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『スウェーデン国立美術館 素描コレクション展』に妻と出かけた。退職してから10年ほど、かなりの頻度でいろんな美術館に行き、私なりに熱心に絵を見ていた時期があった。登山の相棒犬が亡くなったあたりから私の行動は次第に不活発になり、地域のいろんな役を引き受けた忙しさを理由にさらに不活発になり、登山、、魚釣り、街歩きなどの趣味の激減、読書量の半減の日々が続いた。昨年の4月に決意して始まった終活の中には美術展に行くことも含まれていたが、新しく始まったカメラ修行という趣味や長引きそうな病気にじっくりつき合うという終活も突然加わってけっこう忙しくしていた。終活開始後の初めての美術展である。 妻を国立西洋美術館に誘ったのはちょっとした別の思惑もあった。夜明け、夕景、山や街の風景、花、鳥などを私のカメラは対象にしているのだが、人は含まれていない。もちろん、家族や旅先での記念写真のような人を写した写真はあるけれども、いわゆるポートレートと呼べるような写真を撮ったことがない。それで、ポートレート写真の手始めは妻をモデルにしようと企んだのである。美術館と上野恩賜公園での「79歳のモデル」も悪くない。そんなこと企んだ。美術展とカメラ、良い終活になるだろう(という予感)。 7時に家を出て、10時30分ころに国立西洋美術館に入った。妻の障害者手帳を見せると付き添いの私も美術館はすべてフリーパスである。今回は車椅子を借りた。妻はそれを歩行器がわりに押しながら絵を見て歩くのである。車椅子を私が押してもいいのだが、それでは視線が低くなって絵がよく見えないので嫌だという。たしかに美術展の絵は成人の目の高さに展示されていることが多い。 画家の個展の場合、その画家の素描も展示されることがあって、抽象画家の若い頃の素描の描写力に驚くことがある(優れた抽象画が優れた描写力をベースにしているというのは当然なのだが)。ただし、今回の素描が「ルネサンスからバロックまで」と副題にあるように抽象画家の素描は望むべくもない。 私には、素描の中でも手や腕のような人間の体の部分の絵が好きである。今、思い出せるのはアンドリュー・ワイエスが草原に座る女性像のために描いた手や背中の素描ぐらいしかないが、展示室ではそんな絵を眼で追ったが、一点しか展示されていなかった。多くは、大作のための全体構成のスケッチだったり、その一部の人間像の素描だった。中には、素描らしからぬ彩色された絵もそれなりにあった。 すごく良い絵だと感動したのは、「下から見た若い男性の頭部」という素描画である。ハンス・ハルドゥング・グリーンという始めて知った画家が1545年に描いた作品である。下絵とか習作としての素描ではなく、もうこれで完成された作品でいいのではないかと思うほどである。素描の良さは、観る者の想像力をかき立てる力が大きいことだと思う。これに彩色し、人間の顔として写実性を高めていくにつれて観る者の想像力は少しずつ削がれていくのではないかと思う。完成された顔の写実性に打たれるということはまた別の鑑賞の話である。 「眠る犬」(コルネルス・フィッセル、1658年)という小さな絵があって、評価が高いらしく、ミュージアムショップではこの絵をあしらった商品が何種類も並べられていた。私が図録と一緒に買った小さなノートの表紙もこの絵だった。ショップでは妻は必ずと言っていいほど一筆箋を探すのだが、この犬の絵の一筆箋しかなかった。いらないと頑張っていたが、ショップを出る直前に買う決心をしたらしい。この絵を見ると「ホシ」が死んだ時の事を思い出して嫌だったのだと言う。「ホシ」というのは27年前に亡くなった飼犬で、私が仕事でブラジルに行った翌日に危篤になって、動物病院に連れて行き、遺骸を引き取り、火葬にするという一切を妻が一人でやったのだ。「眠る犬」は病院で死んで戻ってきたホシの姿を思い出させるのだと言うのである。 二人ともシュンとして美術館をあとにしたが、上野公園の数か所でポートレート写真を撮った。初めてのことなので出来、不出来を語れるレベルではないが、少なくとも次のときはこうすればよいと分かったことがいくつかあった。いつか「79歳が撮った79歳のモデルのポートレート」が人に見せられるレベルになることがあるかもしれない、という気分にだけはなった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして
