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平成22年(2010) 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。 (下の写真は福岡市内) みどり 御製 (和歌詩文説明)一面広々として清く青く澄んだ大空の様のように、自分の心も広々とこのように大きくありたいものだ。明治天皇嘉永5年(1852)~明治45年(1912)。第22代天皇。孝明天皇の第2皇子。祐宮睦仁親王。御母は大納言中山忠能の女慶子。16歳で即位。在位46年。明治維新を完成させ、近代化を果たし世界を驚嘆させた。 私の初夢。富士山が写し出され、その内グラグラと揺れたかと思うと、頂上が噴火し、なんと札束が湧き出すは寅が札束を加え飛び出すはで驚嘆。国内に景気が訪れ、国民は潤い貧困者がいなくなったという。乞う有りたいですね。 皆様方には幸多き良い年で有ります様 心よりお祈り申し上げます。
2009年12月31日
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石童丸 松口月城 かるかや せき 花に雨 有り月に雲有り。 悲風 亦 吹く刈萱の関。 しげうじ ほんぜん 繁氏 翻然 仏道に入る。 出家 遁世 高野の山。 故郷の遺児石童丸。 憐れむ可し当年十四歳。 うんざん 母を伴うて雲山 父を尋ねて来る。 人間 誰か耐えん此の恩愛。 ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思う母かとぞ思う(和歌・行基作) ぎが 霊峰 巍峨として雲間に聳ゆ。 之を仰ぎて一夜 喜 び眠らず。 悲しい哉 女人 禁制の 処。 母を残して独り登る伽藍の辺。 西を訪い東を 尋ねて父を得ず。 夕陽 山に沈んで已に蒼然。 無明 橋畔 僧侶に逢う。 右手に花 桶 左 に珠数。 母を背に父を訪ねて山深く入りにし童子の心悲しむ(和歌・作者不詳) 慇懃 肩を撫でて情 殊に深し。此の僧 或いは是吾が父なる莫らんや。 はいふ えぐ袖に縋りて語らんと欲す無限の思い。道心 之を聴いて肺腑を抉らる。 ああ ぼうだ 嗟 仏道 是か恩愛 非か。 熱涙 滂沱として法衣に落つ。 忽 ち聞く暮鐘 無常の響き。 杜鵑 一声 血に啼いて飛ぶ。 尋ねる父とは知らねども互いに通う親と子の絆ひかるる後髪麓をさして下りゆく (今様作者不詳) 詩文説明(室町時代初期の頃の話といわれる。九州筑前御笠郡の刈萱荘博多の守護職にあった加藤繁氏は或る日、その妻と妾の髪の毛が蛇となって絡み合うのを見て、《妻(桂子)と妾(千里)が囲碁をしてのが蛇の絡み合っているように見えた》世を捨て、高野山に入って刈萱道心となる後千里に子供が生まれ14年後その子石童丸は父に会いたさに母を連れてはるばる高野山を尋ねた)。花に雨有り、月に雲有り、悲風また吹く刈萱の関。加藤繁氏は妻二人の争いは自分の責任と心を改めて仏道にはいり、世を逃れて高野山へ籠った。遺児石童丸は、まだ14歳。父を忽然と失ってこの哀れな少年は、父との再会の念抑えがたく、母を伴って故郷の筑紫の町を出発、高野山へやってきた。人間として父への慕情の念を誰が抑えることが出来ようか。高野口の宿に着き、雲の間に高野山の霊峰が聳え立つのを仰ぎ見て夜に入っても喜々として眠ろうとせず、明日はいよいよ高野へと勇んだが此処は悲しい哉女人禁制という厳しい掟のある処、やむなく母を麓に残し、石童丸一人で登り、山中西に東に父を求めた。だが、父の姿はなかなか見つからない。夕陽はすでに沈み、辺りは薄暗くなろうとしていた。そのころ、無明橋のほとりで、何人目かの僧侶に逢った。右手に花桶、左手に数珠を持ってい入る。僧侶は石童丸の肩を優しく撫でた。新愛の情が深く伝わってくる。石童丸は、もはや、このお坊さんが自分の父ではないかと、袖にすがり、父への限りない慕情にかられて、自分の素性、自分が父の姿を求めて、筑前博多から遙々この高野山にやってきたことを語りかけた。これを聞いていた僧は、ギクッと驚き、肺腑をえぐられるような心痛を覚えた。それもその筈、この僧自身、石童丸の父、かっての加藤繁氏だったのである。しかし、今は修業の身、その名も刈萱道心である。名乗るべきか、恩愛に傾けば名乗るべきだが、仏道に生きようとすれば名乗るべきでない。涙がとめども無く流れ、法衣を濡らしていく。心は千々に乱れていくが、そこに暮鐘が山中に響くのを聞き、ホトトギスの強烈な声を残して飛んでいくのを見て、仏道にある身を感じて、ついに親子の情を断ち、名乗らずに終わったのである。※ 漢詩は此処で終わっていますが、この僧(父)は修業の身で名乗ることを諦め、 汝の父は既に没したと他の墓を見せて帰ることをさとし、石童丸は泣く泣く麓に下るが、待ちわびた母も長旅がたたったのか発病して他界していた。