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・市場の変化 FIO Winesは毎年3月中旬にデュッセルドルフで開催される業界向け試飲会ProWeinに出展しているが、近年は顧客の反応が変わってきたという。「以前は、昨年収穫されたブドウのワインが無い、と聞くと立ち去る人が多かったが、最近はそうでもなくなった。熟成したヴィンテージのワインが受け入れられている感触がある」とリンダさん。「高品質なワインの醸造には、時間が必要だと理解されてきたからだと思う。最初の頃は耐えねばならなかった。場所代、電気代、水道料金は必要だし、新しい収穫をいれる樽も必要。だから多くの醸造所は何年も樽で寝かせることをしないし、できない。4、 5年やって軌道にのれば良いが、それには品質が伴わなければならない。 長期的な視点をもって計画を立てねばならないが、私たちは上手くいっていると思う。昔からのやり方に固執してはならない。気候変動の影響もある。変えていかなければならないことはここ数年明らかになっている。昔の世代はいつも同じやり方で醸造していたが、今の若手はより多くの知識や経験を積んで、色々なことを試している。それが多様性をもたらし、リースリングをより興味深くしている」とリンダさん。 とても興味深いワインなのだが、現在日本では、少なくとも個人的な印象では、本腰を入れて紹介されているようには見えない。(参考:テッポ リースリング モーゼル 2020年 ドイツ - ワインリンク (wine-link.net))ポルトガルの有名生産者がモーゼルで手掛けるナチュラルワイン、という印象しかのこらず、フィリップ達が何を目指して取り組んでいるのか、見えてこない。いささか残念なことだ。 参考:29. Livestream "Das Fio Riesling-Paket von Niepoort und Kettern" (youtube.com)Fio Wines Piesporter Riesling Trocken Fio (Mosel | Germany) (moselfinewines.com)Dirk van der Niepoort: Portugal's greatest winemaker? (worldoffinewine.com)
2024/01/07
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・FIO Winesとケッテルンのラインナップ FIO Winesはケッテルン家とニーポート家とのコラボレーションで、2012年から始まったプロジェクトだ。ナチュラル寄りのワインで、低アルコール濃度と醸造に極力介入しないミニマル・インターヴェンション、最長5年間におよぶ長期の澱の上での熟成と、瓶詰前まで亜硫酸無添加もしくは微量添加が本筋のワイン。醸造過程で瓶詰前の一回だけ亜硫酸を添加するという生産者は、ドイツでは例外的だ。 FIOのほかにRätselhaft, Socalcos, Ururabo, Teppo (Tempoのポルトガル語で、Tempoはドイツではポケットティッシュの商標登録済のため), CabiSEHRnett, Falkenberg, Godtröpchenがある。この他にもペットナットのPiu piu、赤ワインのように果皮と一緒に発酵するオレンジワイン(JojoとGlou Glou)、ステンレスタンクと木樽で9カ月と比較的短い熟成期間で仕上げたFabelhaftや、そのノンアルコール版もあってヴァリエーションが豊富で、いささかややこしい。個人的には畑名入りのフラッグシップ2種以外は、3種類程度に絞っても良いように思う。 FIO Winesの影になっている感があるが、フィリップが5代目として継いだローター・ケッテルン醸造所も健在だ。生産量は年にもよるけれど、若干FIO Winesが上回っているという。畑面積はピースポート村の6.5ha(Goldtröpchen, Günterslay, Falkenberg)とライヴェン村のJosefsberg (Leiwener Laurentiuslayの区画名)を近年5.5ha購入した。 ピースポートのブドウ畑地図(Deutsches Weininstitut Deutsches Weininstitut: Regionenkarte des Deutschen Weininstituts (deutscheweine.de))ケッテルンのワインの味わいは、FIO Winesとそれほど違わない。昔からのモーゼルファン向けだと言うけれども、FIOもケッテルンもミネラル感が前に出ていて、ボディにやや厚みがあるがアルコール濃度は低く、乳酸発酵と熟成を経て柔らかくなった酸味が果実味を下支えしている。瓶詰まで亜硫酸を添加せずに澱の上で長期間熟成するため酵母のトーンが若干感じられ、様々な要素がまとまっている。 個人的に最も印象的だったのはUruraboという、産膜酵母とともに2年間樽熟成して瓶詰したワインで、軽く繊細でとりわけ精緻で、ほっそりとして美しかった。同名のワインをドウロのニーポートが地場品種ゴーヴェイオで醸造している。(つづく)
2024/01/07
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・伝統の後継者 フィリップ・ケッテルン。 2011年にフィリップは父ローターから正式に醸造所を継いだが、フィリップがドウロから戻ってきて、平地と斜面の畑を交換したいと言い出しても特に反対することなく、息子のやりたいようにやらせたという。 それからフィリップはモーゼルの昔のワインを飲んで経験を積むことで、伝統的なモーゼルとはどんなワインなのかを学んだ。2011年から伝統的なフーダー樽のセラーを造り、農薬は有機栽培用の薬剤を、ごく微量こまめに散布しブドウ樹の抵抗力を強めている。 「100年前と同じように栽培している。当時ペロノスポラはモーゼルになかったし、オイディウムもごくわずかだった。現在対策しないとすぐ病気になる。ひんぱんすぎる農薬散布でブドウ樹は病害虫に対して弱くなっている」とフィリップ。 醸造でも極力介入せず、野生酵母のみで発酵。酵母と一緒に1年~5年という時間をかけて熟成し、必要に応じて瓶詰前の一回だけ、微量の亜硫酸を添加する。「亜硫酸は添加しないことが多いが、添加するにしても必要最低限。 我々のブドウは収穫時点からすでに亜硫酸の含有量が高い。ブドウは自分で自分を守るために亜硫酸を生成する。それが30~35mgで、無添加でも総亜硫酸量40mgに達することもある。だから2~3年樽熟成しても亜硫酸は添加する必要がないことが多い。とはいえ、ワインが必要とするなら使う」とフィリップ。 (つづく)
2024/01/07
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・ドウロとモーゼル ドウロ川とブドウ畑 (File:Rio Douro - Portugal (32615481975) Wikipedia) ドウロもモーゼルと同様に急斜面のブドウ畑が川沿いの渓谷に広がっているが、その標高はモーゼルの200~300mに対し約800mに達する。モーゼルは一本ずつ立てた杭に添わせて栽培する棒仕立てか、斜面の上下方向に縦に畝を仕立てることが多いが、ドウロでは段々畑のように造成されたテラスに、等高線に沿って水平に畝が形成されている。 段々畑をポルトガル語ではSocalcosといい、FIOのリースリング・ソカルコスSocalcosもドウロと同じように、水平に畝を仕立てた畑のワインだ。モーゼル川支流の標高の高い場所にあるライヴェナー・ヨゼフスベルクの5.5haの畑の収穫で、澱引きせずに1年間熟成した。アルコール濃度11.5%の繊細な酸味--私にはFIOのリースリングは全体的に、モーゼルのリースリングにしては酸味の主張が控えめすぎると感じたが、乳酸発酵して長期熟成すると、こうなるのかもしれない--とハーブのニュアンスが印象的な辛口。 2008年、フィリップがディルクの招待を受けてドウロで三か月間の研修からモーゼルに戻ってまず取り掛かったことは、平地の畑と斜面にある畑を交換することだった。フィリップはケッテルン家の5代目で、当時は父ローターが当主だった。ローターは先見の明のある醸造家で、ピースポートで耕地整理---トラクターが通れる農道を斜面に敷設して農作業の効率化をはかるため、第二次大戦後から現在に至るまで続くモーゼル全体の大規模な改修プロジェクト---が行われた時も、目先のことしか考えない生産者は、どのみち30年たつと植え替えるのだから、とことごとくブドウ樹を抜いて更地にしてしまった。しかしローターは古木を残して耕地整理を乗り切ったという。だからケッテルンとFIO Winesのフラッグシップ、ゴルトトレプヒェンには樹齢50~60年の古木の収穫が用いられている。 私が訪問した2023年7月時点で、ゴルトトレプヒェンの最新ヴィンテージは2018年産だった。試飲したのはFIOのGoldtröpchen 2016で、フーダー樽で澱引きせずに5年間熟成したという。「昔は2~3年樽で寝かせてから瓶詰するのが当たり前だった」とリンダさん。「昔のスタイルを復活させたかったのと、時間をかけることで達成される味わいを確かめたかったの」。 長期間澱と接触していたことは、酵母のアロマが感じられるが邪魔にはならず果実味と調和している。南向きの斜面らしい明るさのある味わいで、広がりとミネラル感が前に出て、やわらかくニュアンスに富んだ飲み心地のよいリースリングだった。ナチュラルワインの最上のものはファインワインに近づくというが、これもその一例のように思われた。 (つづく)
2024/01/07
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・FIOの醸造哲学 時間は前後するが、2002年にディルク・ニーポートはオーストリアのPRエージェント、ドルリ・ムーアと二度目の結婚をし(最初の妻はスイス人でダニエルの母)、二人でオーストリアのカルヌントゥムにある醸造所ドルリ・ファン・デア・ニーポートDorli van der Niepoortを運営していた。しかし2012年に離婚。翌2013年にディルクはモーゼルのケッテルン醸造所を訪れ、ケッテルンとのコラボレーションに取り掛かった。ディルクの長男ダニエル-母はスイス人でドイツ語は堪能-がドウロからモーゼルに来て4年余り滞在し、ワイン産地モーゼルを学んだ。こうしてディルク、フィリップ、ダニエルの3人によるプロジェクト、FIO Winesがスタートしたのである。(参考:Muhr-van der Niepoort wird zu Weingut Dorli Muhr - Falstaff) ディルクはまず、ケッテルンの2012年産の中で特に気に入った一樽を購入した。そしてジュラのナチュラルワインの先駆者のひとりジャン=フィリップ・ガヌヴァにインスピレーションを受けて、長期間樽で寝かせることにした。瓶詰まで亜硫酸を添加せず、澱引きもせずにそのまま2年半フーダー樽で寝かせてから、ごく微量の亜硫酸を添加して瓶詰。それが醸造所名となるFIO-ポルトガル語で「糸」を意味する-のファーストヴィンテージとなった。翌2013年産は2016年10月に瓶詰したので、丸3年樽熟成したことになる。 フィリップ・ケッテルンの奥さんのリンダさん。 私が訪問した時はフィリップの奥さんのリンダさんが相手をしてくれたので、少しだけ顔を出したフィリップ氏からも直接じっくり話を聞くことはできなかった。ただ、2017年2月にドイツの有名ソムリエ、ヘンリック・トーマのYouTubeで、ディルク、ダニエル、フィリップの3人を迎えてのトークセッションがあったので、その時の内容を織り交ぜて紹介する。(29. Livestream "Das Fio Riesling-Paket von Niepoort und Kettern" (youtube.com)) フィリップは言う。「発酵中の果汁を信頼することが大事。樽に長期間入れておくのはリスクを負うことではある。醸造期間中何度も試飲するが、変な臭いがすることもある。俺たちは何か間違っているだろうか、と不安になる。腐った卵のような臭いがすると、醸造学校ではポンプを使って樽を移して空気にふれさせよと教えるが、それはドイツ的な心配性の表れだ。失敗することへの不安から樽を移すなどいろいろ操作して、結局だめにしてしまう。そうではなくて、ワインと真摯に向き合い、信頼することから美しさは生まれる」と。 ドイツの常識はポルトガルのそれとは異なることを、ディルクは指摘する。「モーゼルでは一つの区画を5回にわけて収穫することもある。収穫期に入るとブドウは次第に色を変える。熟し始めの緑色を帯びている状態のブドウでカビネットを収穫し、次に金色に熟した房をシュペートレーゼ、過熟して貴腐が混じるとアウスレーゼというふうにスタイル別に収穫する。これはドイツ人らしい完璧主義のあらわれともいえる。 しかしポルトガルでは全部一度に、正しいタイミングで収穫する。この場合の正しいというのは科学的なものではなく感覚的なものだ。貴腐のついた房はえり分けるが、それ以外はいろいろな状態のブドウが一緒になっている。完璧を目指しているのではない。緑色のブドウや過熟したブドウはそれぞれに異なる要素をワインにもたらす。それが興味深いワインを生むのであり、ポルトガルのやり方だ」。 「ディルクはブドウ畑を一度に収穫するといったが」と、ドウロで収穫作業に加わったことのあるフィリップは言う。「ポルトガルで35種類のブドウを前に選別作業台に立ったときはすばらしかった。私はブドウを食べるのが好きで、その多様性に感動したし、これが一つのワインになると、また違う味わいになることに感銘をうけた。美しさは多様性から生まれるのだと学んだ。樹齢、品種、土壌、標高…」。 (つづく)
2024/01/07
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・ニーポートとモーゼル こうした一連の動きの原点となったディルク・ニーポートが、なぜモーゼルでFIO Winesをはじめることにしたのだろうか。1987年、父の醸造所で働き始めた年にディルクはモーゼルを初めて訪れた。中流域のブラウネベルクにあるフリッツ・ハーグ醸造所(Fritz Haag (weingut-fritz-haag.de))の醸造家ヴィルヘルム・ハーグを訪問し、ポートワインとは真逆の、アルコール濃度が低く軽やかで繊細、精緻でエレガントなリースリングの味わいに深い感銘を受けたという。ちなみにディルクの母はドイツ人で、ドイツ語は母国語のようなものだ。 2008年、ケッテルン醸造所の現当主フィリップ・ケッテルンはまだ10代だったが、北米のインポーターが主催したカリブ海のクルーズ船上試飲会でディルクに出会った。顔見知りのワインジャーナリストに「ディルクは君のワインをきっと気に入るはずだよ」と唆されて、挨拶に行ったのが最初だった。だがその時ディルクは、フィリップのワインをあまり気に入らなかったという。アロマティックでアルコール濃度も高めで、ディルクの理想とするモーゼル産リースリングとかけ離れていたからだ。にもかかわらず、あるいはだからこそ、ディルクはフィリップをドウロに招待した。そしてディルクの元で三カ月働いて帰ってきた時、フィリップは自分の進むべき方向性を見つけていた。モーゼルでしか出来ない、軽く繊細でエレガントなスタイルを目指すのだ、と。 アルコール濃度の高いパワフルなスタイルは、他の産地に任せておけばいい。熟し始めの糖度が低い段階で収穫して、アルコール濃度は高くても12%前後を目指す。圧搾前に果皮・果肉を果汁に漬けて香味成分を抽出する手法も捨てた。そのかわり、醸造に時間をかけることにした。多くの生産者は収穫翌年の春に瓶詰を始めるが、フィリップは短くて1年、長い時で5年間、ステンレスタンクか伝統的なフーダー樽で澱引きせずに熟成し、さらに2年間瓶熟してからリリースする。これらの昔ながらのモーゼルの醸造手法を、試行錯誤を通じて復活させた。 (つづく)
2024/01/07
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・ポルトガルワインの現在 FIO Winesはローター・ケッテルン醸造所と、ポルトガル北部のワイン生産地域ドウロにあるニーポート家(Niepoort (niepoort-vinhos.com))が共同で運営するナチュラルワインのブランドである。ポルトガルは酒精強化したポートワインの印象が強いが、これもまたドイツワインは甘口という先入観と同様に、時代遅れの認識と言って良い。 もっとも、ポルトガルのテーブルワインが注目を集め始めたのは比較的最近のことだ。1990年代まではポートワインと軽く夏向きの白ワインとして知られるヴィーニョヴェルデや、フルーティな甘口スパークリングのマテウス・ロゼが国際的に認知されていたが、それ以外のほとんどは大規模な醸造所や醸造協同組合による日常消費用のワインで、小規模で高品質なワインを造る生産者は皆無だった。 しかしニーポート家の当主ディルク・ニーポートは、早くからテーブルワインの産地としてのドウロのポテンシャルを確信していた。ドウロがポートワインの産地として成功したのは1700年代以降のことで、もともと赤ワインの産地として知られていたのだ、という。 ディルク・ニーポートは創業1842年のポートワイン醸造所ニーポート家の長男として、1987年に23歳で父のもとで働き始めた。そして1990年に赤ワインの「ロブストゥス」Robustusを醸造。当時高品質な赤ワインはドウロではほかに誰も造っていなかった。地場品種の古木の収穫で醸造したそれは濃厚でパワフルなワインで、おそらく当時もてはやされていたロバート・パーカーの好みそうなスタイルだったのだろうが、友人や近隣の生産者たちからは笑いものにされたという。 そして実際、ロブストゥスが評判を呼ぶことはなかった。というのも、醸造した4樽のうち3樽を、ディルクがオーストラリアに研修に行っている間に、父ロルフが使用人に飲ませてしまったからだ。親子の間に相当な諍いがあったことは想像に難くない。 しかしディルクはめげることなく、1991年に赤ワイン「レドマ」Redomaを醸造。これが注目されて話題となり、テーブルワインの生産者として知られるようになる。ポートワインの醸造こそ稼業と信じて疑わなかった父の跡を1997年に正式に継いでからは、ディルクは一層テーブルワインの生産に力を入れるようになった。ロブストゥスも2004年産から復活している。(参考:The Radical Reinvention of Great Portuguese Wine (foodandwine.com)) 高品質な赤ワイン造りの伝統を復活させようと、ディルクが発起人となって5人の醸造家たちがドウロ・ボーイズを結成したのが2003年。私が初めてProWein-毎年3月にドイツのデュッセルドルフで開催される、世界最大規模の業界向けワイン試飲会-を訪れた2006年、ポルトガルは高品質なスティルワインの生産国として熱心にアピールしていた。そしてオレンジワイン・レボリューションの著者として知られるサイモン・J・ウールフSimon J. Woolfとライアン・オパズRyan Opazがポルトガルワインの現在を伝える単行本”Foot trodden. Portugal and the wines that time forgot”(「足踏みされたブドウ 時が忘れたポルトガルとワイン」未邦訳Foot Trodden – Portugal and the Wines That Time Forgot (foot-trodden.com))を出版したのが2021年。この著作でポルトガル各地の高品質なスティルワインの生産者が紹介されたことで世界のワイン業界の関心を集め、近年次第に存在感を増してきている。(つづく)
2024/01/07
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FIO Wines/ ローター・ケッテルン醸造所(ピースポート) 7月中旬の朝、友人の車でトリーアからピースポート村へ向かった。この村はゴルトトレプヒェンのブドウ畑で知られている。ローマの円形劇場の観客席のように、弧を描いてせりあがった斜面にブドウ畑が広がり、そのふもとをモーゼル川がゆったりと流れている。 その斜面の頂上には小さな祠がある。昔、疫病が流行ったとき、時の為政者は村と外部の行き来を遮断し、急斜面のふもとの川沿いの集落を隔離した。そして定期的に、斜面の上にある祠に食料が届けられた。村人たちは麓の集落から祠まで、急斜面を登って取りに行ったという昔の記録が、コロナ禍の際に話題になったそうだ。 ピースポーター・ゴルトトレプヒェンの畑。 今回訪問した生産者のひとつFIO Wines/ローター・ケッテルン醸造所(醸造所のサイト:FIO およびWeingut Lothar Kettern in Piesport an der Mosel – Riesling-Winzer aus Leidenschaft (kettern-riesling.de))は、モーゼル川の対岸の平地の広がる区域にある。醸造所の近くまで来た時、トラクターに乗ってブドウ畑へ向かう、現オーナー醸造家のフィリップ・ケッテルンとすれ違った。長髪の大柄な体格で、年のころは30過ぎくらいだろうか。ハンドルを握る友人が手を振ると、トラクターの運転席に座ったまま「これから瓶詰をやらなくちゃいけないんだ。試飲所で妻が君たちを待っているよ」と言って去っていった。 ドイツのワイン生産地域地図(Deutsches Weininstitut)。モーゼルは赤い星印のある場所。(つづく)
2024/01/07
