全13件 (13件中 1-13件目)
1

【続き】Photo E1(左) 「日蓮大聖人御入滅之霊場」への石段。(2015/1/29 12:42)Photo E2(右)多宝塔。(2015/1/29 12:43) 本門寺大堂の背後には、寺務所の大きな建物などがあって、その塀沿いに西に進むと「日蓮大聖人御入滅之霊場」という大看板がある。そういえば、長栄山本門寺そのものが日蓮が亡くなったこの地を霊場として建立された寺なのだった。 看板の矢印のところから階段道を下る。右手下方に朱塗りの胴に黒瓦の多宝塔が見えてくる。「宗祖日蓮大聖人の御尊骸を荼毘に付した霊蹟に建つ供養塔」で、「日蓮大聖人が御所持の水晶念珠を奉安している」という。Photo F1(左) 大坊本行寺を過ぎて南之院前へ。(2015/1/29 12:45)Photo F2(右) 西之院前を北へ。(2015/1/29 12:47) 多宝塔前からさらに石段を下ると、本行寺の前に出る。この寺は本門寺の大坊である。山門には「大坊」と大書した扁額が掛けられていた。 大坊とは寺院の寄宿舎のことで、若い僧の修行道場を意味してもいるらしい。ひいては、学生を意味する言葉でもある(と、ウィキペディアに書いてあった)。 一帯は寺院だらけである。大坊を過ぎると「西之院」である。「大田区文化財 日昭上人座像(非公開)」があるという看板がある。丁字路に出て右折すると、「南之院」がある。次に「嚴定院」の山門がある。その道をまっすぐ北に歩く。Photo F3 池上梅園。(2015/1/29 12:52) 道は、高架の前に出る。この高架は地下鉄都営浅草線の終端のものらしい。地図では近くに東京都交通局馬込車両研修場という施設があるらしい。 高架の手前を右折して道なりに行くと、池上梅園の入口である。斜面いっぱいに梅の木が植えられているものの、所々に白梅が開いているだけである。1分咲きどころか1厘咲きにもなっていない。紅梅も咲いているかも知れないが、木の幹の色に紛れてしまっているのだろう。 池上梅園は、門の前で写真を撮っただけだ。Photo H1 「北の橋」。(2015/1/29 12:58) 池上梅園から高架をくぐって、第2京浜に出る。「国道1号」に敬意を表して、少しばかり南に歩いてみてから、国道の西の住宅地に入った。すぐに橋に出る。本門寺前の霊山橋の下を流れていた呑川の上流の橋で、「北の橋」と欄干に彫られている。 呑川の右岸に桜の木が植えられている。その右岸を上流の橋まで歩く。「長栄橋」という名前の橋だった。長栄山本門寺に因んで命名されたのだろう。Photo H2(左) 「長栄橋」からの道。(2015/1/29 13:01)Photo H3(右) 蕎麦屋さんのある商店街。(2015/1/29 13:04) 長命橋から住宅地の中を2ブロックほど西に歩くと、ちょっとした商店街らしい通りに交差する。交差点で眺め渡したら、その通りの南に蕎麦屋の看板が見えた。午後1時になっていたので、そこで昼食とした。Photo J1 祠のある丁字路。(2015/1/29 13:37) 「千登世庵」という蕎麦屋さんで、この冬初めての鍋焼きうどんを食べ終えて、街歩きの再開である。長栄橋から来た道の延長を西に少し進むと丁字路である。その道端には小さな祠がある。中に祀られている石像は、周囲に貼られたお札から判断すると帝釈天らしい。 帝釈天の祠の前を左に行き、すぐに右手の住宅地の道に入った。Photo J2(左) 「宮坂」。(2015/1/29 13:41)Photo J3(右) 「久が原東部八幡神社」。(2015/1/29 13:42) ごく普通の住宅地を進むと、右に本光寺の山門に上がる石段がある。本光寺を過ぎると、左手に「宮坂」の柱標のある上り坂が現われる。八幡神社の前の坂という意味である。 宮坂を登ると八幡神社がある。鳥居には「八幡神社」、鳥居脇の石標には「久が原東部八幡神社」とある。「東部」などというお役所言葉風の神社名は珍しい。 765年創建と伝えられる古い神社で、「久が原台地の一番の高地に祀られた」という。ということは、これからの歩きは、もっぱら下り道ということだ。Photo K1 久原小学校北東の十字路。(2015/1/29 13:45)Photo K2 安詳寺横の道を西へ。(2015/1/29 13:47) 久が原東部八幡神社の境内を北側の道に抜け、西に行けば久原小学校の北東の十字路に出る。 久原小の十字路から北に向かう道が下り坂だったので、なんとなくその道に足を向けた。緩やかな坂を下りきったあたりに十字路があって、その角に「安詳寺」という寺があった。Photo K3 「久が原西部八幡神社」。(2015/1/29 13:51) 安詳寺前の十字路を西に向かう道に入る。まもなく、また十字路に出る。その十字路を右に曲った道脇のコンクリート擁壁の上に神社が見える。コンクリート階段を上がると、「八幡神社」の扁額を掛けた朱塗りのお社がある。本殿脇の石板由緒書きには「八幡神社(久が原西部八幡神社)」とある。東部八幡神社とほぼ同時期に建立されたという。Photo L1(左) この交差点付近からライラック通り商店街。(2015/1/29 13:56)Photo L2(右) 交差点角に祠が。(2015/1/29 13:56) 久が原西部八幡神社の境内から西に抜けると、広くて交通量の多い道に出る。この道を久が原駅に向かうことにする。 50mほど歩くと交差点があり、かなり商店街らしくなってきた。その交差点脇にも小さな祠を見つけた。中には二体の石仏が祀られている。観音様のようだが、詳細はわからない。 この一帯には、そのような宗教的風習が昔からあって、道端の祠がたくさんあるのではないか、そんな気がしてきた。そして、現代の信仰心厚い人びとに、「路辺仏◯◯ヶ所巡礼」などとして受け継がれているのではないか。つぎつぎと妄想は膨らむのだった。Photo M1(左) 「ライラック通り久が原」に入る。(2015/1/29 14:00)Photo M2(右) 歩道の色が変わる。(2015/1/29 14:02)Photo M3(左) 駅近くの交差点。(2015/1/29 14:08)Photo M4(右) 池上線の電車が横切る。(2015/1/29 14:08)Photo N 久が原駅。(2015/1/29 14:09) 祠のある交差点を過ぎ、次の交差点角には交番がある。その交差点を右に曲ってまっすぐ行けば東急池上線久が原駅だ。 駅に向かう商店街の街灯には「ライラック通り久が原」の看板が付けられている。人通りがそんなに多いわけではないが落ち着いたいい商店街だ。だが、歩道が青く塗られていて、足元が妙に明るいのは落ち着かない気分になる。ところがこの歩道の色が変わるのだ。途中で淡いオレンジ色になる。もう少し行くとさっきの色よりも緑がかった淡い青色になり、またオレンジに変わった。 歩道の色が変わるのに気を取られて、どんな店が並んでいたのかあまり見なかったような気がする。 人通りが多くなった十字路を過ぎると、道の向こうを電車が横切っていく。もう久が原駅である。 いつものことだが、どうも商店街はするっと通り抜けてしまうようで印象が強くない。買い物に興味がないからだろうか。もしそうなら、たとえば一つの商店街を通り抜けるたびになにか一つ小さな品を記念に購入する、という掟を作ったらいろんな店を注意深く眺めながら歩くのではなかろうか。などということを考えたが、はてさてほんとうに実行できる人間なんだろうか、私は。街歩きMap。E~Nは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2015.01.29
コメント(6)

蒲田から東急池上線に乗って池上で降りたのだが、東京駅から品川以西の蒲田まで行くには東海道線に乗るものと思いこんでいた。スマホの乗換案内で京浜東北線しか出てこないのでやっと気づいたのである。当然のことながら、スマホの乗換案内のソフトがなかったら東京では身動きできそうにない。 東急池上線は2度目だ。大崎から戸越まで歩いたとき、戸越銀座から五反田まで乗ったことがある。五反田寄りの端っこを乗って、今回は蒲田寄りの端の部分だ。 Photo A1(左) 池上駅前通り「HAPPY STREET」。(2015/1/29 11:59)Photo A2(右) HAPPY STREETを振り返る。(2015/1/29 12:01)Photo A3(左) 池上通りを越えると池上仲通り。(2015/1/29 12:03)Photo A4(右) 池上本通り。(2015/1/29 12:09) 池上駅を出ると、右手に大きな「本門寺通り」という看板が見える。もちろん、池上本門寺には行くつもりだが、その通りに入ったらあっという間に本門寺に着いてしまいそうで、すこし回り道をすることにした。 東急線に沿った通りが商店街になっている。「駅前通り商店会 HAPPY STREET」という小さな看板が街灯に吊されている。どんなネーミングも自由というものだが、ここの住人はいつも「ハッピーストリート」と呼んでいるのだろうかと、つい訝かしんでしまう。私は古い人間なので、どうも赤面しそうだ。 暮らしに密着した商店街らしい商店街で、右折する前に振り返ってもう一度写真に写した。いつもは、記憶が混乱しないように歩く方向だけを撮すようにしているのだが、なんとなく振り返ってみたくなる街並みだった(案の定、帰宅してからの写真整理で戸惑ってしまった)。 駅前通りから右折すると広い「池上通り」に出る。池上通りを越えた商店街の街灯には、「池上仲通り商店会」の旗が下がっている。駅前通りより人は少ないが、同じような街並みだ。 右に折れて住宅街を抜けると、また商店街に出る。こちらは池上本通りである。池上本通りを駅の方に向かった。駅から降りたときに見た本門寺通りを歩くためである。Photo B1 池上通り。(2015/1/29 12:10)Photo B2(左) 本門寺通り入口。(2015/1/29 12:12)Photo B3(右) 本門寺通り(1)。(2015/1/29 12:14) 池上本通りを池上通りに出る。池上駅付近では東西に走る池上通りが一番交通量の多い幹線のようである。池上本通りと池上通りが交差する角から斜めに本門寺通りが始まる。この道はもともとの参道らしく、すこしうねりながら北上する。Photo B4(左) 本門寺通り(2)。(2015/1/29 12:15)Photo C1(右) 本門寺新参道。