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梅内美華子(うめない・みかこ)截るごとにキャベツ泣くゆえ太るときもいかに泣きしと思う夕ぐれ歌集『若月祭みかづきさい』(平成11年・1999)註截る:「きる」と読む。截断せつだんする。包丁などでばっさりと切り分ける。 キャベツウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2016.04.12
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香川ヒサ(かがわ・ひさ)ひとひらの雲が塔からはなれゆき世界がばらば らになり始む歌集『ファブリカ』(平成8年・1996) 薬師寺 玄奘塔 (奈良市西ノ京町)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2016.04.12
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尾崎左永子(おざき・さえこ)雨の日のさくらはうすき花びらを傘に置き地に置き記憶にも置く歌集『夕霧峠』(平成10年・2008)
2016.04.04
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佐藤佐太郎(さとう・さたろう)夕光ゆふかげの中にまぶしく花みちてしだれ桜は輝かがやきを垂る歌集『形影』(昭和45年・1970)註輝かがやきを垂る:輝きを(したたり落ちる水のように)垂らしている。
2016.04.03
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稲葉京子(いなば・きょうこ)抱かれてこの世の初めに見たる花 花極まりし桜なりしか細枝まで花の重さを怺へゐる春のあはれを桜と呼ばむ歌集『槐えんじゆの傘』(昭和56年・1981)
2016.04.03
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上田三四二(うえだ・みよじ)しづかなる狭間をとほりゆくときにわが踏むはみな桜の花ぞさびしさに耐えつつわれの来しゆゑに満山明るこの花ふぶきちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも歌集『涌井』(昭和50年・1975)
2016.04.03
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今野寿美(こんの・すみ)やはらかに文語の季節去りにけり花見むとしてわれは目を閉づ歌集『世紀末の桃』(昭和63年・1988)註咲き誇った花が散るごとく、生きた言語としてはすでに存在しない文語。美しきものは、もはや記憶の中にしか存在しないという寂莫たる喪失感。現代的な語彙を用いていながら、失われたものへの愛惜の感情は、まさに「もののあはれ」そのものといえよう。
2016.04.03
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窪田空穂(くぼた・うつぼ)純白の円き花びら群れはなれ落ちゆくさまの静かさを見よ桜花ひとときに散るありさまを見てゐるごときおもひといはむ遺稿歌集『清明の節』(昭和43年・1968)註近現代短歌の巨匠であった作者の絶詠に近い最晩年の作。ここに詠われた桜は、現実のものというよりは、最期の時を迎えた作者自身の隠喩とも思われる。まことに清澄な境地の「現代の辞世歌」。
2016.04.01
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前登志夫(まえ・としお)さくら咲くゆふべとなれりやまなみにをみなのあはれながくたなびくさくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへりふるくにのゆふべを匂ふ山桜わが殺あやめたるもののしづけさ歌集『青童子』(平成9年・2007)
2016.04.01
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大塚寅彦(おおつか・とらひこ)さくらばなあふるる白のひそめゐる青みるときぞいつかあらなむ歌集『声』(平成7年・1995)桜花 ──。あふれる「白」が潜めている「青」を見る時がいつかあるのだろう。/ いつあるのだろうか?註論理的な意味内容はよく分からないというほかはないが、ものすごく魅力的な一首であることは間違いない。「純粋詩」の美を放っている。幻視的な感覚の鋭敏さと「白つながり」で、巨匠・佐佐木幸綱の「竹は内部に純白の闇育て来ていま鳴れりその一つ一つの闇が」(歌集『夏の鏡』昭和51年・1976)をちょっと連想する。
2016.03.29
