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明日は清(さや)かなる望月。今日は松任谷由実さんの歌詞ではないが、僕も好きな、「14番目の月」である(天文学的月齢13.5。旧暦では今日が15日になっているが)。あの月の模様は、餅搗きをしているのかどうかはともかく、どう見てもウサギだが、ウサギに見えない民族も多いわけで、世界は広く、グローバル・コミュニケーションは難しい、・・・なんてね。ところで、いつも満月前後になると、幼い我が子らが興奮状態になってハシャギ過ぎたり寝つきが悪かったりする。・・・のは気のせいだろうか?理科の授業のおさらいになるが、潮汐(しお)の満ち干は太陽と月の引力、そして地球の自転によることは周知である。朔(さく、ついたち=新月)と望(ぼう、もち=満月)に干満の差が最大になる。朔には太陽、月、地球の順にほぼ一直線上に並び、地球はそちらの一方向に引っ張られる。ちなみに完全に一直線に並ぶと皆既日食になる。これは、ごく稀に起きる。一生に一度は生で見たいものだ。望には太陽、地球、月の順に並び、地球は両方向から股裂き状態で引っ張られる。こちらは完全に一直線に並ぶと月食になる。これは時々起こる。(ちなみに、「ついたち」の語源は「つきたち(月立)」。・・・日立(ひたち・常陸)は茨城の古称だが。)これらと地球の自転があいまって、液体の海水が最も大きな影響を受け、満潮干潮が惹き起こされる。このように、大洋に大きな影響を与えるほどの見えない力が、我々生物にも無縁であるはずはない。我々の体の隅々まで行き渡る血の血清の成分は、太古の海のミネラルバランス(鉱物質平衡)を記憶し保存しているとも云われる。どういう機序(メカニズム)によるかは知らないが、満月と新月の夜に男がしばしば狼になるのはそのためであろうか?ちなみに僕は優しいクマのトーさんですから、ご心配なく。冗談はともかく、稚(いとけな)いピュアな幼子の魂がわななき騒ぎ、興奮状態になるのも無理からぬことかも知れない。・・・っていうか、ただ単に寒いだけかも知んない(笑)。思えば、妻の内部の海 The Sea Inside に、大自然からのかけがえのない恵みが齎されたのは、一昨年の夏のことである。まさに聖なる concept (conceiveの過去分詞。受胎した/孕まれたもの。)であった。感謝してます。
2006.02.12
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一昨年(2004)の春に三つ子の三人娘(ニ卵生)が生まれ、すくすくとつつがなく育って現在1歳10ヶ月になった。それ以来(というか、それに先立つ2003年夏の、妻の“ご懐妊”以来)2年間以上、子育てに四苦八苦の日々が続いている。また僕は、運動不足も相俟ってストレス太りで限りなく石塚化が進んでいる。この子育て地獄天国と、僕の気まぐれダイエット報告(未開始)が、当ブログの隠れテーマになる!?・・・かも。まあ、暇があって気が向いたら、ボチボチ書いていきます。「メシとグチはこぼすな」という。人それぞれに苦労しながら精一杯生きているのであるから、人のグチなどにそうそう付き合ってはいられないのである。実際グチっぽい人というのは世の中にままいるけれども、しまいには敬遠されるのがオチであり、僕も苦手である。ところが、育児の話題になると、非常に愚痴っぽくなるのを自分でコントロールできなくなり、まことに忸怩たるものがある。5~6日前から三女が、まさに突発的に「突発性発疹症」になってしまい、いきなりぐったりしたと思ったら、胸周りなど一面ににぽつぽつと赤い発疹が現われ、38℃台~39℃台を行ったり来たりの熱を出してしまった。親戚に聞くと、これは通称「トッパツ」と言われ、きわめてありふれた、誰でも罹る軽い病気らしい。従弟の女房は、免疫を付けるためにも、「この際、三人とも罹っちゃえばいいね」とか気楽に言うが、親はも~大変なんですから。僕らもいつもお世話になっている、近所の行き付けの相良内科さんに飛び込んで、実によく利く薬を貰い、徐々に快方に向っている。相良先生は、親切で親身でありながら、おそろしく頭の切れる、怜悧という感じのお医者さまで、僕も数年前に風邪をこじらせて39℃台の熱でヘロヘロになった折は先生の注射と処方で一発で治ってビックリ、深く信頼している。