JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.04.20
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カテゴリ: 国内旅行
​最後に吉田松陰歴史館を訪ねる。
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松陰神社の境内にある維新の源流が見えてくる歴史館。短くも激しい吉田松陰の生涯を、
20シーン70余体の等身大の蝋人形で再現しています。説明版と音声ガイド付きで、
松陰の一生が分かりやすく紹介されていた。
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松下村塾の門下生の2人の蝋人形が入口横に。
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山県有朋。
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伊藤博文。
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吉田松陰の子供の頃の杉一家の紹介。
杉家は、父・母・叔父・三男四女の家族構成で貧しいながらも明るい一家で、

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吉田松陰関係 系図。
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5歳で叔父(父・百合之助氏の弟)・吉田大助氏の養子となる。
6歳の時に吉田大助氏が若くして亡くなり、吉田家を継ぐ。
吉田家は、代々、兵学の先生として毛利家に仕えていたので、松陰もそうなった。
近所に住む叔父の玉木文之進氏(のちに松下村塾を開く人物で、百合之助氏や大助氏の弟)から、
厳格な教育を受けた。
この年、松陰の名前は、[虎之助]から[大次郎]になったと。
兄と共に叔父の教育を受ける場面。
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9歳で「家学教授(山鹿流兵学の先生)見習」として、藩校・明倫館に。
御前講義。
天保11年(1840年)11歳になった松陰は、藩主毛利敬親の御前で兵学講義を行う。
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16歳で日本の国防に危機感を感じるようになる。
長沼流兵学を教わっていた山田亦介氏から、西欧諸国が東洋諸国を侵略・植民地化している

19歳で「家学師範」(一人前の兵学の先生)として明倫館で教え始める。
身分や勝負にこだわる武士のしきたりのよくないところを堂々と批評するなど、
進んだ考え・態度で、まわりを感心させたと。
21歳で藩の許可を得て、九州や江戸、東北へ遊学。
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九州・平戸にて平戸藩士・山鹿万介氏(科学者)や葉山左内氏(陽明学者)から

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吉田松陰遺著
『士苟得正而斃。何必明哲保身 

 不能見幾而作。猶當殺身成仁 

 道並行而不悖。百世以俟聖人』
現代語訳・抄訳
『士たる者、志を尽して斃たおる、どうして必ずしも明哲が身を保つと限ろうか。
 もし時宜を得ずして成らざれば、その一身を捨てて仁を成すべし。
 道は常に並行して尽きること無し、されば百世後には、吾が志を知る聖人も現れるだろう。』
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松陰の歌。
『心あれや 人の母たる人達よ かからん事は武士(もののふ)の常』
武士には正義の道を貫くために死んでいくことがつきものであるから、
人の母となっている妹たちよ十分に覚悟しておきなさい。
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江戸にて松代藩・佐久間象山氏(西洋兵学者)の新しい考えに強く心惹かれ、入門する。
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24歳で黒船に出会う。
通称を「虎次郎」と改め、再び江戸に来てすぐのこと、浦賀にペリー率いる
アメリカ軍艦がやって来た。
松陰は、師・佐久間象山氏とともに浦賀へ行き、黒船の様子を観察した。
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露国使節プチャーチン来日。
ロシア帝国クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号がイギリスのポーツマス港に到着、
修理を行った後、ボストーク号を従えてポーツマスを出港した。
喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由、父島でオリバーツァ号、メンシコフ号と合流した。
ペリーと違い、シーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため
日本の対外国窓口である長崎に向かった(プチャーチンに日本遠征を勧めたのもシーボルト)。
1853 8 22 日(嘉永 6 7 18 日)、ペリーに遅れること 1 ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下
4 隻の艦隊を率いて長崎に来日した。

