JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.02
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カテゴリ: 海外旅行
中山広場を後にし、魯迅路沿いを走ると左手にあったのが
雅楽軒酒店(右)と万達影城(大連一方広場店)(左)。



『大連大学 魯人路校区』。



『大连车务段』前には三種類の旗がはためいていた。
中央に中国国旗、左に安全旗、右に车务段旗が。
『大连车务段』は 「大連電車管理課」であろうか。



『大連満鉄本社旧址』。
日露戦後、満洲への日本の覇権拡張の原動力となった旧満鉄本社/大連満鉄旧址陳列館の
建物を訪れた。この建物は、『​ 満鉄
ロシア人街から、日本植民地時代の中心地とする大広場/中山広場の近くに業務を早く
移動させるため、建設中の建物を引き継いだものである。
こちらは大連満鉄旧跡陳列館と同じ旧満鉄本社ビルの中央棟の正面。
現在は瀋陽鉄道局大連鉄道事務所ととして使用されているようであった。
この前方左に私たちが訪れた『満鉄旧址陳列館』と満鉄会社の資料室があった。



左側の『大連満鉄舊(旧)址陳列館』。



ここは『南满洲鉄道株式会社旧址』。



『市級文物保護単位 ”満鉄”旧址』。



南満州鉄道本社の歴史がこの中に。
『大連満鐵舊址陳列館(大連満鉄旧址陳列館』。



『大连故事一历史建筑 南满洲铁道株式会社旧址』。



本社内の『廊下』。




白い壁に金色の装飾と当時を彷彿させる豪華なインテリアで、シャンデリアも。
ロシア帝国が建設中だった2棟の洋館を改修し、1908年に満鉄本社が置かれた歴史スポット。
現在では瀋陽鉄路局の大連事務所として使用されており、そのうち1棟が満鉄旧跡陳列館として
公開されていた。



建物一階は事務所として使用されている様子で立ち入り禁止。
展示物は2階にあり、階段を上がって行った、



赤い絨毯の階段を上ると、2階も白の世界。



当時の満鉄グッズや写真資料など興味深い品を展示しているほか、
旧総裁室も復元して公開していた。
『大連満鐵舊址陳列館』。



日本人のノスタルジーツーリズム客を目当てとしていることは、資料室に入る手前の

併記していることからも明らかだ。そこでは、文の締めくくりに、中国と日本との友好関係を
強調していた。
「日露戦争終結後、日本は1906年11月東京において「南満洲鉄道株式会社
(略称、満鉄)を創設、1907年4月大連にて開業した。「満鉄」は、経済、軍事、文化、
外交の各分野に及ぶ独占的な組織で有り、日本政府に代わり満洲における植民統治を
38年の長きにわたり担った。
「満鉄旧跡陳列館」の設立の目的は、我々が歴史を鑑とし未来に臨み・友好の新たな一章を
切り拓くことにある。」



ここにも『満鐵舊址陳列館』



日露戦争後の1906年11月に国策会社「南満洲鉄道株式会社(満鉄)」が設立され、
翌年1907年にこの地に本社が移転された。この建物は、ちょうど100年周年にあたる
2007年に旧本社建物の一部が「大連満鉄旧跡陳列館」として再整備されることになり、
一般に見学可能となった。現在、旧満鉄総裁室と会議室などが復元され、公開されていた。
当時のこの建築物の写真も展示されていた。



二階に上がり廊下の奥にある扉は総裁室や陳列棚などがある部屋で
部屋の内部や展示品は写真撮影禁止と。
そのうちに、歴史を語りながらの案内の男性から陳列品?を手にして
「これは購入できますよ」と勧めて来たのであったが・・・。



見事な天井の飾り。



その下には、当時の歴史を語る様々な写真が展示さていた。



そして、『大連満鉄舊址陳列館』を後にし、バスに乗り込み、次の観光場所の
『日本人街』に向かって進む。
車窓から『世紀街』を走る路面電車の姿が。



『日本人街』に向かって『魯迅路』を走る。



尚品槐花 』は中華料理の店。



道路脇には住宅街の雰囲気が。



日本人街入口近くには火災にあった住宅の姿が生々しく。



『枫林街』と『明泽街』のロータリーでバスを降り、日本人街の散策を始める。
日本統治時代(1905~1945)の大連には多くの日本人が住んでいたと。
終戦後、大連から日本に引き揚げた 人の数は20万人以上と。
大連にあった日本人街の大部分はすでに壊されて跡形もないが、 ここ大連外国語学院のそばに
旧日本人街としてわずかに残っていた。
ここ中山区・南山の北麓、海を望む楓林街、南山路、七七街、五五路、望海街の一帯は、
日本統治時代の1910年~20年代に多くの和風モダン住宅が建設された高級住宅街であったと。

旧日本人街は、人もまばらで閑静な 住宅街といった感じであった。



可愛らしい対の人形が迎えてくれた。



日本料理店『京和』の招き人形。



羽衣をヒラヒラさせ、空を舞う白き天女の像も。



ズームで。



かつて高級住宅街だった南山地区でで以前の街並みを残す再開発がはじまり、
日本風情一条街(または南山風情一条街)と呼ばれている。
このあたりには、家屋の大きさ、門構え、庭のこぢんまりとした雰囲気など、
日本人が暮らしていた形跡がところどころにある。
ここに、満鉄や関東軍のお偉方も住んでいたのだと。
例えば、1928年の張作霖爆殺事件の犯人・河本大作の邸宅もここにあったと。



南山の丘の上には塔が。ネットで調べてみると南山の「気象塔」のようだ。
「サッカーボール」は毎日ではないものの、夜はライトアップされ七色に「七変化」すると。
大連のシンボルとしてのサッカーボールがここにも。



ここ南山風情街には1999年3月18日付けの碑が。
当時の党総書記兼国家主席であった江沢民の手によるものであると。
それにはこう書かれていた。「百年風雨洗礼 北方明珠生輝」。
大連の街ができて100年。『ロシアや日本による風雨にもさらされたが、
今では中国は北方の珠のように光り輝いていると』いう意味であろうか??



像をズームで。



『枫林街』を歩く。
『枫林街』は長くはなく、両側に小さなヨーロッパ風の建物がたくさんあり、
最上階は3階しかなく、家の数はわずか100程度でで、静かな落ち着いた通りであった。



『南山歴史建築』案内図。



三角屋根の建物。



『原徳国(ドイツ)領事館』。
1925年頃に建てられた建築面積約600平方メートルの大連で最初の鍵の保護された
建物である鳳林通りの西洋風の建物。日本の占領期は大連のドイツ領事館であった。



日本料理店。



立派なバルコニーを持つ石造りの建物。



『中国金?』
ロケットを思い浮かべる建物。



花に囲まれた『水&元素漂浮』。



Uターンして。



この街は結婚前の記念写真の舞台となっているようだ。



長~~い煙管(きせる)を持って。



こちらにも。



いろいろなポーズで。



一番良い時間と空間。



日本風の家屋も。



3階建てのコンクリートの家。



ギターを奏でながら。



『柒七(VIP)商务会所』。
パーティーや宴会の会場なのであろうか?



煙突付きの2階建ての民家。




『元・日本陸軍奉天特務機関大連派出所(現共青団大連市委事務所)』。

旧帝国陸軍の暗部の1つ、戦前に中国大陸で情報収集・謀略工作を担った
奉天特務機関の大連派出所。



人影もまばらな『南山風情街』なのであった。
そして周りの住宅地では古い住宅を取り壊し新しい住宅に建て直していたのであった。

                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ ​つづく ​・






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Last updated  2019.11.02 00:05:17
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