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吉川宏志(よしかわ・ひろし)揺れているスズメノベントウ そんな草ないんだけれどすずめのべんとう歌集『燕麦』(平成24年・2012)燕麦 吉川宏志歌集482首 【送料無料】価格:3,150円 税込 ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメインスズメノエンドウ
2013年10月05日
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吉川宏志(よしかわ・ひろし)秋の夜のわれを照らしていた人は触れると割れるランプだったよ歌集『曳舟』(平成18年・2006)註一時的な現象だろうとは思うが、このところ私は吉川宏志氏以外の現代歌人にやや興味を失いかけている。その歌集は、どれも濃密なリアリティを伴いつつ、汲めども尽きぬ豊穣で静謐な沃野が広がっていて、魅了される。間もなく、所属している「短歌人」12月号の詠草締め切りがやってくるのだが、吉川氏の爪の垢を煎じて飲むつもりで、この感銘を少しは拙作に反映させなければと自省している。曳舟 吉川宏志歌集【送料無料】価格:2,700円 税込
2013年10月04日
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吉川宏志(よしかわ・ひろし)野沢菜の青みが飯に沁みるころ汽車の廊下はゆらゆらと坂第一歌集『青蝉』(平成7年・1995) ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン仙台駅・幕の内弁当
2013年10月03日
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吉川宏志(よしかわ・ひろし)水のあるほうに曲がっていきやすい秋のひかりよ野紺菊咲く歌集『海雨』(平成17年・2005)註重厚なリアリズムを基調とする作者には珍しく、シュールリアリスティックな発想を含む作品といえる。「水のあるほうに曲がっていきやすい秋のひかり」に、何らかの論理的、もしくは比喩的・象徴的な意味があるのかどうか分からないが、この畏敬すべき「若き巨匠」の近年の他の作品同様、一見平明でありながら、まれに見る言葉の美を生み出している。詩歌の本質とは「無用の用」「理外の理」であると改めて感じさせる一首である。個人的・主観的には、「(ひかり)よ」に舌を巻いた。呼びかけ・詠嘆を表わす四句止めのこの「よ」は、この一首に凛とした清冽な調べを齎している。この「よ」の持つニュアンスは意外に重く、偉そうに聞こえてしまうかも知れないが、自戒を込めて言えば、軽々しく使うべきではあるまい。こうした「よ」の用法は、しばしば初心者が安易に用いるが、稀なビギナーズ・ラックを除けば、安っぽい歌謡曲の歌詞のようになり、いかにもしろうとっぽく、おおむね失敗している。作歌も中級者ぐらいになるとほとんど使わなくなるのではないか。私なども、もし他の語句が浮かんだとしても、無難に「に」で繋げてしまいそうな気がする。・・・が、ここではトップ・ランナーの歌人が周到に用いている。「方へ」ではなく「ほうに」になっている点なども含めて、細かいテクニカル(技術的、技法的)な面に至るまで吉川氏の作品群は表現のレファレンス(標準)の宝庫と思う。海雨 吉川宏志歌集【送料無料】価格:3,150円 税込 ノコンギク画像 ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2013年10月01日
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小池光(こいけ・ひかる)次ぎ河童巻取らむ河童巻いまだこれ河童巻否いな干瓢巻これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よタコ来き穴子来きタコ、タコ来き海老来き稲荷も来きねこいらず来こずショーユも来く歌集『草の庭』(平成7年・1995)註来こ、来き、来く:現代語「来る」ではなく、古語動詞「来く」(カ行変格活用)の未然形、連用形、終止形。短歌では現代でも普通に用いられる。回転寿司屋の光景のいわば「写生」だが、巨匠の瞠目すべき技量によって無類のおかしみが生じている。脱帽。
2013年09月30日
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大松達知(おおまつ・たつはる)生徒の名あまた呼びたるいちにちを終りて闇に妻の名を呼ぶ妻とわれ入り組むやうに生きてゐてされどそれぞれ爪切りがある第一歌集『フリカティブ』(平成12年・2000)
2013年09月12日
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小池光(こいけ・ひかる)日に三度飯めし食ひしのみにをはりぬとことしの夏を弔ふわれは歌集「時のめぐりに」(平成16年・2004)
2013年09月05日
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三枝昂之(さいぐさ・たかゆき)首都は驟雨 射手にならざる星々のさびしきながき伝令も零る歌集「水の覇権」(昭和52年・1977)首都の夕立に星々は隠されて人々の心を射る者にならずその無念のメッセージは光の代わりに雨に託されて寂しく長々と降って来る。註「射手」「伝令」、いずれも本来は軍事用語であり、その微かに孕んだ禍々しいニュアンスが、緊張感と不安感を醸し出している。射手:「しゃしゅ」と読むか。「射手座」のごとく「いて」でもおかしくないか。零る:「ふる」と読むか。
