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ここまで、ちょっと堅い文章が続いたが、けっこう高度に学問的な内容なので、そうそうガセネタを書くわけにも行かず、専門書を真面目に読んで要約した結果です。・・・緊張感が伝わりました?さて、運動による「正攻法」ウェイトトレーニングのまとめに入るが、皆さんも僕も何といっても気になるのは、日常生活時や運動時における、糖質と脂質の代謝比であろう。憎っくき脂肪が、どういう条件でどのぐらいの割合で燃えるのか、ということであるが、これは研究者によって多少のバラツキはあるが、おおよその最大公約数的な数値は出ている(上の図表)。 このグラフは、http://sugar.lin.go.jp/japan/view/jv_0508a.htmからの無断引用なので、著作権法違反に当たる可能性がある。が、まさか、いきなり逮捕もされないだろうが、警告なりを受けた場合は、即座に謝罪の上削除しますので、ご了承下さい。なお、このウェブサイト、運動と代謝の要点が非常に良く書かれていて、これまで僕が書いてきたことの意味がなかった?かも知んない(笑)。この図は運動の強度と、糖質・脂質の代謝の割合を示したものである。時系列的な分析は入っていない。左側縦軸のRは、呼吸交換比(レシオ)のRで、測定時の専門的概念なので、無視していい。重要なのは右側縦軸の%で、上にいけばいくほど糖質(炭水化物)の燃焼が多くなり、脂肪の燃焼が少なくなる。つまり、運動の強度が強い(速く走る、泳ぐなど)ほど、燃料として使われる脂肪の率は減り、糖質(炭水化物から食物繊維を除いた部分)に依存する度合いが強まる。特に運動強度60%付近に、「無酸素性作業閾値」という限界点があり、それを超えると無酸素運動になり、脂肪の燃焼は急激に減る。体感的には、「かなりきつい」と感じられ、呼吸が苦しくなるレベルである。ラグビーなどでも、大体の動作は有酸素性なのだが、ゴールに向かって全力疾走する時などは無酸素性になって、見ている方まで息苦しい思いをする。40%~50%の、楽に呼吸ができて楽な、あるいは「やや楽な(それほどきつくない)」比較的弱い運動を長く続けることが、ダイエットの秘訣である。ただ、あまり弱すぎても消費エネルギー総量が少なくなり、効果が薄くなる。スポーツ医学の進展で、一昔前のトレーニング理論がひっくり返っている例が多いが、持続的運動の長距離走の上級アマチュアレベルでは、LSDという、いかにもアメリカ人が好みそうなやや柄の悪い語呂合せのトレーニングが重視されている。もちろんこれは、薬物のLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)の方ではなく、Long, slow & distant(長く、ゆっくり、長距離の)トレーニングをいう。むろん、世界レベルともなると、さらにそれを突き抜けた(スパートの際などの)スピードが要求されるのだが、それは我々には関係ない。僕自身の目安でいうと、ジョギングで時速8~9kmぐらいか。水泳で50mを1分ちょうどぐらい。世界記録の半分弱ってところが、普段のトレーニングでの適度な強度と感じられる。・・・もっとも、普段運動していない人、またしばらく運動していない僕自身にとっても、これでも結構きついとは思うけれども。この時、おおよそ1時間につき350kcal前後が消費されるといわれているので、やや多めに200kcalが脂肪の燃焼として、皮下脂肪・内臓脂肪は1g当たり7calなので、30g弱ぐらいが燃焼する。たったそれっぽっち?という人も多いだろうが、バターやラードの30g分というと、なかなかの量である。これが確実に雲散霧消するのだから、大したものである。しかも運動の効果は、こうした直接のエネルギーの消費に留まらず、筋肉量が増えることで、普段の生活での基礎代謝量が増えることが挙げられ、最近ではむしろこちらの方が注目されていることは、ご存知だろう。運動嫌いの人は多いだろう。学校を卒業した後まで苦しい思いをしたくないという人の方が、社会のマジョリティだと思われる。僕は相当な運動マニアであり、マイノリティに属する。特に持続的な運動、トライアスロン3種目には目がない。運動嫌いの人から見れば気が知れないだろうが、その僕から見ても、例えばヒマラヤの高峰に登るとかキリマンジャロだとか、登山をする人の気は知れない。蓼食う虫も好き好きだ。いずれにせよ、今は子育てに追われ、全く出来ない日々が続いている。しかしまあ、以上のように、運動それ自体の減量(脂肪燃焼)効果はそれほど顕著ではなく、食餌療法(ダイエット)を考えるべきは当然といえる。
