JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.01.15
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カテゴリ: 国内旅行
「臼杵城跡」の散策を続ける。
「大門櫓」前から「畳櫓」を振り返る。



「大門櫓」手前、帯曲輪の左側にあった「稲葉氏の城郭改修」案内板。



「稲葉氏の城郭改修
帯曲輪(おびぐるわ)
大友氏時代から太田時代( 1556-1600 )にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に
面した入口から鐙坂(あぶみさか)を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀に
たどりつき、そこから上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。
稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに
三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と
枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境に
2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪と
呼ばれるようになりました。
また、この新しい登城口を今橋ロ、それ以前の鐙坂の登城ロは古橋ロと呼ぶようになったのも
この頃からです。」



「畳櫓(たたみやぐら)
畳櫓は、桁行4間( 7.92m )、梁行3間( 4.44m )の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。
この櫓は正保年間(1644 ~ 1648年)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763年)
の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764 ~ 1772年)頃ではないかと推定されます。
「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする
説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。」

「井楼櫓」が現存していた明治初期の古写真。



「臼杵城絵図(延宝4年=1676年)」



「大門櫓」。



近づいて。
威風堂々たる姿は小高い丘の上にあり 臼杵の町が一望できるのであった。




大門櫓は、稲葉氏入城直後の十七世紀初頭に建てられたもので、宝暦十三年(一七六三年)の
大火で焼失した後、明和五年(一七六八年)に再興され、明治初年の廃城に際して取り壊される
まで、その威容を誇っていました。
復元にあたっては、現存するニ基の櫓、宝暦大火以降の古絵図、明治初年の写真、発掘調査の
成果などを参考にし、楼門形式・ニ枚開戸・櫓部壁下見板張・入母屋屋根・塗込垂木など、
廃城直前の形状、この門の特徴である中央門柱後ろに控え柱を持たない独特の形状を再現して
います。
施工については、古建築の雰囲気を醸し出すよう、地元の職人が伝統的工法を駆使して、可能な
限り江戸末期の姿となるよう努めました。
この大門櫓復元を契機に、ここを訪ねる方々が往時の臼杵城の雄姿をしのびつつ、この
城郭史跡の保護と城下町景観の保全についてなお一層の理解と関心を寄せていただくことを願って




「大門櫓」を潜り振り返る。



「大門櫓」越しの夕景。



「大門櫓」から「畳櫓」を見る。



右手奥にあった「井楼櫓跡」に向かう。



「井楼櫓跡」碑。







近づいて。



手前に「畳櫓」の屋根、その先に臼杵市街「二王座地区」、「平清水地区」、「町八町」が
拡がっていた。



「東九州自動車道(大分宮崎区間)」の高架橋と「鎮南山(536 m)」の姿が。



「井楼櫓跡」の端から真下を見る。「畳櫓」の屋根が見下ろせたが。
手摺等は全く無く危険なのであったが・・・。



「大門櫓」の横からの姿を「井楼櫓跡」から見る。



「二の丸跡」には「臼杵城」の歴史年表が。



左から。
臼杵城の歴史【室町時代、安土・桃山時代、江戸時代】
​弘治2年(1556)  この頃までに大友義鎮(よししげ)が丹生島に城を築く。​
永禄6年(1563)  大友義鎮が出家し宗麟と名乗る。
天正6年(1578)  日向に出兵するが高城川の戦いで大敗。宗麟、キリスト教の洗礼を受ける。
天正8年(1580)  この頃、イエズス会修練院・聖堂が臼杵城下に建立される。
天正10年(1582)  宗麟、キリシタン大名大村純忠、有馬晴信らと共に少年遣欧使節をローマに
         派遣する。
天正14年(1586)  島津軍が臼杵に侵入。宗麟は、臼杵住民を臼杵城に避難させる。
天正15年(1587)  宗麟、津久見で没する(58歳)。
天正16年(1588)  臼杵城及び城下が全焼する。
         宗麟死後、臼杵城は府内城(長男義統が城主)の支城となる。      
​​​文禄3年(1594)​ 福原直高、臼杵城主となる。 はじめて天守櫓建てられる。​​
​​ 慶長2年(1597) 太田一吉、臼杵城主となる。 また、城郭の大改修を行う。この時期に祇園洲​​
         「三の丸」となる。
​​ 慶長5年(1600)  稲葉貞通(さだみち)、美濃国郡上八幡城主から臼杵城主となる。
慶長8年(1603)      典道、二代臼杵城主となる。
慶長15年(1610)    臼杵城の三の丸に祇園社(八坂神社)が造営される。
寛永元年(1624)     典道、臼杵城「鬼門」鎮護のため津久見島に弁財天をまつる。
​​


臼杵城の歴史【江戸時代】
寛永4年(1627)  一通(かずみち)、三代臼杵城主となる。
寛永18年(1641)  信通(のぶみち)、四代臼杵城主となる。
延宝元年(1673)   景通(かげみち)、五代臼杵城主となる。
元禄7年(1694)  知通(ともみち)、六代臼杵城主となる。
宝永3年(1706)  恒通(つねみち)、七代臼杵城主となる。
享保5年(1720)  董通(まさみち)、八代臼杵城主となる。
元文2年(1737)  泰通(やすみち)、九代臼杵城主となる。
明和5年(1768)      弘道(ひろみち)、十代臼杵城主となる。