2013年09月05日
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斎藤史(さいとう・ふみ)あやまちて簗やなにのりたるいろくづの白きひかりを人拾ふなり歌集「ひたくれなゐ」(昭和51年・1976)註簗:梁。→ 梁漁○ 栃木・烏山(那珂川)「矢沢のやな」ウェブサイトいろくづ:鱗うろこの古語。転じて魚を指す。ここでは、とりわけ鮎。 ウィキペディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2013年09月02日
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土岐善麿(とき・ぜんまろ)初対面たまたま来あはせし青年の三人ながら復員の兵歌集「冬凪」(昭和22年・1947)註もともと洒脱な歌風の作者らしい、終戦直後のスケッチ風の一首だが、当時すでに著名な歌人だった作者の下に三々五々集まってきた、こうした復員軍人や銃後の青年の群れの中に、その後の現代短歌を切り拓いていった俊英たちがいただろうことを想像すると、これはなかなか含蓄のある歌だなと思う。
2013年08月15日
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土岐善麿(とき・ぜんまろ)あなたは勝つものと思つてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ歌集「夏草」(昭和21年・1946)
2013年08月15日
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俵万智(たわら・まち)「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日第一歌集『サラダ記念日』(昭和62年・1987)Because you told me"Yes,that tasted pretty good"July the Sixthshall be from this day forwardSalad Anniversary.英訳 ジャック・スタム Jack Stamm【俵万智さん自註】 サラダがおいしかったというような、ささやかなことが記念日になる。それが恋というものだし、それを記念日として刻印してくれるものが、自分にとっての短歌だ。(角川「短歌」2009年7月号)註現代短歌では異例の大ベストセラーとなって一世を風靡し、歌壇のみにとどまらない広汎な日本語表現にまで大きな影響をもたらした作者の記念すべきデビュー歌集の表題歌。見かけによらず、きわめて技巧的な一首である。作者自身の表向きの社交辞令的公式解題というべき上記の「自註」はともかくも、自著『短歌をよむ』(岩波新書)で告白しているところによると、手帳に書きとめた初稿は「カレー味のからあげ君がおいしいと言った記念日六月七日」だったという。「サラダ」は影も形もなかった。そこから、「からあげ記念日」 などの案も含め、文字として残っているだけで8パターンほどの推敲案を経て、発表された形になったという。「頭の中の推敲」を含めれば、もっと多いだろう。日付の改稿についても、季節感に留意しつつ、七夕の7月7日では恋の歌には即つきすぎとして斥けるなど、なかなかに彫心鏤骨の創作過程であることが分かる。これほど苦心の彫琢ではないとしても、短歌実作者であれば例外なく、着想から推敲・脱稿に至るまで、うんうん呻吟しながらこれに近いようなことはけっこうやっている(そこがまた楽しからずや、ではある)ので、こちらの勝手な一方通行ながら、共感と忖度の念を禁じえない逸話である。作者は触れていないが、おそらく実際には7月4日がアメリカ合衆国の「独立記念日(インディペンデンス・デイ)」であることも踏まえているのだろう(くまんパパ説)。この解釈が成り立つとすれば、作者が独立したのは、それまで庇護してくれた「両親」からだろう。「これゆえに、人はその父母を離れて偶つまと契りを結び合う」という旧約聖書・創世記のアダムとエヴァ(イヴ)説話の結語エピローグが想起される。そうだとすると、この歌は若い女性が親元から離れて世の荒波に帆を揚げつつ、自由な恋愛の海に出帆する宣言であり、それなりに悲壮ともいえる覚悟が織り込まれているとも読めそうだ。・・・そんなこんなにもかかわらず、一見してそうした技巧を全く感じさせない自然な表現にまで持っていった手際の妙。作歌当時、芳紀二十歳そこそこだったひとりの女の子のたくらみが現代短歌の可能性を大きく拓いた「記念碑」的な不朽の名歌。俵万智 短歌をよむ【送料無料】価格:840円(税込)
2013年07月06日
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東直子(ひがし・なおこ)そぼそぼと降る雨音のおだやかさ 愛した人の悪口を言う第一歌集『春原さんのリコーダー』(平成8年・1996)
2013年07月04日
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穂村弘(ほむら・ひろし)ワイパーをグニュグニュに折り曲げたればグニュグニュのまま動くワイパー第一歌集『シンジケート』(平成元年・1989)
2013年07月04日