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・ドイツのナチュラルワイン ドイツワインといえば甘口、というイメージが日本では数年前までは根強かったが、ここ数年、辛口も認知されるようになってきた。一方、ドイツ産のナチュラルワインの存在感はまだ薄い。もともと1990年代にフランスのボージョレやジュラ、ロワールから台頭した、有機栽培のブドウを使い、一切の化学合成物質を添加せずに(瓶詰前のごく微量の亜硫酸の使用のみ容認されている)ブドウ果汁のみで醸造するナチュラルワインは、その柔らかで親しみやすい飲み口が日本人の嗜好にもあい、現在では世界的に見ても日本が重要な消費市場になっている。 欧米では10年くらい前までは、一般的な亜硫酸を添加したワインは不安定で往々にして欠陥臭があり、産地の個性が表現されないキワモノワインといった批判にさらされることが多かった。しかし近年では、評価の高いファインワインの生産者の作り方は、栽培には農薬や化学合成肥料を使わず、醸造にも化学合成物質を使わない点で、ナチュラルワインとほとんど変わらないではないか、という指摘も出てきている。 ドイツでナチュラルワインが一部で認知されるようになったのは2018年頃のことだ。2009年にモーゼルで、1970年代末からバイオダイナミック農法を実践していたルドルフ・トロッセンが、顧客に依頼されて亜硫酸無添加で試験醸造したのが、そもそものはじまりだった。(醸造所のサイト:Weingut Rita & Rudolf Trossen (trossenwein.de)) 2015年になるとケルンでナチュラルワイン専門店「ラ・ヴァンカイラリー」La Vincaillarie(ショップのサイト:Naturweinladen und onlineshop seit 2009 in Köln | La Vincaillerie (la-vincaillerie.de))を営むスルッキ・シュラーデが—もう専門店まであるじゃないか、と思われるかもしれないが、彼女の店は例外中の例外で、ドイツでナチュラルワインはどこにも売っていないし知られてもいないから、スルッキが自分で輸入することにして2009年にオープンした店である—毎年3月にデュッセルドルフで開かれる大規模なワイン見本市プロヴァインProWeinにあわせて、第一回のナチュラルワイン見本市「ヴァインサロン・ナチュレル」を開催(2024年は3月9・10日。イベントのサイト:Deutschlands größte Messe für Naturwein, in Köln (weinsalonnaturel.com)。同年11月にはベルリンで、ロンドンが発祥の世界的なナチュラルワイン見本市RAW Wine Fairが開催された(2023年12月開催時のサイト:Berlin 2023 | RAW WINE)。もっとも当時の反響は芳しいものばかりではなく、半分以上が飲めた代物じゃない、こんなワインが注目されるなんてどうかしている、という意見がどちらかといえば目立ったが、ともあれ、これらのイベントはドイツでもナチュラルワインが存在感を高める契機にはなったし、自分でも醸造してみよう、という気になった生産者もいたことだろう。 2018年になるとナチュラルワインに手を染める生産者や、それを扱うショップやレストランが少しずつ増えていき、シュラーデによればナチュラルワインはドイツ国内で「ブームになった」という(参照: Surkki Schrade, Natürlich Wein. Ungefiltert, ungeklaert, ungeschoent - alles über Naturwein, Pet Nat und Co., 2021 Christian Verlag)。もっとも、生産されるワイン全体からみれば1%にも満たないニッチで特殊なワインではあるが、その存在はわずかだが定着しつつある。とりわけフランケンとファルツ、ラインヘッセンでナチュラルワインに本腰を入れて取り組んでいる生産者の存在感があるが、近年はモーゼルでも増えてきている。まだほんの数えるほどではあるが。(つづく)
2024/01/07
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2023年7月、コロナの渡航規制が3年ぶりに解除され、久々にモーゼルを訪れた。2019年4月以来だ。成田から台北経由で早朝フランクフルトに着陸した。台北では乗り継ぎ待ちが5時間あったため、フランクフルトに到着してからiPhoneでネットに入れるよう—列車の時刻表やGoogle map、Lineで連絡を取り合いながらコブレンツで落ち合う予定もあった—モバイルバッテリーを持参したのだが、飛行機の座席にUSBコンセントがあり、そこにつないでおいたので心配することはなかった。桃園空港で乗り継いだ。さらに3年前はなかった、海外渡航用のeSIMなるサービス(airalo等旅行者向けの現地と各地域のeSIM (airalo.com))が登場していた。以前は事前にアマゾンでモバイルルーター用のSIMを購入していたが、eSIMをiPhoneなりスマホにダウンロードするだけでよくなったので、今回ルーターはほとんど出番がなかった。各通信事業者の海外でのネット利用料金も低価格化が進んでいるようで、わずか3年だが時代は変わった、と感じた。フランクフルト空港でスーツケースを受け取り、鉄道駅に近いターミナルへ移動するバスに乗ると、誰もマスクをしていなかった。軽い違和感を覚えたが、郷に入れば郷に従えのことわざを思い出し、私もマスクを外した。呼吸が少し楽になった。 ドイツに来ると、旅先であるが故の緊張感は常につきまとうが、同時に開放感にも満たされる。日本にいる時の日常の息苦しさは遠のき、その時その時の課題—チケットを買い、ホームを探して正しい列車に乗るなど—を切り抜けて目的地にたどり着き、私の場合は醸造所を訪問して話を聞いて写真を撮るといった、大げさに言えばミッションを果たそうという使命感に支配される。気分転換とか、息抜きとかいった気楽さはあまりない。しかしそのミッションは、誰に言われたものでもなく自分で勝手に決めたものだから、楽しい。13年間を過ごしたモーゼルへの郷愁と望郷の念を、束の間ではあるが充足させ、仕事ではおそらく訪れる機会を得られないであろう醸造所を訪れてみることが、今回の旅の目的でありミッションだった。 トリーアに入る前に最後にわたる鉄橋からのながめ。ここを渡ると、いよいよ帰ってきた、という気分になる。ラインラント・ファルツ州の州都マインツで乗り換え、ライン川沿いを走る列車の車窓から渓谷の斜面に広がるブドウ畑の景色を堪能し、モーゼル川が合流するコブレンツで、トリーアへ向かうローカル線に乗り換える。モーゼル川沿いの風景は相変わらずだ。ライン川よりも川幅はせまく、ブドウ畑の急斜面は線路の間近まで迫ってくる。時々モーターボートが列車と並走し、河岸のキャンプ場にキャンピングカーが並び、駅に停まると自転車と一緒に乗り込んでくる人々がいる。都会の喧騒を離れ、アイフェルとフンスリュックの二つの山地の間を蛇行しながら流れるモーゼル川周辺の自然と歴史や文化、そしてワインを満喫しようという観光客たちで、夏のモーゼルは相変わらずにぎわっていた。(つづく)
2024/01/07
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モーゼル中流の小都市ベルンカステルから、トラ―ベン・トラーバッハまでの遊覧船からの眺め。10月上旬、ブドウ畑の紅葉は始まったばかり。ところどころで収穫作業が行われていた。これは、ユルツィヒ村とエルデン村の間だと思う。上の畑まで行ける車道があるかどうかわからないが、昔は徒歩で上り下りしていたはずだ。収穫の際は、屈強な男達がブドウが沢山つまった籠を背負って、一歩一歩、崖に沿った小道を降りていた様子が目に浮かぶ。もしかすると、その昔、足を滑らせて亡くなった人がいたのかもしれないし、その犠牲を弔う十字架かもしれない。さまざまな向きの斜面がぶつかりあう場所は、パラボラアンテナのお椀のように見える。これは遊覧船からではなく、ピュンダリッヒ村の近くから撮った写真。たぶん、トラ―ベン・トラーバッハからブライに向かう電車の中からの眺め。車窓が少しフィルターのように画面を暗くしている。これは、ザールのカンツェムの駅の裏手にて。
2021/04/05
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2017年10月 ドイツ出張備忘録 8. Ökologisches Weingut Schmitt モーゼルの次にラインヘッセンのエコローギッシェス・ヴァイングート・シュミットを訪れた。ラインヘッセン南部のニーダーフレアスハイムにあり、各駅停車が停まる駅がある。日本人には馴染のある、メッセージ・イン・ア・ボトルのリーダーの一人だった、クラウス=ペーター・ケラー醸造所まで歩いて15分といえば、だいたいどのあたりにあるかわかってもらえるだろうか。 私がこの生産者に興味を持ったのは、ジョージアのクヴェヴリを使ったワインを造っているからだ。『オルフェウス』と言う名のそのワインは、あの頃、秋田のヴァインパラディースが輸入していた。今はドリームスタジオから独立した小山さんのKeppagleが扱っている。入荷するとすぐに売り切れる人気商品らしい。 2017年10月、私がビアンカとダニエル・シュミットを訪問した時は、ドリームスタジオの輸入が始まっていた。その前の年の1月、フランスのディーヴ・ブテイユというナチュラルワイン試飲会で、ビアンカと小山さんと出会ったのが縁で取引が始まることになった。ヴァインパラディースの鈴木さんが取引していたのは、ビアンカの夫ダニエルの両親と取引があった。シュミット家がオーガニック栽培を始めたのは2007年。ブドウ栽培を始めたのは7世代前まで遡るが、1990年に醸造所を設立したのはダニエルの両親だ。広々としたスペースの直営居酒屋もあり、近い将来、ダニエルの妹が本格的なレストランにすることを目指していると言っていた。 ビアンカとダニエルが出会い、二人でナチュラルワインを造り始めたのは2012年のことだ。その年、ビアンカがハンガリーから栽培醸造を学びに、シュミット家にやってきた。 ビアンカの祖父はワインを造っていた。『祖父母の家はワイン生産地域にあったの。祖父が十代のころ市民戦争があって、家のあった地区はロシア軍の爆撃にあった。幸い祖父は生き延びたけれど、生きるために働くのが精いっぱいだった。色々な仕事に就いて、毎日8時間めいっぱい働いていた。けれども、どの仕事も彼が情熱を傾ける対象ではなかった。ワイン造りが彼の生きがいだった。 両親は外国に出稼ぎに出ていたので、祖父と一緒に暮らしていたの。祖父はいつも私をワインまつりや試飲会に連れて行ってくれた。ワインの話をしてくれて、セラーにはいろいろな醸造器具があった。コンクリートタンク、ステンレスタンク、木樽も。そこは私のお気に入りの場所だった。 私がブダペストで通っていた醸造学校は、ダニエルの醸造学校と協定を結んでいて、ドイツの醸造所で5週間研修する機会があった。応募したとき、受け入れてもいい、と二つの醸造所が名乗りを上げてくれた。一つの醸造所は手紙で私のことを「家族の一員として受け入れたい」と書いていた。私は100%ワイン造りを学びたいだけだったし、醸造所の主が25歳の独身男性だったのも、ちょっと重たかった。 もう一カ所がダニエルの醸造所で、落ち着いた内容の手紙だった。醸造所のサイトの写真を見ると50歳くらいの年配の人が主のようで、彼が書いてくれたのかな、と思った。写真には15、6歳の男の子が写っていて、親しみがわいたのでここに決めたのだけど、実際来てみたらそれは10年前のもので、写真の中の男の子は25歳のダニエルだった。あの頃はドイツ語が出来なかったから、醸造所で唯一英語が話せるのはダニエルだったし、一日中彼と一緒にいるうちに恋に落ちた。 収穫期間が研修期間だったのだけど、収穫が始まる直前にダニエルとアルザスのパトリック・メイエ(ドメーヌ・ジュリアン・メイエ)を訪問したの。そこで亜硫酸無添加のワインを試飲して、あれほど素晴らしい、生き生きとしたワインを造ることが出来るのだということに感動した。ワインの中にビリビリと電流が流れているかのような、ポジティヴな勢いがあった。それで、これから始まる収穫で、こんなワインを造るぞって決めた。それが2012年9月。 今は結婚して、16カ月の息子がいる(2017年10月当時)。本当はガイゼンハイム大学で学ぶつもりで入学手続きまで済ませたのだけれど、叶わなかった。今は地元の醸造学校に通っていて、明日はヴィンツァーマイスターの試験なの」。 その日ビアンカは、試験前日にもかかわらず親切に応対してくれた。試験のテーマはシャルドネのマセレーションによる効果。一つは圧搾果汁だけで発酵。別の樽では4週間、三つ目の樽で8週間果皮を果汁に漬けこんで発酵した。いずれも亜硫酸無添加。 最初の樽は軽く繊細でやわらか。二番目の樽にはチョークでハートが描いてあった。ポジティヴにワインのことを考えると、ポジティヴなエネルギーがワインによい影響を与えると考えているそうだ。こちらはバランスが良く一体感があり、舌触りが心地よい。三つ目の八週間マセレーションした樽は、まろやかで甘味を感じた。どの樽も個性的で、販売時にブレンドされるのが惜しい気がした。 訪問の契機となったクヴェヴリは、醸造所の裏庭の一角に埋めてあった。容量900ℓで、ジョージアから取り寄せたものだ。ダニエルの母が二人に贈ってくれたそうで、実は最初の一基は壊れてしまい、これが二基目だという。クヴェヴリで醸造するのはヴァイスブルグンダー。「この品種の果皮に由来するタンニンには雰囲気がある。ムスカテラーほど派手ではなく、リースリングのように酸と相まって目立つこともない」という。3カ月間は果皮を全部一緒に漬け込み、その後三分の二を取り除いて一年間醸造。液面にオリーブオイルを張って酸化を防ぎ、縁にシリコンのリングを乗せ、その上に石板を載せて密封している。クヴェヴリから試飲した2017年産のオルフェウスは、上品で冷涼感があり、洗練された味わいだった。 ラインヘッセンで愛をはぐくみ、醸造家になる夢を叶えたビアンカ。近い将来、ブドウ畑の中に新しい醸造所を建てて独立したいと言っていたが、その後どうしているのだろうか。日本でワインの評判もよく、これからの活躍に期待したい。 (つづく)
2021/03/18
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2017年10月 ドイツ出張備忘録 7. Weingut Van Volxem DWIのプレスツアーの後、独自に醸造所をいくつか訪問することが多い。というか、せっかくここまで来たのだから、その機会を利用しない手はない。ただ、一応は仕事なので、休暇のようにのんびりと過ごすことは出来ない。久しぶりのトリーアの市街地を散策することもなかった。それでもワインスタンドとワインバー・ヴァインジニッヒだけは立ち寄った。そこで過ごす束の間の時間は、私にとって最高の休暇だった。 独自にアポをとって訪れたのは、ザールのファン・フォルクセンだった。縁あって、1999年秋に新オーナーのもとで開催された最初の試飲会に立ち会ってから、既に何度となく訪れている。そしてそのたびに、新しい発見があった。ここは絶えず変化し、成長を続けている醸造所だと思う。数年前から建設中だった新醸造所は、着々と完成に近づいていた。内装はまだだったたが、地下にある醸造設備はすでに稼働していて、ステンレスタンクと大型の木樽が整然と並んでいた。畑の区画ごとに別々に醸造するので、約250のタンクと樽がある。地域名のザール・リースリングは、その中から適切な味わいのタンクを選んでブレンドするのだが、樽ひとつひとつ素材やトースト具合が異なるので、目指す個性に仕上げるのは容易ではないという。 我々を案内したローマンは、ステンレスタンクの一つから発酵中のモストを試飲させてくれた。それは白濁してアロマティックで甘く、まるで上等なミルクティーのような味がした。シーファーリースリングにする予定の果汁だという。清澄は重力と冷却で二日間かける。醸造所のポリシーである、何も添加せずに100%自然の果汁だけで醸造するが、発酵温度は16~18℃に調整されて、ゆっくりとすすむ。 「85ヘクタールのブドウ畑からの収穫を醸造するので、大きなタンクの方が経済的にも賢明だという人もいるが、我々はひとつひとつ別々に、ゆっくりと醸造する。大きなタンクは発酵がとても早く進行する。私はビットブルガーの創業者一族の出身だが、ビットブルクは世界でも珍しい独自の酵母を持っている。現代のビール醸造は約10日で発酵が終わるが、ビットブルガーは8週間かかる。ワインも同じで、技術的には10日前後で発酵を終えることも出来るが、我々は必要なだけ時間をかけ、10カ月かかることもある。その結果は重要だ。頭痛をおこすフーゼルアルコールを含まず低アルコール濃度だ。野生酵母は効率が悪く、多くの糖分が消費される一方でアルコール濃度が抑制される。かつてはそれがデメリットだったが、現在ではアルコール濃度の高いワインは好まれなくなった」と、オーナーのローマン・ニエヴォドニツァンスキー。 木樽はローマンの先祖が約320年前に植樹した森から切り出した楢材を、ドイツ語圏随一と名高い樽工房、シュトッキンガー社に依頼して製造したものだ。訪問当時は80基ほどだが、将来的にはステンレスタンクから木樽に置き換えていくという。セラーの内壁はグリマーシーファーGlimmerschieferと言う、珪岩の比率が高い粘板岩を敷き詰めてあり、黒ずんだ粘板岩に含まれる珪岩の細粒が、薄暗がりの中で鈍く輝いていた。新醸造所の外壁は石灰岩の一種で淡いクリーム色のトラバーチンで覆われる予定だが、訪問した時はむきだしのコンクリートだった。試飲所の展望室の窓もまだ嵌められておらず吹きさらしだったが、横幅8m 60cmで三方に大きく開いた窓からは、映画のスクリーンに広がるようにして、周辺の葡萄畑が見えた。 「この塔は風景に溶け込むように見えなければならない。だから外壁はトラバーチンで覆う。この丘の対岸にはビスマルク塔があるが、1900年頃のカイザー・ヴィルヘルムの頃に、宰相ビスマルクが訪問したことを記念して建てられたものだ。その当時のザールの葡萄農業の素晴らしい発展を記念した塔でもある。あの当時、ザールのワインはその軽やかさ、飲み心地、熟成能力、フレッシュさ、繊細さやおいしさで、世界的に人気があった。アメリカにもカナダにもパリ、スカンジナヴィア、オランダ、ベルギー、モスクワ、ザンクトペテルスベルクでも、ザールのワインは賞賛されていた。 私が意図しているのは、この価値のある建築を通じて、世界中のワインのプロフェッショナル達から、ザールを銘醸地として認めてもらうことだ。単にワインの産地の一つとしてではなく、昔からの伝統産地として。ニューヨークでも1900年代から1940年代まで、ザールは白ワインを生産する生産地域の手本だった。今日は見えないが、対岸にあるビスマルク塔とともに、私が死んだあとも、2010年代がこの地域のルネッサンスとして、末永く記録に残って欲しい」。そう語るローマンに、私はこう問いかけずにはいられなかった。「もう死を念頭に置いているのですか?」と。すると彼は言った。「命には限りがある。よく生きてあと20年、30年だ。新たに醸造所を建てたのはお金のためではなく、見栄でもなく、ファン・フォルクセンのブランドのためであり、ロジスティクスと、何よりワインの品質のためだ」。「どのくらい投資したのかですか?」と私。「忘れた。お金は死んだら意味がなくなる。大したことではない。もしもお金が大事なら醸造家にはならなかっただろう。ただ、もしかしたら次の世代、私の子供たちに、経営基盤のしっかりした、持続可能性のある会社としてファン・フォルクセンを残すことはできる」とローマン。「地域の発展には、先見の明のある生産者が、その他の生産者に手を差し伸べなければならない。他の生産者は、私ほどの資金を銀行から借りることが出来ない。幸い、アイフェルの仕事熱心な先祖(訳注:ビットブルガーのこと)のおかげで信用されている。個人的には裕福ではないし、借金は返さなければならないが、私には偉大なワインをつくるという目標がある。私は、私のワインを飲む人の笑顔が見たい。それには品質以外の何もない。品質、品質、品質…! ここから見えるのは葡萄畑だけだ。この地域はローマ時代から葡萄栽培が形作ってきたのだということが、ここに来れば体験的にわかる。ワイン造りは文化だ。文化遺産だ。 私はいつかこの世を去るが、例えばローマ人が建築物に、あるいは中世の人々が教会に、いくら投資したかは関心を持つ人は少ない。忘れられてしまう。トリーア大聖堂を立てた大司教ポッポが非常に困窮していた時に、ルクセンブルクの大司教ヴィリボルド・フォン・エヒタナハが、あそこに見えるヴァヴェルンの葡萄畑を寄進した。民族大移動後の9世紀、ローマ時代が終わったあと最初に再び葡萄栽培が行われた畑だが、それによって『大聖堂が蝋燭の光で満ちるように』と贈られたと、ヴィリボルトの手稿に書かれている。トリーアの大司教は、蝋燭も買えないほど困窮していたんだ。ジメオン修道院も大聖堂も建てた大司教が、生きていた頃困窮していたとは今では誰も知らない。 だからお金の問題ではなく、未来に伝えることが大切なのだ。この空間も、太陽が差し込むと息をのむほどに美しい。大聖堂の中でろうそくが輝く様子を彷彿とさせる。その域に到達したい。人々に強い印象を残したい。目に、脳裏に、味わいに。人々を感動させたいのだ…!」 私は、ローマンの壮大な気宇に圧倒された。 2019年7月、私が訪問した当時は建築中だった新醸造所は落成し、盛大なパーティが開催された。世界中からワイン商やソムリエ、ワイン業界関係者が招待され、三日間にわたり大いに賑わった。ラシーヌからは合田社長が出席した。ルクセンブルクの空港から醸造所までの往復は、ローマンの友人が運転するポルシェだったという。 (つづく)
2021/03/13
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2017年10月 ドイツ出張備忘録 6. Weingut Lehnert Veit ピースポートのモーゼル河岸にある醸造所。庭からは、黄色く色づき始めた対岸のブドウ畑の斜面が見渡せた。訪れたのは10月7日だったが、収穫作業の最終日だという。 「こんなに早い収穫は前代未聞だ」と、64歳のエリッヒ・レーナート。15歳の時からワイン造りをしているという。8月27日にフリーブルグンダーから初めて一段落してから休暇に行き、9月上旬の雨でブドウが傷み始めたので9月13日に戻って来た。14日に収穫作業者が到着し、15日から収穫本番。約30%のブドウに貴腐菌が繁殖し、毎日ブドウ畑にバケツを二つ持って入り、えり分けながら収穫したそうだ。 「2000年代はじめは毎年良年になって、気候変動は良いことだと考えられたが、今は極端な天候が増えている。天気がよいだけでなく、極端に暑かったり寒かったり、雨が続いたり日照りが続いたり。気象観測は1880年からだが、今年3月は観測史上始まって以来の高温で、7月は降水量が史上最多だった」と、エリッヒの息子ペーター・レーナート。それでも、気候変動はまだメリットが大きい。ザールでは70年代に比べると、果汁糖度は15エクスレ高く、酸度は2g/ℓ少ないという。転換点は1988年だった。それ以来気温は上昇し、ラインガウの観測所によれば、平均気温は1988以来1.5度上昇している。 ペーターは言う。「南向き急斜面は、夏に非常に暑くなっている。20年後はどうなるだろう。品種をカベルネソーヴィニヨンなどに変更するのか、気温の高い地域に適した品種に植え替えることになるのか、まだわからない」と。「今年はブドウの葉をとらなかった。房に陽光が多く当たると、果皮にタンニンが多く出来るので弱冠の苦みがワインに出る。過去2, 3年は葉を取り去った。完全に取り去ると、病気はそれほどひろがらないが、果実味を失い、モーゼルらしいフレッシュ感が損なわれてしまう」。 ペーターの父エリッヒは、モーゼルのピノ・ノワール栽培の草分け的存在でもある。1936年から1986年まで、モーゼルで赤ワイン用ブドウの栽培は禁止されていた。エリッヒはいち早くピノ・ノワールの栽培醸造に取り組んだが、モーゼルでは誰も醸造手法を知らなかったので試行錯誤の連続だったそうだ。一方ペーターは2009年、ニュージーランドのワイパラにあるペガサスベイワイナリーで半年働いた経験を持つ。また、カナダ人の知人がボンの近郊でピノ・ノワールを造っていて、Whatsappやフェイスブックに栽培醸造状況を報告しており、そこで情報交換するのはとても楽しいという。 2017年の夏、花崗岩のタンクを導入した。容量1000ℓ。値段は50,000Euroもするが、輸送量と60本/年のワインと引き換えに無料で使わせてもらっている。同じくモーゼルのシュミトゲスも花崗岩のタンクを既に導入していて、さらに2基買い足したそうだ。花崗岩のタンクで醸造すると、ステンレスタンクや木樽よりも短期間でワインが澄むという。 その日収穫したリースリングを、花崗岩のタンクで醸造すると言っていたが、その後どうなっただろう。 (つづく)
