山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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小野寺秀也

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2018.08.10
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テーマ: 街歩き(676)
カテゴリ: 街歩き

 2018年8月8日午後7時36分に沖縄タイムスのニュースメールが届いた。膵臓がんで入院中の沖縄県知事の翁長雄志さんが8日午後7時までに死去したことを報じる号外の記事だった。
 7月27日に辺野古埋め立て承認を撤回するという重い政治的決断を表明してからわずか12日目の死である。その報の後、ネットには翁長知事の死を悼む言葉が溢れるように流れ出した。それぞれの追悼の言葉、哀惜する心情の一つ一つ激しく同意しながら、私は言葉がないのだった。
 死の床にありながらも最後まで自らに課した政治的闘いを放棄しなかった死は鮮烈な政治的な死を死んだのだと受け止められているが、それはまた、夫であり父でもあった人間としての全的な死を死んだということでもある。

 私は、数か月前から「体を使い切って死ぬ」ということをプチテーマにして日々の生活を見直し始めていた。しかし、67歳という私より若く苛烈な政治的死に突き進んだ翁長知事の死のニュースによって、そのような生のテーマは恥ずかしいほど不十分だと思い知らされた。
 この年になるまで、私は一度も政治を志したことはないし、ましてや政治家という生き方を積極的に忌避してきた。だから、おそらくは政治的死とは無縁のまま死ぬだろうと思うが、せめて「身体と精神を使いきって死のう」とは思うのだ。それが翁長知事ばかりではなく、多くの政治的死者たちへのせめてもの礼儀だろうと思い直したのだ。政治をけっして志さなかった私にも、政治的意志はあるのだ。






勾当台公園から一番町へ。(2018/8/10 18:39~19:13)


 家を出る前に雨が降っていて、傘を片手に出たのだが、開くことなく公園に着いた。今日は珍しく遅刻をせず、私が勾当台公園に着いてから集会が始まったのだった。

 言いにくいことだが、私が集会に遅刻するようになったのはもちろん意図的なことが始まりだった。論旨不明なスピーチと説教臭い演説がいつものことになってしまった集会をつまらないと思うようになったからである。もちろん、フリースピーチなので文句を言う筋合いではないし、大切な告知やとても良いスピーチもあるのだが、その抱き合わせで我慢できるほど私は忍耐強くもないのである。

 来週はお盆のため、金デモは休みとなる。二週間後からの金デモも遅刻しそうな気配がしている。






一番町(1)。(2018/8/10 19:13~19:19)


 かなり湿度は高いが、夕暮れになって気温が下がったので、まずまずのデモ日和(夜のデモに「日和」というのは変?)となった。
 世間は夏休みということなのか、一番町はよく賑わっている。こう書いていて、どうも私はデモで一番町を通るときは、いつも「いつもより人出が多い」と思ってしまうようだ。何度も同じことを書いている気がする。
 いずれにせよ、35人のデモは通行人が多いほど元気が出るので、一番町の賑わいはいいことには違いない。








一番町(2)。(2018/8/10 19:20~19:25)


 先日、仙台市図書館に行ったのだが、蔵書の整理期間の延長とかで臨時休館となっていて、暑いなかで街の本屋巡りとなった。その成果は、絓秀実さんの『革命的な、あまりに革命的な』という本だった。副題に「「1968年の革命」史論」とある。
 めくってみると、〈1968年〉は世界革命だとするウォーラースティンが引用されていたり、日本の〈1968年〉を単なる挫折と評する史観は正しくないという趣旨のことなどが書いてあった。
 私は、若いときのことを思い出すということにあまり気が向かないのだが、福島泰樹の短歌評のなかに吉本隆明が次のような文章を記していたことがずっと気になっていた。

​​
戦後はブルジョア的にもプロレタリア的にも錯誤されてきた。また現代的にも反現代的にも錯誤されてきた。わたしたちは切断すべきものに執着し、貌を背けるべきものに貌を向けることで、無限の喪失を唱いつづけたのである  [1]

​戦後において現実の権力と深層の権力とを二重に透視できない闘争はすべて無効であったし、いまも無効であることは論ずるまでもないことだ。​  [2]​​

 この大きな括りに異論はまったくないのだが、その実相の細部まではとても思い及ばない。吉本隆明の言葉はずっと以前に読んだものだが、『革命的な、あまりに革命的な』を手にしたときに思い出して、60年安保はまだ幼かったが、若い私が生きた〈1968年〉前後を思い出し、考えてみるのは悪くないと思ったのだ。

 『革命的な、あまりに革命的な』を手にしてから10日余り、翁長知事の死去のニュースがあり、「身体と精神を使い切って死ぬ」というテーマに思い至ったとき、この本を通じて若いときの私の精神のありようを確認しつつ、使い切るべき老いの精神というものが見えてはこないかと期待もしたのである。




青葉通り。(2018/8/10 19:26~19:29)

 この数か月、「体を使い切って死ぬ」というテーマに沿って暮らしてきたので、使い切るべき身体の整備は順調である。写真を撮るためにデモの前後を走り回っても疲れるということはなくなった。少しだけ結果が出ている気がする。

 さて、それでは「精神を使い切る」ためにはどうするか、それはこれからだ。さしあたって、デモを終え、家に帰り、『革命的な、あまりに革命的な』の続きを読むことにする。

 脱原発デモに参加したという内容のブログ記事なので、いつも原発関連の話題を書くことにしていたのだが、翁長知事の死去のニュースですべて飛んでしまった。




[2] 同上、p.175

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小野寺秀也のホームページ
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Last updated  2018.08.12 16:36:50
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