JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.06.15
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カテゴリ: JINさんの農園
曜変天目の小宇宙
中国で生まれて、日本に伝わり、国宝となった曜変天目。この美しい茶碗は多くの謎に包まれて
います。そもそも「曜変」とは何なのか、「窯変」(やきものが窯の中で意図せず変化すること)
との違いは? /南宋時代から現代までどのように伝わってきたのか?ーー伝来の謎/どのようにしたら
曜変の不思議な色が生み出せるのか?ーー製法の謎/曜変の虹色はどのようにして成り立っているのか?
----光彩の謎・・・などなど。
今展では初めて曜変天目を高台裏までご覧いただけるような展示方法をとっています。さまざまな
謎を秘める曜変天目(稲葉天目)の姿を余すところなくご堪能ください。



3章 天目と黒いやきもの
東洋の黒いやきものには4000年以上の歴史があります。中国の黒いやきもののはじまりは新石器
時代の山東省における大汶口文化や山東瀧山文化で作られた精緻な黒色の土器である「黒陶器」求められます。
人為的に釉薬を施した陶器が出現した頃から、釉中に自然に含まれる鉄分によリ黒掲色を呈する
ものがありましたが、漆黒に近い黒い釉薬は後漢時代、青磁生産が盛んな江南で完成しました。
宋代以降、建窯などの江南の諸窯では黒釉をベースにした天目茶碗が焼かれたほか、華北の
磁州窯系諸窯でも黒釉陶磁が生産され、線影りや掻落し、あるいはより鉄分の濃い釉薬による
銹花(しゅうか 斑)といった加飾技法が発達しました。清代には高火度焼成による黒釉以外にも、
低火度による釉上彩の黒が注目され、黒地のやきもののヴァリエーションが広がりました。
やきもの先進国の中国から絶えず刺激をうけた日本では、鎌倉時より尾張瀬戸で天目茶碗が焼かれ、
挑山時代には中国の三彩の技術をルーツとする長次郎により黒樂茶碗が生み出され、受け継がれて
います。
本章では、中国古代の黒陶から、宋・元時代の天目茶碗をはじめとする黒釉陶磁から東洋の伝統的
陶芸術のみといえる清時代のやきものの黒、また挑山・江戸時代の日本へとつながっていく黒い
やきものの流れを紹介します。」