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大塚寅彦(おおつか・とらひこ)花の宴たちまち消えて月さすは浅茅がホテル・カリフォルニア跡第一歌集『刺青天使』(昭和60年・1985)註花の宴:「荒城の月」の歌詞「春高楼の花の宴」を踏まえる。浅茅がホテル・カリフォルニア:上田秋成の古典『雨月物語』の一篇「浅茅が宿」の説話を踏まえる。その映画化の『雨月物語』(溝口健二監督、京マチ子・森雅之・田中絹代主演、昭和28年・1953、大映)は、日本映画史上屈指の名作として知られる。また、ロック史上に輝くイーグルスの名曲「ホテル・カリフォルニア」の歌詞は難解を以て聞こえるが、虚飾に満ちた現代世界を痛烈に批判していることは間違いないだろう。そういった幻滅とアンニュイに満ちたイメージを重層的に鏤ちりばめている。→ イーグルス ホテル・カリフォルニア
2016.03.29
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宮英子(みや・ひでこ)ひとつづつ雛のおもてを包み蔵ふ雪降る午前しづけくしあり歌集『婦負野』(平成17年・2005)註おもて:「顔、おもわ」の意味で、これが原義。語源は「面(おも)方(て)」。のちに「(裏)表」の意味が派生した。cf.)山の手。大手門。蔵ふ:「しまう」と読む。* 小島ゆかり「われにふかき睡魔は来たるひとつづつ雛人形を醒まして飾り終ふれば」は、この歌のリスペクト的な本歌取りと見られる。
2016.03.03
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伊藤一彦(いとう・かずひこ)弥生雛やよいびなかざればあわれ音もなくおりてくるかな家の霊らも歌集『瞑鳥記』(昭和49年・1974)註霊:「たま」と読むか。
2016.03.01
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)われにふかき睡魔は来たるひとつづつ雛人形ひなを醒まして飾り終ふれば歌集『獅子座流星群』(平成10年・1998)
2016.03.01
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俵万智(たわら・まち)私から私に贈る言葉あり手のひらサイズの雛ひいなを飾る歌集『チョコレート革命』(平成9年・1997)註雛ひいな:古語「ひひな」が、「ひいな」→「ひな」と転訛した。その中間の段階を用いた擬古的表現。
2016.03.01
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馬場あき子古雛の目もとかそけくなりはててみちのく遅き春をみており歌集『桜花伝承』(昭和52年・1977)註奥州(東北地方)の、旧暦による桃の節句の情景か(今年でいえば、4月9日に当たる)。目元も微かになり果てた古い雛人形が鄙(ひな)びた風情を醸しているつつましやかな遅い春。古雛:「ふるびな」と読むのだろう。
2016.03.01
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紀野恵(きの・めぐみ)晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな第一歌集『さやと戦げる玉の緒の』(昭和59年・1984)冬の終わりの東海道はほのかに薄明かりして海に寄り添っているのだろう。帰ろう。註(かへら)な:「~しよう」。活用語(この場合は動詞「帰る」)の未然形に接続して、話者の意志を示す上古語終助詞。万葉集に頻出する。おそらく、奈良時代当時の口語だったのだろう。 東海道 富士山付近 / 薩埵峠(静岡県清水市)付近ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大
2016.02.23
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俵万智(たわら・まち)「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ第一歌集『サラダ記念日』(昭和62年・1987) クロッカスウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2016.02.23
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前川佐美雄(まえかわ・さみお)月ヶ瀬の谷の空わたる月あれば昼間見し梅花うめ忘れてねむる* 月ヶ瀬観光協会(奈良県奈良市) 梅まつり
2015.03.17
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紀野恵(きの・めぐみ)晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな第一歌集『さやと戦げる玉の緒の』(昭和59年・1984)冬の終わりの東海道はほのかに薄明かりして海に寄り添っているのだろう。帰ろう。註第一歌集の劈頭を飾って、そのまま作者の代表作となった名歌。(かへら)な:「~しよう」。活用語(この場合は動詞「帰る」)の未然形に接続して、話者の意志を示す上古語終助詞。万葉集に頻出する。おそらく、奈良時代当時の口語だったのだろう。 東海道 富士山付近ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2015.03.15
