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Gママさん
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隠居人はせじぃさん
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正面の窓が当時の執務室。
門の前に集まるユダヤ人に次々にビザを発給していたと言われているのだ。
リトアニア日本領事館前でビザ発給を求めるユダヤ人 1940年7月。
「命のビザ」を発行した机。
杉原千畝の家族の写真。
左から(敬称略)奥様・杉原幸子、長男(弘樹)、次男(千暁)、杉原千畝、
奥様の妹(菊池節子)。
元日本国在カウナス領事館で働いていた人々と杉原千畝の家族の写真。
杉原千畝が領事館から退避し、自ら列車にてリトアニアを避難する寸前に滞在していた
ホテルこそが、このホテル・メトロポリス。
このホテルでもひたすら最後まで通過ビザを書き続けていたと言われる歴史を作ったホテル。
プレートには1940年8月28日~9月4日まで滞在し、「命のビザ」を発給し続けたと。
そしてカウナスの中心部で、今も当時のままに営業を続けていたのであった。
リトアニアの首都ヴィリニウスにも杉原千畝の記念碑が建っていた。
更に岐阜県八百津町にある「 杉原千畝記念館
」👈リンク を訪ねたのは2017年11月23日。
こちらは杉浦千畝氏の生まれ故郷なのであった。
ここでも入場券(パスポート)に「決断のスタンプ」を押したのであった。
そして今年2019年6月20日に訪れたハルビン(哈尔滨)の『旧日本総領事館跡』
杉原千畝は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として
勤務していたのはこの場所であったと。
そしてウィキペディアより『杉原千畝 語録』です。
・「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。
・「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。
しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」。
・”Vaya con Dios!"-- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。
・「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、
みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。
では、お元気で、幸運をいのります」 --ビザ発給の際にある難民にかけた
千畝の励ましの言葉。
・「全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、
旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわない
とでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」
・「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」
・大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。
・「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに
疲労困憊している様子だった」。
・「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、
だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ。」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。
本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした
杉原千畝の勇気と人道性は、日本人として、「感謝」 「感動」「感銘」 「感服」 「敬服」。
皆さん、一度訪ねてみてください。
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