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今日の栃木の地元紙「下野新聞」文化面に、NHK教育テレビ(ETV)が活気に溢れているという記事が載った。全く同感だ。この記事は共同通信配信なので、このブログをご覧の各地方の地元新聞やスポーツ紙にも前後して掲載されると思われる。ちなみに各県の地方紙は、それぞれの地域では圧倒的なシェアを誇り、全国紙のいわゆる朝毎読(ちょうまいよみ)もなかなか入り込めない強さを持っているが、各地方紙とも県域ニュースを除けば、国内・海外ニュースをはじめ、文化・解説記事なども共同通信の配信に全面的に依拠している場合が多く、共同通信の影響力の大きさが分かる。メディア・リテラシー(読解能力)との関連で、共同通信が誤報・虚報や偏向した記事を流した場合、大都市部を除き、地方での影響力は優に全国紙に匹敵するといわれており、事実時折問題にされている通りである。また、共同通信の特集記事・論説記事などは、ややホトボリの冷めたあと、全国紙や他のメディアにパクられることが多く、今回の記事もそのうちどこがが同工異曲の記事を書くことと思う。そういう意味では、共同通信はジャーナリズム界の世論形成者であり、オピニオン・リーダーであり、ムード・メーカーであるともいえる。それはともかく、NHK-ETVが、視聴率の制約がなく、民放バラエティの“定石・お約束”的演出のくびきもなく、自由自在な発想の宝庫であることは多くの人がつとに認めるところである。特に芸術/アート、芸能などクリエイティヴな分野に関わるものにとって必見であるとは、昔からささやかれてきた。多くの分野のアーティストが密かに“ネタ元”にしていることは、想像に難くない。それぐらい、中身が濃いと言える。筆者のお気に入りで言うと、「ピタゴラスイッチ」に溢れる斬新で洗練された感性には舌を巻く。Cool(カッコイイ)といってもおかしくない。広告業界の電通社員時代から天才の名をほしいままにし、代表作の「だんご三兄弟」、「ポリンキー」が記憶に新しい、現・慶応大学教授(とはまた、ビックリな肩書きだが)の佐藤雅彦氏の脳味噌の中身がそのまま露出している。前掲記事によると、佐藤氏やNHKの狙いは、幼児教育への「抽象的概念の導入」にあるそうだが、見方を変えて言うと、「おかあさんといっしょ」に対する、「おとうさんといっしょ」とでもいうべき趣きがある。文系に対する理系&体育会系的なおかしみと楽しさといってもいい。そのものズバリ「ぼくのおとうさん」(作詞:佐藤雅彦氏)という歌も時々流れるが、僕を含め世のお父さんたちがけっこうウルウルしてしまう名曲である。「おとうさんスイッチ;おじいちゃんも可」も楽しい。ワクワクしちゃう発想の妙がある。一種の上下秩序のテンポラリーな非日常的顛倒により、逆説的に親子の関係性が浮彫りになる構造は、巧妙で洗練されたコンセプトである。テーゼ(措定)に対するアンチテーゼ(反措定)によってジンテーゼ(総合)がもたらされる、ヘーゲル弁証法哲学みたいだ(?)。・・・などと、よしなしごとを思い浮かべているうちに、今週は同じくNHK-ETVの「おかあさんといっしょ」が、連日夏休み特番のスタジオライブをやっている。3人の可愛ゆい娘たちと見ていたら、今朝は珍しくも小室等と谷山浩子が出てきて、楽しくもちょっとした驚きがあった。小室等は、ちょっと見ないうちにすっかり好々爺(こうこうや)になっちまっていた。僕などが子供だった頃、小室氏はすでに大人で、早くもフォークの大御所扱いだったから、無理もないか。「孫たち、いやひ孫たちに囲まれて幸せです」なんてお約束の天然ボケで笑わせながら、相変わらず茫洋とした仙人みたいな風貌と、飄々とした物腰で2曲ほど歌い、本当にくつろがせてくれた。正直言って、特にノドが良いとも歌が上手いとも作詞作曲の天才とも思わないが、こうしてみると、やっぱり不思議、かつ圧倒的な存在感があるね。寺尾聡がどんどん似てきている亡き父上の宇野重吉とかもそうだったが、東洋の大人(たいじん)みたいな風格ってやつだね。もう若くもない僕などは憧れてしまう。こういう老人になりたい。・・・いや、ホント。