JINさんの陽蜂農遠日記

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2016.08.02
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カテゴリ: 国内旅行

この日は、三重県津で仕事を終え、名古屋、京都で乗り換え、この日の宿の

ある福知山駅に向かう。

福知山駅手前右側にライトアップした福知山城が見えたので慌ててシャッターを押す。 

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そして翌朝はいつもの早朝散歩。ホテル出発は5:15。

福知山駅。

2005年に駅舎の高架化が行われたとのことで、福知山踊りの編み笠と

城下町のイメージを演出した斬新なデザイン 。

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駅前広場は公園の如く整備されていた。

駅と相対するなまこ壁風のオブジェ。

福知山城をイメージした大型ビジョン?。 

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福知山踊り像。

福知山の伝統郷土芸能・福知山踊りは、今から400年以上も前、明智光秀が

福知山城を築く際、領民たちが「ドッコイセ」「ドッコイセ」と石材や木材を運ぶのにあわせ、

手振り足振り、おもしろおかしく踊りだしたのが始まりと。

その後、幾多の変遷をたどりながら、今の福知山踊りの型となり、現在では、

市の指定民俗文化財。 

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駅前の時計。

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こちらは花時計。 

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福知山市役所。福知山市人口は8万人弱とのこと。

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前方の山の上に福知山城が姿を現した。 

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城の櫓を模した福知山市佐藤太清記念美術館。 

福知山市名誉市民で文化勲章を受賞された日本画家佐藤太清画伯の作品を中心に

収蔵・展示を行っていると。

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福知山城公園の噴水池。 

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「福知山城」 の石碑。

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「福知山城公園」からは太鼓橋である「昇龍橋」を渡る。 

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坂を登って登城。 

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石垣に沿った階段を上る。 

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天守閣前の櫓門が前方に。 

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櫓門下から見上げる。 

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櫓門を城内より振り返る。

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福知山城の本丸にある朝暉神社(あさひじんじゃ)が右手に。 

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ここに鎮座し始めたのは昭和時期で福知山城を再建するときになってからと。

創建当初は城主朽木種昌氏が父である綱條を祀ったのが始まり、廃藩により城は

取り壊されて神社も引っ越し。

明治になって住民の願いでここ天守台近くに神社を戻した。

そして昭和での天守再建で今の場所で落ち着いたらしい。 

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朝暉神社本殿。 

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1575年の長篠の戦いで武田勝頼を破った織田信長は、一番のお気に入り?の

明智光秀に丹波の平定を任せたのだ。

その際、丹波支配の拠点として1579年(天正7年)に明智光秀が築城した

平山城がこの福知山城。

光秀の重臣・明智秀満を城主とした。

だが、光秀の福知山治世はわずか3年たらずであった。天正10年(1582)6月2日に

本能寺の変を起こし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて死去。

現在のような城郭や城下町は、関ヶ原の戦いの論功行賞により入城した有馬豊氏で、

それから藩主がいろいろと代わり、寛文9年(1669年)から幕末に至る約200年の

長きに亘り朽木氏が13代世襲し当地域を統治した城。

福知山城入り口。

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城の正面には豊磐の井が。

この大型の井戸は、井戸の深さは50mあり、海面下7mに達するとのこと。

城の井戸としては日本一深いのだと。当時は緊急用で、敵に攻められた時に

井戸の水を飲料水として利用した。以前に井戸の水をくみあげたところ、きれいだったと。

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左から天守、続櫓そして小天守。 

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続櫓前から天守を望む。

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本丸に到着。

天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元。 

三重三階建ての大天守は、白壁で身を守る城とは見た目が違い、木材がむき出しの

壁が美しいのであった。

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天守の鯱。

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天守の木製の壁には三角の狭間。 

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鬼瓦には朽木氏の「隅立四つ目結」の家紋が。

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石垣は自然石をただ単に積み上げたかのように見える野面積(のづらづみ)という手法。

これは、石垣の名人と言われた近江穴太(あのう)衆が得意としたもので、不揃いな様々な

大きさの細長い石を奥で組み合わせて積み上げた後、隙間に小石をはめ込んで補強したもの。 

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石垣には、宝篋印塔、五輪塔などの石造物が大量に使用されており、

「転用石」とも呼ばれているとのこと。

築城時に明智光秀が近隣から集めたと云われており、石垣に利用する大量の石材が

近辺になかったこと、築城に時間的余裕がなかったためと。

何となく腑に落ちなかったので、帰宅してネットで調べてみると

ウィキペディアによると

『石垣をつくるため、墓石や民家の礎石だけでなく石仏までかき集めたというのは、

領主にとって名誉な話ではない。敵から没収したものなら自慢にもなるが、

ほとんどは領民から取り上げたものである。

すなわち、石材を揃えられなかった事実は資金に窮していたことの証である。

やむを得ないことであるなら、見えない部分である地面や水面の下になる箇所に

使用すればよい。ところが、転用石の多くはわざわざ正面中央部や角の部分など、

人目につく部分に使用されている。城には物理的な強さだけでなく、多くの人の力を

結集したという事実にもとづく呪術的な強さが必要というのが戦国時代の考え方であり、

領民から集めた石を石垣にしたのはその現れだったとも考えられている。

墓石や石仏には人々の先祖代々の思念や信仰の力が籠もっているため、

石垣の素材としては最適という考えが成り立つ。転用石をよく見える場所に置くのは、

領主と領民が一体となったことを誇示するものであり、石を提供した領民へのサービス

であったという見方もなされている。』と。なるほどと納得したのであった。

形から直ぐ解る転用石はいろいろな色の石の種類(石もいろいろ⇔人もいろいろ)

が使われていたのであった。 

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福知山城の石垣から発掘された「転用石」も展示されていた。

一辺が62cmと大型の石材もあり、相当の寺院や墓所を破壊して石材を調達した

ことがうかがわれると。

点数は現在発掘調査により増加しているが、おおよそ500点で、五輪塔が約250点、

宝篋印塔基礎が約35点となっていると。 

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銅門番所。

この建物は、福知山城二の丸の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、

当時の面影をしのばせる城内の建築物。

大正時代のはじめに天守台に移築され、さらに天守閣の再建に伴いこの場所に移されたと。

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                   ・・・ つづく ​・・・







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Last updated  2019.09.10 06:02:12
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