inti-solのブログ

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2016.06.04
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カテゴリ: 災害
「災害、必ず復興できる」 雲仙・大火砕流25年、島原で追悼式


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あの火砕流から、もう25年も経ったのですか。時の流れの速さにびっくりです。
この火砕流では、「定点」と呼ばれる、火砕流を正面至近に捉えられる撮影ポイントに多くのマスコミ関係者が集まっていたところを火砕流の直撃を受け、合計43名が亡くなるという大惨事になりました。
マスコミ関係者が安易に危険地帯に足を踏み入れて犠牲になったことから、今日では、この火砕流はマスコミ批判の文脈で触れられることが多いようです。
確かに、マスコミ関係者の行動にかなり問題がありました。たとえば、避難した民家にテレビカメラが入り込んでコンセントを借用するという事態があったようです。ただ、この大惨事はマスコミの不行状だけの問題で片付けられるものではありません。

私の知る限り、この災害について最も詳しく検証した資料は、九州大学理研報の
「雲仙火山1991年6月3日の火砕流による人的被害」
であろうと思います。

これによると、死者行方不明者の内訳は報道関係者16名とマスコミがチャーターしたタクシーの運転手4名、消防団員12名、警察官2名、一般人6名(うち3名は行方不明)、火山学者の外国人3名、合計43名です。死者・行方不明者のうち、31名は現場で、12名は病院搬送後に亡くなっています。負傷者は10名、報道関係2名と消防団1名、一般人7名です。
亡くなった報道関係者は、読売新聞、毎日新聞、日経新聞、NHK(病院搬送後に死亡)、日本テレビ、テレビ朝日、KTNテレビ長崎、KBC九州朝日放送、「フォーカス」誌嘱託カメラマン。負傷しながら生還したのが朝日放送、間一髪危機を逃れたのが、長崎新聞社とNBC長崎放送、たまたまその日は取材に行かなかったのが共同通信と西日本新聞社。火砕流の危険性を認識し、この場所での取材を中止していたのが朝日新聞、ということです。


マスコミ関係者が警戒区域に立ち入るものだから、その警戒のために警戒区域に入った消防団員も火砕流に巻き込まれた、という説がネット上には散見されますが、実際には、マスコミ関係者が集まっていた「定点」近辺に、消防団員はいませんでした。ただし、直前まで「定点」のマスコミ関係者に避難を呼びかけていた警察官2名が、下記の農業研修所まで下がったところで火砕流に巻き込まれています。

「定点」から約300m下った農業研修所近辺では、死者と生存者が交錯しています。屋外にいた人は全員亡くなり、生存者は全員屋内か車内にいた人に限られます。ただし、屋内・車内にいても亡くなっている方はいます。それでも、「定点」付近では自動車内にいた人も全員亡くなっている(そもそも、自動車が吹き飛ばされたり炎上したりしている)ので、ほんの300mの差で、人間の運命は大きく変わったようです。
亡くなったうち2人(消防団員と一般人)は親子で、抱き合った状態で炭化しており、当初は1人の遺体と判断された、という記述は、何と言うか・・・・・・・言葉もありません。

前述のように、死者・行方不明者6名と負傷者7名は一般人です。避難先から荷物や書類などを取りに一時帰宅していた人、眉山焼(陶器)の工場で作業をしていた方、葉タバコ畑で農作業を行っていた方、選挙のポスター掲示板撤去作業の委託業者などが火砕流に巻き込まれています。
このあたりには葉タバコの畑が多いのだそうですが、実は翌日6月4日には、葉タバコ農家の組合が、タバコの花摘みを行う予定になっていたそうです。加えて、6月3日は天気が悪かったため、普段に比べて報道陣もかなり少なかったようです。( 消防防災博物館の記述 より)
つまり、もしもこの火砕流が1日遅く発生していたら、一般人もマスコミ関係者も、43人どころではなく、それよりはるかに多くの犠牲者が出ていた可能性があるのです。

で、これらのことから分かることは、報道陣もそうですが、地元住民も、火砕流という存在は知っていても、それがどれだけ危険なものか、という理解がなかった、ということです。直前にバイクで辛くも生還した警察官も、避難区域立入者に避難勧告を行いながらも、5合目付近まで雨雲に覆われて視界も悪かったため,本人自身もそんなに危機感を感じなかったと、述懐しています。