Q&A ①
「窯変」と「曜変」、その違いとは?
「窯変」は、やきものの焼成において釉薬か予期しない色や様子を呈することをいう。代表的な
ものに鉄釉(図1)と銅釉(図2)の窯変かあり、備前焼や信楽焼といった無釉の陶器の変化も窯変と
呼んでいる(図3)。
そのうち、建窯の「曜変」は鉄呈色の黒釉の窯変ということになり、「窯」の字を、「曜」字に
置き換えたものだろう。中国の文献に「曜変」の語は見られないため(中国で何と呼ばれていたかも
不明)、日本て名付けられたものとされている。大漢和辞典を参照すると、「曜」の字には
1、かがやく。ひかる。2.あきらか。3.ひかり。4.日・月・五星(日月火水木金土=七曜)
などの意味があり、「曜変」の表記はそのきらめく光彩や星のような斑文に由来すると考えられる。
◆恐ろしい窯変
中国において窯変という現象は恐れられることが多かった。早い例ては、南宋・周煇
(1127 ~ ? )の「清波雑志」に「北宋の大観年間、景徳鎮において窯変が生し、陶器が朱砂のような
赤色に変化したため、陶工たちは恐れて壊した」とある。
また明代の謝淛肇(1567 ~ 1624)「五雑組」には、「景徳鎮窯では常に窯変が起こり、器に魚の形や
果物の影が現れる。伝え聞くところでは、童男女の生き血をとって祭るために怪異が起きる。
(中略)禁中に知られて取り調べを受けるのを恐れて、人は大抵砕いてしまう」などと記されており、
窯変に対して当時の人々が禍々しいイメージを抱き、かつ公に知られてはいけないと考えていた
ことが分かる。
中国における「窯変」事情と日本に伝わり国宝となった曜変天目の伝来について考察した彭丹氏は、
これを中国独特の「敬天思想」によって説明する。中国ては皇帝をはじめ全ての人々が天を絶対的な
存在として崇めた。天の意思は天地万物の変化によって知られ、異変は不徳の皇帝への警告や懲罰
でもある。窯変は人力の及はない異変であり「天からの警告」。その事実を朝廷や世間に知られては、
陶工たちの身が危うい、ということである。
◆「曜変」は恐ろしい?
南宋・祝穆による13世紀中国の地理書「新編方輿勝覧』には、「建窯で造られる兎毫盞(兎の毛模様の
ある碗=禾目天目)のうち、毫色の異なるものを現地の人は「毫変盞」と呼び、価格は極めて高く、
また得難い」と記される。「毫変盞」の実態は不明だが、南宋時代の建窯近辺の人々は建盞の兎毫文の
色(光彩)の変化を認識し、色の違いによって価値に優劣をつけたことが分かる。すなわち建盞の鉄釉の
窯変に美を見出しており、ここには窯変に対する恐れや危機感などをうかがうことはできない。
また「清波雑志」「五雑組」は白磁を産した景徳鎮窯の逸話である。無色透明の釉薬と白い素地に
よって出来る白磁が紅変すれば、確かに異変であろうが、建窯の黒釉は鉄釉であり、陶工たちは
鉄分の多寡、焼成条件によって釉色が変化することを熟知していた。
だからこそ「毫変盞」は珍重され、油滴や曜変のような変化も喜んで受け入れたのだろう。
2009年杭州出土の曜変天目片は、南宋皇城の東側、当時「都亭駅」と呼ばれる外国使節の迎賓館が
置かれたとされる場所から発見されたという。これにより曜変天目は、南宋時代、皇帝など中国の
最上層の人々によって使われていたと考えられるようになった。美しい曜変はそもそも「予期された
窯変」であり、恐れの対象ではなかったのかもしれない。





Q&A  ②
曜変天目はいくつあるのか?
よく知られるように、完全な形で現存する曜変天目は日本で国宝に指定される(大寺龍光院、
藤田美術館、静嘉堂)のみ。産地の福建省建窯を擁する中国にも現れず、近年まで確実な破片すら
発見されていなかった。
しかし2009年浙江省杭州市で7割ほどの部分を残す破片(図1 )の出土を機に、2017年に同じく
杭州市内で3分の1程を残す陶片(図2 )が発見され、2◯◯◯に出版された書籍には福建省建甌市で
発見されたという陶片(図3 )が紹介されるなど、曜変研究は中国においても進展の兆しを見せている。
◆歴史上の“曜変”
一方、歴史的文献においては、いくつかの実在した”曜変"について記録が残る。
鎌倉・円覚寺塔頭仏日庵の什宝を南北朝期にまとめた「仏日庵公物目録」や「ー対 曜変」などの
唐物が「鎌倉御所」入御の時に引き出物とされたとある。
室町時代には、朝廷と幕府をつなぐ武家伝奏として活躍した公家・広橋綱光(1977)自筆の日記
「綱光公記」寛正5年(1464) 10月29日条に、6代将軍・足利 義教が 花園天皇に進上した
「曜変御建盞」について、8代将軍・義政が拝見を申し出たとある。