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俵万智(たわら・まち)私から私に贈る言葉あり手のひらサイズの雛ひいなを飾る歌集『チョコレート革命』(平成9年・1997)註雛ひいな:古語「ひひな」が、「ひいな」→「ひな」と転訛した。その中間の段階を用いた擬古的表現。
2015.03.03
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)われにふかき睡魔は来たるひとつづつ雛人形ひなを醒まして飾り終ふれば歌集『獅子座流星群』(平成10年・1998)
2015.03.03
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伊藤一彦(いとう・かずひこ)弥生雛やよいびなかざればあわれ音もなくおりてくるかな家の霊らも歌集『瞑鳥記』(昭和49年・1974)註霊:「たま」と読むか。
2015.03.03
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馬場あき子古雛の目もとかそけくなりはててみちのく遅き春をみており歌集『桜花伝承』(昭和52年・1977)註奥州(東北地方)の、旧暦による桃の節句の情景か(今年でいえば、4月21日に当たる)。目元も微かになり果てた古い雛人形が鄙(ひな)びた風情を醸しているつつましやかな遅い春。古雛:「ふるびな」と読むのだろう。
2015.03.02
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俵万智(たわら・まち)バレンタイン君に会えない一日を斎いつきの宮のごとく過ごせり第一歌集『サラダ記念日』(昭和62年・1987)* 斎宮(いつきのみや、さいくう)
2015.02.13
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藤原龍一郎(ふじわら・りゅういちろう)寒雷雨暗き茶房にやり過ごし戦場に行ったジョニーのことも歌集『19××』(平成9年・1997)
2015.01.28
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香川ヒサ(かがわ・ひさ)ひとひらの雲が塔からはなれゆき世界がばらば らになり始む歌集『ファブリカ』(平成8年・1996) 国宝 薬師寺 金堂ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.12.01
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佐佐木幸綱(ささき・ゆきつな)わたくしももみじしたいと大き楓仰ぎて若き女は言うも歌集『瀧の時間』(平成5年・1993) カエデ 紅葉ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.11.26
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)団栗はまあるい実だよ樫の実は帽子があるよ大事なことだよ歌集『月光公園』(平成4年・1992) ドングリEastern Grey Squirrel in St.James's Park, Londonウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.11.17
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小島ゆかりラウンジのソファーに独り居ることも秋のよろこび 珈琲を飲む歌集『希望』(平成12年・2004) 秋 ニホンリス ホテルウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.10.29
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小池光(こいけ・ひかる)颱風の眼に入りたる午後六時天使領たるあをぞら見ゆる歌集『廃駅』(昭和57年・1982)註颱風:「台風」の正字体(旧字体)。 台風の構造(模式図)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大
2014.10.14
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)ぶだう食はむ夜の深宇宙ふたり子の四つぶのまなこ瞬きまたたく歌集『月光公園』(平成4年・1992) ブドウ 山梨・勝沼ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014.10.04