その先生に(小児科でもないのに)丁寧に診てもらい、本当に感謝している。熱は、薬を飲ませると下がり、薬が切れると上がりと、一進一退ながら全体として少しづつ下がり、まずまず安心の今日あたりである。薬を飲ませると簡単に書いたが、これとて実際は一苦労である。甘いジュースやら水飴やらに混ぜて注射器みたいな器具で飲ませるのだが、敵もさる者、異物が入っていることを鋭敏に察して、イヤイヤしたり泣いたり暴れたり吐き出したり、そのつど愁嘆場、修羅場・バンバなのである。熱が下がって楽になってくれるのは無論ありがたいが、おとなしく寝込んでいるかというとそうではなく、ひとしきり眠ったあとはけっこう元気なので困ってしまう。選りにも選って三女は一番筋肉質で力が強く、大きくなると間違いなくテニスか何かのスポーツウーマンになりそうな体をしていて、非常に活発で走り回るのが大好きな性質。・・・本人は元気、僕らはゲンナリである。固形物は大事を取って控えめにしているが、幸いミルクはかなり飲むので、栄養の心配はなさそうだ。・・・とはいえやはり、多少は痩せてやつれたクチナシの花は否定できない。・・・すいません、オヤジですから時々オヤジギャグが混じります。この寒空のもと、オンモに連れ出すわけにもいかず、しかも狭い家の中であるから完全には無理だが、やはりほかの二人にうつらないよう出来るだけ隔離してチマチマ遊んでやる程度なので、彼女は完全に運動不足で欲求不満状態。かなりイライラしている。彼女なりにストレスが溜まっているのであろう。寝つきは悪いし、睡眠も浅くて草木も眠る丑三つ時に起き出して騒いだり泣いたり暴れたりするので、乳飲み子で昼も夜もなかったころ以来、久しぶりにこちらも睡眠不足でへとへとの日々が舞い戻ってきたのである。なんか、グチばっかりでオチのない文章ですみません。・・・座蒲団1枚(笑)。
2006.02.11
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作曲家の伊福部昭氏が8日亡くなられた。享年91歳の大往生であった。伊福部氏は現代音楽の巨匠として知られるかたわら、映画音楽の作曲家としても巨大な輝きを示された。僕が生まれて初めて見た映画は、幼稚園生の時、映画好きだった祖母・千代に連れられて地元映画館で見た「キングコング対ゴジラ」(本多猪四郎監督、円谷英二特技監督、主演・高島忠夫、東宝)であった。大画面狭しと暴れまくる大怪獣のあまりの恐さに大泣きして、途中でロビーに退避して苦笑交じりの祖母になだめられたことまで記憶している。人生最初の記憶といっても大げさではないくらい強烈な印象だったのだろう。その後は、特に東宝の主要な怪獣映画(と戦争映画)はほとんど見たと思う。それらの(「モスラ」を除く)全ての作品に流れていた、無調性(長調でも短調でもない)で時にリズムも変則的で、強烈・野性的、しばしば土俗的で骨太でありながら、その底に深い愛惜と悲哀を感じさせる音楽の存在に気付いていた。特にラストシーンにおいてその哀感は極致に達するのであった。しかも後にテレビで見た「ビルマの竪琴」(市川崑監督・第1作の方、安井昌二・三國連太郎主演)や、「原爆の子」(新藤兼人監督、乙羽信子)、「宮本武蔵」(内田吐夢監督、中村錦之助、東映)、「大魔人シリーズ」等々にも、明らかに同じ作者の手になるものと思われる、同質の響きが満ち満ちているのを聴いて驚いた。これらが伊福部昭という一人の孤高の現代音楽作曲家によって生み出されたということを知ったのは10代になってからだったろうか。このほか、「女中っ子」、「夜明け前」など、重厚、シリアスな名編の音楽が多いが、それらフィルモグラフィーはその筋のウェブサイトに委ねる。あの「ゴジラの鳴き声」も、松脂を付けた軍手でコントラバスを弾く(?)という荒業で「作曲」したことで知られる。個人的には、無調性なのに哀調溢れる「ラドン」のテーマソングが大好きだった。この無調性に幼児のころから馴れていた・どっぷりと浸っていたことが、後年現代音楽やモダンジャズへのアレルギーを皆無にしてくれた。もし「伊福部昭大全集」なり「選集」なりのCDが編まれるならば必ず買って、あのダイナミックにしてスタティックな神々しい世界に、また心ゆくまで浸りたいものだ。考えがまとまらないが、ともあれ、音楽の深い感動を最初に教えてくれた伊福部氏に、この場を借りて感謝申し上げつつ、ご冥福をご祈念申し上げます。