2006.04.07
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一聴して、沁みた。小田急線の電車から見る桜にあなたを思い出す、という歌詞は、電車から見るだけになった、揺れる柳の道にあなたを思い出すという、荒井由実の歴史的名曲「卒業写真」に似てるな、なんて思っていたら、なんと彼らのメジャーデビューのアルバムに、その「卒業写真」のカヴァーも収録されているのだった。十分に確信犯であり、今この時の「卒業写真」を生み出そうとする意気込みが感じられる。歌詞もメロディーもアレンジもなかなか洗練されていて、インディーズ(セミプロ)シーンではすでに3枚ものアルバムを出しているという実力のほどがうかがえる。大型新人ユニットの登場といえよう。ユニット名「いきものがかり」も実にいいセンスだ。僕なんか思わず、イエスの名盤「こわれもの」を連想してしまった。同級生のメンバー二人がピカピカの小学校1年生だった時の学級委員「生き物係」に由来するらしいが、こうしてグループ名として呈出されると、けっこう深い寓意性を伴って聞こえるから不思議なものだ。微妙にしろうとっぽいが力強い歌唱が、ニャンともキュートで、胸キュンな一曲である。全然関係ないが、日産の軽自動車モコの新型は大ヒットらしい。なるほど、「愛したいほどスタイリッシュ」である。今注文して、納車は7月だという。景気のいい話ではある。
2006.04.02
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III)有酸素運動(エアロビック・エクササイズ)乳酸系の過程で生ずるピルビン酸が二酸化炭素(CO2)と水に酸化分解される過程(TCAサイクル)で得られるエネルギーを利用するのが、有酸素(好気性)過程である。また、代謝産物(残りかす)は二酸化炭素と水だけのクリーンエネルギーである。我々の日常生活の動作のほとんどはこれによってまかなわれている。持続的運動の際の代謝メカニズムであり、きわめて長く続けることが出来る。典型であるマラソン競技の場合、この過程が99%を占める。その他、自転車(ロードレース)、遠泳、トライアスロン、サッカー・ラグビーで走っている状態(瞬発的なシュートなどは無酸素運動)やテニスのラリーの部分などもこれに当たる。ただ、大量の酸素を必要とするので、立ちあがりが遅く、緊急事態には間に合わない。僕のパソコンのようなものである。ヒトは、走る動物ではなく歩く動物である、という言い方もある通り、人体は比較的ゆるやかで持続的な有酸素運動に適応している。ネコ科の動物と比べると分かりやすい。ネコ類は、例外なく普段は「まったり」、ゴロニャンしていて、カッタルそうにしている。歩くのさえ大儀そうである。だが、ネズミ、またはネコじゃらし、さらにネコまっしぐらのカリカリ餌を見つけると、猛然とダッシュして飛びかかる。時速100kmに達するというチータを始め、ライオン、虎、そしてイエネコと、その祖先といわれるリビアヤマネコ→アビシニアン、いずれも習性はおおむね似ている。特に、NHKの動物ドキュメンタリーで見たアメリカ大陸・ロッキー山脈のプーマ(ピューマ、現地では「マウンテン・キャット」と呼ぶらしい)に至っては、体こそ大きいが、細かい仕草、鳴き声、母子の情愛までイエネコとそっくりで、驚くと同時に大好きになった。これらネコ科動物は、典型的に瞬発性の、激しい(しばしば闘争的な)無酸素運動に適応している。これらに対応して、性質が異なる筋肉があることは、最近ではご存知の方も多いだろう。I型筋線維は、遅筋線維 Low-twitch fibers(LT)ともいわれ、攣縮(れんしゅく)は遅く、大きな力は出せないが、疲れにくい。酸化に関与するミオグロビンとシトクロムという物質が多く、酸素摂取に関わる細胞内の小器官ミトコンドリアの数が多い。