2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
全8件 (8件中 1-8件目)
1
そして、『僕』は目を開けた。「ここは…?」見た事もない、いや、何処かで見たことのある風景。これは…『僕』が小さい頃に住んでいた家だ。しかし…何故だろう?私の生まれた頃の家は、既になくなっているはずなのだが…。『それは、貴方の記憶よ』声は後ろから聞こえた。酷く懐かしいような、それでいて聞いた事のないような声。ゆっくりと振り向くと、そこには、『…?』女性が立っていた。見た目は22、3歳といったとことか。黒髪を腰の辺りまで伸ばし、風になびかせている。……美しかった。思わず見とれてしまった…『ここは貴方の記憶の中。貴方、自分が今どうなっているか、分かる?』私は、彼女に聞かれ、ゆっくりと何があったのか、考えた。~~~
2004年07月28日
コメント(0)
高校を卒業後には、専門学校に入る事になる。入学式では、入学生代表としてスピーチなどをしたりもした(マジ)。しかし…自分にはできないと思った。結局、ゴールデンウイークが終わると、学校を辞めた。まったく、入学金だけを無駄にしたようなものである。その足で、バイト先に行った。高校生の頃から、『よかったら社員になれ』といわれていたからだ。このままダラダラとバイトをするには経済の条件があまりにも頼りない。よって、仕事を本格的にするという決断を下したのだ。専務に会い、その場で会社への採用が決まった。現在も、その会社に私は勤めている。なんとかかんとかやっている。だが…~~~さて、ここまでは私の半生を書いてきた。ここから、本格的に小説の始まりです。最初は、HP内の小説とほぼ同じになると思いますが、ダラダラと読んでやって下さい。
2004年07月27日
コメント(0)
高校での生活は、ほとんどが放課後の思い出しか覚えていない。少ないけれども、大切な友達が何人かできた。未だに、時々集まって飲んだりもする。あの頃と変わっていない…なんてことは、あるはずがない。人間は、日々変化している。1人だけクラスの違う私は、昼休みと放課後は必ずその友達の元へ遊びに行った。同じクラスには、残念ながら友達と呼べる人間はいなかった。だが、それを寂しいと思った事はない。授業は勉強するもの。そこに友達は必要なかったからだ。友達とは、バカ騒ぎもした。バンドを組んで、演奏したりもした(結局、ライブハウスでやる事はなかったのだが)。卒業旅行にも一緒に行った。あの頃と比べて、みんな大人になっている。それぞれの考えは確固たる信念となり、彼らを突き動かしている。変わっていないのは、私だけなのかもしれない。いや、私も変わったのだろう。みんなと違うのは、私の変わり方は決して前向きではないという事だろうか。高校を卒業後は、ゲームプログラマーになるための進路を進むのだが、これは次の日記で。
2004年07月26日
コメント(1)
高校時代も、決してよかったとはいえないのだと思う。私は、商業高校に進学したかった。パソコンについて、もっと勉強したかったからだ。中学校3年の頃から、ゲームプログラマーになりたいと思っていた。パソコンを持っていなかった私は、パソコンの勉強をもっとしたいと思って、母に商業高校への進学を相談したのだ。ところが、母は『高校だけは公立を卒業して欲しい』との希望があったらしく、商業に行くなら、学費を全て自分で負担しろというその頃の私にはおよそ不可能な条件を出してきた。これに私は答える事が出来ず、結果として公立高校への進学を余儀なくされた。だが、ささやかな抵抗として、ほとんど受験勉強をせず(一応、通信教育は受けていた)、更に私立の受験を受けないという暴挙に出た。入学した後に知ったのだが、公立1本にした生徒には、特別に受験の結果にプラスして5点だか10点が加算されていたらしい。商業高校に行けなければ、私立の2次になっても構わないと思っていた私は、結果として公立高校の受験に合格した。その前日に、ひどい風邪を引き、39度の熱を出し、保健室で受験を受けていたにもかかわらず(苦笑)。
2004年07月21日
コメント(2)
