全2件 (2件中 1-2件目)
1

終活を始めた。私の年齢で終活を始めるのは当たり前すぎて面白くもなんともないのだが、妻に睨みつけられるような終活を始めたのである。 若いころ、私は大酒のみだった。安い日本酒ばかりを飲んでいた。40歳のとき胃を半分ほど切除してからはなぜか日本酒を受け付けなくなって、それからの35年はワインばかりを飲んできた。 それが、死ぬまでにおいしい日本酒を飲んでおきたいととつぜん思い立ったのである。安くて大量に飲める日本酒から少しはおいしい日本酒を飲もうと思い始めたころに胃を切ってしまったので、日本酒がどれほどおいしいのか私は知らないままであることに気づいたのである。 ということで、おいしい日本酒を見つけること、死ぬ前にそれをきちんと飲んでおくこと、そんな終活を思いついたのである。 まず、宮城県の酒を片っ端から飲んで好みの1本を見つけて、ある店からあわせて一升瓶で10本ほど取り寄せて飲んだのだが、品切れ、入荷未定ということになった。その酒を売っている店をなんとかネットで見つけて12本ほど購入したのだがその店でも品切れ、入荷未定ということになった。 宮城県産の日本酒で私でもなんとか飲めそうな銘柄を見つけたものの、今は飲めないのである。これはただの偶然だが、その酒を造っている酒蔵は父が生まれた地にあって、購入できた2軒目の酒屋は私の生まれた故郷にある。宮城県産に限定して探せば、そういう偶然が生じやすいのは当然である。 あまり自慢もできない終活もこれまでと思っていたのだが、偶然入った飲食店で非常によく似た味の酒を見つけた。秋田の酒だが、今はそれを飲んでいる。日本酒の分類(吟醸酒、純米酒など)はいろいろあるが、私が見つけた二つの酒はまったく同じ製法、分類なのであった。 次は、ふつうに人に話せるような終活を始めるつもりだが、さて………。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/5/27 18:25~18:33) 5月下旬、まったく気分のいい夕方である。元鍛冶丁公園はまだ十分に明るかったが、集会が始まると微妙な夕暮れの気配が感じられるようになる。空に雲もないので、夕焼けもまた微かな気配だけである。 25人が集まった集会では、6月8日(水)11時から仙台地裁で開かれる「女川原発再稼働差止め訴訟」の第3回口頭弁論の告知があった。コロナ禍のため裁判の傍聴人の人数制限が行われてきたが、その制限がはずされることになってこれまでの倍の80人ほどが傍聴できることになったので、ぜひとも傍聴してほしいというスピーチだった。一番町。(2022/5/27 18:36~18:46) 2011年3月の東電1F炉心溶融爆発事故の翌年の7月から仙台の脱原発金曜デモが始まったのだが、その年の暮れに第2次安倍政権が誕生した。脱原発デモは脱原発をシングルイシューとして行われてきたものの、ずっと安倍政権の戦前回帰を目指しているとしか思えないファシズム満載の政策との対峙を内包しながら続けられた。 2013年12月には「特定秘密保護法」が成立してファシズム化の道が大きく開かれてしまった。その法案に反対する行動が仙台でも続いていて、11月21日にも集会とデモが行われた。その時のブログ(「「STOP! 秘密保護法 11・21全国統一行動INみやぎ」 集会とデモへ」)に次のようなことを書いていた。 さて、読み始めた(ジグムント・バウマンの)『コラレテラル・ダメージ』に次のような一節があった。「……私たちは長年にわたって、罪もないのにグアンタナモやアブグレイブその他の刑務所に収監され、秘密にされ、そのために相変わらず不運で、非人間的な状態におかれている囚人の存在を知っている。私たちがそのことを知っても、ときおり抗議のつぶやきが漏れるだけで、公然たる抗議につながることはめったになく、ましてや効果的な反対運動が起きることもない。私たち「民主的なマジョリティ」は、これらのすべての人権侵害が「彼ら」を対象にしたものであって、「われわれ」を標的にしたものではない、つまり、異なる種類の人間(「あなた方と私の間にいる彼らは本当の人間なのか?」)を対象にしたものであり、私たち普通の人間には、その影響は及ばないと考えて自分を慰めている。