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隠居人はせじぃさん
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この日は藤沢市葛原の田園の中にある神社にまず立ち寄る。
畑道の横の1段上にある小さな神社。

垂木御所跡に建つ葛原神社 社殿。
その昔、桓武天皇第三皇子葛原(かつらはら)親王より出た板東平氏の一族である長田氏が
平安時代、葛原の地を私領、垂木主膳(長田忠望)がこの地に館を構えたので
里人が垂木(たるき)御所と呼んだ。
その御所が菖蒲沢の塚より展望できたのでこの塚を御所見塚と呼んだとのこと。

社額には『葛原親王(かつらはらしんのう)』と書かれていた。
葛原親王は平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子。官位は一品・大宰帥。桓武平氏の祖。
昔からの言い伝えによれば、『葛原』の地名は、ひとつには桓武天皇第三皇子葛原(カツラハラ)
親王がこの地におられたので高倉郡(タカクラゴオリ)「葛原村」となったと言われ、
また、その一族(長田武蔵守平忠望)がこの地に住んで領主となり、祖先の葛原親王を
鎮守として崇めていたので「葛原」という村名になったとも言われている。
あるいは、葛がおい茂る原だったからだとの説もあるが、やはり葛原親王にちなんで
付けたと思われるとのこと。

笠木(かさぎ)は額束(がくづか)の上で2本を切り欠き段差で繋いでいた。

南葛野交差点横の石塔群。
塩井淵の辻と呼ばれる交差点が現在のこの南葛野交差点付近にあり、
現在でも1781(安永10)年銘の出羽三山供養塔と1850(嘉永3)年銘の道祖神が
残っているのだと。

葛原中村の道祖神。1850(嘉永3)年銘。

そしてその横には 角柱塔
「月山/湯殿山/羽黒山 大権現」 安永十年(1781) 。

『相模國高座邑?葛原郷講中 導輩? 長盛寺』と刻まれていた。

瀧出現不動尊に到着。

『厩戸皇子』塔が建っていましたが・・・どの様な縁起?

『瀧出現不動尊』と刻まれた石碑。

参道。
瀧出現不動堂は、1655年に明滝山長盛寺として創建された模様で、
別の地図には高盛寺不動堂とある。

単なる不動堂が建っているのではなく、境内には歴史を感じさせる石鳥居、石燈篭が並び、
しめ縄を張った木造堂が建っていた。また鐘楼、地蔵堂、十三石塔も。

鐘楼。

鐘。

拝殿。

拝殿の鬼瓦も見事。

平たい鈴・「鰐口」。
「鰐口」は概ね寺院にあるが、この神社も鐘楼等も含めて神仏混淆の面影が
残されていた。
この鰐口(享保11年銘)は戦時中の供出を免れたもので、
市内には3~4個しかない貴重品とのこと。

十三石塔。

瀧不動尊縁起碑。
葛原不動尊由来記によると、昔、葛原の領主小泉佐渡守(小泉姓の祖)の寝中、
不動明王が夢枕に立った。驚いて目覚めた佐渡守は、直ちに家中を集めた。
「明王は水中におわしますぞ」…村中総出で探した所、夢のお告げのとおり滝壺の中から
一体の御仏を発見した。これが長盛寺滝出現不動明王とのこと。
それから5年後の1654年、地頭の長田喜左衛門重昌が病気になり、名主はこの不動明王に
三十三日間の子の刻参りを行ったところ、霊験により病が回復した。
長田氏は翌年堂を建立し、奉拝したという。
現在、不動明王像が発見された滝は埋め立てられ、人工池に姿を変えている。
なお、平成3年に「滝不動尊夢次第書」という古文書が発見されているとのこと 。

地蔵堂。

馬頭観世音の石碑が並んでいた。

滝出現不動尊 人工池。

旧暦3月28日の滝不動の縁日(瀧出現不動尊の例祭)では草競馬が行われ、
400mの廻り馬場で近隣の農耕馬達がその速さを競いあったと。
はじめは直線200mの直線馬場で、行ったきりで鉄砲馬場と呼ばれていたと。
この日は露天商も並び、10キロ以上離れたところからも徒歩で人々が集まり、
多い時で数千の人と50頭もの馬で身動きのできないほどの賑わいだった。
またこの祭りをきっかけに若い男女が結ばれたので「見合競馬」とも呼ばれていたと。
しかし機械化が進み、馬の姿が村から姿を消し始めた昭和20年代初めに
この草競馬は中止されたと 。

池近くの石塔も素朴な形。

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