谷山浩子は、若い頃はちょいクールでスレンダーでインテリジェントな美女シンガー&ソングライターだったが、すっかり丸顔のおばさんになってしまい、微笑ましくも親しみが持てた。歌いはじめると、流石に相変わらずの音吐朗々たる明晰な美声。おまけに持ち味の知的な作風は健在。彼女作詞の名曲「いっしょにつくったら」は、男の子の「形(カタチ)くん」と女の子の「色(イロ)さん」が「ある日出会って、言いました。そうだ、いっしょに世界を造ってみよう」という歌詞で、これ、考えたらものすごく気宇壮大で深い歌詞で、プラトン哲学のイデア/形相論を彷彿とさせるものがある。(僕は実存主義&構造主義哲学小僧くずれなので、時々計らずも小難しいことを口走りますが、一笑に付して下さいまし。)さすが谷山浩子サンだわ~。記憶する限り一曲も持ち歌の大ヒット曲はないと思うが、やっぱしこういう才能は生き残っちゃうね。おまけにサウンドは、ビートルズの名盤「マジカルミステリーツアー」そのものだね、と言いたくなるハッピーチューン。聴いている方もうれしくなっちゃうのであった。
2006.07.31
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。先ほど、初めて聴いた。癒された。きわだって特別なアレンジがほどこされているわけではない。美しいメロディが、恬淡とした典雅な伴奏に乗って伸びやかに歌われる。たゆたいながら、まどろみながら、ゆったりとした光芒と清々しい香りをほのかに発しつつ、たおやかに連綿と紡ぎ出されてくる優しさに、僕たちはじわじわと、ひたひたと、馥郁と、包み込まれるように魅了されてしまう。なんと言おうか、例えが適切かどうか分からないが、あの烈しかったベートーヴェンの魂が、聴覚をほとんど失いながら晩年に到達した、静謐な弦楽四重奏曲群の境地のようだ。白鳥の歌とは、こういうことを言うのだろうか。2006.7.16付けの読売新聞によると、あの有名な「浜辺の歌」は、作曲者の成田為三氏(1893-1945)が、ラブレターの中で同窓の女性に捧げた恋歌だったという。贈られた矢田部正子さん(1900-1989、旧姓・倉辻)は、「私には決まった人がいます。」と返信し、成田氏はあえなくフラれ、撃沈した。矢田部正子さんは、この事実を夫で声楽家の矢田部剄吉氏に最後まで話さなかったが、夫の死後、養子で声楽家の鈴木義弘さん(70)に明かし、このほど鈴木さんがコンサートで公にしたという。なるほどな、と思う。小林武史の創り出す音楽にも、いわば常に、そこはかとなくこんな風なニュアンスがつきまとっていて、恋しい、ゆかしい、という感情が、聴くものの心にも湧き上がってくる。小林武史とミスターチルドレン・桜井和寿のユニットBank Bandに、現代のセイレーン、エーデルワイス Salyu がフィーチャリングされたコラボレーションで、またひとつのささやかな神話が降誕した。「to U」という表記には、もちろん意味があるだろう。「U」は、“you”であると同時に、おそらく“universe”であろう。“utopia”も少し入っているかも知れない。小林氏とほぼ同世代の僕には、ジョン・レノンの手になるビートルズの傑作「Across the Universe」が思い起こされる。これは当時彼らがヒンドゥーイズムとともに一歩足を踏み入れていたチベット仏教の世界を詩的に謳い上げたたもので、ビートルズ自体の白鳥の歌になった。多少なりとも神秘性とライトな宗教的境地を感じさせる小林氏の指向性とも合致する。さらに今回の作品のエンディングの音を聴いて、あ、これは“YES”かな?とも思った。小林氏の、サウンドによる暗喩であろうか。インテリジェントなブリティッシュロックバンドだったYESは、プログレッシヴの名でロックを小難しくした張本人でもあるが、すでに'70年代前半の時点で、歴史的名盤「こわれもの Fragile」(アルバム名)や、「全体保持 Total mass retain」(アルバム「危機 Close to the edge」の中の曲名)など、人間と地球環境の濃密な相互連関と脆弱性、そしてそれを保持しぬく意志を示し、歌詞としても、サウンドの表現でも、ポピュラー音楽がエコロジカルな視座による主張を打ち出す嚆矢となった。――こういうのを、マセガキなティーンエイジャーとして聴いて育った僕らは、筋金入りの環境保護指向者といえる。