2021/03/07
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2017年10月 ドイツ出張備忘録 5. Karl Hoffmann社のハーヴェストマシン ブドウ畑の農道で待つ我々の前に、銀色の最新型ハーヴェストマシンが登場した。今は少し時間が経ってしまったが、当時としては最新型の2015年製。牽引装置と移動用の荷台を含めて30万ユーロだから、約3900万円。2017年10月までに10台販売したそうだ。 荷台からワイヤーで引っ張られつつ、斜度70%以上でも作業可能。他社のハーヴェストマシンと異なり、車体は畝を跨がずアタッチメントが畝を挟み込み、振動するバーが房や果粒を叩き落とす。その際、エアフローで落下物を吹き戻すことで葉を除去し、果皮の破損を防ぐ。収穫が溜まったらコンテナに空けるが、これも一人で操作できる。これまでは多くの人手が必要だった収穫作業も、このマシンが一式あれば、一人で全部まかなうことができる。 収穫作業を請け負うこともやっていて、ひとかたまりになった1ヘクタールのブドウ畑ならば、3時間以内で完了し、かかる費用は大体2000Euro。これが人を雇うと、3,500~3,800Euroかかるという。 ただし、稼働できるのはワイヤーを張った垣根式の畑だけで、棒仕立ての畑には対応していない。
2021/03/04
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2017年10月 ドイツ出張備忘録 4. Weingut D. Loosen 知る人ぞ知る、ここを知らなければ、モーゼルを知っていることにはならない生産者。現在に至る、テロワールの表現を目指すワイン造りの原点をなす、と言っても過言ではない。だが、1987年の収穫直前に現オーナーのエルンスト(通称アーニー)・ローゼンが醸造所を継いだ当時、彼の考えは誰にも理解されず、従業員は次々と醸造所に来なくなっていったという。醸造所の所有する区画がどこにあるかもわからなかったので、とりあえずブドウが収穫されずに残っている場所がそうではないかと見当をつけて、収穫していったとどこかで読んだ気がする。アーニーは、もともと考古学者になりたかったのだ、という。だが、考古学部を出ても、博物館の学芸員しか道はなく、学生は1000年いても、ポストは年に5つ、空きが出るかどうかというほどの狭き門だった。だから醸造所を継ぐことにしたのだが、それ以前、1980年頃から、戦前の、祖父の時代のワイン造りに興味があった。それは20年間木樽で寝かせるワイン造りだった。実際1981年のリースリングを2008年まで27年間、フーダー樽で澱とともに熟成したそうだ。それは酢にならず、毎年若返ったかのような、クレイジーなワインになったそうだ。 そしてまた、こんなことがあったという。2008年に父方の祖父の顧客-アーニーの父はユルツィヒの醸造所の跡取りで弁護士だった。祖父は大企業の監査役で、もっぱら辛口ワインを醸造していた-がアーニーを訪れ、1947年産のユルツィガー・ヴュルツガルテンの辛口リースリングを贈った。50年以上熟成した辛口のリースリングを飲んだことはなかったが、「あれはまさしく神の雫だった」とアーニー。父方の祖父、曾祖父-母方はヴェーレンのJoh. Jos. プリュム家で、今も甘口しか醸造しない-は、常にラッキングなしで長期間樽で熟成し、1920, 1921年のような最上の年は、最上の樽を8年以上、樽で熟成したという。ベントナイトやフィルターが登場する以前は、卵白で清澄作業を行っていたが、不純物が沈殿するまで12~15カ月かかったから、樽で2年間熟成するのは当たり前のことだった。Dr. ローゼンの辛口のフラッグシップは、樹齢100年を超える自根の古木の収穫を、木樽で24カ月熟成したグローセス・ゲヴェクス・リザーヴである。VDPで足並みをそろえてやっているのはグローセス・ゲヴェクスまでで、規約では収穫翌年の9月1日以降のリリースとなっているが、アーニーは自主的に木樽で24カ月熟成して、さらに3年瓶熟してリザーヴと称している。30万本を超えるワインが二つあるセラーで熟成中で、20年寝かせてから市場に出すのだそうだ。一方で、アーニーはDr. Lを世界85カ国に輸出し、ファルツにはヴィラ・ヴォルフを所有。北米のシャトー・サン・ミッシェルなどとコラボする国際的な醸造家である。年に250日間は出張していて、我々が訪れた時も、前の週末に醸造所に戻って来たばかりで、次の週末にまた海外に出るという。アメリカなどで問題なのは、リースリングは甘口だと思い込んでいる人が未だに多いことだそうだ。「オハイオ州のイベントで年配の女性にリースリングを勧めたら、『あたしは辛口しか飲まないの』という。そこで黙った甘口リースリングを試飲させたら『これまで出会ったどんな辛口リースリングよりも素晴らしいわ!』と、喜んでいた。そこで言ってやったね。『イエース、ディス・イズ・”オハイオ・ドラーイ”!』」と言い、ガハハと笑った。 饒舌なアーニーは、間違いなく切れ者だと思う。細かい数字や出来事も頭に入っているし、思ったことをズバスバと、歯に衣を着せず言い切るようなところがあって、それがまたツボを突いていて面白い。また、この醸造所ではファン・フォルクセンの初代醸造長ゲルノート・コルマンも研修していたことがある。そして英国出身のワインジャーナリスト、シュトゥアート・ピゴットがドイツに移住した時、最初の執筆の拠点を提供したのは、アーニーだった。 いろんな意味で、モーゼルを代表する生産者の一人なのである。 (つづく)
2021/03/02
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2017年10月 ドイツ出張備忘録 3. Weingut Markus Molitor モーゼルを代表する生産者の一人。何年か前に、ベルンカステラー・リングを脱退してVDPに加盟することが話題となったが、結局実現せず、クネーベルだけが移籍したことがあった。モリトールが抜けたら、ベルンカステラー・リングにとっては相当な痛手となっていただろう。毎年9月のベルンカステラー・リングのオーディションで最高値を付けるのは、大抵モリトールのTBAやアウスレーゼ・ゴルトカプセルだから。 生理的な完熟を見極めた収穫や、木樽での野生酵母による発酵、澱引きしないで瓶詰までそのまま熟成することなど、現在モーゼルの高品質なリースリングのスタンダードとなっている醸造手法は、モリトールから普及していったと聞いたことがある。スケール感のあるワインで、ぱっと見はやや地味な雰囲気だが、穏やかな味わいの果実味で飲み心地が良い。 1990年代から成功している醸造所であったが、2000年以降はその評価をますます高めて、近年試飲所を改装した。以前は入り口の傍に試飲カウンターがあり、ワイン居酒屋のような雰囲気があったが、今では長いテーブルに燭台が似合う、シンプルで高級感のある内装となっている。販売責任者に有能なソムリエを雇用し、醸造設備にも十分な投資が行われている。イミッヒ・バッテリーベルクのゲルノート・コルマンとも親交があり、バッテリーベルクの木樽は、モリトールから譲り受けたものが多い。 モーゼルとザールに合計約120haを所有し、主な畑ではtrocken, halbtrocken, Kabinett, Spätlese, Ausleseと肩書別に醸造し、Ausleseは*, **, ***と作り分けているので、リリースしているワインの数は、毎年数十種類におよぶ。毎年モーゼル最高の果汁糖度の貴腐ワインを収穫し、ザールのファン・フォルクセンと、忘れられた銘醸畑ガイスベルクの再生に取り組んでいる。(つづく)
2021/02/27
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その時のドイツワインインスティトゥート主催のプレスツアーは、モーゼルの収穫にあわせて開催された。収穫のタイミングにあわせて様々な国から人を呼ぶのは、けっこう大変なことだろうと思うが、生産者達は主に東欧圏から毎年作業者を呼ぶので、そのあたりの見極めは慣れたもののようだ。リースリングの場合は開花から起算して120日前後で収穫となるので、2017年は10月最初の週に開催となったのだろう。現地に着くと、ちょうど収穫が始まって一週間とたたないころだった。 集まったのは、世界各国からワイン雑誌制作にかかわっている十数人。トラ―ベン・トラーバッハ周辺の複数の醸造所に分かれて、各醸造所2, 3人で収穫作業を体験することになった。私はデンマークでワイン雑誌の編集長をしているロッテとともに、イミッヒ・バッテリーベルク醸造所に行くことになった。先週から始まったという収穫作業はまだ序の口で、バッテリーベルクの斜面の下の方の区画を、ポーランドから毎年来ているという若者たち4, 5人とともに収穫。熟したリースリングの果皮はとても薄く、手に取るだけで破れ、すぐに手がベタベタになった。(つづく)
2021/02/17
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2017年10月 ドイツ出張備忘録 1. Weingut Martin Müllen ヴィノテーク誌からは、年に一度くらいのペースで現地取材のオファーがあった。その際見聞したことは、当然ながら依頼主に原稿という形で報告することが最優先となる。2017年10月のモーゼル取材もそんなわけで、出張備忘録はごく簡略なものしか残っていない。ここでは必要に応じてそこかしこを補いながら、写真を中心に報告する。 まず、トラーベン・トラーバッハのマーティン・ミュレン醸造所。 100年くらい前のバスケットプレスを今も愛用している。当主のマーティン・ミュレン氏は、1991年に醸造所を設立した。実家も醸造所だが、父の跡を継ぐというかたちではなく、独立しての設立だった。その理由が、バスケットプレスだ。 1983年に、マーティンの父はそれまで使い続けて来たバスケットプレスをやめて、当時主流になった水平式ニューマチックプレスを導入。シリンダーの内部でゴムの袋がふくらみ、ブドウをシリンダーに押し付けることで果汁が得られる、現在でも一般的な圧搾機だ。しかしマーティンは、バスケットプレスで圧搾した果汁のほうが、ずっと美味しいワインが出来ると確信した。自分が醸造家になるならば、バスケットプレスの伝統を守ることだという使命感を抱いていたのかもしれない。 バスケットプレスは圧搾に約20時間かかる。夕方6時ころから圧搾を始め、翌日早朝6時ころに一度止めて、搾りかすをほぐし、再び圧搾して夕方4時ころに終える。ほぼ、丸一日がかりだが、得られる果汁はとても濁りが少ない。葡萄の果皮がフィルターの役目を果たす。とりわけ最後の1ℓが貴重で、マーティンは「ワインの魂」と呼んでいる。 約20時間かけて圧搾するので、果汁はその段階で適度に酸化されている。果汁に含まれる酸素は酵母の働きを助け、フーダー樽の10カ月以上発酵・熟成し、瓶詰前に一度だけ、微量の亜硫酸を加えるが、2017年産からは、亜硫酸無添加キュベも醸造している。 2017年に訪問した当時、ガイゼンハイム大学で学んでいたマーティンの息子ヨナスは、父の跡を継ごうという意欲に満ちていた。昨年からは時々、オンラインで試飲セミナーを親子で主催したりしている。仲の良い親子だ。 (つづく)
2021/02/15
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2015年12月 ドイツ出張備忘録 8. Weingut Lubentiushof クレーフを後にした我々は、今度は再びモーゼル川を下流方向へと小一時間走った。ニーダーフェルという村で、ルベンティウスホーフ醸造所Weingut Lubentiushofが目的地だ。 4.6haの畑を、川沿いの急斜面に持っているが、その土壌は、わずか30kmほど北西にある、マリア・ラーハの火山活動の影響を受けている。その火山が噴火したのは約1万3千年前のことだ。噴火しただけでなく、岩盤が押し寄せられるなどの圧力を受けて、粘板岩は平板ではなく褶曲して曲面を描き、硬砂岩、溶岩、石英混じりの砂岩や、鉄分を含む層などヴァラエティに富んでいる。しかしこの生産者のワインは寡黙な印象で、いぶし銀のような、あるいは月の光のような静けさを連想させる。 2014年産の収量は、20hl/ha以下に留まった。というのも、9月20日の雹混じりの大雨で葡萄の状態は一気に悪化。やむを得ず、完熟を待たずに10月上旬から収穫を開始したものの、50~60%の葡萄は使い物にならなかったからだ。 一番ベーシックな『シュポンターン』と名付けたリースリング辛口には、かすかにボトリティスのついた葡萄のヒントがあるが、非常に凝縮して複雑で余韻も長く、力の入ったワインだった。グーツヴァイン以上は、ひたすらミネラル感に富んで凝縮して美しい。単一畑のゲンスGänsのカビネットには、マーガレットのような白い花の香りが漂い、ベリー系の心地よい甘味にたっぷりとしたミネラル感。同じ畑のトロッケンは、ほっそりとしてシリアスで非常に長い余韻。そう、シリアスなのだ、この醸造所のワインは。まるでドストエフスキーの小説でも読んでいるような気にさせる。そして2003のアウスレーゼ・ゴールド・カプセルは、途方もなくピュアで澄み切った甘口だった。 ステンレスタンクで野生酵母により発酵し、瓶詰めは収穫翌年の9月、つまり、次の収穫を入れるためにタンクを空にしなければならない時まで時間をかけて醸造する。亜硫酸は遊離亜硫酸量30~40mgを目安に、瓶詰め前に添加する。オーナー醸造家のアンドレアス・バルトは、ザールのVDP加盟醸造所、フォン・オテグラーフェンの醸造責任者も兼任している。 今回この醸造所を訪問した理由は、やはりオレンジワインだ。アンドレアスのフェイスブックに、オーストリアのセップ・ムスターやクリスチャン・チダで見たのと同じ、上部に開口部のある容量500ℓ位の木樽をアップしていたのだ。「でもあれは試しているだけで、まだオレンジワインを造っている部類には入らないよ」とアンドレアス。4~5週間マセレーション発酵して、既に圧搾して熟成しているところだそうだ。「開口部が大きいのは樽の中身をチェックしやすいからで、その点でも気に入っている」という。 この樽を導入したきっかけは、今年VDPモーゼルの同僚達と一緒に、オーストリアの醸造所を訪問して回ったことだ。「セップ・ムスター、ヴェアリッチ、クリスチャン・チダのワインにとてもインスパイアされた。朝から沢山試飲したが、不思議なことに全然疲れなかった。それが亜硫酸の添加量によるものかどうかはわからないが。ムスターも、以前は積極的に亜硫酸添加ゼロに取り組んでいたそうだけれど、最近は必要最低限な量を添加する方向に変えているそうだよ」と言う。 毎年VDPの同僚とその家族と一緒に国外の産地を訪問していて、それが今年はオーストリアだったそうだ。恐らくアンドレアス以外にも、オーストリアのヴァン・ナチュールに刺激を受けたモーゼルの生産者はいるだろう。 ドイツとオーストリアは1985年のジエチレングリコール・スキャンダルから別々の道を歩んできた。生産国としての規模もテロワールも文化も異なるが、それぞれ接点をみつけて歩み寄りつつあるのかもしれない。もっとも、それは全体からすればごくわずかな範囲にすぎないけれど。(以上)
2021/02/11
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2015年12月 ドイツ出張備忘録 7. Weingut Staffelter Hof エバーナッハ修道院を後にしてクレーフに向かった。今度は上流方向、つまり朝向かった方向とは反対方向に車を走らせたが、蛇行する川沿いでは時間がかかるので、山の中をショートカットする道を選んだ。しかし携帯の電波の状態が悪く、ナビゲーションがまともに動作しなかった。時々指し示すのは森の中へ続く獣道か、トラクターしか通れないような狭い農道で、結局ナビを無視して川沿いを走った。 次の醸造所はシュタッフェルターホーフ醸造所Weingut Staffelter Hofという。862年にカール大帝のひ孫にあたるロタール二世が、ベルギーのスタヴロット修道院に葡萄畑を寄進したのがはじまりで、醸造所の名前もこの修道院名に由来する。醸造所の建物の入り口ファサードにはラテン語で"Conferimus eis ob exiguitatem vini"とロタール二世の寄進状の文言が書かれている。「ワインの不足故に我ら彼らに(葡萄畑を)譲渡す」といった意味で、修道院の本拠地周辺では、葡萄があまり育たなかったのだろう。以来数百年に渡り、モーゼルで栽培醸造されたワインは約140km離れた修道院まで、領民により馬車で輸送された。 1805年のフランス革命による世俗化で、革命軍に没収された葡萄畑は民間の手に渡り、やがて1894年、購入者の孫娘が婚資として、醸造所と葡萄畑を持ってクライン家に嫁いだ。その末裔が現オーナーのヤン・マティアス・クライン氏38歳(2015年)。先日66歳の父から正式に醸造所を継いだばかりだ。 ヤンは1997年から1年間、ラインヘッセンのサンダー醸造所で、98年からモーゼルのマルクス・モリトール醸造所で研修した後、ハイルブロンで2004年まで醸造所の経営を学んだ。在学中の2003年にニュージーランドのサークレッド・ヒル・ワイナリーSacred Hill Wineryで研修し、卒業してから1年間オーストラリアのローウェ・ヴィンヤーズ・アンド・ワイナリーLowe Vineyards and Wineryで働いた。 実家に戻ってきたのは2005年の夏で、翌年から本格的に経営に関わり始めた。ビオに切り替えたのは2011年のことだ。最初の研修先だったサンダー醸造所では、1950年代からビオを始めた先駆者の、オットー・ハインリヒ・サンダーから色々と教わったという。ローウェ・ヴィンヤーズもビオロジックの醸造所だから、ビオの経験は十分に積んでいる。それに醸造所が近くにある、ルドルフ・トロッセンも惜しみない助言をしてくれるそうだ。 ビオの認証を取得したのは2014年。転換翌年の2012年にはペロノスポラの被害をもろに被って収穫の3分の2を失ったという。一方2014年は逆に、雨の多い年だったが下草が水分を吸い取ってくれたので、他の醸造所よりも腐敗の被害が少なかったそうだ。醸造棟の屋根には太陽電池が設置されており、これで醸造所の電力をまかない、雨水を貯めて庭の植物の栽培に利用し、環境に優しいワイン造りを実践している。来年からはビオディナミを導入するそうだ。 ワインはどれも優しい味がする。肩の力が抜けていて、フルーティで親しみやすい。どちらかといえば辛口・中辛口よりも、とてもアロマティックで充実した甘口に魅力を感じた。 ヤンは2014年産から亜硫酸無添加醸造に挑戦している。クレーファー・シュテッフェンスベルクのリースリングを12時間マセレーションした後圧搾し、伝統的なフーダー樽で野生酵母により発酵。6月まで発酵を続けた。その後は月一回澱をかき混ぜ、常に樽を満杯に満たすように気をつけながら熟成してきた。瓶詰めは来年1月で、2月上旬に開催される有機食品のイヴェント、ビオファッハBiofachでお披露目する予定だ。樽試飲したそのワインは力強く真っ直ぐで凝縮した味わいをしており、酸化の気配はほとんどなかった。同様の醸造はルドルフ・トロッセンとメルスハイマー醸造所が取り組んでいるが、とりわけ同じ醸造所団体クリッツ・クライナー・リングに加盟しているトーステン・メルスハイマーの亜硫酸無添加リースリング、ヴァーデ・レトロVade Retroに刺激を受けたという。トロッセンの亜硫酸無添加リースリング、プールス・シリーズが今では生産の半分以上を占めていることも知っていた。メルスハイマーは、スティルワインの他にスパークリングでも亜硫酸無添加を始めたそうだ。 白ワイン用葡萄をマセレーション発酵したオレンジワインとは別物だが、亜硫酸無添加ワインも、これまでにないスタイルのワインとして、オレンジワインとともにドイツでも次第に注目されつつある。もっとも、2015年11月下旬にベルリンで開催された、ヴァン・ナチュールの試飲会RAWでは批判的な意見も目立ったようだ。一方、これまで地道にヴァン・ナチュールを紹介し続けてきたケルンのLa Vincaillerieのようなワインショップもあり、ファンも少しずつだが増えてきている。まだ市民権を得たとは言い難いかもしれないが、ことオレンジワインに関する限り、着実に増えてきているように思われる。 (つづく)
2021/02/09