(2015/1/29 12:16) 道の脇に大きな自然石が飾られ、脇に「池上本門寺参道」と彫られた石が立っている。自然石の前を過ぎて右に折れれば広い通りに出る。地図によれば「本門寺新参道」の通りである。道の向こうに本門寺の丘が見えている。Photo C2 霊山橋の手前から。(2015/1/29 12:17)Photo C3(左) 本門寺遠望。(2015/1/29 12:19)Photo C4(右) 本門寺の石段「此経難持坂」。(2015/1/29 12:19) 本門寺の石段と山頂の三門がはっきり見え出す頃、呑川(のみかわ)に架かる霊山橋を渡る。昨年、柿の木坂あたりの街歩きをしたとき「呑川柿の木坂支流緑道」を歩き、東急東横線都立大学駅近くでは「呑川本流緑道」を歩いたのだが、ついぞ川の姿も水の流れも見ることがなかった。ここの呑川は三面コンクリート張りだが、ちゃんと水が流れている。 霊山橋を越えたあたりから眺める本門寺の総門から石段、三門へ至る景色がとてもいい。カメラを覗いて、倍率を変えながら眺めを楽しんだ。 Photo D1(左) 此経難持坂の猫1。(2015/1/29 12:23)Photo D2(右) 此経難持坂の猫2。(2015/1/29 12:24) 石段の手前左手には観音堂、本成院の門が並ぶ。総門を潜って石段にかかる。「この石段は加藤清正の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華教」宝塔品(ほうとうほん)の偈文(げぶん)九六文字にちなみ、九六段に構築され、別称を「此経難持坂(しきょうなんじざか)」という」と看板にある。 その此経難持坂を上りはじめたら、ご婦人が二人、石段脇の猫を撫でていた。カメラを猫に向けてもカメラ目線はしてくれない。「ほら、カメラのほう向いて!」とご婦人の1人が一生懸命になるが、いっこう気にする風ではない。 5mほど上には白猫がいる。こちらは石の間のわずかな水を一心に飲んでいる。水たまりで右手を濡らして、その手を嘗めるというやり方だ。 Photo D3(上) 本門寺三門。(2015/1/29 12:25)Photo D4(下) 本門寺本堂「大堂」。(2015/1/29 12:29) 石段を登り切ると右手に「日蓮大聖人説法像」が建てられている。高さ3.4mもある西村西望作の純アルミ製の立派な立像である。さらに右手には、守護神の大威徳天を祀る長栄堂がある。 山門ならぬ三門をくぐって本堂に向かうが、「大堂」という金文字の扁額が掛けられている。折しも大堂では読経があげられていたが、内部は撮影禁止ということだった。Photo D5(左) 五重塔。(2015/1/29 12:33)Photo D6(右) 「年長さん、遅いわよ!」。(2015/1/29 12:34) 三門から東へ五重の塔を眺めに行った。この寺域には桜の木がたくさん植えられていて、五重の塔も冬枯れの桜の枝越しに眺められるのだった。五重塔に向かう左手に前田利家の側室、寿福院が建てたという石造りの層塔があった。かつては11層だったというが、今は5層だけが残っている。風雪で欠けてしまった、その古びた感じがそれなりの風情を醸し出している。 五重塔からの戻り道で幼稚園児らしい子どもたちが大勢やって来る。みんなびっしりと膨らんだザックを背負って急ぎ足である。振り返って後ろ姿を写したとき、「年長さん、遅いわよ!」と声をかけられて最後尾の子どもたちが駆けだした。Photo D7 日朝堂と鐘楼。(2015/1/29 12:28)Photo D8 経蔵。(2015/1/29 12:37) 五重塔から戻り、三門を出て、西の道を通って本門寺の裏手に向かう。三門の脇にあるのは日朝堂であるが「常唱堂」という金文字のおおきな扁額が掛けられていた。日朝堂の向こう隣は鐘楼で、さらに霊寶殿、経蔵と続く。 経蔵から大きな読経の声が聞こえていると思ったのだが、自動車の安全祈願をしているのだった。それにしてもお坊さんの声量というのはたいしたものである。三門を出たあたりから朗々とした声が聞こえていたのである。 本堂の裏手に回り、そこでトイレを借りてから本門寺とはお別れである。街歩きMap。A~Fは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2015.01.29
コメント(4)

【続き】Photo G1(左) 桜田通りに沿う道。(2015/1/28 12:49)Photo G2(右) 仮称・高輪通り(1)。(2015/1/28 12:54)Photo G3 高野山東京別院と高輪警察署。(2015/1/28 12:55) 桜田通りを越えて高輪に入る。地図で見ると、高輪は桜田通りと第一京浜に挟まれた地区で、その南北に長い地区を背骨のように走る道がある。緩やかに湾曲する道で、その道を北に辿ってみるつもりである。その通りの名前は不明だが、ここでは「高輪通り」と仮称しておく。高輪3丁目から2丁目、1丁目を貫いているのでまんざらでたらめというわけでもない。 高輪通りに出る前に、桜田通りと高輪通りの間の道に入ってみた。所々に商店がある細いまっすぐな道だ。変化が少ないので、右に折れて本命の高輪通りに出た。 右手に大きな山門が見え出す。「高野山東京別院」と金文字の看板が掛けられた大きな門である。その隣は高輪警察署の煉瓦色の建物である。Photo H1(左) 「二本榎」の末裔。(2015/1/28 12:56)Photo H2(右) 仮称・高輪通り(2)。(2015/1/28 12:59) 高輪署前を過ぎて、文字通りの「高輪警察署前」交差点を渡る。右の歩道を歩いていると、石碑が建っている。「二本榎の由来」と書いてある。江戸時代、高縄手と呼ばれていたこの丘に大きな二本の榎の木があって旅人の良い目印になっていたという。今は使われていない「二本榎」という地名の由来で、それを偲んで植え継いできた榎が写真の木らしい。Photo H3(左) 仮称・高輪通り(3)。(2015/1/28 13:02)Photo H4(右) 高輪通りは「伊皿子」交差点へ。(2015/1/28 13:08) 高輪通りはとても変化に富んでいる。高校や大学があり、商店があり、寺院が並ぶ。その上に、緩やかに右にカーブする道で、高輪署あたりから緩やかな上り坂である。 道がほぼフラットになったと思い始めた頃、けっこう急な下り坂が見えてきた。坂下に交差点が見える。「伊皿子」交差点である。 Photo I1(左) 伊皿子坂(1)。(2015/1/28 13:09)Photo I2(右) 伊皿子坂(2)。(2015/1/28 13:11) 伊皿子交差点で右折する。緩やかな下り坂になっていて「伊皿子坂」というらしい。伊皿子坂を下って行くと右手に「幸福の科学 東京正心館」という建物がある。ギリシャ神殿風の壮大な玄関を持つ建築物である。これに似た建物をどっかで見た記憶があった。その前をだいぶ過ぎてから、どうにか思い出した。昨年の10月始めに八王子の東京富士美術館に「ロイヤル・アカデミー展」を見に行った。その時にバスの中から見た創価学会の建物がやはりギリシャ神殿風の柱をしつらえていたのだ。 宗教は、科学的、合理的思考よりはどちらかと言えば心情に訴えることに力点が置かれているだろうから、人間の感覚、感情を圧倒する施設が必要なのだろう。しかしそれにしては、この一帯に多い仏教寺院のささやかで質素な佇まいはそういう事情には該当しなさそうだ。釈迦の教えは、神(仏)が人を救うという考えよりも、自らの精神修行によって仏になりなさいというのが基本なので、人の感情を圧倒するような玄関だの建物だのを必要としないのかも知れない。Photo J1 泉岳寺の山門。(2015/1/28 13:14) 伊皿子坂を下って右折すれば、泉岳寺である。けっこう立派な山門だが、さきほどの幸福の科学の建物と比べれば、とても質素に見える。 山門には「建設反対」と大きく墨書された看板が掛けられていた。8階建てのワンルームマンションが近くに建設されるらしい。どうも今日は出だしから最後までこの手の話に縁があるらしい。 そういえば浅草寺の前に建てられるビルに浅草寺が猛反対していたニュースがあった。観光のためのビルを浅草寺山門前にどんと大きく建てることに反対していたのだ。浅草寺そのものが観光地としての中心であるにも関わらず、その浅草寺の意向に逆行する観光施設の存在意義が私には理解できなかった記憶がある。 これからは観光に名を借りた観光資源破壊が進むのかも知れない。これもまたどん欲な資本の本能なのだろう。Photo J2 もう一つの山門(中門?)。(2015/1/28 13:15) 山門を入ると、参道脇に土産を売る店が並んでいる。覗くとどこも忠臣蔵関係の土産品である。封建制の忠君愛国精神を称揚する忠臣蔵ドラマにはあまりなじめないが、年の暮れには古い忠臣蔵映画(ドラマ)をどんなテレビ局でも並べ、それを喜々としてみている国民性にはいいお土産品になるのだろうとは思う。 参道の向こうにもう一つ門がある。これも山門というのかどうか、私の知識では覚束ない。中門(と一応呼んでおく)を抜けるとき、そこから内側では許可なく写真を撮るなという張り紙があった。 写真を撮るのも街歩きの楽しみの一つにしている私としては、なんとなく鼻白んでしまって、そこから引き返した。撮影禁止をけっして理不尽だとは思ったわけではない。宗教施設にはよくあることだ。ただ、許可を得てまで撮したいと思うほど写真に拘っているわけではないし、それにカメラをぶら下げて歩き回って誤解されるのも面倒と思っただけのことである。Photo K 第一京浜の「泉岳寺」交差点へ。(2015/1/28 13:19) 泉岳寺の中門からまっすぐに歩くと第一京浜に出る。そこに地下鉄都営浅草線の「泉岳寺」駅があって、カメラをバッグにしまって地下への階段を下りた。街歩きMap。A~Kは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2015.01.28
コメント(2)

