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葛西優奈が日本女子初の金、春香は銅 双子で表彰台 世界選手権複合2年に1度行われるノルディックスキーの世界選手権第2日は27日、ノルウェーのトロンヘイムで複合女子個人ノーマルヒルがあり、21歳の葛西優奈(早大)が優勝した。双子の妹で、前回3位だった葛西春香(早大)は2大会連続で銅メダルを獲得。 ノルディックスキー世界選手権で日本女子が個人で金メダルを獲得するのは初めて。男子も含めた日本勢の個人の優勝は、1999年にジャンプ男子ノーマルヒルを制した船木和喜以来。 来年2月に開催されるミラノ・コルティナ冬季五輪では、複合女子個人ノーマルヒルは実施されない。 全ての選手が一斉にスタートするマススタート方式で行われた前半の距離(5キロ)で葛西優は3位、葛西春は8位につけた。 後半飛躍(ヒルサイズ=HS102メートル)では、葛西優は96・5メートルを飛んで121・9点で3位、葛西春は96メートルの122・3点で2位だった。 ともに札幌市出身。ワールドカップ(W杯)個人戦では葛西優は今年2月7日、初勝利を挙げて今季はランキング4位につけている。葛西春はW杯の優勝経験はないものの、今季は2位が3度でランキング2位。 葛西優は「2人で表彰台に上ることは簡単なことではない。うれしさも2倍なので、すごく最高な一日」と喜んだ。葛西春は「金メダルを取れなかったことは悔しいが、2人でそろって表彰台に上れたことはうれしい」と話した。
2025.02.28
USA vs Japan - 2025 SheBelieves Cup Final – ALL GOALS & HIGHLIGHTSなでしこジャパンがアメリカに大金星!データで判明した「日本完全勝利」の数値過去の対戦成績は、日本の1勝8分け31敗。圧倒的不利が予想された『シービリーブスカップ』の対アメリカ戦は、大方の予想に反し、日本が2対1で勝利を収めて3戦全勝。見事、同大会の初優勝を飾った。2月26日(日本時間27日)、米カリフォルニア州サンディエゴでおこなわれたアメリカ戦は、完全アウェー状態。試合前の国歌斉唱では、君が代がテープで流れたのに対し、アメリカ国歌は歌手が登場して独唱。試合前から「女子サッカーはアメリカが最強」のプライドが垣間見えた。なでしこジャパンのニールセン新監督は、就任にあたり「ボールを支配したサッカー」「前線からのハイプレス」を目標に掲げていたが、いざ試合が始まると、面白いように決まっていく。前半2分には、MF長谷川唯の “エンゼルパス” に反応したMF籾木結花GKがDFを交わし先制する。の後、前半14分に追いつかれたものの、ボール支配率で上回って前半が終了した。迎えた後半5分、長谷川の直接FKをGKが弾いたところに、いち早く反応したDF古賀塔子が押し込みリードした。その後は地元で負けが許されないアメリカが攻勢に出るが、日本もハイプレスで決定的なチャンスを与えない。むしろ日本のほうがカウンターからチャンスをつかむなど、落ち着いた試合運びが光った。そして、タイムアップのとき。日本は13年ぶりにアメリカに勝利し、通算2勝めを手に入れた。ただでさえ大金星ではあるが、データを紐解くと、この勝利がもたらしたものがよくわかる。「日本はアメリカに対し、2023年2月からこれまで3戦連続で1点差負けを喫してきました。点差はわずかだったものの、内容的には『完敗』とそのたびに評されてきたんです。直近の2024年8月のパリ五輪準々決勝でも、結果こそ延長戦の末、0-1の敗戦でしたが、ボール支配率はアメリカが70%と圧倒的でした。しかし、この日の勝利は先の3試合とはまったく違いましたね。ボール支配率が日本が51%で、シュート数も10対8で上回ったんです。日本の生命線であるパスでも、アメリカが524本だったのに対し、日本は531本。しかも、パスの成功率は日本がわずかに上回る結果で、ニールセン監督が試合後に口にした『怖がらずにパスを回してくれた』という試合評が、数値にも現われています。まさに、スコアでも試合内容でも上回った勝利でした」(スポーツ記者)また個人では、中盤を支配した長谷川は試合を通してスーパーなパフォーマンスを見せ続けた。身長157cmと、最近では日本人のなかに入っても小柄な選手だが、身長180cm近いアメリカの選手たちのハードなマークを、まるであざ笑うかのようにかわし続けた。2アシストを決めるなど、まさにこの試合のMVPだった。2011年以来の世界一を目指す新星なでしこジャパンは、最高のスタートを切った。2つの“感動ポイント”キックオフの笛から1分が経とうとしていた中で迎えた日本のチャンス。右サイドのスローインからボールをもらった長谷川は、前を向いたところで米国の選手3人と対峙した。ラインの間に入った田中美南、右のタッチライン際をオーバーラップした守屋都弥と、パスの出しどころがある中で、選択したのは相手3人の間を通すスルーパス。一早く動き出していた籾木結花がボックス内で収めた。相手GKとDFの2人に背後につかれた籾木は一瞬の隙をついてターンし、左足で柔らかなタッチで無人のゴールネットを揺らした。
2025.02.28
「沢木興道 この古心の人」よりp.96-97「沢木さん」は大津に近づいた頃、一人の和尚と道連れになった。この人は天草下浦村の人で、天草まで同道しようと、大津から神戸までの船に乗せてくれた。23,4ぐらいの娘がいて、突然財布がなくなったと騒ぎ出した。その財布が沢木さんの尻の下から出て来て、巡査が沢木さんを刑務所にぶちこんだ。およそ1月繰り返し取り調べられた。刑務所で説教師に入獄事情を話し、釈放された。天草郡楠浦の宗心寺について住職の沢田興法和尚を礼拝し小僧を勤めさせてもらうことができた。当時を知る古老によると「沢木さんが寺に着いたとき、老人(興法和尚)は、遠い伊勢から天草までわしを慕って来た少年は、深い前生(ぜんしょう)の因縁だ、と言って落涙された」
2025.02.28
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)73-76頁今ここに全力投球する生き方なら、 いつ終わっても悔いはない今ここをどう生きるかで明日も開いてゆくことができる。過去や未来を生かすも殺すも、開くも閉じるも、今ここの一歩の在り方にかかっていることを忘れてはならない。 過去の総決算としての今、未来への出発点としての今、過去を背負い、未来をはらむ今、そういう過去、現在、未来を一望のうちに収めても上の今であることを承知のうえで、しかもなお、過去はすでになく、未来は未だなく、あるのは今の一瞬のみ。 その生き方を道元禅師は「一行に遇うて一行を修す」といわれたのであろう。
2025.02.28
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 5 勤労の歌 (79頁)身を捨ててここを先途(せんど)と勤むれば 月日の数も知らで年経んこの歌も誠の道に徹して一生懸命に勤労に熱中すれば、月日のたつのも知らぬうちに一年は過ぎ去ってしまうという勤労の歌になっています。「身を捨てて」は自分を忘れ、自分を越えることをさしていて、「ここを先途(せんど)と勤む」とは真剣と緊張をもって無心で仕事に専念することを言っているのです。この歌の題にも葉(しょう)公が、孔子の子路との対話の中で「孔子は、憤慨したり、発憤したり感激して、食事をとるのも忘れる人だまた、道を究めることを楽しんでは、憂いを忘れ、年を取ることも忘れている人だ」が添えられています。◎岡田良一郎「二宮先生の七大誓願」○文政12年3月先生祈願のことあり。 千葉県の成田山に参篭して断食し祈願して21日にして感応があった。物井の村中の人々はこぞってその過ちを悔いて、先生を出迎え、先生の教えにそむくことはないと誓った。 私(岡田淡山)はかって先生の旧跡を尋ねて諸国を歴訪し、千葉の成田山新勝寺に参詣した。そして、ある僧侶に面会することができ、親しく先生が断食祈願した当時のことを聞くことができた。○はじめ、先生は成田山の門前の小川屋(先生が参篭された当時は「佐久良屋」といい、現在は信徒会館となっており、先生がここに泊まられた旨の立て札が立っている)に来てこう言った。「余は心願のことがあって、成田山に断食祈誓しようと欲する者だ。宿を借りたい」宿の主は「どうぞ」といったん諾したが、先生の容貌がただならぬことをいぶかって、住所と氏名を聞いた。「余は小田原藩士である」と先生は答え、持ち金を預けようとした。主は容貌がはなはだ立派なのに、衣服はひどく粗末、しかも大金を持っていることに驚いて、やっかいな事にまきこまれてはかなわないと思い、宿に泊めるのを断ろうとした。すると先生は大声で叱り飛ばして言った。「いったん諾した後で断るとはなにごとか。 余は心願があってここに来たって参篭しようとする者である。 いったい何を疑おうとするのか」その目の光は人を射るほどであった。主は恐れおののいて先生に謝って、宿泊させたが、安心できないため、江戸の小田原藩邸に人をやって確かめさせた。小田原藩邸の者は、「二宮は確かにわが藩の者で疑うべき者ではない。また、二宮は尋常の者ではないから、決して軽々しく扱ってはならんぞ。」と告げた。当時、大久保候は老中であって、その声望は天下に鳴り響いていた。その使いの報告を聞いて、宿の主はいったんは安心したものの、さきに尊徳先生の怒りをかったことを恐れて、新勝寺の和尚にこれまでのことを相談し、とりなしをお願いした。 当時の住職の名前を照胤(しょういん)といった。非常に学識があった。主の請いを受けて、二宮先生のもとに至って、主の失言をわびた。先生はにっこりとほほえまれて少しも気にしていないと丁寧に答えられた。「あなたの心のひろいことは宿にとって幸いである。 しかし、この宿は大変出入りが激しく、数日の参篭の間、はなはだ静座するのに妨げであろう。本寺に別寮がある。どうじゃな、そちらに移られて静かに修行されては」と和尚は先生に言われ、先生は喜んでその言葉を受け入れた。○先生は、新勝寺の別寮に移られて、日々朝から晩まで水を浴び、お経を唱え、祈念怠ることがなかった。 和尚は、間を見て、二宮先生に問うた。「世に当山に祈願するものを見るに、あるいは自らの病気を治すため、あるいは貧乏を免れようとし、あるいは栄華や利益を願うためにし、あるいは愛欲をみたさんと願い、おおよそその私情私利の欲念のために祈願しないものはない。 今、私があなたを見るに健康で病気でもない。衣服は粗末だが、貧乏を憂えてのことでもない、栄華利欲を祈るものでもない。言語もしっかりしており、とても危うい道を踏み行って災難に遭遇するとも思えない。心ひろくまっすぐで欲念や怒りをはらすためでもない。 そもそも何を祈願することがあって、特に当山に来て、食事を絶ち、身を苦しめようとするのか」 先生はこうおっしゃった。「わたしは病気があるわけでもない。 しかしながら幼くして父母の病気にあって不幸にしてはやく父母をなくしてみなしごとなった。その不幸はいかほどか。 思うに天下に私と不幸を同じくするものが少なくないことを知るゆえに、天下の人の父母たるものが無病健全で子どもが安心して生育できるよう祈願するものである。 私は今貧乏を憂えるものではない。しかし、極貧の家に成長し、父母の艱難は言葉に尽くしがたいものであった。世の中で貧乏より悲しいものはないということを知った。 ここをもって天下の貧者をみては、あまねくこれを救済して富者になさしめることを祈願するものである。 私が生まれた年、天明の大飢饉であった。死者は何万人いたかわからないほど多かった。関東の諸州の死亡がもっとも多く、栃木の芳賀郡の村々が廃亡したのもこの時であると聞いている。 今、ここの開墾の任務にあたり、飢饉の害ほど大きいものはないことを知る。60年前後に必ず凶荒のときがあると聞いている。あらかじめその備えをなして、天下に飢えた民がないことを祈願するものである。 私は幼いとき、しばしば洪水にあい、所持の田畑は再三押し流された。その開墾のため、父母の苦労は筆舌につくしがたいものであった。元通りにしようとしても、容易には良田になしえず、数年の労力でやっと復旧しても、このために負債を生じて所有地を売り払うこととなった。一家滅亡したものも我が家だけではない。 だから天下の水害をこうむって滅亡にいたるものを救助すること、私が自ら我が家をたてなおしたようにならんことを祈願するものである。 天下にはさまざまな災厄をこうむって、借財を生じて、利息が累増し、元利を償還することができず、家財産を失い、逃亡する者も少なくない。あるいは家老の職にあってぜいたくになれて、負債のため職務を全うできず、厳しく重税をとりたてて国家危急にいたるものも少なくない。 私はこれがために方法を設け、救い取ろうと祈願する。 要をもって言えば、禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、困窮を変じて安楽となし、おおよそ人民のにくむところを除いて好むところを与えようと日々夜々に祈願するところなり わたしは君命を受けて、物井村にいたってよりここに七年、着々これを実地に施した。しかしながら、民心はいまだにこれを理解せず、土地が開け、人民は豊かになってきて、しかも人心は喜ばず、かえって反抗をこころみ、よこしまな者どもは威力をたくましくして、良民はその志をのべることができない。 すでに人民の困窮を変じて安楽の道をあたえ、すでに人民の貧を変じて富み栄させ、すでにやせ地を変じて開田とし、借財を幾度となく無借としてきた。しかしながら、人心の凶を変じて吉とすることがなしがたく、国家の禍を福とすることができない。 どういう理由か、これは人民が私の誠に疑惑があるためである。私は君命のために国家を復旧の道をたて、民を水火に救おうと欲するだけである。天地神明いやしくもこの誠心を真実とせなければ、死ぬとも食をとらず、民を水火から救うことができなければ、この身を猛火になげすてよう。 これが当山に来て祈誓するゆえんである」 和尚はその誓願に感嘆し、「あなたの誓願はまさに世を救う法であり、世間の教えの及ぶところではない。 よくその誓願をたもって動くことがないならば、いかなる天魔や悪鬼の妨げるものあるもついにはどうすることもできないだろう。」 そして不動経を与えた。 先生はこの不動経を受持し、朝夕昼夜怠ることなく、毎時ごとに沐浴し、不動尊の前に礼拝し、誓願を唱えた。 そして、実に21日目に感応があり、次の歌をよんだ。 身を捨ててここをせんどとつとむれば 月日の数もしらぬなりけり 心あれば成田の山にこもりなん 石の上にも岩の上にも
2025.02.28

高額療養費の負担上限引き上げ、石破首相が「再検討」表明へ…「凍結」主張の立憲民主に配慮2/27(木) 政府・与党は27日、医療費が高額になった場合に患者の負担を抑える「高額療養費制度」について、自己負担の上限額引き上げを再検討する方針を固めた。複数の政府・与党関係者が明らかにした。28日の衆院予算委員会で立憲民主党の野田代表の質問に対し、石破首相が方針を表明する方向で調整している。政府・与党内では与野党による協議体を設置して制度のあり方を議論する案も浮上している。 上限額の引き上げには、難病に苦しむ患者団体などから批判が出ている。政府はすでに長期治療が必要な患者を巡って方針を一部見直す考えを示したが、立民はさらに引き上げの凍結を求めている。 立民は衆院予算委員長のポストを握っているため、政府・与党は立民の主張に歩み寄ることで2025年度政府予算案の委員会採決を円滑に行う環境を整えたい考えだ。立民の重徳政調会長は27日、自民、公明両党の政調会長と国会内で会談し、前日に続いて引き上げ凍結を求めた。政府は上限額の引き上げについて、今年8月から27年8月に3回に分けて年収や年齢に応じた区分ごとに行う予定を示している。平均的な年収とされる約510万~約650万円の場合、上限の基準額は現行の月約8万円から約11万3000円に増える。 一方、厚生労働省は今月、引き上げ方針を一部見直し、長期治療が必要な患者については、1年間のうち3回上限額を超えた場合、4回目以降は上限額を現行水準に据え置くことを決めた。2025年8月、高額療養費制度(こうがくりょうようひせいど)が見直される年収約370万~770万円の中間所得層(現役世代の多くが該当)では、現在の月額の自己負担上限が約80,100円から、2025年8月には88,200円に引き上げられる最も収入が高い層(年収約1,160万円超)では15%と大幅に引き上げられる。025年8月の引き上げに続き、2026年8月および2027年8月にも高額療養費のさらなる見直しが予定されている。2027年8月までに、現在5区分に分かれている所得区分を13区分に細分化し、高所得者ほど上限額が高くなるよう再設定する計画。例えば、年収約650万~770万円程度の層では最終的に月額自己負担上限が138,600円程度となり、2025年8月以前の80,100円と比べると58,500円の値上げとなる
2025.02.28
兵庫県の維新県議が、政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志党首に情報提供していた問題で、維新は2月26日に県議2人の処分を発表した。斎藤元彦知事らに対する内部告発を調査する県議会の調査特別委員会(百条委員会)の元副委員長で、真偽不明の文書を立花氏に渡していた岸口実県議は最も重い除名処分となったが、非公開と決まっていた委員会の音声を録音してそのデータなどを立花氏に提供した増山誠県議は離党勧告と、甘さを感じさせる処分となった。兵庫維新の会幹部「報道と入れ替わって、岸口氏の処分が重くなったのは、公人であるにもかかわらず、他の県議らへの誹謗等が含まれる真偽不明の文書を読んだうえで、立花氏が発信するであろうと知りながら提供したことは社会的な責任が重大であること。2つ目は、副委員長であるのに、百条委員会にかかる真偽不明の情報を流出させたこと。3つ目、当時、県議団の団長で、監督責任があるにもかかわらず、自ら情報を流出したこと。4つ目、知事選で岸口氏は清水貴之候補(元維新参院議員)の選対本部長代理でありながら、他候補の立花氏に情報提供したこと。そういう点を勘案して除名処分となった。岸口氏の処分が重くなったのは、情報漏洩(ろうえい)時の立場によるところが大きい」非公開の百条委では片山安孝元副知事が証言した。片山氏は質問されたことではなく、斎藤氏や片山氏らを内部告発した元県民局長の真偽不明のプライベートの問題を不規則に発言し始めた。委員会で追及する疑惑とは無関係のため、奥谷謙一委員長が制止したが、すぐには話をやめなかった。💛亡くなられた3名の発端は片山安孝元副知事?
