か・笑)はと申しますと、「笑うから楽しくなる」そして「怒っているから不機嫌になる」のだから不平不満でなくもっと楽しくなるお話を聞かせてください(^人^)枝雀師が説くところの笑いは『笑っていれば病気になんてならないんですから』ということだ。志ん生師は言葉を変えて言う。『笑うことは薬ですからな』そういうことなのだ。もちろん新聞を読んでケラケラ笑うのもヘンなものだから、落語の域までは望まぬが、少なくとも不平不満を並び立て人を暗ぁ~い気分にさせることはやめてもらいたい、そう思うわけなのだ。筆の妙にかけては天下一の朝日新聞だから、それはお手のもんでしょ♪手練手管にナニしてちょうだいね(^^)
2013.08.22
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【愛媛新聞 地軸】~あくび~あくびは、最も身近な生理現象である。眠たいとき、寝起きのけだるいひととき、退屈な時間、逆に緊張の瞬間―。思わず出る反射運動だ。ただ、その意味や原因は、生物学的には解明されてないという。 あくびはうつる。伝染する。人のあくびを見ると、自然とこちらも口を開いているから不思議。これも、詳しいメカニズムは未解明。集団で暮らすために必要な伝達シグナル、共感を示す意思表示。さまざまな説の、おそらくはどれも真実。 人だけの行動ではない。ネコもイヌも気持ちよさそうに口中を見せる。野生生物だってそう。ライオンの大あくびの映像は知られるところ。さらには哺乳類の特権でもないらしい。鳥類や爬虫類にいたるまで、幅広く見られる行動だそうだ。では、違う種類間でも伝染するのか。こんな興味深い研究に、東京大の研究チームが取り組んだ。結果は「うつる」。愛犬の前で飼い主にあくびをしてもらうと、およそ半数のイヌにうつった。しかも、見知らぬ人の3・5倍の「伝染力」。 野生の状態では、違う種が群れで行動することはあり得ない。しかしイヌは、長い歴史を経て人間と信頼関係を築き上げてきたパートナーだ。チームは、相手に共感するイヌの能力の高さを指摘する。 さて、最も結びつきの強いはずの家族ではどうか。今夜あたり、実験してみよう。でも結果を知るのが怖くもある。だから手始めに、我が家の愛犬から。(8月10日付)~~~~~~あくびのメカニズムとは・・・(汗)こちらは極めて楽しいあくびネタである。五代目古今亭志ん生師の十八番「あくび指南」だ。昔は稽古事が盛んであった。町内にはきまってお師匠さんがいて様々な稽古をしたものだ。ここの町内に「あくび指南処」の看板が掲げられた。友人を誘い指南請する若い衆で噺は始まる。なお噺の方は「あくびは上品なもんで、茶の湯からでたもの」というバカバカしいお話である。ときに「あくび指南」は短編だが、マクラで夏の風物に触れていることもあり、志ん生師は夏の高座にかけたようだ。客のあくびを誘うことは寄席のご法度だ。しかし志ん生師は計算した表現で、客のあくびを逆手に取ることに成功している。サゲの後に寄席中そろって大あくびなのだ。そしてくだらないあくびの話も、実に奥深いもので何度聞いても飽きは来ない。だだし、何度聞いてもサゲの後にあくびを催す(笑)彼方、東大の大学者はあくびを学問のネタにされているという。誠にご苦労なことで記事を読む限りは楽しい話であるが、きっと研究結果を報告されたら大あくびを催すことであろう。ただしコチラにサゲはない(笑)それにしても様々な稽古事があったように、様々な学問があるものだ。学者先生も退屈せずにすむことであろう。してみると・・学者の学問は我が落語と同じということかしら(笑)
2013.08.20
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【信濃毎日新聞 斜面】安倍晋三首相にとって一世一代の決断の時が刻々迫っている。消費税率を引き上げるかどうか。増税は経済状況の好転を条件とするとの「景気条項」が法律には盛り込まれている。10月召集予定の臨時国会の前に決める腹づもりだ。 難しい判断になる。税率引き上げで景気が冷え込めば税収は上がらず、財政はかえって悪化するかもしれない。歴代政権が先送りしてきた難題である。国の借金はいま1千兆円を超えている。銀行なら取り付け騒ぎが起きるところだ。 財政難は先進国共通の課題である。米国も例外ではない。その米国で財政赤字をねじふせた大統領がいる。2001年まで務めたクリントン大統領だ。社会保障費や国防費に切り込み富裕層への増税を断行して、2期8年の間に5300億ドル(約51兆円)もの財政改善に成功した。 ホワイトハウス実習生との不倫問題を起こした大統領だが、米国の人々の目には優れた政治家と映っているようだ。米ギャラップ社の調査では国民が「最も偉大」とみる大統領で1位レーガン、2位リンカーンに続き3番目に名前が挙がっている。ワシントン、ケネディより上である。 安倍首相は先日地元山口県を訪ねた際、「憲法改正は私の歴史的使命」と述べている。国民が指導者に望むのは常に暮らしの安定である。首相が歴史に名を残したいなら、改憲ではなく経済に力を注ぐ方がいい。(8月14日付)~~~~~~~~読後感、一回目「?」、二回目「?!」、三回目「!!」。信濃毎日新聞にはかつて桐生悠々という主筆がおり、見事な論陣をはっていたという。時の政府(主に陸軍)の弾圧が激化し悠々は会社を去った。気骨の人であったそうだ。「たて書きコラム(アプリ)」仲間から面白い話を聞いた。『信濃毎日新聞は、支那の毎日新聞、と言われている。』オツなことをいうねぇ~、と感心してもいられない。以前にも書いたのだが、古今亭志ん生師の嘆きが聞こえる。『考えちがいしちゃァ駄目ですね。』つまりこういうことだ。戦争に反対することは一般論であり新聞の使命である。かの時代、それは可能であった。しかるに「戦争」という明確なテーマが我が国では現存しない中で、新聞はそれを政府や政治への不平不満にすりかえているのだ。これは正論にあらず、志ん生師のいう『考えちがい』である。残念なことに信濃毎日新聞に限ったことではないのだが・・・敬愛する五代目 古今亭志ん生師は口述筆記の著書で芸論を説く。『考えちがいしちゃァ駄目ですね。』はハナの一文、そして核心はこうだ。『お客は金を出してくれるんだから、一にも二にもお客を満足させることを頭においてやる。』単純にして明解そして根本原理である。志ん生師は半世紀も前に「顧客満足」を説ているのだ。それは今、多くのサービス業が経営の第一に掲げている。ではなぜ客が金を出すのか、客が寄席に通う道理をこう説く。『お客は昼間いろいろなことで、おもしろくないことや、心配ごとなんかがあって、寄席でもいってそのうさを晴らそうてえんでくる』うさを晴らすとは何もかも忘れて楽しみたいということであろう。そして志ん生師の眼目はここである。『その人たちの頭をほぐして、喜ばせてやるのが、あたしたちの大切な責任なんですよ。』すべては『大切な責任』の全うにあるのだ。噺家には噺家の大切な責任があり新聞には新聞の大切な責任があるはずだ。それを全うすることこそが本当なのである。コラム氏に新聞の『大切な責任』について考えてもらいたい。作家の曽野綾子さんは、昨今の風潮を「傲慢」というキーワードをもって解く。詳細は触れぬが、その通りだと思う。新聞にはまず「傲慢」を捨て謙虚になってもらうことを願ってやまない。そうすれば『考えちがい』もなくなろう。
2013.08.17
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【岐阜新聞 分水嶺】地図は想像力を膨らませる。訪れたことがない街や土地でもそこに住む人の生活を思い描いたり、歴史を感じたりして、空想の旅を楽しめるから。 散歩が好きだった永井荷風は出歩くとき、常に携帯していたのが嘉永版の江戸絵図。当時、最新の東京地図があったにもかかわらず、古地図を好んだのは、歩きながら江戸の昔と東京の今とを目の当たりに比較対照できたのが理由という。 さらに決して正確とはいえない江戸絵図だが、正確な新地図にはない魅力があって、手放せなかったらしい。上野のように桜の名所には桜の花を描く、興趣あふれる遊び心が荷風の想像力をかき立てた。 「江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩み行けば身は自ら其(そ)の時代にあるが如(ごと)き心持となる」(「日和下駄」より)。まるでタイムトラベルのような感覚で市中を散策する楽しさ。 そんな気分を味わわせてくれるのが岐阜市歴史博物館(同市大宮町)で開催中の企画展「古地図にみる江戸時代の美濃」。およそ150年前から370年前までの岐阜市や近郊の様子を記す古地図70点を展示する。 街道や川の流れなど、はるか江戸時代の岐阜と現在を見比べると、庶民の暮らしが見えてくるようだ。企画展は9月1日まで開かれている。(8月2日付)~~~~~~~~ゆるゆると行く永井荷風が見えるようだ。荷風先生は間違っても風を切って颯爽と行くことはないのだ。それにしても、荷風の散歩は実にマメであった。コラム氏のご指摘どおりに地図持参もさることながら、散歩途中では度々足を止めてメモを取った。図入りのメモは実に緻密なものだ。「断腸亭日乗」を見るにつけ、ニヤニヤと帳面に記す荷風の姿を想像するに易いのである。鉛筆の先をなめなめ綴ったに違いない。『江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩み行けば身は自ら其の時代にあるが如き心持となる』コラム氏は、荷風を朝刊のコラムにふさわしいように書いてくれたのだが、その実はというと荷風のことである。きっと新吉原あたりでは古地図を眺めながら江戸の吉原に想いを馳せていたはずだ(笑)ドナルドキーン氏は紳士だから露骨には書かないが、初めて荷風を見たとき、そのルンペン然とした風体と、その彼のつぐむ文体の美しさとのあまりの乖離に愕然としているのだ。しかし、なりはルンペンでも荷風先生は一流だ。そして散歩はもちろんひとり歩きが鉄則であり、その風は岩本素白に引き継がれた。「私は何時もこういう何の奇(てらい)もない所を独りで歩く。人を誘ったところで、到底一緒に来そうもないところである」かつての成増あたりを一人ゆく岩本素白なのだ。そして、その岩本素白の風を池内治センセイが引き継がれている。「われ知らず素白センセイの目でながめ、素白流の足どりで歩いている。」池内センセイは著書の「ひとり旅は楽し」でそう記すのだ。さて、そうはいっても昨今、地図を広げながら街行く人など見かることはない。スマホのGPS機能にナビゲーションを加えれば目的地まで音声ガイドしてくれる世の中なのだ。それは無粋この上なく誠に憂うべきことだと思うのだが、それはそれとして、我が私淑する池内センセイは散歩の極意を「ゆっくりする」ことにあると説く。それを解いて曰く「ゆっくりするには勇気がいる、知恵がいる、我慢がいる。」私はこれを見て、それこそ人生の師にめぐり合えた気がしたものだ。正鵠を射るとはまさにこのことではないか。散歩をひいて人生論を極平易な一言で解いたに他ならないのである!まだまだ一人ゆくほどに気候はよくないが、秋風を感じたらひとり散歩に出よう。路傍の花に目がとまったら口に出してとなえるのだ。「ゆっくりするには勇気がいる、知恵がいる、我慢がいる。」それにしても岐阜の博物館はオツなもんだ。そして岐阜新聞も一流だ!中京にあって、どうしても目は名古屋にいきがちだが、岐阜新聞には大いに頑張ってほしいものである。
2013.08.15
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【信濃毎日新聞 斜面】獺祭書屋(だっさいしょおく)主人―。明治時代の俳人、歌人正岡子規の号である。獺祭は、獺(カワウソ)が捕らえた魚を祭りに供えるかのように並べる習性のことだ。詩文を作るときに、多くの文献や参考書を広げることにも用いられる。 子規は、自らの住まいを獺祭書屋と称していた。絶滅したとされるカワウソだけれど、戦前は全国の川で見られた。本人自筆の「獺祭書屋主人」をきのう、上水内郡信濃町の一茶記念館で目にした。町出身で江戸時代の俳人小林一茶を論評した原稿である。 長野市戸隠の民家で、先ごろ見つかった。1897(明治30)年に刊行された「俳人一茶」に寄せたものだ。子規は一茶を高く評価し、その特色は「滑稽、諷刺(ふうし)、慈愛の三点に在り」としている。とりわけ滑稽な句の軽妙さは、一茶の独り舞台とほめている。 〈春雨や喰(く)はれ残りの鴨が啼(な)く〉。子規が寄稿で引いた30を超す句のうち、最初の例句である。〈庵の雪下手な消えやうしたりけり〉。滑稽の方便として一茶が多用したとする擬人法の例句。〈有明や浅間の霧が膳を這(は)ふ〉。佳作の一つとして選んでいる。 「俳人一茶」はその人と作品を初めて体系的にまとめた出版物。一茶が広く知られるようになる端緒を開いた―。一茶研究者の矢羽勝幸さんが、その意義を書いている。子規直筆の一茶論の発見は、一茶生誕250年がきっかけだという。一般公開は11月末まで。(8月2日付)~~~~~~~~さすがは子規だ。「滑稽 風刺 慈愛」の三つで一茶を言いあてた。見事な文体であり、現代批評の元を見た思いがする。それにしてもよく残っていた。他で知ったのだが原稿用紙を掛軸にしてあったという。微笑ましくも、原稿が残った所以である。子規兄も自身の原稿が掛軸にされようとは思ってもみなかったことであろう。しかし、推敲や加筆の後が見られるのということは、もしかして他に清書の原稿があったのではないかしらん?そのへんを想像するのは楽しいことだ。さて獺祭書屋主人。カワウソを好んだ子規ではあるが、どうやら生涯カワウソを拝んだ事はないようだ。今では「絶滅危惧種」に認定された彼らではあるが、少なくとも明治の時代から、そうそう目にする動物ではなかったというのが本当のところらしい。試しに85歳の老父に聞いてみた。父の実家は農村で近くに川がある。水泳はそこで覚えたといい、あわせて野山を駆けまわる少年時代を過ぎしてきた。「かわうそなんて見たことはないなぁ。言われてみると、何となく想像上の動物のような気がする。」とのことだ。時代は逆になるが、子規の獺(カワウソ)は芥川龍之介の河童(カッパ)のようなものなのかもしれない。余計なことだが、絵心は芥川に軍配が上がる。ふん切(ぎっ)て出ればさもなき土用かな小林一茶土用の暑さを気にするあたりは何とも小心であり笑える。アレコレ思いつつもエイヤの勢いで出てみるとなんて事はなかった、そういうことらしい。ただ「さもなき」は用心(過大評価)の結果とも言える。猛暑が続き、日々熱中症の危険が伝えられている。一茶を見習い、暑さ対策には十分に注意をしたいものである。