JR山手線で乗り降りしたことのない駅がまだ幾つか残っている。その一つが「五反田」駅である。一度、戸越銀座から東急池上線に乗って五反田で乗り換えて渋谷に行ったことがある。それが五反田経験のすべてだ。 五反田に狙いを定めて地図を眺めていたら、少し北に泉岳寺という聞き慣れた名前があって、さらに「泉岳寺」という地下鉄駅も見つかった。これで、五反田から泉岳寺へというコースを決めたのだ。いつものことだが、私の街歩きには土地にまつわるドラマなんてまるでないのである。Photo A 五反田駅前、桜田通り。 (2015/1/28 11:54) 五反田駅を北に出ると、山手線に沿って走る道が商店街のように見えていくぶん誘われたものの、最初の目標は池田山公園である。山という地名から坂道を期待したのだ。Photo B1(左) 桜田通りから入った坂道。(2015/1/28 11:58)Photo B2(右) 静かな住宅街を行く。(2015/1/28 12:02) 桜田通りを100mほど北上して、左の坂道に入る。右手は工事現場の塀が続いてあじけがない。短い坂を上りきるとまっすぐな静かな住宅地の道である。 塀囲いの大きなお屋敷のその塀に「池田山の入口に高さ90mのビルはいらない 建設反対」という垂れ幕が吊り下げられていた。桜田通りから入った入口の工事現場がそのビルの建設予定地だったのだろうか 周辺地域の未開発地区を食い尽くした資本は、都心部の閑静な住宅街を浸食しはじめたということなのだろう。ピケティではないが、資本主義はほっとけば破滅するまで人間が生存するための環境資源をも食いつぶすのである。 それはあくまで新自由主義経済に世界を委ねたままにしておけばということで、それほど人間は愚かではなくて、いずれ安倍晋三や竹中平蔵が信奉している新自由主義経済(とそれを推進する政治)を大きく修正するだろう。というより、それを期待するしか持続的な未来はないのだ。 今をときめくトマ・ピケティの本はまだ読んでいないが、伝え聞く限りでは、彼の主張はそういうことらしい。「資本の一方的な偏りを修正すること」。まぁ、修正資本主義ということかもしれないが。Photo B3 坂上からみる品川駅方向。右が池田山公園。 (2015/1/28 12:11)Photo C 池田山公園の庭園。(2015/1/28 12:14) 池田山の山裾の住宅街は、大きなお屋敷か造りの立派な集合住宅が並んでいる。集合住宅といってもせいぜい4階程度である。確かにこのような住宅地に高さ90mのビルは不似合いだろう。 地図ではもう池田山だろうというところまできたのだが、道がない。行き止まりを何度も修正しながらぐるりと回ると、道の先は下り坂になっていて遠くを見渡せる坂上に出た。右手に池田山公園の入口があって、道は公園の北面に沿って下っていく。 どうもこの景色に見覚えがある。坂の上でそう思った。この先の道を下っていった記憶もある。池田山公園に入った。公園は斜面に広がっていて、入口はもっとも高い地点にある。公園内を見下ろして、間違いなく来たことがあると確信したのだが、いつどんなふうにしてきたのかはまったく思い出せない。 これは、帰宅してからパソコンを調べた結果である。2011年1月19日に、目黒駅から東に歩いて白金台を歩き、そこから北上して白金を通って広尾まで歩いている。広尾の山種美術館になにかの展覧会を見に行ったのだった。その時の街歩きの写真だけはホームページに掲載していた。なぜすっぱりと忘れてしまったのだろう。文章で記録しておくという作業をしなかったためだろうか。 この地は、岡山藩池田家の下屋敷があったので池田山と呼ばれ、屋敷跡の庭園が公園として残されたのだという。大名屋敷があったくらいだから、住むには良い土地なのだろう。Photo D1(左) 池田山公園からの道。(2015/1/28 12:15)Photo D2(右) 坂を下り、坂を上って。(2015/1/28 12:18)Photo D3(左) 坂を上りきって。(2015/1/28 12:19)Photo D4(右) 向こうは目黒通り。(2015/1/28 12:20) 池田山公園は最上端から眺めてだけでおしまいにした。公園沿いを下る道は歩いた記憶があったので、北に下る細い道に入った。道は下って、いったん平坦になり、左に曲ると上り坂になっている。 ここまで歩いて、この道を歩いた記憶が鮮明によみがえった。この道を逆に辿って池田山公園まで歩いて行ったのだった。細くて、曲がりくねって、しかも適当なアップダウンがあって、散歩に最適だと気分良く歩いたときの、その気分まで思い出した。 坂道を上りきると、道の先に庭園美術館の緑が見えてくる。Photo E1 庭園美術館前の目黒通り。(2015/1/28 12:21)Photo E2 目黒通りと外苑西通りの交差点。(2015/1/28 12:27) 細道を出ると目黒通りである。目の前は庭園美術館というか自然教育園の緑地である。目黒通りに外苑西通りがぶつかる三叉路まで歩き、そこから東に向かう道をさがす。 三叉路を過ぎてすぐ右に入る細道があったのでそこから東に向かうことにした。Photo F1 芝白金団地の「白金台三丁目遊び場」。(2015/1/28 12:30) 細道を左に曲ると高いフェンスに囲まれた広場があって「白金台三丁目遊び場」という表示がフェンスに張り付けられていた。猫の額ほどの空き地にも仰々しく「△△公園」と名付けている時代に、「遊び場」というごくごく直接的で率直、気取りのないネーミングに妙に感心させられた。 フェンスの前に碑があって、「芝白金団地」という石版が貼り付けられていた。「遊び場」の後方に長い団地風アパートが建っていた。 「遊び場」沿いの道を過ぎたところに「◯◯不動産は今までのような安全と環境を守ってください」という看板があった。細い道の奥に大きなマンションビルが建ったら道路事情を超えた交通量で生活環境が悪くなる、という心配である。とくに子どもたちの安全が心配だと主張されていた。 ここでも「資本による生存環境の浸食」が起きているということだ。Photo F2 白金台幼稚園前の分れ道。(2015/1/28 12:33) 交通量が増えて生活環境が悪化するという心配がほんとうに切実な問題であるということが、細道の先にあった。白金台幼稚園である。この道を園児たちが毎日行き交うのだと思うと、親たちの心配は当然だ。 白金台幼稚園の前で道が分かれている。歩きたくなる魅力ではどちらともいえない。やや緑が多そうな右の道を歩くことにした。Photo F3(左) 階段道を下りて。(2015/1/28 12:35)Photo F4(右) 白金台の住宅街。(2015/1/28 12:37)Photo F5(左) 白金台の住宅街。(2015/1/28 12:40)Photo F6(右) ビルの間を桜田通りへ。(2015/1/28 12:47) 白金台幼稚園を過ぎてすぐ細道は階段に変わる。若い人が急ぎ足で階段を駆け下りていく。私はそろりそろりと下りるのである。 昨年の9月末にも東京の街歩きをしたのだが、そのとき東京駅構内の階段で転んで脛を傷つけたのである。全快まで1ヶ月ほど外科に通った。今朝も家を出る私に「転ばないでね」と妻は声をかけたのだが、今朝ばかりではない。最近は外出前にはほとんど毎回言われるのだ。ときには、「もう年なんだから」という余分までくっついてくる。 階段道からはずっと住宅地の道である。池田山に登る途中のような高級住宅地ではないが、静かでとても落ちついている。道の途中に児童公園があって、トイレを借りた。 東京の街中ではトイレで困ることはまったくない。これが中途半端な小さな町だと公共のトイレが見つからないことがよくある。周りに自然が多いので、しゃかりきに公園を作っていないということもあるだろうし、人口密度に応じて公共施設の数も少ないのである。 住宅地が大きなビルに変わり、そこを抜ければ桜田通りである。街歩きMap。A~Kは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2015.01.28
コメント(4)

【続き】Photo I1 この広場から「港の見える丘公園」の中へ。(2015/1/27 13:56)PhotoI2 港の見える丘公園の展望台。(2015/1/27 14:03) Photo I3 公園からの展望。上:北東方向、下:北方向。(2015/1/27 14:02) 諏訪町から上ってきて、「近代文学館入口」交差点で港の見える丘公園の前を通る道に出る。少し歩くと円形広場が現われて、そこから公園に入った。 広場の向こうには、キャンバスに向かって絵を描いている数人がいる。そういえば、元町公園にも絵を描いている人がいた。仙台では、1月に屋外で写生に励む人を見ることがないので、感心してしまった。 仙台から横浜まで絵を見に出てきたついでの街歩きなのだが、写生をしている人の絵を覗かせてもらう勇気は私にはない。静かに通り過ぎるのである。 公園の奥に進んでいくと展望台がある。港は見えないわけではないが、山下埠頭や大桟橋埠頭はよく分らなくて、高速道がよく見える眺望である。遠く、横浜ベイブリッジの全景が見渡せる。空中に浮かぶ立体構造は、まるでCGの世界である(田舎生れの田舎育ちにはそう見えるのだ)。Photo I4 公園から外国人墓地へ向かう山手本通り。(2015/1/27 14:04)Photo J1 外国人墓地を見下ろす。(2015/1/27 14:08) 港の見える丘公園を出て、山手本通りを歩く。交差点を渡り、交番の前を過ぎて少し歩くと左手に岩崎博物館の煉瓦造りがある。さらに右手の横浜地方気象台の前を過ぎると外国人墓地の門の前に出る。 墓地の門を入ると斜面に広がる墓地の最上部に出るが、墓地の中には入れない。木々に隠れて墓地の様子はほとんど分からないのだった。 外国人墓地のことをかつては異人墓地と呼んでいなかっただろうか。外国人墓地でそんなことを考えた。異人の方がforeignerという英語と対応関係がいいように思うのだがどうだろう。 外国人というと国籍が重要な基準で、異人というと眼が青いとか髪の色とか外見上の特徴が判断基準になるようだ。だから、韓国人や中国人は外国人だが異人とは呼びにくい。古代からの交流があって明らかに古くに血が繫がっている韓国人や中国人が異人でないのは、それはそれでとても自然なことだ。 こんなことをぐだぐだと考えたのだが、かといって外国人を異人と呼びたいとも、呼んだ方がいいとも思ってはいないのである。どう呼んだところで差別主義者がいなくなるわけではないし、そんなことが国家間の軋轢を緩和するわけでもない。ただそんなことを考えたというに過ぎない。Photo J2(左) 外国人墓地の上の山手本通り。(2015/1/27 14:09)Photo J3(右) 元町公園の下と墓地の間の階段道。(2015/1/27 14:11)Photo K1 キリスト教墓地脇を通る。(2015/1/27 14:12)Photo K2 道は元町公園の中を。