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沖縄に引っ越してきたばかりだけど、隣の部屋の奥さんに野菜をもらった。旦那さんの実家が近くで、そこで取れた野菜のお裾分けらしい。お裾分け、そういえば僕は経験がなかった。僕が生まれ育った大阪郊外の住宅街、そして大学の時から東京に十年間一人暮らしをしたが、どちらでもお裾分けを体験したことはなかった。もらった僕らとしても、今度何かあったらこちらからもお裾分けしたいな、という気持ちになる。実際、その後こちらからも野菜をお裾分けする機会があった。僕らには畑はないけど、妻の友達の家に言った時に野菜を大量にもらってきたのだ。友達のお父さんが趣味で作っている野菜だそうだ。二人では食べきれないから、菜っ葉がしおれる前に隣にお裾分けをした。隣の人から野菜をもらったからお返しなければ、というわけでもない。それに、僕らが作った野菜でもない。しかしお裾分けされたりしたり、というのはごく自然なことのように思えてくる。どうしてだろうか。これがスーパーなどで買ってきた野菜の場合、買いすぎたといって隣の人にあげたりはしない。しかし自分が作った野菜や、親戚身内からもらった野菜の場合は、多すぎるから近所の人にあげる、というのは自然な気持ちだ。「今年はキャベツが穫れすぎて値段が付かないから埋めて処分した」などというニュースを聞くと悲しくなる。お金にならないからといって食べ物を捨ててしまうのだ。「この魚は高級だからおいしい」「この魚は今いくらでも取れるから価値がない。肥料にでもすればいい」という話を聞くと、魚そのものに高級も低級もないのにな、と思ってしまう。近所の知り合いや友達が分けてくれる野菜。これは値段が付けられない。ゼロ円とも言えるし、無限の価値を感じることもできる。僕の近い夢は、自分でもささやかな畑を持って、自分の作った野菜をお裾分けすることだ。安らぎのポストカードあります。
2007/01/31
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湿度、湿気。あんまりいいイメージはないと思う。じめじめ、むしむしする梅雨や暑い夏は汗もべとついて気持ち悪い。けど僕は湿度って結構大事なんだな、と思っている。僕はニュージーランドに三ヶ月住んでいたことがある。大人になってからホームステイしに行ったのだ。日本の冬、南半球のニュージーランドは真夏だった。夕食を終えてぶらっと散歩に行った。入り組んだ湾と丘ののどかな町なので、程よい間隔で立っている住宅を眺めながらゆっくりと歩いていく。初めは気付かなかったのだけど、何回か散歩に行って気付いたことがあった。よその家から夕食の匂いがしてこないのだ。日本の住宅地なら、夕食時いろんな匂いがしてくる。みそ汁の匂い、魚を焼く匂い、カレー、中華かな?…など様々だ。それが感じられないのだ。確かにニュージーランドは日本人のように世界中の料理をアレンジして家庭で食べる習慣はほとんどない。牛肉かチキン、それにポテトという毎日だ。それでも夕食の香りがしてきてもいいと思う。それは湿度がないからだ、そう気付いた。僕がホームステイしていた町は、海のすぐそばなのだけど、湿度が低い。洗濯物を南に干す習慣もなく、北側の裏庭に干している。それでもちゃんと乾くのだ。ついでに言うと布団も干さない。浜や磯に行ってみても、海の香りがしない。何か物足りない気がした。ニュージーランドから帰国してすぐに僕は沖縄に引っ越した。空港に着き、飛行機から飛行場への通路に入った途端、むわっとするぐらいの湿気を感じた。「これだ」僕はにんまりした。町に出ると食べ物の匂い、果物の香り、生活の匂い、色んな匂いがしてくる。なんだか生きているっていう実感がしてくるのだ。僕はアロマやら香水なんかはあまり好きではない。人工的に精製された香りは、湿度の低い場所の人が考えた文化だと思う。それよりも海の香りや森の香り、土の香り、雨の香り、そういう自然の豊かな匂いを感じるのが好きだ。身近な香りを感じれることが、生活を楽しむことのひとつじゃないだろうか。そう思ったりする。「あなたの色と形、描きます」お好きな色と形を選んで、あなただけのクレヨン画を描きます。
2007/01/26
