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Gママさん
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隠居人はせじぃさん
noahnoahnoahさんCalendar
今回の中欧旅行は、訪問国が全て「シェンゲン協定」実施国であったため、実施国を
経由しての入国審査は不要。よって国境を越えるのは、日本で言えば県境の如き。
高速道路で時速100km近くで国境を猛スピードで越えたのであった。
しかし最後のポーランドの出国審査は厳重で、身ぐるみ剥がされ、IT製品も1個1個
確認されたのであった。
ワルシャワからはQATAR航空981便 16:50発。
離陸後のワルシャワ上空からの高速道路。

ヴィスワ川(Wisła)。
ヴィスワ川(Wisła)は、ポーランドで最長の川で、ポーランド国内を大きく蛇行しながら
北へ流れ、バルト海へと注ぐ川。

機窓からの夕焼けは、旅の終わりで感傷的に。

機内夕食。

夕食後は旅の疲れのためか爆睡。
気がつけば既にペルシャ湾上空。
クウェートの街の灯りか?

バーレーンへのペルシャ湾に架かる橋 キング・ファハド・コーズウェイ(King Fahd
Causeway)。

バーレーンのペルシャ湾沿岸。

そしてカタール上空へ。

オレンジのナトリュームランプが煌めいていた。

そして定刻にカタール・ドーハ国際空港に到着。

ここで2.5時間のトランジット。
日本に向かう便はQATAR航空 804便01:50発。

オマーン海上空からアラビア海へ出て飛行機はパキスタン上空へ向かう。

再び機内食。

この後、我が身にトラブル発生。
キャビンクルーが隣の客に缶ビールを提供する際、開いたビール缶を私の椅子の端に
落としてしまったのであった。私の席には既に夕食の載ったトレイがあり腰を上げる事も
ママならず。よってズボンの臀部そしてブリーフまで濡れ冷たくなったのであった。
ズボンはファーストクラスのパジャマズボンに着替えたが、ブリーフの交換は不可。
よってお手ふき用のドライタオルをお尻に何枚か挟み込まざるを得なかったのであった。

飛行機は中国大陸上空から渤海湾へ。下は山東半島。

そして久しぶりの日本食。

和蕎麦が旨かった。

マグロの赤身の刺身も。

真っ直ぐ進めば北朝鮮上空へ。しかし飛行機は方向を変え渤海湾を南下。

更に南下し東に機首を変え韓国上空へ向かう。

韓国を横断し日本海そして新潟上空から成田空港へ無事着陸。

カタール・ドーハ国際空港に比べて極め利用客が少なくて寂しい成田空港。

そして成田空港からSさんの車、Sさんの運転でで自宅に向かう。
首都高速湾岸線を千葉から横浜へ走っていくと大きな観覧車が。

そして20:30に帰宅したのであった。
南から北へと中欧の北に位置する各国の主要都市を実質7日間で駆け抜ける
旅であった。
1.ハンガリー⇒2.スロバキア⇒3.オーストリア⇒4.チェコ⇒5.ドイツ⇒6.ポーランドの
主要都市、古都を訪ねる旅であった。
1.ハンガリー・ブダペストは新旧入り混じった混沌とした街、ドナウ川からの鎖橋の夜景
そして両岸のライトアップされた古都は忘れられない光景。
この旅の全ての旅程でのベテラン添乗員の説明も素晴らしく、その経験と博識に
脱帽する毎日であった。
2.スロバキア・プラチスラバはドナウ川に面しているからか、小さい街ながら開放的な
街。ユーロ圏でありながら物価は安く、治安も良好、英語の通用度も高かった。
そして丘の上にある城、外部からの見学のみの為かどこかオモチャの如し。
3.オーストリア・ウィーンのシェーンブルグ宮殿はオーストリア帝国、絶頂期の
ハプスブルグ家を感じることができたのであった。
美術史博物館のレンブラント、ブリューゲル、ラファエロなど著名な絵そして
クリムトの壁画が美しかった。そして何よりもフェルメール『絵画芸術』に出会えたの
だ。ウィーン歴史地区は、シュテファン聖堂、広場・・・等々ゆっくりとそして深く観賞の
為にもう一度訪れたいと。
4.チェコ・チェスキー・クルムロフはレンガ色の屋根と蛇行するブルタヴァ川が印象的。
「ヨーロッパで最も美しい街」の一つという、世界遺産の町を堪能。これ以上観光地化
しないことを願いたい。
プラハの聖ヴィート教会は圧巻、かの有名なカレル橋、旧市街での歴史散策も
想い出深い。
5.ドイツ・ドレスデンは第2次世界大戦末期、連合軍による空襲で壊滅的な被害を受けた
街。見事に復興した文化と芸術の街ドレスデンに驚嘆そして堪能したのであった。
がれきとなった部材を組み合わせて再建された聖母教会は、「ヨーロッパ最大のジグ
ソーパズル」と言われたと。旧東ドイツ人の執念に驚嘆・尊敬そして感謝。
ゼンバーオーバーは本当に美しいオペラハウス、そして日本人男性オペラ歌手の
生の歌声が聴けたのは幸運そのもの。
6.ポーランド・アウシュビッツ、ここはナチスドイツが強制収用所を作ってユダヤ人を
含む150万人余りを虐殺したホロコーストの現場を訪れたのであった。
人間がどれほど残忍になりえるのかを実感せざるを得ない重たい時間であった。
ドイツがナチ蛮行への徹底した反省に基きアウシュビッツ収容所をユネスコ世界文化
遺産にするうえで大きな役割を果たした事実も理解できたのであった。
世界各国からの訪問者は、いずれも寡黙であり目に涙を浮かべている姿が
至るところで。地球上に人類が存在する限り、永遠に残しておくべき人類の
『負の遺産』なのであった。
第二次大戦後、各国が歩んできた道のりは異なるものの、この時期のヨーロッパ史に
おいては、いずれも負の歴史を紡いできた印象の強い国々への訪問であった。
特にポーランドはソ連による支配とナチス・ドイツによる併合という2度の憂き目に遭って
おり、滞在時も未だにどことなく薄暗いような印象があるものの近代化への光も着実に
射し込んできていると感じたのは私だけであろうか?
戦後華々しく発展を遂げてきた、いわゆる西側諸国を今まで観光して来た私であったが、
世界の歴史、将来について学びそして考える上では、今回の中欧旅行は意義深いもので
あったと今このブログを書きながら実感じているのである。
そして10日間の駆け足の旅であったが、真実・現実を本当に知るには最低1ヶ月は
必要と感じているのである。
40人のツアー客そして我々4人の旅友に大いにお世話になった事そして忘れられない
旅になったことに感謝しこの旅行記の筆を置きたい。
さて来年は何処に?
完