2025.07.27
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昨日は豪雨に悩まされたが、それでも順調に観光をこなすことができた。もっとも、初日の「山口集落」に行くことを除けば、何も決めていなかったと言っていい程度の計画である。まずは、市の中心部から遠いところから行きたい場所を決め、あとはそのつど観光スポットを見つけて動き回るというパターンである。とはいえ、今日はまず倒木に遮られて行くことのできなかった「五百羅漢」へ行くことは昨日の段階で決まっていた。 宝暦5(1755)年から翌年にかけて東北地方から北関東まで冷害による大飢饉が発生し、遠野領内だけでも二千数百人の餓死者が出たという。そうした凶作、不作による餓死者を悼んで500もの自然石に羅漢像が彫られたのだという。写真で見ると浅い谷あいにたくさんの石が苔むしているようにしか見えないのだが、無数の死者を500もの羅漢像で鎮魂しようとする人間の意志や情の篤さを考えれば見に行くしか選択肢はないのだった。 昨日立ち寄った「卯子酉神社」前を過ぎてすぐ案内板に従って山道に入る。狭い山道(と言ってもきちんと舗装されている)がうねうねと曲がりくねった坂を登って行く。2ヵ所ほどの分岐も間違えることなく「五百羅漢」の看板にたどり着いた。十分な駐車スペースには四阿もある。道の山側の杉林の浅い谷間に自然石がゴロゴロしていて、小さな沢に掛けられた木橋を通って行くのである。 初めはどれも苔むした石にしか見えなかったが、慣れてくると次々と羅漢を見つけることができた。どれも線彫りの素朴なもので、苔の中からお顔を見せているのだった。どれだけの羅漢様を見つけることができるのかと気分が上がったが、妻が下の道で待っているので早めに切り上げた。 これで遠野観光は十分という気持ちだったが、時間が有り余っている。せめて昼までは観光に充てることにした。遠野市街に近い一本の道沿いに観光スポットが並んでいるモデルコースがあったので、そこを回ることにした。 最初の「清心尼公の碑」は坂道を徒歩で登らなければならないためパスした(清心尼公は遠野南部家21代の女性の殿様だったという)。そこからすぐに河童伝説の太郎淵がある。駐車場もトイレもある観光スポットである。太郎淵は川の流れが変わって今では池になっているが、淵らしい面影は十分である。淵を囲む樹々を抜けると田んぼの向こうに半分雲に隠れた六角牛山が見える。池の水が流れだす付近の木の間からは田んぼが広がる農村の風景が広がっている。 小旅行先を遠野にと考えた最初の動機は、典型的な東北の農村の風景が残っていて、その写真を撮ることができるのでないかということだった。つまり、河童淵の木々の間から覗いたような風景を期待したのだが、車で走り回る観光ではなかなか難しいのだった。 案内看板を見落としたり、案内看板に従ったつもりなのに辿りつけなかったりして3ヵ所のスポットをパスする形で次に行ったのは「元八幡宮境内地および夫婦杉桜」である。八幡宮が新しい地に遷された後に、鳥居と杉と桜が根本で融合した夫婦杉桜が残されている。二本の杉が根元で融合した夫婦杉はよく見ることがあるが、杉と桜というのは初めてである。落葉広葉樹と針葉樹という異種どうしでも融合するのかと思ったが、これは融合ではなくて物理的に押し合ってくっついているだけなのである。 コースの道の脇にある「飢饉の碑」も宝暦の大飢饉の餓死者の供養碑で宝暦7年に建てられたという。南部曲り家では家のなかに馬小屋をつくっていたように、大事に育てていた馬も人間の餓死者と同じくらいあったという。 他の観音には行っていないが「松崎観音」は遠野七観音の一つだという。石段を上がらなければならなかったが、手すりを伝って妻も行くことができた。木造の観音菩薩立像が本尊だというので妻と二人で暗いお堂の中を一生懸命覗いてみたのだが見ることは叶わなかった。もう一度案内看板を読むと、年に一度の例祭で開帳されるのだと書いてある。最後の観光スポットは「母也明神と巫女像」である。『遠野物語拾遺』第28話のその由来が語られている。娘婿を疎ましく思った巫女が生贄として殺してしまおうとしたが娘も一緒に堰に沈んで死んでしまい、それを哀しんで後を追って入水した巫女を祀ったものだという。この母也明神も山の中腹にあり、そこへ行く細い道を見つけるのに苦労した。とても妻が歩ける道ではないので、一人で登り、写真を撮って帰ってきた。