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僕は絵を描いている。 好きで絵を描いているのだが、依頼があれば人のためにも描く。「あなたの色と形、描きます」というのをやっている。 これは丸や四角、水滴、波など、単純な形と二つ色を選んでもらって絵を描くというものだ。依頼する人は他に注文を付けられない。 一番依頼で多いのは、丸である。 ただ丸を描くだけ。それで僕は一万円とる。 高いと思う人もいるだろう。誰だって丸ぐらい描ける。画材だってクレヨンだ。僕はキャンバスに描いているけど、普通に売っている。丸を描いてもらうだけで一万円なんて馬鹿げていると思う人がいても当然だ。 僕の描く絵の半分ぐらいは、このようなただの形だ。色も二色ぐらいしか使っていないように見える。そこには緻密な技術で模写するような技術は全く存在しない。 丸の依頼を受けた時には、ただひたすら丸を描くだけなのだ。 選んでもらったふたつの色に対するイメージを前もって聞いている。それを思い浮かべ、頭の中で咀嚼する。例えば黄色と緑なら、どんな黄色、どんな緑なのかを考える。どんな組み合わせにするか想像してみる。 しかし、実際に描いている時は無心だ。これだ、と思った色を手にとって丸を描き始める。 ぐるぐる、ぐーるぐる、ぐりんぐりん、ただただ丸を描いていくのだ。 たまに別の黄色に持ち替える、思いつくままに緑を乗せてみる。どんどん塗り重ねていく。 そこには失敗も、間違いもない、やり直しもない。ひたすら描いた丸が完成しているだけだ。 その時、いつも僕は自分の目がじわーっとしみるのを感じる。まばたきを忘れているらしい。そして頭がくらくらする。作業スペースであるちゃぶ台から立ち上がって、洗面台で手を洗い流すことに爽快さを感じる。 出来上がってから二、三日寝かすこともある。机の上に出しっぱなしのこともあるし、しまっておくこともある。しばらく経ってから改めて見てみるのだ。 それを見て、依頼した人の言っていた色や形のイメージとしっくり来たと思ったら完成だ。それをスキャンしてメールで依頼者に見せることにしている。OKをもらえれば、お金を振り込んでもらってから発送する手順だ。「もし気に入らなかったら、支払わなくても構いません」 初めにそう言ってあるが、これまで気に入らないと言われたことはない。 自分でしっくりこなくて、初めから描き直したことはある。依頼者に見せる前の話だ。 ただ丸を描くだけで一万円とる男。 しかしその丸には僕の全てが凝縮されている。
2007/01/24
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身を軽くして、はばたこう。ゆっくりと羽を動かし、空気を捉えて。暖かな日に向かって、花を探しに出よう。---久しぶりに絵を描きました。生活が落ち着いてきたので、絵を描きつつ文も書いていきます。「あなたの色と形、描きます」お好きな色と形を選んで、あなただけのクレヨン画を描きます。
2007/01/23
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ひとりで散歩に出かけた。岬の展望台の下に浜があると聞いていたので、見に行きたかったのだ。まだ引っ越して間もないから、歩いていける範囲がどんな感じなのか知りたかった。草が生い茂るちょっと急な階段を下っていくと、黒い蝶が舞っていた。周りは緑ばっかりなので、真っ黒な蝶は目立っていた。黒ベースに、オレンジの模様が入っているものが二羽三羽と、ひらひら舞ったり目の前の白く小さな花に留まったりしていた。僕が近づいても逃げる様子はない。のどかなものだ。目の前でじっくりと見ることが出来た。もう少し階段を下っていくと、また黒い蝶がいた。今度は模様の色が違う。紫と黄色のもの、青っぽいもの、数羽がやはりのんびりと舞っている。やはりあまり逃げることもなく、その美しい羽の色を見せてくれた。階段を下り切って、細い舗装道に出た。T字路だ。うすぐ浜に出るのかな、と思って下る方に行ってみたら、なぜかすぐに行き止まりだった。そこは大きな水たまりがあって、生い茂った木の間がどろっとした湿地になっていた。泥の地面の水たまりだけど、水そのものは澄んでいた。何か生き物が泳いでいる。おたまじゃくしよりも大きく、黒い。よく見るとイモリだった。子供の時以来、生きているイモリを見た。十匹近くいる。その澄んだ水たまりで、イモリたちはたまに泳いだりして遊んでいた。真っ黒な背中に、金箔片を散らしたような模様があって、きらきら輝いていた。