(2015/1/27 14:15) 外国人墓地を出て、ふたたび山手本通りを元町公園に向かって歩く。元町公園の東端に沿って下って行く階段道があった。元町公園と外国人墓地の間の谷を下る道らしい。理想的な散歩路だ。 左は元町公園の斜面、右はキリスト教墓地。カソリックの墓地の向こうの崖上に外国人墓地があるはずだが、下からはやはり見えないのだった。 道はいつのまにか公園内に入っていて、左下に元町商店街から入ってくる公園の正面入口が見える。Photo L1(左) 元町公園から代官坂通りへ。(2015/1/27 14:18)Photo L2(右) 代官坂通り。(2015/1/27 14:19)Photo M 元町商店街の東端。(2015/1/27 14:22) 公園内を道なりに進むと、「ジェラールの瓦工場と水屋敷跡」という碑がある。ジェラールというフランス人がこの地で初めて西洋瓦や煉瓦を作ったという意味のことが書いてあった。同じ人物が、この地から代官坂に水路を造って水を外国船に売ったので水屋敷とも呼ばれたという。 ジェラール碑の前をそのまま歩いて行くと代官坂通りに出る。坂といえば坂らしい緩やかな道を進めば元町商店街の東端近くに出る。そのまま東に歩いて、「元町・中華街」駅から「みなとみらい線」に乗れば今日の街歩きは終了である。 長いエスカレーターを乗り継ぎ、地底深くにある「元町・中華街」駅で「みなとみらい線」に乗り込んでから、あらためて地図を眺めると、駅のすぐ近くに「元町薬師堂・弁天堂」という寺院マークが記されている。厳島神社や諏訪神社に立ち寄ったというのに、この寺院を見逃したというのはバランスを欠いているようで妙に落ち着きが悪いのだった。街歩きMap。A~Mは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2015.01.27
コメント(4)

横浜美術館に出かけた。そのついでの街歩きなので、近くの元町界隈を歩くことにした。東京も縁がない土地だったが、横浜はなおさらである。横浜国立大学での学会で、関内近くのホテルに4、5泊したことがあるという程度だ。そのとき、桜木町から関内あたり、つまりは中華街あたりまで歩いたことがあった。 それよりずっと昔、大学卒業したての妻が(当時はまだ妻ではなかったが)金沢八景に数年住んでいたことがある。大学院生だった私が会いに行って、一緒に歩いたのは山下公園だったと思う。鎌倉に行った記憶もあるから、何回かは横浜に来たのだと思うが、記憶は定かではない。Photo A1 連絡歩道橋で中村川を渡る。 (2015/1/27 13:12)Photo A2(左) 石川町側の「石川町駅」の前。(2015/1/27 13:14)Photo A3(右) 石川商店街「アイキャナルストリート」。(2015/1/27 13:16) 横浜美術館を出て、JR線で石川町に行く。石川町駅の北口(中華街側)に出てしまって、中村川に架かる歩行者専用の連絡橋(のような橋)を越えて、南口に歩いた。 石川町駅は中村川を跨いでいて、川に沿って(というよりも川の上を)高速が走っている。 南口の前の道は、石川町の商店街で「i-canal street」と名付けられている。中村川は川ではなく、用水または運河ということらしい。Photo B1(左) 元町の入口。(2015/1/27 13:17)Photo B2(右) 車と人で賑わう元町。(2015/1/27 13:20)Photo C1(左) 「厳島神社通り」という横道。(2015/1/27 13:21)Photo C2(右) 元町厳島神社。(2015/1/27 13:22) アイキャナルストリートを抜けると、まっすぐの道が元町の商店街である。狭い道に人も混み合っているが、車も通行できるので大混雑である。 金に縁のない人生だったので、消費や商品に血道が騒ぐなどということなどない身ではあるけれども、元町はファッションの街らしいということは聞いたことがある。さすがに衣料関係の店が多いのだった。 元町に入って最初の横道の先に赤い鳥居が見える。「厳島神社通り」という横道は、神社に突き当たってすぐにおしまいになる道だった。 厳島神社は古い弁天二社を合祀して明治期に建立されて、元町の鎮守となったと神社縁起に記されている。神社前の右手にほんとうに小さな児童公園があって、5組ほどの親子が遊んでいた。 公園の反対側には、住宅地を抜ける道があった。賑やかな元町の商店街には戻らないで、その道を通って山手に登って行くことにした。Photo D1(左) 汐汲坂を上る。(2015/1/27 13:24)Photo D2(右) 汐汲坂の急坂。(2015/1/27 13:26)Photo D3(左) 坂の途中の柚の木(たぶん)。(2015/1/27 13:28)Photo E1(右) 汐汲坂の先の下り坂。(2015/1/27 13:30) 厳島神社横からの道は、汐汲坂通りに突き当たる。 右折して汐汲坂を上りはじめるが、道の両側に元町幼稚園の建物があって、園内の掃除をするらしい園児たちが箒やちりとりを持って道を右往左往している。走って急に横切る子どももいるので、しばらく立ち止まっていると先生らしき若い女性が道を空けて通してくれた。 坂の少し上に車止めが設置され、その時間帯は車が通れないようになっていた。子どもたちは安心して道を走り回れるのだ。それに、赤いコートを着たガードウ-マンも道に立っていて、子どもたちの安全を図っているのだった。 坂は次第にとんでもない傾斜になってきて、息が切れてきた。山登りのときもそうだが、歩き出しでまだアドレナリンが出ていないときの急坂は大変なのだ。体がびっくりするのである。 塀越しに覗いている木にたくさんついている柑橘系の実を眺めながら息を整える。北国に生まれてそのまま住みついた人間には柑橘系の木はやはり珍しいのである。実は柚ほどの大きさであった。 坂を上りきると尾根筋を走る道と交差する十字路で、まっすぐの道は下り坂になっている。その道を下っていく。Photo E2 元街小学校前の三叉路。(2015/1/27 13:33)Photo E3 丁字路手前の洋館。(2015/1/27 13:37) 汐汲坂を上りきった道からまっすぐの下り坂を辿ると、右手に元街小学校が現われる。地図を見る限り、この小学校だけが「元町」ではなく「元街」になっている。ネットで調べると、明治6年に出来た元街学校が前身で、それ以来ずっと「元街」が使われているということだ。 斜面に建てられた小学校の敷地を覗くと、煉瓦色の優雅な校舎の周囲には石垣と階段道がめぐらされている。こんな素敵な立体構造を持つ小学校は珍しいのではないかと思う。 三叉路をそのまま下ると左に上る細道がある。右手に聖母愛児園の建物を見ながら細坂を上ると丁字路である。 丁字路の手前に外国名の表札が貼られている門を持つ洋館があった。古いが立派な洋館である。というよりも、古いから立派な造りになっているということだろう。Photo F1 元町公園前。(2015/1/27 13:38)Photo F2 元町公園内。(2015/1/27 13:40) 洋館の前の丁字路を左折すると、その先は元町公園である。公園に入ってすぐのところに「エリスマン邸」という洋館がある。案内看板に拠れば、日本現代建築の父と呼ばれるアントニン・レーモンドの設計によってスイス人貿易商エリスマン邸として大正年間に建てられた住宅で、平成元年に元町公園に解体移築されたという。 公園の横の道に入ると、下り斜面に広がる公園敷地が眺められる。林の中に続く園路が見渡されるが、下ってまた上ってくるという体力勝負は避けることにして公園を後にした。Photo G1(左) 諏訪神社への道。(2015/1/27 13:46)Photo G2(右) 道脇の諏訪神社。(2015/1/27 13:47) 公園前の文字通りの「元町公園前」交差点から下って行く狭い道に入る。地図にある諏訪神社を見ておこうと思ったのである。山手の洋館を眺めてきて、外国人が多く住んでいた(いる)地区の神社はどんなだろうと思ったのである。 下り坂から横道に入り、少し上ると道脇に諏訪神社のお社があった。道に面しているのは社の背面である。正面に廻ってみるとその前は崖になっていて、下には住宅が広がっていた。 洋館の多い地区とはいえ、神社はそのまま神社なのであった。Photo H1(左) 諏訪町の道(1)。(2015/1/27 13:51)Photo H2(右) 諏訪町の道(2)。(2015/1/27 13:52)Photo H3(左) 港の見える丘公園へ向かう坂道。(2015/1/27 13:54)Photo H4(右) 港の見える丘公園前の道。(2015/1/27 13:55) 諏訪神社は、諏訪町にあるのでそう呼ばれるようになったのだろう。神社から元の下り坂に戻ってさらに下れば、諏訪町を抜けるやや広い道に出る。左折して、港の見える丘公園に向かうことにした。 道は右に曲り、左に曲りながら少しずつ登って行く。左に折れてまっすぐな坂道を上りきると、港の見える丘公園の前を通る道に出る。街歩きMap。A~Mは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2015.01.27
コメント(2)