2013.08.12
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【北國新聞 時鐘】連載小説「親鸞(しんらん)」の挿(さし)絵(え)を描く山口晃(やまぐちあきら)さんの筆が、また楽しくなってきた。物語の一場面を切り取る絵のほかに時々、思わぬ「遊び心」が登場する。 きのうの絵も愉快(ゆかい)だった。「ため息」とは、頭でっかちのナメクジや芋虫(いもむし)みたいな生き物で、突くと「はあ」と情けない声で鳴く。巨大な胴体の頭部から大きな目が生(は)えた珍獣(ちんじゅう)が「目頭(めがしら)」で、押さえるには相当の力と根性がいる。 「いかほどの銭(ぜに)」とは、イカの身(み)の丈(たけ)ほど積んだ金という絵解(えと)きには、うなってしまった。富山湾のホタルイカから深海(しんかい)の巨大なヤツまで、イカは大小限りない。金銭欲(きんせんよく)も同様だろう。われらの心の中には、山口さん描く化(ば)け物(もの)じみた生き物がうごめいているのだろう。 昨今は、つかみどころのない言葉が、やたら飛び交う。「けじめをつける」「反省とおわび」「歴史認識(れきしにんしき)」などの正体(しょうたい)を、現代の絵師(えし)と呼ばれる画伯(がはく)の筆なら、どんな化け物に仕立てるのか。 「ため息」の絵だけでも勉強になった。こんなヤツを口から吐(は)き出して暮らしたいとは、誰も思うまい。「ため息は命を削(けず)る鉋(かんな)かな」。じっと、こらえてみようではないか。(7月31日付)~~~~~~幸いにして、連載小説「親鸞」は私の定期購読している新聞にも掲載されており読むことができる。山口晃さんの絵に唸った翌日に「時鐘」が触れており、思わず声を出してしまった。いよぉ~ご同輩!日常的に落語に親しむ身としては、「命を削る鉋」は深酒の戒めであっのだが(笑)、ため息もそう心得て『じっと、こらえてみよう』と思う次第だ(^^)vちなみに落語では「百薬の長」の対比として「命を削る鉋」をつかう。マクラの定番であり、先代の小さん師はよく使っていた。「ホドホドがよろしいようで」と結ぶのだ。それにしても『つかみどころのない言葉』とはシャレたことをいうものだ。このへんの妙がコラム氏は実にうまいのだ。酸いも甘いも噛み分けた大人の筆である。だからコラム氏の行き着く先を、そんな「化け物」みたいな言葉に踊らされるのはいかにもヤボというものだ、と推察する。ま、とりあえずはコラム氏同様に「じっと、こらえてみよう」。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。夏目漱石「草枕」より
2013.08.08
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【北國新聞 時鐘】松井秀喜さんを「風(かぜ)の人」と呼びたい。高校生のころからきょうまで、たくさんの「風」を送ってくれた。 引退会見で最高の思い出にあげた長嶋(ながしま)さんとの素振(すぶ)り練習(れんしゅう)。その仕上(しあ)げは「風」だったという。師弟(してい)2人にしか分からないバットが空(くう)を切る音。野球はバットとボールのスポーツだが、バットの切る風の音がすべてだと知った。球史(きゅうし)に残る名言(めいげん)だ。 5連続敬遠(けいえん)。グラウンドにメガホンやジュースの空き缶(かん)が乱(みだ)れ飛んだ。騒然(そうぜん)となった球場の中を淡々(たんたん)と一塁へ向かい始めた瞬間(しゅんかん)、甲子園に静かな風が舞(ま)ったのを見た。もちろんニューヨークヤンキースの優勝を導(みちび)いたあの日の快打(かいだ)には野球の神さまの疾風(しっぷう)が吹いた。 「未完成」の人だったとも思う。五つも敬遠されながら勝利につながらなかった高校時代。MVPを得ながらもヤンキースからの移籍(いせき)。昨日のセレモニーは「引退式(いんたいしき)」ではなくて、完成へ向かっての「出発(しゅっぱつ)式」だったと思う。 男の人生80年。まだ前半戦を終えたばかりだ。希代(きだい)のヒーローは後半戦にどんな風を巻(ま)き起(お)こすのだろう。バットを置いて歩き出した青年の明日を祈(いの)る。(7月30日付)~~~~~~~~実に爽やかで印象深い引退セレモニーであった。テレビを見て熱いものがこみ上げた人も少なくないのではないか。松井さんは、所作を見ていても、インタビューを聞いていても、安心していられる。それが実にうれしい。礼儀を身につけているのだ。美輪明宏さんは「当たり前のことを当たり前にできる」と褒め、作家の伊集院静氏は著書で絶賛する。皆、松井さんを見ていると安心できるのだ。さて、残念ながら私は石川には縁もゆかりもない人間だが、北國新聞の「時鐘」は最も大好きなコラムである。読んでいて安心していられるのである。読者に対して礼儀を失することが無い。松井さん同様なのだ(^^)してみれば、時鐘も松井さんも石川であり、彼の土地柄が何か影響しているのであろうか。これが加賀百万石のもつ「歴史と伝統」かしら。それはさておき「風の人」とは何ともオツではないか。サスガである。少し加説をお許しいただければ、その風は藤原正彦さんの言う「日本の美風」に通じるものであるはずだ。松井さんにひと昔前の青年を見るのは私だけではないと思うのだが、それは松井さんのまわりに吹く美風を感じるからではないか、そう思ったのだ。いずれにしても、コラム氏のようにこれからどんな風が吹くのか楽しみだ。松井さんに関して、2012年6月9日の別府育郎氏(産経新聞 論説委員)のコラム(抜粋)をひく。私は「そういう男である」の一文にシビレた。次の風までのつなぎにどうぞ♪~~~~~~~~6年前の秋、全国でいじめに悩む子供の自殺が相次いだ。当時社会部で、「一人でも思いとどまってくれる紙面を作れないか」と話し合い、広岡に相談した。移動の車中で依頼を聞いた松井は「いじめている子と、いじめられている子、どちらに書けばいいのだろう」と悩み、260字のメッセージは2日後に届いた。《もう一度考えてほしい。あなたの周りには、あなたを心底愛している人がたくさんいることを。人間は一人ではない。一人では生きていけない。そういう人たちが悲しむようなことを絶対にしてはいけない》呼びかけは、翌日の産経新聞1面に掲載された。そういう男である。昨年の大震災にも、平静ではいられなかったろう。松井はこう話していた。「自分から勇気づけたいなんておこがましい気持ちはありません。ニュースで僕が打っているのを見て少しでも元気になってくれる人がいたらうれしい。少しでもいいプレー、少しでもいいニュースをお伝えしたい」~~~~~~~~ご参考まで。現在、産経新聞「話の肖像画」で別府育郎氏の『現代最高のホームラン打者・松井秀喜』が連載中である。松井さんを語るとき、「そういう男である」が最も適した言葉であることを確信した。
2013.08.05
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~祈りとは「生命の宣言」である~筑波大学名誉教授・村上和雄この2月、ニューヨークの国連本部総会議場で、ブーク・イェレミッチ国連総会議長らの主催によって、「宗教間の調和を通じた平和の文化のための結束」というユニークなイベントが行われた。この催しを通じて発信されたのは、あらゆる宗教には愛や慈悲などの普遍的な価値観があり、世界平和の構築に重要な役割を演じる-そんなメッセージである。≪病癒やす効果の解明始まる≫「世界平和の祈り」の運動を率いる西園寺昌美氏は、「宗教の違いを超えて魂をつなぐ祈りのハーモニー」と題して演説した。「人々の思いが闘争、差別、宗教対立に現れている限り、この世界に真の平和は訪れない。どの宗教にも平和の祈りがあり、それぞれ異なったメロディーを持ちつつも一つに合わされ、至高なハーモニーを織り成すことができる」祈るだけでは平和は訪れないといわれるが、違いを超えて一つになって祈る姿を世界に広げていくことで、真の世界平和に一歩ずつ近づけるのではないか。「祈り」は宗教が生まれる前から人類が続けている営みである。その祈りに病気を癒やし、心身の健康を保つ大きな力が秘められていることが最近、科学的に解明されつつある。従来の西洋医学を補うものとして、東洋医学などの伝統医学が治療に及ぼす影響に関する研究がハーバード大学、コロンビア大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)などの大学で活発化している。この新分野で世界をリードする米国国立補完代替医療センターの報告では、「祈り」は最も人気のある補完・代替医療である。興味深い実験結果がある。アメリカ西海岸の病院で、重い心臓病患者393人を対象に、快癒の祈りを行って、祈らなかったグループと比較したところ、祈られた患者たちは祈られなかった患者たちよりも、人工呼吸器、抗生物質、透析の使用率が少なかった。この病院に近い所からの祈りも、遠い東海岸からの祈りも同様に効果があったという。このほか、祈りが効果的に働いた病気としては、高血圧、心臓病、不眠症、不妊症、がん、エイズ、鬱病、リウマチなどが挙げられている。≪遺伝子のスイッチに関係か≫しかし、この種の研究は実験条件の設定が難しく、祈りに治療効果が本当にあるかどうかについては、医学界ではまだ賛否両論あるところだ。ただ、祈りの効果に関する科学的研究が多数登場していることは注目に値する。科学は、たとえすべてを明らかにすることはできなくても、その研究成果を人類のために役立てることができる。これまでも人類はそうしてきた。今まで宗教の側にあった祈りという行為が、科学の光を当てられることによって、全人類に有用なものとして再認識されだしたのではないか。日本語の「いのり」という言葉の語源は「生宣り(いのり)」だと解釈されている。「い」は生命力(霊威ある力)、「のり」は祝詞(のりと)や詔(みことのり)の「のり」と同じで、宣言を意味している。だから、「いのり」は生命の宣言なのである。人生にはいろいろな悩みや難問が待ち受けている。そのように苦しいとき、人は「自分はめげずに頑張って生きるぞ」と宣言する、それが祈り(生宣り)である。そうした「生命の宣言」をすると、祈る人の遺伝子も活性化して、いきいきと暮らしていけるようになると考えられる。実際、私は「祈りが遺伝子スイッチのオンとオフに関係する」という仮説を、2002年に提唱している。まごころを込めて深く祈ることが、祈る人、祈られる人の遺伝子のスイッチを入れ、その思いが天に通じたときに祈りはかなえられる、と私は思っている。≪思いもよらない力を秘める≫時あたかも、世界平和のための祈りと治療における祈りの効果を描いた映画、「祈り~サムシンググレートとの対話~」が、上映中である。この映画は世界各地の映画祭で賞を取り、国際的な評価を得ている。祈りを含めた意識が人間に与える影響を科学的に解明しようというもので、科学者、医学者、ジャーナリストらが登場して、祈りの力を新しい視点からとらえようとしている。「見る者の魂の奥から感動を湧き上がらせる力がある」とは、ある医科大学教授の同映画評である。祈りは、自らの願望や懇願のためだけにあるのではない。感謝や愛、思いやり、従順、誠意、畏敬のためにも、人は祈ることができる。祈ることの効果の一つは、祈る人の心に新しい良いものを芽生えさせてそれを培うことにある。例えば、希望の祈りとは、その希望の芽を祈りとともにだんだん大きく育てることである。個人の祈りや願いが天に通じるとき、心が落ち着き、心の中に中心軸ができて、ブレない生き方ができるようになる。このことを人間は太古から直感していたのだろう。人は無力だから祈るのではなく、祈りに思いもよらない力があるから祈るのだと思う。(7月25日)~~~~~~~~~~~~~~~産経新聞『正論』に掲載された村上教授の論文である。感動に浸りながら一字一句を追った。今はひたすら、心から祈りたいと思う、合掌。山川草木悉皆成仏という言葉が示すとおり、我々の先祖は森羅万象に仏を認め、何事にも手をあわせる習慣を持った。まさに日本の美風であると思う。現実社会においては、ともすると「祈る」と言っただけで引かれてしまう事もあるのだが、村上教授も論文の最終で書かれたとおり、祈りは「思いもよらない力を秘める」のである。私はそれを、非科学の合理的な論理、だと思う。目に見えるものだけでなく、想像力を働かせて、目に見えるものを支えている目に見えない存在を見て欲しい。小説で言うところの行間、空間の異次元といったところか。そこには非科学的ではあるが、緻密なる合理性にとんだ論理が、必ず見えてくるはずだ。それこそが「祈り」の正体なのだと私は思う。余談である。はっきり記憶していないのだが、哲学者の山折さんと学者の某氏の対談で、医学や科学の進歩を考えその将来がどうなるかを論じていた。某氏も進歩の不毛を認め、ではどうするかの話になった時、某氏はいみじくも言った。『医学や科学の進歩が不毛だとわかってもとめられない、それは研究者が「やりたい」という本能を持っているからだ。哲学と宗教だけがそれを抑止できると思う。』哲学と宗教を象徴して「祈り」と考えてさしつかえないであろう。経済至上主義は時代の流れだ。ゆえにそこに立脚する医学や科学の進歩も必然的だ。だが、それと我らが先祖の築いた美風を放棄する事は別の話である。我々は、現代の流れに棹さすことなく、粛々と祈り続けなければならないのだ。さもなければ、不毛の先にまっているものは闇のみである。山川草木悉皆成仏、森羅万象に合掌。村上教授に感謝。『正論』に大感謝。