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2015年12月 ドイツ出張備忘録 6. Martin Cooper 三日目のモーゼルの醸造所訪問のテーマはオレンジワイン。オーバーモーゼルとは反対方向の、モーゼル下流にあるコッヘムに向かう。年間数百万人の観光客で賑わう町で、小高い山の上にいかにも、な感じの城塞がそびえているが、周辺で造られるワインは観光客向けの素朴なものしかなかった。 ここでワインを造り始めたのが、南半球のオーストラリア人、マーティン・クーパーである。グレート・サザンのザブレガスワイナリーの醸造責任者を勤める傍ら、醸造コンサルタントとして世界各地を飛び廻っていたマーティンが、モーゼルに初めて来たのは2013年7月のことだ。コッヘム郊外のモーゼル川沿いにあるエバーナッハ修道院Kloster Ebernachが経営する醸造所のコンサルティングに来たのだが、それは除酸をして補糖したシンプルなワインだった。「修道院が所有していた葡萄畑は最高の葡萄畑だった。ワインはブラックホールだったけど」と笑う。その翌月に醸造所を引き受けないかというオファーがあったそうだ。グレート・サザンで知り合った奥さんがドイツ人だったこともあり、マーティンはモーゼルに移住することを決めた。 グレート・サザンはオーストラリア南西部にあり、とりわけリースリングが注目されている産地だ。ザブレガスワイナリーのオレンジワイン、マッド・メン・オブ・リースリングは日本にも入っているから、知っている人もいるかもしれない。約90haの広大な平野に広がる葡萄畑を相手にしていたマーティンは、2014年産からコッヘムの急斜面で働いている。引き受けた当時は2.5haだったのを、今は買い足して9haまで広げた。「畑の広さはオーストラリアの10分の1だけど、仕事の量は変わらないよ」と言う。そして5人の従業員のうち、3人は知的障害者である。フランシスコ会に属するエバーナッハ修道院では約300人の知的障害者が生活しており、醸造所は彼らのための仕事場でもある。 マーティンのワインは、モーゼルのスタンダードなスタイルとはひと味違う。ドメーヌ・リースリング2014はしなやかで、しっとりとした一体感を感じる。モーゼルのリースリングといえば、大抵は甘味、酸味、ミネラル感のバランスが持ち味で、縦方向にスッキリと伸びる印象があるけれど、これは各要素のつなぎ目なく、リンゴや白桃のヒントの果実味が丸く広がる。「公的審査に提出したら、官能審査で最初0点だった」と苦笑いするマーティン。産地の特徴が出ていない、ということらしかった。再提出して3.8点(満点5点、最低1.5点で合格)で合格したが、個性的でとても良いリースリングだ。 オレンジワイン2014は上出来なクヴェヴリのワインを彷彿とさせた。肌理の細かいミネラル感と、ダージリンを思わせるところのある軽く酸化した柑橘のヒント、とても品が良い。約40日間Clayverというイタリア製のセラミックタンク1つと伝統的なフーダー樽を切った桶2つで発酵した。「オーストラリアだと3~5日でタンニンがいっぱい出るけど、ここは40日でも大丈夫」とマーティン。生産量は1500本(総生産量35000本)。ステンレスタンクで熟成中の2015年産は、酸とミネラルがカッチリとして、長期熟成型になりそうだった。 試飲の後葡萄畑に連れて行ってもらう。コッヘムのゾンネンベルクの畑はモーゼルに典型的な急斜面で、そこをビオロジックで栽培している。雑草を食べさせるために牛を放したこともあるそうだが、この斜面では牛も相当難儀したことだろう。従業員の一人は地元の醸造所の息子で、彼が父親にマーティンのやっていることを話して聞かせるたびに「理解できんよ、外人のすることはまったく」と嘆いているそうだ。畑もビオに切り替えて間もないから、今後の向上が期待される。 マーティンは1974年生まれの41歳(2015年)。修道院からは25年契約で賃貸しているが、将来的には90年契約に切り替えたいという。息子達の為だそうだ。モーゼルに骨を埋める覚悟は出来ているようだ。 追記: 残念なことに2018年5月に、マーティンは修道院を去ることになった。醸造家として理想を追求するマーティンの志は、養護施設を運営する修道院からすると、興味本位の金食い虫に思われたのかもしれない。 その少し前、2018年の3月に、私はデュッセルドルフのワイン見本市ProWeinで、クロスター・エバーナッハのワインを出展しているマーティンに出会った。「ますます良くなっていますね」と感心したが、彼はどことなく落ち着かないそぶりで、曖昧な笑顔を浮かべただけだった。 あの時の違和感のある反応の理由は、まもなくわかった。オーストリアのブルゲンラントの大手醸造所、エスターハージーの醸造責任者に迎えられたのだ。マーティンが心血を注いでいた畑と醸造は、モーゼルの大手醸造会社アイニヒ・ツェンツェンが引き受けることとなった。輸出に力を入れていて、もっぱら量産ワインの醸造にたけているこの会社ならば、周囲ともぶつかることなくワイン造りを続けることだろう。 マーティンは今、何をしているのだろうか。今、エスターハージーのサイトを見ても、彼の名前は出てこない。モーゼル下流に自分のブドウ畑を少し持っているはずだから、そこでまだ理想を追いかけているかもしれない。そうであってほしいと思う。 (つづく)
2021/02/08
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2015年12月 ドイツ出張備忘録 5 Weingut Stephan Steinmetz ルクセンブルクの醸造所を2軒廻った後対岸に渡り、その日最後のドイツ側の醸造所を一軒訪問。午後4時で早くも夕闇が迫っていたが、シュテファン・シュタインメッツ醸造所Weingut Stephan Steinmetzのあるヴェアの町に入ると、いかにもドイツらしい町の様子にほっとした。と言ってもメルヘンチックなハーフティンバーの家並みがある訳ではなく、ごく普通のスレート葺きの住宅が並んでいるだけなのだが、家々の壁や屋根の色、道路標識の言語、道路の舗装の仕方やカーブの曲がり具合、建物と道路との間にある空間などが、全体として馴染み深く感じられた。 シュテファン・シュタインメッツ醸造所は、モーゼル上流の生産者の中でも割と知られた醸造所で、トリーアの百貨店カーシュタットのワイン売り場でも手に入った。目新しかったのは、2015年にビオ認証を取得したということ。以前はオーバーモーゼルでは私の知る限りでは一軒、ヴィンシェリンゲンのマンフレッド・ヴェルター醸造所がエコヴィンに加盟していたが、近年はビオを採用する醸造所が次第に増えつつある。その一つであるニッテルのカール・ゾンターク醸造所は、ホスピティエン慈善連合醸造所のアルンスさんの奥さんの実家なのだが、アルンスさんに言わせると「ビオを採用しているのは、ごく一部の醸造所にすぎない。トレンドではない」と言う。 ちなみに、モーゼルにはもう一軒、よく知られたシュタインメッツ醸造所がある。中流のヴェーレンにあるギュンター・シュタインメッツで、こちらの現当主の名前がシュテファンといい、モーゼル上流にある今回訪れた醸造所の当主と同じ名前だ。ただ、ヴェーレンのシュテファンはStefanで、上流のシュテファンはStephanと、綴りが違う。ちょっとだけややこしい。それはともかく、上流のシュタインメッツでは2007年に正式にビオを採用。農薬の使用は健康に害を与えることを、父の代から既に認識はしていたそうだ。シュテファンが醸造所を継いでから試行錯誤を重ね、ようやく認証にこぎつけた。 醸造所の現オーナー、シュテファン・シュタインメッツが父から醸造所を継いだのは、1993年頃の22歳の時だ。17歳の時に醸造所を継ぐ決心をしたが、畜産と醸造を営んでいた父は息子の将来を案じたという。何しろエルプリングは高く売れない。勢い量をつくってしまうので、水っぽい安ワインというネガティヴなイメージがある。フレッシュな酸味と軽さから、スパークリングの原料としてはその価値は認められていたものの、大量量産されるゼクトの原料としてはリースリングほどの値では売れなかった。シュテファンが醸造所を継ぐとともに事業を醸造一本に絞り、エルプリングの他にヴァイスブルグンダー、グラウブルグンダーの辛口に主力を移した。最初の頃は父が醸造していた甘口を欲しがる顧客もいたが、そのうち高品質な辛口の生産者として定評を得ていった。 現在、貝殻石灰質土壌の畑で栽培するのはエルプリング、ヴァイスブルグンダー、グラウブルグンダー、オクセロワとシュペートブルグンダーで、リースリングは栽培していない。スティルワインの他に、エルプリングのクレマン、シュペートブルグンダーのブラン・ド・ノアールとヴァイスブルグンダーをブレンドしたクレマン・ブリュット『リエゾン』と、シュペートブルグンダーのクレマン・ロゼ・ブリュットを醸造している。 現地小売価格はスティルワインが5~7.60Euro、クレマンが9.50~12.50Euro。ヘクタールあたりの収穫量は約60~65hl。とてもクリーンかつアロマティックで、リンゴや洋なしのフレッシュな果実の香るストレートで親しみやすい辛口だった。 試飲した大きな納屋のような空間の片隅にはパンやピザを焼く石窯があり、パチパチと燃える薪のはぜる音がずっと聞こえていた。6, 7歳くらいだろうか、我々を到着時に自ら握手で出迎えた息子さんが時折顔を出しては、何か手伝うことはないかと父親に聞いていた。幼いながらも次の世代の主であることを自覚しているようでもあり、ほほえましく、頼もしかった。 (つづく)
2021/02/07
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2015年12月ドイツ出張備忘録 その4. Domaine Alice Hartmann シャトー・パークから次の訪問先であるアリス・ハートマン醸造所Domaine Alice Hartmannまでは車で10分足らず。隣村のヴォーメルダンジュにある。アポを取るときは間に1時間あけておいたので、どこかで昼食をとるつもりが、例によってそれどころではなく、万が一に備えてと思って朝出発するときに買っておいたサンドイッチを大急ぎでたいらげ、少し遅刻して醸造所の前に着いた。 そこは二階建ての洒落た長屋のような案配の建物で、少し離れたところにある2014年に完成したという醸造棟には、最新設備が完備されていた。冷却装置つきの圧搾機が2台あり、うち一台はスパークリングワイン--ルクセンブルクではクレマンと呼ぶ--専用で、収穫時もクレマン専門チームと、ノーマルなワイン用の葡萄を収穫するチームの二つに分かれるという。バリック樽が並ぶセラーは川に面しており、しかも全面ガラス張りで、とても明るい。夏場はブラインドを下ろして空調を入れるそうだ。生産の半分以上をクレマンが占めて、その他にリースリング、シャルドネ、ピノ・ノワールのスティルワインを造っている。が、醸造所の成功はクレマンによるので、シャンパーニュでいうところのレコルタン・マニュピュランに近い。 栽培面積は12haで、ルクセンブルクだけでなく、モーゼルのトリッテンハイマー・アポテーケとシャルツホーフベルクにも区画を所有している。そして醸造責任者もドイツ人で、モーゼル川を挟んで対岸のニッテル村の、ベフォート醸造所Weingut Befortでもワインを造っているハンス=ヨルグ・ベフォート氏だ。彼がニッテルで造るエルプリング、ソーヴィニヨン・ブラン、ピノ・グリなど試飲させてもらったが、こちらはストレートで素直で力強い。高校性が直球をど真ん中めがけて全力投球してくるような印象。一方、彼がアリス・ハートマンで造るリースリングは大人の味で、繊細でまろやかな酸味にニュアンス感があった。ヴォーメルダンジュ・ケップヒェンという貝殻石灰質土壌で斜度55%の畑で、樹齢60~80年の棒仕立てだという。さらにハートマンのシャルツホーフベルクの2012リースリング・シュペートレーゼ・ファインヘルブは、ワイン法の制限のためザールのフォン・ヘーフェル醸造所に委託して醸造したというが、繊細でほっそりとしてミネラル感があって辛口気味で、心なしかドイツワインとはひと味違うような気がした。 ベフォート氏がニッテルで造るワインとアリス・ハートマンで造るワインとは、スタイルが異なるのには訳がある。その一つが顧客層の違いだ。ニッテルではもっぱら地元の人々が日常的に楽しむ為のワインを造っていて、小売価格も5~8Euroがメインだ。一方アリス・ハートマンのクレマンはスタンダードなBrutで16.5Euro、フラッグシップのハートマン・グランド・キュベは59Euro。スティルワインはほぼ完売状態だったが、15~19.50Euroと高価で、レストランや都市部のワインショップで愛好家向けに、あるいはルクセンブルクの裕福な常連の顧客に販売され、相応の設備投資と手間暇をかけて造っている。 ちなみに、ベフォート氏の実家の醸造所は、1969年にハンス=ヨルグの両親が醸造所直売を始めたことに端を発する。そしてアリス・ハートマンは1988年に亡くなっているが、生前から有名だった醸造所を、航空業界で成功したピエール・ウェスナーとジャン・ゴダードが1996年に購入して設備投資し、今日の評価を築き上げてきた。アリス・ハートマンのクレマンのセパージュはリースリング40%、シャルドネ50%とピノ・ノワール10%。リースリングはステンレスタンク、シャルドネとピノ・ノワールはバリック樽で醸造し、伝統的瓶内二次発酵を12ヶ月行う。明確で繊細で複雑な香りに、奥行きのある果実味の印象的なスパークリングだった。 (つづく)
2021/02/06
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ドイツ出張備忘録 3. Château Pauqué トリーア滞在二日目に行ってきたのはモーゼル川上流の醸造所だ。モーゼル川の両岸を挟むようにして、斜面に葡萄畑が広がっている。かつての国境検問所跡のある橋をわたり、ルクセンブルク側に入ると、急に家並みが白茶けてフランスっぽくなる。 8月の最終週にある、ザールのファン・フォルクセン醸造所の新酒試飲会に出展している、アビ・デュールAbi Duhr氏の醸造所だ。デュール家は約350年の伝統を持つ醸造家の一族で、ドメーヌ・マダム・アリ・デュールが、アビ・デュール氏の実家にあたる。事務所は恐らく一世紀以上前に建てられたと思しき洋館だった。玄関を入ってすぐのところにある、大きな暖炉を囲むソファで、我々は2時間半ほどお話を伺いながら試飲した。 ルクセンブルクの葡萄畑面積は1300ha弱で、ラインガウの約3分の1の広さだ。その約60%を醸造協同組合が栽培醸造していて、残りの葡萄畑を、個人経営の醸造所が栽培している。シャトー・パークはその中でもトップクラスの醸造所の一つで、モーゼルで言えばフリッツ・ハーグとかヘイマン・ルーヴェンシュタインとか、そういった位置づけになる。 オーナー醸造家のデュール氏は1953年生まれ。ガイゼンハイムで醸造学を学んだ当時、白ワイン中心で、しかも分析値と効率を重視したワイン造りに物足りなさを感じ、ボルドーの研究所に1年間留学して、醸造学の国家資格を取得した。そこでポール・ポンタリエ氏、ドニ・デュブルデュー氏と親交を結んだ。今もワインジャーナリストとして、ベルギーのワイン雑誌でボルドーを担当している。 ボルドーで学んだのは、ブレンドの醍醐味とバリック樽を用いた醸造だという。モーゼル川沿いの24kmに分散して所有する、8haの葡萄畑で栽培するヴァイスブルグンダー、オクセロワ、シャルドネ、エルプリング、ミュラー・トゥルガウ、それにピノ・ノワールをバリック樽で醸造し、その大半はブレンドしている。とてもバランスの良い、料理にあわせやすそうな辛口だ。一方でリースリングとグラウブルグンダーは、ステンレスタンクの方が向いているという。 醸造で特徴的なのは、野生酵母を用いて8~10ヶ月発酵すること。必要があれば培養酵母も使うことがあるが、基本的に野生酵母でじっくりと時間をかけて発酵することで、しなやかな酒質のワインになるという。もうひとつの特徴は、ルクセンブルク全体では12.5%にすぎないリースリングが、この醸造所では葡萄畑の約60%を占めることだ。14種類リリースしているワインのうち、8種類が畑違いのリースリングである。 葡萄畑は貝殻石灰質とコイパーが主体で、斜面下部には一部砂質土壌が混じり、畑によって土壌の岩石がごつごつしていたり、細かく砕かれて柔らかかったり、南部のフランスとの国境付近は赤みを帯びた雑色砂岩が混じっていたりして、それがワインの味にも反映している。2014のリースリング・パラデイスParadäisは、しっとりと下に向かって広がる繊細な味で、凝縮した完熟した柑橘の長い余韻。同リースリング・パラデイス・アルテ・レーベンはしっとりとした酒質は共通しているが、透明感と気品に勝る。このしっとりとして繊細な感じが、ルクセンブルクのテロワールの味なのかもしれない。また、残糖も前者は18g/ℓ、後者も大体同じ位。ドイツワインで言えばハルプトロッケンかファインヘルブだが、そこで自然に発酵が止まったからで、ワインが自分でそうなった味なのだという。ヘクタールあたりの収穫量は15~35hl/haと低い。 リースリングに関しては、恐らくデュール氏はルクセンブルクで右に出る者はいないだろう。醸造コンサルタントも勤めていて、ファン・フォルクセン醸造所も、2003年に醸造責任者が交代した時からの顧客と聞いて、なるほど、それで新酒試飲会に出展しているのかと納得した。他にデンマーク、セルビアとボジョレーでもコンサルタントをしているそうだ。 ルクセンブルクとドイツワインの個性の違いについて意見を聞くと、それは歴史的な事情に由来する、とデュール氏は言う。ここから先はまた機会を改めて報告したいと思います。 (つづく)
2021/02/06
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ドイツ出張備忘録 2015年12月 2. SMW Saar Mosel Winzersekt GmbH ホスピティエンの次に訪れたのが、SMWザール・モーゼル・ヴィンツァーゼクト。日本人には有名かもしれない。社長のアドルフ・シュミットさんは大の日本好きで、毎年訪日しては一週間くらいかけて全国を行脚している。 日本からのお客さんは、けっこう頻繁にいらっしゃるようで、私の数日前にもクラシックの演奏家の人たちが来て、私の二日後には徳島からインポーターのお客様がお越しになるとか。そんな訳でSMWには日本人スタッフがいる。また、韓国で実家が醸造所という韓国人も研修中だが、彼はまだドイツに来て日が浅いので、ドイツ語学校に通っているそうだ(2015年12月)。なので、訪れた時の会話は基本的にドイツ語に、時々韓国語に日本語、英語が混じるという、ほのぼのと国際的な雰囲気だった。SMWで扱っているワイン12本を皆で試飲。 ツェラー・ペータースボーン・カペルチェンは、シュヴァルツカッツの原点となった畑。この畑からシュヴァルツカッツが成功して、それにあやかって近隣の村も同じツェラー・シュヴァルツカッツを名乗ることを、法的にも可能にしてしまい、本家本元の単一畑は、いつしか忘れ去られてしまった。土地の味がはっきりとして、滋味深いリースリング。個人的にはグラン・クリュでもいいと思う。でも所有者にVDPに加盟している醸造所がないので、今も無名のままでいる。 一方SMWのリースリングのアウスレーゼ・トロッケン”S”は、あいかわらず水彩画というか、水墨画のようなあっさりとした味で、通向けのワインかもしれない。シュミット氏は「一杯目を飲んだら二杯目が、二杯目を飲んだら三杯目が、三杯飲んだらもう一本飲みたくなるワインが造りたかった」と笑う。なるほど、この軽さなら一本はすぐ空いてしまいそうだ。 あと印象的だったのは、ザンクト・ウルバンスホーフの97のヴィルティンガー・シャルツベルクのリースリング・シュペートレーゼ。醸造所の腕が良いのだろう、とても味わい深い。SMWではなぜか、ウルバンスホーフの熟成したワインをしばしば扱っている。 ゼクトについては改めて言うまでもないけれど、1990と1991のエルプリング・ブリュットを、最近リリースしたそうだ。瓶内二次発酵25年と24年である。1990は古酒らしい癖のある香りに対して、味は素直で大変明瞭で力強い。1991は信じられないほど若々しい、明るく真っ直ぐな辛口。こうした原酒を早い時期に買い付けて、醸造所の地下3層のセラーのどこかで寝かせる訳だけれど、ゼクトに仕立てる原酒を見極めるセンスでは、シュミット氏の右に出る者は多分いないと言われている。 ともあれ、シュミット氏とトリーアで再会出来て良かった。どうかいつまでもお元気で。またお目にかかれることを楽しみにしています。 (つづく)
2021/02/04
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訪独備忘録2015年12月 1. Vereinigte Hospitien 2015年は8月に続いて、12月にも訪独の機会があった。二つ目的があり、一つはトリーア大学の学位授与式。普通、ドイツの大学では聞かない式典なのだが、私が学んだ歴史学部(Fachbereich III)では、12月上旬に開催するという。もう一つは、ドイツワインの公式広報団体であるDWIドイチェス・ヴァインインスティトゥートの、日本支部運営組織の選抜オーディションに臨むためだった。私自身が候補者というわけではなく、その補佐役として顔を出したのだが、結果は落選。現在Wines of Germany日本オフィスを運営している、SOPEXAが受注を決めた。 DWIのオーディションがあったマインツを去り、トリーアに着いて最初に立ち寄ったのは、モーゼル川沿いにあるホスピティエン慈善連合醸造所だった。留学中は、ちょくちょく試飲所に立ち寄っては試飲しながら、生産年の情報など教えてもらっていた。 写真はヨアヒム・アルンスさん。私がトリーアにいたときから、ずっとここの経営責任者をやっている。2011年に帰国する前日に挨拶に立ち寄って以来だから、4年振りの再会だった。ちょっと白髪が増えた気がするが、実は私と同い年かそのあたりだったと思う。二人の娘さんは今9歳と12歳(2015年当時)。そろそろ反抗期だろうか。奥さんの実家はオーバーモーゼルにあるニッテル村の醸造所だが、アルンスさんはそちらを継ぐ気はなく、ホスピティエンの仕事に集中しているそうだ。 何か最近新しいことは、と聞くと、エティケットのデザインを少しだけ変えたという。そして商品構成をVDPの方針に従って、グーツヴァイン、オルツヴァイン、グローセ・ラーゲという、呼称範囲が狭まるにしたがって、収穫量を切り詰め品質をあげるシステムにしたそうだ。顧客の反応は上々で、2014年産のグローセス・ゲヴェクスは、あらかた売り切れたとか。それと、駅の裏手にある畑を大々的に植え替えている。植えるのはリースリング。自根ではない。新たな植樹は禁止されているから当然だが。 2014年のカンツェマー・アルテンベルクのGGと、同ゼーリガー・ザールファイルザー・シュロスベルクのファインヘルブ・アルテ・レーベンを試飲させてもらう。収穫量をしぼっただけあって中身が詰まっていて、品の良い仕上がり。後者は要素がまだ溶け込んでいないのかややおとなしく、2年後くらいが楽しみ。 日本向けには複数のインポーターと取引があるそうで、いずれ日本にも行きたいと話すアルンスさん。VDPモーゼルの中ではどちらかといえば地味な存在だが、その品質の高さは日本で飲むと一層際立つ気がする。 (つづく)
2021/02/03
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備忘録その23. 帰国 最終日は朝7時半ころ、トリーア発のレギオナル・エクスプレスでコブレンツに向かい、コブレンツで乗り換えてフランクフルト空港駅に向かった。SÜWEXと称する新型車両で、ダークグレイのシートにダークブラウンのテーブルが渋く大人びた雰囲気。空調は完備していても窓が開かないのが残念。 ホテルの朝食には間に合わなかったが、親切にもランチボックスを持たせてくれた。サラミとチーズを挟んだパンが二つ、キュウリ、トマト、リンゴ、ネクタリン、ゆで卵がそれぞれ一本か一個まるごと、スナックバー、ヨーグルトとビタミンジュースが袋に入っていて、ずっしりと重い。朝食はもちろん、昼食もそれで間に合った。ワイン祭りの関係で若干高くなっていて一泊65Euroだったが泊まってよかったと思う。Hotel Pieperという、駅から歩いて10分ほどの宿だ。 コブレンツでは乗り換え時間が3分しかなかったが間に合い、順調に空港に到着。ルフトハンザはチェックインも自動化されていてすぐに完了。セキュリティでは、X線を通ったカメラバックは例によって別室に持ち込まれ、爆発物検査を受ける。紙片でファスナーの周辺を念入りにこすって分析機にかけて、1分ほどで疑いが晴れて解放された。 搭乗前にビールを一杯飲んだ。ビールはずっと飲みそびれていたので、すこぶる美味かった。それにしても、よく無事に全行程をこなすことが出来たものだ。化膿した足の裏の傷はファルツで一度治りかけて、モーゼルでまたぶり返し、最終日には初日と同じくらい痛んだ。しかしなんとか、ここまで来られたのだから、ありがたいことだった。 帰りの便は予定通りでアップグレードも当然なく、最前列の3人がけで真ん中は空席という幸運にもかかわらず、ビジネスクラスが恋しかったのは、贅沢というものだった。エコノミークラスの機内食を目にして、一層その思いは強まったが致し方ない。離陸すると大きく旋回し、眼下にラインガウの雄大な光景が広がった。写真に撮ろうにも最前列だったので、カメラバックは頭上の物入れの中で、iPhoneも電子機器のスイッチを切るように言われていた。午後の光に銀色に輝くライン川と葡萄畑は、脳裏に刻むより他はなかった。再度の訪独を心に誓いながら。 (おわり)