2025.02.28
“ウクライナの安全保障 ヨーロッパにやってもらう”トランプ氏 侵攻終結に向けた交渉「ロシア側も譲歩しなくてはならない」2/27(木) アメリカ トランプ大統領「私は安全保障について、あまり多くを確約するつもりはない。ヨーロッパにやってもらうつもりだ。なぜなら、お隣だからだ」トランプ大統領は26日、ロシアを抑止するためにウクライナが求めている安全保障の確約について、ヨーロッパ各国が担うべきとの認識を示しました。一方で、ウクライナの侵攻終結に向けた交渉について、「ロシア側も譲歩をしなくてはならない」と話しました。
2025.02.28
span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む 報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ その3[報徳記&二宮翁夜話]199「烏山の仕法」の仕法について「二宮尊徳先生傳」(佐々井信太郎)はこのように記す。「烏山の仕法は、天保7年の大飢饉に際し、非常な困窮に陥ったのを救済しようということから始まった。 そして天性寺の和尚の禅的修業による努力と家老菅谷八郎右衛門の真摯な忠誠の行いにより報徳仕法を行うことになった。 烏山は栃木県那須郡烏山町で、領主大久保佐渡守(さどのかみ)は小田原大久保氏の一族である。 その領土は、烏山地方47カ村、公称2万6千石、神奈川県の厚木付近1万3千石余、合計4万石と称せられた。(略) 天保7年の飢饉は、東海よりも関東、それより奥羽、東北にいたるにしたがって甚だしかった。 烏山も関東の東北部にあって惨憺たるありさまで、天保7年の夏から秋にかけて、困窮した人々はクズ、ワラビ、草の根等を掘って飢えをしのいだ。菅谷は、江戸に出ていた家老大石総兵衛の帰国を要請したが、年末にならないと帰れないということであった。 そこで江戸に出て、協議しようとした。 そのとき、下男の藤兵衛から、桜町の復興の話を聞いたのである。 藤兵衛は、常州(茨城県)真壁郡小栗の出身で、菅谷の供で天保5年江戸に出た際に、青山の教学院(大久保家の菩提寺)で仕法のことを聞いていた。また天保7年に同藩の大久保金吾が江戸に出た際、供として牧野遠江守(とうとうみのかみ)宅で尊徳先生の事を聞いたと菅谷に伝えた。 菅谷はかねて尊徳先生の仕法については耳にしており、その日記にも「8月中かねがね聞き及んだ二宮」とあるとおりである。 そこで藤兵衛につかわして様子を探らせたが、世間話程度しか分からない。そこで真相を知ろうと天性寺の円応和尚の派遣となる。 円応は、文政の始め奥州衣川から転任してきた。仏の道は現世の窮民救助にありとして、衣川においても荒れ山を開墾して畑とし、畑を田としたほどであった。円応も桜町復興の噂は耳にしており、菅谷とも意気投じて領内の荒廃について意見を交換していたので、桜町の調査を快諾したのであった。桜町役所の日記8月22日のところに「烏山御領内より御趣法の筋の儀あい願いたき段申し参り候、もっとも旅宿は真岡のよし、忠次申し聞こえ候事、野上村茂右衛門」とある。次に天保7年9月2日天性寺の円応和尚が桜町の陣屋に来て、尊徳先生に面会を求めた。「僧侶は僧侶の道あり。わが道は廃村を興し、民を安んずるにある、僧侶に会って未来の往生を談ずる必要はない」と面会を拒絶された。円応和尚は私の志は民を救うことにある、面会を拒絶されて帰り、民が飢え死にするのを見るに堪えないといって動かない。「かの僧は何をいうか。我にはわが預かる専務がある。烏山の安否は烏山候の職分である。しかるに僧侶の身として強いて推参して面会を要求し、わが本務執行の妨害をするとは何ゆえか」と面会されなかった。円応和尚は、先生が面会されなければ、ここで烏山の民に先立って飢え死にするだけだと、陣屋の門前の芝原に袈裟の衣のまま伏せて昼夜動かなかった。翌朝、そのことを聞いた尊徳先生は「かの僧は理非にかかわらず、面会をこい、あまつさえ陣屋の門前で餓死しようとは比類ない曲者である。よし、会って戒めよう、すぐに連れてまいれ」と大声で命ぜられた。円応和尚は、悠然と起き上がって先生の面前に赴いた。「坊主、なんのためにこの陣屋に来たって、わが専務を妨げ、門前に伏して死を決するのか」「一に先生の教えを受けて烏山の飢えた民を助けたいためです。」「汝は僧侶にして仏の道を知らないのか」「私は愚かではありますが、仏門に入って久しく、仏道を理解していないなどということはありません」「仏の道に荒地を開き、民を撫育し、飢えた民を救う道があるか」「事は異なるようですが、仏の本意は衆生を救うことにあります、民を憐れみ飢えを免れさせようとするのも仏の願です。」「そんな答えでは仏の道を知っているとはいえない。 世の中には職分があって、たがい奪ってはならない。 領主には領主の道があり、臣下は臣下の道がある、僧は僧の道がある。 (略)」と順々に説諭された。円応和尚は、自らの非を悟って、また先生の説諭に「このような人物が今の世にあろうとは思わなかった」と感動して烏山に帰った。菅谷は円応和尚からこの報告を聞いて、「ああ、賢なるかなに二宮、我速やかに救助の道を求めん」とまず使者を派遣して近日面会したいと申し入れた。再三の使者の面会要求に尊徳先生はやむなく会われた。「私は命がけでこの地の復興に尽くしており、他藩の臣下と閑談するひまなどない。そもそも菅谷は烏山藩の家老ではないか。家老の職は主君を補佐し、国を富まし民を豊かにすることではないか。しかるに一年の飢饉にさえ、領民を飢えさせるのは、仁政が行われていないからである。諸侯の任務は天下の民を預かって撫育し、安泰ならしめるにある。今その民を飢えさせるようなら諸侯の道を行っているとはいえない。主君がこのようであり、家老もこのことを知らないで飽食暖衣安逸を貪ってその任務を果たしたと思っているのか。そのような人物がわが門に来ることを欲しない。来るのをやめさせよ」と厳しく使者に告げた。使者は、二宮なるもの狂人です、そのいうことこのようでしたと菅谷に告げた。菅谷は使者の話にますます感動し「今の世に君臣ともに道を失っていると公然と教え諭す者がいようか。実に英傑である。この人に道を問わなければ問う人はいない」と言った。菅谷の日記によると9月22日江戸に出る途中桜町に立ち寄るとある。桜町陣屋の日記には「9月23日烏山天性寺まかりこし候事。菅谷氏同道」とあり、円応和尚の案内で面会したのである。菅谷の日記には「実に未曾有の致し方、この人に任さば当年の飢饉救いとげることができよう」と書いてあり、菅谷はすぐに江戸に出て、藩の会議にあげた上で、烏山候に申し上げた。「今年は非常の凶作で、領中の飢渇は旦夕に迫っています。私たちは百方手を尽くしましたが、良い方法がみつかりません。平年ですら公用に不足し、借金して補っているところです。今大飢饉で金融の道も絶えていかんともしがたいこととなりました。しかるに幸いなことに桜町に二宮という者がいて、先年大久保忠真候の命により復興にあたり、10年でその功業が歴然として、しかもこの飢饉が来ることを前もって知り、備蓄を充分に行い、3か村の民政は平年よりも豊かであります。先日人をして調査させましたが、二宮の言論は実に驚くべきものでした。」と報告した。烏山候も感嘆し、10月4日御前会議が開かれ、その席で菅谷は「烏山、厚木の不作について応急処理が必要で急を要している。その方法として二宮金次郎に仕法を依頼されるのが最上の策であり、この方法によれば当年の飢饉の道が完備するであろう」と強調した。そこで先生を烏山に借り受けようと小田原候に依頼したのである。小田原候からは、「金次郎の事、貸すことはできないが、相対で依頼することはかまわない」という返事であった。そこで御直書で依頼するということが決定し、10月29日に江戸を出発、11月2日桜町について、直々に仕法を依頼したのであった。尊徳先生は「烏山領のことはわが関与すべきところではない。その根元は君臣ともに道を失ったためである。そしてそのような例は今数えることができないほどである。しかし、君臣ともその非を知って救済の道を我に求めてきた。今、我が一言に烏山領民の存亡がかかっている。ことに烏山候は小田原候の一族である。すでに主君大久保忠真候もご承知のことであり、一応治乱盛衰の根元、禍福吉凶存亡の由来復興安民の大道を述べよう」と菅谷に詳細に語られた。「過去10年の収入を平均し、一年なにほどと定めて、その分度内で暮らし、年々の増収分で元金を返済すればよい。ただ凶作で住民が飢渇に迫られており、分度の確立は後にして、まず救済を実行しなければらない。最初に根本仕法を決定し、仕法実施の覚悟が確立するならば即座に救助米を差し出そう。」菅谷は大いに喜んで「主人に代わって領分を預かる身である。その責任上今日数千人の命を救えるならたとえ明日いかなる災難が来ようとも少しも厭わない。もとより死を決している。」と答えた。そして早速救助の用意にとりかかった。天性寺境内に小屋12棟を建築し、炊き出しの道具を揃え、それぞれ役を決めた。こうして、天明の大飢饉における尊徳先生の数万人にも及ぶ人命救助が桜町を越えて開始されたのである。これ実に尊徳先生が神として祀られ、各地に二宮神社が創建されたゆえんである。尊徳先生はこう言われた。「私は、不幸にして、14歳の時に父に別れ、16歳の折、母に別れた。所有の田地(でんち)は洪水のために残らず流出した。幼年の困窮艱難は実に心魂に徹し、骨髄にしみ、今日(こんにち)もなお忘れることができない。なにとぞして世を救い、国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたいと思って勤め励んできた。はからずも天保の両度の飢饉に遭遇した。ここにおいて心魂を砕いて、身体を粉にして、ひろくこの飢饉を救おうと勤めたのだった。 」(夜話巻の5[13])報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ 菅谷某を始め的然たる明教(めいけう)を感じ、彌々(いよいよ)上下同心協力此の道を行はんとす。唯(たゞ)先生之を指揮せよと請(こ)ふ。先生止む事を得ず、烏山分度の基礎を定めんとして曰く、然らば先づ天分(てんぶん)の基本を明(あきらか)にすべし。 語に曰く、故(ふるき)を温(たづねて)新きを知ると云へり。烏山領中の租税、豊凶十年を調べ、之を平均し、其の天命のある處(ところ)を察し、向後(かうご)の分度を定むべし。各(かく)古帳簿(こちやうぶ)を持ち來りて速に調(しら)ぶべし。我亦其の至當(しとう)を示さん と云ふ。大夫(たいふ)以下大いに悦び、直(たゞち)に烏山に歸り、再び櫻町に至る。先生烏山の有司(ゆうし)數十人を陣屋に居らしめ、飲食衣服に至るまで心を盡(つく)し之を給し、數月(すうげつ)にして豊凶十年の調べ成る。而して衰時天命のある處(ところ)、自然の分度を確立して曰く、向後(かうご)君臣共に之を守らば、必ず廢衰(はいすゐ)再復せん事(こと)疑なし。凡(およ)そ世の盛衰存亡興廢一として此(これ)より生ぜざるはなし。早く烏山に歸り、群臣と共に之を決せよ と教ふ。大夫以下烏山に至り之を評議し、數日(すうじつ)にして一決す。是に於て再三先生に興復の道を請ふ。先生再び米財を出し、烏山領邑の廢地を興さしむ。下民飢渇を免れ、大いに感激して開墾に力を盡し、一兩年にして舊來(きうらい)の廢地を開く事二百二十四町(ちやう)、出粟(しゅつぞく)二千苞(へう)に及べり。先生曰く、烏山何萬(まん)の廢田、幾萬の借債ありと雖も、分外の産粟(さんぞく)年々二千を得ば舊復(きうふく)の道難きにあらず。唯上下其の分度を守るの有無に由れり と、人々先生の仁心大智(だいち)を驚歎せざるはなし。
2025.02.28
初優勝なでしこJに敗れた米国監督は完全脱帽「世界最高と言っていいだろう」サッカー女子の国際大会「シービリーブス杯」の最終戦が26日(日本時間27日)に米カリフォルニア州サンディエゴで行われ、女子日本代表(なでしこジャパン)は米国を2-1で破り、初優勝を飾った。試合中継した放送局「TBS」の試合後番組に登場した米国代表のエマ・ヘイズ監督はなでしこについて問われると、「私は日本代表をU-20の世代から見てきた。彼女たちの相手にプレッシャーを与える能力は世界最高だと言っていいだろう」と最大級の称賛。「チームが一つになってプレーしているからできること」と敬意の言葉を続けた。 試合内容についても「プレッシャーをかけるにしろ、サイドでの守備で全体がローテーションするにしろ、全てにおいて全員がやるべきことを理解している。この試合ではずっと、彼女たちは私たちよりもレベルが上だった」と脱帽し、最敬礼した。 開始わずか93秒で動いた試合。長谷川唯のスルーパスから籾木結花が決めて先制すると、1-1の後半5分には途中出場の19歳DF古賀塔子が押し込んで勝ち越した。終盤は米国の猛攻をしのいでタイムアップ。90分間では2012年アルガルベカップ以来13年ぶりとなる米国撃破となった。
2025.02.27