下で案内看板に寄りかかって妻が待っていたが、その看板に「母也」はボナリと読むこと、小さな金属製の碑には「ボナリ・オナリは巫女を意味する古代語と推定されている」と書いてあった。 これで遠野観光は終わった。ほんとうに典型的な観光旅行だった。遠野郷の景色を撮りたいという希望はあったが、どんな景色が撮れるのか確信がなかった。とにかく全体を大雑把にでも掴みたい、そのために車で広く回りたいと考えて車を最大限利用した遠野の観光旅行ということになった。つまり、ひそかに2回目の遠野はありうると考えているのである。 最後の母也明神から遠野IC近くの道の駅に行き、昼食をとり、お土産や地産の野菜など購入して高速に乗ろうとしたが遠野ICと宮森IC間は復旧工事のため不通となっていた。昨日の豪雨の影響かもしれない。初日にめがね橋(宮森橋梁)を見に行った道を通って宮森ICから釜石道に乗り、あとは東北道を仙台宮城ICまでひたすら運転である。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして
2025.07.11
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目が覚めた5時ころには天気予報通り小雨が降っていたが、朝食を食べるころにはもう止んでいて、予定通り行動することにした。午前中は車でしか行けない所をスポット毎に訪ね歩き、昼頃にホテルに引き上げて、午後からは徒歩で街に出て、適当なところで昼食をとり、あとはと徒歩向けのモデルコースを参考にしてのんびりと街歩きである。幸いなことに、今日の気温は23℃くらいという涼しい日になるという予報である。 今日の一番目は、妻も私も「五百羅漢」と決めていたのだが、常用のナビではうまくルートが見つからず、もう一つのナビでなんとか10分ほどで行けるという近い道を見つけた。ホテルは「鍋倉城跡」のある山の麓にあって、そこから城山の斜面を抜ける細道である。この道を利用して五百羅漢と「鍋倉城跡」の2か所を目指すのである。9時少し前にホテルを出て裏山の道に入って登って行くと倒木が道を塞いでいる。動かしてみても私に力ではピクリともしない。どこに連絡してよいのか見当がつかないので、ホテルのフロントに電話して状況を伝え、しかるべきところに連絡を頼んだ。 五百羅漢へ行くことは諦めて、次のスポット「卯子酉(うねとり)神社」へ向かった。駐車場は広く公衆トイレもある小さな神社である、参道は民家に隣接していて、団体の観光客などではだいぶ迷惑をかけるだろうなと思えるほどである(観光客は私たち二人だけだったが)。縁結びの神様で、赤い布に願い事を書いて祀るのだそうである。 次は、田んぼの中に小さな社、「荒神神社」である。田んぼの中のほんとうに小さい茅葺屋根の神社で、「日本の原風景、また遠野を代表する風景」と形容されている。遠く西の方では権力者たちが壮大な神殿を建て一族の栄華(と権力の維持)を祈願したことを思えば、貧しい農民の祈りがこの小さな社を通じてなされる切なさ、愛おしさに打たれる。 荒神神社に「六角牛(ろっこうし)神社」の案内があったのでそこに向かった。ホテルを出てからここまでときどきパラパラと降り出すのだが、なぜか目指すスポットに着くと雨がやんで観光は順調に進む。道は六角牛山の方に向かい、道々雨が降っていたが、細い山道で六角牛神社についたときにはもう降っていない。信仰心を持たない私にも、もしかしたらそれぞれの神社の加護ではないかと思えるほどの塩梅である。 卯子酉神社や荒神神社と違い、六角牛神社の境内は広く、立派な社務所もあったが人はいないようであった。ここに着いて気づいたのだが、遠野の神社仏閣の周囲の木々は長寿の大きな木が多いのだった。車で走りながら見ていても、民家のまわりの木々も道端に固まった数本の樹木もみんな大きく立派なのだった。家々は建替えられていてもそのような部分はずっと残されているような雰囲気がある。だいたい、とても小さな神社が「遠野遺産」としてたくさん残されていることが貴重だ(私の生まれ育った農村にもいくつか小さな祠があったが今はもうない)。 伝説の六角牛山を祀る神社を見た後は、もう一つの山、石上山を祀る「石上神社」である。少し距離があるが、これで正午ごろにはホテルに戻れるという算段だ。道を荒神神社まで戻り、それを過ぎて小さな山を越えたあたりからまた雨が降り出した。その雨は次第に強くなり、土砂降りになった。車の運転を始めて以来こんな土砂降りは初めてと思えるほどの降りで、前方も後方も見通しが効かなくなった。