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藤原龍一郎(ふじわら・りゅういちろう)林真理子のヌードのように容赦なく秋の没陽いりひがわれを責めるよ歌集「夢みる頃を過ぎても」(平成元年・1989)註わが師である奇才の代表作で、現代短歌の秀歌の一つ。彷徨する青春の魂の苦悩と焦燥が、ほかの誰にも思いつくことのできない奔放な話法と、すばらしくふざけているが説得力のある豪胆な直喩によって詩に結晶している。「林真理子のヌードのように」は「容赦なく」を導く序詞(じょことば)であると同時に、「ヌードの林真理子」が「秋の没陽いりひ」でもあり「われを責める」ものでもあるという重層的な隠喩(メタファー)になっている、・・・のだろうか?そして、さらに気づかされることといえば、現代の女傑・女丈夫の姐御・林真理子は、いうなれば、いつもヌードでそこにいるのだ。抜き身の刀といってもいいだろう。生き方が容赦ないのだ。そのへんの正鵠を射得て言い得ている一首。そして結局、僕たちは林真理子が、好きかどうかは別として、いつも気になっている旧い弟分なのである。
2013年06月17日
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石川不二子(いしかわ・ふじこ)るりたては瑠璃の紋ある翅ひらくくもりあまねき天より降くだり歌集「野の繭」 パブリック・ドメイン ルリタテハ画像
2013年05月25日
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塚本邦雄(つかもと・くにお)春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状歌集『波瀾』(昭和64年・1989)註巨匠晩年の問題作。周防内侍「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」(小倉百人一首 67、千載和歌集 964)の本歌取り。間接的に藤原定家「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」(新古今和歌集 38)も踏まえる。あかねさす:「赤」や「紫」にかかる枕詞(まくらことば)。召集令状:通称「赤紙」。
2013年04月28日
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吉川宏志(よしかわ・ひろし)しらさぎが春の泥から脚を抜くしずかな力に別れゆきたり歌集『夜光』(平成13年・2001)
2013年04月07日
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石田比呂志(いしだ・ひろし)春宵しゅんしょうの酒場にひとり酒啜すする誰か来こんかなあ誰だあれも来るな歌集『九州の傘』(平成元年・1989)
2013年04月07日
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石田比呂志(いしだ・ひろし)はらわたに花のごとくに酒ひらき家のめぐりは雨となりたり歌集『滴滴』(昭和61年・1986)
2013年04月07日
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俵万智(たわら・まち)さくらさくらさくら咲き初そめ咲き終わりなにもなかったような公園第一歌集『サラダ記念日』(昭和62年・1987)* 画像クリックで拡大ポップアップ。
2013年04月06日
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麻生太郎(あそう・たろう)ふるさとにはや桜咲くゆゑ問へば冬の寒さに耐へてこそあれ平成21年(2009)4月18日首相(当時)として主催した「桜を見る会」にて披露。ふるさとにはや桜が咲いたわけを問えば冬の寒さに耐えたからこそだなあ。
2013年04月05日
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大塚寅彦(おおつか・とらひこ)さくらばなあふるる白のひそめゐる青みるときぞいつかあらなむ歌集「声」(平成7年・1995)桜花 ──。あふれている「白」が潜めている「青」を見る時がいつかあるのだろう。/ いつあるのだろうか?註論理的な意味内容はよく分からないというほかはないが、ものすごく魅力的な一首であることは間違いない。「純粋詩」の美を放っている。幻視的な感覚の鋭敏さと「白つながり」で、巨匠・佐佐木幸綱の「竹は内部に純白の闇育て来ていま鳴れりその一つ一つの闇が」(歌集「夏の鏡」昭和51年・1976)をちょっと連想する。
2013年03月29日
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大塚寅彦(おおつか・とらひこ)花の宴たちまち消えて月さすは浅茅がホテル・カリフォルニア跡第一歌集「刺青天使」(昭和60年・1985)註浅茅がホテル・カリフォルニア:上田秋成『雨月物語』の一篇「浅茅が宿」の説話を踏まえる。その映画化の『雨月物語』(溝口健二監督、京マチ子・森雅之・田中絹代主演、昭和28年・1953、大映)は、日本映画史上屈指の傑作として知られる。ロック史上に輝くイーグルスの名曲「ホテル・カリフォルニア」の歌詞は難解を以て聞こえるが、虚飾に満ちた現代世界を痛烈に批判していることは間違いないだろう。
2013年03月29日
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石田比呂志(いしだ・ひろし)今年またわが門前の若ざくらひらくがあわれ天あまつひかりに歌集『九州の傘』(平成元年・1989)
2013年03月28日
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稲葉京子(いなば・きょうこ)抱かれてこの世の初めに見たる花 花極まりし桜なりしか細枝まで花の重さを怺へゐる春のあはれを桜と呼ばむ歌集『槐えんじゆの傘』(昭和56年・1981)