当時のそうした言説と、現在いわれる“LOHAS”ムーブメントとの関係は、ウェゲナーの「大陸移動説」と現代の「プレート・テクトロニクス理論」の関係のようなものだ。理論的に精緻にはなったが、本質的に同じものである。TBS系全国ネット(JNN)の看板番組「NEWS23」のテーマソングという、超一級だがやや色付きのタイアップを得て、小林武史と桜井和寿による歌詞、特に桜井のパートは、わずかに肩の力が入りすぎた生硬な表現が散見される憾みもある。しかし、とりわけ Salyu が歌うファースト・パートは、小林氏十八番(おはこ)の優しく語りかけるような文体と、普遍的なLOHASな感覚と、「もののあはれ」をまといつつ、相変わらず分かったような分からないようなケムにまかれる感じが、イメージ喚起力に盈ち、いつもながら見事である。たとえば、モネの睡蓮の絵みたいな、イメージのニルバーナ(涅槃郷)である。7分を超える大作だが、詩的内的ドラマの展開に、一瞬たりとも退屈しない。焦り、頑張り、悩み苦しみ、傷ついた人に、「もっと人を好きに、もっと今が好きになれるから、あわてなくても、頑張らなくてもいいよ」と呼びかける、穏やかなメッセージを運ぶ抒情的な名編。遠くにいるあなたに/今言えるのはそれだけ。Salyuの大ファンなので、ホメすぎてます(笑)。2006年7月16日
2006.07.27
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。遅ればせながらやっと聴いた。その結果、稀に見る傑作であり、至高だと感じた。この曲の作詞作曲編曲プロデュースをしている小林武史の作品群は、一般的に言えば当たりはずれがあると言うべきなのであろうが、どういうわけか出す曲出す曲が筆者の心の琴線には触れまくり、ツボにハマリまくり、痒いところに手が届くというか、こんな感じのサウンドが聴きたいなあと漠然と思っている願いが、次々と叶えられる魔法のようなミュージシャンなのである。この曲も全く奇蹟のようにすばらしい。意表を突いているといえるほどのゆったりとしたテンポに乗せて、アンニュイとデカダンスとソフィスティケイション溢れる小林武史の内的宇宙が惜しみなく開陳される。ほかの多くの曲同様、瞑想的というか治癒的というか、イメージ喚起力に満ちたサウンドと歌詞である。僕はこれらを「コバタケ節」と名づけたい(笑)。たぶんこれを、テンポが遅すぎ、トロくて退屈と感じる人もいるだろうと思う。以上は僕の主観に過ぎない。ただし確信に近い主観ではある。小林氏は僕とほぼ同世代であり、もう若くはない。すでに音楽通好みの洗練された感覚で多くの自作品、編曲作品を残し、功なり名遂げたといっていい立場である。その揺るぎない座標軸から繰り出される最近の作品、特にSalyuに提供している作品群は、肩の力がすっかり抜けて、ある種の枯淡の境地・・・というと言葉が違うかも知れないが、いわば平明にして深遠、写実にして象徴、みたいな、松尾芭蕉のいう「軽み、細み」に達している、といっても当たらずといえども遠からず、であろう。かすかなユーモア/諧謔味すら感じられ、プロモーション・ビデオクリップ(PV)では映像でその辺も強調されていて楽しい。Salyuのヴォーカルは、毎度決まり文句のように書いてるが、超絶的なまでに美しく、特にこの曲では小林氏の期待に見事に応えている。2005年12月5日
2006.07.26
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。春の夜の夢の浮橋とだえして峰に分かるる横雲の空 (新古今和歌集38)大空は梅のにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月 (同40)見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ (同363)靡かじなあまの藻塩火焚きそめて煙は空にくゆりわぶとも (同1082) 和歌史上の最高峰と言われる、藤原定家の作品群であるが、作詞、作曲、編曲のプロデューサー・小林武史の作風に、これと似た通奏低音を聴く思いがするのは僕だけだろうか?・・・僕だけだろうな(笑)。 