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米川千嘉子(よねかわ・ちかこ)ひかりとは飛び交ふ時間秋の星見れば青年の吾子あこも流るる歌集『一夏』(平成5年・1993)註 ロマンチックで調べ(言葉の音楽性)の美しい歌である。論理的意味はさほど重要ではないとも思われるが、「星の王子さま」みたいなファンタスティックなイメージを思い浮かべても差し支えなさそうである。 飛び交う光という(光陰矢の如しの)時の流れの中で、秋の星屑(スターダスト)の中に、今は青年になったわが子も流れ星(シューティング・スター)となって流れている、・・・というようなことを言っているかのようだ。 獅子座流星とオリオン座 Leonids and Orionウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014.10.03
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永井祐(ながい・ゆう)パーマでもかけないとやってらんないよみたいなものもありますよ 1円第一歌集『日本の中で楽しく暮らす』(平成24年・2012)註 またしても石川啄木である。しかも、代表作「はたらけど/はたらけど猶なほわが生活くらし楽にならざり/ぢっと手を見る」(第一歌集『一握の砂』明治43年・1910)である。作者がこの歌のパスティーシュを意図したかどうかは知らないし、問題ではない。短歌は発表されると同時に作者の手を離れ一人立ちする。読者である私にとって、この歌の紙背に啄木が透けて見えることがリアルであるにほかならない。 明治の啄木青年は、赤貧洗うがごとき境涯にあって、自己憐憫や自慰・自愛的な感情で「ぢっと手を見」たのだろうが、裕福ではないにしろ赤貧は洗ってないであろう平成の祐青年は、自嘲・諧謔的な感情で「たまにはパーマでもかけて、ちったあシャレのめさないとやってらんないっすよ、みたいな~」とか言ったりするわけだ。どちらも程度の差はあれ芝居っ気が入っていると思われる。 最近はカメラもデジタルになってしまって、写真フィルムも富士フイルムの社名に残るぐらいになってしまったが、まだなんとか通用するであろう割と適切と思われる比喩としていえば、この歌は啄木というネガティブ(陰画、否定的)に対するポジティブ(陽画、肯定的)である。 あるいは、永井祐という函数(ファンクション)を通して変換(デコード)された啄木である、ともいえるだろうか。この変換方式が合わないと「文字化け」して見えることは、パソコンをいじっている者ならよく知っている現象である。作者をめぐる毀誉褒貶には、一部にこうしたいわば「文字化け」めいた現象が起こっているのではないかと憶測しているところである。
2014.10.03
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永井祐(ながい・ゆう)ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見第一歌集『日本の中で楽しく暮らす』(平成24年・2012)註この歌は、もしかすると石川啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」(第一歌集『一握の砂』明治43年・1910)のパスティーシュなのではないかと思ったが、これは私の穿ちすぎかも知れない。ただ、前エントリーで触れた生沼氏の評論によると、作者と同世代の歌人・花山周子氏が短歌総合誌の座談会で、永井の歌は「近代(短歌)に近いような読み方で素朴によさを感じている」という趣旨のことを発言しているとのことで、なるほどと膝を打った。かねてから私も同じような感じを持っていた。ちなみに、生沼氏の評論のタイトルは「解体そして新陳代謝」だが、異議というほどではないにしても微かな違和感を覚える。解体どころか、もしかするとこれこそ一つの新たな「統合(インテグレーション)」なのではないかという考えがちょっと脳裡をよぎるのだ。・・・ただ、いまちょっと忙しいので、またね。
2014.10.02
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永井祐(ながい・ゆう)夕焼けがさっき終わって濃い青に染まるドラッグストアや神社第一歌集『日本の中で楽しく暮らす』(平成24年・2012)註本人が望むと望まざるとにかかわらず、現代短歌最尖鋭の旗手の一人と看做されている若手ホープである。私も高く評価している。というより、一読者として惹かれている。例えば、荒唐無稽なハリウッドのSFX映画などと対極にある世界といえる。あらかじめ「大いなる物語」が存在しないであろう時代にあって、細心なまなざしで掬いとられ周到に選び抜かれたリアリティ溢れる言葉で捉えられた、この上なくフラットだが稠密な世界像がここにある。ベートーベン晩年の渋い傑作群、後期弦楽四重奏曲への言及は、示唆的と思える。このようにして、新しい時代の扉は開かれるのかも知れない。 ほぼ1年前、昨年10月11日の記事でこう書いたのをそのまま転載した。この感想は今も基本的に変わっていない。激しい毀誉褒貶の渦中にある作者の名状しがたい存在感は、私の中でいや増す一方であり、昨年から今年にかけて拙作の表現上も強い影響を受けていると感じている。 このほど、「短歌人」10月号誌上に、歌人・生沼義朗氏の現代短歌に関する評論「解体そして新陳代謝」が掲載され、この作者に関して、私の知る限り初めて納得のいく解釈と好意的な批評を読むことができた感があり、わが意を得た思いである。 作者の歌風に対しては、歌壇の一部から一方的に「ユルい」「脱力系」「短歌になっていない」などと口を極めて貶す批判があるが、たぶんほとんど的外れであることは確かと思う。歌壇というところには、旧帝国陸軍内務班のごとき新兵いびりの体質があることは否めない。 ・・・ただ、今私は多忙に加え、「短歌人」12月号詠草締め切りも迫っているという緊急状態なので、詳しく論評しているゆとりがない。また日を改めてちゃんと書いてみたいと思う。*「楽天市場」では扱われていない模様です。
