JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.04.11
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カテゴリ: 国内旅行
​​​指月第一駐車場に到着し、車を降り萩城跡の散策開始。

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二の丸南門跡。
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毛利輝元公胴像。
毛利輝元は、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いにおいて、西軍の総大将として担ぎ出されたが、
毛利家の両川と呼ばれていた小早川・吉川の裏切りにより戦わずして敗北。
中国地方9カ国120万石から、周防・長門2カ国37万石に減封される。
萩城は、慶長9年(1604年)に輝元が築城を開始し、慶長13年(1607年)完成。
5層5階の望楼型の天守を持ち、背後にある指月山の山頂には詰丸を配した。
その後は幕末に藩庁を山口へ移転するまで毛利氏13代の居城として栄える。
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二の丸南門跡を過ぎ本丸跡に向かう。
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「史跡萩城跡」碑。
極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)とその先に本丸門跡を見る。 
左後ろに見えている山が指月山。
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国指定史跡 萩城跡 説明板。
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萩城天守閣跡。

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入園料 210円/人を払い城内へ。
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萩城跡 指月公園案内図


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萩城跡指月公園。
旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万㎡の境内が指月公園として
整備された。城跡の構造をよく残していることが特徴で、園内には天守閣跡、梨羽家茶室、
旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡がある。
また、幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江御殿に増築し、家臣とともに
茶事に託して討幕の密議を凝らした茶室「花江茶亭」が明治22年に園内に移築されていた。

本丸内門を入っ枡形を右に曲がると志都岐山(しづきさん)神社の石鳥居が正面に。
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内堀沿いの石垣には、長い雁木(石垣に設けられた階段)が設けられていた。
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雁木を上り石垣の上を天守閣方向に向かう。
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天守閣の石垣と内堀。
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本丸・天守台北側の上り階段。
手前に萩城天守閣跡と書かれた碑が。
本丸は 西約200m×南北約145m、天守(五層)高さ14.5m、当該石垣高さ11m、郭塀回り528m、
萩城は明治6年に発布された廃城令の影響により、櫓などの建物はすべて取り壊されてしまいました。
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本丸内にある天守への最後の階段。
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かつて高さ14.5m、白亜5層の天守閣も、いまは礎石と台座を残すのみ。
残念ながら現在ではもうその姿を見ることは出来ないが、石垣や堀の一部は当時のまま
残っており、本丸、二の丸、三の丸と壮大なスケールを誇った往時の様子を偲ぶことが出来た。
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天守からの内堀(西側)
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天守からの内堀(北側)と指月山。
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在りし日の萩城天守閣。
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、
山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていた。
本丸には高さ14.5mの五層の天守閣があったたが、明治7年(1874)に天守閣、矢倉などの
建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されている。
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この様な天守閣の写真も残っていると。
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               【​ https://blogs.yahoo.co.jp/honmon1968/8806724.html ​】より。
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この石碑は???
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梨羽家(なしはけ)茶室。
萩藩寄組(よりぐみ:永代家老のすぐ下の階級、一代限りの家老職を務めた)の梨羽家(3,300石)の
別邸にあったものを、明治になってここに移築したもの。
木造入母屋造・桟瓦葺(さんかわらぶき)で、花月楼形式の極めて格式のある茶室だと。
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花江茶亭。
元々は、三の丸にあった藩主別邸花江御殿内に造った茶室。13代藩主・毛利敬親が、
家臣とともに倒幕について密談した場所でもあると。
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萩城址の碑。
萩城は幕末、藩主・敬親のときに藩庁を山口に移し、順次萩城は取り壊されて行ったのであった。
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見事すぎる台座にのった志都岐山神社の 巨大な 狛犬
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狛犬の先には、藩校・明倫館の遺構の万歳橋が。
中国風のデザインを施した太鼓橋。
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志都岐山神社はもとは指月神社といわれ、毛利元就、隆元(元就の子)、輝元(元就の孫)の
3人と幕末の藩主・敬親、元徳(敬親の子。最後の藩主)の5人を主神とし、長州藩の
歴代藩主を祀っている。
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万歳橋を渡り(実際は渡れないので大回りして)階段を登ると、志都岐山神社の拝殿と本殿が。
祭神は、毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・毛利敬親・毛利元徳を5柱とし、初代から12代までの
萩藩主を配祀。
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「花燃ゆ」の主人公・ふみの夫・楫取素彦が寄進した井戸。
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東園。
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萩藩6代藩主毛利宗広(1717~51年)の時代、以前からあった池などを浚渫して整備し、
続いて7代藩主毛利重就が庭内の各所に「六景二十勝」の名称を付けたと。
「六景二十勝」とは、庭園の中に設けられた建物・池・中島・巨大な石や珍しい樹木などを
見どころとして定めたもの。例えば、池の中島は「小蓬莱」と名付けられており、
これを仙人が住むとされた蓬莱島になぞらえていたと。
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​​海に沿った城壁上の​展望台からは城壁、堀、菊が浜を展望出来た。
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菊が浜の波は静かに。
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「皇太子殿下行啓の所」碑。


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本丸北東部の東園跡から東に向かうと浜に沿って石垣が。
石垣の切れ目が、かって日本海から物資を城に運んだ「潮入門跡」。

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潮入門跡の南側石垣からは、白漆喰の土塀が再現されている。
土塀の説明板。


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潮入門の南側の二の丸土塀(四角い銃眼のある土塀)が復元されていた。
​​ここでNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のロケが行われたと。
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二の丸東門内よりから天守閣方面を見る
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そして萩城跡の散策を終え本丸を後にする。
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萩城の入城券には、旧厚狭毛利家屋敷長屋の入場券も付いていたので、入ってみる事に。
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厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利一門。
この屋敷は、萩市に現存する武家屋敷の中では最大の大きさを誇ると。
幕末に建てられたこの武家屋敷は武士の詰め所で、武士の階級により待機する
部屋の広さが異なっていた。実際、長屋の手前の部屋(一の間)は8畳だったが、
奥の方に行くと3畳、2畳と狭くなっていき、最後は広い部屋に下級武士が
詰め込まれていたのだと。
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旧厚狭毛利家屋敷長屋全体を写す。
梁間5メートル、桁行51.5メートルの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物。

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東座敷一の間には、毛利輝元の肖像画と重要文化財指定書を展示。
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​​​萩毛利家と​厚狭毛利家系図(左)。
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三矢の訓(右)。
毛利元就が嫡男である隆元と、吉川家・小早川家を相続した元春・隆景の3人の息子にあてた教訓。
「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめると折れない。」という有名な話。
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西座敷一の間には毛利元就の甲冑が。
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仲間部屋。
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萩城の模型。
本丸と指月山上の詰丸の位置関係が理解出来た。
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そして次に萩城下町を徒歩にて散策。

              ・・・​ つづく ​​​ ​・・・​​​





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Last updated  2018.04.11 01:41:14
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