私の幼い頃の話をしよう。幼い頃は、寡黙なおとなしい子だったらしい。ここで待っていろといわれれば、1時間でも2時間でも、一言も言わずじっと待っているような子供だったらしい。子供の頃のビデオがある。小さなレースゲームにはしゃいでいる、幼い頃の私の姿があった。その頃は、まだ存命だった祖父と祖母と。楽しそうに笑っていた。いつから、笑う事を忘れてしまったのだろう?心の底から笑うということは、もはや私にはできないのだろうか。小学校、中学校と、私は小さい事などから、よく苛められた。最もひどかったのは中学3年の頃だろう。通学鞄がカッターナイフで切られたりと、かなり悪質な苛めがあった。護身用にと、バタフライナイフを持ち始めたのもあの頃だったと思う。さすがに今ではそんな馬鹿な事はしていないが。自衛の手段は、それくらいしかなかったから。あの頃には、二度と戻りたくないというのが本音だ。
2004年07月20日
コメント(0)
父は、ほとんど印象に残っていない。一緒に遊んだ経験も、記憶の中にはまったくといって良いほど残っていない。小学生の頃、日曜日に遊ぼうと寝ている父の元に行ったら、思いっきり蹴り飛ばされ、タンスの角にしたたかに頭をぶつけたのを覚えているくらいだ。母と父は、私が小学校3年生の頃に離婚した。私は母親についていった。というより、母が無理やり連れてきた、というのが正しいだろう。その頃の私には、そんな判断能力はなかったからだ。結果的には、それがよかったのだと思う。私は、父を反面教師として育ったのだと思う。父は、私から見ても生活能力があったとは思えなかった。その後、何度か父に会う機会はあったが、壁には卑猥なポスターが貼ってあったりと、とてもではないが、片親で育てられるとは思えなかった。高校の時、あまりにもひどい父の言動に堪忍袋の尾が切れて、親子の縁をこちらから切った。それ以来、父の姿を見る事も、電話で話をすることもなくなった。今現在、どこにいるのかもしれない。アル中にでもなって、何処かでのたれ死んでいるのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいことなのだが。私はそんな父を、憎み、そして、愛している。血のつながりとは、悲しく、そして、儚い。
2004年07月19日
コメント(0)
母は、キリスト教に入っていた。この様な曖昧な言い方には、わけがある。母は、キリスト教の信者ではなかったからだ。家庭環境というやつだろう。無理やりなのかすすんでなのか、母はキリスト教に入っていた。だが、母は息子である私に強制することはしなかった。そして、母もまた、私の前でキリスト教の信者めいた事は一切行っていない。よって、今は私も母も無宗教と考えてもいいのだろう。宗教というものを、私は嫌悪しているといってもよい。宗教者というものは、確かに崇高な目的があってやっている人間もいるのかもしれないが…大概は、お金のためにやっていると思えてしかたがないのだ。何せ、「信者」という漢字を一つにまとめると…『儲かる』となるのだから。
2004年07月16日
コメント(2)
本当にお久し振りです。またさぼってしまいました。ところで…今回から、日記を小説に変更しようと思います。これまた不定期な更新になると思いますが、まあ末永く見てやって下さい。それでは…始めましょうか。~~~~~~~~~私は、おとなしい子供だった。待てと言われれば、1時間でも2時間でも、親が帰ってくるのを待ちつづけていた。思えば、あの頃から私の性格は何も変っていないような気がする。誰かに何かを言われるのを待っている。そんな人生だ。父親は、あまり仕事が好きではなかったようだ。いや、働く事が好きではなかった、と言うべきだろう。母は、そんな父をいつもしかっていた。父は、何も言わなかった。おそらく、父は私と同じだったのだろう。誰よりも、自分の事をわかっているのは自分なのだから。自分がいかに小さく、卑下されるべき人間か知っていたから。だから、父は何も言わなかった。反抗することも、暴力を振るう事もまったくなかった。そんな父を、今は可哀想に思う。どこにいるとも知れない父親を、哀れんでいる私の想いこそが、周りから哀れみの視線をあびている原因なのだが。私の家は大きかった。この時代には珍しく、藁葺き屋根という古風な造りをしていた。私はそこで育てられた。何の疑問も持たず、何の後悔も抱かず。今の私とは比べ物にならないくらい、純粋だった。
2004年07月12日
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1