家を出ると、雪がちらつきはじめ、風も強まって寒くなってきた。今朝は、日の出どきのもっとも寒い時刻でさえ4~5℃ほどの暖かさで、のっそりと歩くイオの緩慢さと相俟って「ぬるい」朝の散歩だった。デモの時間帯も4~5℃という予報だったが、雪と風で0℃くらいに感じる。降った雪がすぐに溶けるので、じっさいは2~3℃だろう。 勾当台公園への道すがら、仙台市図書館に立ち寄って、先週の金デモの日に借り出した『清岡卓行全詩集』を返却した。フェイスブックの投稿から気になっていたフレーズは、予想通り清岡卓行の「うたた寝」 [1] という詩の一節だった。タぐれに眼ざめてはならない。すべてが遠く空しく溶けあう 優しい暗さの中に夢のつづきの そこはかとない悲しみの捉えようもない後姿を追ってはならない。 夕暮れに目覚めて夢の続きを追うようなことは、私にはあまりないことだけれど、そのような時間帯に思わず深く眠り込んで目覚めたとき、私がどんな時間にどこにいるのかまったく自覚を失って少しばかりパニックに似た感情に陥ることはしばしばある。なにかに追いたてられるように 眼を覚ますと深く長い眠りの 洞窟からではないのに一瞬 記憶喪失にでもかかったようにぼくはぼくの 致命的な愛が思いだせない。 「秋のうた」部分 [2] 残念ながら、私の目覚めにあまり「愛」などというのは関係ないのではあるが。 集会風景(勾当台公園野外音楽堂)。(2015/1/23 18:20、24) 勾当台公園に着く頃には雪は止んでいて、風もほとんどおさまっていた。しかし、降った雪が溶けてベンチが濡れている。せっかくの野外音楽堂の集会だが、参加者は座れずに立ったままである。 それに、ワンボックスの脱原発カーのエンジンがかからなくなっていて、みんなで車を動かしながらいろいろ試みたが、エンジンはウンでもスンでもなく沈黙したままで、結局修理業者を呼ぶことになった。今日のデモは、脱原発カーの先導なしということになった。フリー・トーク。(2015/1/23 18:18~27) みんなで車を押しまくって体を温めてからようやく集会が始まった。とくに、3月21日の「3・21 みやぎアクション」の告知は、とくに力を入れて丁寧になされた。今年は、共催団体が増えて、多くの人に呼びかける体制ができあがって、例年になく盛り上がることが期待出来そうなのである。 「3・21 みやぎアクション」の当日には、東北各地の脱原発デモ参加グループの交流会も併せて企画されているので、いっそう賑やかになりそうだ。この交流会は、各県持ち回りで開催されていて、前回は山形県だった。デモへ、出発の準備。(2015/1/23 18:32)仙台市役所を右に見て。(2015/1/23 18:37)定禅寺通りを渡って、一番町へ。(2015/1/23 18:43) デモのコースは、もちろん先週と同じで、勾当台公園から宮城県庁前の道を勾当台通りを越えて仙台市役所前に進み、市民広場をぐるりと回ってから定禅寺通りを渡って一番町に入るのである。 一番町に入って来た。(2015/1/23 18:47) 今朝の毎日新聞のニュースに「柏崎刈羽原発:東電常務「避難計画不十分なら再稼働無理」という見出しの記事があった。 東京電力の姉川尚史常務は22日、新潟県柏崎市内であった東電柏崎刈羽原発に 関する住民向け説明会で、同原発の再稼働について「(原発事故の際の)避難計画が不十分であると、自治体の方が思われる段階では、稼働はできない」と述べ た。会田洋・柏崎市長は市の避難計画について自ら「課題が多い」と改善する余地があることを認めている。避難計画の完成度が、再稼働できるかどうかの重要条件になる可能性が出てきた。 九州電力の川内原発では、鹿児島県知事や川内市長がまともな避難計画もないまま再稼働を容認したことと比べれば、このニュースはいくぶん「まとも」に思えてしまう。川内原発の避難計画についてはさまざまな案が出されたが、結局まともな計画は策定されていない。それにもかかわらず政府の交付金や九州電力のばらまく金ほしさに避難計画なしでも再稼働を認めるというのは、十全な避難計画そのものが不可能だということの自白のような行為だった。金目当てだけの行動指針しか持たない地方政治家の無能さは無惨なばかりである。 一見「まとも」そうに見える柏崎刈羽原発についての東京電力常務の発言にもみごとな落とし穴がある。「避難計画が不十分であると、自治体の方が思われる」場合には再稼働はできないということは、どんな避難計画であれ地方自治体の長が「十分」だと主張すれば再稼働できると言うことである。これまでの言動からすれば、新潟県知事が再稼働に同意することはとうてい考えられないが、立地市町村長は川内市とおなじく金目当てに「避難計画は十分」と虚言を申し立てる可能性は十分にあるのだ。 しかし、私には避難計画などというのは瑣末な問題にしか思えない。ニュースでは触れていないけれども、「避難計画が不十分なら再稼働は出来ない」という文言には決定的で重要な前提がある。「原発事故は起きる」という前提抜きでは、成立しない言葉なのである。 「原発事故は起きる」→「だから、十分な避難計画は必要だ」→「避難計画は不十分だ」→「事故が起きる原発を再稼働できない」という論理の筋道になっているのだ。 原発事故が起きても避難計画が十分なら大丈夫なのか。福島の悲惨は、避難計画が十分だったら起きなかったのか。そんなことはない。避難計画が十分だったら、確かに現状よりも福島県民の被爆線量は少なくすんで、将来の死亡や健康被害は予想よりはいくぶん減るかもしれない。だが、事故から4年経った現在でも、10万人を越える福島県民が職も家も故郷も失ったままである事実は、避難計画がどうあろうと変わりようがない。 フクシマの後では、「原発事故は起きる」という前提から導き出される唯一の答えは、「事故を起こす原発を廃止する」以外にあり得ようはずがない。柏崎刈羽原発周辺の新潟県民は、避難さえ出来れば何の問題もないとでも言うのだろうか。しかも、日本全国に原発があって、いずれ避難する土地すらなくなってしまうかも知れないのに。 一番町はもうすぐ終って、青葉通りへ。(2015/1/23 18:56) 一番町を通るときには、手を降って応援してくれる人、拍手をしてくれる人が必ずいる。それはそうだ。今日のデモは55人と決して多くはないが、原発そのものには国民の半数以上が反対なのである。デモに出なくても、反対の人は大勢いるのだ。私たちは、その人びとの一部としてデモをしているということだ。誰にも頼まれたわけではないが、代表している気分がないではない。青葉通りの夜景。(2015/1/23 18:58)大通り(国道4号)を渡って来るデモの列。(2015/1/23 19:02)解散風景。(2015/1/23 19:05) 一番町を出たばかりの青葉通りは地下鉄東西線の工事の影響で広い車道のほぼ真ん中を歩くことになる。青葉通りは一番町に比べればずいぶんと暗くて、その分、左右に広がる遠目のビルの灯りがきれいに見えることがある。美しいと思うが、それを写真に写し取ることは素人にはほんとうに難しい。何枚も写してみるが、PCのハードディスクの容量を食いつぶす効果しかない。[1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年)p. 144。[2] 同上、p. 203。
2015.01.23
コメント(8)

【続き】Photo F1(左) 宮城刑務所の塀に沿って。(2015/1/20 7:14)Photo F2(右) 古城小学校の塀に沿って。(2015/1/20 7:17) 若林の住宅地の道を抜けると、白い塀に突き当たる。宮城刑務所の塀だが、漠然と想像していたのはくすんだ色の高い塀に囲まれている刑務所だったのだが、低いとは言えないがべらぼうに高い塀ではないし、色はもっとも明るい白なのだった。 刑務所というと、ドラマティックな感興が湧きそうな気もするが、じっさいには何も浮かばない。生活実感とかけ離れているということだろう。いや、本当のところ、まったく無縁というわけでもない。私が4、5歳の頃、やくざな父親が刑務所(あるいは拘置所、留置場)に入っていたのだが、それは別のところに書いた。繰り返して言及するほどの特別な感情は生まれないということだ。 刑務所の塀に沿って歩くというのは退屈な散歩だ。変化というものがない。やれやれ、やっと刑務所の白塀が終ったと思ったら、古城小学校の長いフェンスが続く。道の反対側は住宅地だが、まったく普通の住宅地である。 それに加えて、狭い道なのに朝の通勤の車が少なからず行き交うので、イオが飛び出さないようにリードを短くして気を遣いながら歩かざるをえないのだ。小学校の門の前に、「若林一丁目北公園」という児童公園がこの道筋の唯一の変化に思えたほど、刑務所から古城小へと続く直線路は散歩向きには思えないのだった。Photo G1(左) 道の向こうは刑務所。(2015/1/20 7:22)Photo G2(右) 反対へ歩いて行く。(2015/1/20 7:22) 古城小学校の西端を右に折れて行くと、大きなマンションが3棟見える。この辺は古城一丁目のはずなのに「ロイヤルコート河原町」という看板があった。一番近い地下鉄駅「河原町」に因んだものだろう。確かに、地下鉄を降りて東にまっすぐ歩いてくればマンションの前に出るのである。 マンションの前の道を右折すればふたたび宮城刑務所である。反対方向、左折して河原町の方に向かう。 Photo G3 JR東北本線「行人坂踏切」。(2015/1/20 7:25~26) 宮城野貨物駅に向かうJR貨物線の高架をくぐると踏切が見え出す。「行人塚踏切」の表示が高く掲げてある。ちょうど赤いランプが点滅して、下り電車が通過していった。Photo H1(左) 古城神社前の道。(2015/1/20 7:27)Photo H2(右) 古城神社。(2015/1/20 7:27)Photo H3(左) 古城神社からの道。(2015/1/20 7:32)Photo H4(右) 左に折れて。(2015/1/20 7:35) 行人塚踏切を渡って新幹線の高架の下を通れば、ふたたび住宅地である。 新幹線を過ぎてすぐ、古城神社が道に面して建っている。鳥居とお社はくっついていて参道はない。どこかに由緒書きのようなものはないか探してみたが見つからなかった。 これは帰宅してからネットで調べたことだが、広瀬川の氾濫を鎮めようと人柱になった行者がいて、その人の塚が「行人塚」と呼ばれていた。その塚の地に建立されたのが古城神社で、水防の神様なのだという。これで、踏切名と神社が結びついた。 JR線を越えると河原町である。商店と住宅が混在する道を200mほど西に歩いて左折する。その道も、ほとんど同じような道で、写真で見比べてもどこで撮ったか判然としないほど似ている街並みだ。Photo I 桃源院の山門と本堂。(2015/1/20 7:37) 道の先に広い旧市電通りが見え出す。週日なのでもう通勤の車が混み出している。大通りに出る手前を左折した。地図で見つけていた「桃源院」という寺院を覗いておこうと思ったのだ。 今様の山門と本堂である。先週、小松島で万寿寺という黄檗宗の寺院を見たばかりだったが、ここも黄檗宗である。続けて黄檗宗の寺に出会ったが、仙台ではあまり多くない宗派のように思える。臨済宗、曹洞宗と同じ禅宗だというが、私には馴染みがない。田舎の寺は曹洞宗だったし、親戚、友人、知人の葬儀でも黄檗宗の寺院の経験はなかったように思う。 なんか、私とイオの朝ドラ散歩は神社仏閣を訪ね歩いている雰囲気になってきたが、それにはわけがある。地図で街歩きの場所を探すとき、神社や寺がいい目印になる。神社や寺があるということは、その土地に古くから人が住んでいる証拠になる。そういう街が散歩で楽しめるというのは経験が教えてくれた。 神社仏閣を辿るように歩いているからといって、けっして仏教や神道を深く信仰しているわけではない(私は不信心者ではない、無信心者である)が、最近、神社仏閣の由緒書きを読む楽しさを発見したのは間違いない。出来れば、どんな小さな神社仏閣にも由緒書き看板を立てて欲しいと願っている。Photo J 広瀬川下流を覗く。(2015/1/20 7:40) 桃源院を出て広瀬橋に出る。歩き出しは上流側の歩道を歩いたので、帰りは下流側の歩道を歩く。下流を望むといっても、JR線の鉄橋があって遠くの景色は見えない。それで、川を覗き込むように写真を撮った。波立ちのいい流れである。夏ならば、鮎のいい付き場になるような瀬だ。 旧市電通りは通勤の車がびっしりと並んで渋滞している。コインパーキングからスムーズに出られるのか不安になるほどだ。まだ勤めていた頃、自家用車で出勤したこともあったが、いつも通勤渋滞が終った時間帯の出勤だった。今頃になって、恵まれた職場だったとしみじみ思うようになった。散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2015.01.20
