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二日続けて朝の散歩に出かけなかった。朝の6時から7時くらい、日の出の直前がいちばん冷え込むのだが、昨日はマイナス10度の予報に怖れをなして読書の時間に替えるという言い訳で散歩を取りやめた。今朝はマイナス4度とたいしたことはなかったのだが、脱原発デモで街を歩くのでやはり読書タイムに振り替えたのである。 とはいえ、さほど読書が進んだわけではない。国分功一郎著『中動態の世界』を読み終えたタイミングで、うまい具合に面白そうな本を3冊、市立図書館で見つけることができた。 その1冊目の1行目を読んで、前に読んでいたことを思い出した。パソコンには抜き書きの記録も残っていた。こんなものである。同じ本を買ってしまうこともあるのだが、図書館からの借り出しだったのがせめてもの救いである。ちなみに、その本はジョルジュ・アガンベンの『瀆神』である。他に、リュディガー・ザフランスキー著『人間はどこまでグローバル化に耐えられるか』と、菅香子著『共同体のかたち』を借りてきた。 菅香子さんの本は、美術の変遷と共同体の歴史的変化を論じていて、マネの絵画の歴史的意味を論じるフーコーや、アガンベンを取り上げつつアウシュヴィッツの表象の不可能性などから現代美術が表象から展示(エクスポジション)へ変わることに言及している。 まだパラパラとめくってみただけだが、ほかにハイデガーやジャン=リュック・ナンシー、ベンヤミンも取り上げたうえで、芸術における表象と共同体の相関を論じているらしい内容に大いに惹かれて、散歩に優先させたのだった。まあ、あまり読書は進まなかったが、うまい言い訳にはなった。勾当台公園から一番町へ。(2018/1/26 18:19~18:39) 昨日のうちに主催者から「寒波が厳しいので無理をして参加されないように」という趣旨のメールが回ってきていた。にもかかわらず、それなりの人数が集まっている。最終的には25人の参加者になっていた。 参加者はもちろんほとんど見慣れた顔ばかりだが、なんとなくいつもより平均年齢が上がっているように見える。凍結路面の心配から高齢者の参加見合わせが多くなるだろうという予想は微妙に外れている。お知らせがメールだったせいだろう。メーリングリストに登録しているメンバーの平均年齢は、いつもの参加者の平均年齢より低いのである。通信手段の世代間格差は厳然としてあるのだ。 公園は積雪、道に出れば舗装は圧雪または凍結、車道はほぼ雪は消えている。近代都市では、人間のためではなく車のために道が維持されている。除雪車も融雪剤散布車も幹線道路だけしか通らない。 除雪車は歩道側に雪を寄せるのだが、そこが横断歩道でもおかまいなしである。歩行者は除雪車が寄せた雪山を越えて車道にでてもう一度雪山を越えて向こうの歩道に上がるのである。老人には至難の道となる。資本主義的合理性は人に優しくないのである。こういう面でも「強欲資本主義」という言葉が浮かんでくる。一番町(1)。(2018/1/26 18:44~18:50) 勾当台公園から定禅寺通りを越えるところまでは雪のない車道を歩く。一番町に入ると、車が通らないので人が踏み固めた圧雪となる。 デモの列の写真を何枚も写すのだが、どの写真もみんな俯いて歩いている。滑りやすい足下を注意しているのだ。信号待ちで立ち止まったときだけ、顔が上がっている。 滑りやすい道と寒さはそれなりに辛いのだが、キーンと冷えて澄みきった空気は脱原発コールの声を遠くまで運んでくれるような気がする。厳しい空気が行いを正しくさせ、応援してくれるような気になってくる。そんな都合のいいことを思ったりするのだが、たしか高村光太郎にそんな感じの詩があったような気がする。一番町(2)。(2018/1/26 18:52~18:56) 滑らないように歩幅を狭くして注意深く歩いてきたが、一番町も広瀬通りを越えると全天型のアーケードになる。デモ人の歩きはどこかゆったりとなる。気のせいかもしれないが、コールの声もゆったりとした感じがするのだ。 今日の市民への呼びかけに次のような一文があった。 