JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.16
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カテゴリ: JINさんの農園
8月1日のNHKのニュースで、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れる
ユダヤ人のために、本国日本の指示に背いてビザを発給した杉原千畝の命日に合わせ、
功績を紹介する特別展が31日から都内で始まったと。
杉原千畝は第2次世界大戦中、ナチス・ドイツの脅威にさらされていたリトアニアに駐在する
外交官として、迫害から逃れるユダヤ人のために当時ドイツと同盟を結ぶ直前だった
日本政府の指示に背いてビザを発給し、およそ6000人の命を救ったとされています。
7月31日は33年前に亡くなった杉原千畝の命日で、これに合わせ東京・中央区の博物館では、
杉原のゆかりの品や、同じようにユダヤ人を救うために奔走した各国の外交官の功績を
紹介する特別展が開かれていると。

八重洲南口に向かったのであった。



八重洲南口のJR長距離バスターミナル。



JR高速バスのりばの案内。



数寄屋橋方面に歩を進める。



東京都道405号外濠環状線の先に東京・八重洲ブックセンターが。
スーパーゼネコンのリーディングカンパニー鹿島建設本社跡地に建設された書店。
当時の社長鹿島守之助が日本最大の書店を作ろうと鶴の一声で誕生したのであると。



横断歩道を渡り、東京駅南口方面を振り返る。
グランルーフ=大屋根が見えた。東京駅のノースタワー棟とサウスタワー棟を
つなぐ渡り廊下で張り出した屋根を「帆」と表現しているのだと。



東京・八重洲ブックセンターの入口横の二宮金次郎像。

1991年6月設置。



台座プレートには、
「勤勉にして片時も本を手離さなかった二宮金次郎こそは、真に理想の読書人である。」
という株式会社八重洲ブックセンター会長河村金次郎氏の言葉が刻まれていた。



そしてブックセンターの横の道を奥に進むと正面には京橋トラストタワーが。







そして柳通り沿いににあったのが『杉原千畝 SEMPO Museum』が開かれていた
相模ビル。



相模ビルの入口には『杉原千畝 SEMPO Museum』のプレートが。



ドアを開けると杉原千畝の写真が迎えてくれた。



会場は2階とのことで階段を上がる。



2階会場入り口の写真。



『任務を終えて 諸国民の中の正義の人として表彰された外交官
ホロコーストと正義の外交官 特別展』。
7月31日~9月1日の1ヶ月間の開催であった。



チケット代500円を払い、パンフレットを頂き入場。



『SEMPO MUSEUM』の文字が。



開催会場は、中央区八重洲2丁目7-9 相模ビル2階。



「杉浦千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで
ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6000人のユダヤ
人民を救った。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちは
その子孫を合わせて現在25万人以上に及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラとも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は
「ちうね」という発音が難しく杉原自身がユダヤ人に「センポ」呼ばせたとされている。」



杉原千畝(すぎはらちうね)は第二時世界大戦中にリトアニアで外交官として多くの
ユダヤ系難民を救った人物。「東洋のシンドラー」とも称されている。
「1900年1月1日」に生まれて、「1986年7月31日」に逝去された。
現在の岐阜県美濃市に生まれ。父親は税務官で、その仕事の都合で、幼い頃は様々な土地を
転勤する生活を送った。その後、早稲田大学へと進学。しかし親の希望に反しての進学
だったため、学費が続かず中退することに。
その時に、外務省の留学生の試験があることを知り、受験、合格した。
留学生として、ロシア語を学び、中華民国、ハルビン総領事館などを経て、満洲の外務事務官と
なった。そこで、ロシア語のスキルを活かして、ロシアとの交渉を担当。
1937年に、フィンランドのヘルシンキの日本領事館、1939年には、リトアニアの
カウナス日本領事館へ赴任した。
カウナスに赴任したのは、「1939年8月末」のことであった。
赴任直後の「1939年9月1日」、ナチスドイツがポーランドの西側に侵攻し、第二次世界大戦が
勃発。
この時、ナチスドイツとソビエト連邦はこっそり不可侵条約を結んでおり、直後にポーランドの
東側にはソビエト連邦が侵攻を開始した。
リトアニアを始めとするバルト三国は、ソビエト連邦と相互に援助するという関係で、
ソビエト連邦軍の駐屯だけは認めていたが、中立の立場であった。
ナチスドイツはユダヤ人を迫害していた。
そのため、ポーランドを追われたユダヤ人たちが隣国で中立の立場のリトアニアに殺到する
こととなったのであった。
そんな状況下の「1940年6月」に状況が一変した。
ソビエト連邦は相互に援助するという約束を破り、リトアニアに侵攻。
中立の立場だったリトアニアは、ソビエト連邦に併合されることになった。
この時に、リトアニアに避難していたユダヤ人たちが、併合される前に日本を通して
他の国に逃れようと、領事館にビザの発行を求めて押しかけてくる事態に陥ったのだ。
そのほとんどの避難民が、政府の定める外国人入国令による通過ビザの要件を満たして
いなかった。彼は、人道的な観点から、ビザの発給を認めるよう日本本国へ打診をしたが、
認められなかった。
「本国の規律」と「人道的な立場」で葛藤し、彼は、ビザを発給することを選んだのであった。
戦争の拡大により、領事館からの退去も決まっていましたが、その直前までビザを発給し続けた。
その結果、「6000人」ものユダヤ系の人々を救うことになった。
戦後、日本へと帰国した彼を待っていたのは、無断でビザを発給したことへの退職通告であった。
彼の行動が知られるようになるのは、1969年のことであった。
彼のビザにより命を救われたイスラエルの政府高官が、人道的な観点から独断でビザを発給した
経緯を知り、その行為を賞賛、イスラエルで表彰された。
これにより、彼の行動が広く世間に知られることとなったのであった。
日本で彼の名誉が政府により正式に回復されるのは、更に月日を経た2000年のこと。
彼の発給したビザは、現在では「命のビザ」と呼ばれている。
葛藤の後に、「命のビザ」の発給を宣言したのが「1940年7月29日」だったと。
その直後の「1940年8月3日」にリトアニアはソビエト連邦に併合されてしまった。
すぐに日本やソビエト連政から退去命令が出たが、無視し、自身が退去する「8月末」まで
ビザを発給し続けたのであった。