「小林武史史」的に言えば、「風に乗る船」は、十八番(おはこ)の手の込んだ失恋の歌(ロストラヴソング)であると同時に、もう15年も経ってしまったが、出世作となった小泉今日子「あなたに会えてよかった」の壮大な変奏曲(ヴァリアシオン)という感じもする。 この曲は小泉今日子が現在の文才につながる作詞家としての才能を開花させるとともに、小林武史の作編曲者としての評価が定まった記念碑的名品。今聴いてさえなかなかのものであるが、当時の耳で聴いた時は、ずば抜けて洗練されたサウンドだった。 また自ら率いる夫婦共稼ぎのユニット「My Little Lover」のデビュー曲「Hello Again~昔からある場所」や、サザンオールスターズ中期の「世に万葉の花が咲くなり」など和風趣味の時代に培われた、桑田佳佑とのいい意味の相互交流・依存関係、原由子に提供したレトロで甘美なサウンドなどにも同様に、「失われた時空」への研ぎ澄まされた感性の冴えがほとばしっていた。 一人の表現者の主要なモティーフというのは変わらないものである。箪笥の引出しもそうそうないワケで。 加えて小林氏の異色なところは、ラヴソングでありながら、自己治療・治癒・回復、「魂の救済・再生」的なモティーフを絶えず目的意識的に追求しているところである。 「神は死んだ」(ニーチェ)時代にあって、瞑想的でありつづけ、失われた楽園/調和、空虚/うつろさの中から脱出し、飛翔しようとする意志が、作品には散りばめられている。 小林氏と僕はほぼ同世代であり、才能は月とスッポンながら、おそらく聴いてきたもの、見てきたもの、愛してきたものはだいたい同じようなものであろうと察せられ、この辺のいわく言い難いニュアンスは肌で分かる。 コマーシャリズムの要請をこなしつつ、特にSalyuに提供している楽曲では、アーティスティックなものをかなり自由に表出しているように見える。歌詞を額面通り読めば、「京都大原三千院、恋に疲れた女がひとり」と似たような世界だと思うが、手練のシェフが料理すると、こうなるということだ。 歌詞の「あなた」も、深読みをすれば、失われた神的概念かも知れないのだ。それは、「自分の苦悩を計るためのメジャー」に過ぎないと、ジョン・レノンは歌った(「神」)。 神に代わる新たな補助線はありうるのか?それは僕らの世代を中心としつつ、普遍的に問われる問である。 僕も下手な短歌など詠むのでいくばくか知っているが、表現行為にはある種の超越的な精神状態・トランス状態に入ることが不可欠である。小林氏は、このトランス状態そのものを音楽作品として呈出できる異能を持っているように思える。 瞑想的な死と再生・タナトスとエロスの通過儀礼の中で、詩的言語と音のイメージの種を播き散らし、その想像力で聴くものの魂を救済さえしてしまう。これは幻想といえば幻想であるが、価値ある幻想であり、人生の意味でさえありうる。そのまなざしは対自然的・エコロジカルな方向へ注がれる。 根源的にクリティカル(批評的)でありクリニカル(臨床的)である。・・・このダジャレ、座布団2枚である。 小細工を弄さない、適度にグルーヴィーな曲調は青空のように爽やかなスケール感があり、相変わらずベースとリードギターのアレンジが達者である。ゆったりとしたベースラインと洗練された高揚・グルーヴ感に、ますます冴えるSalyuの伸びやかな緩急自在の超絶的ヴォーカルが絡み合って、極上のサウンドの宇宙が醸し出される。至高。 ・・・このレビュー、あとで読みかえしたら、ちょっとほめすぎでした。前作「彗星」にはやや及ばない。2005年11月7日
2006.07.26
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。僕はこれを聴いてもいないし買ってもいないのですが、買った方によると、・・・だそうです。想定内ではあるが、最悪の事態かも知れない。さもありなん、とも思う。「landmark」なんて、ありがちなタイトルを見たときから、なんかヤーな感じはしていたザンス。僕が謝ることもないのですが、これまでSalyuのシングルを極めて高く評価してきたものとして、ミスリードの道義的責任を感じちゃいます。