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下田踏海。
​​ 安政元年(1854年)3月27日の夜、同志の金子重輔と伊豆の下田港でアメリカの軍艦に密航。
乗船はできたが追い出され、自首して伝馬町獄に送られる。
​​松陰が黒船に乗り込もうとして小舟に乗っている姿。
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江戸の警備の様子。
それまで誰も見たことのない、黒く巨大な船が浦賀沖に現れたのは嘉永6年(1853)
6月3日であった。黒い煙を吐き、あっという間に沿岸に近づいてきた。
黒船と呼ばれるペリー率いる4隻のアメリカ軍艦であった。しかもこれらの艦隊は
いつでも大砲や銃を発射できるように戦闘態勢を整えていた。幕府の許可も得ず、
武装した測量船が湾内奥に入り込み、江戸湾内の測量を始めた。さらにアメリカ
独立記念日などには数十発の空砲を轟かせた。幕府はやむなく久里浜への上陸を認め、
浦賀奉行がペリーと会見し、開国を促すフィルモア大統領からの親書を受け取った。
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萩、野山獄での獄中教育。
松陰は萩に送り返され、野山獄に入る。そこで猛烈な勉学を開始した。
同志の金子重輔は岩倉獄に入れられたが、病気のためそこで獄死する。
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獄中の松陰。
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松下村塾の増改築。
安政2年(1855年)12月、野山獄を出て自宅に幽囚の身となった松陰は、
親族や近所の者たちに講義していた。
そこに子弟が数多く参加するようになったため、杉家の古い小屋を改装し、
講義室にあてる事にした。
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松下村塾の教育方針。
「師弟ともに同行し、共に学ぶ」
人間関係の中で、学び合うのが松下村塾、近代的な教育方針であったと。
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​​ 嫁ぐ妹、文のために。
松陰は愛弟子久坂玄瑞に嫁ぐ文に、一文を草し、お祝いの言葉とした。
​​​​吉田松陰から高く評価されていた久坂玄瑞は、18歳のときに師である吉田松陰から、松陰の妹の文との結婚を勧められる。しかし 、美男で知られる久坂玄瑞は、不美人の文を嫁にもらうべきかどうか悩んだ、というエピソードが残っている。
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別れの宴。
倒幕以外日本を救う道はなし、と決意した松陰であったが、安政の大獄
(江戸幕府が行なった弾圧)の嵐は吹きすさび、 ついに松陰に江戸護送の命令が下った、
死をまかれぬと知った松陰はその前夜、送別の宴で、弟門の松浦松洞に書かせた
肖像画八枚に形身の賛を書いた。
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涙松の別れ。
籠に入れられ江戸送りとなった松蔭だが、このシーンは旅立つ者が松の大木の間から、
涙ながらに城下に別れを告げるという風習があったので涙松と言ったとのこと。
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江戸評定所の取り調べ。
幕府側には松陰を罰するような材料があったわけでなく、取り調べはあっさりと
終わってしまった。しかし松陰自ら、「大原三位(公家)を長州藩に招く策」・
「老中間部襲撃策」の2つの計画を企てたことを告白する。
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獄内にて留魂録を記す。
松陰はいよいよ死を間近にせまったことを感じ、最後の遺書ともいうべき
「留魂録」を書き上げた。
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松陰の最期。
安政6年(1859年)10月27日、獄内に作られた形場で松陰は断罪となった。
行年僅か30歳。松陰の門弟は彼におっかけ割腹自殺し、陣没3・斬首1・獄死1と
なっている。
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吉田松陰像。
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山口県出身の7人の宰相。
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伊藤 博文と山形有朋像。
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伊藤博文【いとうひろぶみ】。
1・5・7・10代首相(初代首相)  天保 12 年~明治 42 年( 1841 1909 )  69
周防国熊毛郡束荷【つかり】村(光市)生まれ。幕末の志士、明治時代の政治家。元老【げんろう】。
萩に出て松下村塾【しょうかそんじゅく】に学び、文久 3 年( 1863 )英国に密航留学後、倒幕運動に奔走。明治政府の要職を歴任し、明治 18 年( 1885 )初代内閣総理大臣となる。また初代枢密院【すうみついん】議長として明治憲法発布に尽力し、計 4 度組閣。晩年も元老として政界に指導力を発揮した。
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山県 有朋 【やまがたありとも】
3 9 代首相     天保 9 年~大正 11 年( 1838 1922 )  85