2013.08.01
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【愛媛新聞 地軸】~引き際のありよう~「始める」よりも難しいのが「終わる」こと。「終わり」を意識すべきではないか―。「引き際の美学」(朝日新書)の著者川北義則さんは、今の世の中をこう捉え、執筆のテーマにしたという。 冒頭、見事な引き際をみせた人物としてアメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーを紹介している。貧しい移民の子から苦労の末、大実業家に。65歳で引退、15兆円もの資産すべてを慈善事業などで社会に還元した。かくありたいと。 それにしても、このところ胸のすく「引き際」にとんと、お目にかかれない。不祥事続きの全日本柔道連盟(全柔連)の上村春樹会長が、国からついに辞任の最後通告を突きつけられた。期限は8月末。が、会長は10月まで続投の意向だ。 従わなければ改善命令、それもだめなら公益法人の認定取り消しへと手続きが進む。全柔連にとって深刻な事態が想定される。それでも保身にこだわる姿勢はいかにも分かりづらい。 政界も同様。参院選で惨敗、解党的出直しが必要な民主党。海江田万里代表は続投する。自らの責任は棚上げして。一方で「反党行為」をした菅直人元代表の切り捨てを提案した。元代表も自らけじめをつける気はなし。結局、混乱回避の緩い処分でケリに。 人のため、社会のために、わが身を引く。こんな潔さを、各界のトップリーダーに求めるのは欲張りすぎか。だというなら、ほんに悲しくも寂しい時代であることよ。(7月27日付)~~~~~~~~読後一番、上村さんや海江田さんや菅さんが少しかわいそうに感じた。かのカーネギー氏を引き合いに出されてはたまったもんじゃないなぁ。とはいえ、それも因果応報か・・・そしてまた、地軸にはコラムの気概を感じるのだが、果たして「社会のために、わが身を引く」或いは「こんな潔さ」は立派過ぎて、正直なところいささか鼻白む。現実的でない、そう思わざるを得ないのだ。それをしてコラム氏も「欲張りすぎか」と言っているのであろうが。「ほんに悲しくも寂しい時代であることよ。」誠に同感で、この責任を放棄した世を憂うのみである。そういえば、夏の高齢、もとい恒例となった経済団体主催の軽井沢セミナーの様子をテレビで見た。名だたる上場企業のトップが集まったわけなのだが、テロップがなければ老人ホームの慰労会ではないか。ご一同でそのまま巣鴨に移動されても、実に違和感無く画になる光景であった。経営者の高齢を批判しているわけではない。決して年齢は醜くは無い、だがどうして「身を引く」ことをしないのか、どうして「潔さ」がないのか。その態度が醜く感じた。上のお三方もしかりである。私はほとほと疑問に思った。そんな折に産経抄で「不可欠意識」見て合点がいった。~~~~~~~~【産経新聞 産経抄】長年の研究開発の苦労が実り、新製品が大ヒット、わが世の春を謳歌(おうか)する企業があった。ところが、その製品に重大な欠陥が見つかってしまう。消費者にそっぽを向かれ、業績は悪化するばかりだ。 その企業には、もうひとつの悩みがある。3人のかつての経営者の存在だ。直属の部下を連れて飛び出したAさんは、別の会社を立ち上げた。といってもかつての「剛腕」のイメージは失われ、経営は苦しそうだ。社長時代から常識はずれの言動が多かったBさんは、今もマスコミの格好の標的となって、会社の信用低下に一役買っている。今も会社に籍を置くCさんは、現経営陣の方針に逆らって、やりたい放題だ。 民主党をモデルに、こんな筋書きの経済小説が書けるかもしれない。A、B、Cが、小沢一郎、鳩山由紀夫、菅直人の3氏であることはいうまでもない。とりわけ参院選で喫した大敗について、菅元首相の責任は重いといえるのではないか。 東京選挙区で党から公認をはずされた現職候補は、元首相と同じく「脱原発」を主張してきた。だからといって公然と支援するのは、まさしく「反党行為」だ。公認候補と共倒れという、悪夢のような結果を招いてしまった。 「不可欠意識」という言葉を、加藤秀俊さんの『隠居学』(講談社)から教わった。自分が組織にとって「不可欠」である、と思う気持ちは誰にもある。ただ社長や会長というエラい人たちに、その意識が強すぎると始末に負えない、と加藤さんはいう。 まして、首相や大政党の党首を務めた人たちの妄想は、「おれがいなきゃ、日本はダメになる」などとどこまでも大きくなる。そろそろ「可欠のひと」として、「隠居学」の勉強を始めてはいかがか。(7月23日付)~~~~~~~~なるどほ皆さんは『自分が組織にとって「不可欠」である。』問答無用にそう信じているのであろう。その意識たるや鉄の如し、だから「始末に負えない」というわけだ。私は歴史を学んで確信したことがある。それは史実のキーマンも、彼らがいなかったら、遅かれ早かれ代わりの誰かが必ず現れたはず、ということだ。遠くは清盛も信長も、近くは西郷も龍馬も、彼らがいなくても今の世は変わっていない。何故なら代わりの誰かが絶対に、確実に、必ず出てくるのだ!時代は、森羅万象が複雑に絡み合いながら決まった方向に動いている。説明は付かない、だがそれは真理だ。それを感じると「その人しかいない」そして「それしかない」ということは何一つ無いと思う。藤原正彦さんが「日本人の美風」という言葉をよく使われる。地軸の「社会のため」や「わが身を引く」や「潔さ」は、まさに日本人の美風としてきたところであろう。試しに口に出して「いさぎよさ」とゆっくり言ってもらいたい。さすれば我が民族が世界に誇るべき美風をしみじみと実感されることであろう。そして「不可欠意識」がいかに未練がましくも醜態だということもお感じいただけることであろう。話題の皆さんには我らが先祖の築いた美風を感じ、日本人ならその御魂に報いるためにも、我が身の処し方を再考していただきたい、そう願う次第である。
2013.07.31
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【毎日新聞 余禄】古代中国の諸子百家のうちの法家の書「韓非子」には、3匹のノミが宿主の豚の一番おいしい場所を取り合って争う話がある。すると通りかかった1匹のノミが「何だ、君らはこの豚が祭りで丸焼きにされるのを知らないのか」という。 驚いた3匹は、通りがかりのノミも仲間に加え、みんなで仲良くせっせと豚の血を吸った。するとどうだろう、豚はやせ細り、祭りで焼かれるのも免れた。――韓非は目先の利益を争い合う人間性へのリアリズムゆえに、法律や約束の重要性を説いた思想家であった。 さて、政権担当中からともかく党内のいざこざばかり記憶に残る民主党だった。結果、一同もろとも祭りで焼かれて政権を追われたが、反省の色の乏しいのがいぶかしい。元代表自らが分裂選挙の旗振りをするような政党が再び火中に投げ込まれたのは当然であろう。 民主党は参院選で無所属候補を応援した菅直人元首相の処分について常任幹事会で論議したが、結論を持ち越したという。その菅氏とて首相在任中は党内の造反に悩まされた口である。決めたことを守らない党の病弊を元首相自らが改めて示したのだから世話はない。 およそ民主的多数決が機能するにはその集団を存続させるという成員の一致した意思と、私欲でなく公益にもとづく議論が不可欠である。党内の造反や分裂を日常茶飯事とした民主党がそれらを欠き、政治の責任の底を抜いてしまった経緯は思い出すのもうんざりだ。 海江田万里代表の続投も責任の底抜けの最新版だが、代わる候補がいないからと聞けば哀れもさそう。もしかして成員全員がもう党の存続をあきらめたのか。(7月25日付)~~~~~~~~まずもって、民主主義における選挙の定義を作家の曽野綾子氏はコラム「選挙が終わって」でこう説く。『51%の人々の意見に従って、49%の人たちが次回の選挙まで冷静に堪えること』改めて文章に表されると理不尽な気もするが、これが我々が選んだ民主主義の絶対定義であり本音なのだ。普段はひな壇で輝く「民主主義」も、ときに生々しい実態を露呈する。曽野さんは続けて、『その間に今度こそ自分の信じている社会の方向を他人に知らしめるための合法的な活動をすればいいのである。』という。付け加えさせていただければ、「道徳的な」もある。民主主義には「合法的で道徳的な」活動が認められるのだ。さて民主党。海江田代表は民主党の代表選挙で選ばれた方である。その方が「菅氏を除名にする」と処分を決めたのだが、それに異をとなえ従えないという議員がいるわけだ。結果として、民主主義における選挙の定義に反し「党員資格停止」に片が付いた。これでは名前は民主でもやっていることは民主ではない。党が瓦解寸前と見られるのも当然だ。コラム氏の心情を詠んでみた。「うんざり」し「哀れもさそう」民主党。ただコチラを読んだらノンキなことも言ってはいられない、龍馬気取りはもってのほかだ!~~~~~~~~【日本経済新聞 春秋】落語の傑作の印象が強いせいか、起請文(誓約書)と聞くとただの紙っ切れと思ってしまう。同じ花魁(おいらん)から「年季が明けたら夫婦になる」という起請文をそれぞれもらって脂下(やにさ)がった男3人、一杯食ったと知って意趣返しに吉原に乗り込むが……。「三枚起請」である。 真の起請文に漂う緊張感はさすがに違う。土佐の西洋砲術家に入門した坂本龍馬らが血判つきで名を連ね、流派の技術を外に漏らさぬことを誓った長さ13メートルの巻物が見つかった。龍馬のものとわかる血判はほかにないという。その龍馬が「日本を今一度せんたくいたし申候」と姉宛ての手紙に書いたのも知られるところだ。 こちらはもう知られぬところだが、3年前の参院選前のテレビCMにシーツのような白布をゴシゴシ手洗いする男が登場した。白布を日本に見立て、自らは龍馬を気取ったか。当時の民主党代表・菅直人氏である。今回の選挙では公認を差し置き無所属候補を応援した。で離党の覚悟があるかと思えばそうではないらしい。 居直る菅さんだけでなく、菅さんに引導を渡せぬ民主党にもわが身の汚れさえ落とす力がないようである。まあ血判状などなかろうから、党の行く末は心配するだけやぼかもしれぬ。しかし、激減したとはいえ参院選でこの党に入れた人々が気になる。一杯食ったと知って意趣返しをしようにも、泣き寝入りするしかない。(7月26日付)~~~~~~~~幸か不幸か該当のCMはまったく記憶にないのだが、想像するだけで身の毛もよだつ。信じがたくそして許しがたい!龍馬好きとしては誠におぞましい限りだ!!まあ、それはそれとして(笑)落語の「三枚起請」は五代目古今亭志ん生師匠の十八番のひとつ。もちろんCDで聞くことが可能だ。1960年代の録音であるがリマスター版のおかげで難なく聞くことが出来る。「三枚起請」に興味がある方や、他の噺家で聞いた方は是非、五代目古今亭志ん生師匠で聞かれることをオススメする(^^)vそれにしても「余禄」は韓非子を引いてくるあたりはオツじゃないか、そう感心していると産経の『極言御免』でも韓非子を引いていた。ただコチラはうんざりや哀れを通り越し怒り心頭の様子。激烈だが阿比留氏の胸中は察するに余りある。ここは氏に敬意を表し、少し長いけれど全文を掲載する。~~~~~~~~【阿比留瑠比の極言御免】「亡国の君主」-韓非子の予言、菅元首相にピタリ民主党執行部から議員辞職と離党を勧告された菅直人元首相の24日の党常任幹事会での様子を取材した。目をいからせ、口をとがらせた不服そうな表情からは、「反省」している様子は読み取れなかった。所属政党に迷惑をかけようと支持者を混乱させようと、思いのままにわが道をゆく。執行部の立場も、巻き添えを食った候補者らの気持ちも一切考慮しないという驚くべき潔さだ。「私は理屈は立つけれど、どうも情が足りないとみられている」振り返れば菅氏は首相当時の街頭演説で、こう自己分析していた。本当に理屈が立つのかは怪しいが、中国・戦国時代の法家思想の大成者である韓非子が「天下を治むるは、必ず人情に因る」と指摘した政治の要諦とはほど遠い指導者だったのは間違いない。そして韓非子が説く「亡国の君主」の類型は、約2200年も前に書かれたにもかかわらず、まるで予言のように現代の菅氏にぴたりと重なるのである。《君主がねじけてかたくなで人と和合せず、諫(かん)言(げん)に逆らって人に勝つことを好み、国家のことを考えないで、軽率な行動で自信たっぷりという場合は、その国は滅びるであろう》参院選で菅氏は、東京選挙区候補を一本化した執行部の「苦渋の選択」(海江田万里代表)に造反した。細野豪志幹事長に「しばらく黙って」と制止されても公認を外れた無所属候補を支援し、共倒れを招いた。党改革創生本部が2月の総括で、昨年の衆院選での大敗の一因を「重要な局面での幹部のバラバラな行動や発言」と例示したにもかかわらずである。