みなさん、女川町や石巻市などでは、女川原発での事故を想定した避難計画が策定されつつあります。女川原発30キロ圏からは21万人もの人が避難する計画です。仙台市には石巻や東松島から、6万人が避難します。 しかし、地震や津波と、原発事故が重なった「複合災害」の場合は「受入れは難しい」というのです。はたしてこれで、被ばくを回避して避難することなどできるのでしょうか? また、避難所の運営は避難元の自治体が行うというのですが、27市町村に分散して避難する石巻市が、その全ての避難所を運営することが、果たして本当にできるのでしょうか? 東日本大震災を経験した私たちにとって、この避難計画が絵に描いた餅であることは火をみるより明らかです。被災の経験者だからこそ原発を止める義務が私たちにはあります! 原発事故からの住民を避難させるというのは、いわば不可能への挑戦と言うしかない。これは以前に書いたことだが、ジャーナリストの取材に原子力規制庁の「担当課長は「『周辺住民の被曝やむなし』に避難政策を転換した」とあっさり認めた」というのである。 いま、県が作成している避難計画というのは、あたかも被曝せずに避難できるように装われているが、すでにその前提を国は捨てているのである。「被曝やむなし」と認めてしまえば、どんなずさんな避難計画でも構わないということになってしまう。政府はそんなことを承知で避難の計画を作れと自治体に強要している。そんなふうにしてでき上がる避難計画が(上の「呼びかけ」が明らかにしているように)無理筋を強引に押し付ける結果になるのは当然と言えば当然なのである。青葉通り。(2018/1/26 18:57~19:06) 青葉通りではふたたび車道を歩く。片道3車線の道だが、部分的にデモが歩く歩道側の車線に凍結した雪(ほとんど氷)が残っている。お巡りさんが氷のない車線に誘導してくれる。そう言えば昨日の主催メールには、警察署の担当者がスリップして突っ込んでくる車のことも心配していたということも記されていた。 デモが終わり、歩いて帰る。寒いので地下鉄で帰るということも考えたが、デモを歩くという理由で朝の散歩をさぼったので、そうもいかないのだ。さいわい、歩いていれば、寒さはそんなに気になるわけではない。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.01.26
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なにか新しいことを始めようと考えている。ひとつがたしかに終わったのだから、新しいひとつを始めなければならない。そうしなければ、人生がどんどん薄くなっていくような観念に苛まれている。 一週間あまり考え続けたが、始めるべきものが見つからない。夜の街を歩き回る。あるいは、真っ暗な早朝、しだいに明けてゆく街を徘徊しながら考えたりしたが、どんなヒントも見つからない。 まあ、焦ってもしょうがない。いずれなにか見つかるだろう。そう自分に言い聞かせてみるが、まったく納得していない自分がいる。何かをしたい願いばかりで、何も手につかないままの2018年が始まってしまった。勾当台公園から一番町へ。(2018/1/14 14:14~14:34) 今日は今年2度目の金デモだが、日曜日の昼デモである。例年であれば、暮れの最後のデモの後に「望年会」と称する集まりがあるのだが、それをやらなかった代わりの新年会が、このデモの後に予定されている。 久しぶりの昼デモなので、写真の写りぐあいを心配することはないとたかをくくっていたが、冬日に照らされる勾当台公園の野外音楽堂ではコントラストが強く出すぎるのだった。絞り優先の設定にしてできるだけ光量を絞ったうえで、適当な光量のところでシャッター速度を決めて写せば、狙った被写体のピントが甘くなる。 持ち合わせていない技術は振るいようがないので、とりあえずシャッターを押しまくり、後でRAWファイルを調整することにした。たぶん、光量不足よりは調整が楽だろうと踏んだのだ。一番町(1)。