2013年03月27日
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窪田空穂(くぼた・うつぼ)純白の円き花びら群れはなれ落ちゆくさまの静かさを見よ桜花ひとときに散るありさまを見てゐるごときおもひといはむ遺稿歌集『清明の節』(昭和43年・1968)註作者の絶詠に近い最晩年の作。ここに詠われた桜は、現実のものというよりは、最期の時を迎えた作者自身の隠喩とも見える。まことに清澄な境地の、現代の辞世歌。
2013年03月27日
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上田三四二(うえだ・みよじ)しづかなる狭間をとほりゆくときにわが踏むはみな桜の花ぞさびしさに耐えつつわれの来しゆゑに満山明るこの花ふぶきちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも歌集『涌井』(昭和50年・1975)
2013年03月27日
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尾崎左永子(おざき・さえこ)雨の日のさくらはうすき花びらを傘に置き地に置き記憶にも置く歌集『夕霧峠』(平成10年・2008)
2013年03月27日
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前登志夫(まえ・としお)さくら咲くゆふべとなれりやまなみにをみなのあはれながくたなびくさくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへりふるくにのゆふべを匂ふ山桜わが殺あやめたるもののしづけさ歌集『青童子』(平成9年・2007)
2013年03月27日
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藤原龍一郎(ふじわら・りゅういちろう)散華さんげとはついにかえらぬあの春の岡田有希子のことなのだろう第一歌集『夢みる頃を過ぎても』(平成元年・1989)
2013年03月26日
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河野裕子(かわの・ゆうこ)夕闇の桜花あうくわの記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと第一歌集『森のやうに獣のやうに』(昭和47年・1972)
2013年03月26日
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花山多佳子(はなやま・たかこ)誰かうしろになみだぐみつつ佇つごとし夕ぐれが桜のいろになるころ歌集「空合」(平成10年・2008)註佇つ:「たつ」と読む。たたずむこと。「うしろになみだぐみつつ佇」っているのは、いったい誰だろうか。懐かしい人だろうか。それとも自分自身の片割れ/ドッペルゲンガーだろうか。それとも・・・。作者は語らず、ただ歌をしてもの思わしむ。
2013年03月26日
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小中英之(こなか・ひでゆき)芹つむを夢にとどめて黙ふかく疾みつつ春の過客なるべし遺稿歌集「過客」(平成15年・2003)註黙:「もだ」と読ませるか。または「もく」「しじま」とも。疾み:「やみ」と読むのだろう。過客(くわかく=かかく):松尾芭蕉「月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也」(「おくのほそ道」序文)や、李白の「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」(「春夜宴桃李園序」)を踏まえる。
2013年03月26日
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今野寿美(こんの・すみ)やはらかに文語の季節去りにけり花見むとしてわれは目を閉づ歌集「世紀末の桃」(昭和63年・1988)註咲き誇った花が散るごとく、生きた言語としてはすでに存在しない文語。美しきものは、もはや記憶の中にしか存在しないという寂莫たる喪失感。失われたものへの愛惜の感情は、すでに「もののあはれ」そのものといえよう。
2013年03月26日
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沖ななも(おき・ななも)パンジーとチューリップ咲きパンジーの黄チューリップの黄と同化せず歌集『天の穴』(平成7年・1905)
2013年03月26日
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重信房子(しげのぶ・ふさこ)銃口にジャスミンの花無雑作に挿して岩場を歩きゆく君歌集「ジャスミンを銃口に」(平成7年・2005)* 1970年代終り頃の作。
2013年03月26日
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宮柊二(みや・しゅうじ)むらさきに菫すみれの花はひらくなり人を思へば春はあけぼの歌集「緑金の森」(昭和61年・1986)
2013年03月26日