小林武史って人は、水もしたたるいい男で、女房(マイリトルラバー・AKKO)はスレンダーなモデル系美女、これまでやることなすこと(ホームランとは言わないが)クリーンヒットの連続で、言わばイチローみたいなJ-POP界の3割打者。これでナルシストになるなという方が無理かもしれない。「自己愛・自己顕示欲」というのが、芸術・芸能分野では非常に大事な資質であることは僕などが説明する必要もないだろうが、一歩間違うと、鼻持ちならないスノビズム(気障ったらしさ)と、果てしのない「自分いぢり」になっちゃう。ミスチルには確かにその弊害を感じるね。・・・しかしベテラン小林選手ともあろうものが、そういう苦情を言わせちゃいかんよね。まことに遺憾に存じます。2005年10月9日
2006.07.26
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これまでに Oops!Music Communityに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。 おそれいりました。――何というやすらぎ。超越的なhorizon。 小林武史の研ぎ澄まされた感性の楽曲と、現代のセイレーン Salyu の伸びやかな超絶のヴォーカルがあいまって、24時間浸っていたい、音のnowhere land、シャングリラ・桃源郷・xanaduが現出している。J-POP、今年最高の達成の一つ。至高supreme。 歌詞は、小泉今日子やマイリトルラバー以来小林氏十八番の、手の込んだロストラヴソングにして深遠を漂わせる、洗練された現代詩。おそらく思春期か青春時代に彗星のように現れて消えた恋人への追憶と、神秘的な愛の結合・・・のようなものを美しく結晶させている。 「Valon-1」の時もそうだったが、一見おちゃらけたビデオ・クリップ(PV)に、他の音楽関連サイトでブーイングが噴出しているが、僕は不覚にも感涙を禁じえなかった。「明るく楽しい東宝映画」のサラリーマン喜劇を思わせるシチュエーションのパロディーが笑わせつつ泣かせる出色の出来。Salyuに導かれて、あのハゲチャビンの「部長」(好演!)と一緒に、少年に帰ろう。2005年5月19日
2006.07.26
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Bank Band with Salyu の新曲"to U"が大きな反響を呼んでおり、Mr.Childrenの桜井和寿とともに、相変わらず見事なヴォーカルを披露している天才的若手実力派女性歌手Salyu(サリュ)も大ブレイクの予感がする。彼女は、すでに音楽ファンの間ではその“超絶的”歌唱力に定評がある。そこで、これまでに Oops!Music Community(ライブドア系音楽ファンサイト)/「クマゴロー」マイページに投稿したJ-POPレビューのうち、Salyuに関するものを、バックアップとして再録します。 [Valon]J-POP、今年最高の収穫の一つ。鬼才・小林武史の魔術。いっぺんに新進女性ヴォーカリストSalyuのトリコになった。セイレーン、エーデルワイスの幻の歌声か。この底知れない大器を生かせるのは小林武史氏しかいない。今後も支えてやってほしい。一見意味不明のタイトルは、コラボレートしているリップスライムのイルマリの母国フィンランドのフィン語で、「光の中へ」の意味だという。英和、仏和、伊和、独和、西和、羅和、エスペラント語辞典を引っくり返して調べて、損した(笑)。なお、我が家では赤ちゃんの子守唄として使用、可愛い愛娘もジワ~っと涙を溜めて感動して聞いてます。いやホント。音楽的感性は血筋だろうか。 ・・・単なる親バカですから。残念!(笑)。 2004年12月13日「Valon-1」は、“Valon ネイキッド Naked ヴァージョン”といっていいだろう。「Valon」のラップを外し、よりシンプルで力強く、ゆったりしたルーズ感のあるロック・バラードになっている。「Valon」は、“リリイ・シュシュ”として一部では知られつつも、ほぼインディーズシーンのマイナーな存在に近かったSalyuを売り出すために、Ilmariのラップを加え、きわめて稠密(ソリッド)なヒップホップ系のポップな創りになっており、これはこれで悪くないどころかすばらしい収穫だったが、作曲者・小林氏の本意ではなかったのだろう。こちらは、本来の着想と意図がありありと聴き取れて、小細工のない通好みのアレンジになっている。ただし、どちらにしても、主役はあくまで、明らかにSalyuのヴォーカルであり、その存在感と説得力は並ぶものがないといっていいだろう。・・・しかも、この上なく可愛い。われわれは、一つの奇跡を目にしているのだろう。