2006.02.10
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つい先ほど、驚くべき吉事(よごと)がこの国を翔けめぐった。紀子さまご懐妊を心からお慶び申し上げるとともに、通常の政治問題ではない、日本という国の根幹、アイデンティティに関る重大問題が惹起されている現下の情勢下に対する、秋篠宮ご夫妻のご憂慮・ご英慮の深さに、日本国民の端くれとして感激の極みである。我々下々の者であれば男の子でも女の子でも嬉しいところだが、今上の皇室におかせられては、親王を、お世継ぎをという異常なプレッシャーがかかっているのは、かえすがえすもお気の毒であると拝察申し上げていたところである。お生まれになるのが内親王さまだとしても、今回秋篠宮ご夫妻がお示しになった誠実至極のご努力を、我々国民は永劫に忘れることはないだろう。乱筆ながら、とりあえず、満腔の祝意を表する次第です。
2006.02.07
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「山内一豊の妻」という成句は、両親の世代以上の人は当たり前に口にしていた。また、山内家が徳川260年の間、土佐24万石の太守として存続し、幕末には坂本龍馬、中岡慎太郎などの勤皇の志士を輩出し、藩主・山内容堂自身も明治維新の重要局面に体を張った大きな貢献をしたことなどは知っていたが、藩祖・山内一豊自身は立志伝中の人物であるにもかかわらず、信長・秀吉・家康という三英傑の陰に隠れて、地味で存在感が薄く、今一つ興味が持てなかった。そんなわけで、今年の大河ドラマは見ないでいいかな~、一昨年の「新選組!」、去年の「義経」と力作が続いて見る方も疲れたので、ちょっとパスして休憩かな~、なんて思っていたのだが、とりあえず初回、2回目と見るにつけ、目が離せなくなってしまったのが恐ろしい。「千代紙」の語源とも云われる、日本史上の「賢婦・良妻賢母の鑑」である千代であるが、そのままドラマにすると、夫を立て控えめでありながら聡明で優美な、一分の隙もなくよく出来た、完璧すぎる女になってしまい、細木数子氏が泣いて喜ぶような説教臭いものになってしまう恐れがあるといわれる。現に司馬遼太郎の原作はかなりの程度そうなっていると聞く。脚本の大石恵氏は、この原作の人間像に、いかに快活で明るく、オッチョコチョイなところさえある親しみやすいふくらみを付け加えるかに腐心したと語っている(本年元日各紙インタビュー記事)。この若さで、すでに大女優の風格さえ漂わせる仲間由紀恵が、持ち前の「驚異的なテンションの低さ」と評される落ち着きで、じっくりと人物造形に取り組んでいて、引き込まれる。晴れの婚礼に至るくだりでは、不覚にも涙が零れてしまった。年取ってくると涙もろくてね。私事であるが、アララギ派風の短歌など詠み、文学・映画好きだった祖母の名も千代と言い、商人の家で祖父・両親ともに忙しく立ち働いていたので、いきおいお婆ちゃん子として育った僕は、この名前には格別の親しみがあるのである。また、僕には三人の娘がいるのだが、三女には「千(ち)」の付いた名を付けた。千代という名の女性のように聡明に育ってほしい。それはさておき、よくもまあ重量級の芝居巧者が揃いも揃ったものだ。大河ドラマでの秀吉役経験者が、西田敏行(おんな太閤記)、武田鉄矢(徳川家康)、香川照之(利家とまつ)と3人も揃って準主役級で絡み、まだ本格的には登場しないが家康にはその西田敏行が廻り、家康経験者(葵 徳川三代)の津川雅彦が育ての父親役で、お寧(寧々)経験者(おんな太閤記)の佐久間良子が一豊の母役。何やら「戦国同窓会」みたいな布陣である。「司馬史観」の見事な原作とよく練れた脚色による演技戦を、古参役者たちが実に伸び伸びと自然に楽しんでいるのが画面から伝わってくる。武田鉄矢と前田吟・両ベテランのコメディー・リリーフの掛け合いも、噺家の「フラ」を思わせるとぼけた味わいで、ニャンともいとをかし、である。主役の二人も、ただ美男美女なだけの大根役者では決してなく、若手演技派の面目躍如だが、何といっても白眉は、藤吉郎・秀吉役の柄本明の熱演であろう。