コメント(8)

仙台駅から長町に向かう旧市電通り(旧国道4号、奥州街道)に架かる広瀬橋の南のコインパーキングから歩き出す。 一昨日の日曜日の朝に歩く予定だったが、晴天ながら積雪と強風で延期して、今日の朝ドラ散歩になった。ところが、素晴らしい快晴なのにやはり強風である。気温は零下1、2度と思われるが、風が厳しい。イオは全く平気だが飼い主は初めからたじろいでいる。それでも長町までわざわざやって来たのだ、と歩き出す。Photo A1 広瀬橋に向かう。(2015/1/20 6:42)Photo A2(左) マンションを背にした十八夜観世音堂(2015/1/20 6:45)Photo A3(右) 橋姫明神のお社と供養碑。(2015/1/20 6:47) コインパーキングの隣にお堂が見えるのだが、柵があって近づけない。旧市電通りを広瀬橋の方に進み、左の道を覗くと「十八夜観世音参道 第三十二番札所」の看板に矢印が書かれていた。 マンションの横から入ってみると、道はもともとの参道の横に出るようになっていた。もともと旧市電通りから参道があったらしく敷石が並べられていたが、途中で切れてその先は建築現場になっていた。 お堂の脇に木製の由緒書き看板が建てられていて、本来は「常蔵院観音堂」で、旧暦18日夜に月待ちの講が開かれていたという。そういえば、十八夜の月は「居待月」である。お堂には慈覚大師作と伝えられる勢至観音立像が安置されているらしい。 散歩でときどき仙台三十三観音信仰の札所というのを見かけるが、あまり意識していなかったのでそのほとんどは記憶にない。ここから近い木流堀付近を歩いたときには、「奥州仙台七福神」の一つだという福聚院の前を通ったのだが、こちらもときどき七福神の看板を見かけているものの、どことどこというふうには覚えていないのだった。 広瀬川の河畔には「橋姫明神」の小さな祠がある。十八夜観世音堂のことは初めて知ったのだが、橋姫明神は前から知っていた。広瀬川に橋を架けるために人柱となった娘の伝説がある。人柱になる前に十八夜観世音堂に籠もって断食をしたという、隣り合ってこその因縁が由緒書きに記されていた。Photo A4 広瀬橋から広瀬川上流を望む。(2015/1/20 6:50) 広瀬川の上流を眺めながら、広瀬橋を渡る。こういうときに限って風が強く吹くのだ。さすがに今日は、いつものキャップをやめて、耳まですっぽり隠れる毛糸の帽子をかぶってきた。まぁ、何とかなりそうな感じではある。Photo B1(左) 若林へ入る道。(2015/1/20 6:53)Photo B2(右) 東北本線下り電車。(2015/1/20 6:55) 広瀬橋の北端の横断歩道を渡り、広瀬川に沿って若林に入っていく道を選ぶ。道の先には、高い東北新幹線と低い東北本線の高架が見える。その下を通っていくと「新河原町架道橋」というプレートがあった。 新幹線架道橋を過ぎて、東北線の架道橋の間に来たとき、下りの電車がやってきた。広瀬橋からこの道に入ったときは新幹線の列車が通っていったのだが、その写真は撮り損ねた。Photo C1(左) 旅立稲荷神社入口。(2015/1/20 6:56)Photo C2(右) 旅立稲荷神社のお社。(2015/1/20 6:57) 架道橋を出てすぐ、道脇に赤い鳥居が見える。「旅立稲荷神社」の鳥居だ。この神社の名前に惹かれたのも、今朝の散歩コースを選んだ理由の一つである。 名前の由来はまったくの想像通りで、伊達藩の代々の藩主が江戸へ行き来する旅の安全祈願をしたことによるというのである。長町は、仙台城下から江戸に向かう最初の宿場である。 鳥居をくぐってすぐ参道は左手に折れ、民家の前を通ってお社まで行く。本殿は大きくはないが、落ち着いた雰囲気のお社だった。Photo D 朝日が真正面に。(2015/1/20 7:01) 旅立稲荷神社の脇から元の道に戻ってふたたび東に進む。朝日がちょうど目の高さにまで上がって、道の先は眩しくて見えない。 この道の北の方に宮城刑務所がある。地図で見たときには、その刑務所をぐるりと廻りたいと思ったのだが、敷地が広いために老犬と老人の朝の散歩としてはかなりの歩行距離になってしまう。それで、刑務所の近くまで行ければ良しとした。Photo E1(左) 若林の住宅地(1)。(2015/1/20 7:11)Photo E2(右) 若林の住宅地(2)。(2015/1/20 7:12) 適当なところで北側の住宅地に入って刑務所の方向に向かうことにした。入った道は、地図で見る限り若林一丁目と三丁目の境の道らしい。多少道はくねるが、普通の住宅地である。 その道がまっすぐになった辺りで、道の向こうに白い塀が見えだした。宮城刑務所の塀である。散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 【続く】
2015.01.20
コメント(4)

脱原発デモに出かける前にPCのメールを確認して、仙台市図書館から予約書籍の準備完了の知らせをみつけた。集会場所の勾当台公園への道すがら図書館から借り出すことにして、家を出た。 原発や辺野古のこと、特定秘密保護法や解釈改憲などをフェイスブックに積極的に投稿していて、その合間に花の写真や日々のことなども書いている女性がいる。フェイスブック上で知り合ったその人が、一週間ほど前、日々の思いの後に「夕暮れには目覚めてはいけないと書いたのは清岡卓行だったか」という意味のことを書いていた。 詩人が書いたというその言葉を私は知らなかったが、小説ならいざ知らず詩集からならそのフレーズを探せるかも知れないと納戸や本棚を探してみた。さんざん探したが、清岡卓行の小説は数冊出てきたものの詩集は一冊も見つからない。たくさん読んだはずなのにどうしたことか。若い頃、詩集を借りて読むという習慣はなかったはずだ。詩集だけは買ったのである。そもそも清岡卓行の詩集を持っているという確信はどこから来たのか。そんなことがあって、若いときの記憶が茫洋となってしまったのではないかと背筋がざわざわしてきたのだった。 仙台市図書館を通じて他の図書館に借用依頼をしていたその本は『清岡卓行全詩集』である。開いてみれば、すぐに記憶に鮮明なフレーズが見つかる。二〇世紀なかごろの とある日曜日の午前愛されるということは人生最大の驚愕であるかれは走るかれは走るそして皮膚の裏側のような海面のうえに かれはかれの死後に流れるであろう音楽をきく人類の歴史が 二先年とはあまりに 短かすぎる 「子守歌のための太鼓」(部分) [1]脱原発ソングと原発からの緊急避難問題。(2015/1/16 18:17、21)勾当台公園野外音楽堂の集会。(2015/1/16 18:18) 暮れのイベントである「光のページェント」のために使用できなかった勾当台公園が使えるようになって、久しぶりの野外音楽堂での集会だ。先週と同じ替え歌の脱原発ソングの練習のあとに、加美町から参加の浅野さんからオリジナルの反原発ソングが披露された。 登米市で開催された「女川原発 重大事故避難計画 県のガイドラインを読み解く」という学習会に参加されてから急いで仙台に駆けつけた広幡さんが、女川原発から30km圏内の市町村に県から要請された避難計画作成について報告された。避難計画を各自治体に押しつける県は、避難計画がずさんであっても鹿児島県のように女川原発の再稼働を認めるつもりかもしれない。というより、もともと30km圏内という区切りそのもの、そういう前提が間違いであることは、フクシマの事例から明らかなはずだ。 宮城県庁前から勾当台通りを渡って仙台市役所前へ。(2015/1/16 18:38)バックは仙台市庁舎。(2015/1/16 18:39) 今日の参加者はやや少なくて50人ほどだった。仙台としては暖かい夜だったので、50人は元気にデモに出発した。勾当台公園と宮城県庁舎の間の道に出て、勾当台通りの交差点を渡り、仙台市庁舎の前を通って一番町に向かう。一番町へ定禅寺通りを渡る。(2015/1/16 18:43) 定禅寺通りを越えれば一番町である。ここまではデモの列には照明の当たらない道だ。50人の参加者だからと思いこんでシャッターを押すと、その後ろからさらにたくさん現われて、立ち位置を変えて取り直すという失敗も暗さのせいである(空間認識力が脆弱だとは決して言わないのだ)。 一番町を行く。(2015/1/16 18:44、47)アコースティック担当? (2015/1/16 18:50) 参加者が少ないとかえってデモが元気になるというのはなぜだろう。清岡卓行の詩集を借り出して、最初の数十ページを図書館で読んだら、次のような詩句がみつかった。どこから世界を覗こうと見るとはかすかに愛することであり病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり絶望とは生活のしっぽであってあたまではないきみの絶望が希望と手をつないで戻ってくることをきみの記憶と地球の円周を決定的に選ぶことを夜の眠りのまえにきみはまだ知らない 「氷った炎」(部分)[2] 沖縄のことを思い出した。沖縄の歴史的な苦悩、繰り返される琉球処分の絶望的な情況から、「絶望が希望と手をつないで戻って」きた沖縄のことが思い出されたのである。沖縄の総意が新しい形を生んだ。もちろん安倍自民党政権の陰湿な加虐的対応に苦しめられるだろうが、昨年までの沖縄とはもう違うだろう。「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝は、もう来たのだ。 我が「デモびと」も明るく楽観的である。安倍政権が続いて状況は芳しくないが、「絶望が希望と手をつないで戻ってくる」朝があることを知っているのだ。一番町広瀬通り角は若者の待ち合わせ場所。(2015/1/16 18:50)青葉通りを行く。(2015/1/9 19:03)大通り(国道4号)を渡り終える(青葉通り)。(2015/1/9 19:05) たまには思いっきり違った角度から写真を撮ってみようと思い、青葉通りと大通りの地下歩道を駆けて反対側の歩道から挑戦したが、手前を繫がって走っていく車列にデモの列が隠されてしまう。車と車の間からかろうじて半数ほどのデモびとを写すことが出来た。 また走って階段を駆け下り、駆け上がり、デモに追いついた。自慢じゃないが、暮れからまたジョギングを始めて、足を鍛え直しているのである(効果はまだまったくないが)。 さて、急いで帰って、「夕暮れに目覚めてはいけない」というようなフレーズがあるものかどうか『清岡卓行全詩集』のページを繰らなければならない。 [1] 『清岡卓行全詩集』(思潮社、1985年) p. 48。[2] 同上、p. 30-1。