私たちは、ルター派の牧師でナチスの迫害の犠牲者であるマルティン・ニーメラー(一八九二—一九八四)が学びとった、次のような不幸な教訓を都合よく忘れ去ってしまっている――最初、彼らは共産主義者を連行したが、私は沈黙を守った。次に、彼らは労働組合員を追い回したが私は組合員ではなかったので、何も言わなかった。次に彼らはユダヤ人を追い回したが、私はユダヤ人ではなかった……そして次にカトリックを標的にしたが、私はカトリックではなかった……次に彼らは私を連行しようとした……しかし、そのとき、誰も私のために声を発しようとはしなかった。」 文字通りに、「特別秘密保護法」が成立した後の私たちは、ニーメラーの経験をそっくりなぞるように生きていくしかなくなる。 もっとも、自分ではなにもものを考えず、権力の命ずるままに生きたいのであれば、「私を連行しようとした」ということにはならないかもしれない。それはあきらかに奴隷の生き方だが……。(2013年11月21日) ファシズム化の動きが厳しくなる中で、ニーメラーの言葉を引用する言説が(SNSで)多くみられるものの、事態がよくなる気配はまだ見えていない。青葉通り。(2022/5/27 18:46~18:52) これから6月にかけて陽が落ちるのが最も遅くなる時期が続く。今日のデモも、ゆっくりと暮れていく街を通り抜けていくのである。こんないい時間に、脱原発への意思を明らかにしながら街を歩くのは、幸せと言えば幸せ、不幸せと言えば不幸せ、その微妙さに心が揺れる。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.05.27
コメント(2)

5月に入ると体が疼く、と書きたいところだが、いまや体は疼かなくなって心が少しだけ疼くのである。山菜取りという山歩きがしたいのである。無性に好きな山菜もあるのだが、山歩きそのものも大好きなのである。 3・11で東京電力が日本列島に放射能をばら撒いて以来、山菜取りも茸狩り(という名の山歩き)を断念した(じつは、原発事故直後の5月、いつもの年のように山菜取りに行ったあとで、放射能汚染に気づくという大ポカを一度だけやったことがある)。 とんでもない実害である。いま、自公政権はすべての原発事故被害を「風評被害」だと喧伝し、原発事故の実害はなかったというフェイクで国民を洗脳しようとしている。こんな単純な嘘で騙そうとする精神にも驚く(まあ、意識的な政治的詐術だろうけど)が、それに唯々諾々と騙されそうになっている無数の精神が存在しているらしいことにも驚いている。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/5/6 18:16~18:34) 元鍛冶丁公園がやたらと汚い。酒飲み宴会をやったらしい残骸がそっくりそのまま捨てられている。東北一の歓楽街の一角にある公園の暗がりで酒飲み宴会」をするのはどういう気分のものだろう、などと考えてみたりしたが何も思い浮かばない。公園で飲み食いしてゴミはまるっきりそのままにできる人間にどんな関心もシンパシーも持てないことに気づいて終わりである。 その元鍛冶丁公園には25人ほどのデモ人が集まっていて、脱原発デモでウクライナの戦争も反対するという趣旨のスピーチ、そのためのスタンディングやデモの告知などが続いた。 コロナの話が延々と続いたあとで「原発に反対する」と締めくくられるというなんだかよくわからないスピーチもあったが、ようやく夕暮れの空気が濃くなった元鍛冶丁公園から25人のデモは出発した。一番町。(2022/5/6 18:37~18:46) 私は詩や短歌が好きで詩集や歌集もよく読む。3・11後は、原爆や原発に関して詠まれた作品がことさら目について、ブログやフェイスブックなどのSNSにもそれを引用することがある。ただ、残念ながら詩や短歌を引用して書いた文章を投稿したときの読者の反応はいつもよりずっと薄いような気がする。 それも当然なのだろうと思う。そもそも今や私には詩や短歌のことを話題にできる友人、知人は周囲には一人もいない。ごくごく若かったころ、詩の同人に加わったこともあったが、詩を書くことを断念してからはずっとそんな状態である。今は遠く離れて暮らす何人かの友人との手紙のやりとりのなかでたまに詩や短歌に触れるだけである。 