「私は民主党の原発ゼロに本気で取り組んでいる候補だけを応援する」おまけに菅氏は7月3日付のブログではこう自信たっぷりに宣言していた。《君主がせっかちで気が短く、軽率で事を起こしやすく、すぐに激怒して前後の見さかいもなくなるという場合は、その国は滅びるであろう》東電福島第1原発の吉田昌郎元所長が9日に死去すると、菅氏は自身の原発事故対応を批判した安倍晋三首相への攻撃を強めた。書き募るうちにだんだんと熱くなったらしく、16日には、安倍氏が2年以上前のメールマガジンに書いた記事は名誉毀(き)損(そん)だとして、突如として訴訟を起こす。元首相が現職首相を、しかも選挙期間中に訴えること自体、極めて異例だ。これに首相側が「いちいち相手をしていられない」(周辺)と完全無視を決め込んだところ、菅氏は17日付のブログで独り勝ち誇った。「安倍総理はまともに答えられないので黙っているのだと思う」あまつさえ19日には、比例代表で自民党候補に投票しないよう呼び掛ける「落選運動」を始め、「元首相ともあろう人が…」と有権者の顰(ひん)蹙(しゅく)を買った。菅氏が期待したような効果があったとは思えない。《過失をおかしながら忠臣のことばを聴きいれず、一人で自分の思ったとおりにしていると、名声を失って人の笑いものになっていく始まりである》その通り、今や菅氏の名声はしぼむ一方だ。これ以上「元首相」の肩書を軽くしないためにも、勧告に従いバッジを外して市井の市民運動家に戻ってもらいたい。(7月25日付)~~~~~~~~どうであろう。密かに拍手喝采する諸氏も多いのではないだろうか。まあ、それはさておきこちらの韓非子も記事の説得力を増すに十分の威力なのだ。韓非子、おそるべし。実に孫子の兵法もそうなのだが、歴史のあるものにはかなわない。(落語なら、時代がついた、というところか。)ちなみに、かの三国志において諸葛亮は幼い皇帝に韓非子を教授しており、曹操は孫子の兵法を座右本とし、戦で実際に用いているのだ。だとすると、漢文をたしなむという海江田さんは、韓非子や孫子の兵法から何か学ばなかったのであろうか・・。不思議である。超一流の書物が脇にあるにもかかわらず、二流の参謀を使っているのだろうか。そういえばどこぞの先生が、海江田さんの漢詩を分析して不出来を解いていたことを思い出した。私は党や代表の支持者ではないから「一杯食った」わけではないが、それにしても毎度お騒がせの実態に辟易した次第である。
2013.07.29
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【東奥日報 天地人】きょうは土用の入りだ。暦の上ではこれから一段と暑くなる。この時期、世話になった人に暑中見舞いを出す人も多いだろう。手で書く文(ふみ)はやはり心に響く。大事にしたい。 文豪・夏目漱石が、留守中に菓子を持ってきた門下生の物理学者・寺田寅彦に書いた手紙が面白い。「…今日は土曜の入(いり)だといふ事を聞きあの菓子は暑中見舞なんだらうと想像しましたがさうなんですか夫(それ)とも不図(ふと)した出来心から拙宅へ来て寝転んで食ふ積(つもり)で買って来たんですかさうすると大いにあてが外れた訳で恐縮の度を一層強くする事になります兎に角菓子は食ひましたよ…」。 寅彦をよほど気に入っていたらしい。「ありがとう」のひと言で終わらない。ユーモアにあふれた楽しい手紙だ。「土用」の字の間違いも愛きょうだ。これでは寅彦も漱石をますます好きになったことだろう。 漱石の本名は金之助。寅彦宛ての手紙には末尾の差出人と宛名を「金公(きんこう)」「寅さん」とおどけているのもある。寅彦に悩みごとの多かった時期だったので心を引き立てようとしたらしい。漱石にはそんな心温まる手紙が多い。 暑中見舞いはお盆の贈答の習慣が簡略化されたものだから、主眼は感謝を伝えることにある。気遣いとユーモアの漱石流を参考にしてはどうだろう。一味違って相手の胸に響くはずだ。(7月19日付)~~~~~~~~まずは上質なコラムに感謝。漱石好きということもあるが、新聞のコラムで漱石の名を見ると心が躍る。ただ、漱石の諧謔を毒気を含んだ批判としてすりかえられている時はがっかりだ。この日は終日気分よく過ごせた(^^)明治という時代、日本は近代化の波で混沌として複雑であり、そのいろいろな局面で紹介される漱石もまた複雑(というより多面的か)に見える。何より「明治は遠くなりにけり」と詠んで久しいほどに、漱石はすでに過去の人でもある。だが私は、漱石という人の本質は、まさにコラム「天地人」から感じる通りの人であり、そしてシンプルは人であったと思うのだ。銭湯に客のいさかふ暑かな明治の今頃に詠んだ漱石の句である。多分に子規の影響、というか子規への競争意識、を感じて微笑ましい。残された画像はどれも強面の漱石なのだが、ユーモアと人情味あふれる手紙や、こういう句をもって漱石を想像すると、強面の目じりが下がり口元が緩んで感じるのだ。今年も大手出版社は夏の文庫商戦真っ盛りだ。時代が反映され各社が掲げる文庫は年々に変化はあれど、各社共通して漱石の「こころ」は不変である。目じりが下がり口元が緩んだ漱石を想像しながら「こころ」を読み返してみるのも一興だ。とはいえ、漱石初心者に「こころ」はオススメしない。まずは「三四郎」「門」「それから」の前記三部作をオススメしたいと思う。お約束じてみてはいるが、平易でユーモア溢れる作品を通して、まずは漱石という人を知ってもらいたいという老婆心だ(笑)夏はこれからが本番、今年の盛夏はきっと銭湯で客もいさかうような暑さになることであろう。漱石一流の諧謔にふれ、いっ時暑さをお忘れになってはいかが。
2013.07.26
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【毎日新聞 余禄】誰も座っていない椅子(いす)を置き、あたかもそこに誰かが座っているかのように話しかける。昨夏の米共和党大会で監督兼俳優のクリント・イーストウッドさんが民主党のオバマ大統領を批判した一人芝居だ。 ハリウッドで政治的立場を明確にしているのは彼だけではない。日本でも人気の俳優ジョージ・クルーニーさんは民主党支持者で、知名度を利用して億単位の資金集めパーティーを開催している。 では、参院選も大詰めを迎えた日本はどうか。ある女性芸人は数年前、世話になっている議員から選挙での応援演説を頼まれたが、師匠(ししょう)の許しが得られなかった。誰からも愛される存在でなければならない芸人にとって「肩入れはマイナス」との判断だった。 政治的、社会的なテーマについて発言することは芸能界ではタブーとされてきた。だが、「3・11」以降、変わりつつある。原発の是非(ぜひ)について自らの考えを表明している俳優やミュージシャンが少なからずいる。 憲法を持ち出すまでもなく、誰であっても思想・信条のいかんによって不利益を被(こうむ)ることがあってはならない。それを踏まえれば、今回の参院選であるグループのメンバーが特定候補を応援している写真がインターネット上に掲載されたことを理由にNHKが出演番組の放送を延期したのは合点がいかない。 「選挙期間中に報道機関として政治的公平性に疑念(ぎねん)を持たれないように配慮した」と説明しているが、番組は支持や投票を呼びかける内容ではない。ネットを使った選挙運動の解禁を契機に芸能人にもハリウッド・セレブ同様、選挙運動の自由があることを思い出してほしい。(7月13日付)~~~~~~~~『考えちがいしちゃァ駄目ですね。』日本を代表する芸人の五代目古今亭志ん生師は口述筆記の著書で芸論を説いている。上記はハナの一文、そして芸人の心得たるはこうだ。『お客は金を出してくれるんだから、一にも二にもお客を満足させることを頭においてやる。』単純にして明解、そして根本原理である。今、多くのサービス業が経営の第一に掲げる「顧客満足」を志ん生師は半世紀も前に喝破しているのだ。ではなぜ客が金を出すのか、客が寄席に通う道理をこう説く。『お客は昼間いろいろなことで、おもしろくないことや、心配ごとなんかがあって、寄席でもいってそのうさを晴らそうてえんでくる』うさを晴らすとは、一時、頭をカラッポにしてそこの世界に首まで浸かり何もかも忘れて楽しみたい、そういうことであろう。そして志ん生師の眼目はここである。『その人たちの頭をほぐして、喜ばせてやるのが、あたしたちの大切な責任なんですよ。』芸人の責任はここにこそあると志ん生師は断言するのだ。誠に志ん生師の真髄を見る思いである。五代目古今亭志ん生は骨の髄まで芸人なのである。コラムの女性芸人はどなたかわからぬが、その師匠たるは芸の見識を持ち合わせた方だと推察しホッとした。許しがえられないのは当然だと思う。そして芸人の何たるかその責任が何たるかを師匠から教えられ、その道に精進していれば女性芸人もきっと本物になれるであろう。『考えちがいしちゃァ駄目ですね。』コラムさん、謙虚さが少し足りないのではありませんか?かの国がどうかは問題ではない。まずは主張する前に己の分をわきまえ責任を果たしてもらいたいものである。我々は日本人なのだから。
2013.07.22
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【下野新聞 雷鳴抄】~早い夏~暑い。梅雨入りも早かったが、梅雨明けの早さには驚いた。すでに毎日が真夏日だ。 寝苦しい。布団から転がり出て、冷たい畳の上に寝る。明け方近く涼しくなって布団に戻ると、今度は外の明るさがカーテンと障子を突き抜けて部屋を照らし睡眠を妨げる。 睡眠への再挑戦を期してトイレに立てば、小窓の外はもうすっかり朝である。正岡子規の〈夏の夜に厠(かわや)に行けば明けにけり〉の歌そのままだ。毎朝、寝不足で頭が重い。梅雨が短かった分、夏は長くなるのだろう。昔は一番好きな季節だったが、最近は苦痛に感じることが多い。 そもそも10年くらい前まで37、38度などという最高気温は体験していなかった。暑さも程度問題だ。そこへきて節電のため冷房は控えめときている。それでも一歩外へ出ればどこからか遊説の声が聞こえる。参院選は佳境に入った。著名な政治家が応援に来ればたちまち人が群がる。 本県では1議席をめぐり5人が立候補している。確率5分の1のサバイバル戦だ。先日、狭い島で5人が闘い、最後の生存者1人だけが自由になれるという米映画をテレビで見たが、候補者たちもそのファイターたちと同じ思いだろう。 炎暑には気をつけたい。戦いを制した後、有権者との約束事が頭から蒸発してしまっては意味がない。(7月10日付)~~~~~~~~本当に暑い夏である。引用している子規の句がなかなかオツで楽しいコラムだ。何より『昔は一番好きな季節だったが、最近は苦痛に感じることが多い。』に共感した。年年歳歳、真実そう感じる次第である。まあ言ってみれば平均気温が上昇し、それに反比例して体力が低下しており、何のことはない「歳を感じる」ということなのである。そんな我が身やコラム氏をよそに、高校球児は元気な限りだ。そういえば歳を感じるようになった頃から、漲る若さに軽い嫉妬を覚えるようになった。うらやましい。夏のスタンドは難行苦行であるが、球児の応援はそこに行かなければ拝めないのだ。必死で頑張る姿はグランドの球児と一緒だ。そして見事に揃ったパフォーマンスからは、その練習量は容易に推察できる。だからこちらも彼らを眺めている間だけは暑さにだらける中年ではいられない。グランドの球児にもスタンドの球児にもあらん限りの声援を送るのだ。これぞ『ことごとく団扇破れし熱さ哉』正岡子規なのだ。こういう夏もまた一興(^o^)さて、昨今の気温上昇とはいえ昔も同じように暑かったようで。かたな一茶『手に足におきどころなき暑哉』実感がこもっているではないか。こなた芭蕉『暑き日を海に入れたり最上川』さすがに直截的ではないが暑さが伝わる。格調高い一句である。翻って現代。千代女さんの表現にも実感がこもる。『我が我を置忘れたるあつさかな』せっかくの機会なので、これからは挨拶の枕詞に使ってみよう。「いやぁ~、誠に手に足におきどころない暑さですねぇ」「まことにまことに。我を置き忘れるような暑さとはこのことですなぁ」こんな按配だ。いかが?(芭蕉はおそれおおい)ところで雷鳴抄は後半の選挙がらみがいただけないなぁ~。
2013.07.17