Q&A ③
曜変の伝来ーーなぜ日本にしかないのか?
曜変天目の生まれ故郷は中国福建省南平市建陽区水吉鎖の建窯。なかても優品を産したという
蘆花坪窯址で誕生したと目されている。完全な形で伝世する曜変天目は現在国宝に指定される
三碗のみが知られている。ただこの三碗とて挑山時代以前の来歴は定かではない。
◆国宝曜変三碗の来歴
最も古い来歴が残るのが京都・大徳寺龍光院所蔵の一碗である。堺の茶人・津田宗及が所持した
天王寺屋伝来品の一つとされ、宗及が創建した堺・大通庵から宗及次男の江月宗玩が住持する
大徳寺龍光院に入り、今に伝わる。
大販・藤田美術館所蔵の曜変は徳川家康の愛蔵品て、家康11男の初代水戸藩主・徳川頼房に譲られ、
水戸徳川家に伝わった。大正7年(1918) 10月の水戸徳川家売立において藤田平太郎が購入し、
藤田美術館に伝わった。
静嘉堂所蔵品をもと柳営御物(徳川将軍家所蔵品)といい、江戸幕府3代将軍・徳川家光が乳母の
春日局に曜変天目に薬湯を入れて下賜し、それか春日局の孫・稲葉正則に譲られ、淀藩主稲葉家に
伝わった。大正7年(1918)、稲葉家から姻戚の小野家へ渡り、昭和9年( 1934 )に岩崎小彌太の
所有となり、昭和21年(1946)静嘉堂へ寄贈された。
◆建盞の優品たちの中国での行方と日本への請来
宋代の皇帝や文人たちが喫した最高級の茶は固形茶であり、それを粉にして点茶法(茶末に湯を注ぎ
かき混せて飲む方法)で立てた茶は乳のように白かったという。天目茶碗の中でも建盞は、白い茶の
色に対する黒い釉色や陶器の保温性という、点茶法を行う際の実用的な面から評価された。しかし
南宋時代に固形茶の質が低下して葉茶に嗜好が移っていったこと、また製茶法の進展などにより、
従来の点茶法に代わって唐代以来の茶を煎じる(煮る)「煎茶法」が復興し、やがて葉茶を湯に浸して
飲む「泡茶法」に変遷していく。そのような時代に中国における点茶法消滅の決定打となったのは、
明朝の初代皇帝・洪武帝が洪武24年(1391)に高級な固形茶の生産を禁したことだ。点茶法が絶えれば
天目茶碗も不要となる。建窯における黒釉盞の生産はすでに元代14世紀に停止している。
一方、日本では12世紀後半に点茶法が伝わり、茶の栽培が定着、14世紀頃から喫茶が流行する。
中国製の天目茶碗の需要が増していく中で、建盞の優品は明王朝と室町幕府が行った日明貿易により
日本に請来されたという。日明貿易の記録である「大明別幅并兩國勘合」には、永楽4年(1406)、
明の永楽帝が室町幕府3代将軍・足利義満に「建盞」十碗を下賜したと記されている。これらの建盞は
宋代のアンティークと推測され、このような下賜品に曜変天目も含まれていた可能性が指摘されている。すなわち、曜変天目をはじめとする建盞の優品は、中国で点茶法が廃れた元~明時代にもたらされたと
考ることができるだろう。