一見して赤い色をしており、赤筋・マグロ筋とも呼ばれる。マグロの赤身がまさにそれである。有酸素運動に適しており、広大な海洋を回遊し続けるマグロの生態に相応しい。また高い酸化能力(TCA回路、脂肪酸の酸化・消費)を有し、有酸素過程で出力を出す。また比較的高い中性脂肪の含量を持つ。「中トロ」がそれである。II型筋線維は、速筋繊維 Fast-twitch fibers(FT)と呼ばれ、攣縮は速く、瞬間的に大きな力が出せるが、疲れやすい。酸化系回路・酵素の活性は低く、ミトコンドリアの数もほんの僅かしかない。燃料は内在性のグリコーゲンの解糖により行われ、ATP-CP系と乳酸系で出力を出す。脂肪は使われない。一見して白いので、白筋、またヒラメ筋と呼ばれる。ヒラメは普段は海の底でじっとしており、獲物が近づくとガバっと起き上がって一気に捕食する。待ち伏せ型の習性はネコ類と同様である。アメリカザリガニの腹筋(瞬時に尻尾を打って「いざる」=後ろに逃げる)、ニワトリの胸筋(翼を動かす)、ウサギの腰筋(ジャンプする)にも顕著である。いずれも逃走時など、咄嗟の瞬発的な動きが目に浮かぶようである。このI型とII型の比率は、動物により、また個体において先天的・生得的・遺伝的におおむね決まっているとされている。例えば、一流マラソンランナーの筋線維にI型が多いことは言うまでもない。往年の名ランナー・瀬古利彦氏の筋肉細胞中のミトコンドリアは一般人より50%も多かったという報告もある。また、根拠はないが、大相撲の花田家(初代若乃花・初代貴ノ花・三代目若乃花・二代目貴乃花)や寺尾家(鶴ヶ嶺・逆鉾・寺尾)が、II型筋線維優位の血筋であることは明らかだと思う。ただ、最新の知見によると、この比率はトレーニングによってある程度変えられるという説もある。ただし、増えるのは主としてI型筋線維であって、II型→I型への移行は出来るが、その逆はほとんど出来ないという。持続的・長距離運動は努力が実る可能性があるが、短距離・瞬発力系の運動(野球のピッチング・バッティング、相撲、100m走、剣道・柔道・テニスの、勝負に関わるような重要動作など)はまず素質が重要であることが示唆されている。川崎のぼる「いなかっぺ大将」の「ニャンコ先生」ではないが、古来柔術・柔道家はネコを敬愛し、ネコの動きを研究し、多くを学んできたといわれている。無酸素運動の共通性のしからしむるところである。なお、TVアニメ化された同作品のテーマソング「大ちゃん数え唄」を歌っていた吉田よしみとは、少女時代の天童よしみであった。「天童」の芸名が示す通り、天才少女だったのだろう。さて、自動車などの内燃機関(エンジン)の仕組みも、基本的には有酸素運動の仕組みに似ているのだが、ガソリンの不純物由来の有害物質や、エンジンで理想的には完全燃焼しないことによる一酸化炭素(CO)が排出されることは、ご存知の通りである。燃料として、主に肝臓グリコーゲンの分解によるグルコース(葡萄糖)、筋肉グリコーゲン、そして特筆大書すべきなのが、皮下脂肪・内臓脂肪の脂肪細胞の中性脂肪(トリアシルグリセロール)から血中に放出された遊離脂肪酸が用いられ、消費されることである。=減量である。一流マラソン選手(体脂肪率10%未満)の場合で、血糖(葡萄糖)のみで約4分間、肝臓グリコーゲンで18分間、筋肉グリコーゲンで71分間、そして遊離脂肪酸経由の中性脂肪で4018分間エネルギーを供給することができるという。ただ、グリコーゲンが枯渇する際には強い疲労を感じるという。これは別の研究でも、運動を始めて約80分後という結果が出ている。もちろん一流選手ではないが、これは僕もしばしば体感している。遠泳をしていると、1時間15分ぐらいでかなりの疲労を感じる。グリコーゲンが尽きるのだろう。さらに続けていると、その後ハイな状態に入ることがある。また、これはいわゆる「カーボ・ローディング」をしない場合である。(これは、マラソンランナー・トライアスリートなどが競技の直前に行う、一定期間の絶食後に、大量の糖質の補給により体内グリコーゲン貯蔵量を高める食餌摂取法。バナナやスパゲッティなどがよく知られている。最近ではアマチュアでも気の利いた人なら行う)グリコーゲンが燃え尽きる前から、徐々に脂肪酸の消費率が高まることが測定されている。