正面のテレビ画面では杉原千畝の生涯、足跡がビデオで紹介されていた。
以下の写真は、『 杉原千畝Sempo Museum 』👈リンク のホームページから転載させて
頂きました。



「米IT大手グーグルは7月29日、検索画面トップのロゴマークに日本の外交官、
杉原千畝(1900〜86年)をあしらった1日限定の記念デザインを採用した。
この日は、40年にリトアニアで領事をしていた杉原が本国の方針に反してユダヤ難民に
日本通過ビザの大量発給を決断した日とされ、ナチスドイツの迫害から多くのユダヤ人を
救った杉原の行為をたたえたものだ。
グーグル本社が作成した今回の記念ロゴは、見開きのパスポートに杉原の顔が描かれた
デザインで、「Google」の文字の部分がビザのスタンプ風になっている。
また人の形が多く描かれ、杉原が出した「命のビザ」で救われた数千人のユダヤ人を
表現している。」と。右下には「LITHUANIA:リトアニア」の文字が記載されていた。



イスラエル、ポーランドなどから贈られたメダルや勲章など貴重な品の数々を展示されていた。



カウナス(KAUNAS)に赴任したのは、「1939年8月末」。



命のビザが発給されたパスポート。



杉原千畝略年譜。



約6000人の「命のビザ」・「杉原リスト」。



「決断のスタンプ」が置かれた机が正面右に置かれていた。



「決断のスタンプ」。



以上の写真は『​ 杉原千畝Sempo Museum ​』👈リンク から転載させていただきました。
この日の記念に「決断のスタンプ」を頂いたパンフレットに押しました。



記念にクリアーファイルを購入しました。
ミュージカル『SEMPO』-日本のシンドラー杉原千畝物語 の再公演の予定は
あるのだろうか?






そして、バルト3国のリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館を
私が訪ねたのは、2017年4月22日 ​👈リンク。
以下の写真は、当時の私がリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館で
撮った写真です。
正門には「希望の門 命のヴィザ」 の文字が。

DSC07699_R.JPG



正面の窓が当時の執務室。
門の前に集まるユダヤ人に次々にビザを発給していたと言われているのだ。



リトアニア日本領事館前でビザ発給を求めるユダヤ人 1940年7月。

「杉原千畝センポミュージアム」の画像検索結果

「命のビザ」を発行した机。



杉原千畝の家族の写真。
左から(敬称略)奥様・杉原幸子、長男(弘樹)、次男(千暁)、杉原千畝、
奥様の妹(菊池節子)。



元日本国在カウナス領事館で働いていた人々と杉原千畝の家族の写真。



杉原千畝が領事館から退避し、自ら列車にてリトアニアを避難する寸前に滞在していた
ホテルこそが、このホテル・メトロポリス。
このホテルでもひたすら最後まで通過ビザを書き続けていたと言われる歴史を作ったホテル。
プレートには1940年8月28日~9月4日まで滞在し、「命のビザ」を発給し続けたと。
そしてカウナスの中心部で、今も当時のままに営業を続けていたのであった。

DSC07666_R.JPG

リトアニアの首都ヴィリニウスにも杉原千畝の記念碑が建っていた。

DSC08843_R.JPG

更に岐阜県八百津町にある「​ 杉原千畝記念館 ​」👈リンク を訪ねたのは2017年11月23日。
こちらは杉浦千畝氏の生まれ故郷なのであった。



ここでも入場券(パスポート)に「決断のスタンプ」を押したのであった。



そして今年2019年6月20日に訪れたハルビン(哈尔滨)の『旧日本総領事館跡』
杉原千畝は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として
勤務していたのはこの場所であったと。



そしてウィキペディアより『杉原千畝 語録』です。
・「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。
・「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。
 しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」。
・”Vaya con Dios!"-- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。
・「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、
 みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。
 では、お元気で、幸運をいのります」  --ビザ発給の際にある難民にかけた
 千畝の励ましの言葉。
・「全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、
 旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわない
 とでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」
・「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」
・大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。
・「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに
 疲労困憊している様子だった」。
・「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、
 だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ。」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。

本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした
杉原千畝の勇気と人道性は、日本人として、「感謝」 「感動」「感銘」 「感服」 「敬服」。

皆さん、一度訪ねてみてください。






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Last updated  2019.08.18 07:25:29
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