JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.08
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カテゴリ: 海外旅行
『旅順口日俄战争遺址 东鸡冠山北堡垒(とうけいかんざんきたほるい)』と
刻まれた日露戦争遺跡碑。
帝政ロシアは1898年に旅順を租借し、旅順の東側の半永久的な防御線として1900年に
中国人労働者を使役して堡塁を建設。堡塁は周囲496メートル、面積9900平方メートルの
不規則な五角形で、天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造られた。
内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻、側防窖室が
配置された。堡塁の周囲は堀があり、堀の外の斜面には高圧電流が流れる鉄条網が
架設されていた。



日露戦争において、1904年8月21日の第1回旅順総攻撃の際に日本軍第11師団(四国兵団)

土砂に覆われた側防窖室からの近接攻撃により大損害を受けた。
その後、数度に渡って坑道を掘り、堡塁の爆破を試みた。12月15日には日本軍が発射した
28センチ榴弾砲弾が命中し、守備隊の指揮官コンドラチェンコ少将が戦死した。
その後、12月18日に堡塁の正面で2.3トンのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて占領。
日本軍は、この堡塁を突破するために約8,000人の死者を出したのだと。
東鶏冠山北堡塁入口には『北堡塁』と刻まれた岩が。
ここは撮影スポットになっているようであった。



現地ガイドの案内に従い堡塁の横を歩いて行く。



『暗堡通道入口』碑。



岩に覆われたトンネルの如き通路、その先には階段が。
しかしこの入口にはネットフェンスが。







そして再び階段を上っていく。



暗渠土塁の壁にあった日本の城にある「狭間」のような穴・砲眼が。



『暗堡』碑。



右手の壁には銃弾の跡が無数に。



日本軍の砲撃の弾痕跡であろう。







反撃用砲眼が大きく外から破壊されていた。



女性の横顔の様な形が見えるのだとの説明板。



なるほど!!。
名前は『玛格丽』・マーガレットと呼ばれているようであった。
落ち込んだ表情、大きな波状の髪、深い凹んだ目、尖った鼻、丸いあごは、ヨーロッパの
美女のシルエットのように見えるのであった。



『側防暗堡』碑。



大きく破壊された暗堡の壁。



『側防暗堡入口』



フェンスに保護されて安全面からか立ち入り禁止に。



『側防暗堡入口』碑。



『日軍爆破口』
東鶏冠山が陥ちたのは203高地占領後の12月18日であったと。
第1回攻撃では砲撃の後突撃というという攻撃法であったが、それでは味方の損害が大きい上
敵方には損害が殆どなかったのだと。
そのため途中より攻撃法が変え、堡塁近くまで密かに坑道を掘り進めて要塞を攻撃するという
というものに作戦を変えて行ったのだと添乗員から。



『日军爆破口』
 ここが日本軍が2.3トンのダイナマイト爆弾を仕掛けて破壊し、突破した場所。
この爆破よって日本軍がこの堡塁を陥落させるきっかけになった(突破口となった)のだと。
今はのどかで緑深い山に、生々しい弾痕や爆破口がある。百年前の死闘が目に浮かぶ場所。



『遊覧通道』碑。



 1916年に建立された『東鶏冠山記念碑』が立っていた。
正面に「東鶏冠山北堡塁」と刻まれていた、



満州戦跡保存会の石銘板
台座の碑文には
「明治三十七年八月以来第十一師團ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ
 同年十二月十八日占領ス 陸軍大将男爵鮫島重雄碑名ヲ書ス
 大正五年十月 満洲戦蹟保存會」と。



ロシア軍大砲が並んでいた。





『俄军炮阵地(ロシア軍大砲陣地)』
「1898年、ロシアが強制的に旅順大連を租借した後、ここに重砲陣地を築き、旅順西北方向に
対する火力網となった。
1904年10月、日本軍の二個師団が東鶏冠山北堡塁に向かって猛烈な攻撃を行い、
19日間の内、重砲砲撃と爆発によってトーチカを落とした。」



兵舎のエリアに入って行く。



士兵宿舎。



電話室



指揮部入口が前方に。



指揮部



指揮部内部。



更に進む。



兵舎のキッチン、応急処置場所。



コントラチェンコ戦死の石碑



コントラチェンコ戦死の場所の紹介
1904年 日露戦争が勃発後、日本軍は東鶏冠山北堡塁を奪い取るため、
129日の攻守戦を展開した。
12月15日の20時ごろ、ロシア陸軍防御司令官であるコントラチェインコ少将は
堡塁の指揮部に来て軍事会議を行う。
日本軍はこの情報を知ると、すぐに重砲(280mm榴弾砲)を激しい攻撃をし、
指揮部は一枚の砲弾に命中され、コントラチェンコ少将が殺された。
戦後、日本軍はその寛大な度合いと顕著な戦績を誇示するため、
ここに「コントラチェンコ少将の戦死の場所」という石碑を建てられた。



ロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ。
日本・ロシア双方から、「日露戦争に於けるロシア軍屈指の名将」と
高く評価されている。
戦死した場所には日露戦争終戦後その死を惜しんだ日本側によってこの祈念碑が建てられたのだと。
下の写真はウィキペディアより。



『堡塁正門』碑。



そして坂を下り、先程の入口に向かって戻る。



この窪んだ場所は?



そして再び『北堡塁』と刻まれた場所に戻ったのであった。



バスに乗り、東鶏冠山を下る。
前方に見えたのが『白玉山(はくぎょくさん)』であろうか。
港を見下ろす標高130mの小山で、山頂にある展望台からは軍港として利用されている
旅順港を一望することができる。
山頂部に立つ高さ66.8mの白玉山塔は旅順のシンボル的存在で、東郷平八郎と乃木希典により
立てられ、当初は表忠塔と名づけられたが後に改名された。



そして『 鸡冠山路 』から『新城大街』への交差点の角にあったのが
东鸡冠山景区 』と赤く刻まれた石碑。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2019.11.02 00:07:57
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