臼杵城の歴史【江戸時代末期から明治時代】
寛政12年(1800)  雍通(てるみち)、十一代臼杵城主となる。
文政3年(1820)  尊通(たかみち)、十二代臼杵城主となる。 
文政4年(1821)  幾通(ちかみち)、十三代臼杵城主となる。
弘化元年(1844)   観通(あきみち)、十四代臼杵城主となる。
文久2年(1862)  久通(ひさみち)、十五代臼杵城主となる。
明治2年(1869)  各藩、版籍奉還を行う。
明治4年(1871)  廃藩置県により、臼杵藩が臼杵県となる。
明治6年(1873)  「城取り壊し令」により、一部の建物を残し、殆どの建物を取り壊した。
         ※現在は、「畳櫓」「卯寅口門脇櫓」の二棟が残る。
         臼杵城を公園とする。


「二の丸(にのまる)
二之丸(にのまる)
江戸時代、空堀から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。
臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかでは
ありません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557年)、天正16年(1588年)の火災で
焼けた土層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、
瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。また、その層からは
景徳鎮(中国)製の青花磁器や赤絵金襴手椀など、多くの高級陶磁器出土していることから、
大友時代の城主居館が存在していたことが伺えます。
大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直嵩、太田一吉が相次いで入城します。
これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイル
へと変化していったと考えられます。
その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡(現在の岐阜県)から転封してきた
稲葉氏によって、さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋ロなどもこの時に
整備されました。
その後、延宝4年(1676年)、当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移して
からは、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました。」

「二之丸御殿(にのまるごてん)
二之丸御殿は、「書院造」を基本とした棟をつなげた構造をしていたことが、残されている絵図
から分かります。そして、その空間は「表」と「奥」に分けられていました。
表空間は「大書院」「小書院」「御居間」等の大部屋が見えます。これらは政務遂行や年中行事
などの儀礼に使われた空間と考えられます。「御居間」に近づくほど、より限られた身分の者しか
出入りできなかったと考えられます。
奥空間には「内所」と呼ばれる藩主らの部屋があります。藩主とその家族の日常生活の場です。
「湯殿(風呂)」、「御仏間」等、藩主のプライベートな部屋も見えます。
御殿の奥には、池と築山、石の輪橋などを配した庭がありました。また、北側には「凌雲亭」と
呼ばれる茶室が造られた時期もありました。」



ニ之丸御殿「指図」(西暦1750年頃)。


「佛狼機砲(国崩)」。
1576年(天正4年)にポルトガル人から宗麟に送られた佛狼機砲(ふらんきほう)。
これが日本初の大砲といわれる。
宗麟はこの大砲を 国崩 と名付け、臼杵城に配備した。
廃藩置県後、国崩は国に献上され、現在は靖国神社境内に展示されている。
ここにあるのは複製されたもの。



「佛狼機砲(国崩(くにくずし))
天正四年(一五七六年)にポルトガル副王より大友宗麟公に大砲が贈られました。
これは日本人がはじめて手に入れた大砲といわれています。
宗麟公はその大砲を「国崩」と名付けてそれをもとにした大砲を量産し、臼杵城に備え付けました。
この大砲は複製品であり、原型は16世紀に大友氏が所有したのち、薩摩藩主島津氏の手にわたり、
明治維新後に靖国神社に献納されたと伝えられています。」



「大友宗麟公」碑。



大友宗麟公像(レリーフ)。



「大友宗麟公
大友宗麟(義鎮)(一五三〇~一五八七)は九州六ヶ国の守護職から九州探題職となり九州随一
の覇者として内外にその名を高め一五六ニ年には丹生島に城を築き臼杵から天下に号令を
下しました。
このときから臼杵は名実ともに政治経済の重要地として注目をあつめました。 また宗麟は
キリスト教を信じポルトガル、イスパニアなどとの交易を開き、当時臼杵に往来する外国船や
城下町につどう外国人などでにぎわい、異色の国際都市として発展しました。
その宗麟の偉業を偲んで一九三七年郷土出身の彫刻家日名子實三氏によりブロンズのレリーフが
製作され城跡に建設されておりましたが第ニ次世界大戦(一九四四年)での軍事資材として
政府に献納されその雄大な人物像も姿を消しておりましたものを一九八ニ年京都嵯峨美術短期
大学の辻浩氏の手によってここに復元製作されたものであります。」


