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(レ○プという言葉は楽天の倫理規定に引っかかるらしく投稿できないので性犯罪と言い換えています。変換してお読み下さい) 性犯罪は単に性欲から来るものではなく、抑圧されたストレスなどを、歪んだ征服欲を弱者に向けることにより発散するものです。軍隊というきわめて抑圧的かつ暴力的な組織の中で、上層部はこの心理を利用して兵隊のストレスを別方向へ向けさせ、管理し戦闘へ追いやったと想像されます。であればこそ慰安所では実際の行為以上の暴力が行われ許されたんだと思います。決して「休息」なんていう生易しいものではなかったと思います。 多くの兵隊は戦争という異常な状況下で「性犯罪の心理システム」につけ込まれ慰安所へ「誘導」されたんだと思います。多くはそそのかされたのです。なぜなら、抑圧された男が全員性犯罪に走るわけではないように、軍隊でも理性を持ってストレスと立ち向かう男は決して少なくないと思うからです。 平時なら趣味や酒、スポーツ、読書など、ストレスを発散させる方法はさまざまあります。でも、戦地ではそういうわけにはいかないから(支配者にとって)簡単な一方向に連れていかれたと思うのです。 (もちろん戦争=殺し合いと性という、生々しい行為同士が近しいものであるのも利用された理由の一つでしょう。また、慰安婦を利用した兵隊にまったく責任がなかったとも思いません。) そういう意味では、慰安婦問題は「男全体の問題でもあるけれど、戦争時の指導者の責任は特に重い」と思うのです。単純に男の性の問題にしてしまうと見誤ると思います。責任の所在が拡散してしまい隠れ蓑になってしまいます。「原発事故の責任は国民みんなにもある」という言い方に近いでしょう。国や政治は常に責任を庶民に転嫁しようとするみたいです。 ここまでをまとめると… 1.慰安婦とは「性欲と休息」などというものではなく、性犯罪心理を利用した、抑圧されたストレスを暴力的に発散させる仕組みであった。 2.その仕組みは兵隊が希望したものではなく、統治者が誘導したものである。多くの責任は国、軍隊にある。 この過程でどれだけ多くの女性が傷つけられ苦しめられ、今なお苦しみ続けているか。ここでは本論から逸れますので書きませんが、必ず心にとどめ置かなければなりません。 さて、ここに橋下徹という「風俗で金を払ってコスプレさせて…」で休息していると思われる男がいます。彼はこう言い放ちました。 「慰安婦制度というのは必要なのは、これは誰だって分かるわけです」。 我々を自分と一緒にしないでもらいたい。まずはその一言です。彼は「女性をストレス発散の道具として扱う」ことを当然とし、それを軍隊が利用することも「誰にだって分かる(容認できる)」と言ったのです。「過去の話をしているのであって僕が容認しているわけじゃない」と釈明していましたが言い逃れです。その証拠に、この発言の後、沖縄の米軍司令官に風俗の活用を勧めたのです。 つまり彼は「米兵の性犯罪を減らすために、米軍の慰安所がわりに沖縄の風俗を利用し、在沖風俗女性を慰安婦にしろ」と勧めたわけです。彼が現在も軍隊と慰安婦がワンセットだと考えていて、それを容認しているのは間違いありません。 彼は、女性のみならず男性、米軍をも愚弄しました。皆が自分と同じメンタリティだと考えているらしいのです。また彼が統治者側の目線でモノを考えているのも間違いないでしょう。橋下徹は庶民の味方や代弁者ではありません。ガリガリの権力亡者なのです。 もちろん米軍がこんな申し出を本気で検討するわけはありません。さらには世界中から批難の声が挙げられました。当然です。そして、ここへきて初めて彼は「慰安婦を利用していたのは日本だけではないではないか」と言い出したのです。 「慰安婦容認」を批難され弁明できなくなると、謝罪するのではなく「みんなやってたじゃん」と論点をずらしたのです。 ですからここで「各国の慰安婦事情」などを議論したのでは彼の思う壺です。ましてや「慰安婦の強制はあったか、なかったか?」などという議論も「ここでは」愚の骨頂です。そんなこととは関係なく「今、橋下徹が慰安婦を容認している」そのことが問題なのです。 また「日本の政治家が言えないことをよくぞ言った」と考えるのも間違い。なぜなら彼は、元慰安婦やアジアの国々、日本国内に対しては謝罪も撤回もしないにもかかわらず、米軍、米国、さらには米国民にまで謝罪の意思を表明したのです。何をか言わんやです。 ただ謝罪したくても面会を拒否されたようですが…。 彼は相変わらず「弁護士テクニック」を駆使して言をあちこちに散らし、マスコミに責任を転嫁しようと必死ですが、国際政治がそんな感覚でできるわけもなく、さすがに今回はだまされる人は少ないようです。 繰り返しになりますが、今回の騒動は「慰安婦を容認している橋下徹という男の政治家としての資質が問題」にされていて、さらには「橋下徹の詭弁テクニック」がわかりやすい形で現れた。それ以上でも以下でもないのです。 残念なのはそのことをマスコミが「安心して」糾弾するには、やはりアメリカをはじめとする外国からの圧力が必要だったことでしょう。
2013.05.30