2021/02/02
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備忘録その22. Weingut Piedmont & Weingut Reverchon イヴェントの入場料の払い戻しという目的がなければ、隣村のフィルツェンにあるピエモント醸造所には行かなかっただろうし、ピエモント醸造所に行かなければレヴァション醸造所にも行かなかっただろう。何かに導かれていたのかもしれない。 ピエモント醸造所はフィルツェン村に入り口近くにある。もともと神父の館で、1721年建築で、そこかしこにバロック時代の面影を残していた。イヴェントマネージャーはいなかったが、ピエモント夫人が親切に払い戻しに応じてくれたついでに、プライヴェートな空間なので屋内の写真は撮らないようにと依頼された。ただ、玄関付近の狩猟のトロフィーがたくさん飾ってある空間はとても興味深く、許可を得て撮影した。 板張りの床が懐かしい二階の居間には、オーナーのクラウス・ピエモント氏と、モーゼル中流はライヴェン村のヨゼフ・ロッシ醸造所の息子さんがいた。ヴァインスベルクの醸造学校で勉強中で、ラインヘッセンのケラーやファルツのクニプサー醸造所で研修したそうだ。お父さんに似て積極果敢に前に進んでいくタイプと見た。ワインはアロマティックで凝縮感がある。ピエモント氏はトリーアの公的品質審査の責任者を務める人物。ワインは細っそりとして軽く繊細。ザールらしい個性。 フィルツェンには確か、ラインガウのペーター・ヤコブ・キューンも来ていたはず、と館を探し回るも見当たらず、再びピエモント夫人に聞いてみると、ここではなく、近くにあるレヴァション醸造所にいるというので、そちらに向かう。 レヴァション醸造所は2007年に倒産して、その後、トリーア出身の銀行家ハンス・マレト氏が購入した。どのくらい資産家かというと、百貨店カーシュタットのトリーア支店が経営不振に陥っていた時、その購入と立て直しに名乗りを上げたほどだ。フィルツェン村も子供の頃からよく来ていたという。2007年以降のレヴァションのワインは何度か飲んだが、印象に残っているのは2010年産リースリングで、除酸処理の跡があからさまでバランスを欠き、あまり感心しなかったことを覚えている。 だが2014年産から醸造主任が交代して、ラインガウのシュロス・フォルラーツで20年間醸造主任を務めていたラルフ・ヘアケ氏になった。「畑を見に来て、ここなら自分の手腕を発揮出来そうだと思った」と、転職の動機を語るヘアケ氏は1968年生まれ。彼の手になるワインは、ザールらしいスッキリとしたシトラス系の果実味と粘板岩のミネラリティに、どこかラインガウを思わせるヴォリューム感がある。Filzener Herrenberg Riesling GC 2014はピュアでパワフルで、それまでのレヴァションの印象を覆すものだった。 いろいろ調べると、実は今回訪問したファルツのフランク・ヨーンのコンサルティングも受けている、ビオロジックの醸造所だった。発酵は野生酵母で醸造中操作するのは温度だけだという。ヘアケ氏の着任は確実にワインの質を向上させたようだ。 (つづく)
2021/02/02
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備忘録その21. Weingut Von Othegraven 午後はとりあえず、カンツェムのフォン・オテグラーフェン醸造所に向かおうとしたのだが、ヴィルティンガー・クップの麓の坂道を上っている途中で、かなり大回りして行かなければならないことに気がついた。本当はヴィルティンゲンの手前で川を渡らずに、ザール川の対岸を走れば、なんなくカンツェムに到達出来た筈なのだが、気づくのが遅れた。 ヴィルティンガー・ヘレの畑からカンツェマー・アルテンベルクの畑へ抜ける農道は昔何度も歩いたことがあり、トラクターなら確実に行けることはわかっていた。だがレンタカーではどうか一抹の不安は残ったが、とりあえず行ってみると、なんなくカンツェムの村を見下ろす場所に出た。トリーアに住んでいた頃、一体何度ここからこの景色を眺めたことだろう。5月上旬の展葉の頃、畝一面に咲いたたんぽぽの、心なごむ光景。収穫の季節はもちろん、晩秋の紅葉もとても美しい。 フォン・オテグラーフェン醸造所には、ファルツのフリードリヒ・ベッカーと、隣村のファン・フォルクセンがゲスト参加していた。オープンカーで訪れる人が多く、緑の多い邸にセレブな雰囲気が漂っていた。 オーナーのハイディ・ケーゲルさんが亡くなって、2011年にケーゲルさんの甥っ子にあたる、テレビのクイズ番組「クイズ$ミリオネア」のドイツ版司会者のグンター・ヤオホがオーナーになり、一般にも広く知られるようになった醸造所だが、ワインの品質はそれ以前から非常に高かった。モーゼル下流にあるルベンティウスホフ醸造所のオーナー醸造家、アンドレアス・バルトが醸造責任者を兼任していて、彼は野生酵母による畑の個性を表現したワインを得意とする。ここのワインの新酒はいわゆる野生酵母臭が明瞭だが、上品でとても味わい深い。 フリードリヒ・ベッカーのワインも、とても良かったことは言うまでも無い。力強くて飲み応えがあって、グラウブルグンダーがロゼの色合いをしているのにはちょっとびっくりした。マセレーションの時間を長くとったのだという。 実は、トリーアに住んでいる友人が、我々のために招待券を手配してくれていたのだが、手違いで昨日ホテルにようやく届いたので、支払ってあった入場料を、招待券と交換で取り戻せるかどうか入り口の案内所で聞いてみた。一人35Euroで約5000円。友人の好意も無駄にしたくはなかった。するとイヴェントの責任者は隣村のフィルツェンにあるピエモント醸造所にいるから、そこに行って直接聞いてみてほしいという。そこで我々はフィルツェンへと向かった。(つづく)
2021/02/02
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備忘録その20. Ayler Dorf und Weinkirmes その日、たまたまアイル村でワイン祭りがあった。 ペーター・ラウアー醸造所の前の広場で、試飲を終えて出てきたら、楽隊のリハーサルの賑やかな音が通りにあふれ、住民以外の車両が通行禁止になっていた。お祭り独特の雰囲気に心が浮き立つ。 キルメスという、教会が出来た日を記念するお祭りで、醸造所がある村では自然にワイン祭りになる。大抵はここのように、広場に舞台をつくって、地元の学校や消防団などの楽団が日頃の練習の成果を披露し、出演者の家族や知り合いが聞きに来ているといったような、ごく家族的な雰囲気の祭りであることが多い。 昔から毎年8月最後の週末に開催していたそうで、ザール・リースリング・サマーのイヴェントに同期して開催した訳ではないという。祭りの会場では、さっき会ったばかりのヘルムート・プルニエンが、ワインスタンドでお客の相手をしていて、週末でも休む暇もない様子だった。 他にトリーアのワインスタンドに毎年来ていた、レーヴェンスホーフ醸造所の主人もいた。彼のワインは辛口はともかく、甘口はとてもアロマティックで美味しい。揚げたて鱈のフライのサンドイッチを頬張りながら、彼らのリースリングを楽しんだ。 同行したR氏は、ターフェルシュピッツという牛肉の煮込みにゆで卵をマヨネーズに混ぜたソースを添えたものを食べていたのだが、味がしない、と言って、買った屋台に塩をとりに行った。後にして思えば、それはたぶん傷んでいたから、味がしなかったのだと思う。快晴のとても暑い日だったし、こうした祭りなどのイヴェントではあってもおかしくない。不調を訴えながらも、強靱な胃と若さで午後も乗り切ってくれた。 村祭りでしばらく和んだ後は、とりあえずカンツェムのフォン・オテグラーフェン醸造所へ向かった。 (つづく)
2021/02/01
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備忘録その19. Weingut Vols 次のフォルス醸造所は、ペーター・ラウアー醸造所と同じアイル村にあり、歩いても5分くらいの距離だった。以前はアルテンホーフェン醸造所といい、2010年にトリーアのビショフリッヒェ・ヴァインギューターの経営責任者を辞してまもないヘルムート・プルニエン氏が購入し、フォルス醸造所と改名した。 アルテンホーフェン醸造所は、2008年頃にオーナーが亡くなって廃業した醸造所だ。よくあると言っては何だが、代々続く家族経営の醸造所で、時々トリーアのワインスタンドに来ていたので顔見知りだった。ある時、ワインスタンドの中にいるオーナーがびっこを引いているのに気がついた。まだ30代だっただろうか、愛想は無かったが、誰にでも分け隔て無く接する、気楽に口のきける男だった。 「ライム病だよ」と彼は言った。細菌性感染症の一種で、脊髄にダメージを与えるので足が動かなくなる。「葡萄畑で仕事をしている時にマダニにかまれてよ。調子が悪くなったんだが風邪かと思って放っておいたのがまずかった。まぁ、気長に治していくさ」と力なく笑っていたのを思い出す。 亡くなった後しばらくして、やはりワインスタンドに来ていた甥っ子が跡を継ぐつもりだと聞いたが、醸造学校にも通うか通わないかの若さで、結局手に負えずに醸造所は売りに出た。それを購入したのがプルニエン氏だった。 2007年にプルニエン氏がビショフリッヒェ・ヴァインギューターに来る前は、ヴュルツブルクのビュルガーシュピタール醸造所の経営責任者だった。同じキリスト教関係の醸造所で、フランケン支社からモーゼル支社に異動したようなものだろうか。ビショフリッヒェ・ヴァインギューターはモーゼルでも最大規模の醸造所で、約100haの葡萄畑を所有しているのだが、そこから毎年何十種類というワイン-確か50品目はあったと思う-をリリースしていた。 「どんなワインでも、かならず欲しがる顧客はいる」というのが、様々な品種、葡萄畑、肩書き、残糖度でワインを造り分ける生産者の一般的な言い分で、とりあえずそれで経営が成り立っていると、品揃えを変えるのは難しい。まして規模の大きな醸造所では、下手に改革されては困ると考える古株の従業員が抵抗するのも、ありがちなことだ。 プルニエン氏の実家はヴィルティンゲンにある。トリーアに異動してからは、実家で両親が協同組合に収穫を納めていたヴィルティンガー・ブラウンフェルスの畑を継いで、醸造所を立ち上げた。それがフォルス醸造所だ。最初はヴィルティンゲンの実家の醸造所の収穫を、シャルツホーフベルクの麓にあるエゴン・ミュラーの裏手のビショフリッヒェ・ヴァインギューターの醸造施設で圧搾して、カンツェムのフォン・オテグラーフェン醸造所のセラーを間借りして醸造していた。Vols I、Vols IIと名付けた二種類だけだったが、桃や熟したリンゴの香る、とてもアロマティックなファインヘルブと甘口で、個人的にはもうすこし辛口にならないものかと聞いたことがある。自然に発酵が止まってある程度の甘みが残るのが、ザールの伝統的なスタイルなんだ、という答えだった。 2010年にアルテンホーフェン醸造所を購入して、葡萄畑は7haとなり、葡萄品種にヴァイスブルグンダー、シュペートブルグンダー、カベルネ・ソーヴィニヨンが加わった。アルテンホーフェンの前のオーナーは、ブルグンダー系の辛口に力を入れていて、確かシャルドネやグラウブルグンダーも得意にしていたはずだ。ステンレスタンクで醸造した真っ直ぐな辛口だった。フォルスの主力はリースリングだが、ヴァイスブルグンダーとピノ・ノワール、カベルネ・ソーヴィニヨンもラインナップに加わっている。辛口はザールらしくほっそりとして直線的で、繊細な酸味とミネラルが果実味を引き締めている。辛口よりも残糖が20g以上あるワインの方が魅力的に感じた。 試飲の後、新しく購入したショーンフェルスSchonfelsの畑に連れて行ってもらった。ペーター・ラウアーも隣に区画を所有している、ザール川沿いの急斜面の畑だ。標高約100mで下半分は断崖絶壁、上半分が葡萄畑になっている。新しくリリースしたそのワインは非常にエレガントで繊細でピュアで、試飲した中では最も良かった。 ショーンフェルスの斜面からは、遠くにオックフェンの村と背後に広がるボックシュタインの畑が見える。その奥の方の斜面の上に、整地されたばかりとおぼしき区画が見えるが、あれがファン・フォルクセンとマルクス・モリトールが蘇らせようとしている幻の銘醸畑ガイスベルクなのだろう。ザールは今も変わりつつある。 (つづく)
2021/01/31
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備忘録その18. Weingut Peter Lauer ツアー最終日。その日最初の予定は朝9時にザールのペーター・ラウアー醸造所、11時にそのすぐ近くのフォルス醸造所。午後は昨日に続いてザールのワイン祭りSaar Riesling Sommerに参加している醸造所を適当にいくつか廻るという、比較的楽なスケジュール。 朝トリーアを出てザール川に近づくと、霧が立ちこめていて視界が悪かったが、一山越えたら唐突に真っ青な空が広がった。ザール川の渓谷に沿って霧が溜まっていたものと思われ、やはり渓谷に近い葡萄畑に影響がありそうだった。 どのような形の影響になるかは、ペーター・ラウアー醸造所の当主フロリアン・ラウアーが説明してくれた。川に近い畑は辛口ワインの生産に向いていて、川から離れた畑は甘口に向いているのだという。例えば、シャルツホーフベルクはザール川から離れた位置にあり、見事な甘口を産する。川は気温の低下を防ぐ作用を、周囲の葡萄畑に及ぼすので酸が減りやすい。一方、川の影響がない場所では、気温が低下するので酸が高く留まる。つまり甘みとバランスすることで、持ち味が生きるワインになるのだという。 実際、川沿いにある彼のファス11 ショーンフェルスSchonfels GGやファス12 ザールファイルザーSaarfeilser GGは辛口で、ファインヘルブのファス6 セニオーSeniorやファス12 ウンテルステンベルクUnterstenberg、ケルンKern、ノイエンベルクNeuenbergは川から距離のある葡萄畑で、なるほど、と思った。 また、醸造所のあるアイル村で最も知られているのはクップKuppの畑で、お椀(カップ、Kupp)を伏せたような形の南向き斜面なのだけれど、フロリアンは山頂部の区画をファス15 Stirn(シュティルン、額の意)、中腹の区画をファス18 Kupp、麓の区画をファス12 Unterstenberg(山の一番下の意)として別々に収穫・醸造している。 丘の標高は約170mで斜度約70%。土壌は粘板岩なのだけれど、山頂から麓にかけての区画によって粘板岩の大きさが全然違う。山頂部ではごろごろとした礫なのだが、中腹ではやや小粒に粉砕されて、麓では細粒になって粘板岩には見えない。ワインの味も明確に違っていて、Stirnが繊細で透き通るような軽さ、Kernがストレートで緻密、Unterstenbergが緊張感に満ちつつ内側からにじみ出してくるような複雑な味わい。区画による個性を精緻に表現している。 雨がちで暖かく、収穫の急がれた2014年産は30人体制で臨み、一つの区画を3~4回選りすぐりながら収穫した上に、圧搾は房の状態に応じて全房か破砕かを使い分け、プレスもフリーランジュースと中間と終わり頃を分けて醸造したという。「そうしなければならない必要があったからやったので、やらないですめば、それに越したことはないよ」と笑っていた。 フロリアンはモンペリエで栽培醸造を学んだだけあって、フランス語も堪能だった。学位論文は確か、熟成したザール産リースリングに表現される葡萄畑の個性について、だったと思う。醸造所の所有する葡萄畑が良いこともあって、フロリアンが2005年に醸造に携わる以前から魅力的なワインを造る醸造所だったけれど、彼の代になってから年を追うごとに迫力を増している気がする。今後も注目したい。 (つづく)
2021/01/31
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備忘録その17. Saar Riesling Sommer その週末はザールのワイン祭りだった。ザール地区はエリアとしては比較的こぢんまりとしており、川沿いにまっすぐ走れば多分20分かそこらで通り抜けてしまう。そこに点在する10の醸造所が門戸を開放し、あちこちハシゴして試飲出来るイヴェントだ。 最初にファン・フォルクセン醸造所から車で5分ほどの、オックフェン村のDr.フィッシャー醸造所に向かった。ひとしきり村の中で迷ったあげく、ようやくDr. フィッシャー醸造所にたどり着いたが人の気配がない。裏庭はそのままボックシュタインの葡萄畑につながっていて、真っ青に晴れ上がった空をパラグライダーがゆっくりと旋回していた。しばらく眺めていると中から人が出てきた。フィッシャー家の跡取り兄弟の一人だという男によれば、会場は村の公民館に変更されたのだという。村長の鶴の一声で決まったとかで、あんな狭いところでやるより、ここでやった方がずっと気分が良いのに。暑ければ天幕を張ってさ、去年みたいに。と、少し残念そうに言った。 村の入り口付近で公民館を見つけ、35Euro支払って腕輪をつけてもらう。これがあれば祭りの会期中、参加醸造所を好きなだけまわることができる。幼稚園のような公民館は確かに狭く、天井もやや低く、村人が集会を開くには十分な広さかもしれないが、Dr.フィッシャーの他にも著名醸造所が3軒出展していることもあって大勢の人がいて、しかも空調は無く、全開にした窓から吹き抜ける乾いた風が救いだった。 個人的に注目していたDr. フィッシャーは、2013年産からモーゼルのザンクト・ウルバンスホーフと南ティロルのJ. ホーフシュテッター醸造所のオーナー達が資本参加して、共同経営という形で新たなスタートを切っている。色々と設備投資を行ったそうで、春にマインツで開催されたVDPの新酒試飲会では好印象を受けたのだが、今回はそれを裏付けるまでには至らなかった。Dr.フィッシャーだけでなく、その会場にあった他のワインも心を浮き立たせるまでに至らなかったのは、会場が暑すぎたのか、ワインが暑さにさらされてから急冷されたせいなのか、あるいは朝からずっと試飲を続けて、感覚が鈍っていたからなのかもしれなかった。 オックフェン村の公民館の次は、シャルツホーフベルクのビショフリッヒェ・ヴァインギューターに移動した。ここはエゴン・ミュラーの館の裏手にある醸造施設で、もともと修道院だった地所が、ナポレオンによる教会財産の世俗化政策で競売にかけられ、それを落札したのがエゴン・ミュラーの祖先だった。その後、競売は無効とする訴えを大司教側が起こした結果、館の前半分はミュラー家に、後ろ半分は大司教の所有となったと聞いている。 照りつける午後の日差しを逃れ、タイル張りの建物の中に入るとやはり涼しかった。そこにゲストとして出展していた3醸造所の一つがヴァインホーフ・ヘレンベルクで、ご主人のマンフレッド・ロッホ氏と会うことが、今回の旅の一つの目的でもあった。 1992年に副業として醸造所を設立したマンフレッドのワインに出会ったのは、トリーアの、今はもうないワインバーだった。凝縮した果実味と明瞭なオレンジのヒントという記憶からすると、1999年産だったかもしれない。一杯飲んでとてもおいしかったので、醸造所に電話して、訪問していいかどうか聞いた。電話に出たのは奥さんのクラウディアさんで、そうなの、そんなに気に入ったのなら来ても良いわよ、と言ってくれたのを覚えている。 醸造所はショーデン村にある普通の一軒家だった。どこにも醸造所と書いて無くて、周囲にそれらしい建物もなく、Lochという表札があったので呼び鈴を押した。中から出てきたのは快活な、どこかしら喜劇俳優を思わせる-ドイツの子供向け番組で、なんでも自作してしまう眼鏡の叔父さんがいるが、彼に少し似ていた-男で、それがマンフレッドだった。 あの時、我々はごく普通の家の居間で、ワインを飲みながら話をした。ワインバーで飲んだ以外のワインも、それまでに飲んだどんなモーゼルやザールのリースリングよりも濃厚で味わい深く、ミュラー・トゥルガウまでもが信じられないほどパワフルだった。 我々が居間で話している間、隣の部屋では明かりを消してテレビを見ている家族がいた。ロッホ氏の母と男の子達で、番組は"Wetten, das...?"という人気番組だったと思う。普通の家庭に土足で上がり込んでしまったような、申し訳ない気持ちがした。 あの時、薄暗い今でテレビを見ていた男の子が、目の前のマンフレッドの隣にいる青年だと知ったときは驚いた。まさかこれほど立派になっていようとは! 考えてみればあれから10年以上経っている。小学生くらいだった子供も、10年あれば立派な大人になるのだ。醸造所を継ぐつもりで、確か今年からだったか、醸造学校に通うそうだ。なんてこった! 時の経過のなんと早いことか。その間に流れた歳月を思ったとき、なんともいえない感情が胸の底から一気にこみあげてきて、あやうく慟哭しそうになった。昨年4月に3年ぶりにモーゼルを訪れた時、トロッセンの後ろをついてマドンナの畑の小道を上っている時も、声を上げて泣きそうになるのを抑えるのに苦労した。 こういう時、何故泣きたくなるのだろう。長い間会いたかった者に再会したときに味わう感情なのだろうか。切ないような、うれしいような、そして突き上げるような激しい情動で、試飲に訪れた大勢の人々の手前、それをなんとか押さえ込むことに成功してほっとした。そしておもむろに試飲を続け、写真を撮った。彼らに会えてよかった。 (つづく)
2021/01/30