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【北國新聞 時鐘】日銀が景気判断(けいきはんだん)に「回復(かいふく)」の言葉をつかったのは2011年1月以来のこと。あの大震災(だいしんさい)以降(いこう)初めてだと聞いたら元気が出た。 この回復宣言を受けて「3連休中の新聞に注目(ちゅうもく)してほしい」と話す経済評論家(けいざいひょうろんか)がいた。記事ではなくて「折(お)り込(こ)みチラシ」のことだった。連休でぐんと増(ふ)えるはずだという。内閣府に景気ウオッチャー制度がある。チラシの増減(ぞうげん)を目安にする研究者もいるようだ。 記事を書く側としては肩(かた)すかしをくった気分だが、チラシは街角の景気判断の一つであり「景気は気から」を裏付(うらづ)ける大切な材料だというわけ。選挙前の景気回復宣言を冷(ひ)ややかに見る専門家も少なくなかったが、その判断のもとになった各種データを素直(すなお)に読み解けばいいのではないか。 「笑(わら)い講(こう)」と呼ぶ祭りがある。豊作への感謝と祈(いの)りと1年の苦労(くろう)を忘れるため大声で笑い合う。笑っているとその気になる。笑う門(かど)には福(ふく)来(き)たるの精神である。景気は気から。元気も気から。「病(やまい)」は気にした時から「病気(びょうき)」になるという。 経済は、そんな単純(たんじゅん)なものではないと重々(じゅうじゅう)知りながらも言いたい。気は心であり精神である。(7月13日付)~~~~~~~~時鐘は、当たり前のことを当たり前に粛々と胸を張って堂々と主張する、そういうコラムである。「まずは否定!」を論説とするコラムが横行する昨今では、誠に異彩を放っている。どこぞの政党よろしく「何でも反対」をとなえるばかりのコラムとは格が違うのだ。朝一番がこういう上質なコラムから始まる地方の方々は本当に幸せであると思う。歴史の持つ底力、それは加賀百万石の文化に他ならないのだが、をおおいに感じるのだ。『散歩に行こうと着替えて玄関を出たところで雨があたってきたので中止にした。』日課の散歩がお預けとなった父はもてあまし気味にそう言った。『お父さん、それはついていましたね。橋を渡ったあたりで降られたらびしょ濡れだ。ついているとはこういうことですね、よかったよかった。』父と話すときは会話を否定的にしないように心掛けている。ともすると論旨をすりかえることもあるが、暗い会話から逃れられれば二人ともそれが幸いなのだ。父は私に笑顔を向けてこう言った。『そうだね、ついていたな。雨にやられなくてよかったよ。今日の雨で隣町の向日葵も一段と拍車がかかったことだろう。明日は青空に映える向日葵が楽しみだな。』『元気も気から』すべては『気』からなのである。たったそれだけの事、そして当たり前の事なのである。とはいえそれがストンと落ちないのも事実だ。枝雀師は落語のマクラでこう言った。『客観的に面白いものなんてないんですよ。面白いと思うか思わないかなんですよぉ』その説明が枝雀師の面目躍如なのだが、つまり悲しいことがなくてもシクシクと泣きまねを五分もしていると本当に悲しくなって泣き出してまう、そういうのだ。いわんや笑いまねをや、そういうことなのである。枝雀師、学者である。そして私はこのマクラでストンと落ちたわけだ。サゲでなくマクラで落ちるあたりが枝雀落語の凄さでしょ(笑)『気は心であり精神である。』まさにそういうことだ。森羅万象、永遠不滅の絶対真理だと思う。憂い毒づいても人も社会も何ら変わらない。だが『気』ひとつで自分は変わり、だから人も社会も変わる。どうせ生きるのなら楽しく価値ある生き方をしたいものだと思う次第である。時鐘に感謝。
2013.07.15
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【東奥日報 天地人】中江藤樹(とうじゅ)は江戸時代初期の陽明学者だ。若い頃、生地の近江(滋賀県)から伊予大洲(いよおおず)藩(愛媛県大洲市)に仕官し、学問に励んでいた。父が死ぬと、一人暮らしの母が気掛かりでならない。雪の日、たまらず近江へ向かった。 だが、母は家の戸を開けようとしない。「学問をしに行ったのに、それを忘れて帰ってくるなんて…。さあ戻りなさい」。藤樹は母の心が分かり、そのまま戻った。一心不乱に勉強し、後に「近江聖人」と呼ばれる高名な学者になる(後藤寿一著「日本史泣かせるいい話」)。 心を鬼にしてわが子を追い返す。藤樹の母はそれほど学問を重く見た。その伝統は今も変わらない。本県の勤労者世帯の教育費は収入の43%余も占める。そんな負担に耐える国民性が経済大国日本の土台を支えてきた。 なのに、国の教育支出は、経済協力開発機構(OECD)の2010年調査によると、国内総生産(GDP)の3・6%でしかない。30カ国中、4年連続で最下位とか。日本は教育を軽視しているとしか思えない。 きのう参院選が公示された。経済、福祉などとともに、教育にも無関心ではいられない。資源小国の日本にとって若者は掛け替えのない人的資源だ。明日の日本を築く人材に育ってもらわなければならない。各党の教育政策、じっくり聞かせてもらおう。(7月5日付)~~~~~~~~【北國新聞 時鐘】報道された写真を見ると、塔(とう)のあった跡(あと)に柱が1本立っている。解体修理中(かいたいしゅうりちゅう)の薬師寺東塔(やくしじとうとう)の心柱(しんばしら)を取(と)り外(はず)す貴重(きちょう)な光景だった。 日本では亡くなった人の命を「柱」と呼ぶ。柱には神が宿(やど)るとされ命の代名詞(だいめいし)になった。塔はその象徴(しょうちょう)だ。高い塔を支(ささ)えるために柱を立てるのではない。柱を守るために壁(かべ)や屋根(やね)が必要なのだ。だから心柱と呼ぶ。柱が命の塔の本質がわかる写真だった。 中国などの石造(いしづく)りの五重塔は内部が空洞(くうどう)になっている。日本の塔とは似(に)て非(ひ)なるものとされる。薬師寺東塔の心柱は2本の大木(たいぼく)をつないである。上部は取り換えられたものだが、下部は1300年前のまま。樹齢(じゅれい)は1500年と推測(すいそく)される。 樹齢千年の木で建てた塔は千年の風雪(ふうせつ)に耐える。千年の木を育てる森林ができるには「千年かかる」という。薬師寺復興(ふっこう)に関わった宮大工(みやだいく)、西岡常一(にしおかつねかず)さんの言葉である。 立派(りっぱ)な塔には立派な木材が、いい木材を育てるにはいい森林が必要だ。民主主義に似ている。政治家も有権者(ゆうけんしゃ)も一日では育たない。遠い先を視野(しや)に足元を固(かた)めていくのが選挙だ。心に柱を。党の政策に命を。(7月10日付)~~~~~~~~見識あるコラムである。未来を見据えた実に骨のある主張である。参議院選挙を前に、各新聞がそれぞれの論調で主張(というか批判・汗、というか文句・嘆)をしており辟易していたが、目が覚める思いがした。今我々が、千年先の日本人を育てる覚悟を持って、一票を投じたいと思うのである。
2013.07.11
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【東奥日報 天地人】シリアのパルミラ遺跡に1900年前に造られた墓の棺(ひつぎ)の彫像は被葬者の遺影だったという。出土した頭蓋骨を復顔したら、特徴がよく似ていたとか。肉親の在りし日の姿をいつまでもしのびたい。古今東西、その気持ちは同じらしい。 作家の森茉莉(まり)は葉巻切りを見ると、亡き父・鴎外(おうがい)を思い出した。ドイツ留学時代、鴎外は列車の中で「女房に何かしただろう」と、席に戻った男から因縁をつけられた。その時、潔白の証しに長く灰が積もった葉巻を見せて微笑(わら)ったという。灰を落とさずに戯れはできない。茉莉が「遺品逸品」で紹介している逸話だ。 「父の微笑は素晴らしかった」と、茉莉は言う。「複雑で意味ありげで、恋人に何か楽しいことをそっと知らせる時の微笑のよう」「母はその微笑に見とれて生きた」。勘違い男への微笑もそうだったのだろう。葉巻切りにまつわる思い出に茉莉の心は浮き立つ。 思い出は人の心を豊かにし、時には生きる力にもなる。苦しい時、天国の父母に「お父さん、お母さん、私は大丈夫だよ」と言うだけで元気が湧いてくる。 パルミラの棺の遺族も墓参の度に思い出に浸ったことだろう。商家だったらしいから、危険な旅も多かったはずだ。「家族を見守って」とも祈ったに違いない。肉親は遺影になっても、家族の心を支えてくれる。(6月28日付)~~~~~~~~シリアの話は置いておくとして、森茉莉の文章にシビレた。『複雑で意味ありげで、恋人に何か楽しいことをそっと知らせる時の微笑のよう』これはもう習得の技というにはすまされず、父 鴎外のDNA以外のナニモノでもない、そう確信する!『母はその微笑に見とれて生きた』ここに至って軽い眩暈をおぼえるのは私だけであろうか。ときに上記の画像は三方からとらえた森鴎外である。一生を見とれて過ごせるほどの笑顔というのはいかなるものか、それを拝みたくて図書館に出かけてみた。その結果が三方写真である、嗚呼。そもそも時代が時代だけに残ってる鴎外の写真は少なく、文献が異なっても使っている画像はみな同じなのである。そして当然といえば当然であろうが、明治男子がそうやすやすと笑顔をふりまくはずはない。つまり笑顔の鴎外などあろうはずもなかったというわけだ。現存する鴎外の画像は、三方写真のように、年齢を経てもだいたいいかめしい顔をしているのである。ちなみに三方写真は手持ちの文学アルバムのものを使った。図書館は用をなさなかったということだ。さもありなん。そして考えた。いままで小説は読んできたが、ただの一度も鴎外の笑顔は想像したことはなかった。学校の教科書に出ていたいかめしい面構えの明治男のみが鴎外であると思っていた。だがどうであろう、同時代の漱石や子規の場合、彼らの作品を通していまだ見たこともない彼らの笑顔は想像してきた気がするのだ。現に子規の句集を開いて二つ三つ句を拾えば子規の笑顔を想像するに易く、「草枕」の名調子に漱石の笑顔(苦笑かもしれないが)を想像するのは難くはないのだ。いったいこの違いはなんであろうか。それは残された文献の内容に他ならないのではないか。まず小説や句からは直接間接に笑顔を想像出来る。直接とは文章を通して自ずと作者の笑顔を想像できる事、間接とは作品を読んで笑い、その結果として作者の笑顔を想像する事だ。加えて随筆や書簡、投稿、残されたメモや走り書きも同様であるし、本人の所有した書画や愛用品を見てもそうである。また彼らを扱った書物を通しても笑顔は想像できるのだ。ことに子規などは、その武勇伝は抱腹絶倒だ。だからしかめっ面の画像を見ても、自ずと笑顔を想像してしまうのだ。子規には恐縮なのだが、病苦を詠んだ句にも悲哀の後に失笑を禁じえない始末なのである。ところが鴎外はどうであろう。彼の残された文献で笑いを誘うものは見当たらない。つまりそれをして鴎外の笑顔を想像するに難いわけなのだ。そして鴎外の笑顔は少し無理があるのではないか?『その時、潔白の証しに長く灰が積もった葉巻を見せて微笑(わら)ったという』「舞姫」の顛末は鴎外らしく思う。いわゆる「場数」を感じさせ、鴎外の成熟した大人ぶりを見るのだ。ちょっと違うかもしれないが、落語でいうところの吉原通いが過ぎて勘当された若旦那級であるように思えるのだ。そうすると、まずここから違うように感じるのだが・・そう考えると、『複雑で意味ありげ』『恋人に何か楽しいことをそっと知らせる時の微笑』は何だか怪しげにも感じてしまう。あえて言う。『母はその微笑に見とれて生きた』そう森茉莉は想いたかったのだ。もしくは森茉莉一流の創作か。そう考えたほうが何だかスッキリしはしないだろうか?ちなみに以前にも触れたのだが森茉莉のペンはとにかく冴え渡るのだ! 『腰に一本刀を落し差しにして、文学の世界の広い原っぱに一人、風に向って立っていた。』あの室生犀星をしてこうなるのだ。名文はときに事実以上のリアリティを読み手に植えつけることがあるということだ。と、アレコレ申しましたが、その実はというと。森茉莉の名文にシビレ、鴎外の笑顔がどうしても見たくなったがかなわず、それに費やした時間を何とか取り戻したい気分でグズグズ言った次第なのだ。ということで、いかめしい鴎外を前に今や笑顔の私目なのでありました(^^)vそれはそうと鴎外の笑顔は見つけられないまでも収穫もあり。何とも豪気な登場人物ではないか。与謝野鉄幹(寛)の洋行記念とのこと、後に晶子さんは子供を置いて寛を追うわけなのである。
2013.07.10
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【朝日新聞 天声人語】夏目漱石の「坊っちゃん」に出てくる教頭の赤シャツは、いやな男として描かれる。大学卒で、時々「帝国文学」という雑誌を学校へ持ってきてありがたそうに読んでいる。坊っちゃんは気に入らない。 「赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ」。赤シャツが並べた片仮名は人名だったが、坊っちゃんが今の世を見たらカタカナの氾濫(はんらん)に驚くだろうな??などと、本紙名古屋本社版などの記事を読んで思った。 岐阜県の男性(71)が、NHKのテレビ放送に外国語が多すぎると裁判を起こした。分かりづらくて精神的苦痛を受けたとして慰謝料141万円を求めた。コンテンツやコミュニティーデザインなどを例に挙げて、日本語を軽視するような姿勢は疑問だと訴えている。 訴訟への賛否はあっても、思いに共感する人は多かろう。NHKだけではない。新聞、雑誌、民放も、政府も企業もカタカナ語だらけ。こっそり申せば小欄も、時おり読者のお叱りを頂戴(ちょうだい)する。 明治の初め、知識人はなだれ込む外国語と格闘して、片っ端から日本語の服を着せた。哲学、個人、理性をはじめ喜劇、悲劇、社会、意識……。一語一語が国民の財産になってきた。 「外来語、カタカナ語を乱用するのは怠けである」と英文学者の外山滋比古さんがマスコミに苦言を述べていたのを思い出す。赤シャツよろしく気取って使うなどもってのほか。外来語に虫食いにされぬ美しい日本語のために、省みることが多い。(6月28日付)~~~~~~~~新聞も自らの「業務」に関わる事だけに「協会」が一致となり、「現実」に即した「基準」を設け「文化」の崩壊阻止に乗り出すかもしれない。さて「 」でくくった言葉は和製漢語である。天声人語のコラム氏は、大恩人と仰ぐ中国に気をつかったのか和製漢語といわずにやんわりと紹介している。『明治の初め、知識人は~』の段落である。竹田恒泰氏の説明は明解だ。氏は著書の「日本はなぜ世界で人気があるのか」でこう説く。『日本は幕末から明治期にかけて、西洋文化を輸入するため、西洋の書物を翻訳するにあたり、夥(おびただ)しい数の和製漢語を作った。』ちなみに中国では「今日使用している社会科学、人文科学方面の用語のおよそ七割は日本から輸入したものである。」