Q&A ④
曜変天目は、どのようにつくられた?
南宋時代(1127 ~ 1279)、建窯で焼成された「曜変天目」は偶然の産物であったのか。それとも
当時の陶工たちが、神秘的な美を追い求めて試行錯誤を重ねた末、ごくわすかだが完成させることが
できた“究極の茶碗”であったのか。その製法をめぐる探求は、近代以降日本と中国の双方で続けられて
きた。ここでは、日本の陶芸家・九代長江惣吉氏の再現実験と、2009年に中国・杭州て初めて出土
した曜変天目陶片の、科学分析に基づく新たな見解を紹介する。
◆陶芸家・九代長江惣吉による「曜変」の製法
九代長江惣吉氏(瀬戸市在住)は、福建省建窯の胎土と釉石を使用し、酸化と還元を繰り返す高火度
(約1320℃)焼成を行った。最高温度から約100℃下がった時点で強還元状態に移行し、釉中のガスを
星状に発泡させたのち、再び酸化状態に戻して気泡を破裂させ、独特の斑文を形成する。また、
”光彩"を生じさせるために「酸性ガス法」を採用した。建窯から採集した蛍石(CaF2)や硫化鉱物を
窯に投入し、発生したフッ化水素ガス(2HF)を釉面と反応させることで、銀・鉛といった重金属を
用いずに発色させることに成功した(図1 )。これは、藤田美術館所蔵の国宝・曜変天目(図2)と
一致する特徴であり、長江氏は曜変天目を偶然ではなく、科学的経験則に基づき生み出されたものと
捉えている。
◆“杭州曜変”の製法ーー斑文は絵付けされた?
一方、中国では杭州出土の曜変天目陶片についての研究成果が、2023年に発表された。中国科学院
上海硅酸塩研究所の李偉東氏らが発表した分析結果によると、"杭州曜変"の斑文部分は、「銀」粉に「鉛」粉を加え、有機接着剤と混せた「上絵具」によるものであった。それを筆で点描したのち、
約1000℃でニ次焼成していると推測されている。斑文を焼き付ける過程では、低融点の鉛が先に
蒸気化してガラス膜を形成し、高温で蒸気化する銀が微小球状となって釉中に沈着する。これに
より構造色による虹彩(光彩)を呈するようになる。銀と鉛による「上絵具」は、星のように
きらめく視覚効果を生むとともに、その成分によって光彩の発生を促す効果があったとされる。
このように曜変天目には、高火度焼成中「自然に」生じた斑文と、銀や鉛を用いて意図的に描き
低火度で焼き付けたものの両系統が存在する可能性がある。




Q&A ⑤

室町時代の 君台観左右帳記には、足利将軍家における唐物(中国から渡来した美術工芸品)を使った
座敷飾りの方法や唐物の特徴・評価なとが記されている。そのうち「土之物」(器)の項では、その
斑文を“瑠璃の星”と表現して「曜変」を説明している(以下現代語訳)。
曜変は・・・地(釉)が見るからに黒く、濃い青や薄い青の星が隙間なくある。さらに黄色や白、
ごく薄い青などの色々がまじって、錦(豪華な絹織物)のような釉もある。500年前も今も変わらす、
人々を惹きつけてきた「曜変天目」。この深淵な青い輝きの謎が、現代の科学的調査によって
紐解かれつつある。
◆青い輝きの正体ーー科学的解明のはじまり
曜変天目の光彩を初めて科学的に研究したのは、日本の文化財科学研究の第一人者・山崎一雄
(1911 ~ 2010)で、龍光院所蔵の国宝・曜変天目の観察をもとに、光彩が釉の表面に生じた極めて
薄い膜による光の干渉によるものと発表した。またJ. M.プラマーが小山富士夫に寄贈した陶磁片
(1935年に建窯窯址て採取されたもの)を分析し、曜変の青紫色の輝きは鉛などの重金属によるもの
ではないことを明らかにした。この研究により、曜変の光彩は光の干渉による「構造色」であると
理解されるようになった。
構造色とは?
構造色とはモノ本来の色てはなく「構造によって生まれる色」である。鳥や蝶の翅、貝殻虹や青空
などに見られ、ナノレヘル(髪の毛の太さの数万分の1程度)の非常に細かい構造が、特定の波長の
光を干渉・反射させることて、色が見える現象を指す。


◆曜変天目の光彩は一一?
2012年調査: 福嶋喜章・長江惣吉の両氏が「宋代建盞の光彩のある天目片」を、成分分析ならびに
電子顕微鏡を用い調査した結果、それらの陶片に鉛・錫等の重金属類は検出されなかった。また釉の
表面に近いガラス質に”シワ状の構造”が一定の周期で並ふ画像が公開された。調査陶片の”曜変天目に
似た”光彩の発現は、釉表面の微細なシワの凹凸の構造が光を散乱・回折させた構造色によるものと
判明した
2016年調査( 2023年公表) : 国宝・曜変天目(藤田美術館蔵)が、デジタル顕微鏡、蛍光X線分析
および光ファイバー反射分光分析により非破壊調査された。釉の青い光彩部分と黒い部分の違いに
焦点をおき精査した結果、両部位のガラス質の組成に大差はなく、青や黒の光沢を生む重金属や
着色剤となるコバルトも検出されなかった。曜変天目の釉薬における光彩が構造色に起因することが、
この調査で初めて科学的に立証された。
曜変天目の美しい青い輝き は、釉薬の表面に生した徴細なシワの構造によって現れている。そのシワが
可視光線の中で青を中心とする波長450 ~ 495nm (ナノメートル)の光線を反射し、互いが千渉
(弱めたり、強め合ったり)した構造色を発現しているのだ。