浜辺を探していた僕は、足を泥に取られないように気をつけて元の道を引き返した。程なくして浜辺の入り口が見つかったが、砂浜と言うよりも磯だった。ちょっとした漁港でもあるらしく、小さな船が三艘揚げられていた。潮が引いているらしく、かなり遠くまでごつごつした元珊瑚だった岩の地面がむき出しになって続いていた。潮だまりがいつくも出来ている。僕はすべらないように気をつけながら、ゆっくりゆっくり片足ずつ岩を踏みしめて海の方に歩いていった。珊瑚や貝殻の破片で出来た岩や砂は、僕が歩くとぱりぱりと砕ける小気味いい音をさせた。魚でもいないかな、と思ったけど、その潮だまりはあまりに浅すぎるのか魚の姿は見えなかった。ツクシのような形をした海の植物がゆらゆらと揺れていた。貝が動いている、と思ったらヤドカリだった。なかなか生きている貝は見つからない。しかしヤドカリを見つけたのも久しぶりかもしれない。普通の靴で歩いていけるだけでも数百メートルある。その先は海だ。しかしかなり浅いように見える。その先に波が立っているところがずーっと左右に続いている。珊瑚礁だ。遠くに珊瑚礁があるから、ここの磯はほとんど波もなくおだやかなのだ。さらにずっと先に無人島が見える。その左右にも波が立っているところがある。珊瑚礁が二重になっているらしい。まだ一月だけど、水はさほど冷たくない。昨日も近所の浜に行って、ズボンの裾を膝までまくって裸足で波打ち際をじゃぶじゃぶ歩いてみたけど、気持ちいいぐらいだった。この暖かさなら、マリンシューズを履いてくればもっと沖の方まで歩いていけるだろう。その楽しみはまた今度にして、今日は靴がぬれない範囲で磯だまりを楽しむとしよう。靴で行ける限界まで沖の方に来たので、岸の方に少し戻りながら別の潮だまりをのぞいてみた。僕がのぞき込むと、びゅっぴゅっ、と何かが逃げている。トントンミーだ。この言い方は沖縄生まれの妻に教えてもらった。トントンミーは小さなハゼで、岩と同じ色をしていて目立たない。すばしっこくて、人が来るとびゅっと逃げて岩の隙間に隠れてしまう。探してみたけど熱帯魚はいなかった。昨日はうちのすぐ近くの磯でその名の通り瑠璃色のルリスズメダイを数匹見た。チョウチョウオも三匹いた。ここの磯でももうちょっと沖に行って珊瑚礁の間の海の中にはいるかもしれない。また岸に戻りつつ潮だまりをしゃがんで見ていると、貝も見つけた。小さい宝貝で、沖縄ではモーモーと呼ばれているつるんとしたかわいい貝だ。貝殻はよく見るけど、生きているのを見るのは初めてだ。昔の中国でこの貝の仲間がお金として使われていた、というのに納得してしまう。ただ珍しいだけでなく何か価値を感じさせるものがあったのだろう。二時間ぐらい歩いてうちに帰った。夜、ごはんを食べながら妻にこの話をした。妻は車で野菜を買ってきていた。スーパーの半額ぐらいで野菜を買ってきたという。地元の農家の人が持ち寄って市場をしているのだ。その野菜の値札には作った人の名前まで印字されている。魚もその近くの漁港にある魚屋さんで買ってきたら、やたらと安くてしかもおまけしてくれたらしい。田舎だから不便なこともあるだろうと思っていたけど、安くていい野菜や魚が手に入るのだ。そういえば今日、僕は魚や貝、蝶、あと鳥もいろんな種類を見た。都会に行けば熱帯魚やペットショップで売られているようなものもいたけど、別に捕まえようとは思わなかった。だっていくらでもその辺にいるのだから。熱帯魚を水槽に入れたり、蝶を標本にしたりする必要はない。ただ近所を歩くだけで見ることが出来る。手間もいらないし、色んな種類のものが見れる。東京に住んでいた頃は、お金で何でも買えるものと思っていたけど、ここに来てみればお金を払わずに楽しめたり、安くでおいしいものを食べられたりする。今日食べている野菜は安いどころか、隣の部屋の奥さんが「もらいすぎて余ってるから」といってくれたお裾分けの菜っ葉だ。お互い引っ越してきたばかりなのに、近所づきあいも都会のものとはちょっと違う。東京や京都で暮らしていた時にはありえなかったことだ。今、子供がお腹にいるので妻は磯は歩けないけど、子供が生まれたら一緒に貝を捕りに行こうと思っている。もちろん、こどもが少し大きくなったら子供と行くのが楽しみだ。「あなたの色と形、描きます」お好きな色と形を選んで、あなただけのクレヨン画を描きます。
2007/01/22