すべてのライトはもちろん、ハザードランプも点灯してそろそろと走っていたが、5、6m先も見えなくなったので道路わきに空き地に止めて様子見をした。 少し待てば弱まるだろうとは思ったが、この豪雨ではどこか道路まで水が上がって通行不能になる恐れがある、遠野は盆地のうえに地理不案内でどこが危険(安全)なのか全く見当がつかない。じっと待っているのも安全とは言えない、ということに気づいた。少しばかり雨脚が弱まったような気がしたので、計画を変更して、ホテルに戻って様子を見ることにした。 雨は少しずつ弱まってきてもうすぐホテルというあたりですっかり上がってしまった。正午までには40分ほどあるものの私はすっかりやる気が失せていてホテルに戻りたかったが、妻は「折角なのにもったいないね」と主張するのである。そこで再び計画を変更して石上神社に向かった(運転させている者とさせられている者の身分差が厳しい)。 道は朝一番に行った卯子酉神社横を通るのだが、少し神社を過ぎたところに「五百羅漢」への立派な案内看板が立っていた。この道を利用して明日朝一番に行こうと妻と話して、石上神社に急ぐ。西に向かう道は次第に人家がまばらな道に入って行き、ナビが「目的地に到着しました」というのだが、案内看板もなければそれらしきものも見えない。杉林の斜面を見上げていた妻が「何か見えるよ」というので、けもの道のような斜面の細道を濡れた草をかき分けながら登ってみると石上神社の境内に出た。参道は私たちが着いた道の反対側に伸びていて、裏参道は少し遠回りで車の道まで続いていた。裏参道を戻り、カメラを持ってもう一度斜面を登った(妻は車の中)。こうして、五百羅漢には行けなかったが、何とか午前中の計画は終わった。気がつけば、神社ばかりを見て歩いたのである。 ホテルでベッドにひっくり返って大休憩、まったくの高齢老人の旅である。雨はすっかり上がり、青空をのぞかせ始めている空がホテルの窓から見える。午後1時半ごろホテルを出た。ホテルからまっすぐ遠野駅まで伸びる道の二つ目の信号の左手に大きな蕎麦屋があってそこで昼食をとった。 蕎麦屋の道向かいに白壁の蔵造りの建物が並んでいる。「蔵の道」と名付けられた通り(車は通れない)を抜けて行くと、すぐに遠野駅に出る。途中に神社があるはずだったが見つけられなかった。駅前には大きな観光案内所があり、それも白壁づくりなのだった。おまけに火の見やぐらまで再現してある。 そこから北の方をぐるっと大回りして、来内川という小さな橋に架かる「柳玄寺橋」(『遠野物語拾遺』第137話)と「新橋」(同、第229話)を見に行く。柳玄寺橋は木造の小さな橋で、西詰のお寺が柳玄寺である。新橋は、今ではどこにでもあるような橋で、その近くの木造の橋の方に目が引かれた。 その辺りで、もう見たいものが見つからなくなったので、どこかでコーヒーでも飲もうとさっきの蔵の道まで戻って探したが、店があっても閉まっていたりして見つけられないままホテルに戻ってロビーでコーヒーを飲んだ(少し飲んで残りは部屋でゆっくり飲んだ)。その後は、疲れてもいないのに大休憩という昼寝タイムになった。 今日の7時予約の夕食を30分遅らせてもらうことになっているので、少し多くの夕景を撮れそうである。私は6時10分ごろにホテルを出て街を歩き回り、妻は7時10分ごろに出てレストランへの道の途上で落ち合うことにした。夕景の写真はそれなりに取ることができた。とくに橋を自転車で渡る中学生を影絵のように撮ることができたこと、寺の山門越しの夕空を撮れたことは私にとっては上出来だった。 それなりに写真が撮れて満足したのだが、それ以上に満足したのは夕食だった。高齢なので量は少なめにとお願いしていたイタリアン(と私は思ったがフレンチかもしれない)のフルコースがどれもおいしくて夢中になって食べた。妻が娘に送る料理の写真を撮るように命じられているのだが、カメラより先に出てきた料理に手が出てしまう。オーナーシェフが選んでくれたシャルドネの白もおいしくて、こちらは飲みすぎないようにセーブするのが大変だった。 昨日の夕食は、家庭料理と銘打った和食でこれも素晴らしくおいしかった。とくに珍しい食材ではないもののどれも新鮮で優しく料理されている感じがするものばかりだった。主夫としてはぜひとも真似をしたい料理ばかりだったが、その到達地点は絶望的に遠く思えるのだった。 昨日の店も今日の店も小さな店だったが、客は私たちだけだった。