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備忘録その17. Weingut van Volxem ファルケンシュタイナーホーフを後にした我々は、ファン・フォルクセン醸造所に向かった。毎年8月最後の週末に新酒試飲会が開催されており、訪問予約をとろうとしたところ、ちょうどその週末だから時間は決めずに気楽に来てほしい、とのことだった。 試飲会は相変わらず大勢の人であふれていて、その混雑ぶりは全く変わっていない。人混みをぬうようにして挨拶してまわるオーナーのローマン・ニエヴォドニツァンスキー氏や醸造責任者のドミニク・フェルク氏、ゲストで出展しているルクセンブルクのアビ・デュール氏、それに醸造所の従業員達にも何人か見覚えのある人がいて、なつかしかった。 この新酒試飲会には2001年、つまりローマンがゲルノート・コルマン氏と一緒に醸造所を立ち上げた最初のワインの時から来ている。まだ学生だった今の奥さんも会場でローマンに寄り添っていて、あの時は参加者のためにスープを作ったのだけれど、何かの事情で出すのをやめたい、と言っていた気がする。初々しい二人だった。 2004年の新酒試飲会にはフェルク氏が初めてテーブルの後ろに立ってサーブしていて、研修生からフェルク氏がいかに仕事熱心かを聞かされた。試飲会がとても混雑するようになったのはその年あたりだったか。手酌は出来なくなって、グラスに注がれる量も、舌の上で転がすことがかろうじてできるくらいに減った。その翌年くらいからは招待状が必要になり、入手も年を追うごとに難しくなって行ったが、私は毎年どうにかこうにか、潜り込むことに成功していた。 ファン・フォルクセンの2014年産はおおむね申し分ない。ほっそりとしてエレガントで、酸に切れがあってミネラル感に富んでいる。とても上質なザールのリースリングだ。ただ、アルテ・レーベンとシャルツホーフベルガーは若干表情に乏しい気がしたが、おそらく瓶詰めして間もない為だろう。2009リースリング・ゼクト・ブリュットは芳醇で鮮烈。これほどインパクトのあるゼクトは他にない。 この試飲会だけを見れば、醸造所は何も変わっていないように見える。しかし醸造所全体では、醸造施設をザール川の対岸にある丘の上に新築し、オックフェン村のガイスベルク14haをマルクス・モリトールと一緒に開墾している。ガイスベルクは1900年頃に競売会で高値をつけていたグラン・クリュだが、いつしか忘れられ、うちすてられていた幻の銘醸畑だ。その畑の古酒を内輪で集まって試飲して、そのポテンシャルに感動し、50人あまりもいた地権者を一人一人説得して購入したという。2016年春に苗木を植えるそうだから、リリースはまだ先のことだ。早くて2019年だろうか。(2021年1月現在未リリース) ファン・フォルクセンを一通り試飲した後、我々は一度ザールのワイン祭りに参加している他の醸造所を訪れ、その後夕方に再び戻ってきた。人々はあらかた立ち去り、アビ・デュール氏のシャトー・パークを落ち着いて試飲することが出来た。リースリングやピノ・グリ、ミュラー・トゥルガウといったドイツワインでもなじみのある品種を使っているが、スタイル的には明らかにフランス的な趣がある。モーゼル川上流のグレーヴェンマッハー村にあるのだが、職人的な手作り感のあるワインで、濃厚でしっとりとして、複雑で落ち着いている。 すっかり満足して会場を去ろうとしたとき、ちょうど従業員一同で記念撮影をしているところだった。みんなの笑顔がすばらしい。私も一枚撮らせてもらった。出来ることなら、来年もまた訪れたいものだ。 (つづく)
2021/01/30
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備忘録その16. Hofgut Falkenstein トリーアに着いた翌朝は、9時からザールのホーフグート・ファルケンシュタイン醸造所のアポがあった。その日は土曜日で、翌日曜から醸造責任者のヨハネス・ヴェーバーは、ニューヨークにワインのプレゼンテーションに行くのだという。小さな醸造所ながら国際的だ。 醸造所はザール川から離れたトリーア寄りの、コンツァー・テールヒェンのなだらかな斜面に囲まれた谷にある。前日訪れたマーリング・ノヴィアントのように、昔はザール川がこの谷間を流れていたのだろう。ホーフグート・ファルケンシュタインは、葡萄畑の斜面の中腹にぽつんと孤立して建っている1928年に建築された農場で、もともとトリーアにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムがワインを醸造していた。しかし醸造がトリーアに移転してからは、ファルケンシュタイナー・ホーフは長い間使われてこなかったという。 ヨハネスの父エーリッヒが醸造所を購入したのは1985年、まさにあの不凍液混入事件の年だ。ここから車で5分ばかりの、モーゼル川とザール川が合流する町コンツに住んでいたエーリッヒは、農場で働いていた叔母を手伝ううちにワイン造りに魅せられて、ついには醸造家になってしまった。醸造所を引き受けたときの葡萄畑面積は0.3haと猫の額ほど広さだったが、建物も丹念にリストアして、現在はモーゼルの醸造所としては中規模の約8haまで広げている。 リースリング80%、ヴァイスブルグンダーとシュペートブルグンダーをそれぞれ10%ずつ栽培しているが、大部分が樹齢40~50年で、中には60~80年の古木もあり、約40%が自根。栽培はビオではない。除草剤も合成肥料も使わないが、銅を含むボルドー液を嫌ってあえて農薬を一種類だけ、ベト病対策に使っている。 葡萄畑の土壌は灰色と青色スレートに、ザール周辺で時折みられる火山性のディアバスDiavasと呼ばれる緑色がかった石や、赤味を帯びた砂岩も混じっている。畑をほんの10mほど移動すると、土壌の組成がかなり違っていて、それぞれ適した品種を栽培しているそうだ。 セラーは斜面の中腹に堀込まれるように造られており、昔は樽ごとワインを販売して、転がしながら道路脇まで持っていってクレーンで吊して荷馬車の荷台に積んだという、その名残が今も残っていた。何十年も修理しながら使い続けた樽がならぶセラーの上に圧搾所があり、2012年産までは伝統的な垂直式のバスケットプレスで圧搾していたが、2013年産からはスロヴェニア製のガス圧式圧搾機を使っている。セラーに空調はないが、年間気温は一定している。発酵は野生酵母で行い、出来るだけ手をかけずに醸造し、仕上がったワインはアサンブラージュせずに樽ごとに瓶詰めしている。 ここのワインはとてもクリーンで軽く繊細で、酸とミネラルのキレがある。醸造前に1度亜硫酸で樽を消毒し、瓶詰め前にもう一度加える。真っ直ぐで無駄のないピュアな味わいで、畑の個性も良く出ている。冷涼な気候なので果汁のpH値が高く、放っておいても乳酸発酵は起こらないそうだ。 ここのワインはやや甘味が残っていたほうが、酸味とのバランスが生きてくる。2014年産のニーダーメニガー・ヘレンベルクのリースリング・シュペートレーゼ・ファインヘルプには、樽番号2と樽番号3の二種類あって、樽番号3は熟した柑橘が華やかな香味がたっぷり、ゆったりと口中に広がり、樽番号2はしなやかで軽く繊細で、スレートの香りが余韻に残り上品だった。それぞれの個性がはっきり表現されている。シュペートブルグンダーは2013は売り切れで、2014を樽試飲した。赤いベリーに香草の混じる繊細で軽やかな味わいで、いかにもドイツの赤、昔ながらのドイツの赤の良いところ-ピュアでフルーティな味わい-が好ましい。ビュルテンベルクの赤にも少し似ている。 この醸造所のある建物は、実は2014年の12月に火災で深刻な損傷を受けた。中央部分の二階にはトリーア大学で中世史を教えていて退職した教授の図書室があったが、そこから恐らく漏電で出火し、蔵書は灰燼に帰してしまった。それからどうなっていたかずっと気になっていた-フランツ・イルジーグラー教授は中世のワインに関しては第一人者だから-のだが、建物は再建が始まり、教授は時々庭仕事をしているのを見かけると聞いて、少しほっとした。 (つづく)
2021/01/29
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備忘録その15. Weingut A. J. Adam A. J. アダム醸造所はドーロン川のほとりにある。去年の秋に訪れた時は工事中だった、祖父が経営していた醸造所の改装が終わり、試飲室も出来上がっていた。場所は脇道の奥にあって少々わかりにくい。脇道に入るところに醸造所名を記した小さい看板があるので、それを見落とさないようにしたい。 数軒の民家に囲まれた中庭のような場所が駐車場で、醸造所の脇は前夜の雨で増水したドーロン川が滔々と流れていた。川といっても、幅5mほどの小川だ。やがてモーゼルに流れ込むこの川に沿って、ドーロナー・ホーフベルクの葡萄畑が広がっている。 試飲室の内装は大方完成していて、西と北向きの窓から澄んだ光が差し込み、ベージュ色の壁に反射して部屋全体が落ち着いた明るさに満ちていた。ワイン用の冷蔵庫は、後から室内の調度にあわせた板を扉につけるため、フレームが剥き出しになっていた。木目の温かな、大きなテーブルが室内の大半を占め、青い染料で絵付けされた18世紀風のタイルが、落ち着いた雰囲気を醸し出している。 以前ブログ(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/diary/201003030000/)にも書いたが、当主のアンドレアスは2000年にガイゼンハイム大学に通いながら、廃業して20年近く経った祖父の醸造所を再興し、頭角を現してきた。今年36歳になる(2015年)。我々が訪問したとき、丁度子供が生まれそうなので奥さんの病院に付き添っていると、数年前から兄と一緒に醸造所を切り盛りしている、妹さんのバーバラ・アダムさんが言っていた。 ワインは相変わらず見事なものだった。一つ一つの個性が明瞭で味わい深く、絶妙な甘味が、辛口からファインヘルブのリースリングに深みを与えている。3.8haの葡萄畑には耕地整理を免れた樹齢60~80年の古木が多いことも、この醸造所のワインの個性を形作っている。伝統的な棒仕立てで、フーダー樽とステンレスタンクを使い分け、野生酵母で発酵する。 モーゼルの支流ドーロン川沿いの斜面は、奥に行くほどフンスリュックの高原に近づいて気温が下がるため、温暖化の影響で葡萄が熟し易くなった昨今、かつてはデメリットだった冷涼な気候条件がポジティヴな要素になっている。また、土壌も灰色や青色のスレートに鉄分が混じっていたり、結晶片岩Glimmerschieferと呼ばれる、地下深部の高圧で変性した片岩や珪岩が混じっていたりする。葡萄畑のポテンシャルは高い。 ドーロン村の他にピースポート村にも畑を持っており、(2016年までは)ユリアン・ハールトと共同で会社を設立して「アダム&ハールト」の名前でもワインを造っていたが、エティケットの意匠がA. J. アダムと同じなので見分けがつきにくい。しかし醸造はアダムが行い、品質も同レヴェルで葡萄畑の個性の違いも納得出来る。 また、VDPに倣ってグーツヴァイン(エステートワイン)、オルツヴァイン(村名)、ラーゲンヴァイン(畑名)のヒエラルキーを採用している(2020年にVDP加盟)。この醸造所ではラーゲンヴァインはVDP.グローセス・ゲヴェクスと同格の扱いなのだが、VDPのメンバーではないので裏ラベルにどこか遠慮がちに「GG」と記載し、表ラベルの畑名を金文字にしていた。しかし現在これはやめて、ラーゲンヴァインも他と同じ黒い文字にしてしまったので、どれがどのカテゴリーに入るのかとてもわかりにくい。一体、日本で「ドーロナーDhroner」が村名で、「ホーフベルガーHofberger」が畑名だなんてわかる人が、どれだけいるだろうか。 このわかりにくさは、できるだけエティケットの意匠をシンプルに、わかりやすくしようという意図もある。A. J. アダムの表エティケットには醸造所名、生産年と地理的表示の三項目しかなく、とてもシンプルだ。反面、地名を知らなければ品質等級の区別が付けにくい。それでもいい、というのはある意味醸造家の自信の表れかもしれない。「私の顧客はそういうことは承知している」と、トロッケンやハルプトロッケンのエティケット表記を避けて、キャップシールの色で区別させたりしているところは、大抵そう言う。 とはいえ、A. J. アダムのリースリングは素晴らしい。VDPにいつ加盟してもおかしくない。品質的にはザールのペーター・ラウアーといい勝負ではないかと思う。ラウアーの方がやや上手かもしれないが。ピュアで精緻で気品があり、ミネラリティに富んでいる。モーゼルの辛口系リースリングとして申し分ないと思うし、甘口ももちろん見事だが、カビネット、シュペートレーゼではそれほど抜きん出ている訳でもない気がする。ただ、アウスレーゼ以上の貴腐になると、葡萄畑のポテンシャルと丹念な手仕事が俄然ものを言う。昨年秋に試飲したベーレンアウスレーゼの味は未だに記憶に残っている。 帰り際、セラーの一角にしつらえられた棚の上に、小型のおもちゃのような木製のバスケットプレスがあった。バーバラさんによれば、祖父が兄に子供の頃プレゼントしたものだという。どうやらアンドレアスは、小さい頃から祖父に目をかけられていたようだ。そして祖父には、やがて醸造所を継ぐのは孫かもしれないという思いがあったのかもしれない。 5時頃に試飲を終えて、その日はもう予定がなかったのでアダムの葡萄畑に立ち寄ろうということになった。ホーフベルクの畑まではものの3分もかからない。斜面の途中で車を降りて、そこがアダムの所有する区画かどうかは分からなかったが葡萄畑で写真をとっていると、背後から英語で怒鳴り声が聞こえた。「おーい、そこは俺の所有地だ。おまえら人の畑に勝手に入って何やってんだ!」振り向くと、麓の村の一軒家の二階にあるテラスから、2, 3人の男達がこちらを見て、中の一人が叫んでいた。「すいません、写真とってます。いい畑ですね!」と言うと、また同じ事を繰り返した。「勝手に入るな!」と。 ドイツに13年住んで、葡萄畑には何度も入って写真をとっているが、怒られたのはたぶんこれが初めてのことだったので、いささかこたえた。ワインのあるところには寛容と愛がある。そう信じていた私はナイーブだったのかもしれない。少々へこみながら畑を後にして、我々は少しばかり悲しい気持ちでトリーアへと向かった。 (つづく)
2021/01/28
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備忘録その13. Weingut Zur Römerkelter ドクター・ケラーを後にしてベルンカステルの町中に降りると、平日だが観光客で賑わっており、サンドイッチを売る店もすぐ見つかった。今回のドイツ訪問ではすでに2回昼食を食べ損ねていて、3度目の正直とばかりに、その日はホテルの朝食でサンドイッチを作って持参したのだが、そういう時に限って食べ物には事欠かないのだ。畑の説明をするハンス・ディーンハートさん。 ターニッシュ醸造所の次の目的地はマーリング・ノヴィアント村にあるツァ・レーマーケルター醸造所だ。ベルンカステルからリーザーを超えて、川から少し離れた奥まったところにある村だが、36万~8万年前はそこがモーゼル川のほとりだった。長い歳月を経て、川がその流れの位置を変えてきたのだ。太古の川沿いの斜面であるマーリングの葡萄畑は南に向かって開けているゆるやかな弧を描き、ちょうどパラボラアンテナのようなあんばいで太陽に向かっている。土壌は細かな青色スレートに黒っぽい土が多量に混じり、表土は4mの深さまで砂と礫が混じり、地下9m以下は粘板岩の岩盤である。盆地状の地形と相まって、保温性と保水性がよさそうだ。 葡萄畑には様々な野草が生い茂り、あちらこちらに昆虫ホテルが設置されていた。 ツァ・レーマーケルター醸造所を設立したハンス・ディーンハートは69歳。醸造家の家系の9代目だ。ハンスが農薬や化学合成肥料の使用をやめたのは1977年というから、ルドルフ・トロッセンやクレメンス・ブッシュが始めたころと大体一緒だ。当時の若手醸造家たちの環境問題への意識の盛り上がりがうかがえる。ハンス・ディーンハートさん(右)と奥さん。 ハンスはトロッセンやクレメンス達の勉強会には参加せず、ビオワインの生産者団体エコヴィンの認証を受けたのも1995年と比較的時間が経ってからだった。それも今からもう20年も前のことだ。2007年に息子のティモ(34歳)が跡を継いで、エコヴィンの全国組織で広報部長を務めている。 醸造所の名前はハンスがビオロジックに取り組み始めた年に、ノヴィアントの葡萄畑から発掘されたローマ時代の葡萄圧搾施設Römische Kelterにちなんでいる。それは醸造所のそばにはなく、少し離れた場所にあるが、ハンスにはとても印象的な出来事だったのだろう。息子のティモが継いでからは、"Bee"がリースリングのラインナップのモティーフになっている。ベーシックなワインは"Bee-tle"で、テントウ虫がシンボル。ミドルクラスが"Bee"シリーズで、ミツバチ。フラッグシップが"Bumble-bee"で、マルハナバチがシンボルとなっていて、ビオロジックな醸造所であることとともに、製品構成をわかりやすくアピールしている。 ワインはいずれも澄んだ果実味で軽やかで繊細で、とてもクリーンでさっぱりとした印象を受ける。肩に力が入っていない、口当たりの良さが持ち味だ。試飲室のある母屋は伝統的なつくりで、昔ながらの醸造所のアットホームな雰囲気だが、近年裏手に新設された醸造施設では、圧搾所になるホールがイヴェントにも使えるように音響設備が設置され、地下にはステンレスタンクが鈍い光を放って並んでいた。 そこまではまぁ普通の現代的な醸造所だが、一角には容量1000リットルの炻器が二基、容量200リットルのが二基鎮座している。2014年の収穫からこれでリースリングを醸造し始めたのだ。亜硫酸添加版と無添加版があって、前者の2014 Steinzeug Rieslingはすでにリリースされている。熟したベリーやアプリコット、蜂蜜を思わせる甘い香りがする、やや柔らかなボディで、これもやはりクリーンな仕上がりだった。雑味や酸化の気配がほとんどないところは拍子抜けするほどだった。亜硫酸無添加バージョンは12月にリリースが予定されている。 前回、ターニッシュ家でリースリングのオレンジワインを醸造しているのはここだけだと書いたが、実はツァ・レーマーケルターでもやっていた。ただ、前者がバリックで醸造し、後者が炻器という違いはある。ちなみに炻器ではバーデンのエンデレ・モル醸造所と、ヴァッハウのスタガートも醸造していて、彼ら3人のプロジェクトワインだ。 ビオ、ビオディナミは珍しくなくなったが、亜硫酸無添加やオレンジワインの醸造が取り組まれて、ドイツワインの新たな個性が探求されている。さすがにモーゼルではアンフォラ、卵型タンクは聞かないが、そのうち現れるかもしれないし、私が知らないだけかもしれない。 (つづく)
2021/01/27
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備忘録その12. Weingut Wwe. Dr. H. Thanisch - Erben Müller Burggräf トラーベン・トラーバッハ周辺の生産者を訪問した翌日、モーゼル川上流のトリーアに向かいながら3軒の醸造所に立ち寄ることにした。最初はベルンカステルのDr. ターニッシュ・エルベン・ミュラー・ブルクグレーフだ。 Dr. ターニッシュにはエルベン・ターニッシュとエルベン・ミュラー・ブルクグレーフとがある。前者は本家、後者は分家と言われている。19世紀に医者のヒューゴ・ターニッシュが創設し、その未亡人カタリーナが跡を継いでドクトールの畑を取得し、醸造所を繁栄に導いた。しかし1988年に遺産相続で二つの醸造所に分割され、以来近年まで犬猿の仲にあったという。ミュラー・ブルクグレーフを継いだバーバラ・リンドクヴィスト・ミュラーさんのご主人はスウェーデン人で、大手醸造会社ジンマーマンの取締役副社長をしていた。それを揶揄して「分家は、質より量が大事なのよ」と、何年も前に本家のソフィア・ターニッシュ・スピアさんがちょっと皮肉っぽく言っていたのを思い出す。でも、今は仲直りして、2010年には本家・分家・そしてやはり19世紀以来ドクトールの畑を所有するヴェゲラー醸造所と共同で、ドクトールの垂直試飲会を開いたりしている。 メルヘンチックなベルカステルの町を通り抜け、ドクトールの畑の下を通る道を少し歩くと、ドクトールの伝説を浮き彫りにした扉がある。中に入ったことはなかったのだが、予約した時に伝えられた通り奥に向かって声をかけると、中から赤いカーディガンを羽織った年配の女性が現れた。前夜に雨が降って確かに涼しかったが、カーディガンを着るほどではないと外にいる時は思ったが、1時間半ほど中で試飲していると確かに寒かった。年間を通じて8℃らしい。女性は最初、オーナーの通訳だと自己紹介したが、名刺を見るとバーバラさん本人だった。 彼女が醸造所を継いだのは2007年のことだ。先代のオーナーだった叔母が92歳で亡くなり、それまでマーケティング担当だったが醸造所を率いることになった。そして2008年に醸造責任者兼経営マネージャーとして、マキシミリアン・フェルガーを抜擢した。2008年にガイゼンハイムを卒業してからオーストリアのシュロス・ハルプトゥルンで3年間働いていてから現職につき、その年ドイツ農業連盟DLGの若手醸造家コンテストで準優勝している。 ある日、フェルガーはバーバラさんを呼び「試飲してもらいたいワインがある」と言ったそうだ。どんなワインだか知らされずに飲んだのは、ドクトールの収穫を一部使ってバリックで熟成したリースリングのオレンジワインだった。その時彼女がどう思ったかは、録音を聞き直さないとわからないが、「何事も試してみなければわからないわね」と、フェルガーの好奇心を評価したようだ。 その日ドクトールの畑の地下にあるセラーで試飲した2011ホワイト・ターニッシュの印象は、繊細で堅い感じのするボディ、やや酸化気味のベリー系の果実味が軽やかで味わい深く、凝縮感のある余韻にがっしりとしたタンニンが残った実験的なワインだった。バリックの新樽100%で18ヵ月熟成したというが、おそらくマセレーション発酵の期間はそれほど長くない。オレンジワインにしてはやや物足りないほどに澄んでいて軽やかで、そして堅かった。2013年のホワイト・ターニッシュ-一般に、白葡萄を果皮と一緒に発酵して、ノーマルな白ワインよりも濃い色合いになったワインをオレンジワインと称するが、ターニッシュ・ミュラー・ブルググレーフではあえて「ホワイト」と称している-は、2011よりもふくよかでヴォリューム感があり、白い花の香りに山桃のヒントが感じられ、しなやかで澄んでいた。マセレーション発酵の期間を長めにしたのだという。2011年産とはまるで別物だった。ちなみに、モーゼルでオレンジワインを醸造しているのは、私の知る限りではここ一軒だけだが(2015年8月現在)、もしかすると他にもいるかもしれない。 「トラディションとヴィジョンが私の醸造所のモットー」とバーバラさんは言う。伝統的なリースリングは、これまでもあったのと同じ葡萄畑が描かれたお馴染みのデザインで、未来への展望とでも訳すのだろうか、ヴィジョンを意識したワインは、スタイリッシュでシンプルな、文字だけのデザインになっている。伝統的なリースリングはモーゼルらしい、甘味と酸味とエキストラクトが一体となって造り出す上品な果実味で、ドクトールはそのバランスがよく充実感があり、ユッファー・ゾンネンウーアは繊細でほっそりとして愛らしい。一方ヴィジョンのホワイト・ターニッシュと、エステートワインのリースリング・Dr. ターニッシュの、後者はクリーンかつクリスピィで、若者をターゲットにしていることが見て取れる。 バーバラさんが醸造所を継いで、フェルガー氏が醸造責任者になってから、葡萄畑の個性の表現は正確さを増し、実験的な醸造にも取り組むようになったわけだ。新しいモーゼルの風が、この350年余りの伝統を持つ醸造所にも吹いていた。(つづく)
2021/01/26