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今までぼくは母が泣くところを見たことがなかった。母は涙を見せない人だという意味ではない。昔からテレビで放送している映画や見てすぐに泣いていた。ぼくが小学生の頃、そうやってテレビの映画で泣いている母を不思議に思ったものだ。一緒に見ていても泣くほど感動する映画ではないのに、と思っていた。母は今でもドラマを見てはすぐに泣いている。そんなに短いドラマの中でどうやって泣くことが出来るのだろうか、と思うぐらいだ。ぼくもたまに映画のDVDを借りて見ることはある。いい話に感動して泣くこともある。二十代の頃は映画を見てもあまり感動して涙するということはあまりなかったけど、三十代になってからぐっとくるようになった。トシと言ってしまえばそれまでだけど、自分の経験に重ね合わせたりできる部分が増えたのではないかと思う。ぼくは一人暮らしを始めた学生時代、そして自分で仕事をし始めてから、しみじみ良かったと感じたり、悩んでもがき苦しんだり、色んな経験をしてきた。それは親元にいた高校生までの時とは比べものにならないものだった。自活するということは、自分で考えたり悩んだり行動したりと必然的に多くの体験をすることになる。ぼくはこのところ日本の映画のDVDを見るようになった。盛んに宣伝されているようなハリウッド映画はつまらない。善悪の役柄がはっきりしていて、単純明快なアクションと恋愛話では三十過ぎの男の心は動かない。繊細な感性によってじっくりと練り込まれた日本人の監督の映画には心をぐっとつかまれることがある。そしてツボにはまると、どんどん涙が出てくる。ついでに鼻水も出てきてしまう。これは妻とDVDを見るようになってからのことだ。今までは、ごくたまに小説やストーリー性のある漫画に感動してぐっと来ることはあったけど、涙があふれてくるという程ではなかった。目の奥からぐ~っと熱くなってきて、涙目になる程度だった。もちろん話の内容によるのだけど、今では感動すると涙が次から次へと出てくるようになった。自分の経験を元に映画の中の人の気持ちを推察して、その人になった気分になれるようになってきたのではないだろうか。ぼくが妻と出会い一緒に暮らすようになって、相手の気持ちを思いやったり推察したりすることが増えてきた。一緒に生活していると、同じ苦しみや楽しみを共に体験するだけでなく、相手が苦しんでいることを聞いて苦しい気分になったり、うれしいことがあれば自分も喜びを感じる。そういうことがあって、あまり映画などに涙しなかったぼくも感動して泣くようになってきたのではないだろうか、と思うのだ。ぼくの母も、ぼくの子供時代には今のぼくと同じ歳を過ぎていたわけだ。だから今は映画を見て感動するという気持ちが分かるようになった。テレビで放送している映画を見て泣く母の気持ちが少し分かるようになった今、ぼくには母に対する不満ができた。短いテレビドラマでも感動して泣けるというのに、実際の家族の生活において感動して泣くということがなかったからだ。別にこれまではそれを不満に感じたことはなかった。疑問に思うこともなかったのだ。しかし妻と出会ってから、それを疑問に感じるようになった。ぼくと妻の生活では、うれしいことがあったり、お互いの不満がたまってけんかしたり、感謝したり、そんな中で感動して涙をこぼすことがある。毎日ではないにしても、年に何回かはあることだ。けんかはともかくとして、感動してふたりで涙することは少なくない。これは、ぼくの一人暮らしの十年間ではほとんどなかったことだ。一年だけ、妻と京都に住んでいたことがあった。ぼくの実家は大阪と京都の間の郊外にある。電車とバスを乗り継いで一時間の距離なので、たまにぼくと妻とで実家に一泊で出かけたりする。すると母は相変わらずテレビの映画を一生懸命見て泣いている。それを見て「昔からこうだったなぁ」と思い出したのだ。更に朝からドラマも欠かさず見ている。これは現役時代ずっと仕事に出ていた母にはなかったことだ。いわゆるドラマというのは、人生の喜怒哀楽を表現したものだと思う。テレビドラマも、母がテレビで見る映画も、主に家族の人生についてを描いたものだ。見る人は、話の中の家族の生活を見て感動したり感激したりするわけだ。毎日ドラマを見て、毎日ではないにしてもよく泣いている母は、そのドラマの中の家族の人生に感動して泣いているということになる。しかし本当の自分の家族との生活の中で涙して感動するということはない。