ここまでの展開を見ても、秀吉が、各シーンと全ての登場人物を繋ぐ狂言廻し/クラウンの役割をになっていることが明らかだ。この重責に、演技派・柄本が、一挙手一投足、台詞廻しの隅々まで緻密に計算し尽くしながら、しかもそれを付き抜けた躍動感を感じさせる驚嘆すべき熱演で応えている。台詞の活舌、呂律が若干聴き取れないところもあるが、勢いが七難隠す、である。柄本明って今幾つだ?――と、思わず問わずにはいられないほど、走る、走る。笑えつつ、共感できる。館ひろしの、冷酷で陰性で神経質で、時にヒステリックにさえ見える、下からの視線の「畏怖される信長」も、かなりいい。上手すぎる柄本明と絡むと、どうしても食われてしまって、芝居が少々下手に見えがちなのがお気の毒だが、信長の実像って、こんな感じだったのではないかと思わせてくれるリアリズム信長が、なかなか悪くない。本能寺の悲劇まで楽しめそうだ。しかし、現実に上司がこんな男だったら、毎日生きた心地がしないざんすな。本能寺といえば、耐える女がドンピシャリ嵌っている和久井映見の濃姫をめぐって、信長と明智光秀の間に感情のトライアングル関係の鞘当てがあったとする新解釈が今回のストーリーの一つの目玉で、考えただけでゾクゾクしてしまふ。信長の芝居で記憶に残っているといえば、古くは東映映画の「風雲児信長」の中村(萬屋)錦之助の歴史的名演に始まり、近年では渡哲也(秀吉)、役所広司(徳川家康)、反町隆史(利家とまつ)などの例があるが、今回の館ひろしヴァージョンは、冷たい感触とリアルな独裁者ぶりで秀でている。・・・その反面、自らをキリスト教的神に擬(なぞら)え、その思想的背景のもと、安土城に初の「天守閣」を造らせたともいわれる、信長晩年の静かな狂気とおいうべきある種不気味な部分と包容力の表現は渡哲也版が出色で、今なお記憶に残る。が、今思うと、全体的に「人間味」がありすぎたかも知れない、とも思う。石原プロの後輩で、渡に心酔しているといわれる館はもちろん気合十分であるが、どこまで迫れるか、楽しみである。トップランナーのクリエイティヴ・ディレクターといわれる菱川勢一によるタイトルバックのCGアニメーションも素晴らしく、動く美術品の趣すら湛え、こういうのはさすがにNHKの独壇場だな~と思う。苗字から察するに、浮世絵の大家・菱川師宣の末裔でもあろうか。ともあれ、高い受信料払っている甲斐があるというものである。話は逸れるが、報道によるとNHK受信料を3割が払っていないという事実には、唖然としつつ、ほんとトサカにくるざんす。地上波デジタル化を契機に、ぜひ、スクランブル(お金払わない人には見せない)化を実現すべきだ。WOWOWにできて、NHKにできないワケがない!CGでは、金色(こんじき)に光る糸が、夫婦と人間の絆、いのちの彷徨を示し、安土桃山の花鳥風月の美術を惜しげもなくサンプリングして盛り込みつつ、有名な馬の逸話を示唆し、春(桜)、夏(白波のしぶき)、秋(菊、桔梗などが乱れ咲く花野、銀杏の黄葉など)、冬(雪景色)を経て、着々と城下町が整備されてゆくのを見下ろして聳える高知城、そしてその高知城から見遥かす土佐の海に照り映える亮(さや)かなる望月(もちづき)のもと、いまや何本にも増えたいのちの糸は絡み合い、融け合いながら消えてゆく。夫婦・家族・家臣らのいのちの紐帯を象徴させつつ、人間の一生の儚(はかな)さも感じさせて、堂々たるデジタル絵巻になっている。個人的には、安土桃山時代のファッション・風俗が一番好きだ。男も女も、最も自由で美しい。典型が女性の髪型や衣装。のちの日本髪や呉服のような型に嵌ったものが少なく、ナチュラルである。江戸期に入ると、様式化・形骸化が進み、万事堅苦しくなってくる。政治的にも戦国の世は実力による下克上と自由狼藉の謳歌した時代だったが、社会風俗的にも自由の風が吹き渡っていたのだろう。小六礼次郎の音楽は、正確には何分の3拍子というのか知らないが、3拍子系のワルツ(舞踏曲)の趣向で、華麗さと激しさを伴いながらも、女性的な優美さが勝っていて、千代が主人公の内容にふさわしい。単純でない美しさがある通好みのテーマ曲といえよう。・・・つづく、かも知れない。
2006.02.06
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