JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.01.27
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カテゴリ: JINさんの農園

粟津温泉 喜多八<石川県>

増上寺 宝物展示室 」前にも、移設された 青銅燈籠が2基
■宝物展示室入口(南側・写真奥)
 奉献者:安芸国広島藩主 浅野吉長
 鋳物師:多川民部藤原見歳
■宝物展示室入口(北側・写真手前)
 奉献者:前越後国高田藩主 松平定重




増上寺 安国殿 」越しに東京タワーを見る。



正面に「​安国殿」👈リンク。



常香炉とその先に「 安国殿 」入口が。



内部に入る。
寺務所。



ネットから祭壇全体の写真。



「安国殿」のご本尊、秘仏「黒本尊」はこちらにあるのだと。恵心僧都の作。家康が崇拝し、
黒本尊のパワーを借りて激戦を勝ち抜いたのだ と。



秘仏「黒本尊」の「お前立 」をズームして。



安国殿と黒本尊
この建物は德川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。
「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う
境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(一九七四)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の
念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
建物の老朽化に伴い、平成ニ十三年(二〇一一)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点
として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立
しました。
「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ
御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利
などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。」



祭壇の右側 には 阿弥陀如来立像



祭壇の左側。
中央に狩野探幽筆『 徳川家康像 』と同じ絵が、その下、右横には 徳川家御歴代並びに一門の
尊霊の
位牌等が祀られていた。
皇女和宮御像 」。



「安国殿」の右側にあったのが「 徳川将軍家墓所公開 」と書かれた門。



「徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)特別拝観
当山に埋葬されているのは、
ニ代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十ニ代家慶公、十四代家茂公、の六人の
将重のほかニ代将軍正室崇源院、十四代将軍正室静寛院などです。
以下 略」



千躰子育地蔵菩薩 」。
増上寺では子育安産の西向聖観世音菩薩にちなみ、昭和50年頃より子育地蔵が徐々に建立され、
境内北側に約1,300体が安置されている。このお地蔵様は、お子様の「無事成長」「身体健全」
或いは「水子さま」のご供養のためにと願いを込めて建てられたもの。
毎年4月の第3日曜日には「千躰子育地蔵尊大法要」が執り行われ、子供の無事成長・身体健全の
祈願、水子のご供養を執り行っている と。



赤いニットの帽子をかぶり風車を持っていru。赤いよだれかけをしているお地蔵さんも。



子供の健康と成長を願って安置され無数の地蔵尊が並ぶ。



風が吹くと、時折、からからと風車が音をたててまわっていた。



増上寺境内の地蔵様たちは皆それぞれ愛くるしい顔の表情で、端から端へと見て歩いたので
あった。全ての地蔵様が「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」できちんときれいに身繕い
されていたのであった。



全ての子供達の健やかな成長を願いながら。



増上寺 徳川将軍家墓所 」に向かって「千躰子育地蔵菩薩」に見送られながら歩く。



千体子育地蔵菩薩
子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、
それぞれのお施主様がお建てになりました。
幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の
「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。
地蔵菩薩像には触らないでください。」



そして正面に石碑が並んでいた。



皇女和宮の歌碑
はゝ(母)所葉乃(そはの) 散(ちり)し秋さへ 思ひ出て 一方ならず 袖はぬれける
亡き母(観行院)を偲び、涙にくれたという歌である とネットから。



」と刻まれた石碑。
「止於考」は、儒教の「大学」にある「為人子,止於孝;為人父,止於慈」という文言に
よるもの と。
「止於考」は、子として真心をもって両親に仕える道を「孝」とすることを意味する と。


見事に紅葉したモミジ葉。



近づいて。



徳川将軍家墓所・鋳抜門 」が右手にあった。
現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を
入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されているのであった。



扉には 徳川葵紋 が並んでいた。
3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。
江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。
東京増上寺の寺紋 、日光市日光東照宮の神紋、京都市清凉寺の寺紋であると。



門の 右には上り龍



門の 左には下り龍



「港区の文化財 増上寺 鋳抜門」案内柱



近づいて。その奥には「 徳川家 霊廟 」と。



「増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かっては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟
(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の
東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは
日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、
昭和二十年三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年に実施された
改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一角にまとめられた。




徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右) に
建ち並んでいた。
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳 粛かつ
壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいであった。
その後昭和 二十年(一九四五)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を
解除されました。
正面の門は旧国宝で「鋳抜門(いぬきもん)」と言われ、文昭院殿霊廟(徳川家第 6 代将軍
家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築した。 左右の扉は共に青銅製で 5 個ずつの葵紋を
配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、 その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を
今に伝える数少ない遺構である。
墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の
六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お 江)、静寛院宮
(十四代家茂公正室和宮)ら 五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ
五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されて
います。」



四菩薩像 」。



四菩薩像
正面(右)から
普賢菩薩(辰年守本尊)
地蔵菩薩(子育地蔵)
虚空蔵菩薩(丑寅守本尊)
文殊菩薩(卯年守本尊)
もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。
西向の観音像に対し東向きであった。
正嘉ニ年(一ニ五八)の作と伝たえられる古像である。
奉納 杉浦米
奉納 藤城里花」



港区の文化財 四菩薩 」。



向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の4体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりに
あった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に
西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。
足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉二年(一二五八)に土地の人が
真言僧に建てさせたともいわれています。




増上寺 徳川将軍家墓所 」入口手前には大きな石灯籠が並ぶ。



さらに左側にも。




                                ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2024.01.27 12:26:51
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