2006.07.26
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先ほど、初めて聴いた。癒された。きわだって特別なアレンジがほどこされているわけではない。美しいメロディが、恬淡とした典雅な伴奏に乗って伸びやかに歌われる。たゆたいながら、まどろみながら、ゆったりとした光芒と清々しい香りをほのかに発しつつ、たおやかに連綿と紡ぎ出されてくる優しさに、僕たちはじわじわと、ひたひたと、馥郁と、包み込まれるように魅了されてしまう。なんと言おうか、例えが適切かどうか分からないが、あの烈しかったベートーヴェンの魂が、聴覚をほとんど失いながら晩年に到達した、静謐な弦楽四重奏曲群の境地のようだ。白鳥の歌とは、こういうことを言うのだろうか。2006.7.16付けの読売新聞によると、あの有名な「浜辺の歌」は、作曲者の成田為三氏(1893-1945)が、ラブレターの中で同窓の女性に捧げた恋歌だったという。贈られた矢田部正子さん(1900-1989、旧姓・倉辻)は、「私には決まった人がいます。」と返信し、成田氏はあえなくフラれ、撃沈した。矢田部正子さんは、この事実を夫で声楽家の矢田部剄吉氏に最後まで話さなかったが、夫の死後、養子で声楽家の鈴木義弘さん(70)に明かし、このほど鈴木さんがコンサートで公にしたという。なるほどな、と思う。小林武史の創り出す音楽にも、いわば常に、そこはかとなくこんな風なニュアンスがつきまとっていて、恋しい、ゆかしい、という感情が、聴くものの心にも湧き上がってくる。小林武史とミスターチルドレン・桜井和寿のユニットBank Bandに、現代のセイレーン、エーデルワイス Salyu がフィーチャリングされたコラボレーションで、またひとつのささやかな神話が降誕した。「to U」という表記には、もちろん意味があるだろう。「U」は、“you”であると同時に、おそらく“universe”であろう。小林氏とほぼ同年輩の僕には、ジョン・レノンの手になるビートルズの傑作「Across the Universe」が思い起こされる。これは当時彼らがヒンドゥーイズムとともに一歩足を踏み入れていたチベット仏教の世界を詩的に謳い上げたたもので、ビートルズ自体の白鳥の歌になった。多少なりとも神秘性とライトな宗教的境地を感じさせる小林氏の指向性とも合致する。さらに今回の作品のエンディングの音を聴いて、あ、これは“YES”かな?とも思った。小林氏の、サウンドによる暗喩であろうか。インテリジェントなブリティッシュロックバンドだったYESは、プログレッシヴの名でロックを小難しくした張本人でもあるが、すでに'70年代前半の時点で、歴史的名盤「こわれもの Fragile」(アルバム名)や、「全体保持 Total mass retain」(アルバム「危機 Close to the edge」の中の曲名)など、人間と地球環境の濃密な相互連関と脆弱性、そしてそれを保持しぬく意志を示し、歌詞としても、サウンドの表現でも、ポピュラー音楽がエコロジカルな視座による主張を打ち出す嚆矢となった。――こういうのを、マセガキなティーンエイジャーとして聴いて育った僕らは、筋金入りの環境保護指向者といえる。当時のそうした言説と、現在いわれる“LOHAS”ムーブメントとの関係は、ウェゲナーの「大陸移動説」と現代の「プレート・テクトロニクス理論」の関係のようなものだ。理論的に精緻にはなったが、本質的に同じものである。TBS系全国ネット(JNN)の看板番組「NEWS23」のテーマソングという、超一級だがやや色付きのタイアップを得て、小林武史と桜井和寿による歌詞は、珍しく、わずかに肩の力が入りすぎた生硬な表現が散見される憾みもある。