PR
Keyword Search
Comments
New!
隠居人はせじぃさん
New!
Gママさん
noahnoahnoahさんCalendar
島原城を訪ねてきました。

城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴。
成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べたと。
火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす
一因となったとのこと。


紅梅、白梅も見事。


約250年間4氏18代の居城として歴史上からも数々の歴史を生んできた城。
しかし、明治維新により廃城が決定、明治7年解体され、以来90年、天守閣無き城跡だけがその面影を
とどめたと。昭和35年に「西の櫓」を復元、次いで昭和39年「天守閣」、48年「巽の櫓」
55年「丑寅の櫓」などが矢挟間・鉄砲狭間を備えた長塀とともに復元されたとのこと。


雲仙普賢岳は雲の中。


大きな新聞?を翳し写真撮影する人の姿が。

観光復興記念館で噴火活動の経過をはじめ、島原の歴史・文化・観光名所などを映像及び資料を
見る。
折しも、島原の歴史的なたたずまいと文化などを楽しめる「島原城下ひなめぐり」が開催されていた。

美しい手まり。

武家屋敷を歩く。

島原城の西に続く一帯を、鉄砲町と呼ぶ。鉄砲町は島原城の築城とともに形成され、鉄砲町の名は
鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、造成当時隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を
覗くように武家屋敷街が見通せたので、その名がつけられたと言われていると。
7つの町筋は碁盤の目のようにできており、ここには扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が
690戸あったと。町筋の中央に流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とし、飲料水として使われ、
水奉行を置き、厳重に管理されていた。

現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで
、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれるのであった。

熊本へはオーシャンアローフェリーを利用。

日本を代表する高速フェリー。熊本まで約30分で。

熊本に向かって出港。

カモメが船を追う。

フェリー艦内。

漸く普賢岳が姿を現す。

フェリーからは天草諸島の玄関口になっている宇土半島の山々が。

牛久大仏へ(その3) 2025.11.19
牛久大仏へ(その2) 2025.11.18
牛久大仏へ(その1) 2025.11.17