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もうこ らい らいさんよう 蒙古来 (頼山陽) ちくかい ぐ き てん つら くろ うみ おお きた もの なん ぞく 筑海の颶気天に連なって黒し。海を蔽うて来る者は何の賊ぞ。 もうこ きた きた きた とうざい しだい どんしょく き 蒙古来る、北より来る。東西次第に呑食を期す。 ちょうか ろう か ふ おど え こ じ き ぎ だんじ くに 趙家の老寡婦を嚇し得て、此れを持して来たり擬す男児の国。 さがみたろう たん かめ ごと ぼうかい しょうし ひと おのおの つと 相模太郎 膽 甕の如し、防海の将士人 各々 力む。 もうこ きた われ おそ われ おそ かんとう れい やま ごと 蒙古来る、吾は怖れず、吾は怖る関東の令 山の如きを。 ただ すす てき き かえり ゆる 直ちに前み敵を斫って顧 みるを 許さず、 わ ほばしら たお りょかん のぼ りょしょう とりこ わ ぐんかん 吾が檣 を 倒し虜艦に登り虜将を擒にして、吾が 軍喊す。 うら べ とうふう いっく だいとう ふ せんけつ ことごと にっぽんとう ちぬ 恨む可し東風一驅 大涛に附し、羶血をして尽 く日本刀に膏らしめざりしを。詩文説明(弘安4年夏)筑前博多の海には時ならぬつむじ風が起こり、黒雲が湧き上がり、陽光を遮り天と海水が連なった様で何やら怪しげな雲行きとなった。(元兵の来寇を譬えた)。海を蔽うような船団の襲来である。一体何者ぞ。何処からの敵ぞ、北から侵寇してきた蒙古(元)の敵である。蒙古は東西の国々を次第に併呑しようとして、まず趙宋(宋は趙姓)の老寡婦(南宋は幼い王で母の楊大后が政治を行っていた)を威嚇して之を滅ぼし得たので、同様の手段で我が日本男児の国に臨んで来たのである。しかし時の執権相良太郎北条時宗は、胆は甕のように大きく、「虜奴無礼なり」と、使者を斬り、命を受けた防海の将兵(河野通有他数人の果敢な兵)はそれぞれ防備につとめたのである。皆は言う、「蒙古が来襲しても吾々は怖れない。吾々はむしろ「突進して敵を切れ、一歩も退くな」という関東の山の如き厳命を怖れるのである」。と。中でも音に聞こえた優勝河野通有は、小舟を漕ぎ寄せ、檣を倒して直ちに慮艦に攀じ登り、敵将王冠なる者を捕虜にした。どっと喊声が我が軍中に湧いた。ただ、恨めしいことに、その夜東風が大涛を駆って虜艦を覆没させ、ために一兵残らず死んでしまったので、彼らの血を日本刀に塗ること(切り殺す事)が出来なかったのは、かえすがえすも残念であった。解説蒙古に興って、中国はもとより、東は朝鮮から西はヨーロッパの中央までをその領土とし、国号を元と改めた忽必烈は日本をも属国にしようととして、亀山天皇の文永5年正月、朝貢を促してきた。そして翌年、また8年、10年と再三使者をよこしたが、執権北条時宗は返事を与えず、使者を追い返した。11年亀山天皇譲位され、後宇多天皇即位、そして10月、元は3万余の軍勢で来寇、20日博多に上陸した。わが軍の被害も大きかったが、その夜、暴風雨となり、元の兵船多く覆没し、沈没を免れた者は本国に逃げ帰った。翌建治元年4月、また元の使者が来たが、時宗はこれを龍口に斬らせた。ついで弘安2年夏、元の使者が来たのを、また博多で斬った。4年6月、凡そ14万の兵を以て再び来寇したが、この度は防備が厳重で上陸できず、わが軍は小舟で敵艦に逼り、火を放って応戦した。河野通有の奮戦などは後世の語り草となっている。7月、元の軍が肥前鷹島付近に集合した所、夜半から暴風雨となり、舟は殆ど覆り、敵兵は残らず溺死し、本国に帰った者は僅かに3人に過ぎなかったという。 左写真は肥前鷹島のモンゴル村と云う所です。右写真は鷹島周辺の海の沖で元軍が集合して博多湾に続き再び暴風雨に遭い、多勢の兵が溺死した辺りではないかと想像してます。