1章 天目のいろいろ
曜変天目はいわゆる「天目茶碗」の一種と捉えられています。天目茶碗は抹茶を飲むための茶碗の
なかで最も格式の高いもの。漏斗のように裾がすぼまる独特の器形と、鉄分の発色による黒い
釉薬が特徴です。日本の抹茶の源流となる喫茶法(点茶法)が中国で生まれた少し後、北宋時代の
初め(10 ~ 11世紀)頃に天目茶碗が作り出され、次第に広まっていきました。
鎌倉時代の日本にも、中国から禅宗における喫茶の風習とともに天目茶碗がもたらされました。
茶の湯の世界ではこうした中国産の天目茶碗を「唐物天目」と呼んで、とくに珍重しています。
室町時代には将軍家で用いるに相応しい品々を選ぶために格付けが行われ、「曜変」を筆頭に
「油滴」、「建盞」、「鼇盞」などの分類整理が行われました。


建窯
福建省北部の南平市建陽区水吉鎮にある晩唐から元代の窯。宋代を通じて「建盞」と称する、
鉄分の多い素地に黒釉を掛けた喫茶用の腕を焼造した。建盞は北宋の祭襄「茶録」(1064年)や
徽宗皇帝宗「大観茶論」などの茶書において喫茶に最も適した茶碗として評価され、優品は宋代の
宮廷において使用されたと考えられている。
1、茶盞の色は青黒と貴ぶ
禾目天目
建窯 南宋時代(12 ~ 13世紀)
「禾目」は黒釉上に現れた細い縦筋状の文様を稲の穂先の毛に見立てた日本での名称で、中国では
これを兎の毛になぞらえ「兎毫」と呼ぶ。一般に「建盞」と呼ばれるのはこの種の茶腕で、日本での
伝世品は多い。一方、出土例は少ないが、12~13世紀前半の博多遺跡で出土して唐物を満載して
日本へ向かった貿易船と考えられる。韓国新安沖沈船(1323年)引き揚げ品などの中にも確認できる。



一 建盞、油滴にも劣るべからず。
  地薬黒く、白金のごとく金走りて、同じく油滴の如く星のあるものもあり。
  三千疋。



禾目天目



2.
柿天目
建窯 南宋時代(12~13世紀)
天目茶碗の黒い釉薬は、釉薬に含まれる鉄分による発色である。鉄分2 ~ 3 %では青磁に、10%
程度で黒くなるが、さらに多く12%ほどでは本作のような不透明赤掲色の「柿釉」となる。
建盞(建窯産の碗)にはさほど多くないが、北方の河北省定窯で白磁や黒釉とともに柿釉の盞(浅く
開いた碗)が生産されているのをはじめ、宋代に柿釉の作例は少なくない。建窯でも意図的に焼かれた
ものかもしれない。



柿天目



3.
「唐物天目」界のNo.2
重要文化財
油滴天目 
附属 花卉文堆朱天目台
「新」銘
建窯 南宋時代(12 ~ 13世紀)明時代(15世紀)
室町時代、足利将軍家における座敷飾りのマニュアルとして編纂された「君台観左右帳記」に
おいて、曜変天目に次ぐ高い評価を与えられたのが「油滴」である。本作は通常の天目形と異なり、
朝顔形に大きく開いた形で、器の内外に銀色や虹色に輝く大粒の斑文が現れている。日本ではこの
斑文を水面に浮かぶ油のしずくに見立てて「油済」と呼んだ。大阪の藤田家旧蔵で、箱には
「曜変鉢」を記される。



