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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
『対潮閣(山下亀三郎別邸)跡《秋山真之終焉の地》』。
明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など
多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎 (1867
~ 1944)
の別邸「対潮閣」の正面入口が
この辺りにあった。
対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之 (1868
~ 1918)
がたびたび訪れ、
山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について
相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正 7(1918)
年 2
月 4
日未明に対潮閣内で
亡くなった(享年 49
歳)。
写真右に『瓜生外吉(うりうそときち)海軍大将之像』
瓜生外吉は加賀藩支藩の大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として安政4(1857)年に生まれ、
明治8(1875)年から14年まで米国アナポリス海軍兵学校に留学します。
海軍提督として日露戦争に参加、
仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らし戦功により海軍大将、男爵までのぼりつめます。
南町歩道橋の階段下には石柱が。
『人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡』。
東海道本線が走る前まで小田原ー熱海間を走っていた鉄道です。
人車鉄道は豆相人車鉄道。
人車鉄道(人車軌道)とは、明治中期から大正期にかけて存在した人が客車や貨車を押す鉄道。
軽便鉄道は熱海鉄道。
軽便鉄道(けいべんてつどう)というのは規格の低い鉄道のことで「軽便鉄道法」による
森林鉄道や鉱山軌道などをいいます。
東海道線は国府津駅から静岡が1889年に延伸しました。
ただし沼津までは御殿場線が使われていました。
熱海の住民運動から1888年国府津から小田原まで小田原馬車鉄道(現在の箱根登山鉄道)に
鉄道を繋ごうとしましたが資金が集まらず、甲州財閥の雨宮敬次郎の案で人車軌道に変更し、
雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年~1900年に漸次開通させました。
1907年に社名を熱海鉄道と改めて蒸気機関車が引くタイプの軽便鉄道に切り替えました。
この切り替え工事からヒントを得たのが芥川龍之介の「トロツコ」です。
小田原市消防本部 小田原消防署南町分署前の石碑
『都市計画道路 小田原-早川線の完成によせて』。
早川口 交差点。
前方に東海道本線&箱根登山鉄道のガードが。
ガードを潜ると左手にあった『大久寺』を訪ねる。
天正十九年(1591年)、徳川家康の忠臣であった小田原城主大久保忠世公が建立した寺。
忠世公は三河出身の戦国武将でしたが、秀吉の小田原征伐の後に家康が関東を任されるにあたり、
遠州二俣から相州小田原へ移封せられました。その際、二俣時代に帰依していた僧の
自得院日英上人を請招し、大久保家の菩提寺として大久寺を開基しました。
その後、二代忠隣公が政治の謀略によって小田原城を改易されると、小田原大久寺の法灯は
一旦途絶えてしまいます。しかし、忠世公の伯父の玄孫の大久保新八郎康任が箱根入湯の道中、
大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を
守り続けています。
寺務所か?
大久寺『本堂』。![]()
道路の反対側には『居神神社』が。
旧小田原宿 板橋口(上方口)近くに鎮座する三浦荒次郎義意公を主祭神に祀る神社。
そしてその隣にあった『光圓寺』。
浄土真宗本願寺派寺院の光円寺は、釋浄山と号す。
光円寺は、覚圓が実相寺と号して慶安4年(1651)創建、明暦元年(1655)現寺号に
改めたと。
『本堂』。
『板橋(上方)口』
「戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで
防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。
この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所。
江戸時代においても、この口から内側は 城下府内の山角町、外側は板橋村で、遠くは京都に
通じたので、板橋口または上方口と呼ばれ、東に設けられた山王(江戸)口と並ぶ
最も主要な出入り口として、厳重な構造をもっていました。
現在の国道1号線はそのまま直進していますが、かつての東海道は板橋口をでると一度北に折れて、
再び西に曲がっており、 その地形は旧道としてよく残されています。」
『板橋見付』交差点。
右手に折れた道が旧東海道。
新幹線下を潜り旧東海道を進む。
右手奥にあったのが『本応寺』。
法華宗陣門流寺院の本応寺は、法雨山と号す。
本応寺は、稲葉美濃守正則の家臣だった羽原新右衛門忠次夫婦(忠次の法名法雨院道樹日行、
妻の法名本成院妙感日壽)が開基となり、是真院日雄(寛文11年卒)が法雨山本乗寺と号して開山、
本寺本成寺と読みが同じことから本応寺と改号したと。
旧東海道『層雲台(そううんだい)入口跡』
三井物産の初代社長益田孝の別荘掃雲台入口跡。
鈍翁は明治39年この地に別荘を造り始め、約2万5千坪の敷地に屋敷、流水庭園、茶室、
蔵、農園迄造ったと。
現在は宅地化され、昔を偲ぶものは何も残っていないと。
更に旧東海道を箱根方面に進む。
右手に朝倉邸。コリント式柱頭飾り、アールデコ風。
下田豆腐店。
創業明治39年。現在は4代目の息子さんが豆腐造りをされていると。
豆腐作りには丹沢水系の深い井戸水が使われていのだと。



















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