長門国萩川島(萩市)生まれ。幕末の志士、明治・大正時代の軍人・政治家。
陸軍大将・元帥【げんすい】・元老【げんろう】。
松下村塾【しょうかそんじゅく】に学んで奇兵隊【きへいたい】に参加し、
戊辰【ぼしん】戦争に活躍。明治政府の陸軍大輔【たいふ】となり、近代軍制を確立した。
1 次伊藤内閣の内務大臣として地方自治制を定め、明治 22 年( 1889 )内閣総理大臣となる。
2 度組閣し、晩年も元老として政界・軍部に指導力を発揮した。
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5人の宰相。
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桂 太郎 【かつらたろう】
11 13 15 代首相(通算での総理大臣在職日数 2886 日は歴代 1 位)
弘化 4 年~大正 2 年( 1847 1913 )  67
長門国萩平安古(萩市)生まれ。明治時代の軍人・政治家。陸軍大将・元老【げんろう】。
藩校明倫館に学び、戊辰【ぼしん】戦争に活躍。ドイツ留学後、軍制整備にあたった。
3 次伊藤内閣の陸軍大臣を経て、明治 34 年( 1901 )内閣総理大臣となる。計 3 度組閣。ニックネームは「ニコポン宰相」。
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寺内 正毅 【てらうち まさたけ】
18 代首相   嘉永 5 年~大正 8 年( 1852 1919 )  68
周防国吉敷郡平井村(山口市)生まれ。明治・大正時代の軍人・政治家。
陸軍大将・元帥【げんすい】。
大楽源太郎らに学び、西南戦争に従軍。陸軍大臣、初代朝鮮総督などを歴任し、
山県有朋・桂太郎につぐ長州軍閥の巨頭として、大正 5 年( 1916 )内閣総理大臣となる。
長州閥による超然内閣だったため、「非立憲」【ひりっけん】にかけて「ビリケン宰相」と称された。
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田中 義一 【たなか ぎいち】
26 代首相  元治元年~昭和 4 年( 1864 1929 )  66
長門国萩菊屋横丁(萩市)生まれ。明治・大正・昭和時代の軍人・政治家。陸軍大将。
陸軍大学校卒。 日露戦争で活躍し、原内閣の陸軍大臣となる。
昭和 2 年( 1927 )内閣総理大臣となり、金融恐慌による銀行取りつけ騒ぎを鎮静化。
翌年中国奉天(瀋陽)で起きた張作霖【ちょうさくりん】爆殺事件の責任を問われ、
総辞職した。ニックネームは「おらが宰相」。
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岸 信介 【きし のぶすけ】
56 57 代首相  明治 29 年~昭和 62 年( 1896 1987 )  92
山口県山口町(山口市)生まれ。昭和時代の政治家。佐藤栄作の実兄。
東京大学卒。戦前は東条内閣の商工大臣をつとめた。昭和 28 年( 1953 )衆議院議員に当選。石橋内閣の外務大臣を経て、昭和 32 年( 1957 )内閣総理大臣となる。計 2 度組閣し、同 35 年日米新安全保障条約に調印。同 54 年国連平和賞受賞。
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佐藤 栄作 【さとう えいさく】
61 62 63 代首相(連続での総理大臣在職日数 2798 日は歴代 1 位)
明治 34 年~昭和 50 年( 1901 1975 )  75
山口県田布施【たぶせ】村(田布施町)生まれ。昭和時代の政治家。岸信介の実弟。
東京大学卒。戦前は鉄道省で要職を歴任し、昭和 24 年( 1949 )衆議院議員に初当選。
岸内閣の大蔵大臣などを経て、昭和 39 年( 1964 )内閣総理大臣となる。
非核三原則を表明して平和活動につとめ、同 47 年沖縄の日本復帰に尽力した。
49 年ノーベル平和賞受賞。
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そして、まだ人形は置かれていなかったが
安倍 晋三 【あべしんぞう】
90代(戦後最年少の首相)・96代・97代・98代首相          昭和 29 年~ ( 1954 ~ )
東京都生まれ。父は安倍晋太郎。母方の祖父は岸信介。大叔父は佐藤栄作。
成蹊大学卒。株式会社神戸製鋼所勤務を経て、外務大臣をつとめる父晋太郎の秘書官となる。
平成 5 年( 1993 )山口 4 区から衆議院議員に初当選。第 2 次森内閣の官房副長官、
3 次小泉内閣の官房長官などを歴任し、同 18 年内閣総理大臣となる。
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               ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2018.04.20 07:33:50
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