一、油滴、第二の重寶
◯れも地薬いかにも黒くして、薄紫色のしらけたる星、内外にひたとあり。
曜変よりは世に数あまたあるべし。
◯千疋。



油滴天目 
附属 花卉文堆朱天目台



茶洋窯

青磁や白磁など多様な製品に加え、建窯風の黒釉碗を焼造、元代・14世紀頃から独自の特徴を
もつ黒釉碗を生産し海外へ輸出した。黒釉碗の多くは灰白色の素地で、釉面に「兎毫文」の
現れたものもある。日本伝世の灰被天目は、黒釉の窯変や釉薬のニ度掛けの様子、高台際の
削りの特徴から、その多くが茶洋窯製品とみられる。
4.灰のベールを身にまとい
灰被天目
茶洋窯 元~明時代(14~15世紀)
「灰被」は黒い鉄釉の変化を「灰をかぶる(かづく)」と表現したもの。黒色主体の釉調の下に
淡黄色あるいは掲色を呈するい釉が掛かり、ニ重掛けのように見えるのが特徴。中国産の
天目茶腕の中でも室町時代には低い評価であったが、挑山時代になるとこの粗相な作行きが高く、
評価されることとなった。仙台着主伊達家伝来の天目。



灰被天目
茶洋窯 元~明時代(14~15世紀)



一 天目、つねのごとし
灰被を上とする也。
上には御用なき物にて候間、不及代候也。



6
灰被天目 毛利天目
茶洋窯元~明時代(14 ~ 15世紀)
元時代以降の中国では、粉末の茶に湯を注ぎ撹拌して欧む「点茶法」は廃れ、天目茶碗の需要は
減少していく。しかし室町時代の日本における喫茶の広まりとともに中国製の茶道具の需要が
高まり、宋代の名窯である建窯周辺で模倣製品が作られるようになった。「灰被」はこのうちの
一つで、『君台観左右帳記』では「将車家には用のないもの」とされたが、戦国時代以降そのわびた
釉景色により価値を高めていった。



灰被天目 毛利天目
茶洋窯元~明時代(14 ~ 15世紀)








吉州窯
江西省吉安県永和鎮に所在する唐代から元代の窯。北宋時代には景徳鎮窯の影響を受けた青白融を
生産したが、南宋~元代の最盛期には黒釉や鉄絵、白磁や緑釉など多彩な製品を焼いた。最も
代表的な「玳玻天目」は、黒釉の地に白濁する黄釉を重ね掛けして鼈甲に似た釉調を作り出した
もので、剪紙(文様の形に切った型紙)によるマスキングと組み合わせて多様な文様を茶腕に表した。
7 
べっ甲模様の茶碗
玳玻天目
吉州窯 南宋時代(12 ~ 13世紀)
腕の見込みには、剪紙(切り紙細工)を用いた菱形の花文が表されている。「君台観左右帳記」では、
本碗のように、見込みに剪紙文様のあるものを「鼈盞」と称してこの種の上位とし、鼈甲のような
斑文のみの碗を「能皮盞」と呼んで区別した。日本では鎌倉の北条時房・顕時邸跡から梅花文様の
玳玻天目の出土が知られるほか、京都や博多の遺跡からもわずかながら類似の破片が出土している。



一 鼈盞、天目の土にて、薬黄色にて、黒き薬にて、花鳥いろいろの紋あり。千疋。
一 能皮盞、これも天目の土にて、薬黄に飴色にて、薄紫の星、内外にひしとあり。
  代安し。



べっ甲模様の茶碗
玳玻天目
吉州窯 南宋時代(12 ~ 13世紀)




                                    ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・
















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Last updated  2025.06.15 15:01:00
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