SNSでの反応が薄くても、詩や短歌を引用するのはやめられないのである。とくに論理と心情がうまくかみ合った作品を見つけたときには、私の考えや心情をうだうだと書くより引用して方がよほどいい文章になるように思えるのだ。 さて、そのように短歌と詩を引用した脱原発デモのブログから二つ抜き出してみる。初めは短歌を引用した例(「10月4日 脱原発みやぎ金曜デモ」 股関節は痛むか? )。「福島を出ます」とおさな子を連れし背が去りゆく雨の向こうに (福島市)美原凍子 (2011/7/4 佐佐木幸綱選)日常の会話も悲し線量と逃げる逃げない堂々巡り (郡山市)渡辺良子 (2011/7/25 高野公彦選) 東電福島第一原発の事故から四ヶ月ほどたった頃、「朝日歌壇」に投稿、採用された短歌である。どれだけの日々の悩みがあり、故郷を離れざるを得ない悲しみがあり、哀切な別離と喪失があったのだろう。 このような不幸な出来事から人々を守るために、倫理・道徳が生れ、社会規範としての法が成立してきたはずなのに、原発事故の関連死が数千人に及ぶという現在に至るまで、誰一人として法によって裁かれようとしていない。 いかに資本主義社会といえども、一私企業の営利活動が多数の人命より優先するような立法精神というものはなかったはずだ。現状は、政治とその権力構造に取り込まれた司法によって恣意的な法の運用がなされていると考えざるを得ず、そこでは人倫などというものより経済的豊かさのみが追求されているのだ。どんなに偉そうに政治や社会を語ろうが、所詮は「目先の金」がすべてなのである。(2013年10月4日) もう一つは52年前に出版された詩集におさめられていたもので、「核爆発」について書いていたものを引用した(「10月18日 脱原発みやぎ金曜デモ」 神話が凍りつく!)。 寸断された戦線がみえてくる。そして 核爆発がテレビのむこうがわでつづいている。 われわれは一瞬のさけめから認識へおちる。 われわれはなんども死んだり、詩人みたいに またもや生きてゆく。 神話をつめたくしているのだ。 堀川正美「われら365」部分 これは1970年出版の詩集のなかのフレーズである。読むべき本、読みたい本が途絶えてしまって、やむなく納戸の奥から引っ張り出してきた43年前の本のなかにあった。ここには、予言された「フクシマ」が見える。そんなふうに思えた。 原爆や水爆へのイメージには違いない。しかし、大地震でメルトダウンした核燃料が今も地中のどこかで緩やかな核爆発を続けている、というイメージに繋がる。制御できない核分裂反応は、反応の遅速や反応の密度の問題はあっても、本質的に核爆発となんの相違があろう。 原子炉が爆発してしまってから、愚かといえども日本人は現実の悲惨な裂け目から否定しようのない「認識」へ落ち込んだはずだ。そう考えるのが詩人のイメージというものだ。いまだに、原発を続けたい、外国にも売りつけたいという意図をあからさまにする人間が存在しうるなどと思いもしないだろう。 原爆、水爆、原発の爆発、この一連の事象こそ、人類が地球上に生まれてから語り継いできた「神話」ですら凍りつくような悲惨だったはずだ。(2013年10月18日)青葉通り。(2022/5/6 18:48~18:56) デモを歩いて(正確には写真を撮りながらデモの周囲を歩き回って)かなり汗をかいた。 帰宅してすぐに風呂で汗を流したい。それから夕食を準備する。いつもより1時間も食事が遅れるけれどもしょうがない。冷凍肉の解凍とアサリの砂だしは帰宅時間に合わせて準備してきたので、少しは楽だろう。 そんなことを考えながらの帰宅なのだが、足は重い。それでも、少し頑張って急ぎ足を続けているとあまり疲れを感じなくなってペースが上がる。それでいっそう汗をかくのである。 でも、いい季節になった。デモは明るいうちに公園を出発して、街中を歩いているうちにすっかり日が暮れて、暗くなった道を家に帰る。とても素敵な夕暮れの過ごし方である。汗もたくさんかいたが、汗冷えを気にしなくていいほど暖かくなった。5月はデモの季節である。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)
2022.05.06
コメント(6)
全2件 (2件中 1-2件目)
1