グリコーゲンが枯渇した段階以降は、誤解を恐れずに言ってしまえば、体内環境は飢餓状態に近くなる。体に貯め込まれた脂肪だけが頼りであり、減量には願ってもない状態である。ただ、病的な飢餓に伴う痩せ(るい痩)の場合には、ケトン体という緊急的な物質が肝臓で作られて燃料にされる点が異なる。この物質はそれなりの役割を果たしていると考えられているが、徐々に血中濃度が上がってくると、ケトアシドーシスという重篤な昏睡状態に陥ることがあるという。話はそれるが、ここでどうしても想起されるのは、宗教的苦行とこういった状態との連関である。――新約聖書マタイ伝福音書によれば、ナザレのイエスは俗世から隔絶した山中の荒野で、40日40夜の断食と祈りを行い(水分を摂らなければ死んでしまうから、水は飲んだのであろうが)、その果てに悪魔と問答した。「人はパンのみにて生くるにあらず」、「汝の神を試みることなかれ」(文語訳)などの、あまりにも有名な名文句を含む一節である。話半分としても、それに近いことはあったのであろう。弘法大師空海にも、酷似したエピソードが伝えられている。小田晋・筑波大名誉教授の著書「キリスト教も幻覚から始まった!?」によれば、彼らはここで「幻覚」を見たわけである。これらは、「感覚遮断」を伴う状況での「飢餓幻覚」と見られるという。幻覚には幻視(ラテン語visio、英語vision)や幻聴、幻嗅、幻触、幻味など、感覚全てに亘る種類があり、幻嗅なども「自分が臭い」と気にする神経症など、ありふれて存在するという。幻味なんてのも、「おふくろの味」を、ある時突然ありありと思い出すとか、普通人でもそういう目で見れば、けっこうそれに近い経験はしているという。入眠・出眠時幻覚(金縛りの類い)は誰でも体験する。これも、体を非常に酷使した直後に多い。徹夜明けのハイな状態というのもよくあることである。マルセル・プルーストによる、20世紀文学の最高傑作の一つ、あの電話帳数冊分にも見紛う長大な巨編「失われた時を求めて」も、冒頭、手に取った一片のプチマドレーヌの香りから、忽然として華麗なフランス上流社会の全半生を思い出すという体裁を取っている。執筆当時の実人生のプルーストは虚弱体質であり、今で言う引きこもりのような状態で、コルク材で完全密封したパリの高級アパルトマンの一室から一歩も出ない生活をしていた。図らずも、瞑想修行みたいな環境に自らを置いていたと言える。とりわけ幻聴は、言語化された幻覚という意味で、最も高度なものだという。旧約聖書のエゼキエル書は典型的な幻聴、新約のヨハネ黙示録は幻視に基づくものと見られるという。この時、やはり、というべきか、脳内には麻薬様物質β(ベータ)エンドルフィンが分泌されているという。いわゆるハイな状態になっているわけである。委曲を省いて誤解を恐れずに言えば、宗教の秘教的(エソテリック)な核心部分ともいえる「神秘体験」や一定の境地(三昧境など)とは、こういった幻覚ないし幻想のイメージ操作であるということも出来よう。金剛界・胎蔵界曼荼羅や、西方浄土、阿弥陀仏の救済のイメージ、闘う女神ヴァジュラ・ヨーギニーの瞑想、はたまた十字架上の磔刑のキリスト、聖母マリアの受胎のイメージなどなど、枚挙に遑(いとま)がない。例えば、一般人でも臨死体験はよく知られているが、古く人々は死に臨んで浄土への往生のイメージを見ることに最も執心し、修行をした。僧侶もそれを指導し、熱心に手助けした。憎むべき松本智津夫(麻原彰晃)によって著しく歪曲され、おぞましいニュアンスに捻じ曲げられてしまった「ポア」の概念も、チベット仏教における死に臨んでの意識の転移・彼岸(あちら側)への導きの作法である。これは名著「虹の階梯(かいでい)」(中沢新一訳)に詳しい。道元の言う、禅における「心身脱落」というのもやはり一種の神秘体験と思われるが、ヴェールに包まれているのがもどかしくも、興味は尽きない。この話題はここでは敷衍しないが、このように身体的な条件が、大きな影響力のある宗教を生み出し、あるいは芸術分野で人類の歴史を変える場合もあるということである。これらについては、そのうちに続きを書くかも知れない。むろん、断食ノススメではありませんから。念のため。
2006.04.02
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