(2018/1/14 14:37~14:41) 1月14日には、大崎八幡宮の「どんと祭」が行われる。一番町に近づくと、大崎八幡宮に向かう裸参りの行列が次々に一番町から定禅寺通りに左折していく。一つの行列は40人のデモと同じくらいの規模で、30~40人ほどの集団である。ほとんどが、会社や大きな商店の団体である。いまや、裸参りも業務の一つということらしい。 裸参りの行列は、一番町のまん中を静々と進んでいく。反対方向に向かうデモは、その行列に出合うたびに道を譲って道の端を歩くことになる。一番町(2)。(2018/1/14 14:42~14:51) いつもの夜デモの午後6時半から7時くらいの一番町は人出が多い。その人たちのほとんどは仕事帰りだろう。毎週デモに出くわすという人も多いに違いない。 日曜の昼も一番町の人出は多い。夜デモのときに比べれば家族連れが多く、デモに手を振ってくれる人も多い。休日の昼デモの効果はそれなりに大きいに違いない。とはいえ、毎週の休日をデモで過ごせるという人はそんなに多くはないだろう。それにくらべれば、一週に一度、仕事帰りの1時間をデモに割くというのは、負担は少ないだろう。 結局、いつもは夜デモ、ときどき昼デモというこれまでのやり方がいいということだ。青葉通り。(2018/1/14 14:52~15:01) デモが終わって20人ほどが残り、新年会が開かれた。話題は、規制委員会が女川原発に対して新規制基準適合という審査結果を出すと思われる今年が大きな山場になるだろうという話題が中心だ。 これまでの経緯からみて、県や立地自治体は再稼働を容認する可能性が高い。それに対抗するために、再稼働可否を問う県民投票の実施可能性を追求する動きなども話された。 こうした集まりで必ず話題にあがるのが、若い人のデモへの参加が少ないということだ。若い人に期待し、働きかけることもちろん大事だけれども、それぞれの世代のそれぞれの運動のあり方を大事に追求し続けることも大事なのではないか。そんなふうに話題が進んだ。 そのなかで、81歳という参加者が「私にとって金デモは終活なんです」と発言された。長く続く困難な闘いを自らの終活にするのだという。ほぼ毎回参加され、かならず横断幕をもって先頭を歩いている人だ。 不意を突かれた感じがした。彼より少しばかり年下の私も、死ぬ前にやっておくべきあれこれを考えることがある。しかし、それはごくごく私的なことだ。誰にも言わず片付けておこう、そう思うようなことばかりだ。 ひとつのことが終わって、新しいひとつを始めたいと願っているが、それを終活とするなどとは思いも及ばなかった。さて、どうしたものか。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.01.14
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歌はうたうまいと、口ずさみかけた声を押し殺した。 1月4日2時40分、わが家の老犬が息を引き取った。イオと名付けられ、イオと呼ばれ続けた17年4か月と3日の生だった。死を看取って、ワインを二口ほど飲み、熱い煎茶を飲み、あとはどうしていいのか、おろおろしたまま8時30分の仙台市ペット斎場の勤務時間開始を待った。やらなければいけないことが欲しかったのだ。8時30分から40分ほどダイアルボタンを押し続けて、ようやく6日10時からの火葬の予約をした。 そのあと、私は何をしていたのだろう。昨日のことだが思い出せない。そうだ、納戸から一番大きな段ボール箱を引っ張り出し、カッターナイフとガムテープでイオの体に合わせた棺を作り、イオを横たわらせた。二日後の火葬まで、居間の私の横に置いておくことにした。それから何をしていたのか、あまりはっきりしない。 一夜明けて3時半ころ目覚め、イオを眺め、さてそれからどうしたものか。イオがそこにいたときと同じように振舞えばいいのだと自分に言い聞かせたのだが、本を読む気にもなれない。テレビのチャンネルを次々替えてみたが、どれこれも白々しい。ぼんやりと2時間ほど過ごしたが、いつものように散歩に出かけることにした。