といい、「それらは中国の留学生らにより中国に持ち帰られ、そのまま中国語として使われるようになった。(竹田氏)」という。つまり、かつて日本では安易に外国語にはせず、英知を持って我が国の言葉としたわけであり、それはまたよその国に輸出されるほどの価値があったということなのである。翻って現在である。上記の歴史的事実をもって、問題(外国語の使い過ぎ)は何故起こったかと判断すると、その理由は、和製漢語を作られない、これに尽きるわけだ。様々な思惑や恣意も否めないがそれは瑣末な事であり、本質は、現代に生きる我々が和製漢語を作られないから、なのである。コラム氏の言うように明治の初めは『外国語と格闘して、片っ端から日本語の服を着せた』ことにより和製漢語が出来たのであるから、現代は、「外国語と格闘」する力がなくなり「片っ端から日本語の服を着せ」られなくなってしまったのでおびただしいほどの外国語が増えた、という理論が成り立つ。ややこしいことはともかく、理由は、現代に生きる我々が和製漢語を作る力がなくなった、そのことなのである。しかしこれは根が深い。先人の英知を称えると同時に、過酷で冷徹なまでの批判をしなければならないのだ。だが、日本語が駆逐されかかった現状を状態を、何としても阻止するためには、我々はあえてそれをしなければならないわけだ。残念ながら現在は、憂い嘆くのみで論調は見当たらない。一刻も早く、良識ある新聞が勇気を持って先陣を切ってもらいたい。ご参考まで、詩人の佐々木幹郎氏が語った『今宵、中原中也と』をひく。~~~~~~~~『大概の日本人は、西洋の知識を持ったやつにコンプレックスを持つんですが、中也はそんな知識が何になるんだと思っていた。知識は詩にとって役に立たないと本能的に知っていたんだと思います。』佐々木は、第4次となる中原中也全集の編集を手がけ、驚いたことがあった。それまでの全集では、中也が手がけた仏の詩人、ランボーの翻訳を、友人の大岡(昇平)が間違っているからと直していた。だが、ランボー研究の最新の成果をふまえて見直したところ、8~9割は中也訳の方が正しかった。第4次の全集では、すべて中也の翻訳に戻したという。『詩の心、ポエジー(詩情)というのは、世界共通なんです。だからフランス語が中途半端であってもポエジーに立ち返って言えば、的に当てることができる。』近代知識人が西洋文化にひれ伏したのに対し、中也は背筋をのばして日本語の言葉で勝負し、詩を書いた。『それは一番まっとうなことだと思います。』~~~~~~~~なお蛇足であるが、共産主義、労働組合、人民、解放、幹部、指導など、かの国の専売特許も実は和製漢語なのである。我が先人の比類なき想像力に想いをはせ、和製漢語の未来を祈る。
2013.07.05
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【山陽新聞 滴一滴】ヘレン・ケラーは1880年のきょう米国に生まれた。病で視力と聴力を失い、話すこともできなかった彼女を教え導いたのは女性家庭教師アン・サリバンだ。 6歳のヘレンと20歳で出会って以来、生涯寄り添った。献身的な教育でヘレンは大学を卒業。世界を講演旅行し、人々に希望を与えた。 重いハンディを持つ類いまれな才能が、人生の伴走者、と巡り合い花開く。そんな現代の奇跡を生んだのが全盲のピアニスト辻井伸行さんと、6歳の時から12年間指導した川上昌裕さんだ。辻井さんのために「譜読みテープ」を作り続けた。 右手左手を別々に演奏し、強弱記号などを声で録音した。どこで区切れば分かりやすいか考えるなど入念な準備が必要で、録音は雑音を避け深夜、エアコンもつけずに行った。曲の何倍もの時間がかかったという(神原一光著「辻井伸行 奇跡の音色」)。 200本以上に上るテープは辻井さんの宝物だ。磨かれた才能は世界へ飛躍し、4年前のバン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝をもたらした。 辻井さんは「ピアノがあるからこそ自分の音楽でメッセージを伝えられる」という。東日本大震災の被災者へ、思いを込め作曲も手掛ける。教え子に注がれた優しさは新たな音楽へと姿を変え、また誰かを勇気づけていく。(6月27日付)~~~~~~~~スピーカーから流れる荒々しい弾音に「あれ?」と思った。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ずっとアシュケナージの奏でる音楽に聴き慣れてきた。しかしその荒々しさは、決して聴き苦しいものではなく、慣れ親しんだものに対しての、あるいは新しいものへの、軽い違和感のようなものだ。聴くうちに、これが辻井青年のラフマニノフの解釈であり、若々しくも瑞々しい表現であると理解した。第3楽章の途中で、この音調は以前に聴いたような気がする、私はそう思った。いつだろう。ずっと以前だ。そう、ずっと昔の事だ。だが・・ いまだ青年の辻井さんの演奏を、ずっと以前に聴けるはずがないではないか。あれはいつだったのだろう。どこで聴いたのだろう。私はその思いにとらわれながら演奏を聴き終えた。それからしばらくの間、私はその思いから離れることが出来ずに悶々と過ごすことになったのだ。先日、朝のテレビニュースで辻井さんの福島コンサートを報じていた。アナウンサーの質問に、言葉を選びながらトツトツと語る辻井さんに私は感動した。実に謙虚でひたむきなのだ。今や世界的な演奏家であるにもかかわらず少しも高ぶったところがなく、演奏後の達成感と開放感からくる自慢(おごり)もまったく感じられなかった。辻井さんは、どこまでも謙虚に感謝の気持ちを述べていたのだ。私は辻井さんの言葉に熱いものがこみ上げた。『演奏を聴いてくださる方』実に清々しく彼はそう語ったのだ。彼の謙虚でひたむきな姿もさることながら、私は先の震災以来感じていたひとつのわだかまりが吹き飛んだ思いがしたのだ。「勇気を与えたい」見識ある一定以上の年齢の方(大人といわせてもらう)はどうしても馴染めないひと言であったはずだ。最初は新聞でも指摘して「きちんと大人がおしえてあげるべきだ」と言っていたが、いつのまにかスタンダードな言葉になってしまった。辻井さんは観客を、聴いて「くださる」方と言った。そこには「与える」という言葉が持つ上から目線と傲慢な気持ちは微塵も感じなかった。それがとてもうれしかったのだ。余談になるが美輪明宏さんがゴルフの石川遼氏や野球の松井秀喜氏をたいそう褒めているのだが、その理由が「当たり前のことを当たり前に話すことができるから」と言っている。演奏は、テレビニュースの性質上、割愛されており詳細はわからないが、最後に涙をぬぐう多くの方々が映し出された。『ピアノがあるからこそ自分の音楽でメッセージを伝えられる』辻井さんのメッセージは観客の心に届いた。加えて、そこに醸しだされた人間辻井伸行の真摯な姿(それを真心という)が琴線に触れたのだと思った。コラムを読み、私は川上昌裕氏の存在を知った。あらためて辻井さんの演奏を聴きなおしてみて、川上氏は人生の伴走者であると同時に、類稀なる名白楽であることを確信した。辻井さんのハンディを考えると、もし川上氏とめぐり合っていなければ、いかに辻井さんの天才をもってしても、ここまでにはなれなかと言っても過言ではないだろう。人は何らかの役割をもって生を得るものであると私は思う。それをして天命というのではあるまいか。多くの人はその最期まで、自分の役割は何かを問い続けるのだろう。畢竟人生とは天命を認識することに他ならないと思うのだ。辻井さんと川上さんを想うとき、天命を考えないではいられない。辻井さんの一弾一弾は天命の全うである。そう思った次第だ。さて、ラフマニノフのピアノ協奏曲の件。ずっと以前に聴いた音色を思い出した。ラフマニノフに固執していたのがいけなかったようだ。でも「ずっと以前」だけは正確な記憶であったのだが(笑)今から40年ほど前の話である。中学校の音楽教師が手持ちのLPを持参して授業で聴かせてくれたのだ。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 演奏はなんとホロヴィッツ!くれぐれも、指揮者の氏ではない。ピアノ奏者としてのホロヴィッツである。そして指揮はというと、トスカニーニなのだ!!とはいえ、曲名と奏者の名前しか記憶にはなく、指揮者がトスカニーニとこのたび知って、貴重なLPを聴かせていただいたものだと、あらためて恩師に感謝をした次第だ。どうやってホロヴィッツを手繰り寄せたのかは、込み入った話になるので別の機会にゆずるとして、私はひとつの確信を得た。青年辻井氏はやがてホロヴィッツに勝るとも劣らない名ピアニストになるであろうことを。青年辻井の音楽観がやがてどうなるのかこれは楽しみである。円熟味を増した辻井さんの演奏を聴けるとき、というか聴けたとして(笑)、私は後期高齢者になっている。何だか楽しそうな老後なのである。辻井さんの名演奏に感謝、そして川上さん、指揮者の佐渡さんに辻井さんのご家族に大感謝。山陽新聞のコラム氏に大々感謝。
2013.07.02
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【秋田魁新報 北斗星】~あんべいいな~「ないものはない」。先日訪れた島根県隠岐諸島の海士町(あまちょう)で、町幹部からもらった名刺に、こんなキャッチコピー入りのロゴマークが躍っていた。一昨年夏から使われている町の公式ロゴだ。 コピーは二つの意味を持つ。「なくてもいい」という開き直りと、「生きる上で大事なものは全てある」という自負。島にはコンビニさえないが、それが本当に必要なのかと問い掛ける一方、豊かな農・海産物や住民間の絆に対する誇りがにじむ。 コピーは町の若手職員たちが考え、ロゴ制作を「あきたびじょん」プロジェクトのアドバイザーも務める高知県のデザイナー梅原真さんに依頼。幾つか示した候補のうち、太鼓判を押されたのがこの言葉だ。 島を訪れた人は初めこそ「何もない」と戸惑うが、徐々に「ないものはない」と感じるようになる。東京から移住して町職員となり、コピー考案に携わった女性は「これほど島にしっくりくる言葉はない」と胸を張る。 便利さの追求を否定するつもりはないが、上を見れば切りがない。ないものねだりをやめ、最低限必要のものはあると割り切ることができれば、「ここには何もない」と卑下する気持ちをなくせるのではないか。 もちろん秋田でも身の丈に合った幸せは追求できる。いみじくも梅原さんは「あんべいいな」に着目し、「あきたびじょん」のサブコピーに採用した。「行き過ぎず、ちょうどいい」。そんな地域をつくれないか。海士町に負けていられない。(6月25日付)~~~~~~~~そして先日のコラムもご一読ください(^o^)~~~~~~~~活字が大嫌いな書店員に、下戸の杜氏(とじ)。まれにいるかもしれないが、常識的には考えづらい。自分が好まぬモノ、たしなまないモノを商うのは苦痛だろうし、客はそれ以上に不幸である。 「秋田の人たちは秋田杉の良さをしきりに宣伝するけど、なぜ自分たちは杉の家に住まないの?」。首都圏で住宅建設に携わる女性に聞かれ、答えに窮したことがある。愛着がないものを売りつけているのかと、問い詰められている気がした。 随分前のそんな出来事を思い出したのは、県立大秋田キャンパス管理棟の増築計画をめぐる県議会のやりとりを聞いてだ。県産材活用を推進する県が木造での増築を全く考慮していなかった点に、議員の批判が集中。計画見直しの可能性も出ている。 県幹部の「認識が甘かった」という反省の弁は、当事者意識に欠けた言い訳に聞こえる。トップセールスを仕掛ける立場にある者の言葉とは到底思えない。「県産材への愛情が足りないのではないか」とさえ言いたくなる。 能代市にある木材高度加工研究所は木材の加工・活用に関する研究で業界をリードする。その研究所を擁する県立大を舞台に、こんな議論になるのは残念過ぎる。 アニメやゲームを海外に売り込む「クールジャパン」戦略が注目を集めている。国内外を問わずに愛され、支持されるソフトばかりだ。もし「クールアキタ」を展開するならどんなソフトがあるだろう。そんなことも考えさせられる県産材騒動であった。(6月22日付)~~~~~~~~残念ながら、秋田には縁もゆかりもないけれど、私は秋田が大好きだ。鬼門に入られた中嶋嶺雄氏(国際教養大学前学長)の薫陶を仰いだ事もあり、秋田の新聞コラムは事の他熟読しているのだ。アプリの「たて書きコラム」をダウンロードして以来、一年以上毎日「北斗星」は欠かさずに読んでいる。そして思ったことは、まず謙虚であること、そして熱心であること、何より真面目であること、の三つである。掲載した二つの北斗星をお読みいただければご理解いただけることと思う。おそらく、県を代表する新聞がそうであるのだから、秋田の方々は総じて謙虚で熱心で真面目だと推察する。なにより、一日がこういうコラムではじまる秋田県は、皆さんがおおらかで明るいはずだ。また、我が確信ひとつ。(少し飛躍するかもしれないが)毎日 北斗星を読み続け、秋田の子供たちの学力が全国一高い所以を、謙虚・熱心・真面目の県民性にあると見た。そしてその根底を支えるものこそ、秋田魁新報であると確信した。上記の北斗星では、25日付にコラム氏の、真摯な姿はもちろんのこと、その志の高さを見た思いだ。素晴らしいコラムに感謝(^人^) 秋田万歳\(^o^)/
2013.06.26