八丁みそなど豆みそで病気の抑制効果が|がんに克つ食事農学博士・大澤俊彦さん 愛知県大府市にある国立長寿医療研究センターとの共同研究で、「豆みそを多く食べる人」「(DHAが多い)魚を多く食べる人」「豆みそと魚を両方多く食べる人」「どちらも食べない人」で比較実験を行いました。すると、「豆みそと魚を両方多く食べた人」だけに、記憶力の改善が見られました。脳機能に重要な作用を持つ魚のDHAは酸化しやすいという欠点がありましたが、これを豆みそが防いだというわけです。昔ながらの豆みその麹菌が、人類の救世主になる日が近い将来、来るかもしれません。八丁味噌の4つの健康効果とは?① 動脈硬化を予防八丁味噌は他の味噌と違い作る工程で熟成期間が2年と長いです。熟成期間が長いと「メラノイジン」という褐色の色素が多くなってきます。メラノイジンは味噌だけでなく、醤油やコーヒー、プルーンなどのフルーツにも含まれます。メイラード反応によってできますが、これが体の中で起こると糖とたんぱく質で老化物質のAGEができてしまうので良くないです。しかし体内に入る前に食材などにメイラード反応が起こった場合は体にとってプラスに働く場合が多いです。味噌にメイラード反応で生じるメラノイジンは、抗酸化作用があるので(活性酸素を除去して)酸化を防ぎ、コレステロールを下げてくれるので動脈硬化の予防が期待されるだけでなく、遺伝子のダメージを防いでアンチエイジングや抗がん作用にもプラスに働くとされています。また大豆に含まれるイソフラボンやサポニン、食物繊維やたんぱく質などのコレステロールを抑える作用を持つ成分が豊富なのも相乗効果でいいのかもしれません。② 育毛効果男性のみならず女性でも薄毛に悩む人は多いかもしれません。八丁味噌には「IGF-1」を増やす働きがあります。IGF-1とはインスリン用成長因子( Insulin-like growth factors)と言ってインスリンととても良く似た構造の増殖因子で、細胞の成長をコントロールします。このIGF-1には育毛効果があると言われており、特に男性型脱毛症(AGA)で萎縮した毛母細胞がIGF-1により刺激され髪の毛が抜ける休止期を短くすると言われています。③ 便秘解消八丁味噌は発酵食品で他の味噌より発酵期間が長いです。発酵食品には腸内の善玉菌を増やす働きがあります。善玉菌が増えることで腸内環境が整えられ便通が自然になるようにします。八丁味噌で便通が良くなってくると腸内に溜まっていた便(宿便など)がなくなるので老廃物がなくなり、肌ツヤにも効果が出来てくるのがいいですね。④ 肥満防止肥満を防止するという事は生活習慣病の予防に繋がるというわけです。なぜかというと、先程書いた「メラノイジン」が関係してきます。抗酸化作用があるので血液の流れを良くしてくれ、脂肪が燃焼しにくくなるのを抑えてくれます。このおかげにダイエットしている人は痩せやすい体質となってくるのです。💛ここ数年、お昼の弁当に「八丁味噌」をひとつまみほど持参し、胡瓜半分ほどを切ったのにつけて食べている。 ひょっとしてひょっとすると年齢の割に、白髪が少なく抜け毛が少ない(はげを何とか免れている?)のは、八丁味噌の育毛効果だったりして(^^)
2025.02.27
粉豆腐で検証お味噌汁の中に具材とオートミール40g、そして粉豆腐大さじ3杯を入れレンチン3分出来上がり😅もし粉豆腐に血糖値抑制力がなければ、このメニューだと血糖値180超える自信あります...💦✨食前値✨101✨30分値✨133✨60分値✨128✨90分値✨110✨120分値✨105✨150分値✨101粉豆腐に含まれるレジスタントプロテインの血糖値抑制力は期待以上でした💛粉豆腐を利用して、現在3袋目。朝は粉豆腐を牛乳に入れて、まぜてレンジで1分ほど温めて飲む夜はトマトジュースに粉豆腐を入れてまぜて温めて飲む味噌汁にも粉豆腐を入れてまぜて飲む一昨年12月の心臓手術後、半年ごとに血液検査している。7月の検査結果に期待して「粉豆腐」で血糖値等の改善を期待(^^)
2025.02.27
【DeNA】2年ぶり古巣復帰バウアー丸刈りで来日!球団発表 開幕へ「プラン組んでます」三浦監督2/27(木) バウアー「ベイスターズファンの皆さんへ。横浜の町に帰ってくることができ、喜びに満ちあふれています。皆さんの熱い応援を恋しく感じていました。横浜でお会いできることを楽しみにしています。チームの優勝に貢献できるように頑張りますので、応援の程よろしくお願いします!横浜奪首!」三浦大輔監督「プランは組んでますよ。本人とも組んでます。ただ本人の体調もありますし、時差ぼけもどうか分からない。コンディションを確認して問題がなければ、予定していたオープン戦に登板して段階を経て(開幕)です」
2025.02.27
FIFA女子ランク1位を衝撃のハイプレスで機能停止させたなでしこジャパン。長谷川唯と籾木結花の好連係も光ったアメリカ戦で躍動感溢れるパフォーマンス【コラム】2025年2月27日(現地時間)に開催されたSheBelieves Cupでなでしこジャパンがアメリカ代表と対戦。引き分け以上で初優勝となる一戦でなでしこジャパンは2-1と逃げ切り、FIFA女子ランク1位で同大会5連覇中のアメリカを13年ぶり(2012年のアルガルベカップ以来)に破った。衝撃だったのは開始直後のハイプレス。アメリカの出鼻を挫き、彼女たちを機能停止させた意味でとても効果的で、そのおかげでいきなり先制点を決めることができた。2分、長谷川唯のスルーパスに反応した籾木結花が身体を巧みに反転させて左足で蹴り込むわけだが、このチャンスを作れたのもハイプレスがあったからこそだ。貴重なゴールを奪った籾木は、その後も長谷川との好連係でアメリカの守備陣に冷や汗をかかせた。このふたりを軸に相手のサイドバックとセンターバックの間のスペースを狙う攻撃がハマるシーンも複数あり、それによってなでしこジャパンは躍動感溢れるパフォーマンスを披露しているように映った。1-1に追いつかれてからアメリカに主導権を握られる時間帯もあったが、35分過ぎからペースを取り戻したなでしこジャパンは50分に長谷川のFKから最後は古賀塔子が詰めたゴールで再び勝ち越した。明らかにディフェンシブだったパリ五輪・アメリカ戦とは違って、今回はどちらかと言えばオフェンシブに振る舞う。アメリカのパワーに技術で対抗する彼女たちの姿は頼もしかった。なかでも、丁寧にパスを繋ぎつつ、敵最終ラインの間または裏のスペースを突く攻撃が印象的で、それはニルス・ニールセン体制下の”カラー”になる可能性はある。アメリカ戦の分岐点を挙げるなら、相手の勢いを丸呑みしたハイプレスだろう。そのタイミングで先制点をマークできたのも大きかった。ただ、この勝利によってアメリカの闘志に火を付けたのもまた事実。今後、国際舞台でこの強国と戦う際はより警戒が必要だろう。Japan 𝐚𝐠𝐚𝐢𝐧 are ahead of the USWNT熊谷紗希「やっと勝てた、対アメリカというところもあって。自分たちのサッカーを勇敢に、ずっと監督がチャレンジする、恐れずに戦うということを言われていたことをアメリカ相手に出せた。切り替え、前からのプレスでアメリカの良さを消して得点できて良かった。ここで初めて新監督で戦ってタイトルを取れたけど、まだまだだと思います。優勝をいい自信にして、世界で戦えるなでしこになれるよう、いいチームにしたい」
2025.02.27
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 5 勤労の歌 (78頁)田をふかくよく耕してやしなへば いのらずとても米やみのらん 百姓は、その本務が農地の耕作、作物の栽培であるから、土壌の底まで深く耕して、客土や堆肥を与え、換気して養えば、お米や麦の実りは多くなるという教えです。 この歌の題として「中庸」にある「誠は天の道、これを誠にするは人の道。誠を勉めずして中(あた)り、思わずして得」という名句が添えられている。 自然は四季を通じて百物を生育する。人はこの自然の運行を学んで深く耕す、つまり、生まれた天分と環境の天分にしたがって勤務に精励することであると教えているのです。 これは勤労の歌としているが、その本務に尽すことが人の道、誠の道として歌って教えているのです。
2025.02.27
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)69-72頁目的に重心をおくか、 今の一歩を大切にするかかつて、中国の農業博士と呼ばれる方のお話を聞いたことがある。「収穫を問わず、ただ耕運を問う」の一句で結ばれたことが、心に残っています。 耕し、肥料を施し、種子をまき、朝夕に心を運びながら育ててゆく上には、よりよい実りを目指さないわけではない。 しかしどんなに努力の限りを尽くしても、冷夏とか大雨とか台風とかいう不可抗力の天災に遭えば、言い換えるならば天地いっぱいの協力を得なければ、米一粒も収穫することはできないのである。 実りへの一歩一歩に最善の努力を払い、あとは神仏の思し召しにまかす、そういう姿勢と、多収穫のみを目指し、しゃにむに働くというのは、やっていることは同じようであるけれども、取り組む姿勢が全く違う。 この秋は雨か嵐かしらねども 今日のつとめに田草とるなり 田の草取りの季節になると、師匠が自分の心に言い聞かすように語ってくれたこの古歌の心も同じであろう。ヘルマン・ヘッセ「旅の秘術」あてどないさすらいは、青春の喜びだ。青春とともに、その喜びも色あせた。それ以来、目あてと意志とを自覚すると、私はその場を去った。ただ目的だけをせわしく求める目には、さすらいの甘さはついに味わわれない。森も流れも、あらゆる途上で待っている一切の壮観も、閉ざされたままだ。これからはさらに旅を味得しなければならない、瞬間のけがれない輝きが、憧れの星の前でも薄れることのないように。旅の秘術は、世界の輪舞の中に加わってともに動き、憩うている時にも、愛する遠いかなたへ向かって、途上にあることだ。旅の秘術は旅の途上を味わうところにあり、目的だけをせわしなく求める目には、森も流れも、瞬間のけがれない星の輝きも見失ってしまうであろう、というヘッセの詩をあらためて味わい、「人生の生き方もこれだな」と気づいたことであった。
2025.02.27
「沢木興道 この古心の人」よりp.88-91竜雲寺の坊主は朝寝はするし鉄眼、鉄眼とこきつかった。その鉄眼は、朝は一人で早朝起きて坐禅し、朝課のお経をよんだ。なまくら坊主たちはそれが目障りで難癖をつけて追い払った明治29年11月、永平寺に舞い戻った鉄眼は福井県丸岡町の長昌庵に身を寄せた。この庵の留守居の坊さんは生臭坊主で得体のしれない女を引き入れ、酒をのんで、鉄眼をさんざん嘲り罵った。鉄眼はついに坊主を部屋から引きずり出し、雪の中に投げつけ、さんざん殴って、寺を飛び出した。またも永平寺に立ち戻って男衆として雑役に服した。鉄眼は、九州天草出身の山本興雲に坊さんになりたいという思いを語った。興雲は天草に行ったらどうだと言った。「おれの師匠は沢田興法といって、天草の宗心寺の住職だ。偉い和尚で最近(明治28年)曹洞宗の管長となった森田悟由さま*とは、おいこらの仲間じゃ。おれが頼めば必ず正式の坊主にしてくださる。天草にいけ。永平寺で男衆を勤めて、ぐずぐずしても、なんにもなら」鉄眼は明治29年正月天草へ向かった。*森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日(1834年2月9日) - 大正4年(1915年)2月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。永平寺64世貫首。曹洞宗5代管長(性海慈舩禅師)。号は大休。天保5年(1834年)、尾張国知多郡大谷村(現、常滑市)の森田家の次男に生まれる。天保11年(1840年)、名古屋の大光院で出家。嘉永4年(1851年)に、師僧に従って武蔵国大泉寺に移動、吉祥寺旃檀林に通う。安政3年(1856年)から諸嶽奕堂に師事し、翌年に奕堂と共に天徳院に移動する。万延元年(1860年)に陽仙院の兄弟子天瑞白龍の後を継ぎ、龍徳寺の住職になる。明治3年(1870年)に奕堂が總持寺貫首になったのに従って總持寺に入り、明治8年(1875年)、天徳院住職となる。明治11年(1878年)に永平寺単頭・總持寺西堂となり、明治25年(1892年)に貫首、明治27年(1894年)に管長になる。
2025.02.27