2015.01.16
コメント(6)

【続き】 台原から旭ヶ丘、小松島のあたりは丘陵地帯で、旧市街から見れば郊外に相当するが、比較的早くから住宅地になったせいか、丘陵の地形をそのまま利用しているようだ。ひたすら上りひたすら下るということがなくて、アップダウンが適当に現われて、歩いていて楽しい。 団地によっては、大がかりに山を削って谷を埋めることで土地の利用効率を上げているところがあるが、そんな団地は地震に弱い。ある団地に住む私の友人の家はかろうじて削った山部分に建っているが、隣は埋め立てた谷に建っているのだという。そのお隣さんは宮城県沖地震でも東日本大震災でも大被害にあったが、友人の家は何でもなかった。自然に寄りそって住むというのがいいのだ。近代の技術より昔からの知恵が勝るという典型だろう。Photo H 和菓子屋と美容室の間を。(2015/1/11 7:48)Photo I1(左) 坂を上る。(2015/1/11 7:51)Photo I2(右) ひたすら上る。(2015/1/11 7:52)Photo J1 尾根の広い道。(2015/1/11 7:54) もう少し坂の街を歩いてみることにする。小松島公園の前に和菓子屋さんと美容店があってその間の道に入った。ここも坂の道で次第に急になる上り坂だ。坂道が曲るところではちょっとだけ見晴らしが良くなったりして飽きない。 坂道を上がって5、6分でもう尾根である。尾根には広い道があった。その道を南に少し行くと、右へ大きく曲がりながら急な下り坂になっている。Photo J2(左) 下って曲って。(2015/1/11 7:55)Photo J3(右) 曲って下って。(2015/1/11 7:58) Photo J4(左) まだ下る。(2015/1/11 8:01)Photo K1(右) 横道の上に墓地が。(2015/1/11 8:04)Photo K2 墓地からの風景。(2015/1/11 8:05) 一方通行の道で通行量は多くないものの、歩道のない道はイオの動きに気を使う。年老いて右に左に活発に動くわけではないが、運転する人が私に気を取られればイオには気づきにくいだろうと思って心配になるのである。 坂道の途中で右に上る横道があって、その先に墓石らしきものが並んでいる。坂道を上ってみると確かに墓地なのだが、フェンスを介して下斜面に広がっているのもなんとなく墓地に見える。墓石は多くないが、石塔らしきものが並んでいる。 こちらの墓地とはフェンスで仕切られていて、そこには行けそうもない。展望の良い広い敷地にゆったりと配された石塔、なんとなく贅沢な墓地の印象だがよく分らない。Photo L1(左) 細い抜け道。(2015/1/11 8:08)Photo L2(右) 墓地と山門が見える。(2015/1/11 8:10) 墓地と不思議な施設から下って来て元の道に戻る。そこから左の横道に入ってみる。途中からとても狭い道を抜けると、右手にお寺さんの屋根が見えてくる。地図に載っている万寿寺である。Photo M 万寿寺の山門と本堂。(2015/1/11 8:11) 万寿寺の山門は階層構造になっていてとても立派だ。由緒書き看板によれば、この寺は伊達家四代藩主綱村公の建立になるもので、その正室仙子姫の菩提寺となっているという。奥州で最初の黄檗宗を布く専門道場であったらしい。一目見たときに寺院の風格というものを感じたのは故のないことではなかったのである。Photo N1 小松島小学校横を通る道。(2015/1/11 8:14)Photo N2 小松島小学校裏の道。(2015/1/11 8:15)Photo O 常磐台霊園の正面。(2015/1/11 8:19) 万寿寺の山門の前の道を南に歩くと小松島小学校の脇に出る。その手前を右に折れて小学校の裏(正門側だが北なので裏であろう)の道を歩く。その道は丁字路になっていた。出来るだけ出発点に近づこうと右に折れて行くと変則的な十字路に出る。 十字路の北東の一画はフェンスで仕切られた広い斜面で、斜面を上がる道は門扉で閉じられている。その門扉の前に「戦没者慰霊施設(旧陸軍墓地) 常磐台霊園 宮城県」という看板があった。先ほど小さな墓地でフェンス越しに裏から眺めた施設である。 別の看板に、犬を放して遊ばせるなとか、酒宴をするななどという注意書きがあったので日中は開放しているらしい。一度は中を歩いてみたい施設ではある。犬の同伴が許されているのは気分がいい。私は、人類と共生することで人、犬ともに生きのびてきた犬への不寛容に出会うといつも腹が立ってしまうのだ。 かつてNHKの「世界ふれあい街歩き」のギリシャ・アテネ編で、アテネの人びとの野良犬の扱いに感動したことがあった。犬が寝そべっている店先から乳母車が出るとき、通りがかりの人が手助けをして乳母車を持ち上げて店を出たのである。犬を追い立てたりしない。それが普通なのだという。 ナレーションでは、野良犬が病気になると市で動物病院に収容して、病気が治れば元の街に放すのだという。経済的危機に陥った貧乏国などと侮ってはいけないのだ。金のことしか念頭にない政治家を担いでいる国に比べれば、人類の歴史に対する洞察が深いのである。日本人であることが恥ずかしくなる瞬間だった。Photo P1(左) パーキングへ戻る道。(2015/1/11 8:20)Photo P2(右) のっそりとイオがついてくる。(2015/1/11 8:20) 常磐台霊園の前を左に折れると、パーキングのある通りに出る。北に少し歩いて今朝の散歩は終了となるのだが、先ほどからイオは一度も私の前に出なくなっている。あとからトボトボという感じで歩いている。気が付けば、もう8時をとっくに廻っていた。イオにはすこし長すぎた散歩だったかも知れない。それに上り下りが多かった。飼い主はとても楽しかったのだが…… 散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2015.01.11
コメント(8)

朝ドラ散歩のコースを探そうと思って地図を眺めていたら「瞑想の松」という文字を見つけた。名前はよく知っているが、行ったことは一度もなかった。最近、散歩コースの決め手が少なくなっていたので、「瞑想の松」とその一帯を歩いてみようと簡単に決まった。Photo A1(左) 「小松島三丁目」停留所前の道から。(2015/1/11 6:50)Photo A2(左) 左折して住宅地へ。(2015/1/11 6:51)Photo A3(左) 右手の坂を上がり。(2015/1/11 6:53)Photo A4(左) 山手にマンションの並ぶ道。(2015/1/11 6:55) 宮町通りを北に走り、JR仙山線を越え、東照宮を迂回して進むと小松島に入る。仙台市営バスの「小松島三丁目」停留所の手前にコインパーキングがあった。そこから歩き出す。 すぐに左手の住宅地の道に入る。出来るだけ短時間で瞑想の松まで行くのだ。地図を眺めながら計画したのは、一回りしてから最後に瞑想の松に辿り着くというコースだったのだが、老犬と老人の散歩に無理は禁物、行きたいところは先に行って、疲れたらさっさと止められるようにと考え直したのだった。Photo A5(左) 「天満宮」。(2015/1/11 6:56)Photo B1(右) 瞑想の松(薬科大学)への坂道。(2015/1/11 7:00) 道の右手(山手側)に「長命荘鎮座天満宮」という小さな神社があった。不思議なネーミングである。長命荘というアパートのよう名前の神様が鎮座している神社という意味かと思ったが、もちろん違うだろう。もっとも常識的に考えれば、長命荘という地に鎮座している天満宮というのがしっくりする。 階段を上がって社を見に行った。奥行きのある小さなお社の中を覗くと、集会所らしい畳敷きの一番奥に神様(よく見えなかったが、道真公だろう)が祀られている。壁際にはたくさんの本が並べられていて、集会所、ミニ図書館、そして信仰の場所という本当に小さいながら地域のコミュニティ・センターらしい趣きである。とてもほっこりした気分になった。 天満宮を過ぎると丁字路で、右手の坂道の向こうに階段が見え、方向的にはそこが瞑想の松への入口らしい。Photo B2(左) 丘の頂上に松が。(2015/1/11 7:01)Photo B3(右) 瞑想の松。(2015/1/11 7:03) 階段を登り切るとは東北薬科大学の敷地で、瞑想の松は大学敷地の中にある。少し進むと立て看板があって「犬の散歩は厳禁」という表示があった。慌てて入口まで戻ってフェンスに犬を繋いでから、丘を登り返した。 「瞑想の松」は樹齢650年を越えるクロマツで、明治の文人・高山樗牛が旧制二高在学中にこの木の下で瞑想にふけったということに由来する。叶わぬ恋を嘆いてのことだというが、「恋の嘆き」と「瞑想」というのは私にはどうもしっくりしない。私のような凡人の記憶では、恋の悩みはひたすら悶々と思い悩むだけのことで、瞑想とはほど遠いのだった。 もう今では、高山樗牛の名前が人の口の端にのぼることはほとんどなくなったが、旧制二高から東京帝大に進み、大学在学中に平家物語に取材した歴史小説「滝口入道」を新聞に連載した。後に、「滝口入道」は板東妻三郎主演で映画化された。