予約した私たち(だけ)のために準備してくれていたのかという思いが、ホテルまでの帰り道でじわっときた。 それにしても遠野は観光地だと思っていたのだが、観光客が少ない。これまで観光スポットで出会ったのは、遠野ふるさと村の高校生の団体(私たちと入れ替わりだったので、実質的には広大な施設に私たち二人だけ)と山口集落の水車小屋に車で来た夫婦らしい二人連れだけだった。夏の暑い時期、しかも梅雨時に観光旅行する愚か者は少ないということかもしれないが、遠野物語などに観光気分を誘発される世代は私たちぐらいで終わっているのかもしれない。ましてや、いまやどこの観光地にもあふれかえっている外国人にはさすがに遠野物語がどうのということはないだろう。静かな旅になって私たちにはとてもいいのだが、遠野のことが少しばかり心配になるのだった。いつかまた来てみたい、またおいしい夕食を食べたいと心秘かに考え、妻に打診する時期のことまで考える日となった。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして
2025.07.10
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遠野に行こうと思い立って計画していたのだが、一ヶ月以上も遅れて実現した。6月に計画して2泊のホテル予約までしていたのだが、その日時が近づくにつれ天気予報がどんどん悪化していき、3日間とも雨という予報に変わった。4月の坂田、5月の弘前とも雨の合い間を縫うような旅だったので、今回は晴れの日に行きたいということでホテルをキャンセルして、7月に再チャレンジということになった(梅雨時なのに高望みしている、ということ)。 旅行中の3日も晴天というのは高齢旅行者には熱中症の危険が増すわけで、、今回はなるべく歩く時間を少なくして観光スポットをひたすら車で訪ね歩くという計画にした。さいわい、遠野市観光協会が車、自転車、徒歩などのモデルコースをそれぞれいくつか作ってくれているのでそれを大いに参考にした。 3日ともずっと晴天という予報が、前日には2日目の朝に少し雨が降るという予報に変わったが、問題ないということで出発した。東北自動車道から花巻ジャンクションで釜石自動車道に入り、遠野ICで降りたのは10時前だった。インターを出たところに「道の駅 遠野風の丘」があった。トイレ休憩をかねて地元産品などを探索(だけ)して、道の駅のすぐ北にある高清水山の展望台に向かう。これから歩く地域が一望できればいいということと、早池峰山、六角牛(ろっこうし)山、石上山、白身山など遠野物語の伝説の山の写真を撮りたいと思ったのだが、展望は南にだけ開けていて、遠野市街の向こうに見えるはずの六角牛山も雲の切れ目からその山稜の一部を見せているだけだった。 高清水展望台の山道から農道に出ると道端に古い墓石をびっしりと並べている場所があって、傍に二つの石碑が立っていた。車を木陰に止めて、石碑の写真を撮った。「路傍に石塔の多きこと諸国其比を知らず」(『遠野物語』新潮文庫 p. 7)とあるように、たぶん石碑、石塔を撮り出すときりがなくなる懼れがあるとは思ったが、成り行き次第にまかせることにした。 次に行ったのは、遠野市街とは反対方向にある「道の駅 みやもり」で、この道の駅に隣接しているJR釜石線宮守川橋梁(めがね橋)の写真を撮りたかったのである(観光モデルコースには含まれていない)。ついでに、ここの道の駅で早昼にして、午後の観光に入ることにした。 午後一番に行ったのは、この旅行で絶対に欠かせないとおもっていた「山口集落」である。『遠野物語』は柳田國男の著作ということになっているが、この山口集落の佐々木喜善という人から聞いて書き上げたものである。そういうこともあって、「ダンノハナ」、「デンデラノ」という伝説の地名に因む場所を見ることができるのである。観光施設はない。 「山口集落」に入る追分に「火石の石碑群」があって、追分の碑、庚申塔、馬頭観音の碑などがある。有名な「オシラサマ」に関連する新出来の石碑もあった。「山口集落」ではモデルコース通りにまず集落の一番奥にある「水車小屋」に行く。茅葺の水車小屋の頂には草が生え、背後の田んぼの向こうには農家の家が何軒か見える。この配置、この距離感は昔から変わっていないだろう、そう思える。次は「薬師堂」だが、古びた木製の鳥居だけを写した。参道は田んぼの奥の山道に続いていて、私はさておき妻に無理強いはできないと判断した。 