左から蒙古船。次は河野通有以下数人が蒙古船に乗り込み活躍する。3番目はNHK大河ドラマの蒙古軍の侵入。右写真は福岡西区今津の元寇防塁跡地(福岡には現在、元寇防塁跡地が他にも数ヶ所あります) 博多湾の戦いで敵中に乗り込む竹崎季長、中心に大きく破裂弾(「てつはう」と云ってくす玉状の鉄の球に火薬を詰め投石機で飛ばす)。右は石築地の前を行く肥後の竹崎季長主従の雄姿。左は北条時宗像。中央は日蓮上人と立正安国論。右は日蓮上人が法華経の教えを説いたあたりと云う辻説法の碑。 左写真は今年(2009)4月18日開通した長崎県で2番目に長い鷹島大橋。右は長崎新聞で元軍の大いかりを今年本日5月3日より公開を始めたというニュース記事。左福岡市早良区祖原公園の元寇碑。 左2番目が鷹島の元寇碑。次が志賀島の蒙古軍供養塔。 右は壱岐の元寇千人塚。 2001年3月1日~12月2日迄シーサイドももち海浜公園でNHK大河ドラマの「中世博多展」が開催されました時の写真風景です。左が全体の風景。次は蒙古船で後ろに福岡タワーが見える。右から2番目は日本に帰化して博多駅近くの承天寺を建立したといわれる貿易商の謝国明(ドラマでは北大路欣也)の館。
2009年05月29日
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よしの あそ らいきょうへい 芳野に遊ぶ 頼 杏坪 ばんじん すい こ ほうそう みだ かんがい たれ よ われ おな 万人 酔を買うて芳叢を 撹す。 感慨 誰か能く我と同じき。 こんさい ざんこう と きた む えんげん りょうじょう らっか かぜ 恨殺す残紅の飛んで北に向かうを。 延元 陵上 落花の風。 詩文説明春の吉野に来て見れば、大勢の群衆が飲めや歌えの大騒ぎ、花下の美しい芳草は惨めに踏み荒らされている果たしてこの中に自分と同じように南朝の昔をしのいで、感慨に耽って居る者はいるであろうか。苦々しい限りである。さらに恨めしいことは後醍醐天皇の御陵の上から吹いてくる風に吹かれて散り残っている花までが、北に向かって飛んでいるではないか。(延元陵は後醍醐天皇陵のことです) 左は桜の下千本の場所で大型バス着いた場所。。 右は花見客で賑会っているが、果たしてこの中に南朝の昔をしのぎ、感慨に浸っている者がいるであろうか。 後醍醐天皇遺勅「玉骨は縦令南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う)ということで。御陵は北に向って建てられています。やはり、後醍醐天皇の御魂は昔の京都の朝廷が忘れられないのである。凱旋する事がのぞみであった。無念さが伝わります。 左は北を向いてる御陵。右は吉水神社に現在、座布団だけが敷き置かれている玉座の間に後醍醐天皇の画像を座らせました。 北闕門と後醍醐天皇の玉座説明。 奈良吉野の如意輪寺にある後醍醐天皇の遺品
2009年05月22日
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よしの こうのてっとう 芳 野 河野鉄兜 さんきん きょうだん よる りょうりょう 山禽 叫断 夜 寥寥。 かぎ な しゅんぷう うら いま しょう 限り無きの 春風 恨み未だ 銷せず。 ろが えんげん りょうか つき 露臥す 延元 陵下 の 月。 まんしん かえい なんちょう ゆめ 満身 の 花影 南朝 を 夢 む。 詩文説明 真っ暗やみの中に、しじまを破って山鳥が一声高く鳴い た。延元陵(後醍醐天皇)の辺りに吹き寄せる春風は 生暖かく吹いて、後醍醐天皇の恨みが未だに籠っている ように感じられる。朧月の明かりがこの陵下を照らす中、 せめて今宵一夜でも御霊をお慰め申そうとの露天に寝 ころび、全身に桜の花影につつまれながら、いつしか うつらうつらと眠りに入り、南朝時代の夢を見ていた。 ※延元陵とは御醍醐天皇の御陵を指します。 右側の後方は 金剛山寺蔵王堂。 ※「注」この風景は詩文の内容に合わせて合成したもので ありまして実際とは異なります 吉野朝皇居跡と御醍醐天皇像 山一面の桜 吉野山。 右図は、(後醍醐天皇の不思議な夢と楠木正成の登場)紫宸殿の庭先に常磐木の葉が茂っている。特に南側の枝が勢いよく、その下に大臣以下の高官が居並んでいる。南に面した上段に畳を敷いたお座席があるが誰も座っていない。そこに童子が現れて涙ながらに「日本国中、束の間も御身お隠しなさる場所がございません。あの木の陰の南に向いたお席が、あなたの為に設けられた玉座でございす」といって天空遙かに飛び去ったところで夢から覚めた。「木に南と書けば『楠』とう字になる。その木陰に向かって座れ というのは、楠という字にゆかりのある人を召して国を治めよという事に違いない」とこの夢を解かれ寺の僧に尋ねると河内の国(大阪府)の金剛山の麓に楠木多門兵衛正成という武名を謳われた者がいるとのこと、正しく夢のお告げの通りだと喜び呼び寄せることになった。楠正成を尋ね出し、楠木正成は感激して参上した。(まさしく太公望の再来のようですね。中国殷時代の「覆水盆に返らず」の言葉を残した呂尚(太公望)は周の文王が父の太閤がいつか聖人が現れて周の国を興してくれると云っていた。ある猟に出る時占いにより、「覇王の輔ならん人物と出会う」とでた。渭水の畔で釣りをしていた老人と出会い、話して行く内にこの人が父が求めていた 人物に違いないと悟り「どうか私の師父となって導いて下さい」と頼み込む。このことで、呂尚は太公望と呼ばれるようになった。現在釣り人の事を太公望と云ってますが、この故事から来たものです。呂尚は文王の師となって周の繁栄をもたらした。 後醍醐天皇の夢と良く似てますね)奈良吉野の如意輪寺にある河野鉄兜の詩「芳野」の掛軸。 右は神戸兵庫区にある湊川公園にある楠木正成像。 作者説明幕末の漢詩人。名は羆。字は夢吉。通称絢夫。号は鉄兜・秀野。播州(兵庫県)網干余古浜に医科河野通仁の三男として生る。15歳にして一夜百詩を賦し神童と称せられた。吉田鶴仙・梁川星巌に師事。24歳で江戸に出、諸家と交わり頭角を現す。 一時才名と轟かし、誇り礼を失するところが有った為、酒の席上議論となり剣を 抜いて襲われそうになったが宗像蘆屋が身を以て庇い危機を脱したことも有った。以後、讃岐・大阪・山陽・九州に遊び、木下韓村・草場はい川・広瀬淡窓らを歴訪し帰藩、家塾を開いた。医家よりも詩人として名高い。43歳没。
2009年05月16日
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よしのかいこ やながわせいがん 芳野懐古 梁川星巌 こんらい こおう こと ぼうぼう せきば こえ な ほうど あ 今来 古往 事 茫々。 石馬 声 無く 抔土 荒る。 はる おうか い まんざん しろ なんちょう てんし ぎょこん かんば 春は桜花に入って満山 白し。南朝 の 天子 御魂 香 し。 詩文説明ここ吉野山の塔尾の陵に来てみれば、昔から今に至るまでのことは、ただ漠然としてまるで夢のようである。陵の前の石馬は声もなく、何も語ろうとしない。この辺りはひっそりとして荒れ放題でまことにおいたわしき限りである。今は春、桜花の季節になって山全体に咲き乱れてる花は真白で真に美しい。花だけが、静に眠り給う後醍醐天皇の御霊を御慰めしているかのようで、御霊もさぞかしご満足されていることであろう。詩文では梁川星巌が吉野を訪れた時は、荒れ放題の吉野塔尾陵とありますので右の今回写してきた塔尾陵を基に荒れ果てた陵を想定して石馬も配置してみたのですが、荒れ果てた姿は作ってもこんな立派な陵ではなかったと思います。