そもそも、火砕流が日本で一般的に認知されたのは、この雲仙普賢岳の大惨事によってです。それ以前も、たとえば「ポンペイ最後の日」とかプレー火山の悲劇など、火砕流の怖さを知っている人は知っていたでしょうが、一般的な火山の危険性への理解は、まず高熱の溶岩流であり、高速で飛来する火山弾であり、火砕流がどれだけ危険なものかが一般に浸透していたとは思えません。そのことが、このような大惨事を招いた最大の原因なのだろうと思います。

話は変わりますが、この雲仙普賢岳を犠牲者数で上回り、戦後最悪の火山災害となったのが、一昨年の木曽御嶽山の噴火でした。このとき犠牲になった方々は、ほとんどが噴火に伴う火山弾の直撃を受けたことが原因でした。実は、火砕流も起こっており、それに巻き込まれた方も少なからずいるのですが、御嶽山では火砕流によって亡くなった方はいません。それは、御嶽山で起こった火砕流が、雲仙普賢岳のものに比べてはるかに低温だったからです。

※もちろん、低温というのは、うずくまって耐えればかろうじて火傷を回避できる、という程度の話です。熱くて焼け死ぬかと思ったとの証言はあり、軽い火傷を負った人もいるので、低温と言っても100度を多少下回る程度だったのでしょう。しかし、普賢岳の場合は数百度なので、比較になりません。


それにしても、もし雲仙普賢岳の噴火がなくて御嶽山の噴火が起こっていたとしたら、火砕流とは、うずくまってやり過ごせば、生身の人間でも耐えられるもの、という誤った認識が広まっていたかもしれません。いや、実は普賢岳の噴火当時も、火砕流について「長袖を着ていれば被害を防げる」という俗説が流布していたのだそうです。そのような誤った認識を更に助長することがなかったのは、せめてもの不幸中の幸いだったかもしれません。
何も火山に限ったことではありませんが、災害についての正しい知識というのは重要だなと、改めて思いました。





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最終更新日  2016.06.04 23:11:10
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Re:雲仙普賢岳火砕流から25年(06/04)  
Bill McCreary さん
どうも、今回も貴重な資料のご紹介ありがとうございます。

私もこの事件は、テレビで見ていたリポーターの人(たしかテレビ朝日の人)が死亡したということを知った時には本当に驚きましたね。いくら火山取材とはいえ、報道関係者が大量殉職するというのはショックでした。

>亡くなったうち2人(消防団員と一般人)は親子で、抱き合った状態で炭化しており、当初は1人の遺体と判断された、という記述は、何と言うか・・・・・・・言葉もありません。

この件も初めて知りました。たぶん瞬間的というか本能的なものなのでしょうけど、成人した男性でも思わず抱き合う、あるいは身をかぶせたのかもですが、なんともすさまじいですね。

>で、これらのことから分かることは、報道陣もそうですが、地元住民も、火砕流という存在は知っていても、それがどれだけ危険なものか、という理解がなかった、ということです。

なにしろ火山学者まで亡くなったわけですからね。彼(女)らも、まさか本当に命を懸けていたわけじゃないでしょうから、認識が低かったのでしょう。

それにしても定点にいた人は全員死んだというのは、火砕流の怖さを物語っていますね。 (2016.06.05 09:34:19)

Re[1]:雲仙普賢岳火砕流から25年(06/04)  
Bill McCrearyさん

>いくら火山取材とはいえ、報道関係者が大量殉職するというのはショックでした。

一度にこれほど多くの報道関係者が亡くなる事態は、これ以降起こっていないですからね。もちろん、そんなことが何度も起こってはなりませんが。

>この件も初めて知りました。たぶん瞬間的というか本能的なものなのでしょうけど、成人した男性でも思わず抱き合う、あるいは身をかぶせたのかもですが、なんともすさまじいですね。

はい。ただ、引用記事には亡くなった方の年齢や性別は書いてありません。男性同士だったかどうかは、よく分かりません。

>なにしろ火山学者まで亡くなったわけですからね。彼(女)らも、まさか本当に命を懸けていたわけじゃないでしょうから

いや、彼らは命をかけていたんです。このときはそこまでの準備をしていたわけではないのでしょうが、耐熱服を着込んで、赤熱した溶岩流の脇まで行って撮影、ということまでやっている人たちでした。 (2016.06.05 19:03:43)

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