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備忘録その12. Weingut Weiser-Künstler その日最後の訪問先のヴァイサー・キュンストラー醸造所は、フォレンヴァイダー醸造所とモーゼル川をはさんで対岸にある。車でものの5分ほどで、泊まっていたホテルからもごく近い。前日チェックインした時、エレベーターの中に地元の醸造家団体クリッツ・クライナー・リングのイヴェントのポスターが貼ってあり、そこに写っていたのはヴァイサー・キュンストラー醸造所の二人だった。葡萄畑の休憩所と思しき小屋の前で、ほほえんで立つコンスタンティン・ヴァイサーの頬に、アレクサンドラ・キュンストラーがキスしようとしているようにもみえる、なんともロマンティックな写真だった。 彼らがトラーベン・トラーバッハの町にちかい、エンキルヒャー・エラーグルーブの畑0.8haを借りて二人でワイン造りを始めたのは2005年のことだ。もともとシュヴァーベン地方出身で銀行員になるはずだったコンスタンティンが、モーゼルで醸造家となったのは、先のフォレンヴァイダーと似た状況だ。実際、ヴァイサー・キュンストラーが2007年に廃業した昔の醸造所を購入するまで、フォレンヴァイダー醸造所のセラーを間借りしてワインを造っていた。 トラーベン・トラーバッハには、彼らのように新規に起業した生産者が多い気がする。木製のバスケットプレスを愛用することで知られるマーティン・ミュレンも、1991年に起業している。我々が泊まったホテルを運営しているオラフ・シュナイダーも、2005年に0.2haの葡萄畑を譲り受けてワイン造りを始めたという。彼らはクリッツ・クライナー・リングのメンバーで、9醸造所が加盟している(2015年4月)。うち捨てられた銘醸畑を蘇らせるためのプロジェクトワイン「ベルクレットゥング」を醸造して危機的状況をアピールするとともに、そこから得た資金で葡萄畑を整備することが目的の団体だ。 モーゼルの若手の生産者達のネットワークの一端が、この町に凝縮している。コンスタンティン・ヴァイザーは、現在ゲルノート・コルマンが切り盛りしているイミッヒ・バッテリーベルクの醸造責任者だった。ゲルノートは昔Dr. ローゼンで働いていて、同じ頃にやはりローゼンで働いていたフォレンヴァイダーと知り合ったはずだ。クレメンス・ブッシュも以前はクリッツ・クライナー・リングのメンバーだったが、VDPに加盟したことで脱退を余儀なくされた。他に日本に入っているメルスハイマーもメンバーだ。 ちなみに、モーゼルにはリングと名が付く醸造所団体が三つある。一つはVDPで、グローサー・リング(大同盟)と呼ばれる。二つ目はベルンカステラー・リングで、別名クライナー・リング(小同盟)。そして三つ目がこのクリッツ・クライナー・リングであり、意味は「極小同盟」。VDPを揶揄してつけたのではないかとも言われている。ヴァイサー・キュンストラーでは今回、彼らが最初にワイン造りをはじめたエンキルヒャー・エラーグルーブの畑を見に行った。耕地整理されていない急斜面なので、トラクターも入ることは出来ず、小さな階段を昇って上までいくか、小型のモノレールで移動する。棒仕立ての葡萄樹は手作業で彼ら二人が世話している。畑は全部で3.3haで、うちエラーグルーブが1.5ha。もしもこれをビオで栽培するとしたら、夏場は毎週30kgある噴霧器を背負ってくまなく散布して歩かなければならないのだから、ビオに転換するのを躊躇するのもよくわかる(2020年には有機認証済)。除草剤と化学合成肥料は使っていない。 エラーグルーブの土壌は、青色粘板岩に珪岩が混じっている。露出している断層にも、ごつい珪岩が混じっていて、ラインガウの下流のロルヒのあたりでも、似たような地層があったのを思い出す。そしてここに育つ葡萄樹のほとんどが自根で、樹齢100年くらいという古木もある。 急な斜面を登り切った先には、ポスターにあった小屋が建っていた。簡素な、今にも崩れそうな小屋だが景色は素晴らしい。しかし灯りがないから、バーベキューをするとしたら昼間だろう。暗闇で足を踏み外したらただじゃすまない。 手作業の収穫を野生酵母で発酵する彼らのワインは、上質なグーズベリーとリンゴの果実味でほっそりとして、ミネラル感と酸がピュアな印象を残す。特徴の一つが、残糖分が分析値よりも少なく感じることで、ハルプトロッケンでも辛口にしか思えない。甘口のカビネットでようやくハルプトロッケンあたりの感じだ。それだけ酸味とエキストラクトが充実している。辛口では酸味がしっかりと感じられるが、熟した酸味なので飲み慣れると次第に心地よくなってくる。何より軽やかで上品だ。2013年産の平均収穫量は35hℓ/ha。 ヴァイサー・キュンストラーはこの10年を地道に、一歩一歩、丁寧に歩んでいる。2007年に訪れた時から醸造所の様子はあまりかわっておらず、質素で、収入のほとんどを葡萄畑とセラーにつぎ込んできたという。収入といっても、3.3ヘクタールと小規模な葡萄畑で、ワインの値段も、フラッグシップに30ユーロ前後をつける生産者が増えている中では手頃感がある。あのエラーグルーブの急斜面を体験した後では、ことさらそう感じる。 (つづく)
2021/01/21
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備忘録その11. Weingut Vollenweider その日はトラーベン・トラーバッハ周辺の醸造所をまわることにしていた。昨年4月に来た時もそうしたが、移動距離はなるべく短いに越したことはない。クレメンス・ブッシュの次はトラーベン・トラーバッハのフォレンヴァイダー醸造所だった。町外れの小道にある、意外と大きな3階建ての、築100年前後と思しき古びた建物で、外壁に昔の醸造所名がうっすらと読み取れた。門の入り口の上にはゴー・ミヨのワインガイドの醸造所の紹介にいつも出ている、葡萄をかかえたバッカスの像があった。オーナー醸造家のダニエル・フォレンヴァイダーがあそこに登ってポーズをとるのは、ちょっとアクロバティックだったことだろう。フォレンヴァイダー氏はスイス人である。もともと電気設備関係の技師の資格をとるべく勉強していたのだが、エゴン・ミュラーのシャルツホーフベルクに感動して醸造家を目指し、スイスの醸造学校を卒業した。モーゼルのDr. ローゼン醸造所で働いていた1999年に、1haのヴォルファー・ゴルトグルーベを賃貸して、友人の醸造施設を借りて2000年産を醸造、約3500本をリリース。最初は故郷スイスをはじめとする国外のワインショップが主な顧客だったこともあり、甘口が生産の約9割を占めていたのだが、2007年からは辛口の比率が増えて辛口・中辛口が約6割甘口4割と、辛口の比率を増やしている。2014年産はほっそりとして、酸とミネラルがストイックな印象で、まだ閉じているのか、ややそっけなかった。2005年に現在の醸造所の建物を購入したときに付属していた単一畑シンボックの、2012年産の辛口は、酸がゆったりとしてタンニンの存在感があり、ブルゴーニュの白を思わせる上品さと力強さがあり面白かった。昔のバスケットプレスを使い、500~1000ℓの木樽の古樽で1年間熟成したというから、ちょっとゲルノート・コルマンのやり方に似ているかもしれない。醸造所から葡萄畑までは車で5分ほど。ヴォルフ村のゴルドグルーベは耕地整理されていないので、自根の古木が多数残る貴重な畑。フォレンヴァイダーが購入した当時は無名だったこともあり、荒れ果てていたという。粘板岩土壌は、フィロキセラにとって住みにくい環境だそうだ。青色粘板岩に赤色粘板岩が混じる。ゆるやかにカーブするモーゼルが遠くまでみわたせて、心和む景色だった。 一方、車で2, 3分ほど下流にあるシンボックの畑は壮絶な畑だった。アーチ型に組み上がった擁壁でテラスをつくり、その上にゴツゴツとして大柄な青色粘板岩と珪岩が、厚く堆積している。こんな粘板岩は、ヴェーレナー・ゾンネンウーアのほかでは見たことがない。急斜面に続く岩壁からは、時々岩石がおちてくることがあるそうで、川縁の車道のガードレールにはその時ぶつかって出来たというへこみが何カ所かあり、危ないことこの上ない。一部の葡萄畑は、岩石を止める鋼鉄のフェンスで道路から遮られていて、車は守られているが、葡萄畑で働いている時に落石があったらひとたまりもないだろう。 個人的には、フォレンヴァイダーはやはり甘口が良いと思う。辛口はミネラル感に富んでほっそりとして繊細で、90年代の辛口リースリングみたいな感じがする。でも熟成すると見事に化けるのかもしれない。 (つづく)
2021/01/21
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備忘録10. Weingut Clemens Busch トロッセンの次はクレメンス・ブッシュに向かった。キンハイムからユルツィヒを抜けてピュンダリッヒに入る。村の小道は入り組んでいて、どこから川沿いにある醸造所にたどり着けるのかわかりにくい。アポの時間が迫っているのに、そういう時に限って、ただでさえ狭い道路を、ビールの配送車が塞いでいたりする。 醸造所に到着すると、前で奥さんのリタ・ブッシュさんが待っていた。クレメンス・ブッシュもまたモーゼルを代表するビオの生産者で、1970年代に有機栽培をはじめた草分け的存在だ。トロッセンとは80年代はじめから一緒にビオ農法の勉強会をやっていて、その他の仲間とあわせて8人で「オイノス」という、ローカルなビオ団体を結成していた。 ブッシュが有機農法を始めたのは1975年。父のもとで修行していた74年に、その父が病気になり、2haの畑の世話を任されたのがきっかけで農薬の使用を止めた。当時17歳だった。そういえば、数日前に訪れた南ファルツのスヴェン・ライナーも、父が病気で倒れたのがきっかけで、ビオに転換したのと同じだ。 ドイツではこういうパターンが多いらしい。1950年代から有機栽培をはじめたラインヘッセンのザンダー醸造所も、当時のオーナーの祖母が体調を崩す原因が、どうやら農薬を使った牧草を食べた牛の牛乳にあることを突き止め、農薬や化学合成肥料から脱却することにしたという。近所にたまたまビオディナミに取り組む農場があって、その指導を受けながら導入したそうだ。 ブッシュでは、ビオ導入の契機は父の病気だったが、その背景には1968年の学生運動がある。高度経済成長と工業化の反動から「自然に還れ」という主張が高まり、原発や公害、酸性雨などが政治問題となり、緑の党の結成につながっていくが、ドイツのビオの初期の生産者達は多かれ少なかれ、この政治的な動きに共感している。健康被害から芽生えた問題意識が、やがて環境保護運動へと育ち、葡萄畑の生態系のシステムの再生が目標となる。ただ気を付けたいのは、ドイツでは、健康にいいからビオ、というのとはちょっと違っていて、食べて安心で高品質なのがビオである。ワインの場合、Bekömmlichkeitという訳しにくい言葉があって、飲み心地が良いとか、体にかかる負担が軽いとかいった意味だが、それがビオワインには使われることがある。 さて、初期の当時のラディカルさを今も感じさせるのがトロッセンだとすると、ブッシュはオーセンティックな生産者に、ある意味で成長したと思う。どちらもビオディナミだが、ブッシュは亜硫酸無添加には慎重で、ロー・サルファーという減亜硫酸キュベをつくっていて、総亜硫酸量は45mg/ℓ前後。ノーマルなキュベだと総亜硫酸量約100mg/ℓで、「必要最低限」使っているという生産者の辛口の使用量におおむね近い。減亜硫酸キュベの亜硫酸使用量は確かに少ない。が、トロッセンのプールスよりは、良い意味で普通のリースリングで、他のキュベに比べるといくぶん肩の力が抜けている感じがするが、ノーマルと一緒に試飲しても違和感はない。 ドイツ人の場合、品質保証に重きを置くので、とにかく必要十分な(必要最低限ともいう)量の亜硫酸を添加することが多い。輸送中の環境変化や、ショップの状態に幅があっても、醸造所で生産者が責任を持って醸造したクオリティを、消費者に届くまで維持するのに必要な、品質に責任を持てる状態でリリースするべきだと考えている。それと同時に、添加しすぎはよくないと考えているので、大抵の生産者は遊離亜硫酸量30mg/ℓをちょっと超えるあたりを目安にしているようだ。 ブッシュはドイツ的な良心を備えた生産者だ。ワインの完成度は非常に高く、モーゼルの辛口リースリングのお手本のような、土壌の個性を上品に反映したワインをつくっている。畑には青、灰色、赤の三種類のスレートの区画があって、精妙で奥行きのある青、構成のしっかりした灰色、華やかさと親しみ易さの赤というふうに、スレートの個性を知るにはとても良い教材だ。複雑で、調和がとれて、落ち着いている。 選果を手作業で厳密に行い、2014年は80%を使えないとして捨てたという。確か10月の3週目まで待っていたと記憶している。その週は気温が上がって雨が断続的に降っていたので、傷みによる損害が大きかったのだろう。醸造は野生酵母で、伝統的な木樽で必要なだけ時間をかけて発酵し、時にそれは2年近くに及ぶ。古木も多い。 日本ではいまひとつ受け入れられていないようなのは残念だが、ある意味、世界のどこのワインとも似ていない、独自の世界を持つドイツのリースリングを体現したようなところがあって、それも無理はないかとも思う。生真面目な感じがするからかもしれない。 (つづく)
2021/01/19
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備忘録その9. Weingut Rita & Ludolf Trossen モーゼルはキンハイム村のリタ&ルドルフ・トロッセン。1978年からビオディナミ、徹頭徹尾自然なワイン造りにこだわる生産者。世界はどうあるべきか、理想に近づくには自分はどうしたら良いのかを考えた結果が、ビオだったという。父の死で醸造所を継ぐことになったので、「ビオなんて出来る訳がない」と反対されることもなく、また、社交的な、人当たりのよい性格で村人との折衝もうまく話をつけて、ビオを続けてきた。 近年は亜硫酸無添加のリースリング、プールス・シリーズに力を入れている。亜硫酸無添加ということは、ワインが何も保護されていないセンシティヴな状態なので、セラーにある時から常にタンクを満たすなど、丁寧に丹念に醸造しなければならない。醸造所の規模2haという小ささが、様々な区画からの亜硫酸無添加のリースリングを可能している。 亜硫酸無添加だから体に良い、とか、頭痛がしない、ということを目指しているのでは全くない。ワイン本来の姿を求めて、あるいはリースリングの可能性を追求した結果、それを好む顧客が現れ-例えばコペンハーゲンのレストラン「ノーマ」など-、ドイツでもヴァン・ナチュールに力を入れるショップが出て来て、需要が増している。今回も昨年訪れたときよりアイテムが増えていた。オイレ、シーファーシュテルン、ピラミデ、マドンナ、シーファーゴルト。ノーマルなリースリングとは構造が違っても、畑ごとに違う個性が出ている。 個人的な印象では、2014は2013よりピュアでエレガントで、2013では筋肉質でエネルギッシュだったピラミデが、ずいぶんとしなやかで味わい深く、逆に繊細でほっそりと感じたシーファーシュテルンが、その名の通り口中で光芒を放つようなエネルギー感をそなえていた。マドンナは厚みと重み、なめらかなテクスチャー、完熟した柑橘類と干したアプリコットのヒントで充実。プールス・シリーズを試飲した後では、ノーマル版だという、やはり2014のマドンナのシュペートレーゼ・ファインヘルブを飲むとほっとするが、どこか物足りなさを感じてしまう。が、愛すべきモーゼルらいしリースリングだ。 プールス・シリーズは、これまで瓶内二次発酵しているシャンパーニュのように王冠で栓がされているが、アメリカの顧客がなんとコルクで栓をしたものを求めているという。亜硫酸無添加だけに瓶内再発酵や酸化のリスクが非常に高いのだが、それでもいい、と言っているらしい。トロッセン氏も前向きだ。我々が訪れる数日前にも、モーゼルの生産者達が集まって、スクリューキャップとコルクで栓をした同じワインを寝かせたものを比較試飲したが、その際の結果は一目瞭然で議論の余地がなかった、という。もちろん、コルクの方が断然よかったそうである。そんな訳で、リスクはあってもとりあえず試してみるそうだ。 試飲後葡萄畑へ行く。粒が小さく、ばらけている房が多く、生産量は控えめになりそう。マドンナの区画の裏手に1haあまりの急斜面の畑があり、今年から持ち主が世話をやめてしまったそうだ。誰か引き受けてくれる人を探しているのだが、まだみつかっていない。ブドウ畑の世話は、週末に都会から来るだけでは、到底やっていけるものではない、とトロッセン氏は言う。しかもキンハイムのほとんど無名の畑だけに、誰もやりたがらない。有名な畑なら、後継者はすぐに見つかっただろう。 (つづく)
2021/01/18
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備忘録その8.Weingut Immich Batterieberg マインツでラインヘッセンワインの試飲を午後3時に終えた後、町中で軽く昼食をとってからモーゼルに移動し、イミッヒ・バッテリーベルク醸造所を訪れた。もともと予定にはなかったのだが、醸造責任者のゲルノート・コルマンが、たぶん私がフェイスブックにアップした写真に気づいたのだろう。モーゼルに来るなら立ち寄らないか、と親切にメッセージをくれた。醸造所に着いたのは夜7時すぎだったが、まだ空は明るかった。 無精髭を伸ばした彼は、週末に醸造所で開催される新酒試飲会の準備で大忙しそうだった。そこにはアルト・アディジェからエリザベッタ・フォラドリ、キャンティからイスティネ、ラインヘッセンからグンダーロッホ醸造所がゲスト参加するという。さらにスチュアート・ピゴットによる新刊の朗読、バッハのゴールドベルク変奏曲のピアノ演奏会、そしてドイツポップのライヴと盛りだくさんの二日間だそうだ。昨年4月に訪れた時に試飲した2013年産に比べると、今回の2014年産は一層クリアで繊細になっていた。2013では飲み下した時に若干喉にひっかかるものがあったが、2014の余韻ではそういうことはなかった。すっきりとして、ほっそりとして、アルコール濃度も9.8%からと控えめで、多くは完全発酵した辛口で(樹齢100年以上というツェップヴィンゲルトは残糖12g/ℓで発酵が止まってしまった)、シトラスやリンゴ、グースベリー系の上品な果実味が心地よい。ヘクタールあたりの収穫量は20hℓと言っていた。使い古したバリック樽で、野生酵母で発酵するので、軽くても深みと落ち着きがある。こういうワインなら毎日でも飲みたいと、1年と4ヵ月ぶりにモーゼルに戻ってしみじみと思った。 その翌日の夜、ゲルノートが勧めてくれたレストランで彼とばったり合い、同じテーブルを囲んだ。一人ではなく、新酒試飲会に出展するキャンティの女性醸造家とイタリア人ソムリエ、ゲルノートの友人で、フランケンでワインを作り始めた会社員とゲルノートの彼女、それにスペインからバッテリーベルクに研修に来ている女性醸造家の卵と、15年前にスイスから来てモーゼルでワインを作り始めたダニエル・フォレンヴァイダーといった面子だった。 テーブルを移るとき、昔トリーア大学で日本語の非常勤講師をしていた時お世話になった学部事務室のゲルゲンさんが、同僚と食事をしていて、思いがけない再会にお互い驚いた。彼女はその昔、学生有志で葡萄畑の世話をする同好会を立ち上げて、州営醸造所の葡萄畑の一角を借り、年に数回、30人あまりの参加者達で一緒に葡萄農家の気分を味わったものである。相変わらずお元気そうでよかった。 (つづく)
2021/01/18
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備忘録その7. ラインヘッセンの格付け ファルツの醸造所を訪問した翌日は、マインツでラインヘッセンのグラン・クリュ試飲会だった。VDPではグラン・クリュのことをグローセ・ラーゲGroße Lage、そこからの辛口をグローセス・ゲヴェクスGroßes Gewächsと称するが、ラインヘッセンではVDP以外の醸造所有志が、VDPのガイドラインに沿って醸造したグラン・クリュの辛口をラーゲンヴァインLagenweinと称している。ただ、ラーゲンヴァインはあくまでも個々の醸造所の自主的な取り組みで、特に審査などはしていない。VDPの場合はグローセ・ラーゲの認定は各生産地域のVDPが行うが、それ以外の醸造所は醸造所の自己判断に任されている。つまり、その醸造所がグラン・クリュにふさわしいと思えば、その畑がグラン・クリュになってしまうという、けっこうユルい基準なのだ。いかに品種をリースリングとシュペートブルグンダーに限定して、VDPのグローセ・ラーゲの基準、つまりヘクタールあたりの収穫量を50hl/ha以下に絞り込んで、手作業で収穫を行い、伝統的な製法で醸造(これ自体曖昧な規定なのだが)したとしても、その品質を客観的に保証するものがないのが現状だ。 というわけで、その日のライン川沿いの選帝侯の館のホールの試飲会に参加した40の醸造所のうち15がVDP加盟醸造所で、彼らのグローセ・ラーゲは畑と生産年の個性を明瞭に反映したものが多く、官能審査を経ているだけのことはあった。一方でその他の生産者のワインにはばらつきがあり、ヴェクスラーWechsler、シェッツェルSchätzel、サンダーSander、クネーヴィッツKnewitz、ドライスィヒアッカーDreissigackerはVDPと十分互角に渡り合っていると感じたが、それ以外は(40醸造所のうち3軒は時間切れで試飲出来なかった)やや物足りないと感じることが多かった。2014は確かに夏場に雨が多く収穫期に気温が上がった難しい生産年だった。それにもかかわらず説得力のあるワインを出してきたところと、それが出来なかったところとあって、そのあたりに実力というか、気持ちの差というか、葡萄畑、あるいは栽培の違いが出ているような気がした。ラインヘッセンではこの他にオルツヴァインという村名ワインの規格があって、これもVDPの規格に倣っている。この試飲会は毎年4月下旬にあるのだけれど、こちらの方がラーゲンヴァインよりも楽しいのはなぜだろう。以前、VDPラインヘッセン代表のフィリップ・ヴィットマンは、ラインヘッセンでは他の産地よりもオルツヴァインの基準を高く設定して力を入れている、と言っていた。実際オルツヴァインは楽しめる。ラーゲンヴァインよりも安定していて、ラインヘッセンという産地のポテンシャルを感じることが出来る。 単一畑の方が必ずしも優れているとは限らず、複数の畑をブレンドした方が欠点を補ってよいワインが出来ることがある、と田中克幸氏がセミナーで指摘して、なるほど、と思ったことがある。ラインヘッセンにはそれがよくあてはまるのかもしれない。(つづく)
2021/01/14