天涯孤独になった石童丸は父である刈萱道心を頼って仏門に入り弟子となって道念と名乗った。その後、刈萱道心は信州の善光寺に赴き地動菩薩を彫って建保2年(1214)没した。石童丸も後を追って信州に移り、父と同じく菩薩を彫り、現在も「親子地蔵」として信仰されているという。刈萱道心は亡くなるまで父であることを名乗らなかったといいます。 下は福岡市内 石童丸遺跡御笠川。 中央2枚・石堂橋のたもとレリーフ(石童丸母子)。右は石堂橋文字。 写真は福岡市東区御笠川の 石堂橋周辺・石童丸物語の発祥地石堂丸地童尊の祠・門の中には石童丸地動尊にお花が供えてある。石童丸説明文。 福岡都府楼の刈萱関跡。丸い石碑には石童丸伝説の関所の説明が書いてある。下は福岡篠栗26番礼所付近の石童丸父子の地動尊が安置されてる処。 福岡県篠栗の88ヶ所巡りの内の26番礼所と刈萱堂掲示板とずらりと祀られている地動尊。他にも沢山の如来像がありました。高野山での父子対面の場所は漢詩内容で無明橋付近とあり又、右手に花左手に数珠と有りますので逆になっていたので替えております。写真場所 は 御廟橋 (橋を渡ると仏への浄土へ往くときされ、罪や煩悩が除かれることから 無明橋 とも呼ばれる)高野山一山総本堂の金堂 中央は高野山西光寺の刈萱堂。左は西光寺内千里ノ前の墓(石童丸の母) 高野山密厳院刈萱堂と堂内の石童丸の絵物語。
2009年12月16日
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せんがく じ さかい こさん 泉岳寺 坂井虎山 さんがく くず うみ ひるが しょう しじゅうしちしん たましい 山嶽 崩すべし海 翻 えすべし。 消せず四十七臣の 魂。 ふんぜん まんち そうたい うるお ことごと こ こうじん りゅうてい あと 墳然 満地 草苔 湿 う。 尽 く 是れ行人 流涕 の痕。 詩文説明山は崩れることはないと思われがちだが天変地異で崩れることもあり、また海も荒れに荒れ、どう変わるかもしれない。だが、四十七士の魂は永久に消滅する事がないのである。いま、この墓前にぬかずけば、地上一面に草や苔がしっとりと湿っている。これこそは墓詣にみえる人々が義士の為に流した涙の痕跡なのである。 東京泉岳寺 兵庫播磨 赤穂城(復元) 松の廊下跡 大石内蔵助 東映映画ポスター 浅野内匠頭 刃傷松の廊下 討入リ図2枚 これより 福岡市南区興宗寺(寺塚) 泉岳寺と同じ宗派で、赤穂四十七士墓(墓石も同じ石質で大きさ、字の彫り方、並び方もすべて泉岳寺の通りに作ってあり,義士祭も12月14日に毎年行事が行われているそうです。 興宗寺境内に立ててある四十七士の掲示板です。 興宗寺山門。 境内写真2点 大石内蔵助・主税の墓 浅野内匠頭首洗いの石と血染めの石。赤穂義士景仰霊域。 泉岳寺とまったく同じ並びの四十七義士の墓石。右は天野屋利兵衛墓 赤穂四十七士 (順不同)赤数字は人数確認の為名前の後数字は享年1,大石内蔵助 良雄45 2,大石主税 良金16 3,赤垣源蔵 重賢36 4,磯貝十郎左衛門 正久25 5,潮田又之丞 高教36 6,大石瀬左衛門 信清27 7,大高源吾 忠雄32 8,岡島八十右衛門 常樹38 9,岡野金右衛門包秀24 10,奥田貞右衛門 行高2811,奥田孫大夫 重盛572,小野寺幸右衛門 秀富2913,小野寺十内 秀和61 14,貝賀弥左衛門 友信54 15,片岡源五右衛門 高房37 16,勝田新左衛門 武堯24 17,茅野和助 常成37 18,神崎与五郎則休38 19,木村岡右衛門 貞行46 20,倉橋伝助 武3421,菅谷半之丞 政利44 22,杉野十平治 次房28 23,竹林唯七 高重32 24,近松勘六 行重34 25,千馬三郎兵衛 光忠51 26,寺坂吉右衛門 信行83(討ち入りの時は38) 27,富森助右衛門 正因34 28,中村勘助 正辰48 29,間喜兵衛 光延69 30,間十次郎 光興26 31,間新六(郎)光風24 32,速水藤左衛門光発40 33,原惣右衛門 元辰56 34,不破数右衛門 正種34 35,堀部安兵衛武庸34 36,堀部弥兵衛 金丸77 37,前原伊助 宗房40 38,間瀬久大夫正明63 39,間瀬孫九郎正辰23 40,三村次郎左衛門 包常3741,村松喜兵衛 秀直62 42,村松三太夫 高直27 43,矢田五朗右衛門 助武29 44,矢頭右衛門 七教兼18 45,横川勘平 宗利37 46,吉田沢右衛門 兼貞29 47,吉田忠左衛門兼亮64
2009年12月06日
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