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ツイッターでの僕の書き込みに批判的なリプをつけられる方のプロフィールを拝見すると「ニート希望」とか「永遠のニート」とかよく書いてあるので、本当なら…と考えてみました。 #ニート いわゆる#ネトウヨ と呼ばれる方々、あるいは#反原発 に反感を覚え、発言されている方々へ。(つまり、社会生活をストレスなく送り、かつ積極的に原発推進を訴えている方々はここに含まれないということです) 僕らは意外と近しい存在なのかもしれません。これは懐柔のためおもねって言っているわけじゃなく本当にそう考えているんです。というのも、あなた方が既存の社会に適応することを拒否する、あるいは苦痛に思っているのと同じように、我々の仲間にも既成概念やいわゆる「常識」に馴染まない人達が少なからずいるからなんです。 僕自身「社会人」になることを拒否した時期もあったし、働かない時期もありました。子を持つ身になった今でもPTAや子供会では違和感を感じ、他の親たちと価値観を共有できないことが多々あります。 では、僕たちとあなた方を隔てるものは何か? それは僕らが「社会に適応できないことを肯定的に捉えている、あるいは誇りにさえ思っている」ということだと思うのです。 きっかけは様々だと思います。ある人は本を読んで、または仲間と出会って、空からの景色を見て、海外を旅して、はたまた生まれつき自信を持っている人もいるでしょう。50も過ぎてやっと確信した人もいます。いずれにしても、人や社会と上手く付き合えないことに一抹の不安を持ちながらも、その事を否定せず、面白がってさえいるんです。 つまり社会に適応したくない自分の方を肯定的に捉えてるんです。まず社会に疑問を持つ自分がいる。そこから始まる。そういう目で社会を見ると様々な歪みが見えてくるわけです。 さて、皆さんはどうでしょう?ここからは僕の想像なのですが、皆さんは心の奥で「生きていく上での居心地の悪さ」を自分の責任にしていないでしょうか? 最近の社会や教育は、まるで工業製品を作るように人を育てていて、規格から外れた人間は除外してしまう傾向にあります。もちろん社会に出てからも常に試されています。そして不幸にも何らかの理由で適応できなくなるとつまみ出した挙句「除外された方が悪い。努力が足りない」と思い込ませているのです。これは本人が望むと望まないに関わらず子供の頃から心に刷り込まれているんです。 ここまでは僕らも皆さんも同じです。さっきも書いたように、幸いここから僕らは自己肯定へジャンプできた。今流行りの言い方だと洗脳が解かれたんです。本来、人は生きているその事だけで尊重される存在であると。企業の使い勝手の良さに価値があるんではないと。言葉にしなくともそのことを知ったんです。 じゃあ、社会生活も息苦しい、かと言って自己肯定もままならない人はどうするのか? 「自分を否定した社会とつながりを持ち続けるために、今の社会を批判する人を攻撃することによって、『自分は社会の側にいる』とアピールし続けている」んです。 言い方を変えれば「敵の敵は味方ですよ」と言っているんです。 誰に? 僕は「自分自身に」だと思っています。だって工作員(というのが本当にいるとしたら)は、報酬ももらうでしょうが、そうでない人は褒められるわけでもなく、ネットで騒いだからといって就職できるわけでもないでしょう。ただ自分のアイデンティティを既存の社会側に繋ぎとめる、そのために発言しているとしか思えない。 または(社会には否定されたから)「他者を批判することによって、相対的に自分を規定している」と言ってもいいかもしれません。相手との相対的な関係でのみ自分を語るしかない。だから自分の意見より、他人の意見を批評する書き方が多くなる。「××を批評する存在」という2次的な存在ですから仕方がありません。 また、「相対的な自分」しかもたないから「○○派」とか決めつけられることも嫌いますよね。 その立ち位置は、一見自由で中立な批評家のようにも見えますが、そうではありません。元々が「規格外とされた社会に戻りたい」という要求が底にあるのですから自ずから既成社会側に寄らざるを得ないわけです。 ここに、「社会から疎外された当の本人が、その疎外した社会を支持する」というなんとも哀しい逆転現象が成立するんだと思います。 社会へのラブコールと言ったら言い過ぎでしょうか? でも実はこれって、何とか社会生活を続けている多くの人にも当てはまるかもしれません。 日々試され、過酷な労働や勉強に追いやられる中で、 排除されそうなほんの小さなシグナルに気付いた時や、社会を本質的に批判する者が近くで声をあげた時は「私は裏切りません、まだやれます!」と決意表明し、その証として批判者を糾弾するのです。裏切り者を差し出すことで自身の身の潔白を証明する必要があるのです。 再び、誰に? ここでも「自分に」と言うしかないでしょう。「内なる彼の声」と言うべきかもしれませんが。一般常識、現実、世間、自分が信じている世界を信じ続けるために、自分に言いきかせるために、裏切り者を糾弾するのです。自主的な相互監視社会でもあります。 話を拡げ過ぎました。 僕はここで「だからダメなんだ」って言いたいわけじゃないんです。そうじゃなくて「みんな同じなんだ。同じ側にいるんだ」ということを言いたいんです。僕らだって自分を見失えば同じことをすることだってあるんです。 ベタな言い方かもしれませんが、この不毛なののしり合いから抜け出すには「各自が自分で自分を認める。信じること」だと思います。誰に評価してもらうのでもなく、誰かを批評する存在としてでもなく、自分が自分であることに満足する。それができれば本当に声を挙げなければならない相手も目的も見えてくると思うのです。 だって、誰だって年をとれば能力は落ち「規格外」になってしまいます。もちろん障害者や妊娠した女性もそうでしょう。でも企業にとってはそうでも、回りにいる人々にとってはそうであってはならないと思います。もちろん、僕もできればひ孫に囲まれて婆さんと縁側でお茶を飲んでみたいですから。 あ、また「自分のことしか考えてない」って書かれそうですね(笑)
2013.05.27
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