昔のことでコンクリートの石段、鉄製の門構えが有る筈もなく、墓石の周りは草木に覆われていたことでしょう。石馬は昔はあったのかどうか知りませんが見当りませんでした。昔あったのなら取り除くことはないように思います。中国では墓陵に石馬を立てる風習があったらしく、楊貴妃墓前にあります。北京のい和園には伝説の麒麟の石像がありました。他に銅製の獅子などあり日本ではお墓には石馬(狛犬)などは見かけないように思われます。日本ではお墓でなく、神社ではどこでも狛犬を見かけます。先日下関の高杉晋作の像がある日和山や厳島神社(山口県下関)にも立派な獅子の狛犬さんを見かけ撮影して来ました。 掛け軸は如意輪寺像 俗に芳野三絶」とあります。 右は梁川星巖画像芳野懐古という同じ吉野を詠った題名の詩が沢山あり、その中で特に素晴らしいと思われる作者「梁川星巌」「藤井竹外」「河野鉄兜」の詩の事を三絶と云って如意輪寺に展示されてありますが、日本漢詩には、梁川星巌を省いて「頼杏坪」を加え、芳野三絶に加えてあります。芳野4絶といっても良い位、甲乙付け難いものと思われます。芳野山は、ほぼ山全体が桜に覆われています。桜名所も下千本・中千本・上千本などが有り、右は今峯寺横の通り道でこの辺りを下千本といってるようです。 作者 梁川星巌 寛政元年(1789)~安政5年(1858)美濃(岐阜)安八郡曽根村に生る。名は孟緯。字は伯兎・公図。号は星巌、天谷。15歳で江戸に出て古賀精里、山本北山に師事する。後、妻紅蘭(詩人)を連れ共に各地を漫遊20年。天保5年(1834)に玉池吟社を作り名声四方に聞こゆる。門人に菅茶山、広瀬淡窓、大沼枕山、小野湖山、森春涛等多くの逸材を出す。文の山陽、詩の星巌と唱われ、山陽も詩について教えを乞うたという。常に尊王愛国の志篤く漢詩を以て時弊を諷し、王政復古の基をなしたという。尊王倒幕に狂奔した為、幕吏に捕えられんとしたが、幕吏が来る3日前に急死したそうです。妻紅蘭は捕えられたが、直ぐに釈放されたようです。世人は「星巌は詩に上手、死に上手」と評したという。
2009年05月09日
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よしの かいこ ふじいちくがい 芳野懐古 藤井竹外 こりょう しょうはく てんぴょう ほ さんじ はる たず はる せきりょう 古陵の松柏 天ぴょうに 吼ゆ。山寺 春を尋 ぬれば春 寂寥。 び せつ ろう そう とき は や らっか ふか ところ なんちょう と 眉雪の老僧 時に 帚くことを 輟め。落花 深き 処 南朝 を 説く。 詩文説明吉野山の如意輪寺桜の花見に来たのだが、古い御陵のあたりに生えた松や柏の木は強い風に唸りを立てている。花はおおかた落ちて人影もなく、寂しい限りである。たまたま眉毛が雪のように白い老僧が辺りを掃いていたが、掃除の手をやめて落葉の多い中で昔の南朝の話をいろいろと説明をしてくれた。 藤井竹外は一人で如意輪寺を訪ね偶々掃除中の白眉の老僧が手を休め話してくれたのでしょうけど、詩文説明のため、遊び心が起こり、聞き手を3人に増やし落ち葉を作成。しかし実は藤井竹外に代わって聞いているのは私一人です。髪の毛も二人は黒くし、白眉の老僧も含めて1人4役を」演じた合成写真です。右の如意輪寺の境内の写真を元に左の写真を作成しております。 左は以前作った風に音を立てている松の木です。右は南朝の後醍醐天皇の御陵です (奈良県吉野山)。 左2枚の掛け軸は如意輪寺に展示してある藤井竹外の漢詩の掛け軸です少し光が入りました。 左から南朝の話の中の中心人物、後醍醐天皇・楠木正成・足利尊氏。
2009年05月01日
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