しかし、とりわけ Salyu が歌うファースト・パートは、小林氏十八番(おはこ)の優しく語りかけるような文体と、普遍的なLOHASな感覚と、「もののあはれ」をまといつつ、相変わらず分かったような分からないようなケムにまかれる感じが、イメージ喚起力に盈ち、いつもながら見事である。たとえば、モネの睡蓮の絵みたいな、イメージのニルバーナ(涅槃郷)である。焦り、頑張り、悩み苦しみ、傷ついた人に、「もっと人を好きに、もっと今が好きになれるから、あわてなくても、頑張らなくてもいいよ」と呼びかける、穏やかなメッセージを運ぶ抒情的な名編。 Salyuの大ファンなので、またまたホメすぎてます(笑)。このログは、Oops! Music Community(ライブドア系音楽ファンサイト)に転載します。
2006.07.16
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30数年前に卒業した中学校の同窓会は、IT関連業種の社長である幹事(というか、「○○会インターネット事務局」と自称している)が、ほとんど一人でやってくれている。中学時代、陸上部で走り幅跳びの栃木県記録を樹立したほどの爽やかなスポーツマンで、万事にマメでしっかりした体育会系の素養に加え、天賦の宴会部長の資質があるやつなので(笑)、われわれは安心して任せ切っていられる。今朝、彼から同級生に、久し振りのメールの発信があった。訃報だった。同級生の女子のご主人が、癌で亡くなったという。享年53歳。若いなあ。無念だろうなあ。53歳なんて言ったら、まだ間があるとはいえ、僕らもそう遠からず辿りつく歳である。早すぎるよね。心からご冥福をお祈り申し上げるとともに、残された同級生こと奥様やご家族の悲しみに想いを馳せれば、健康にはくれぐれも気をつけて、長生きしなくちゃいかんなあ、と改めて思うのである。僕なんか、石に齧りついてでも90歳まで生きちゃうもんね。愛する娘たち(と妻)のために。とりあえず「医食同源」だろうか。野菜、豆類、青い物をもっと食べよう。昔取った杵柄だなんていきがらずに、軽めの適度な運動も欠かせない。ただし炎暑には注意、というより、夏の間は運動禁止ぐらいのつもりでいい。脱水症状と熱射病と、強烈な紫外線(UV)による体内でのフリーラジカル(活性酸素)の大量発生は、確実に寿命を縮めるよ。カゴメでもデルモンテでもいいから、野菜・トマトジュースをガブガブ飲みませう。(ちなみに、僕はデルモンテの方が好き。味が熟成された感じがする。)これはスーパーでの実勢価格わずか¥198-(バーゲンなら¥148-になることもある)の、百薬の長ですぜ。そして何といっても睡眠だ。「悪い奴ほどよく眠る」。悪い奴になったとしても、よく眠ること。こういう時代であるから、ストレスを抱え込むなと言われても無理な相談であるが、少なくとも身体的には極力無理せずに、「細く長く」、「無病息災」、「日々是好日」を心がけよう。アンチエイジング(抗老化)のコンセプトは、オシャレなシロガネーゼ奥様だけのものではないのだよん。むしろ男どもこそ、精神的にも身体的にも、本質的な意味でのアンチエイジングを実践しなければならないよね。このIT時代、その気になれば情報はいくらでも手に入るだろう。君を失ったら、悲しむ人がいるんだから。
2006.07.15
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2歳4か月になる、天使のような三つ子三姉妹の長女は、病気で入院していましたが、このほど2週間ぶりにやっと退院しました。3人の中でも、日ごろから一番神経質で食も細く、人見知りする質(たち)の長女だけに、病院では看護師(看護婦)さんになかなか慣れず、だいぶ手こずらせてしまったようです。毎日2回は、妻が食事や身の回りの世話のため、車で日参しましたが、残る2人もいるので、夜はお医者さんと看護師さん任せにならざるを得ませんでした。トトロや猫のぬいぐるみだけが友達の心細い夜を重ね、不安だったでしょう。本当にかわいそうでした。関係者の皆さんのお蔭ですっかり元気になり、笑顔も生き生きになったのはいいのですが、体はすっかり痩せ細り、“ファッションモデル体型”になって帰って来ました。哀れです。お風呂に入れるたびに溜め息を吐いてましたが、帰って来て安心したのでしょう。