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【毎日新聞 余禄】「紳士は互いの信書を盗み見ない」。こう言って米国務省に他国の通信の暗号解読をやめさせたのは1929年当時の長官スティムソンだった。彼はすぐ考えを翻し、第二次大戦で陸軍長官を務めた。 もっとも国務長官当時の決定は、それにより職を失った暗号解読の専門家ヤードレーの強烈な復讐(ふくしゅう)にあう。彼は暗号解読局を表す「ブラックチェンバー」をタイトルにした著書を刊行、国務省による外交通信の傍受や暗号解読の実態を全世界に暴露してしまったのだ。 仰天(ぎょうてん)したのは日本の外務省や軍だった。そこには先年のワシントン軍縮会議で日本代表団の外交暗号が解読され、手の内が米側に筒抜けだったことが明かされていた。日本でも同著はベストセラーになったが、大戦ではまた暗号戦で完敗した(「暗号事典」研究社)。 こんな外交の世界だから今さら驚くに当たらないのだろうが、やはり釈然とせぬものも残る。2009年のロンドンG20首脳会議でホスト国の英国情報機関が各国代表団の通信を傍受していたとの英紙ガーディアンの報道である。紳士の国はまた007の国であった。 おりからG8首脳会議のホスト国を務めた英国には何ともきまりの悪いことになったが、こればかりは自業自得(じごうじとく)である。情報源は米政府の極秘のネット情報収集を内部告発したスノーデン氏から入手した資料とのことで、背景には英米の緊密な情報協力がうかがえる。 日本もその英国との首脳会談で、安全保障やテロの秘密情報交換にむけた協定締結に合意した。さてこれは互いに紳士と認め合っての協定か、それとも紳士にあらざる仲間と認められたのか?(6月19日付)~~~~~~~~G8は無事終了した。「情報」に関する話題が、合衆国の個人情報収集事件から活況を呈しているのだが、どうやら所説あるようだ。上記の毎日新聞はさしずめ「性善説」か(笑)話はそれるが防衛大学の村井友秀教授は、先日の論文で「孫子の兵法」をひき、中国の琉球発言を「心理戦」と明解する。『兵力が敵の十倍あれば敵を囲むだけで敵は屈服する。兵力が敵の五倍あれば躊躇なく攻めよ。兵力が敵の二倍なら敵を分裂させよ。兵力が敵よりも少なければ戦いを避けよ。』(諜攻篇 ※村井教授解説)村井教授の眼目はこうだ。『孫子の兵法には戦いの真髄は騙し合いである(兵詭道也)と書いてある。あらゆる手段を講じて敵の弱点を突くのは兵法の常道である。』なお論文には直接記述はなかったが、兵法の白眉たる「戦わずして勝つ」が底流にあることは明らかである。ご参考まで、同じく防衛大学の水野実教授は著書「孫子の兵法」で『詭道とは手の内を明かさない戦法のことである。』と解説している。もうひとつご参考まで、「孫子の兵法」は紀元前の中国春秋時代に書かれた兵書である。それが世界各国で今の時代まで読み継がれ、数多ある兵書の中で筆頭に挙げられるのだ。さて情報にもどる。事件(というか漏洩か?)が表ざたになったのでアレコレ取りざたされているのだが、本当のところ「あながち有り得るよね」「まあ、そんなもんでしょ」というのが実感ではないだろうか?それが大人でしょう(笑)これをして青天の霹靂に思う人は、そういないのではないであろうか?現実を見て世の中を判断した場合、そういう世界は容易に考えられると思うのだが・・・現実を直視するには苦痛や悲しみを伴う。だから現実を逃避している主張(ゆがんだ理想か)には、苦痛や悲しみから逃れているように思えてしまうのだ。先に「性善説」と書いたが、性善説は理想主義とも言い換えられる。理想は必要だ。それを否定しているのではない。ただ、どうも違和感を覚えてしまうのは、私がすれっからしだからか(汗)そして新聞やテレビの主張の元となる性善説や理想主義は、どうも正義や人道を「売り(商品)」にしていると感じるのは、我がすれっからしの極みであろうか(笑)ときに「孫子の兵法」では戦う前の心得を挙げ、最重要課題に位置づけている。『彼を知り己を知れば、百戦危うからず。彼を知らず、己を知れば、一勝一敗す。己を知らざれば、戦うごとに危し』水野実教授の訳はこうだ。『敵の戦力を知り、味方の戦力を知っていれば、百戦しても危険がない。敵の戦力を知らずに、味方の戦力だけ知っていれば、勝ったり負けたりである。敵の戦力も味方の戦力も知らなければ、戦いのたびに危険が伴う。』
2013.06.21
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【南日本新聞 南風録】西郷隆盛といえば、かっぷくのいい大男がおおかたのイメージだろう。だが、沖永良部島 和泊町にある像は趣が違う。頬はこけ、ひげを伸ばし、やせ細った体で座禅を組む。 藩主の父島津久光の怒りをかい、流罪になった西郷をしのんで、和泊西郷南洲顕彰会が没後110年に当たる1987年、獄舎跡地に建てた。格子囲いの牢(ろう)でめい目する姿は、武人ではなく哲人の雰囲気を漂わせる。 吹きさらしの牢は海に近く、潮や砂混じりの風雨が容赦なく生身を痛めつけた。島役人の厚情に命を救われた西郷は、南の島で学問を修め、思想、人格を磨いたという。 NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する西郷も、今までと違ったイメージで描かれている。倒幕に向けて長州とひそかに結び、禁門の変では友軍だった会津を切り捨て、挑発を仕掛ける策士としての西郷だ。 かつてないヒール役として描かれることに、複雑な心境のファンもいるだろう。ただ、会津の視点に立てば、あながち的外れとは思えない。冷徹で知略にたけた、アンチヒーロー西郷。役者なら「新境地開拓」といったところか。 忠臣蔵の吉良上野介、安政の大獄の井伊直弼、いずれも時代劇では悪役だが、国元では誉れ高き名君と慕われている。一方からだけ当てられた光が強すぎると、見えにくくなるものがある。郷土が誇る維新の英雄が一層魅力的に思えてきた。(6月12日付)~~~~~~~~「西郷先生は、」Yは西郷隆盛を語るとき、必ず「西郷先生」と言った。浪人下宿の三畳間には古ぼけた西郷の切抜きが貼ってあった。今から三十年前の話だ。コラムを読んでYのことが頭に浮かんだ。生粋の薩摩隼人であるYには「八重の桜」に登場する西郷は許せないことであろう。「複雑な心境」ではすまされないはずだ。後に鹿児島を一人旅した時、天門館で延々と西郷論を語ってくれたおじさんがいた。きっと彼もそうであろうと推察する。かくいう私も、薩摩とは国が異なれど西郷好き暦20年、心穏やかではいられない。だから、かの地で西郷擁護(というか主張か)の不穏な空気が流れていることを密かに期待もしているのだ(笑)思うにコラム氏も「複雑な心境」ではないのか(笑)行間からそう読んだのだがいかがでしょうかね。先の大河ドラマではどこぞの知事が製作に毒づき失笑を買うという例もあり、コラム氏は筆を抑えている、そう読むのは私だけかしらん。ところで歴史を語るとき司馬遼太郎抜きでははじまらない。仮にも「私は歴史が好きです」という人は、司馬さんの著書の二三冊は読んでいるはずであろう。私はここに司馬さんの真骨頂を見る。「たとえばですよ。高杉晋作が生きて出でてきて煙草屋のカドでたまたま会ったとする。高杉から「あなたの書いた高杉晋作は大げさすぎる」と言われても「歴史の立ち位置からみると私が書いたとおりです」と言い返せるぐらい、歴史小説は調べ上げてから書かなければならない。」週刊司馬遼太郎7「私と司馬さん」から誠に、誠にもってシビレル限りのひと言なのだが、その司馬さんがいみじくも言うのだ。西郷をして「こういう種類の人間は、世界史にないようにおもう」と。そしてまた「尋常な人間知識、人間理解のていどでは、ああいうにんげんはよくわからない」と。とどめはこうだ。「私は、西郷隆盛という人物については、しらべられるだけ調べて、この人物がうまれた鹿児島にも何度かゆき、必要な人にも会い、かつ考えもした。そういう意味での資料でなら、百時間でも語れる。しかし、どう語ったところで、西郷は出てこない」司馬さんは最後にこう結論付けるのだ。「西郷は会ってみなければわからない」(いずれも「竜馬がゆく」から)かの空海ですら縦横無尽に綴る司馬さんをして「会ってみなければわからない」とまで言わしめたのは西郷隆盛だけではあるまいか(^^)vそれはそうと司馬さんは西郷好きの所以をこう解いている。「(西郷は)極度に大人な部分と、幼児のようなあどけなさが一つの人格に同居している。西郷の魅力は、この相反するものがこの男の人格のなかでごく自然に同居し、間断なくその二つの顔が出たり消えたりし、さらにそれがきらきらと旋回するような光芒を発するところにあるらしい」一見、論理であるようだが?結局のところ天門館の西郷好きのおじさんと同じだ!好きだから好きなんだ、そして、好きなものは好きなんだ、そこに行き着くわけである。「八重の桜」は見事な脚本だ。演出も素晴らしい。そして会津にカタルシスを求めるのだから薩摩が悪役となってしかたがない。しかしいずれにしても、西郷を描くには役が重すぎる、そういうことになると思う。さて、西郷好きの諸兄は溜飲を下げられたであろうか(笑)「議を言うな!」そう言われそうで心配です(汗)(議を言うなは「理屈を言うな、という意味につかう」、そう天門館のおじさんにお聞きしました。)
2013.06.17
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【朝日新聞 天声人語】~自分から一歩外に出て自分を見る~現実がよく見えた人だった。なだいなださんは、ネット上の仮想政党「老人党」をつくり、政権交代を目指した。09年、民主党政権ができる直前、日本政治の惨状を肺炎に見立てた。交代が実現しても「患者の熱が一時下がっただけのようなもの」と、本紙に語っている。 政権交代を3回、4回と重ね、治療を続けてやっと肺炎は治っていく。政治が一挙に変わるかのような空気の中、この精神科医が下した診断は透徹していた。多才な文筆家でもあった、なださんが亡くなった。 現実を見すえつつ楽観主義を貫いた。名著『権威と権力』では、〈絶望的な状況でも、希望を失わない人間〉に自身をなぞらえる。そして理想とは〈たどりつけるもの〉ではなく、〈見つめるべきもの〉である。 権威も権力もない社会は来ないとわかった上で、状況への発言を続けた。第1次安倍政権のナショナリズムへの傾斜を「国家中毒」と批判した。いまのアベノミクスも疑い、先月末には〈浮いた気分も、もう終わりでしょう〉と書いた。 大切にした臨床での心得がいい。アルコール依存症は「治す」のではなく、患者と「つき合う」。医師の仕事は「人間というものがよく見えるし、自分自身のいいところ悪いところが鏡のように映る」。 残り少なくなった日々、周りの家族のつらさを深々と気遣っている。ブログに〈結局死んでいくぼくが一番楽なのかもしれない〉と綴(つづ)った。「自分から一歩外に出て自分を見る」流儀を最後まで通して逝った。(6月11日付)~~~~~~~~一昨日、なだいなだ氏が逝去された。謹んで、心よりご冥福をお祈り申し上げたい。『自分から一歩外に出て自分を見る』最後に素晴らしい助言を頂戴した。我々は、なだ氏のように自己を冷徹なまでに客観的に冷静に見つめ直さなければならない、そう思った。ところで天声人語。ツラツラと読むに、なだいなだ氏が何やら社会主義の尖鋭に思えてくるのだが、はたしてそうであろうか。氏は陸軍幼年学校で終戦をむかえた。そして後にフランスへ留学するのであるが、それは陸軍幼年学校での教育が下地になっていたと推察できはしないだろうか。私は氏の一言半句は社会批判ではなく、国を憂う想いに他ならないと考えるのだ。(国を憂うと、いわゆる右翼主義はまったく異なる。)天台大僧正の荒了寛氏はこう説く。ことに臨んで『「他人のせい」ではなくすべて「自分のせい」にしてみればいい』と。これまさに真理である。『自分から一歩外に出て自分を見る』とはそういうことではないであろうか。なだいなだ氏は、あいつが悪いからこいつが悪いからとか、ましてや政治が悪いから国家が悪いから、という薄っぺらで安っぽい批判気などもうとうなかったはずだ。死の間際に『結局死んでいくぼくが一番楽なのかもしれない』と達観できる人は、もっと崇高な視点であったと思うのだ。なだいなだ氏は、真に国家の平和と安全を願っていたと私は信じて疑わない。なださん。これからは彼岸で我が国の行く末を見守ってください、お願いします。それからコラム氏には謹んで申し上げたい。『自分から一歩外に出て自分を見る』何より大切なのは『自分から』ということです(^^)v北國新聞の時鐘(抜粋)に以下がありましたのでご参考まで(笑)~~~~~~~~好んで山を描き、決まって山の傍らに一片の雲を描いた画家から聞いた話。あの雲は、画家が亡き妻をしのんで絵筆を走らせたに違いない。高名な美術評論家がそう「解説」したという。誰よりも画家当人が驚いた。描きたいから、そうしただけ。「まったく、評論家の理屈には閉口する」(6月11日付)~~~~~~~~
2013.06.13