span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む 報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ その2[報徳記&二宮翁夜話]199「補注報徳記」(佐々井典比古)にこうある。「天保7年11月から翌8年5月までに、烏山に送られた救急米は、米1,243俵、ひえ234俵、種もみ171俵余、代金として2,389両余であり、その半額は藩から支払ったが、残りは仕法金として借用された。 天性寺の御救小屋(おすくいごや)に収容された人員は、少ない日で7,8百人、多いときは千余人、ある日の記録には879人とある。 領内の人口は、10,031人であったから、収容人員はその一割弱に当る。別に、老齢者と、孤独で住居を離れられぬ者に対しても、それぞれ給与され、領内1名の餓死または流亡者を出さなかった。 天保7年度の租税未納分は、先生の勧告により、切り捨てられた。 炊き出しと並行して、開発が行われた。 資金300両、反別24町歩の予定で、善行精農者を農民中から投票によって選ばせ、一番札に3反歩分、二番札に2反歩分、三番札に1反歩分ずつの開発料を5ヶ年賦として貸し付けた。その人員は合計150名となり、当選者以外の者もこの開墾事業の労賃によって潤った。 その烏山の藩士は桜町陣屋に住み込んで天分の調査を行った。 過去10年間の平均は、烏山領分で、米9,330俵余、金316両余で、厚木領と合せると、米11,817俵余、金1,959両余となった。先生はこれに基づいて分度を確立し、開発雛形によって10年間に総計1,199町歩の荒地を開発する案を示された。 藩議は一決し、領主の直書と、重役の連印状によって正式に仕法が依頼されたのは6月20日のことであった。☆烏山藩の藩主、家老、小役人に至るまで連印した依頼書をもって先生に復興を依頼した。先生はこうおっしゃった。「民の露命が夕べにもなくなりそうだった。 私が救助しなければ、数千人の民が罪もなく死ぬところであった。 そこで君臣のたび重なる要望にまかせて救助したのだ。 国家再興の道をどうして私が知るところであろうか」と固辞された。 烏山の君臣は再三要望してやまなかった。先生はこうおっしゃった。「それ国を興すことは誠に大業である。天命に安んじ、衰貧の時にしたがって、天理自然の分度を守り、『中庸』にある通り『艱難に素して艱難に行い』、民の安心して後にともに安心し、また一人の民であっても困苦を免れていない時は、君臣ともに一藩がみんな安心の思いをしない。民の憂いに先立って憂い、民の楽しみに後れて楽しみ、民を恵むこてゃわが子を育てるようにならなければ、どうして衰えた国を興すことができよう。あなたがたの求めるところはそうではない。君主の必要な費用が足らず、一藩の給与の10分の3も受けることができず、その不足を補うため、借金をして、年々その利息が積みあがり、どうにもできなくなった。そこで領民に金を出させてこれを補おうとし、まだ足らない。今年に来年分の税金を納めさせている。下の艱難はすでに極まって、ついに飢饉となって飢え死にしそうになったのでないか。このようにして歳月を送れば、国が亡ばなければ止むことがない。天地の間に大小それぞれに応じて分度がある。その分に応じて、支出を制限するならばどうして不足が生じようか。もし分限を破って、いたずらに財産を費やして不足のみ憂えるときは百万石をあってもどうして用が足ろう。それ3万石というのは何の名か。穀物が3万石出せる土地ということではないか。3万石の穀物の中にいて、米や金がないのを憂、民の飢渇を憂う時は、天下に足るものなどあろうか。報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ是(ここ)に於て領中興復の道を依頼せんとし、候(こう)の直書(ぢきしょ)且(かつ)大夫(たいふ)以下小吏(せうり)に至る迄連印の依頼書を以て再び先生に請ふ。先生曰く、下民(かみん)の露命旦夕(たんせき)に迫れり。我(われ)救荒の施(ほどこ)さずんば、數千人の民(たみ)罪なくして死亡に陥(おちい)らん。之を見るに忍びず。君臣の懇望(こんもう)に任せ、之を救助せり。國家再興の道、豈(あに)我が知る所ならんや と、固辭して受けず。烏山の君臣再三請ひて止ず。先生曰く、夫れ國を興さんとする事誠に大業なり。天命に安(やす)んじ、衰貧の時に隨ひ、天理自然の分度(ぶんど)を守り、其の艱難に素(そ)して艱難に行ひ、下民(かみん)の安堵(あんど)を見て然る後共に安堵し、未だ一民と雖も困苦を免れざる時は、人民以下一藩皆以て安堵の思を爲さず。民の憂に先立ちて憂ひ、民の樂に後(おく)れて樂み、民を惠(めぐ)む事、子を育するが如くならざれば、何を以て衰國を興(おこす)ことを得ん。各(おのおの)の求むる所は左(さ)に非ず。君の用度足らず一藩の恩禄其の十が三をも米粟(べいぞく)を受くる事を得ず。此の不足を補はんとして他の財を借り、年々君の増借(ぞうしやく)利倍(りばい)幾萬金となり、如何(いかん)ともすべからざるに至り、領民に上金せしめて之を補はんとし、猶足らず。今年に來歳(らいさい)の貢税を命じて出(だ)さしむ。下の艱難既に極り、遂に凶歳となりて飢亡に瀕(ひん)せるに非ずや。是(こ)の如くにして歳月を送らば、國(くに)の亡ぶるに至らざれば止まず。天地間大小各(かく)其の分限あり。其の分に應(おう)じ、其の用度を制せんに何の不足といふ事あらんや。若し分限を破り、徒(いたづら)に財寶(ざいほう)を費し、不足而己(のみ)を憂ふる時は百萬石を得るとも何ぞ足る事あらん。五石十石のものだも一家を保ち、永く此の世に立てり。然るに烏山三萬石の米粟(べいぞく)の中に居て米金(べいきん)なきを憂ひ、下民の飢渇を憂ふる時は、天下何ものか足るものあらん。譬(たとへ)ば米飯の中に坐して飢(うゑ)を呼び歎くが如し。豈(あに)坐する所悉く食物なることを知らんや。今三萬石の中に居(を)り、米金(べいきん)なきことを憂ふ。何を以て之に異ならん。唯(ただ)用財節(きまり)なく、國(くに)の分度を知らざるが故なり。其の本原(ほんげん)を明(あきらか)にし、當時(たうじ)の命に安んじ、國家(こくか)再盛の時至るまでは此の艱難を常とするの覺悟(かくご)あらざれば國(くに)の衰癈を擧(あ)ぐることあたはず。其の本立たずして徒(いたづら)に我をして其の不足を補はしめんとならば、我何を以て之に應(おう)ずることを得んや。何となれば、舊來(きうらい)の負債我之を倒(たふ)すことあたはず。他領の貢税を取りて、烏山の不足を補ふことあたはず。今各(おのおの)の求る所、一として我之を能(よく)せず。我が道を以て興復せんとならば、別に道あるにあらず。此の地の廢亡(はいぼう)を擧(あ)げたる道を移さん而己。此の道他(た)なし、唯(たゞ)烏山は烏山の分を守り、艱難の地に安んじ、國民を惠み、其の廢亡を興さん而己(のみ)。然して各(おのおの)の欲する處(ところ)に異なれば、假令(たとひ)我が方法を授けたりとも安(いづく)んぞ其の成功を遂(とぐ)ることを得ん。之を止(や)むるには如ざるなりと云ふ。
2025.02.27
プーチン大統領、核技術保護のため自国民「118人」を見捨てた?…核潜水艦沈没を「隠蔽」ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が2000年8月に起きた核潜水艦「K-141クルスク号」沈没直後、核技術の流出を懸念して西側の救助支援を拒否し、その結果、乗組員118人が迅速に救助されず全員死亡したとの主張が提起された。24日(現地時間)、イギリスの「ザ・タイムズ」によると、この主張は制作会社「ヒドンライト」が手掛けたドキュメンタリー『クルスク:プーチンを生んだ10日間』に登場するビル・クリントン元米大統領のインタビューで明らかになった。ロシア北方艦隊に所属する核潜水艦クルスク号は2000年8月12日、ノルウェー沖バレンツ海で訓練中に魚雷が連鎖爆発し沈没。この事故で乗組員118人が全員が死亡した。当時のアメリカ大統領だったクリントン氏がこの事故について言及したのは今回が初めてだ。クリントン氏はドキュメンタリーで「プーチン氏は我々が事故現場に行けば、彼らの技術を把握することを知っていた」と語った。これはプーチン大統領が核機密を守るために乗組員118人の命を犠牲にした可能性を示唆するものだと「ザ・タイムズ」は説明している。クリントン氏によると、アメリカは事故当日の12日、米海軍の潜水艦がモニタリング中にクルスク号から2回の爆発音を聞いたとの報告を受け、その後24時間以内に支援を提供することを決定した。しかし、ロシアは独自の救助を主張し、支援を拒否。事故に関する公式発表すら行わなかった。ロシアは旧ソ連時代から大規模な人命被害を伴う事故が発生した際、具体的な状況を公表せず、事故自体を否定したり被害を過小評価したりして隠蔽する傾向があった。クリントン氏は「私は長年にわたりボリス・エリツィン(元ロシア大統領)と慎重に築いた関係を考慮し、当時のプーチン大統領も私がアメリカとロシア、北大西洋条約機構(NATO)が新しい世界秩序の中で同盟関係になることを望んでいると理解していたはずだ」と述べ、「可能であれば乗組員の命を救う手助けをしたかった」と語った。結局、クリントン氏は返答のないプーチン大統領に電話をかけた。この時、プーチン大統領はクリントン氏に対し「我々の関係者たちに、この支援提供を活用するよう指示する」と述べたという。しかし、プーチン大統領が国際社会の救助支援を受け入れたのは事故発生から3日後だった。しかしその後もロシア海軍はノルウェーのダイバーらにアマチュアが手描きした脱出口のスケッチしか提供せず、イギリス海軍の救助支援も阻止した。その年8月20日、ノルウェーの救助隊が脱出口を開けた時には乗組員は全員死亡していた。クリントン氏はプーチン大統領がクルスク号沈没事件を通じて「世論を統制しなければならない」という「誤った認識」を持つようになったと主張した。乗組員全員の死亡に対する遺族の説明要求や怒りの世論を受け入れず、むしろ弾圧することで権威主義的な統治を選択したというのだ。クリントン氏は「プーチン大統領にはより開放的で、つながりのある世界へロシアを導く大きな潜在力があると思っていた。しかし彼はそうしなかった」と述べた。プーチン大統領は1999年12月31日、ボリス・エリツィン元大統領の辞任に伴い、大統領代行としてロシアの指導者となった。翌2000年に大統領に当選し、今年5期目の当選を果たし、首相時代(2008~2012年)を含め、2030年までロシアの実権を握ることとなった。
2025.02.26

『べらぼう』<ここにいない仲間の意見>という論法をどこまでも繰り出す鶴屋にキレた駿河屋蔦重は「倍売れる細見」を実現させたことで地本問屋への仲間入りを約束されていましたが、地本問屋のリーダー格・鶴屋(風間俊介さん)がその話を反故にしようと画策。吉原にやってきた地本問屋の一同は、女郎屋の主人たち”忘八”の面々を前に、鱗形屋を支えたいので、蔦重を仲間に入れられないと主張。鶴屋「女と博奕は麹町の井戸、はまれば、底が知れぬと聞きますので」と酒を辞退。そして地本問屋の面々をその場から一旦退却させると、鶴屋は<今日ここにいない仲間の意見>を持ち出します。鶴屋「吉原もんを市中に加えるのかと仰る方々が少なからずおられます」蔦重「何ですかそれは?」鶴屋「吉原もんは卑しい外道。市中に関わってほしくないと願う方々がいるということです」大文字屋「何抜かしてやがる!? てめえらののさばってる日本橋は、元は吉原があったところじゃねえか!?」鶴屋「私もそう言ったんですが、こんないかがわしい者、江戸には要らぬと市中を追い出されたんじゃないかと」大黒屋のりつりつ「こちとら、天下御免ですけどねえ」鶴屋「ええ、そういったんですが、お上が僻地へと追いやった者に、市中の土を踏ませては、お上に逆らうことになると」扇屋「そういう方々は、女もお買いにならないんでしょうか?」鶴屋「さあ。どうでしょうか? 私はそこまでは」蔦重「確かに俺たちは忘八だ。分かってもらうために、話し合って親しみを持ってもらうしかねえんですよ。お願いします」鶴屋「私もそうしてみませんかと申し上げてみたんですが、皆様、吉原の方々とは同じ座敷にもいたくないってな具合で」駿河屋は笑い出し、立ち上がって鶴屋に近づき、駿河屋は鶴屋に笑いかけ、鶴屋も笑顔を返すが、駿河屋は鶴屋に掴みかかる。駿河屋「グダグダ理屈並べやがって」鶴屋を階段の下へ転がり落とす。駿河屋「わりいけど、俺だってあんたらと同じ座敷にいたかねえんだわ!」大文字屋「出入り禁止な、あんたら」大文字屋「黙って大門くぐりゃいいなんて、考えんなよ!!」扇屋「そうですよー、二度と出て行けなくなりますからね」松葉屋<地本問屋の連中が今後吉原の本を作れない旨>りつ<今後は蔦重しか細見を出せない旨>駿河屋「覚悟しろや、この赤子面!」トレードマークの眼鏡をかけておらず、誰かわからないと話題の・松葉屋(正名僕蔵)の、無言で薄ら笑いが怖いと話題に。ネット「松葉屋さん(正名僕蔵さん)は座って静かに笑ってて1番キレてるやつで笑った」「薄ら笑いの正名僕蔵殿、破壊力1000000点」「親父様も怖いが、薄ら笑い浮かべる松葉屋の旦那がもっと怖えーよ!」「とくに松葉屋(正名僕蔵さん)の表情が最高で笑ってしまった」「個人的には、正名僕蔵さんがめっっっさ怖かったです」「絶妙な表情、さすが!」「メガネがない正名僕蔵さんと野間口徹さんは、なんというか、凄味が増しますよね」「正名僕蔵の鋭い目付きに痺れた」「口の両端をつり上げて薄ら笑いを浮かべてた松葉屋」*マックの女子高生構文SNSなどで「マックで近くに座っていた女子高生が話していたんだけど…」というような語り口で始まる作り話 「マック女子高生メソッド」とも呼ばれる。マクドナルドで食事をしていたら、たまたま聞こえてきた女子高生の話が面白かった、感銘を受けた、的を射ていた、といった体で始まる話の類を指す。 たいてい作り話でそんな女子高生などおらず、発信者の言いたいことを架空の女子高生に話さだけ。
2025.02.26
鎌倉時代中期の幹線道路か 建設現場で700年前の側溝木枠見つかる2/26(水) 鎌倉時代中期の主要路とみられる石敷きの遺構と木組みの側溝がこのほど、神奈川県鎌倉市雪ノ下の建築現場で発見された。道路脇に掘られた側溝は700年以上前の木枠がそのまま残されており、専門家は「ここまで良好な状態で出土するのは珍しい」と話し、当時の街並みの解明などにつながりそうだ。同市川喜多映画記念館に面する集合住宅の建設現場で昨年12月から発掘作業が行われた。平安時代後期に整備された窟屋(いわや)小路の一部とその小路と直交する南北路の跡が今年1月に発見された。