ぼくの勝手な要望かもしれないが母を見ていると「ドラマで感動するのに、ぼくら家族との生活の中では感動して涙を見せてくれないのか」と思ってしまうのだ。そんなある日、妻が妊娠していることが分かった。ぼくたちの初めての子供である。妻が「もしかしたら」というので産婦人科に行ってみたら、やっぱりそうだったことが分かった。さっそく実家に電話した。たまたま母が電話に出た。ぼくは用事がなければ電話しないタイプで、世間話のような長電話はする気がしない。実家にも、土日にそちらに行くから、などという業務連絡のようなことしか言わない。「あ、もしもし」「ああ、安くん。週末うちに来るの?」「いやあのな、発表があるねんけどな」「何?」いつもの業務連絡以外の話に、母は意図をつかみかねていた。「お母さん、今日からおばあちゃんになりました」「は?」「お母さんは、今日からおばあちゃん、になったんです」「え・・・それってどういうこと?あんたらに、子供が出来たってこと?」少し震えた声になっている。「そう。だから今日からおばあちゃん、やねん」「ほんま・・・。そう。よかった・・・。ほんま、よかったな」更に涙声になった声が聞こえてくる。こんな母の声を聞いたのは初めてだ。電話の向こうで顔をしわくちゃにして泣いている姿が見えてくるようだ。「うん・・・。ありがとう」そう言って電話を切ったぼくの目も熱くなってきた。「お母ん、泣いとった。泣いて、よかったな、て言うてたわ」ぼくは妻にそう言った。そして涙がこぼれた。「そう。良かった」そう言った妻も、涙目になっていた。
2007/01/19
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京都から沖縄の田舎に引っ越した。 田舎といっても那覇から車で一時間もかからない。 引っ越しが終わった夜。ぶらっと近くを散歩してみた。 星が見えた。 街灯は少しあるけどかなり真っ暗で、目が慣れてくると星座だけでなく間の星もいっぱい見えてきた。 「空が、黒い」 そう思った。 濃い青だったりグレーではなく、真っ黒の空が広がっている。 その中に真っ白に輝く砂を散らしたように星々がある。 沖縄に来てからテレビを見ていない。夜、ご飯を食べたらすることがない。 退屈しのぎにテレビを見る代わりに散歩したら、白と黒の星の世界が見れた。 テレビなら今時白黒もあったものではないけど、星は昔から変わらず白黒だ。 テレビ番組のように衝撃映像やお得な情報はないけど、星は何かを語りかけてくれるような気がする。 大きな、大きな、夜空のスクリーン。
2007/01/18
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スーパーまで車で十分は遠いか久しぶりにいとこに会った。僕と同い年。子供の頃は僕の実家の大阪から神戸のいとこの家まで、両親と共に正月などに遊びに行ったものだ。トランプをして遊んだ記憶もはっきり残っている。今はすっかりお互い大人。三十半ばである。僕は一年ほど妻と京都に住んで、また沖縄に引っ越そうということになっていた。「沖縄の田舎に引っ越すんだ」僕はそう言った。「へえ。京都より沖縄がやっぱりいいの?」「うん。海の近くに住みたくてね」「田舎って、不便じゃないの?」「まあ田舎って言っても那覇空港から一時間かからないし、大きなスーパーも車で十分ぐらいだよ」「十分?遠いな~」「遠い?十分だよ?」いとこは大阪の市街地に住んでいる。2LDKのマンションを買って独りで暮らしているという。マンション仲介の会社に勤めているらしい。「広さは?」」「2LDK」「え?狭くない?」「まあ二人だし、もうすぐ子供が出来るけどしばらく小さいしね」「ふうん」「そういえば、結婚はしないの?」「しないよ。一人が気楽だもん」「そう…」いとこは、彼女はいると言っていたけど結婚するつもりはないという。お互いそのつもりなのか、一方的なものなのか…久しぶりに会ったいとこには聞きにくい。そして僕と妻はそれから数日後、沖縄に引っ越した。確かにスーパーまでは車で十分かかるし、ホームセンターやまともな電気店などは一時間かかる。けど海は目の前、歩いて三分でビーチもある。朝起きたら、海の向こうの雲間から朝日が降りそそぐ。ぎゅっぎゅっと砂を踏みしめて足跡をつけながら浜辺を歩いてみる。静かな波音を聞き、海風を感じながら、目を閉じて歩いてみる。自然と深呼吸して、湿った涼しい空気を吸い込む。近所の人とすれ違い、挨拶をする。どれもこれまでの今日との生活ではなかったことだ。僕は大型スーパーまで徒歩三分、駅も電気店もカフェも飲み屋も徒歩圏内にいっぱいある東京や京都に住んでいたことがある。けど浜まで徒歩三分、スーパーは十分かかる今の沖縄の田舎の方がしっくり心地良い。