冷たく硬いイオの体をひとしきり撫で、擦り、それから家を出た。 広瀬川を渡るとき、「悲しみにうなだれる君の………」と始まる歌を口ずさみかけて止めた。歌ってしまうと感傷に流されすぎて心が溺死するのではないかと思えた。おれよりも泣きたいやつがおれのなかにいて自分の足首を自分の手でしっかりつかまえてはなさないのだおれよりも泣きたいやつがおれのなかにいて涙をこぼすのはいつもおれだおれよりも泣きたいやつが泣きもしないのにおれが泣いてもどうなりもせぬ 石原吉郎「泣きたいやつ」部分 [1] 左の親指の傷が腫れてズキズキと痛み出してきたので、午前中に近くの外科病院に出かけた。一週間ほど前、自力で食事ができなくなったイオの口を開けさせて柔らかく団子状にした食餌を与えていたとき、イオの犬歯で小さな傷がついたのだった。化膿した傷口から膿を絞り出し抗生物質を貰って病院から帰って、あとは横たわるイオを眺めて過ごした。カメラも持ち出したが、動かないイオの写真は何枚撮っても同じなのだった。 デモには行きたくないなあ、そう思いもしたが、いつものイオがその辺にいるように私の日常を振舞うのだ、と思い直した。先に逝った相棒に対する生き残った私のそれが礼節ではないかと、これも石原吉郎の「礼節」ふう [2] に嘯いて立ち上った。 脱原発金曜デモは、今日も元鍛冶丁公園から出発する。元鍛冶丁公園から国分町を越えて一番町へ。(2018/1/5 18:24~18:35) 元鍛冶丁公園に着くと、3人ほどからお悔やみの言葉をいただいた。イオの死をブログ(これとは別の)で報告していたのを読んでくれていた。イオの死を悼んでもくれたが、私の落ち込みを気にかけてもらった。ペット・ロスというものがどういうものか、これから味わうことになるのか、まだ何もわからないが………。 遅刻したこともあって、どんなスピーチがあったかよくわからない。脱原発カーの参加がないことだけはすぐに分かった。脱原発カーをいつも運転している本人は参加しているので、故障でもあったのだろう。一番町(1)。(2018/1/5 18:37~18:40) デモが元鍛冶丁通りから一番町に出ると、「仙台光のページェント」は終わったというのに、暮れと同じような人混みだった。昔ほどではないにせよ「仙台初売り」というのもあって、その名残りが正月5日まで続いているのだろうか。一番町(2)。(2018/1/5 18:40~18:46) 広瀬通りに出る手前は、新年会の待ち合わせらしい人たちがびっしりと集まっている。広瀬通りの向こうで信号待ちをしているのは人間の壁である。デモ以外で、こんな人混みの仙台を歩いた記憶がない。もともと私は人酔いするたちなので混雑を避ける傾向にはあるのだが、私には信じられないほどの賑わいである。 その人混みも、中央通りを過ぎると急激に少なくなってくる。青葉通りに出れば、もう正しい夜の街である。青葉通り。(2018/1/5 18:47~18:57) 先に書いた石原吉郎の「礼節」[2] は次のような詩である。いまは死者がとむらうときだわるびれず死者におれたちがとむらわれるときだとむらったつもりの他界の水ぎわで拝みうちにとむらわれるそれがおれたちの時代だだがなげくなその逆縁の完璧において目をあけたまま生きのびたおれたちのそれが礼節ではないか 私の研究が順調に進み、めったやたらと忙しくなって、それはストレスフルな時期でもあったが、そのころにイオがやってきて、仕事以外のときはいつも引っ付いて暮らしていた。私がかってに「人生のメルクマール」とよぶ退職の前後の時代をいっしょに暮らした。 「逆縁の完璧において」先に逝ったイオに弔われて、私のそんな一つの時代が終わった。これから、また別の時代を生きるのである。イオへの「礼節」として………。 [1] 『石原吉郎全集 I』(花神社、1979年) p. 204。[2] 同上、 pp. 318-9。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.01.05
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