2014.10.02
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永井祐(ながい・ゆう)ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね第一歌集『日本の中で楽しく暮らす』(平成24年・2012)
2014.10.02
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永井祐(ながい・ゆう)ベートーベン後期弦楽四重奏 ぴちぴちのビニールに透けている第一歌集『日本の中で楽しく暮らす』(平成24年・2012)
2014.10.02
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今野寿美(こんの・すみ)かへすがへすその夜のわれを羞はぢらひて 白桃つつめる薄紙をとく歌集『世紀末の桃』(昭和63年・1988)註具体的な状況は不明だが、作者がのちのち「かへすがへす羞はぢらひて」いる「その夜のわれ」とは、「包まれていた薄紙をとかれた白桃」という隠喩メタファーで表わされた「われ」なのだろう。艶笑的な想像を呼び起こす、ちょっとお茶目なウィットに富んだ一首。* 画像はアフィリエイト・リンクです。
2014.09.24
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斎藤茂吉(さいとう・もきち)秋風の遠とほのひびきの聞こゆべき夜ごろとなれど早く寝いねにき歌集『小園』(昭和24年・1949)秋風に乗った遠い場所の響きが聞こえてくるであろう夜の頃合いとなって耳を澄ましていたい気持ちもあったのだが疲れていたので早々に寝てしまったよ。註「遠とほの」という特異な表現は、もしかすると上古語「とをを」を掛けているのかも知れないが、筆者の穿ちすぎか。「とをを」は、豊か・豊穣の意味。「たわわ」の母音交替形で、意味は同じ。数詞「十(とを)」と語源的関係があるともいわれる。 日本貨物鉄道(JRF)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.22
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大辻隆弘(おおつじ・たかひろ)横田早紀江といふ母 子をおもふ誠がやがておのづから ナショナリズムを帯びゆくあはれ「レ・パピエ・シアン」第78号註これは酷い。むごい。まことに冷血な、心ない一首と言わざるを得ないだろう。言霊の幸さきわう短歌という形式を以て、横田さんの痛切な真情を冷笑し、茶化している。作者の人間性(というより、正気)を疑わずにはいられない。まるで北朝鮮側のプロパガンダのような歌である。同じ作者が、あの「9.11」アメリカ同時多発テロ事件を詠んだ問題作「紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき」(通称「ざまあみろの歌」)にも驚愕させられたが、心胆を寒からしめる衝撃はこちらの掲載歌の方がむしろ深いかも知れない。*「紐育」は「ニューヨーク」と読む。到底首肯できない、表現の暴走と言わざるを得ない。百歩譲って、たまたま思いついてしまったとしても、まともな神経(自己選歌眼)の持ち主であれば、普通は発表を躊躇う悪魔の語と思う。人格攻撃に当たるようなことをめったなことで口にすべきではないと思うが、この作者はどこかぶっ壊れている、病んでいると思うのは私だけではないだろう。近頃は絶滅危惧種となった「反日病患者」だが、歌壇にはこういう輩やからがまだ残存しているのかと、戦慄を禁じ得ない。■ 朝日歌壇鑑賞会 「正論」記事、歌人を釣り上げる■ 青磁社ホームページ 「朝日歌壇鑑賞会」への反論 大辻隆弘■ 朝日歌壇鑑賞会 大辻隆弘氏への返答■ 大辻さんの歌【ブログ「市女笠」】
2014.09.21
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)秋霊はひそと来てをり晨あしたひらく冷蔵庫の白き卵のかげに歌集『月光公園』(平成8年・1996)註秋の彼岸会ひがんえの朝、何気なく開いた冷蔵庫の卵の陰に祖霊がひっそりと来ていたという、一種のアニミズム(精霊信仰)的な感覚を漂わせた幽玄な秀歌。晨あした(しん)は、生気に満ちた早朝のこと。晨旦しんたん。 冷蔵庫 おはぎ(ぼたもち)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.19