2025.02.26

掛川のアマチュア天文家発見の「西村彗星」、430年前に観測か 戦国期古文書に記録 公転周期確定へ情報求む2/26(水)掛川市のアマチュア天文家西村栄男さん(75)が2023年に発見した彗星(すいせい)「C/2023 P1(西村彗星)」が約430年前の戦国時代に観測されていた可能性があることが、西村さんが所属する「浜松スペースハンタークラブ」の古文書調査で分かった。西村さんらは公転周期を確定するため、米国とフランスの天文雑誌などを通じて世界中から古記録の情報を求めている。彗星の出現を記録した「熊谷家伝記」 西村彗星とみられる記述が登場するのは、長野県天龍村の熊谷家当主が代々、記録してきた「熊谷家伝記(くまがいかでんき)」。同クラブの小和田稔代表(72)=浜松市中央区=が「天正十九年閏正月掃星出る」の一節を発見した。天正19年は豊臣秀吉が小田原城を開城させた翌年の1591年。西村彗星は発見後の軌道計算で、周期約430年の周期彗星とみられている。熊谷家伝記に登場する彗星は1379~1741年の間に計11個。会員の金子静夫さん(69)=掛川市=がほかの天文古記録と照合した結果、西村彗星を除く10個は別の文献にも記載があった。金子さんは「熊谷家伝記の信ぴょう性は高い。彗星の出現をほかの史料でダブルチェックできれば周期彗星と確定できる」と話し、韓国や中国の仲間にも照会を重ねている。西村彗星が毎年11月下旬から12月中旬に観測される「うみへび座σ(シグマ)流星群」の母天体の可能性もあり、関係者のロマンをかき立てている。流星群は、彗星が軌道上に放出したちりが地球の大気にぶつかって発生する現象。中学生時代から流星観測に親しんできたという小和田代表は「若い頃に観測した流星群は西村彗星が残したちりかもしれない。奇遇だなという思い。日本人が発見した彗星が母天体の流星群はまだない」と感慨を深める。 西村さんはこれまで、新星31個、彗星3個、超新星1個を発見した。「次に西村彗星が近づくのは400年後だが、彗星が残したちりの流星群は毎年、見られる。ものすごくうれしいこと」と研究の進展に期待を込める。
2025.02.26
「沢木興道 この古心の人」よりp.87-87昭和37年NHK「宗教の時間」に沢木興道師の「正法眼蔵について」の講話の筆録がある。「私が17歳の時に、まだ永平寺へ入って男衆とも小僧ともわからん時分に施餓鬼、つまり越前葦原(あはら)の本荘という所の竜雲寺という寺で、施餓鬼もすんだ、盆もすんだ、鎮守さんの祭りもすんだ。そこで先ずみんな永平寺から来ておった雲水を連れて、納所(なっしょ)が何か慰労休暇に御馳走でも食わせに連れて行ったかも知れん。 私には新米坊主だから、「もうなんでもせんでええから、ゆっくり休め」と、こう言う。ゆっくり休め」と、こう言う。ゆっくり休めと言っても、身体のもっていき場所がないので、奥の座敷へ入って坐禅しておった。 坐禅しておった所が、飯焚きの婆さん、これは門前から手伝いに来ておるのじゃが、平や椀や壺を乾いた布巾で拭きあげて奥に仕舞うのに、「南無帰依仏、南無帰依法」たら言うて、そうして襖を開けたところが、私が坐禅していた。びっくり仰天して、仏さんより丁寧に私を拝んだ。・・・これは坐禅を一生涯すべきもんであると決定(けっじょう)したのが17の夏の盆過ぎである」
2025.02.26
「報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 5 勤労の歌 (76頁)天つ日の恵み積みおく無尽蔵 鍬で掘り出せ鎌で刈り取れ この歌には「無尽蔵 古語、井鑿以飲 田耕以食」と題があり、史記から引用されています。この意味は堯帝がある老人に「今の政治はどうか」と聞いたところ、「政治のことは知らない。自分は「井戸を掘って飲み、田を耕して食う」と天地の恵みの中で生活していると答えた。帝王も限りない天地自然の恵みを大変よろこんだということに由来する。 この歌は元々、天保5年(1834年)12月、発表された報徳訓「鍬鎌の辞」にある次の歌から3年後に改めて右のようにされたものです。天つ日の恵み積みおく米の蔵 鍬で掘り出せ鎌で刈り取れ*「鍬鎌の辞」それ鍬鎌は農をいとなむの重宝、民を救い国を安んずるの重器、一日もなくてはかなわず。そもそも古えを考うるに、我が朝、神代のむかし、豊葦原を安国と治めたまいしより、今日ただ今に至るまで、国を富し、家を斉(ととの)え、人命を養う、これより尊きはなし。よく力を尽くせば、天地の感応目前に顕われ、米麦雑穀湧出し、金銀財宝功徳を照らす。故に食うも、飲むも、着るも、安楽自在なり。然ればこの重器を用いる時、片時もゆるがせにすべからず。(この功徳によらずして)外に富貴を願うべからず。 天津日の 恵み積み置く無尽蔵 鍬でほり出せ 鎌でかりとれ◎「二宮尊徳とその風化」二宮翁の説く所は、貧富両全にある。すなわち貧者は貧者としてその位置に安んじ、その勤めを全うさせ、富者は富者としてその富を保って、貧者を保護させようとする。これが二宮翁の主義であって、いわゆる夫婦相和して子孫が栄え、貧富相和して財宝を生ずるというのが翁の理想とするところであった。(略)二宮翁は農民に教えて「この鍬すぐに楽の種」といい、また「天つ日の恵み積み置く無尽蔵、鍬で掘り出せ、鎌で刈り取れ」と説いた。さらに富者に対しては、「貧者及び人民より多く物を取るべからず、奪うは損害であり、恵むは幸福である。」との福音を伝えた。簡単に言えば、彼は貧者に羨望してはならない、羨望することは醜く、勤労することは高貴な業(わざ)であると教えた。また富者には奪わないで与えよ、掠め取らないで恵めよと説いた。翁の教えは実に貧富両階級の調和にあった。(略)
2025.02.26
ピカピカのヒスイ原石、万博迎賓館へ 糸魚川で磨き作業終え搬出万博の迎賓館に展示するヒスイの原石。産地の業者が搬出直前に最後の磨き作業をしていた=新潟県糸魚川市で2025年2月25日阪・関西万博(大阪・夢洲、来年4月13~10月13日)の本県催事について、県、糸魚川市、2025年日本国際博覧会協会の3者は17日、同市一ノ宮のフォッサマグナミュージアムで共同記者会見を開いて概要を発表。県の石「ヒスイ」原石展示の詳細などを明らかにした。 糸魚川産のヒスイ原石を、会期初日から最終日までの6カ月間にわたり会場内の「静けさの森」と迎賓館に展示する。 「静けさの森」での展示数は2個(4・8トンと2・1トン)。「『奇跡の石』を幻想的にイメージする演出」により、ヒスイのストーリーを伝える考え。ジオターゲティングを用いた体験型コンテンツ、照明やミストを用いた視覚的演出などで来場者がより楽しめる空間づくりを計画している。 会場内のEXPOメッセでは「食と暮らしの未来」をテーマとした催事(同6月9~14日)、ギャラリーWestでは本県特産品などの企画展示(同7月11~17日)を実施。特産品などの企画展示では、糸魚川真柏の展示などを予定している。 同万博では国内外から約2820万人の来場が想定されている。花角英世知事は「新潟県の魅力を、多くの人にアピールできる絶好の機会。県の持つさまざまな魅力を伝え、会期が終わった後には多くの方が新潟を訪れていただけるよう交流人口の拡大につなげていきたい」と意気込んだ。 米田徹市長は「糸魚川市民が誇りとするヒスイを万博で展示いただき、全世界に情報発信していただくという機会を頂いた。本当に喜ばしい限り。その情報発信のスタートとなる今日の記者会見を糸魚川で開催いただいたことを光栄に思う」と喜び、感謝の意を表した。 同協会の高科淳副事務総長は「各地を見ていると、地元と万博の関わりが見えてくると、その地がだんだん盛り上がってくる」と、今後の盛り上がりに期待した。
2025.02.26
佐々木朗希 大谷見守る“デビュー戦”で先頭打者被弾もファン拍手喝采の好投!3回途中1失点で存在感2/26(水) ドジャースの佐々木朗希投手(23)が、米アリゾナ州グレンデールでの全体キャンプ11日目となった25日(日本時間26日)、特別ルールで行われたホワイトソックスとの練習試合に登板した。ライブBP形式のもので、マイナーリーグ選手を含めたホワイトソックスの選手と対戦。ドジャースでの対外試合初登板となった。まさかの出だしとなった。先頭打者のティールは、23年ドラフト1巡目(全体14位)でレッドソックスに入団した有望株。そんな左の好打者・ティールに2球目直球を、いきなり右越えに被弾する船出となった。ただ、その後は落ち着いて打者を料理し、遊ゴロ、左飛、空振り三振で後続を断った。最後、4番への右打者には3球連続スプリットで空振り三振にしとめる佐々木らしい投球も見せた。 左翼ファウルゾーンでは、ブルペン投球を終えた大谷翔平投手も見守った一戦。加えて、山本由伸投手やロバーツ監督、ゴームズGM、フリードマン編成部長ら幹部も視察する注目度の高さだった。 1イニング目を10球で終え、迎えた2イニング目は打者3人を二ゴロ、二ゴロ、三ゴロと15球で3者凡退。被弾以降は完璧に封じてみせた。直球、スプリット中心にスライダーも織り交ぜ、2回を25球で1安打1失点だった。ロバーツ監督は試合前「2イニングを投げてもらう予定」と話していたが、佐々木は3イニング目も続投。四球、左中間二塁打、四球とリズムを崩し、この回13球で降板となったが、約100人のファンから大きな拍手が送られた。打者延べ10人に対して3回途中2安打1失点、2四球、1三振となり、デビュー戦はキラリ光るものを見せる一戦となった。 佐々木はここまでキャンプではブルペン調整を行い、19日(同20日)には初のライブBP(実戦形式の打撃練習)に登板。延べ9人の打者に対し安打性の打球は1本に抑え、2三振を奪った。注目右腕の“初登板”にファン200人、休養日だった大谷ら関係者100人が集結。最速95マイル(約153キロ)を計測し、最大の武器であるスプリットも切れ味抜群だった。23日(同24日)には、詳細なデータを集めるために室内で約30球を投じ、マーク・プライアー投手コーチは「彼の基準値を調べた」と説明。東京ドームで行われる3月19日の開幕2戦目、カブス戦の先発が“内定”している右腕については「好奇心旺盛でやる気に満ちあふれている。非常に社交的で、こうした関係性が好結果に結びつく」と評した。 また、21日(同22日)には自身のインスタグラムで結婚したことを発表し、練習後に結婚会見。相手については詳細を伏せたが、「優しい方。一緒にいて落ち着くというか、自分らしくいられるなと思いました」とのろけながら明かしていた。 ▼本塁打したホワイトソックスのカイル・ティール「インサイドの速球だった。彼は本当に才能がある。本当に良い投球をする。(2打席目では)彼はスプリットを投げた。スプリットを見た。本当に良かった」
2025.02.26

【柔道】丸山城志郎「日本刀のような切れ味」内股の磨き方伝授「返されれば返されるほどうまく」2/25(火) 柔道男子66キロ級の世界選手権2連覇王者、丸山城志郎(31=ミキハウス)が25日、大阪府内で引退会見を行った。内股へのこだわりが詰まった柔道人生だった。世界一と称され、自身の代名詞とされた内股について「数年前に(天理大監督の)穴井(隆将)先生からおっしゃってもらった、日本刀のような切れ味。相手を真上にはね上げて、真下にたたき落とす。こういう投げ方をする選手はなかなかいないので、そういうところは好きです」と表現した。 自身最高の内股には19年にドイツ・デュッセルドルフで行われたグランドスラム(GS)3回戦で韓国人選手相手に決めたものを挙げ「あれは自分の中ではきれいやなと思った」と振り返った。 世界で最も美しい、とまで言われた内股は、たゆまぬ努力と徹底したこだわりによって作り上げられた。 「とにかく投げ込みをひたすらやっていた。人を投げる感覚、きれいに投げる感覚は、乱取りでは身に付けられない。投げ込みで自分が納得のいく形で投げることをひたすらやっていた」 全体練習後、主に3人の後輩を相手に、それぞれ毎日15本ずつ投げて感覚を磨いていった。技へのこだわりは、誰にも負けないものがあった。 学生時代には毎日100回以上の内股を仕掛け、その反応を見ながら微修正を繰り返した。成功から学ぶのではなく、失敗から課題を見つけるのが丸山流。「相手を投げられた時は、自分の悪いところが見つからないし、見つけようともしない。返されれば返されるほど、技はうまくなる。悪いところをより自分で深掘していくことができる」と貪欲に取り組んだ。 そこまで技にこだわったからこそ、若い選手に物足りなさを感じるところがあるという。「すごい技を持ってるなっていう選手を見ない。組み手がうまいとかパワーのある選手はいるけど、技がうまい選手はなかなかいない」。後輩の大学生に対して「技を極めたかったら、その技だけをかけろと言う。他の技をかけても、その技を磨くことはできない」とアドバイスをするのは、技にこだわる重要性を伝えたいからだ。 今後は指導者として新たな道を進む丸山は「技で一本を取る、相手を仕留める柔道を伝えていきたい」。自身に続くような技を極める選手の輩出に意欲を見せた。💛失敗から課題を見つける、素晴らしい!