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備忘録その5. Weingut Jürgen Leinerその日最後の訪問先は南ファルツのユルゲン・ライナーだった。なだらかな丘陵地帯が箱庭の様に広がり、低くなだらかな丘に葡萄畑が広がり、丘と丘の間を流れる川が、風の通り道となって昼夜の気温差をつくり、葡萄栽培に適した環境を作り出しているという。 醸造所のあるイルベスハイムは美しくこぢんまりとした村で、伝統的なハーフティンバーの建物が建ち並び、通りの上にメルヒェンに出て来そうな看板が突きだしている様子はアルザスのワイン村を彷彿とさせた。オーナー醸造家のスヴェン・ライナーとは、つい2ヵ月くらい前に東京で会ったばかりだった。その時彼は新しい剪定手法を試していると言っていた。葡萄樹本来の姿はどうあるべきかを考えて行う、とても高度な理解と技術を要する剪定方法だと言った。中世に剪定は熟練したマイスターの仕事だった。今では季節労働者が収穫後の空き時間を利用してやってしまうが、本来はそんなものじゃない、と。 そのやり方を実際の葡萄樹を前に説明してもらったが、素人の私にはやっぱり難しい。葡萄樹の樹液の自然な流れを考慮して、母枝に一定間隔でならぶ新枝から1本か2本の梢を伸ばす。枝を前の年と同じ位置まで単純に切り戻すのではなく、成長した将来の形を考えつつ剪定するのだそうだ。あとで録音を聞き直せばもうすこしわかるだろう。 以前Nさんが感動したというコンポストの山も見せてもらった。近郊の牛や馬を飼っている畜産農家から譲り受けた糞、敷き藁、木くず、葡萄の絞りかすを交互に積み重ね、内蔵のようにうねるような形にしている。ただ、今年は乾燥と暑さが厳しかったせいかコンポストも乾き気味で、虫たちも山の中の方に隠れているようだった。コンポストの堆積所はここだけではなく、三ヶ所にあるという。 2000年に父の病気で20歳で醸造所を任されたスヴェンが、まず始めたのが化学合成肥料から有機肥料への転換だった。2003年に病の癒えた父が戻ってきた時にはビオに転換し終わっていて、2005年にビオディナミに基づく堆肥の熟成を始めた。同年EUのビオ認証を取得して、2011年にデメターの認証を取得。そして今も取り組んでいるのが、上述の剪定方法である。南ティロルのアロワス・ラゲダーを始め、いくつかのビオディナミの生産者も取り組んでいる「やさしい剪定Der sanfte Schnitt」と言われるものだ。代表的生産者にマーティン・ゴーヤーMartin Gojerがいて、スヴェンの他にオーディンスタールのアンドレアスとも親しいそうだ。気のせいか、南ティロルとドイツの生産者のコンタクトが近年目立つ。 醸造所の建物は近年改築したばかりで真新しい。モダンでシックで、大抵の醸造家がうらやましがりそうだ。清潔なコンクリート打ちっ放しの空間にバリックとシュトゥック樽が並び、隣接する昔からある醸造設備にはタイル張りのコンクリートタンクがあり、整備して今も使っている。そういえば、バーデンのクルンプの醸造所も最近非常にモダンになってリニューアルオープンした。ドイツワインの勢いを感じる。 スヴェンのリースリングは畑によって明確に味が異なり、冷涼な畑は直線的なボディにシトラスの酸味、暖かい畑はたっぷりとして滑らかでエキゾチッックな果実が香る。その日飲んだシュペートブルグンダーはしかし、どうも大人しくて、日本で飲んだ時の繊細で女性的な魅力は出てこない。今にして思えば気温がすこし暖かすぎたのか。それとも直前に訪れたフランク・ヨーンのインパクトが強かったのか。多分、もう一度飲むとまた印象が変わるだろう。(つづく)
2021/01/11
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備忘録その3. Weingut Odinstal オーディンスタール醸造所、ファルツ。 ヴィースバーデンから車で1時間半ほど。遠くから山の上にぽつんとある醸造所が見えるが、そこまで辿り着く道は少々わかりにくい。Googleマップもお手上げ。目的地です、と言われてもそこには何も無く、彼方に見えた醸造所の方向へ山道をひたすら登る。すると、突然視界がひらけて葡萄畑と館が見える。 2004年に新卒で醸造主任に抜擢されたアンドレアス・シューマンは、2006年からビオディナミを初めて2013年に認証され、2008年から無剪定栽培に一部の区画で取り組んでいる。最初はリースリング、次はジルヴァーナーと増やし、2013年からはアンフォラ醸造も。それ以外に亜硫酸無添加も試している。あと、醸造所全体の葡萄畑でも葡萄の樹に負担の少ない剪定手法に取り組んでいるそうだ。 何はともあれ無剪定栽培の畑を再び――去年一度訪れている――見に行った。足の裏の怪我が痛くてまともに歩けるか不安だったのだが、畑やハーブ園を歩き回っているうちになぜか普通に歩けるようになった。ビオディナミの土のおかげか?奇跡だ。標高350mにある冷涼な気候に育つ葡萄による、繊細で精妙なワイン。ひそやかに囁くような澄んだ果実味が口の中で素直に広がる。数値ではなくフィーリング、腹で感じることを実行してワインを造るという。全房圧搾の割合、マセレーションの長さ、果汁に混ぜる果粒の割合、発酵容器の使い分けなどだが、樽・タンク・アンフォラに入れたらあとは野生酵母に任せて見守る。5haの畑でリースリング、ジルヴァーナー、オクセロワ、ゲヴュルツトラミーナー、ヴァイスブルグンダーを栽培している。 その日の朝、我々が来るまでオクセロワの畑に鳥除けの網を張っていたそうだ。森に囲まれていて、森の近くはとくに食害がひどいという。また所々に鷹だったか鳶だったか、猛禽類の止まり木が立ててあり、葡萄を食い荒らすねずみを見付けやすいようにしてあった。 今年の猛暑の被害はほとんどない。ギリギリもった。ただ、エスカなど病気にやられている樹はもたなかった。カビの繁殖と満月、その対策などのことも話したが、詳細は録音を聞き直さなければならない。 (つづく)
2021/01/11
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コロナで海外に行けなくなり、昨年は結局一度もパスポートを使わなかった。新しく書くこともなく、昔ここに書いた記録を整理しているうちに、フェイスブックに書いたからいいや、と放置している旅行記がいくつかあることを思い出した。ところが、読み返そうにも、書き込みがなかなか見つからない。検索をかけても見当たらず、何千万人、もしかすると数億人の書き込みが毎日あるのだから、どこかに埋もれて消えてしまっても仕方ないのかもしれないが、少なくとも自分にとっては、備忘録として書いた意味がないじゃないか、と憤りながら何度も探し回っていたら、なんとか見つかったので、ここにアップしておくことにした。ここなら、あとから見つけやすい。以下は、2015年8月下旬の記録である。 ドイツ行きの備忘録 その1。初日、出発の朝。日曜早朝で駅までのバスが出ていなかったし、足の裏の怪我を悪化させたくなかったのでタクシーを予約し、朝5時に駅に向かう。一番安い京成スカイアクセス線経由で成田空港第一ターミナルには8時前に到着。搭乗予定は9時55分発のルフトハンザFH711便だった。チェックインカウンターは既に長蛇の列だったが、何かおかしい。やがてその日には飛ばず、翌朝の8時40分に変更になったと知る。使用予定の機材がフランクフルトから飛んでこなかったそうだ。フランクフルト空港であった事故に巻き込まれたという説明だったが、後から調べてもそれらしい情報はみつからなかったので、真偽の程は定かではない。FH711の乗客は全て振り替えか一日遅れで出発することになり、代替チケットの手配をカウンターでやっていたので行列は遅々として進まない。一日遅れを受け入れた人にはミールクーポンと宿泊チケットは出ていたようだが、私はその日着の便か、翌日早朝着の便でなければ、元々ドイツ行きを決めた理由であるVDPドイツ高品質ワイン醸造所連盟のグローセス・ゲヴェクス試飲会に間に合わない。これは招待制の着席形式の試飲会で、VDPによればとても長いウェイティングリストがあるそうだ。そこに2日間の会期のうち、1日だけなら参加出来ると連絡があったのが約3週間前だった。もっと早ければ9万円台から航空券があったのだが、その時点で直行便の往復航空券は最低13万円以上。ちなみに、中東系の航空会社を利用しても11万円以上だったし、一日早い便はさらに高価なチケットしかなかった。いわば、最後の一枚、ラストチャンスと思って買った航空券だったのだが、それで私にとっては未だかつて無い、不測の事態に遭遇した訳である。不測の事態といえば、昨年一度ルフトハンザのチェックインカウンターで「予約がありません」と言われたことがある。この時はDWIドイツワイン基金のプレスツアーで、先方が手配していてEチケットもあったのでそんな筈はない、と主張。結局共同運航便の全日空のカウンターでチェックイン出来たので、事なきを得た。さて、FH711に話を戻すと、御用聞きのように回ってきた係員によれば、その日の便はもう既に満席だという。それはそうだろう。チケットを購入した点から予想出来た。数時間の遅れなら、到着日の夜に予定されていたVDPナーエのウェルカムイヴェントを諦めるだけですむかもしれないが、翌日発となると話は違う。午前10時にはヴィースバーデンで予定があるので、なんとかそれに間に合わせたい、と伝えると、空席はないと思いますが一応探してみますのでそのままお待ち下さい、と言う。もちろん、私の前には既に少なく見積もって100人-ジャンボジェットの乗客だ-が既にカウンターで交渉しており、彼らは皆、本当は予定通りドイツへ行き、なるべく早く目的地に着きたいと願っているのだ。約3時間以上遅々として進まない行列の中で待ち続け、ようやく私の順番が回ってきた。先程と同じことを繰り返すと、「探してみますのでお待ち下さい」と係員の女性は言った。これがドイツなら恐らく「申し訳ありませんEs tut mir Leid」の一言でとりつく島も無かっただろうと思う。やがて彼女は戻ってくると、日曜日なので中東系の便も全部埋まっている、と申し訳なさそうに言う。いよいよだめかと諦めかけた時「香港経由の全日空深夜便で、現地早朝5時台着ならとれるかもしれません」という。一縷の望み、希望の光が差してきた。深夜便なら前回ドイツに行った時も使った。「そ、それでお願いします!」とすがりつくように頼むと、わかりました、とうなづき、10人近い同僚達が端末を叩いているカウンターの一画に向かった。そして戻ってくるなり「午後2時台羽田発の直行便に空席が出たそうです」と言うではないか。真に奇跡としか言いようがない。「チケットを振り替えましたので、このままリムジンバスで大急ぎで羽田に行って下さい」と指示された。その時既に11時45分頃。チェックイン締め切りまで約1時間半強。羽田まで道が混んでいると1時間半くらいかかることもありますから急いで下さい、とバスのクーポンを握らされ、大急ぎで予約してあったWifiを借り受けて、3時間以上耐えたトイレを済ませて、これまた足の裏の痛みに耐えながらスーツケースを引きずって、リムジンバス乗り場に行くと羽田の国際線ターミナル行きはあと20分出ないという。ヤバい。しかし、不思議と乗り遅れることはないだろうという気がした。ここまで来たらなんとかなるだろう。幸い道は空いていた。羽田の駐車場付近で少し渋滞したが、約1時間強で国際線ターミナルに到着。バスを降りる直前に羽田のチェックインカウンターから「いまどちらですか」と電話があり「今行きます、大急ぎで行きます!」と答えながら、やっぱり待っていてくれたんだ、流石全日空ありがとう!と心の中でうれし涙を流した。カウンターは既にクローズされていたが、電話の件を伝えるとすぐ通じて、スーツケースを係員が手持ちでどこかへ持っていった。しかし、私の名前はどうやらウェイティングリストに載っているだけの状態だったらしい。しばらくして「空席がないので今回だけ特別です」と、プレミアムエコノミーにアップグレードしてくれた。ありがたい。出発便の遅れは最小限に出来た上に、なんという幸運。時間がないのでご案内します、と係員にエスコートされてゲートに到着したのは午後2時少し前、丁度搭乗が始まった頃だった。うれしさのあまり間違えてビジネスクラスの列に並び、係員にエコノミーの列に並んで下さいと追い出され、プレミアムでもエコノミーはエコノミーなんだと改めて知る。しかし、ゲートでもう一度不測の事態が起こった。渡されたばかりの搭乗券をスキャナに通すと赤いバツ印が現れ、そばにいた係員が「座席イシューです」と緊張した面持ちで同僚に告げたのだ。だめなのか、やっぱりだめなのか…?少し青ざめながら話を聞くと「プレミアム・エコノミーも満席ですので、ビジネスクラスにアップグレードします」と言うではないか。うわぁ、なんて一日だ!地獄から天国へ昇った気分だった。ビジネスクラスなんて10年、いや20年振りか。昔会社に勤めていた頃、一度だけロンドンからの帰国便がビジネスクラスだった。しかし、あの頃に比べると今は格段に進歩しているようだ。座席はフルリクライニングしても後ろの人を気にする必要がなく、しかも細かに姿勢を調整出来た。モニターも15インチのPC並みに大きいし、ヘッドホンもボーズ製で持参したノイズキャンセリング付きのを使う必要もなかった。着席するなりシャンパーニュのウェルカムドリンク(Jacquart Brut)で、食事もちゃんとした白磁の食器で前菜と主菜、デザートが別々に運ばれてくるし、ワインも白はファルツのDr. ベッカーの2014 ヴァイスブルグンダー „Blanc de Blanc“とアルトアディジェのホーフシュテッターのDe Vite 2013だった。赤も真っ当な赤が2種類(2009 Château Leboscq, Cru Bourgeois, Medoc/ 2012 Aconcagua Syrah, Arboleda, Chile)。飛行機の中で食器のたてるカチカチという音が物珍しく、離陸して間もなく出て来た昼食で、朝からパン一切れとお握り2個で耐えた空腹を満たし、ワインで心も満たしてフルリクライニングして熟睡した。なんという幸せ。足の裏の痛みも少し和らいだ気がした。正直なところ、これまでプレミアム・エコノミーやビジネスクラスなど必要なければ縁もない、と思っていたが、今後は少し考えるかもしれない。この快適さはクセになりそうだ。もっとも、お金がないのでマイレージでも貯まらなければ乗らないだろうけれど。ドイツには夕方6時頃に着いて、少しばかり痛む足を引きずりながら-靴の中に小石が入ったような痛み-電車でヴィースバーデンに向かう。夕暮れのドイツは涼しく、垂れ込めた雲からいつしか雨粒が落ちてきた。駅に着いた頃には本降りになっていたので、タクシーでホテルに向かう。歩けば20分くらいで行けるらしかったが、この状態で無理はしたくなかった。ホテルで靴下を脱いで包帯をほどくと、足の裏の傷は少し化膿していたが思っていたほどではなく、水で洗浄して消毒して化膿止めを塗り、滅菌ガーゼをあてて包帯を巻いた。そして翌日からの試飲の日々に備え、早めに寝た。(つづく)
2021/01/11
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・ドイツで一番クールなワイン DWIのパヴィリオンでは「ドイツで一番クールなワイン」と題したコンテストで選ばれた20本が展示されていた。国外ではまだあまり知られていない、若手醸造家達によるドイツワインのクリエイティヴな側面をアピールするために、385本の応募ワインの中からラベルデザインと醸造コンセプトと専門家による試飲をもとに20本を選出。DWIのサイトに発表して、そこを訪れた約5000人が投票して順位を決めた。ペット・ナット3本、オレンジワインが1本含まれた入賞ワインはいずれも斬新なエティケットデザインが人目を引く。その中に一本、左目のまわりにポップな星が描かれた聖母マドンナに「Liebfraumilch Pfalz」と金文字をあしらったエチケットがあった。1990年代まで最も輸出量の多かったドイツを代表するワインで、あの悪名名高い、ドイツワインは安くて甘いだけというイメージをひろめた張本人だ。なぜいまさらあえてリープフラウミルヒなのか。ふと思いついて、生産者であるハンメル醸造所のブースに立ち寄ることにした。・リープフラウミルヒの復興 ファルツのハンメル醸造所は1723年に設立された家族経営の醸造所で、約100haと比較的大きな葡萄畑を所有している。「ある日の午後」と、髭面で強面の経営醸造責任者クリストフ・ハンメルは言った。「ふと思いついてリープフラウミルヒについて調べてみたんだ。ドイツワインの評判を貶めた張本人と言われているけれど、100年前はビクトリア女王やドイツ皇帝フリードリヒも好み、シャトー・ラトゥールやマルゴーよりも高価な銘酒だったことがわかった。それなのに、なぜ今これほど評判が悪いのか。安くて甘いからだ。ではリープフラウミルヒとは何か。その定義はワイン法にあるのだが、リースリング、ミュラー・トゥルガウ、ケルナーもしくはジルヴァーナーを70%以上用いた、残糖18g/ℓ以上のワインと定められている。それなら残糖19g/ℓの、ほぼオフドライで高品質なリープフラウミルヒを醸造したらどうだろうかと考えた。100年前にそうであったはずの味わいを、当時と同じ情熱と愛をこめて造ったら。ほかの国の物真似ではない、モダンでありながら長い伝統を誇るワインを造ったら、それは意味のあることに違いないと思った」。 ハンメルの狙い通りにワインは評判を呼び、2016年は800本だった生産量を2017年は一気に20万本に増やした。それはアロマティックで、クリーンで飲みごたえのある、まっとうで素直に楽しめるオフドライの白ワインだった。 リープフラウミルヒの復活を目論むクリストフ・ハンメル氏。 ・ヴォルムスのマドンナ では一方、本家本元のリープフラウミルヒの現状はどうなっているだろうか。同じホールの反対側に出展しているP. J. ファルケンベルク社のブースを訪れてみると、ちょうどオーナーのヴィルヘルム・シュタイフェンザント氏の姿があった。1786年に創業されたファルケンベルク社は、19世紀前半にヴォルムスのリープフラウエン・キルヒェンシュトゥックの葡萄畑を購入し、リープフラウミルヒのブランド名で販売して大成功を収めた。しかし20世紀に入って模倣者が後を絶たず、1909年に「リープフラウミルヒ マドンナ」の商標を登録して現在に至る。シュタイフェンザント氏は創業者ペーター・ヨゼフ・ファルケンベルクから数えて9代目にあたる。「いや、今はもうオーナーじゃない。2016年に会社は売ったよ」と開口一番シュタイフェンザント氏は言った。「その代金でリープフラウエン・キルヒェンシュトゥックの葡萄畑3.5haとリープフラウエンシュティフト醸造所を会社から購入した。妻のカタリナ・プリュムと一緒に経営している」「モーゼルのJoh. Jos. プリュム家の娘さんですか」「そうだ。2015年に結婚して、去年娘が生まれた。フィリッパと言う名だ。妻はいつか娘に日本を見せたいと言っている」と顔をほころばせた。シュタイフェンザント氏は64歳。カタリナさんとは25歳の年の差がある。2017年12月に有能な醸造家として知られるハイナー・マレトンを迎え、2018年から栽培をビオロジックに転換し、醸造もこれまでのステンレスタンクから木樽に切り替えるという。今後注目されることは間違いないだろう。シュタイフェンザント氏(右)とハイナー・マレトン氏。 シュタイフェンザント氏の醸造所のブースは、古巣のファルケンベルク社のブースの近くにあり、シュタイフェンザント氏の後任となった二人の経営者のひとりで、まだ48歳と若いティルマン・クインス氏の話も聞くことが出来た。クインス氏によれば現在日本市場でのマドンナの販売は1989年の約10%で、その原因は経済環境の悪化と赤ワインブームの影響がいまだに残っていることにあるという。しかし品質はこの15年間で大幅に向上しているそうだ。 クインス氏は日本には輸入元であるサントリー㈱とのクオリティミーティングで毎年一度は訪れており、プロヴァインの2週間前にも京都と大阪を訪れたばかりだという。「ドイツワインは和食の完璧なパートナー。和食のためなら死んでもいい」と笑った。 普段ならばアポイントメントをとるだけでも苦労しそうな人でも、プロヴァインならば気軽に立ち話をするようにして容易に話を聞けるのも、その魅力であり実力かもしれない、と思った。ファルケンベルク社代表の一人、ティルマン・クインス氏。(以上)
2019/03/17
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今日3月17日から19日まで、ドイツのデュッセルドルフで業界向けワインメッセ「プロヴァイン」が開催されます。昨年はヴィノテークの取材で7年ぶりに訪れました。記事は2019年2月号に掲載されましたが紙幅が足りず、(個人的には)泣く泣く削った一節をご紹介します。・回復しつつある日本市場 日本から見るとドイツワインを語るうえで避けて通れないのが公式マーケティング組織ドイツワインインスティトゥート(略称DWI)である。2016年まで7年間閉鎖されていた日本支部Wines of Germany日本オフィス(以下WOGJ)を開設しプロモーション活動を再開した。2017年のドイツから日本への輸出は全体の3.6%で輸出相手国として9番目だが、2016年に対して金額ベースでは1000万€から1100万€と100万€(約13000万円)増えた一方、量ベースでは2600万hℓから2500万hℓへ100万hℓ減少し、単価は394€/hℓから436€/hℓへと上昇したのは、廉価な量産ワインの輸入が減って従来よりも高価なワインが増えたことを意味する。「WOGJの活動にはとても満足している」と、DWI代表のモニカ・ロイレは言う。「輸出額は次第に回復しつつあり、今後は若年層の消費者、とりわけ女性に訴求する手段を考えている」と語った。「日本料理には様々なスタイルがあるが、ドイツワインも甘味を残したスタイルから辛口まで色々なリースリングがある。辛口リースリングの酸味が強すぎるならば酸味が味わいに溶け込んだハルプトロッケンを提案すればよいし、ヴァイスブルグンダーやグラウブルグルンダー、ジルヴァーナーもある。多様性がドイツワインの強みだ。南の生産国は赤ワインが中心でアルコール濃度も高くタンニンも強いので、すしなどの繊細な日本料理を圧倒してしまうかもしれないが、ドイツの軽くフルーティなスタイルは上手に寄り添ってくれる」と自信を示す。DWIドイツワインインスティトゥート代表のモニカ・ロイレさん。日本市場も担当するウルリケ・レンハールトさん。 DWIで長年日本市場を担当してきたマニュエラ・リープヒェンさんに代わり、2018年から担当するのはウルリケ・レンハールトさんだ。1990年から1995年まで日本担当だったウルリケさんは、当時輸入されはじめたばかりだったチリやオーストラリアのワインは、安すぎるし扱いたくないというインポーターが多かったと振り返る。今もリープフラウミルヒやシュヴァルツ・カッツといった廉価な甘口はとりわけ大手輸入商社にとって重要な商品だが、彼らはドイツワインの現在の姿を見ようともしないし、顧客に伝えようともしないのが問題だ、と伝えると、インポーターツアーを通じて認識を改めてもらい、ドイツワインアカデミーの講師を大手商社に派遣して従業員を教育することも考えている、とウルリケさん。今後の展開に注目したい。
2019/03/17
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