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穂村弘(ほむら・ひろし)ハーブティーにハーブ煮えつつ 春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり歌集「シンジケート」(平成元年・1989)* 「シンジケート」連作50首の「角川短歌賞」次席入賞(初出)は、昭和61年(1986)。註○ 歌人・高柳蕗子氏による、この歌の読解現代短歌の「分からない歌」の典型ともいえるこの作品の解釈としては、たぶんこんな感じになるのだろう。見事だと思う。・・・ただ、もし結局分からなくても分からないなりに、「春の夜の」春風駘蕩とした感じが醸し出されているのは面白い。
2013年03月26日
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塚本邦雄(つかもと・くにお)飛梅の飛ぶ香はるけき寒昴かんすばる耳の迷宮に光刺すなり歌集『されど遊星』(昭和50年・1975)註菅原道真「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」(拾遺和歌集 1006)および飛梅伝説を踏まえる。
2013年03月21日
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塚本邦雄(つかもと・くにお)紅梅もみのれるあはれ明盲あきじひの彼ら他界をさしのぞくとや歌集『されど遊星』(昭和50年・1975)
2013年03月21日
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塚本邦雄(つかもと・くにお)紅梅は明日散る蘂の逆睫毛さすがさしぐむわが名呼ばざれ歌集『青き菊の主題』(昭和48年・1973)紅梅は明日散る雄蕊と思えば逆さ睫毛のごとくさすがにさしぐむ涙願わくはわが名を呼ばないでくれ。
2013年03月20日
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)終ります白梅散りて 終ります紅梅散りて いつか終ります歌集『エトピリカ』(平成14年・2002)註論理的な意味ははっきりとは分からないというほかはないが、黙示録(アポカリプス)的な深遠さを感じさせる一首。終りがあり、散るからこそ美しい梅の花に託して、人生の不可逆的な一回性などの形而上学的(メタフィジカル)な命題を重ね合わせて伝えようとしているのかも知れない。作者の作品群の中でも屈指の秀歌であろう。
2013年03月18日
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宮柊二(みや・しゅうじ)梅の花ぎつしり咲きし園ゆくと泪なみだぐましも日本人われ歌集『晩夏』(昭和26年・1951)
2013年03月18日
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前川佐美雄(まえかわ・さみお)月ヶ瀬の谷の空わたる月あれば昼間見し梅花うめ忘れてねむる歌集未収録
2013年03月17日
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佐藤佐太郎(さとう・さたろう)ひとときに咲く白き梅玄関をいでて声なき花に驚く歌集『星宿』(昭和58年・1983)
2013年03月16日
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玉城徹(たまき・とおる)いずこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅第一歌集『馬の首』(昭和37年・1962)
2013年03月16日
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米川千嘉子(よねかわ・ちかこ)お軽、小春、お初、お半と呼んでみる ちひさいちひさい顔の白梅歌集『滝と流星』(平成16年・2004)註お軽:人形浄瑠璃(文楽)、歌舞伎を代表する演目「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」(竹田出雲・三好松洛・並木千柳作)の重要な登場人物。例えば、映画「四十七人の刺客」(市川崑監督、高倉健主演、1994年)では、この役を宮沢りえが務めた。小春:近松門左衛門の傑作「心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)」のプロタゴニスト(主人公)。映画「心中天網島」(篠田正浩監督、中村吉右衛門共演、1969年)では、岩下志麻が演じた。お初:同「曽根崎心中」の主人公。お半:菅専助「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」。
2013年03月16日
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宮英子(みや・ひでこ)ひとつづつ雛のおもてを包み蔵ふ雪降る午前しづけくしあり歌集「婦負野」(平成17年・2005)註おもて:「顔、おもわ」の意味で、これが原義。語源は「面(おも)方(て)」。のちに「(裏)表」の意味が派生した。cf.)山の手。大手門。蔵ふ:「しまう」と読む。
2013年03月04日
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俵万智(たわら・まち)私から私に贈る言葉あり手のひらサイズの雛ひいなを飾る歌集「チョコレート革命」(平成9年・1997)註古語「ひひな」が、「ひいな」→「ひな」と転訛した。
2013年03月02日
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