2025.02.26
span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む 報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ その1[報徳記&二宮翁夜話]199天性寺の境内に十一棟の救い小屋を建てて、領内の飢えた民を集め、桜町から多くの穀物を運び込んで粥を作ってこれを配った。このお蔭で烏山藩の数千人に及ぶ飢民に一人の餓死者もなかった。先生50歳のときである。その後大久保忠真候の病床からの依頼で、小田原領内の飢饉救援にも当たり、数万という多くの人の命を飢饉から救ったのであった。「二宮翁夜話」巻の5に烏山藩で行った飢饉の救助方法が詳しく記載されている。○私が烏山その他で行った飢饉の救助方法は、まず村々に諭して、飢渇に迫った者のうちから、老人幼子病身等の、力仕事につくことが難しい者と女性でその日の働きが十分にできない者を残らず、調査させる。そして、寺院かまたは大きな家を借り受けて、ここに集める。男女を分けて、30人40人づつ一組とする。一所に世話人12名をおく。一人について、一日白米1合づつと定め、40人であれば一度に1升の白米に水を多く入れて、粥にたいて、塩を入れる。これを40椀に、平等に盛って、1椀づつ与える。また一度は菜を少し混ぜて、味噌を入れて、薄い雑炊として、前と同様に盛って、一椀づつ代わる代わる、朝から夕まで、一日に4度づつと定めて、与えるのである。・・・これを与える時、丁寧にこう諭すのだ。「なんじらの飢渇は深く察している。実に憐れむべきことだ。今、与えるところの粥は一日4度に限るから、実に空腹に耐えがたいであろう。しかしながら大勢の飢えた人に十分に与えるほどの米、麦は天下にはないのだ。・・・今日、国中に米穀の売り物がなく、金銀があっても米を買うことができない世の中である。・・・一椀でも厚く有難くこころえて、ゆめゆめ不足に思うなよ。・・・この一椀づつの粥は、一日に4度づつ時間をきめてきっと与えるぞ。そうであれば体はやせても、決して餓死する心配はない。新麦の熟する間のことであるから、空腹をこらえ、起き伏しも運動も静かにして、なるだけ腹のへらないようにして、命さえ続けば、それを有難いと思うがよい。・・・かえすがえすも草木の皮や葉を食べるなよ。多く食したり、毎日食すれば病を生じたり、大切な命を失うことになるぞ。必ず食するなよ」これがその方法の大略である。また、身体が健康な男女には別に方法を立てて、「平常は5厘の縄一房を7厘で、一銭の草鞋(わらじ)を一銭5厘で、30銭の木綿布を40銭に買い上げ、平日15銭の日雇い賃金は25銭づつ払うので、村中一同奮発して努め励んで、銭をとって自ら生活を立てよ。縄、草鞋、木綿布などは、どれほどでも買い取るし、仕事は協議工夫して、人夫を使うから、老若男女を論ずることなく、身体が丈夫な者は、昼は出て日雇い賃を取り、夜に入って縄をない、草鞋を作るがよい」と懇々と説諭して、努力させなさい。 さて、その仕事は、道や橋を修理し、川や堀をさらい、溜池を作り、川の堤防を修理し、沃土を掘り出して、土壌の悪い田畑に入れ、畦(あぜ)の曲がったのを真直ぐに直し、狭い田を合わせて大きくするなど、その土地に応じて、工夫すれば、その仕事はいくらでもある。 これがわが手に10両を損して彼に50両60両の金を得させて、かつその村里に永世の幸福を残し、その上、美名をものこす道である。ただ恵んで費えないだけでなく、少なく恵んで大利益を生ずる良法である。これが私が実地に行った大略である。○天保七年に烏山候の依頼によって、同領内に以上の方法を行った。一村一村に諭して、極難の者のうち、力仕事につくことができる者とできない者の二つに分けて、力仕事につくことができない病人、幼児、病気の者など千人あまりを烏山城下の天性寺の禅堂、講堂、物置そのほかの寺院や新たに小屋20棟を建てて、一人白米一合づつ前に言った方法で、天保7年12月1日から翌年5月5日まで、救い遣わした。また鬱憤を発散させるため、藩士の武術稽古をこの場所で行い、見物を許し、時々空砲を鳴らして鬱気を消散させた。そのうち病気の者は、自分の家に帰し、また別に病室を設置して、療養させた。5月5日解散のときには、一人について白米3升、銭500文づつを渡して、帰宅させた。また力仕事につける丈夫な者には、鍬一枚づつ渡して、荒地一反歩について、起し返し料、金3分2朱、仕付料2分2朱、合わせて1両半、ほかに肥やし代一分を渡した。そして仕事熱心で一村の幹事となるべき者を人選し、入札で高札の者に、その世話方を申し付けて荒地を起こし返して植付けをさせた。このお越し返しで一春の間に、58町9反歩、植付けたのであった。実に天から降ってくるように、地から湧いてくるように、数十日のうちに荒地は変じて水田となり、秋になってその実りはただちに貧民の食糧の補いとなった。そのほか草鞋、縄などを製造したのも大きな事業で、飢死する者も一人もなく、安穏に相続し、領主の仁政を感激して農事に励むようになったことは、なんと嬉しいことではないか。」実に尊徳先生の方法は現代でも見習うべきことが多いと思う。1 仕事につくことができない病人、幼児、病気の者などは、別に保護し、厚く救助を行う。2 仕事ができる健康な男女には、公共事業を起こして通常よりよい条件で賃金を支払う。(アメリカの大恐慌の際のニューディール政策を想起させる)3 2により、一時の救難ではなく、遊惰の者も自然と勤勉にさせ、職業を習熟させ、各々職業に精励させる。みだりに補助を与えることは、人民を怠惰に導く。注意して施行し、人民を奮発させ精励させるようにすることが必要である。(夜話巻の5[5])また、尊徳先生はこう言われた。「私は、不幸にして、14歳の時に父に別れ、16歳の折、母に別れた。所有の田地(でんち)は洪水のために残らず流出した。幼年の困窮艱難は実に心魂に徹し、骨髄にしみ、今日(こんにち)もなお忘れることができない。なにとぞして世を救い、国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたいと思って勤め励んできた。はからずも天保の両度の飢饉に遭遇した。ここにおいて心魂を砕いて、身体を粉にして、ひろくこの飢饉を救おうと勤めたのだった。 」(夜話巻の5[13]) 報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ 于時(ときに)天保七丙申(ひのえさる)年大(おほい)に飢(き)す。諸國の民飢渇に苦しみ、草根(さうこん)を食(くら)ひ、木皮(もくひ)を食(くら)ふといへども、食既に盡(つ)きて四方に離散す。往(ゆ)く處(ところ)食(しょく)を得るの道なく、道路に叫び哀(かなし)めども、人も亦是(こ)の如くなれば、慈(じ)ある者と雖も之を救ふことあたはず、遂に途(みち)に餓ヒョウ(がへう)累々(るゐるゐ)たるに至れり。野州烏山領中の民も亦飢渇に苦しみ、群起(ぐんき)して城下市中の富家(ふけ)を破却し、動揺すること夥(おびただ)し。城中の群臣之を聞き、若し彼等城内に亂入することあらんも計り難し。然らば是非に及ばず、大炮(たいほう)を以て之を拂(はら)ふに如ずと、大炮(たいほう)を備えて之を待つ。代官郡(こほり)奉行(ぶぎやう)をして之を諭(さと)し、その動搖(どうえう)を鎭静(ちんせい)せしむ。是より先(さき)、菅谷某(ぼう)二宮先生に至りて救荒(きうくわう)の道を請ひ、實情(じつじやう)を以て小田原候に言上(ごんじやう)し、先生も烏山候より依頼の條を以て聞(ぶん)す。小田原候深く之を憐み、烏山は親族也、之を救ふの道有れば、夫れ我に代(かは)りて撫育(ぶいく)せよと命ず。是(ここ)に於て先生其の價(あたひ)二千餘(よ)金の米粟(べいぞく)を烏山に送り、十餘里の間、運輸の米粟(べいぞく)送り、十餘里の間運輸の絡繹(らくえき)たり。諸人目を驚かさゞるものなし。菩提寺(ぼだいでら)天性寺(てんせうじ)境内(けいだい)に於て十一棟の小屋を補理(ほり)し、領中の飢民を集め、粥を炊(かし)ぎて之を撫育(ぶいく)す。其の處置(しょち)規則皆先生の深慮に出(いで)たれば私曲の憂なく、均しからざるの憂なく、晝夜(ちうや)火の元を嚴(げん)にし、小屋(こや)の汚穢(をわい)を去り、疫疾(えきしつ)の憂を防ぎ、厚く之を養ふ。圓應(えんおう)和尚嘗(かつ)て先生に見(まみ)えしより終(つひ)に其の志願を遂(とぐ)るを以て大いに喜び、自ら飢民の安危(あんき)を計り、日となく夜となく撫恤(ぶじゅつ)に心力(しんりょく)を盡(つく)せり。是(これ)を以て、必死(ひっし)を免れ難き數千人の飢民、一人の過ちなく生命(せいめい)を全くすることを得たり。先生の仁術に依らずんば何を以て此の大飢を無事に凌(しの)ぐことを得んやと、上下之を感嘆す。
2025.02.26
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)65-68頁「私のために」するか、 「私を捨てて」取り組むか サンフランシスコから車で5時間の秘境に、タサハラ禅マウンテンセンターがある。ここで僧俗あわせて60名あまりの人々が3か月間禁足安居(きんそくあんご)をしておられた。この方々に約1時間半ほどお話をしたあと、いくつか出された質問のなかに次のようなのがあった。「私は求めるものがあって坐禅をしておりますが、それは間違いでしょうか」 非常に大切な問いである。 欲しいもの、手にいれたいものが先にあり、そのためにする坐禅ということになると、坐禅はそれらを手に入れるための手段に堕し、大切なのは坐禅ではなくなる。
2025.02.26
「沢木興道 この古心の人」よりp.82-86永平寺の玄関で、応接係の坊さんに目的を話すと、坊さんは呆れて早く帰れ帰れと言って追い払う。もう動く気力も尽き果てたから、ここで死なせてくれ、と本気で答えた。2日2晩、飲まず食わずに、時々出て来て様子を見ては帰れと叱り続ける坊さんに頼み続けた「お粥を食わしてやるから、食ったらすぐ下山しろ」「そんなら食わしてもらわんでもいいです」見かねた年長の坊さんが炊事部屋に連れて行ってお粥を食わしてくれた。寺においてくれると思うと嬉しくてたまらず、食べ終わると早速寺男の仕事の手伝いをした。6月16日、沢木興道誕生の日であった。才吉の働きぶりを見ていた典座(袖田正元和尚)が自分の寮に移らせて、正式に給仕の手伝いとして使ってくれた。家出のときに来ていたままの縞の一重の才吉を憐れんだ門前の柏樹庵の庵主が、坊さんたちの捨てた破れた衣を綴り合せて法衣の形に作ってくれた。生れて初めて着る坊さんの衣に才吉は涙を流した。同じ寮の先輩で自分と同じくらいの年頃の修行僧にこき使われ「おい、テツゲン、肩をもめ」など言われ、ハイと言って肩もみした。いつしかテツゲンと呼ばれるようになった。「お前、坊主になりたいと思うなら、何はともあれ坐禅しないといかん。わが宗門では、そういうことになっている。」と坐り方を教えてくれる若い坊さんもいた。坐り方を習ったばかりの頃、典座寮で急に砂糖が入用になって倉庫係の寮に小走りでいくと、4、5人の坊さんの坐っている姿が障子に影絵のように映っていた。一瞬、テツゲンは電撃を受けたようにすくみあがって、足音がしないようにそっと歩いた。不思議な経験であった。
2025.02.25
報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 4 修学の歌 (75頁)何事もおのが歩みに異ならず 右(みぎり)進めば左とどまる 物事の進み方を人の歩みにたとえて詠んだ歌です。一歩一歩と積小為大と、動と静の一円観を教えた修学の歌となっています。つぎのようにたくさん作って農民たちに具体的に教えていたのです。 何事もおのが歩みに似たりけり 右ふみしめて左り行くなり 百千の果てを見るとも旅人の 右かみしめて左りゆくなり 右一歩左一歩と怠らず 行けば千里の果ても見るべし
2025.02.25
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)61-64頁自分にとって一番つらいことが、 真実の世界への門となる 一つの問いに対する答えも、問う人の状態によって百人百様の答え方をしてゆかねばならないように、一つの教えも、相手次第で無限の対応がなされるべきであろう。 自分の闇を手掛かりとし、私の闇故に説かれた教えを鍵として光明世界への扉を開いてゆくことこそ、大切なことではなかろうか? インドから中国へ禅が伝わって、三代目の僧璨大師(そうさんだいし)はハンセン病であったという。 僧璨大師は、二祖慧可大師にであい、その悲しみをぶつけてゆき、やがて悟り得たことばが「至道無難(しいどうむなん)、唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)」の一句なのである。 「道に至るということは、それほどむつかしいことではない。ただ、よりごのみしなければよい。それだけだ。」 ハンセン病という自分の運命を、病を、のろい、憎み、厭い、その思いのみで頭がいっぱいという揀択のかたまりとなっている自分、その苦しみ、そのしがらみからのがれたいともがく。膿が噴き出るように、自分の内なる苦しみが問いとなって慧可大師にぶっつけられ、その苦しみに導かれて修行し、そしてゆきついたところ、それが「ただ揀択を嫌う」の一句であり、境涯であったのである。 私の入り口は私が厭い逃げようとしていた、私にとって一番つらいこと、それがむしろ真実の世界への門であり、門を開く鍵であったということを忘れてはならない。 独参は本来、百人百様の親切な導きをするための、カウンセリングであったのだから、形式など無視して、この人と思う師に、自分の問題で体当たりでぶっつけていき、その師の指導のもと、軌道修正をしつつ無限に深まり、高まってゆく修行の在り方こそ大切ではないかと思う。◎至道無難達磨大師から三代目の祖師が、三祖僧璨禅師であります。この僧璨禅師に『信心銘』という書物が残されています。その冒頭の言葉が、「至道無難、唯揀択を嫌う。但だ憎愛莫ければ洞然として明白なり」であります。「至道」とは至極の大道をいいます。究極の道であります。最もすぐれた道ということであります。その究極の道というものは、何も難しいものではないというのであります。唯だ揀択を嫌うのだというのです。揀は、呉音ではケンであり、「選ぶ」という意味です択は呉音ではジャクで、これも「選ぶ」という意味であります。「揀択」は、「えりごのみ」であって、「自分の好みに合ったものだけをえらびとること」を言います。あっちがいい、あちらにしたい、こっちは嫌だと考えたらもう至道ではないのです。人間のはからい、分別をつけてはならないというところです。古い注釈書には、「迷悟凡聖を揀択し、自ら異見の岐路に迷う」と註釈されています。仏道を修行するのに迷いを捨てて悟りを目指そうと申しますが、迷いはいやだ、悟りがいいというのもえり好みであります。或いは静かなところで坐禅したい、騒がしいところは嫌だというのもえり好みであります。そこで、「但だ憎愛莫ければ、洞然として明白なり」です。「憎愛」という、つまり憎いと可愛いという思いがなければ、はっきりとあきらかになるのであります。何があきらかになるというと、至道です。真実の道があきらかになるのであります。鈴木大拙先生は、『禅の思想』のなかで、「至道無難、唯揀択を嫌う」について次のように解説されています。「シナでは、最高の真理又は無上絶対の実在を大道又は至道と云った。僧璨に従へば此至道は何も六箇敷いものでない、唯嫌ふところとは、彼此と云って択びとりをすることである。即ち分別計較心をはたらかすことである。このはたらきから憎愛の念が出て、心そのものが暈ってくる。心が有心の心になると、もともと洞然として何等のさはりものもなく明白をきわめたものが、見えなくなる。分別を去れ、憎愛を抱くな、すると本来の明白性が自ら現はれる。」というのであります。