「佐々木家」の曲り家は道(というより車の中)から眺めるだけにした(人が住んでいるので)。つぎに「デンデラノ」へ行ったが、何の変哲もない野草が生えしげる小さな野原で、奥に藁づくりの小さな小屋があった。「山口、飯豊(中略)に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して蓮台野(デンデラノ)と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此蓮台野へ追ひ遣るの習ありき。」(同上 p. 76)とある。藁づくりの小屋は、姥捨ての身の老人たちが暮らした小屋を模したものだろう。やや高台にあるデンデラノからは集落の家々が見えるのが異様なリアリティを感じさせる。 デンデラノを記述する遠野物語第111話には続きがある。デンデラノに追いやられた老人たちは生きていくため日中は里へ下りて農作業を手伝うことで糊口をしのいだ。それでこうした地区では、朝に農作業に出ることを「ハカダチ」、夕べに帰ることを「ハカアガリ」というそうである。デンデラノは墓と同じ、追いやられた老人たちは死すべきもの、もはや死者と同じと考えられていたのであり、しかし、生きている間は里に下りて働くことで口をしのいでいたという言い伝えのリアリティに戦慄を覚えるほどである。こういう話を柳田國男はいかなる主情を交えることなく書き切っており、それがかえって読み手(私)のイメージを強く揺さぶるのである。 デンデラノの山向かいにある「ダンノハナ」は今でも集落の墓所らしいので行かないことにした。山の上ということもあったが、現に生きている人の墓というのはその家族のプライベートな場所というイメージが私には強く、特段の理由がなければ観光の具にはしたくないという気持ちがある。というわけで、モデルコースには入っていない「田尻の石碑群」を見て「山口集落」観光は終わった。 ホテルのチェックインには少し早いので「遠野ふるさと村」に向かった。さっき「佐々木家」の曲り家風の住宅を車から眺めただけでは「南部曲り家」を見たとは言えない。遠野ふるさと村は、何軒か南部曲り家で集落を構成している施設で、敷地が広いうえに気温が高くなっていたが、妻は受付で麦わら帽子を借りて頑張って歩くと言う。 ゆるい坂道で一番近い曲り家に入る。家の管理をしているらしい人がいていろいろ教えてもらい。家の中も見せてもらった。家の中の馬小屋があるという曲り家の特徴を除いて、人が暮らす部屋は私が生まれ育った東北の農村の家とさほどの違いがあるわけではないが、ひたすら懐かしい感じがした。私が育った家は、農村とはいえ町屋風の借家で、懐かしいのはいっしょに遊んだ友達の家々なのである。 二軒先の曲り家にはポニーが飼われていると聞いて、妻が是非にと言うのでそこまで行った。ポニーは曲り家の馬小屋ではなく隣接する牧場の向こう隅でせっせと草を食んでいた。それを見て、曲り家見物を終わりとして、ホテルまでの道の途中にある「福泉寺」に寄ってみた。 福泉寺に安置されている高さ17mの木彫としては日本最大の観音像を見たいと、これも妻の強い希望だった。さいわい、山麓の受付で入館料を払うとそのまま中腹の本堂まで車で上がることができた。撮影禁止の観音様は驚くほど大きくてやや面長のお顔を見入ってしまった。この観音像はこの寺の2代目住職が12年かけて彫り上げた、という説明文があった。感動した妻が目の前の賽銭箱を指さしたのでなにがしかのお金を投入した。クリスチャンの妻と無信心者の私は宗教心から「お賽銭」を上げるということはしないが、良いものを見せていただいたお礼はしたいのである。本堂の入り口にいたお坊さんにお礼を言って第1日目の観光は終わりである。 夕食の予約の午後7時前の1時間くらいを遠野市街の夕景の写真撮影に充てるというのは、この旅行の大切なスケジュールである。ところがホテルの窓にはいっこうに夕暮れの気配が見えてこない。日の入りは7時ちょうどくらいで盆地の遠野では夕暮れはそこそこ早いとだろうと見ていたが、暮色が見え始めたのは6時20分ころだった。ゆっくりとホテルを出て道々写真を撮ったが、やはりちょっと早すぎた。明日の夕食の予約を7時から7時半に変更することに決めた。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬、そして
2025.07.09
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