現金なもので、食欲は至って旺盛。他の2人の倍ぐらい食べる勢いで、退院後数日の現在、すでにかなり太って、元の赤ちゃん体型に戻りつつあり、ひとまずホッと一息。・・・と思ったのもつかの間、長女の退院と相前後して、今度はスポーツウーマン体型で活発、いつも走り回っている三女が、いつヤッチャッタのか分からないのだが、左肩の関節を骨折・脱臼。左腕がダラリと垂れ下がった時には、妻も僕も顔面蒼白になりましたが、幸い大したことはないということで、左腕を使わせなければ2週間ぐらいで自然治癒するということで、人心地ついた次第。本当に次から次へと問題が起こって、ヘトヘト&楽しい“ジェットコースターな”毎日ざんす。なお、この物騒なご時世にかんがみ、セキュリティーとプライバシーを重く見て、カワユイ娘の実名&顔写真(マスコミ記者隠語で「ガン首」という)等の公表は差し控えさせていただきますだ。ゴメンチャイ。
2006.07.11
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これはつまり、’00s(ノーティーズ)の「飾りじゃないのよ涙は」かも知れない。「君」と一つになって「完璧な空」を見るとき、「あたし泣いたりするんじゃないかと感じてる」のだろう。それまでは、「君の胸で泣かない/君に胸焦がさない」わけである。・・・いやに胸が強調されているけれども(笑)。(僕はオッパイ星人ではないよ。)「午前0時に家を抜け出して」、ショットバーかどこかで「ギムレット」を飲んで少し目を覚ましたりするチョイ不良(ワル)ムスメでありながら、ある種の操(みさお)があるとも言える。ちなみに「みさお」の語源は「御青」であり、永久(とわ)に変わらぬ蒼穹の青さをいう言葉であるから、まさしくパーフェクト・スカイである。私のアクロバティックにして牽強付会なまでの連想能力で強引に繋がった(笑)。「君」への溢れる愛を胸に宿しながら、夏の浜辺でカモシカのような脚でダンスしたりしても、簡単には言いなりにはならない。おもねらない。相手を焦らして「ちょっと危険なかけひき」を弄したり(他の男の影をちらりと匂わせたり?)もする才覚もある、コケティッシュで小悪魔でクレバーな人物像の女性である。うむ、なるほど、これはなかなかいい女ではないか。そんなヤツ、ジッサイにはおらへんで、とも思うが・・・。こういう完璧な紺碧の空のイメージは、僕などにとっても、確かにかつて見たことがある何かを思い起こさせてくれる。ポップ・ミュージックに現われたものとしては、何と言っても、直ちにビートルズの名曲「ビコーズ」が思い出される。ジョン・レノンによって書かれた歌詞“Because the sky is blue,it makes me cry.”の深く蒼い空の色が色褪せることは、未来永劫ないだろう。さらに言うと、もうあしかけ3世紀ということになろうか、19世紀末フランスの象徴主義(サンボリスム symbolisme)の詩人たちの作品にも現われていた。ポール・ヴァレリの「若きパルク」辺りの頭上に輝いていたのも、同じ青空ではなかったか。象徴派の総帥ステファヌ・マラルメには、そのものズバリ、「蒼空」という作品もある。アントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」を見守っていたのも、完璧にして広大無辺、永遠にして無関心な青空だった。宇宙空間というのとは違う、いわば天動説的な素朴実在な青空は、それ自体われわれの憧憬をいざなってやまないのだ。話がそれたが、これは資生堂のCFとのタイアップという極上の商業主義的環境の中で醸成された、プロフェッショナルな作品である。作詞作曲・編曲・歌唱の全てがスタイリッシュできっちりとしたプロの技を示している、職人芸的J-POPの佳品と言える。BONNIE PINKって、生き馬の目を抜くJ-POPシーンでは少し地味目な存在だけど、本当に才能に溢れていると思う(ただ、ブラス系の音が個人的にはあまり好きではないのだが、それはまあ、置いとく。)このログは、Oops!Music Communityに転載します。
2006.07.07
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