2007/01/16
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おばあさんの四分の一おばあさんが亡くなった。正月の五日だった。僕が沖縄にまた戻ることを決めて、引っ越しをする前日だった。僕にとって最後の祖父母だったから、死に目に会えて良かった。もう米寿、八十八になっていたしここ二、三年は介護が必要でホームに入っていたから、そろそろお迎えが来てもいい時期ではあった。四月に僕達の初めての子供が出来る予定なので、おばあさんにとっては初曾孫になるはずだった。それを見せられなかったのが残念だった。僕の母の兄が喪主となって、お通夜と葬儀が行われた。もちろんおばあさんが亡くなったのは悲しいけど、僕は涙が出なかった。おばあさんがホームから病院に運ばれたと聞いて母と僕の妹共に駆けつけて、もう意識ははっきりしていなかったけどちゃんとお別れが出来たからだ。その時にさんざん泣いて、なんだかすっかりおばあさんが天国に行く見送りをすました気持ちになっていた。葬儀場で葬式を済ませ火葬場に出棺するという時、もう棺のふたを閉めるからこれで顔が見れなくなる、と言われた。すっかりドライアイスで冷たくされていたおばあさん。僕としてはこのおばあさんの体には魂が入っていなくて、魂とは一日半前にお別れの挨拶をした、と思っていたのに、もうこの顔も見ることが出来ないと思うと涙がこぼれて来た。ホームでほぼ寝たきりの生活を送っていたおばあさん。叔父さん夫婦や母は週に一度会いに来るが、やはり寂しかったと思う。三ヶ月前、僕の妹がしゃべったり歌ったりする子供の形をしたぬいぐるみの人形をプレゼントしていた。おばあさんはそれとよく会話をしていた。その人形は、本当に人の話を聞いて反応しているわけではないけど、手や顔などにセンサーが付いていてそれっぽく会話している気分になれるのだ。棺のふたを閉める時、その人形があどけない声で元気にしゃべった。「ありがとう!」おばあさん、ありがとう。ぼくはそう思った。母が産まれてすぐに旦那さんが徴兵されて軍艦に乗って南の島で沈んでしまい、それからずっと女手一つで叔父と僕の母を育ててくれたおばあさん。僕が産まれたら、共働きの僕の両親のためにこれまで住んでいた淡路島から大阪に育児を手伝うために出て来てくれたおばあさん。ありがとう。本当にありがとう。その人形は、僕らの気持ちを代弁してくれた気がした。「もうおばあさんとは会えないんだな」火葬が済んでお坊さんがお経を唱えてくれていた時、僕はそう思いながらふと前の席を見た。そこには叔父さん夫婦の子供、つまりぼくのいとこである姉弟が座っていた。僕の隣には妹がいる。「…あ。おばあさんはもういないけど、ここにおばあさんの一部がそろってるじゃないか」いとこ姉弟と僕と妹の四人。おばあさんの四分の一ずつは、確かにここにいる。母と叔父さんには二分の一ずつ。そこから僕らが分けてもらって四分の一ずつ。そう思うと、自分でなるほど、と納得した。僕は、このおばあさんの四分の一。そしてその旦那さんの四分の一も入ってる。それから父方の祖父母の四分の一ずつも入っている。その四分の一が四つあって、僕が作られているんだ。そういう感じが、しっくりきて、ぼくはなんだか自分の存在が確かに思えた。そして、僕と妻の半分ずつ、おばあさん達の八分の一で僕らの子供も生まれてくるんだ。
2007/01/15
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沖縄に引っ越しました。南部の、静かな海の近くです。歩いて二分で磯があって、そこから三分で浜もあります。ダウンジャケットを着て、毛糸の帽子と手袋をしても寒さで震えていた京都から、楽園のような気候の沖縄へ。朝は長シャツにセーター、島ぞうり(ビーチサンダル)で浜まで散歩してきました。広~いベランダに洗濯物を干して、これから朝市にでも行ってこようと思います。
2007/01/14
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