バンツマ主演などと言ったら、これまた大昔の話のようだが、田村高広や田村正和の父親だからそんなに古いわけではない。私の親の世代である。 樗牛は一時期、旧制二高の教授だった。戦後、旧制二高は東北帝大と一緒に新制東北大学に改組されたので、いわば私の職場の大先輩に当たる。 瞑想の松の傍らに土井晩翠の立派な歌碑が建てられている。いくたびか ここに真昼の夢見たる 高山樗牛 瞑想の松 Photo B4(上) 瞑想の松からの展望(南東方向)。(2015/1/11 7:04)Photo B5(中) 瞑想の松からの展望(南西方向)。(2015/1/11 7:04)Photo B6(下) 瞑想の松からのパノラマ。(2015/1/11 7:04) 瞑想の松がある丘にはコンクリート製の展望台があって、仙台市の眺望が南に広がっている。イオを待たせているので、眺望を楽しむ気分はなくて、急いで写真を撮って駆け下りた。 地図では、東北薬科大学のキャンパスを抜けて小松島公園に抜けられそうで当てにしていたのだが、キャンパス内は犬の散歩厳禁だというので急遽予定変更である。 大学敷地に入ってきた道を南に下り、右に折れて旭ヶ丘方向に向かう。広い通りから東北高校をぐるりと回って小松島公園に行くことにしたのだ。 Photo C 旭ヶ丘と小松島の間の道路。(2015/1/11 7:24)Photo D1(左) 階段を上がって。(2015/1/11 7:25)Photo D2(右) 坂道を上る。(2015/1/11 7:25) 地図上では小松島と旭ヶ丘の境界を走る広い道を、右手に東北高校の体育館を見ながら北に歩く。東北高校は野球の名門高で、宮城県からの甲子園出場といえば、この東北高校と仙台育英学園の2校が常連である。 東北高校の敷地を過ぎたところに階段があって、そこから斜面の住宅地に上がっていく。住宅地の坂道をどんどん上っていくと5mほどの高さの剥き出しの崖があった。崖の脇には二階だけのアパートが並んでいる。ほぼ垂直に切り立った崖だが、崩壊の危険がない安定している地層なのだろうか。Photo E1(左) まもなく坂の頂上。(2015/1/11 7:30)Photo E2(右) 階段で下る道。(2015/1/11 7:31)Photo F 東照宮前へ行く道。(2015/1/11 7:36) 剥き出しの崖を迂回するように曲って急斜面をのぼりきると頂上である。その尾根を越えると道は階段で下って行く。階段道からうねうねと小さく屈曲する道を下っていくと「仙台市小松島コミュニティセンター」の前で道は左に折れ、仙台市青葉消防署小松島出張所の脇を通って東照宮前を通る広い道(歩き出した道)に出る。信号のある交差点脇には小松島交番があった。Photo G1 小松島公園。(2015/1/11 7:41)Photo G2 東北薬科大学(左)と東北高校(右)。(2015/1/11 7:45) 南に少し歩けば目当ての小松島公園である。この公園は、その敷地のほとんどを池が占めている。東北高校、薬科大学の敷地側から池をぐるりと廻ってみた。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 【続く】
2015.01.11
コメント(6)

暮れの29日、義母がインフルエンザから肺炎を併発して救急搬送されて入院した。110歳という年齢もあって、担当医から万一の場合に延命措置をするかどうか決めて欲しいと言われて、少しばかり慌てたが、悪化することもなく順調に恢復して、今日の昼前に退院してきた。 29日の朝から始めた大掃除は中断したままだ。病院に泊まり込みの妻に届ける食事を作りながら、やっつけ仕事で正月用の三段のお重をでっち上げた。一人でおせち料理を作ったのはこれで四度目である。義母は100歳を過ぎてから肺炎で二度、大腿骨骨折で一度、そして今回と合わせて四度入院しているが、すべて年をまたぐ入院だった。四度目ともなれば、徹底的に手を抜いてもお重三つぐらいにはなにか詰められるのである。 義母が退院してきたので、気兼ねなく今日の脱原発デモに参加できる。なんとなく、いつもの日常に戻ってきた気分である。暮れの29日からやり直すのはごめんだが(大掃除からやり直したくはない)、今日から新年、そしてデモ初めという気分で家を出る。寒空の錦町公園に集まり出す。(2015/1/9 18:10) 日中はとても寒くて、日が落ちたら冷え込むだろうとたっぷりと着て家を出たが、さほどの寒さではない。錦町公園へ集まってくる参加者の出足も順調である。 新年挨拶、決意表明、歌唱指導。(2015/1/9 18:15~26) 集会風景。(2015/1/9 18:20、24) 今年はじめてのスピーチは、やはり決意表明に近い形になるが、推奨本の紹介や替え歌の脱原発ソングの歌唱指導もあった。 脱原発デモは、また年を越した。毎週のデモを何年も続けることを褒めてくれる人も励ましてくれる人もたくさんいるが、じっさいはデモなんかしなくていい状況になって欲しいのだ。デモをやらざるをえない状況は、私(たち)の不幸だと思うが、こうやって集まってくる人たちの誰もが落ち込んでいないように見える。原発をめぐる悪しき状況に反発することが、逆にエネルギーの源になっているかのように見えるというのが面白い。 錦町公園は、元鍛冶丁公園や肴町公園よりずっと広いが、そのせいか、だいぶ暗く感じる。暗い公園からデモは元気に出発して定禅寺通りに出る。錦町公園の出口で。(2015/1/9 35)大通りを渡る(定禅寺通り)。(2015/1/9 18:42) 一番町に入る。(2015/1/9 18:45~46) 錦町公園は暗くて、写真を撮るのに苦労したが、定禅寺通りに出ても事情は同じで、元気に進んで行くデモにシャッター速度が追いつかない。シャッター速度優先にすれば暗過ぎてどうにもならない。 一番町に入ればだいぶ明るくなるが、いつものようではない。暮れの電飾がまったくなくなっている。人の影も少なくなっている。賑やかなアーケードの下を行く。(2015/1/9 18:54、57) 電飾がなくなっていたのは定禅寺通りと広瀬通りの間の一番町だけで、広瀬通りを過ぎると暮れより派手な感じに飾られている。暮れ近くまでアーケードの工事があったので、その遅れを取り返してでもいるのだろうか。 一番町から青葉通りに曲る。(2015/1/9 19:00~01) 先日、フェイスブックで「東北大学大学院、廃炉専門人材育成へ」というニュースを見付けた。「電気新聞」という業界紙の次のような記事である。 東北大学が東京電力福島第一原子力発電所の廃炉に向けた中核的役割を担う人材育成に乗り出す。2015年度か ら大学院生を対象とした「廃止措置工学コース」を開講。廃炉に向けた基盤研究を行いながら、廃炉について体系的に学べるカリキュラムを設ける。国際廃炉研究開発機構(IRID)とも連携。基盤研究について、定期的に助言を受けるほか、インターンシップ(就業体験)の受け入れでも協力する。今後、海外の大学 や政府機関とも連携する方針。人材育成では、年10~20人の輩出を目指す。 安倍内閣は原発推進に踏み切っているが、それ以前でも脱原発に反対する言説の一つとして、「原発関連の技術や人材が枯渇して、原発の安全が保証されない」ということを唱える向きがあった。しかし、これは工学技術の開発、発展のあり方を知らない無知に基づいている。 かつて、東大を始め主要国立大に原子力工学を専門とする学科が新設されたとき、東大では「原子力工学科」、京大や東北大などは「原子核工学科」と称していた。それが現在では学科の名前から「原子力」や「原子核」が消えつつある。東北大では「量子エネルギー工学科」と名前を変えた。理由は簡単である。学生に評判が悪いからである。卒業しても原発のお守りくらいしか仕事がない。電子工学などが次々に新しい分野を展開していることと比べたら雲泥の差である。学問に発展性がないのである。 原子力船「むつ」などはいつのまにかひっそりと姿を消した。唯一の望みは「核融合発電」だが、まだまだ実現の見通しがたたないうえに、原理的には原発よりはるかに制御が困難である(だから、なかなか実現できない)。原発が原爆と同等の原理であるように、核融合発電は水爆と同等の原理であることを考えると、未来は決して明るくないのである。原発は暴走するが核融合は暴走しない、などということは「絶対にない」のである 学生はとても正直で、原子力関連の学科志望者はどんどん減るのである。東北大ではさすがに定員割れは起きないが、人気のない学科の学生の質はどんどん落ちていくのである(と、大学で後輩だった大学院担当教授が15年以上も前にこぼしていた)。 もし、政府が脱原発に踏み切ったら、おそらくどの大学も待ってましたとばかりに原子力関連の講座をいっせいに廃炉関連の講座に切り替えるはずである。しかも、終端安全工学とかとか安全転換工学とか銘打って学科の拡大転換を図るに決まっている(私にはそんな才能はないが、ネーミングと理由付けの天才はどの大学にもいるのだ)。大学、とくに時代と共に社会的要請が変化する工学分野は、そのようにして生き残ってきたばかりではなく、拡充し、太ってもきたのである。 脱原発政策によって技術の隙間や人材不足が生じるようであれば、大学はすばやく対応するのがいつものことである。もしかすると、脱原発時代がやって来ることを想定して大学内でひそかに対応策を練っている可能性すらある。東北大の場合は、「廃止措置工学コース」が核となって新学科を大きく組織するだろうし、その準備に踏み切ったといえる。脱原発すれば技術や人材が不足するなどというのは迷妄に過ぎない。全面的な脱原発に踏み切っても、技術的、学問的、人材的な新たな問題は生じないのだ。 おそらく、他の大学でも東北大学に追随する動きが出るだろう。学問は先行するほど有利なのである。むしろ、さっさと脱原発に踏み切って各大学が遠慮なく廃炉工学に邁進すれば、ドイツに追いつき、追い越し、世界中の原発の廃炉を請け合えるようになって、二百年ぐらいはけっこうな産業になるだろう。「この道しかない」などと考えるのは、よほど頭の悪い人間としか思えないのである。大通りを渡る(青葉通り)。(2015/1/9 19:07)流れ解散風景。(2015/1/9 19:11) 一番町の一部を除けば、暗い夜の街のデモという印象だった。これも長くは続かない。これから寒さは一段と厳しくなるだろうが、日は長くなっていくのだから。
2015.01.09
コメント(12)
全13件 (13件中 1-13件目)
1