さてこの「至道無難」という言葉を名前にした禅僧がいます。江戸期の禅僧至道無難禅師であります。至道無難禅師は、慶長八年西暦一六〇三年に美濃の国(岐阜県)の関ヶ原に生れました。延宝四年(一六七六) 江戸の小石川の至道庵で亡くなっています。享年七十四です。禅師は木曾街道(今は東海道)の宿場であつた関ヶ原の三輪家の長子として生れました。父は本陣問屋の主人でありました。禅師は長男でしたから、父祖の業を継いで、大きな旅宿の主人となったのでした。その頃、やはり美濃国の人である愚堂国師という方が、美濃で住職をし、京都の妙心寺にも出ておられました。そこで、京都から江戸への途次、関ヶ原を通過するのを知り、これを家に請じて教えを受けるようになりました。愚堂国師は、至道無難禅師に「本来無一物」の公案を授け、禅師はこの一句の意味を考えることに苦心惨憺、ほとんど寝食を忘れるほどでした。やがて、この無一物の公案を透過して「劫外」という法号を与えられたのでした。更に四七歳のときに「至道無難」の公案を与えられて透過し、この「至道無難」を法号として授けられました。古来、禅語としては「しどうぶなん」と読み、名前としては「しどうむなん」と読んでいます。無難禅師五十二歳のときに、愚堂国師は京都から江戸に赴く際、例によって関ヶ原の本陣に宿ることにしました。たまたま無難禅師は不在でしたが、家の者たちは、愚堂国師に、この頃主人は酒に溺れて乱行が多く、皆がほとんど愛想を尽かして、雇人も次々に離れてゆく有様ですと訴えました。「どうぞ禅師様、お慈悲でございます。 主人にお灸を据えて下さい」と願ったのです。そこで愚堂国師はこれを承諾し、酒樽を置いて禅師の帰りを待ちました。夜が更けて、主が帰ってきました。愚堂国師がその様子を見ていると、無難禅師は門を乗越えながら、家の者たちを罵り、怒鳴り散らしているのです。そこで愚堂国師は出迎へ、「御主人、お元気かな。長くお待ちして居ましたぞ」と言いました。無難禅師は驚いて、「禅師様、どうしてこんなに突然お出になりました」と上座に請じて平伏しました。愚堂国師は家の者らに宴の用意を頼み、盃になみなみと酒を注いで無難禅師に与えました。ここで国師は顔色を正して、「皆の話を聞けば、近頃汝は酒の度を過ごし、皆に迷惑をかけているそうではないか。今夜はとことんまで汝を酔わせる。もし汝に志が有るならば、ここで最後の酔を思うさま尽して、今後はきつぱりと酒を断て」と言いました。無難禅師も「それこそ私の願うところでございます」と答えますと、愚堂国師はからからと笑い、それから夜を徹して酒を飲み、いつしか朝になりました。愚堂国師が出発の駕籠に乗ると、無難禅師はその脇について数里見送りをしました。愚堂国師が、「もうお帰り、家の者が心配する」と促しても、無難禅師は、「私には後嗣がおりますから、家に帰る必要はもうございません」と言ってきかず、 旅の仕度も何一つしてないのに、江戸の正燈寺まで来てしまったのです。関ヶ原の自宅で酒乱となっていたのは、出家の志を固めて、家の者たちに愛想を尽きさせ、家を捨ても皆が諦めるやうにするための策略であったのではという説もあります。そうして江戸の正燈寺に着くと、無難禅師は即日髪を切り、愚堂国師のもとで出家したのでした。無難禅師は江戸の麻布にあった東北庵に住んで、自ら至道庵主と称し修行を続けたのです。この無難禅師を訪ねてきたのが、後の正受老人でありました。日本の禅は、この愚堂国師から至道無難禅師、そして正受老人から白隠禅師へと伝灯の系譜が続いているのです。
2025.02.25
span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む 報徳記 巻之三【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す その3[報徳記&二宮翁夜話]199烏山候は感動して筆を執って直書を書き菅谷に渡した。菅谷は、すぐに桜町に至って君命を述べ、直書を渡して救荒の道を請うた。先生はため息して言われた。「烏山の民は、もとより私があずかるところではない。今、飢渇に及んだというのも、君臣ともにその道を失ったためである。しかし、君臣がその非を知って、その道を私に求めてきた。今、烏山の民の命の存亡は私一人の言葉で決する。ああ、いかにしよう。よし、これを救おう。特に烏山候は小田原候の親族でもある。これを救う縁がない訳でもない。」ここで二宮先生は菅谷に面会し、治乱盛衰の根元、禍福吉凶存亡の起こるところ、衰廃興復の道、富国安民の大道を諭された。菅谷はますます驚きますます感動した。二宮先生は烏山候から小田原候に依頼するよう順を踏むことを教えた。「しかし、この順路を踏むのに日数がかかれば、民が飢えてしまう。まずこれをもって切迫する救助に与えよ」と二百両を菅谷に与えた。菅谷はその寛大な処置に三拝して烏山に帰った。今年一金の融通もできなかったのに、一面識の間に二百両を与えられ、菅谷は夢のような気持で帰った。 これが烏山藩における仕法の始まりであった。☆「補注報徳記」(佐々井典比古)にはこうある。「烏山候は当時江戸にあった。 菅谷は江戸に出る途中桜町に立ち寄った。 9月23日、円応の案内で先生に始めて面会し、その未曾有の明法に驚嘆し、尊徳先生の指導によれば必ず目的を達成するとの自信を得たので、急ぎ江戸に出て、君前にでて説明し、重役の御前会議を経て、仕法の依頼を決定した。そこで烏山藩から小田原藩に、先生を「借り受けたい」旨、申し入れたところ、「貸すことはできないが、相対で依頼することは差し支えない」との回答を得た。そこで菅谷は直書を携えて出発し、11月2日桜町に立ち寄って、正式に仕法を依頼したのであった。 尊徳先生は、藩政の天分の調査、分度の確立、荒地開発及び借財返済が根本的方策であることを述べ、それを実行する決意があるならば、救急の方途を講じようと承諾された。そして救助米はすぐに提供することを約束された。菅谷は大いに喜んで翌日烏山に帰り、早速天性寺に救助施設を準備して、13日には細部の打ち合わせのため、円応とともに桜町に来た。救助米は11月26日の白米50俵を始めとして、続々と送られた。」報徳記 巻之三【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す菅谷某(ぼう)頗(すこぶ)る文才あり。此の言を聞き、益(ますます)感激して曰く、果たして賢人なり。子(し)之を妄言(ぼうげん)と云ふもの何ぞや。誠に君(きみ)は君の道を盡(つく)し、某(ぼう)は某の職を盡さば、何ぞ一歳(さい)の飢饉に窮し、民を飢渇せしむることあらんや。君臣共に道を失ひたりと云ふべし。然れども今の世に當(あた)り、誰か君臣、道を失ひたるを公然として教戒するの英傑あらんや。二宮の言(げん)直(ちょく)にして其の理明白也。我此の人に道を問わずして誰(たれ)にか問はんと。是(こゝ)に於て衣服を改め、君前(くんぜん)に出(いで)て曰く、今年(こんねん)大(おほ)いに飢う。領中人民の飢渇旦夕(たんせき)に迫れり。臣、百方(ぽう)撫育(ぶいく)の道を求むるといへども、更に其の道を得ず。平年猶(なほ)君の用度(ようど)足らずして商賈(しやうこ)の財(ざい)を借り、之を補ふ。今、大凶(だいきょう)に當(あた)れり。金銀融通(ゆうづう)の道絶たり。如何(いかん)ともすべからず。然るに櫻町二宮なるもの、其の先(さき)小田原候の撰擧(せんきょ)を以て、彼の地の廢亡(はいぼう)を再興することを任ぜり。十年にして功業歴然、加之(しかのみならず)飢歳(きさい)の至らんことを前知し豫(あらかじ)め其の備へをなし、三邑(いふ)の民を救ふこと平年に倍せりと。先づ某(ぼう)なる者をして往きて之を試みしむ。其の確言(かくげん)的論(てきろん)是(こ)の如し云々(うんぬん)。是(これ)不凡(ふぼん)の人物にして、當時(たうじ)に難(かた)き賢才なるべし。臣直(たゞち)に彼の地に至り、救荒(きうくわう)の道を求めんとすれども臣の意に出づるとせば、必ず面會(めんくわい)だも許す可(べ)からず。君(きみ)の賢慮を以て懇切の直書(ぢきしょ)を二宮に賜ひ、臣之を奉じて彼の地に至り、君命の厚き所以(ゆゑん)を陳述せば、君の民を恵み玉ふ仁心の忝(かたじけな)きを以て、必ず救荒安民の道を教へんか、事の成否は君の深慮にありと言上(ごんじやう)す。烏山候大いに之を感じ玉ひ、汝の言(げん)是(ぜ)なり、我直書を以て之を依頼せんと。是に於て筆を執(と)り一章を認(したゝ)め、菅谷に渡し玉ふ。菅谷大いに悦び、君前を退き、直(たゞち)に櫻町に至り、君命を述べ、直書を出して頻(しきり)に救荒の道を請(こ)ふ。先生歎じて曰く、烏山の民、元より我が與(あづか)る所にあらず。今飢渇に及べるもの、君臣共に其の道を失ひたるが故なり、其の國にありて其の道を失ふが故に、國民(こくみん)飢亡に及ぶもの諸國擧げて數(かぞ)ふるに暇(いとま)あらず。然るに君臣其の非を知り、其の道を我に求む。今は烏山民命(みんめい)の存亡我一人の言下(げんか)に決せり。嗚呼(あゝ)如何(いかに)せん。之を救ふに如ず。殊(こと)に烏山候は小田原候の親族也(なり)。之を救助するの縁故(えんこ)なしと云ふ可からず と。是に於て菅谷に面會(めんくわい)し、治亂(ちらん)盛衰の根元、禍福吉凶存亡の由(よ)りて起る所、衰廢(すいはい)興復の道、富國(ふこく)安民(あんみん)の大道(だいだう)を諭(さと)すこと流水の止(や)まざるが如し。菅谷某(ぼう)彌々(いよいよ)驚き益々(ますます)感動す。先生曰く、烏山候仁心厚くして此の飢民を救はんことを某(ぼう)に求め玉ふと雖(いへど)も、某(ぼう)諸侯邦内(ほうない)の事務敢て預かる可きにあらず、固辭(こじ)せんのみ。然れども我が主君の縁者なり。烏山候より主人へ此の條(でう)を以て告げ玉はゞ、主君より臣に命ぜんか、又某(ぼう)よりも言上すべし。君命あるにあらざれば我が私(わたくし)に烏山候の命には應(おう)じ難し。然れども此の順路を蹈(ふ)まんこと、日數(につすう)を經(へ)ずんば辨(べん)ず可らず。飢民を目前に置きて此の順序を追はゞ、所謂(いはゆる)轍魚(てつぎょ)を市(し)に求むるの憂ひなしといふべからず。其(そ)の中(うち)先づ之を以て切迫の救荒(きうくわう)に當(あて)よ と、懐中より金二百兩を出して菅谷に與(あた)ふ。菅谷其の寛仁にして道を蹈(ふ)み、時を計りて處置(しょち)其の宜(よろしき)を得ることを感じ、三拝(ぱい)厚謝して烏山に歸れり。今年一金(きん)の融通も絶えたるに一面(めん)の間に二百金を與(あた)へられ、菅子(くわんし)夢の如くにして歸りたりと云ふ。
2025.02.25
世界初、中国の人型ロボットが前方宙返り―中国メディア中国メディアの深セン新聞網などによると、中国広東省深セン市を拠点とするロボットスタートアップの衆擎機器人(ENGINEAI)が世界初となる人型ロボットの前方宙返りに成功したとする動画を公開し、話題となっている。人型ロボが後方宙返りする動画は米ボストン・ダイナミクスや中国の宇樹科技(Unitree Robotics)が公開しているが、前方宙返りはロボットの動的バランスや瞬間的な加速、正確な着地に対する要求が高く、より難しいという。上海初の人型ロボット量産工場、年間数千台を生産へ―中国上海初の人型ロボット量産工場となる智元機器人(AGIBOT)製造工場に入ると、未来の世界に入り込んだような気分になる。エンジニアが人型ロボットの各種部品を組み立てており、完成した人型ロボット数百台が整然と並び、一連の動作テストを待っていた。上海自由貿易区臨港新片区にあるこのロボット製造工場を取材すると、生産が始まってわずか数カ月しかたっていないものの、2024年だけでもすでに人型ロボット1000台がラインオフし、今年は数千台の生産を予定していることが分かった。業界関係者は、今年は人型ロボットの「量産元年」になり、同産業は急ピッチで臨界点を超えようとしていると見ている。上海には先端製造業の基礎があり、長江デルタの整備されたサプライチェーン・関連産業や豊富な高等教育機関、人材ストックがあり、産業が加速しながら発展する基礎となっている。智元機器人の製造部の張紹政(ジャン・シャオジョン)総経理は、「川上のサプライチェーンが成熟しているので、これほどスピーディーに人型ロボットを作ることができる。人型ロボットのカギとなる部品の多くは、川上の精密加工に属し、新エネ車とも関係がある。それらの精密部品は人型ロボットの製造でも流用することが難しくない」と説明する。中国の景勝地で登山用外骨格型ロボット導入 料金は1時間数百円に中国では東部の山東省、南部の広東省、中部の湖北省の景勝地の山で、外骨格型の「ロボット脚」が続々に導入されています。このロボット脚は人の動きを感知して、動き出す瞬間や勢いを把握して演算処理を行うことで、装着した人の動作を支援します。 湖北省南西部の恩施トゥチャ族ミャオ族自治州にある恩施大峡谷景勝区では、新登場のロボット脚が注目を集めています。利用した観光客は、「装着して山に登ったら、まるで浮き上がるような感じだった」と感想を述べました。恩施大峡谷景勝区の職員によれば、現地は山岳部の地勢を体験する観光地であるために、長年にわたって客が、「足が疲れてしまった」と漏らす状況がありました。そこで観光客、特に高齢者の意見を参考にしてロボット脚を導入しました。このロボット脚は導入してから1週間も経たないうちに、予想外の注目を受けることになりました。ロボット脚は自重がわずか1.8キロで、バッテリー2個を1回充電することで3時間から5時間前後、約14キロの歩行を補助します。現在はまだ試験導入段階で、正式導入されれば利用料金は1時間で30元(約620円)から40元(約825円)にする見込みです。また、長い坂や階段には料金9.9元(約200円)の体験コースを設けます。景勝区側はロボット脚の利用コースと費用についての検討を進めています。 ただ、製品の安全性を懸念するネットユーザーもいます。ロボット脚の研究開発を手掛けた会社の職員は、「このロボットは人の動きに反応する装置で、人が動いた場合にだけ稼働し、人が動かなければ稼働しない。利用者本人が転倒するような動きをしない限り、人の動きを妨げることはしない。安全性の面からは、機械式制御と電子的制御で多重の安全対策を施している。現在までに景勝地に導入されたのは試験版で、今後、ECプラットフォームに個人ユーザー向けの製品を販売する予定だ」と説明しました
2025.02.24
「世界の読者」に発見された「日本の隠れた大傑作」…34年の時を経たいま翻訳出版が切望される「深すぎる理由」2024年にノーベル文学賞候補としてブックメーカーにお名前が上がり、いままさに世界的な注目が集まっている金井美恵子さん。金井美恵子さんは1967年、19歳の時に「愛の生活」が太宰治賞候補作となってデビュー。1979年『プラトン的恋愛』で泉鏡花文学賞、1988年『タマや』で女流文学賞を受賞されています。2023年、代表作のひとつ『軽いめまい』の英語版が刊行されると、ヨーロッパ各地で翻訳の依頼が殺到し、いつの間にか世界中でえらい騒ぎに!💛小説は最近全く読まないので、「金井美恵子さん」の名前を初めて知って、図書館に本を借りに出かけた。「金井美恵子全短編Ⅰ」と「昔のミセス」を図書館でちらちら読むと、確かに面白い。「昔のミセス」に淀川長治さんとヒッチコックの映画について話をすることになったときにヒッチコック と 淀川長治 に最大の敬意を表そうと考え抜いて選んで着ていった<服>と<靴>と<バック>を、淀川さんが、ヒッチコックに合わせて来たんだね、とても綺麗、と言ってくださった。ぼくの好きなバーバラ・ベル・ゲデス*の感じね、という言葉は、私にとってはヒチコックのその線を目指す以外にないと思っていたので大満足だったのだけれども、世の中にはバーバラ・ベル・ゲデスという女優を、子役上りで演技派の眼鏡の不美人(ブス)と言ってはばからない人間の方が多いだろうと思うのである。💛金子さんの文章はいろいろ注が必要みたいだ。バーバラ・ベル・ゲデスバーバラ・ベル・ゲデス(1922年10月31日-2005年8月8日)は、アメリカの舞台・映画女優、芸術家、児童文学作家で、そのキャリアは約50年に及ぶ。テレビシリーズ『ダラス』のミス・エリー・ユーイング役で知られる。ベル・ゲデスはまた、1955年に『熱いトタン屋根の猫』のオリジナル・ブロードウェイ・プロダクションでマギー役を演じた。代表作に『アイ・リメンバー・ママ』(1948年)、『めまい』(1958年)など。キャリアを通じて、数々の演技賞を受賞し、ノミネートされた。「作家のための残酷物語」倉橋由美子「同郷の宮尾登美子に、自由に小説を書いていくためには結婚したほうがいい、と忠告されて結婚した、と彼女は言っていて、・・・・・・ 倉橋由美子は、笑いながら、宮尾さんに会うことがあったら、文句を言ってやりたい、と語っていた。そりゃあそうさ、結婚しないで、書きたい小説を書いている女の小説家は、最初に自分の名前を挙げるのもはしたないから、笙野頼子を筆頭に、何人もいる。」