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五月最終日に秋田魁新聞 北斗星でヘェ~!と驚き、月が変わって岩手日報 風土計にとどめを刺された感じだ(汗)かなりのカルチャー(?)ショックである。まずはご一読を。~~~~~~~~【秋田魁新聞 北斗星】数日前の夜、JR秋田駅前からタクシーに乗った。すぐに鼻を突いてきたのが、たばこのやにの臭い。運転席の脇にふた付きの灰皿が置かれていた。待機時にでも吸っているのだろうか。 車が動きだすと同時に座席の窓を全開にした。臭いを嫌がっているのを運転手も察知したらしい。風通しを良くするため、運転席の窓を少し開けた。無言の車内には気まずい空気が流れ始めた。 自宅に着く直前、「運転手さん、たばこを吸うんですか?」と聞いてみた。「ええ。臭いますか」と運転手。「灰皿置くのはやめたほうがいいですよ」とやんわり注意し車を降りた。 驚いたのは翌日。同じ場所から同じタクシーに乗り込んでしまったのだ。灰皿が消えていた。「覚えてますか、昨夜の客です」。運転手はこちら以上にびっくりした様子。おわびの言葉に続き、「たばこをやめようと考えています」。その後は接客マナーのことや業界の話題など車内で会話が弾んだ。 これまでたばこの臭いを指摘されたことがなく運転手に甘えがあったのかもしれないが、思い切って口にしてよかった。ただ、車という閉鎖空間で直接注意するのは正直大変だった。 県内のタクシー運転手の接客態度は以前よりずっと向上している。しかしマナーの悪い運転手がまだ一部いるのも確か。そんな運転手は9月から秋田駅前などで待機できなくなるといい、講習会も開かれる。「いらっしゃいませ」の一言からまず始めてみてはどうだろう。(5月31日付)~~~~~~~~【岩手日報 風土計】その優しさに心が和んだ。盛岡市内のレストランでの出来事だ。昼食時間帯で店内は混雑。テーブルを挟んで若い女性と向き合ったオーダーしたパスタがくるまで一服しようと、たばこを手にして止まった。女性のバッグの中から、ちらりと「母子」の二文字が見えた。母子手帳だ。たばこを吸うわけにはいかない。それがマナーだたとえ、テーブルに灰皿があったとしても女性と同席した際は、同意を求めてから吸うように心がけている。このときは聞くまでもなかった。間もなく、女性にも注文の品がきたこの店では食事にコーヒーがつく。女性が食べ終えるタイミングを見計らってウエートレスが聞いた。「普段はコーヒーですが、オレンジジュースか何か、別なものにしますか」。コーヒー成分が胎児に影響してはと体調を気遣っての配慮だウエートレスも母子手帳に気づいていた。女性は「ありがとう」と笑顔で応えた。ウエートレスのさりげない対応ははたから見ていても気持ちがよかった。皆がこんな小さな思いやりを持てば、もっと心豊かで暮らしやすい社会になるだろう「すてきな気配りでした」とウエートレスに声をかけた。すると「お客さんはたばこを我慢していましたよね」と返された。なかなかの観察眼。この日の食事はいつも以上においしく感じた。(6月6日付)~~~~~~~~コラムを読んで軽い時代錯覚を感じた。そういえばこんな小説を読んだことがある。主人公が新聞を開くと以前の事件が載っており、日付を見ると過去のものなのだ。そう、主人公は過去にタイプスリップしたのである。幸か不幸か(笑)コチラはタイムスリップはなく、今の話なので違和感を覚えるのだ。それにしても、今にも煙が臭ってきそうな勢いに、思わず顔をしかめずにはいられなかった(>_
2013.06.10
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【佐賀新聞 有明抄】~最後の田植え~おととい、唐津の実家で田植えをした。「今年が最後」と父が言う。両親は60代後半で、田植えや稲刈りは地元の兄2人も手伝いながらやってきた。1反5畝(せ)の田んぼで、家族で食べる分を育ててきた。 父は高齢をやめる理由に挙げるが、稲を育てにくくなったとたびたび聞かされていた。新しい住民が周りに増えた。炎天下の作業を避けるため、朝、草刈りすると機械の音が「うるさい」と苦情を言われたり、蚊が多くて「田んぼから虫を出さないように」と難題を突きつけられたりした。 農薬をまく時には外に広がらないように風が弱い時を見計らうが、断念した日もあったという。隣接するアパートの住民に念のため洗濯物を室内に取り込むようにお願いしても、外国人に父の身ぶり手ぶりが通じなかったからだ。 小中学校の同級生に農家はいなかった。社会科見学で訪ねた先がわが家の田んぼだったこともある。それでも当時は稲作をしている農家が周囲にいて米作りがしやすかった。校区で最後に残ったのがうちの小さな田んぼで、こんな日がいつか来ると覚悟はしていた。 家族そろって「夢しずく」を手作業で植えた。今年は小学5年のおいっ子の同級生87人も一緒だ。作業そっちのけでカエルを追いかける子もいた。おこがましいが、家族の思い出が地域の思い出になればと思う。(勝)(6月2日付)~~~~~~~~昨日のブログでは早乙女を「過去の風景」と記し、機械で田植えをする農家の写真を掲載した。タイムリーなことに、佐賀新聞では「最後の田植え」についてコラムに綴り、産経フォトでは観光記念用の早乙女をアップしていた。それにしても、早乙女が見られなくなったのはしょうがないとして(笑)、コラムを読んで一抹の不安を覚えた。日本の農業は本当に大丈夫なのだろうか。政府は農家の所得倍増を唱えており、誠にゴウキな限りだとは思うのだが・・コラムを読んで、農業の根本的な問題はもっと構造的なものであり、しかも社会の様々な部分が複雑にからんでいる、そう感じた。たしかに「家族の思い出が地域の思い出になれば」それはそれで結構な事ではあるが、その先は?食むだけの人間に無責任なことは言えないが、だから(食むしか能がない)こそ己の食い分が心配である。(何だか自分が穀つぶしに思えてきた・汗)早乙女に郷愁を感じている場合でもなさそうだ。穀つぶし:飯を食う点では一人前だが、ほかに、これといった能力がなく、毎日をむだに過ごしている、しようのない奴。新明解国語辞典(風景が過去のものになったり、死語が出来たりするのと同じく、古語や死語の復活もあるかもしれない!)《追記》コラムの内容から推察してコラム氏は三十代か。さすがは大隈重信を輩出した国の新聞だと感服した。大新聞は「後生恐るべし」と見るべきだ。コラム氏の三十年後の活躍が楽しみなのだが、そのころは次のコラム氏が奮闘努力しているのかもしれない。
2013.06.04
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【西日本新聞 春秋】米紙ニューヨーク・タイムズは名物記者を何人も生んできた。84歳で現役のカメラマンもいる。写真をたくさん載せる人気ファッションコラムなどを50年以上担当している。仕事も私生活も謎めいて語られてきた。 朝、アパートを出るとそこから先の路上がすべて仕事場になる。行き交う人のファッションスナップを撮りまくる。カメラを提げて自転車に乗ってどこにでも行く。 四季を問わずに着ている青い上着と黒い雨がっぱも仕事道具に含まれる。上着は量販店で20ドル程度で購入した作業着だ。雨がっぱは、破れても黒いビニールテープで補修して使っている。 その人、ビル・カニンガムさんは、青い作業着でファッションショーや社交界のパーティーにも行く。パーティー会場では水一杯さえ口にしない。客観的立場を保つためという。求道者を思わせる。 着るものと同様に食べるものなどにも頓着しない。質素なアパート暮らしものぞいたドキュメンタリー映画「ビル・カニンガム&ニューヨーク」が日本でも順次公開されている。製作に10年かかった。うち8年は写真家を被写体にすることに彼自身が同意するための交渉に費やされた。 収められた言葉もシンプルだ。「最高のファッションショーは常にストリートにある」「重要なのは感想ではない。見たものを伝えることだ」。彼の紙面が多くのファンを持ち続ける理由も、そんな言葉のなかにあるのだろう。(5月30日付)~~~~~~~~はじめてニューヨークに行ったとき、五番街を歩きながら「ビル・カニンガムに会ったらどうしよう」と本気で考えていた。一週間の滞在中はマンハッタンをくまなく歩き回った。いつも心の片隅で「ビル・カニンガムに会ったらどうしよう」そう思っていた。残念ながらビル・カニンガムに会うことも、写真を撮られることもなかったが(笑)今思えば我が事ながら笑止千万。誠に持って人様にお話できるものでもないが、ビル・カニンガムの記事に触れ、思わず恥を承知で記した次第。彼のドキュメンタリー映画が上映されている。これは必見だ。このごろのドキュメンタリー映画は、どうも思想的或いは政治的なプロパガンダがプンプンただよい見る気が起きなかったが、久々に見たいという思いにかきたてられた。それにしてさすがはビル・カニンガム。『重要なのは感想ではない。見たものを伝えることだ』行間には、さらに『正確に』のひと言が見えてくる。見たものを正確に伝える。報道やルポルタージュでは最も基本なことであり、それを死守することが記者やライターの矜持であるはずだ。だからこそ、彼らには言論の自由が与えられているというわけだ。ところが『見たものを正確に伝える』という最も大切な事が、どうも忘れ去られているとしか思えない昨今の状況なのである。願わくは、マスコミ関係者は揃って「ビル・カニンガム&ニューヨーク」を見てもらいたい。そして、行間も含めて(笑)『見たものを正確に伝える。』というビル・カニンガムの思いを感じてもらいたい、そう思った。ビル・カニンガム万歳
2013.05.31
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【新潟日報 日報抄】若いときに遠回りした道は、実は夢実現への最短ルートにつながっていたのだろう。26年前の本紙で、冒険家三浦雄一郎さんが自身の少年時代を振り返った記事を読み返し、そんな感慨を深くした。 小学4年生から5年生にかけ、胸膜炎を患った。学校に半分も通えず、中学受験に失敗した。浪人中の1年間を岩手の山奥で過ごす。畑を耕し、いかだに乗る。冬は一日中スキーに興じた。遊ぶだけではない。この間に、芥川や漱石の全集を読破した。 そういうことが許される環境に恵まれたこともあろう。少年は「どん底の思い」から復活し、「人生焦ることはない」と確信した。北海道大学の獣医学部助手からプロ・スキーヤーに転進してからの数々の活躍はご存じの通りだ。 80歳にして「冒険家」の肩書が不自然でないその人が、史上最高齢でエベレスト登頂に成功した。標高8848メートルのてっぺんに至る道は、岩手の山裾から第一歩が始まっていたに違いない。北大といえば頭に浮かぶ「少年よ大志を抱け」の文句を、文字通り実践してきたといえる。 県内には講演などで何度も訪れている。語り掛けるのは、目標を持って生きることの大切さである。5年前、上越市に来た際、健康の源として三つを挙げた。「食事、運動、生きがい」―これを体現した山の鉄人は今回も元気いっぱいだった。 3人の子供たちは義務教育を1、2年遅れて終えている。三浦さんの特大スケールの生き方は、お年寄りだけでなく、悩み多き若者たちにも励みとなる。遠回りは、財産だよ。(5月24日付)~~~~~~~~まずもって、史上最高齢登頂の偉業を成し遂げられた三浦さんに謹んで敬意を表したい。一定以上の年齢の方は、久しぶりに血が沸き肉が踊る想いに浸られたのではあるまいか。誠に壮挙なり快挙なり万々歳なりだ。『人生焦ることはない』私としては三浦さんの壮挙もさることながら、氏のこのひと言が本当にありがたい(^o^)ご同輩も多いのでは(笑)?周りを見て、来し方を振り返っては、少なからず焦燥し何かしらの疑問を感じはじめた近年だ。三浦氏のひと言は、真冬の陽だまりのように身も心もあたためてくれる。ご同輩の合の手が聞こえるようだ。「そうだ、その通り!」そしてコラムの結びが何ともオツではないか!『遠回りは、財産だよ』ま、要は遠回りして『何を』するかですね(笑)ご参考まで、三浦さんの快挙を扱ったコラム各紙の結びをご紹介する。■北國新聞 時鐘三浦流の「人生の数え方」を教われば、気分が晴れやかになる。「まだまだいける」と快挙にあやかりたくなる。■産経新聞 産経抄どんな状況に陥っても、高い頂に挑み続ける気持ちを忘れてはならない。それは国も人も同じではないか。三浦さんの喜びの声を聞いて、そう確信する。■静岡新聞 大自在自分なりの目標、ライフワークさえあれば困難や苦労も味わいとなる。超人から学ぶことは多い。■佐賀新聞 有明抄三浦さんの講演録にこんな一節を見つけた。「それぞれの夢に向かっての人生というのは、あきらめないで一歩ずつの精神が大切。そしていつか頂上に立ったら、次の夢に向かい、歩みを繰り返す」■高知新聞 小社会傘寿の快挙を喜ぶとともに、次の夢をどんなふうに語るのかも楽しみだ。■山形新聞 談話室今回の登頂成功は中高年に限らず、全ての世代を励まし背中を強く押してくれた。そう思う。■徳島新聞 鳴潮周りを見渡せば登山、フルマラソン、ボランティア活動―と、達者な「三浦さん」はたくさんいる。自分にとっての「エベレスト」をしっかり持つことの大切さを教えられる。■上毛新聞 三山春秋三浦さんは登頂後、「80歳でもまだまだいける」と述べたという。目標を持ち、挑戦する気概と行動があれば、老いを感じることはないのかもしれない。■福島民報 あぶくま抄〈年齢と向き合いながら挑戦するのは楽しい〉。三浦さんの声がヒマラヤ山脈から聞こえてきそうだ。■神戸新聞 正平調 三浦さんの登頂をまねることはできない。でも、手の届く世界で手の届く挑戦ならできる。せめて九掛けでも…と、あの笑顔に刺激された人は多かろう。■長崎新聞 水や空人類のフロントランナーの快挙に、「もう年だから」と、自分で線を引いてしまっていた心の中の境界が吹き飛ぶ思いをした高齢者も多いだろう。フロンティア・スピリットあふれる高齢化社会は楽しそうだ。■東京新聞 筆洗三浦さんが登頂で伝えたいのは、広い意味での冒険だという。家で打ちひしがれている人が、ちょっと外に出てみる。きのうまで通ったことのない道を、歩いてみる。自分の世界を日々少しずつ広げてみる。〈その先につながっている可能性は、何歳であろうと無限大〉だと。
2013.05.27
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