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俵万智(たわら・まち)にわか雨を避けて屋台のコップ酒人生きていることの楽しさコップ酒濱の屋台のおばちゃんの人生訓が胃に沁みてくる第一歌集『サラダ記念日』(昭和62年・1987) おでんウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.19
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今野寿美(こんの・すみ)もろともに秋の滑車に汲くみあぐる よきことばよきむかしの月夜つくよ歌集『星刈り』(昭和58年・1983)水ともろともに秋の古井戸の滑車で汲み上げる良き言葉 良きいにしえの月夜。 井戸 滑車ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.18
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斎藤茂吉(さいとう・もきち)石の上に羽を平ひらめてとまりたる茜蜻蛉あかねあきつも物もふらむか歌集『小園』(昭和24年・1949)石の上に羽を平たくしてとまった赤蜻蛉もものを思っているのだろうか。註物もふ:「もの(を)思う」の約まったもの。和歌では頻出する語で、その多くは恋愛感情を意味する。 アキアカネ(赤とんぼ)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.16
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)陣痛の間あひをたどりて追憶おもひでの花野にひとり泣きてゐしこと第一歌集『水陽炎』(昭和62年・1987)くりかえし襲ってくる陣痛の間あわいを孤独な意識は辿って追憶の花野の中で独り泣いていたこと(を思い出していた)。註花野:花咲く野辺。秋季を含意する。 妊娠 Pregnant graffiti 出産 Newbornウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.14
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岡井隆(おかい・たかし)冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来こし一生ひとよのごとし歌集『神の仕事場』(平成6年・1994)註来こし:古語動詞「来く」の連用形に、過去の助動詞「き」の連体形「し」がついたもの。正岡子規一門(アララギ派)が好んで用いた語。 鶏卵 Anatomy of an eggウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.13
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吉川宏志(よしかわ・ひろし)旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る歌集『海雨』(平成9年・2007)* 若狭鯖街道 熊川宿 月 鯖街道口(京都・出町) 熊川宿ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.13
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水原紫苑(みずはら・しおん)まつぶさに眺めてかなし月こそは全またき裸身と思ひいたりぬ第一歌集『びあんか』(昭和64年・1989) 月 Aldrin Apollo 11ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014.09.08
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斎藤史(さいとう・ふみ)みじか夜を美くはしといひて惜しみつつやがて眠りにゆくばかりなる歌集『朱天』(昭和19年・1944)短い夜が過ぎて行くのを 短いなりにぎっしりと稠密で美しい時間なのだと言って惜しみながらやがて眠りに入ってゆくばかりなのである。註くはし:現代語「詳しい」の語源の古語だが、精緻で繊細な美しさを言った。古典に、椿や紫陽花の花を「くはし」と表現した例がある。* 作者は、この作品を含め戦前から作歌を始めていますが、主として戦後に活躍した歌人と見られるので、カテゴリーは「現代短歌」に繰り入れます。当ブログサイトでは、原則として昭和20年(1945)8月15日正午以降を「現代」と見なしています。 夏の大三角 ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014.08.23
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