掲示板には「神社写真時報」が。
9月1日~12月31日までの神社行事の予定が記載されていた。



「村瀬庄兵衛政績碑」。



「村瀬庄兵衛政績碑
この石碑は、天保ニ年(一八三一)臼杵藩の藩政改革の総元締に抜てきされ、藩財政の建直しを
成功させた村瀬庄兵衛の功績を永く讃えるために建てられたものです。
この碑には、藩が多額の借金を抱え、赤字財政で困窮し、その建直しを迫られていたとき、担当
責任者として抜てきされた庄兵衛が、「量入制出」の制度を取り入れ、無駄を省き、殖産にも
力を注ぎ財政再建に努めたこと。さらに学古館及び講武場を設け、学問や武技を習わせ、
人材育成に努めたことなどが記されています。」



「「廃墟」の像」



「「廃墟」の像
臼杵市出身の彫刻家 日名子実三(一八九三~一九四五)の手によるこの「廃墟」は、実三自身
が大正九(一九ニ〇)年発行の「美術写真画報第一巻第十号」で述べているように俊寛という
平安時代の僧侶がモデルです。
俊寛は同士とともに平家打倒を目指していましたが、安元三年(一一七七)この密議(鹿ヶ谷の陰謀)
が平家に見つかり、俊寛は同士とともに薩摩国(鹿児島県)喜界島(硫黄島)に流され、そこで不運の
生涯を送りました。
実三は俊寛への思いと、自らの中にある頽廃的な気分をこの彫刻で表しました。
実三は旧制臼杵中学校(現・臼杵高等学校)から東京美術学校彫刻科(現・東京芸術大学)に進み、
朝倉文夫に師事するなどして次々と作品を発表しますが、創作活動の後期においてはスポーツに
関心を強く持ちはつらっとした健康的な作品も製作しています。」



「日本一大きなモミの木のクリスマスツリー」
「臼杵城跡には、推定樹齢140年という、高さ29.3メートルと28.9メートル(2002年11月現在)
のモミの木が二本並んで立っている。2002年12月1日、この二本のモミの木にイルミネーション
が点灯され、日本一大きなクリスマスツリーとなる。」と。
しかしこの日の写真はこれだけであり、モミの木の写真は撮り忘れたのであった・・・。



二ノ丸と本丸を仕切る「空堀」 。



様々な角度から。





「本丸」、「本丸の建物」案内碑。



「本丸(ほんまる)
江戸時代、空堀から東側の一帯を「本丸」と呼んでいました。この一帯が大友氏時代に
どのような姿だったのかはっきりしていません。ただ、江戸時代の二之丸よりも標高が低い
ところにあるため、大友氏の時代には、こちらが二之丸だった可能性があります。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が城主となりましたが、初代藩主・稲葉貞通と典通
(のちの2代目藩主)は本丸防衛のため、空堀を整備し、二之丸方面から本丸の入口に渡る土橋を
設けました。土橋を渡るとすぐのところに鉄門という櫓門をもうけ、本丸の出入口を固めました。
空堀は、天守櫓から見おろす位置とし、二之丸からの進入に備えたのです。
明治維新後、公園として整備され、今のような姿となりました。」

「本丸の建物
江戸時代に入り、平和が続くと、藩主が政務を執行する空間(「表」)と、藩主の生活空間(「奥」)
としての機能を持つ「本丸御殿」が中心的な役割を担いました。「表」も「奥」も、「書院造り」
を基本としていました。
現在残されている絵図(指図)によると、「表」(茶色部分)には「御広間」「大書院」等、政務遂行
や儀礼に使われた部屋が見られます。「御広間」等からは「御舞台」が見える構造になって
います。
舞台は主に能に使われていたと考えられます。
​一方、「奥」( 青色部分 )には、「御座間」と呼ばれる藩主の部屋があります。本丸北側の崖ぎわ
には「御湯殿」が​設けられ、現在で言う展望風呂のような状態になっています。
本丸御殿は、城下町や三之丸(現在の祇園洲地区など)から離れ、不便だったこともあり、延宝4年
(一六七六年)、主な機能を二之丸(西の丸)御搬に移転しました。」



「臼杵城絵図 本丸部分拡大(1636-1660)」。



「延宝年間の本丸御殿(指図)(平面図)」。



「臼杵城跡(臼杵公園)」。



「臼杵城の石垣---鉄門枡形石垣」案内板。



「臼杵城の石垣---鉄門枡形石垣
正面に見える石垣は、臼杵城本丸の入り口にあたる鉄門の桝形石垣で、桝形北側部分の石垣は
大正時代に撤去されました。城の心臓部に当たり、防衛的にも格式的にも高さが求められた
この石垣は、臼杵城のほかの石垣より大きな築石(石垣を構成する石材)が用いられています。
ひときわ大きな「鏡石」を中央に置くという技法は、角石が長さの長短を規則的にそろえる
算木積みの技法とあわせ、十世紀初頭から主流になった積み方て、稲葉氏が城主となった
直後の改修て築かれた石垣とみられます。」



「鉄門枡形石垣」。



算木積みーさんぎづみー
 角の部分に長方形に加工された石が長短交互に積まれています。
鏡石ーかがみいしー
 石の表面が鏡のように平らなことからつけられたようです。
枡形石垣ーますがたいしがきー
 城郭の出入り口の最も発達した形状で、四角形の空間を囲む様に石垣を築くものです。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.07.15 15:38:19
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