2025.02.24
「沢木興道 この古心の人」よりp.76-78才吉は大阪に逃れて連れ戻された後、また提灯張替えの仕事を続けていた。その頃、聞いた坊さんの話に、親鸞聖人の「うらぎぬの御書」に、お袈裟の片端を得れば竜王も金翅の難を免れるとあり*、世界で一番強い竜王も大敵金翅鳥には食い殺されるが、お袈裟のきれはしを持っていると、難を免れるということだった。また、漁夫がお袈裟を得れば、風波の難から助かると、坊さんは面白く話してくれた。才吉はどうにかして坊さんになってお袈裟を着たいと思った。どうしても坊さんになると心に決めた。仏照寺の住職に相談すると「わしは浄土真宗の坊主じゃが、お前は門徒宗の坊主にはなりはんな」「真宗は最初から妻帯を認めたが、後には妻を持たない僧は教えに反するように言われて肩身がせまくなった。ところが、わしのように女房を持って五人も子供ができ、まだ夜に小便するのが二人いるのに、女房が死んだので、えらい苦労じゃ。女房を持つ以前には、各地を廻り歩いた。一切衆生を教化するんだという意気込みだった。しかし女房持ったら、衆生のためは二の次になり、我が家のためにの方が第一になった。女房が死んだら、一切衆生は念頭になくなり、ただもう餓鬼を食わせて学校にやること、病気の気遣いすることだけになった。説法もお経も上手になったが、それはお布施稼ぎみないなことだ」「だから、坊主になるなら、禅の坊主になりなはれ。 わしは越前を説教して歩いたとき、永平寺に立ち寄ったことがある。あれは立派な禅寺じゃ。そこへ行ってみなはれ。」「お前が行っても、寺に置いてくれるかどうか。それはわからんが、大きいお寺だから一人や二人ふえてもどうということはない。だから置いてくれんとは決まっていない」明治29年6月10日才吉は夕闇にまぎれて家をとび出した。家から持ち出したのは小田原提灯一つ。ほかに身につけた縞の一重だけで、一銭たりともお金は持ち出さなかった。仏照寺の和尚は才吉の悲壮な決心に胸を打たれ、その夜は寺に一泊させ、翌朝なま米二升と銭27銭を恵んでくれた。なま米を食べながら桑名まで歩き、桑名から川船で大垣へ渡った。船賃15銭で12銭残った。それで葉書を買って、養父と実の姉と兄、親類に家出を知らせ「坊主になる念願だから心配無用」と書いた。残った4銭でソラマメの煎ったのを4合買って、琵琶湖の北のしずがだけに近い木之元まで歩いた。地蔵堂で眠り、翌13日、今庄につきここでも地蔵堂で寝た。翌14日、5日目にやっと福井に着き、夜中に永平寺に着いた。*建暦元年(1211年)の冬、流罪を赦免されて地方教化に赴いていた親鸞聖人。訪れた伊勢国(三重県)桑名では、漁師に対して念仏を勧めるため、袈裟の裏に法語を記して渡していました。この袈裟が今では巡り回って真宗高田派の本山である専修寺に納まっています。たとひ一形のあひだ悪をつくるとも、宿業(しゅくごう)のがれがたく、さりがたきは如何にせん。ただひとすじに仏たすけたまへと信じて専精(せんしょう)に念仏すれば、願力のつよきにひかれて往生するなり。龍王すら袈裟の片端を得れば金翅(こんじ)の難をのがれ、浦人(うらびと|漁師)袈裟を得れば風波の難なし。いはんや万善所帰の法船、仏智施与の信帆、あに煩悩の風を恐れんや、あに妄念の波に沈みなんや。願力不思議なればなり。ゆめゆめ、これさらに親鸞が私に申すことにあらず。六法恒沙の諸仏の証誠にて候なり。あなかしこ、あなかしこ。念仏往生証拠のため、予が袈裟の裏衣(うらきぬ)に記しはべる。南無阿弥陀仏建暦第二 十月九日桑名の浦人へ愚禿今昔物語今は昔、諸々の龍王は大海の底を以て栖とす。必ず金翅鳥の怖れ有り。亦、龍王は無熱池と云ふ池を栖とす。其の池には金翅鳥の難無し。大海の底に有る龍が子を生たるを、金翅鳥、羽を以て大海を扇ぎ干て龍王の子を取て喰んとす。然れば龍王、此の事を嘆き悲んで、佛の御許に参て佛に申して言さく、「我等、金翅鳥の為に子を取られて、更にすべき方無し。何としてか此難を免るべき」と。佛、龍王に告て宣はく、「汝ぢ、比丘の着せる袈裟の片隅の地裂を取て、其の子の上に置くべし」と。龍王、佛の教の如く袈裟の片隅の地裂を取て、子の上に置つ。其後、金翅鳥来て羽を以て大海を乾して龍王の子を求むるに、更に見えず。然れば金翅鳥、終に龍王の子を取る事能ずして歸ぬ。此の鳥をば迦楼羅(かるら)鳥とも云ふ。此の鳥の二の羽の廣さ、三百卅六万里也。然れば大さ・勢ひ、思ひ遣べし。亦、猶、袈裟をば貴び敬ひ奉べし。袈裟の片隅の地裂を上に置たるだけで、金翅鳥の難を免かる。いかに况や、袈裟を着せらん比丘をば佛の如に敬ふべし。譬ひ破戒僧也と云とも軽め慢づる事無かれとなん語り傳へたるとや。
2025.02.24
報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 4 修学の歌 (73頁)ぶんぶんと障子に虻の飛ぶ見れば 明るき方へ迷ふなりけり この歌には「迷い」という題が付いていて、部屋の中へ飛んできた虻がブンブンと羽を鳴らしながら障子にぶつかって、しきりに外へ出ようと焦っているという歌です。 歌そのものから見て「文々(ぶんぶん)と「明るき方」の二つの言葉から、文明・学問と考えて、学問第一主義、これは迷いです。 なお、これについて二宮翁夜話に二宮翁夜話 巻の4【33】翁曰く、某(それ)の村の富農に怜悧(れいり)なる一子あり、東京(えど)聖堂(せいどう)に入れて、修行させんとて、父子同道し来りて暇(いとま)を告ぐ、予之を諭すに意(こころ)を尽せり、曰く、夫れは善き事なり、然りといへ共(ども)、汝が家は富農にして、多く田畑を所持すと聞けり、されば農家には尊き株なり、其の家株を尊く思ひ、祖先の高恩を有難く心得、道を学んで、近郷村々の人民を教へ導き、此の土地を盛んにして、国恩に報いん為に、修行に出(いづ)るならば、誠に宜(よろ)しといへども、祖先伝来の家株を、農家なりと賤(いや)しみ、六(むつ)かしき文字を学んで只(ただ)世に誇らんとの心ならば、大いなる間違ひなるべし、夫れ農家には農家の勤めあり、富者には富者の勤めあり、農家たる者は何程(なにほど)大家(たいけ)たりといへども、農事を能(よ)く心得ずば有るべからず、富者は何程の富者にても、勤倹(きんけん)して余財を譲り、郷里を富まし、土地を美(び)にし、国恩に報ぜずばあるべからず、此の農家の道と富者の道とを、勤むるが為にする学問なれば、誠に宜(よろ)しといへども、若し然らず、先祖の大恩を忘れ、農業は拙(つたな)し、農家は賤(いや)しと思ふ心にて学問せば、学問益々(ますます)放心の助けとなりて、汝が家は滅亡せん事、疑ひなし、今日の決心汝が家の存亡に掛れり、迂闊(うくわつ)に聞く事勿れ、予が云ふ処決して違(たが)はじ、汝一生涯学問するとも、かかる道理を発明する事は必ず出来まじ、又此の如く教戒する者も、必ず有るまじ、聖堂に積みてある万巻の書よりも、予が此の一言の教訓の方、尊かるべし、予が言を用ゐれば、汝が家は安全なり、用ひざる時は、汝が家の滅亡眼前にあり、然れば、用ひばよし、用ふる事能ずば二度予が家に来る事勿れ、予は此の地の廃亡を、興復せんが為に来て居(を)る者なれば、滅亡などの事は、聞くも忌々(いまいま)し、必ず来る事勿れと戒めしに、用ふる事能はずして、東京(えど)に出たり、修行未だ成らざるに、田畑は皆他の所有となり、終に子は医者となり、親は手習師匠をして、今日(こんにち)を凌(しの)ぐに至れりと聞けり、痛(いたま)しからずや、世間此の類の心得違ひ往々あり、予が其の時の口ずさみに「ぶんぶんと障子(せいじ)にあぶの飛ぶみれば明るき方へ迷ふなりけり」といへる事ありき、痛(いたま)しからずや。【33】尊徳先生がおっしゃった。ある村の富農に利口な子供がいた。江戸の聖堂に入れて、修行させようとして、父子で一緒に来て、暇乞いを告げた。私はこれを一生懸命諭した。このようだ。それは善い事だ。しかしながら、あなたの家は富農であって、多く田畑を所持していると聞いている。そうであれば農家にとって尊い先祖伝来の財産だ。その先祖伝来の財産を尊く思って、祖先の高恩を有難いと心得て、道を学び、近郷の村々の人民を教え導いて、この土地を盛かんにしよう、国恩に報いよう、そう願って修行に出るならば、誠に結構なことだ。しかし、祖先伝来の財産を農家だからと賤しんで、難しい文字を学んで、ただ世に誇ろうという心であるならば、大きな間違いである。農家には農家の勤めがあり、富者には富者の勤めがある。農家はどれほど大家であっても、農事をよく心得なければならない。富者はどれほど富者であっても、勤勉と倹約を行って余財を人に譲り、郷里を豊かにし、土地を美しくし、国恩に報いなければならない。この農家の道と富者の道とを、勤めるためにする学問であれば、誠によろしいといえる。もしそうではなく、先祖の大恩を忘れて、農業はつたない、農家はいやしいと思う心で学問するのであれば、、学問はますます放心を助長し、あなたの家は滅亡する事は疑いない。今日の決心はあなたの家の存亡にかかっている。うかつに聞いてはならない。私の言うところは決して間違いがない。あなたが一生涯学問しても、このような道理を発明する事は決してできまい。またこのように教戒してくれる者も、決して有るまい。聖堂に積んである万巻の書よりも、私のこの一言の教訓のほうが尊いであろう。私の言うところを用いるならば、あなたの家は安全である。用いない時は、あなたの家の滅亡は眼前にある。そうであれば、用いるならばよいが、用いる事ができなければ二度と私の家に来てはならない。私はこの地の廃亡を、復興させるために来ている者であるから、滅亡などということを、聞くもいまいましい、必ず来てはならないと戒めたが、用いる事ができないで、江戸に出ていった。修行がいまだならないうちに、田畑は皆他の所有となり、ついに子は医者となり、親は手習いの師匠をして、今日をしのぐようになったと聞いた。痛しいことではないか。世間にはこの類の心得違いがおうおうにしてある。私がその時の口ずさみに「ぶんぶんと障子(しょうじ)にあぶの飛ぶみれば明るき方へ迷ふなりけり」とよんだ事があった。なんといたましいことではないか。
2025.02.24
【動画】目が覚めるような小倉幸成の強烈ミドル弾!PKに関してはしっかりと練習もしてきたという市原。「僕は右(に蹴るの)が得意だったので、タイ戦でも右に蹴りましたが、スカウティングされているなと感じていました」「ギリギリまでどっちに蹴ろうか考えていて、相手のGKも先に飛ぶのがわかっていて、右に蹴ったら止められるなと思って、真ん中に蹴りました」そのPK戦では、エンドを決めるコイントスと、順番を決めるコイントスでどちらも勝利していた市原。その中で、日本のゴールを選択した一方で、PK戦では不利とも言われる後攻を選択していた。「僕の独断です」「2回勝ってきたぞと終わった後に言いました。みんなが、え?って顔をしていたんですが、PKは先攻が有利と知らなくて、後攻が有利だと思って選んだのと、コイントスで勝った時にシナリオが浮かんできて、5人で終わることと自分が蹴って終わるなというのが思い浮かんで、後攻を選んでしまいました」U-20W杯はアフリカの4枠を除く出場20チームが決定した。すでに決まっているU-20W杯出場国は以下のとおり。▼開催国チリ▼アジア日本オーストラリアサウジアラビア韓国▼南米アルゼンチンブラジルコロンビアパラグアイ▼ヨーロッパスペインフランスイタリアウクライナノルウェー▼北中米カリブ海メキシコアメリカキューバパナマ▼オセアニアニュージーランドニューカレドニア(初出場)4大会連続のU-20W杯出場決定! 日本がイラン撃破でアジア杯4強入り! PK戦の末に世界切符つかむ2025/2/23 [2.23 U20アジア杯準々決勝 U-20日本 1-1(PK4-3) U-20イラン 深セン] 死闘の末にU-20ワールドカップ出場を掴んだ。U-20日本代表は23日、AFC U20アジアカップ準々決勝でU-20イラン代表と対戦し、1-1の延長戦の末、PK戦で4-3の勝利。ベスト4進出でU-20W杯出場権を掴んだ。前半5分で失点するも、30分にMF小倉幸成が同点ゴール。その後は決定機を連発するも逆転できず。PK戦を4-3で制した。 世界切符を懸けた決戦で、日本は先発を1人変更。FW井上愛簾が今大会初先発となった。4-4-2の布陣で、GKは荒木琉偉、4バックは左からDF高橋仁胡、DF喜多壱也、キャプテンマークを巻くDF市原吏音、DF梅木怜。2ボランチは小倉とMF大関友翔。サイドハーフは左がMF石井久継、右がMF佐藤龍之介。2トップに井上とFW神田奏真が並んだ。 開始5分、日本は早々に失点を喫する。中盤で小倉と大関のパスを相手に奪われてカウンターを食らう。自陣内に入られると、混戦を防ぎきれず、FWレザ・ガンディプールに左足シュートを決められた。 その後も序盤からイランにロングボールで狙われる。高さで優位に立つサイドに向けて蹴られる場面が目立ち、高橋が苦戦を強いられた。前半13分には日本が決定機。左サイドから石井が折り返すと、PA左でボールを収めた井上がクロスを上げる。ニアサイドに走り込んだ神田がヒールで合わせるが、惜しくもブロックに遭った。 神田のチャンスから日本は徐々に落ち着きを取り戻した。ボール保持から大関と小倉が冷静に展開。前半18分にはPA右手前から梅木が右足ミドルを放つも、わずかにゴール左外へ。22分には小倉が左にロングパスを飛ばし、神田が左サイドから折り返す。グラウンダーを井上が左足ダイレクトで合わせるが、GKアルシャ・シャクーリに阻まれた。 前半30分、日本に待望の同点ゴールが生まれる。高橋が左サイドから上げたクロスは一度クリアされるが、サイドのボールを拾って再び攻勢。梅木のパスを受けた小倉が中盤から右足ミドルを放ち、バウンドさせながらゴール左ポストに当て、今大会初得点となる同点ゴールを決めた。 試合を振り出しに戻した日本は、カウンターに気をつけながら、冷静にボール保持を続ける。前半44分には小倉が相手のフィードをカット。大関がドリブルで運んで最前線に鋭いパスを通す。井上がPA右に進みながら右足シュート。しかし、相手GKの右足にはじかれた。 前半はそのまま1-1で終了。ハーフタイムで両チームは交代カードを使わなかった。 後半も前半と同様に、日本がボールを保持する時間が続く。後半13分には大関からパスを受けた石井が右足ミドルも、相手GKの正面。15分には高橋が左足ミドルを放つが、大きく枠を外れていった。 後半19分、小倉が中盤のファウルで今大会2枚目の警告を受ける。22分にはイランが2枚替えを行った。日本がイランのゴールに何度も迫るが、ゴールを割ることはできない。30分には日本も初の交代カードで2枚替え。大関と井上が下がり、MF中島洋太朗とFW高岡伶颯が入った。36分には足を攣った神田に代わり、FW道脇豊が出場した。 日本は最前線の高岡と道脇を起点に、攻勢を保ち続ける。イランにカウンターを狙われるも、守備陣が冷静に対応した。ゴール前の混戦から決定機を決め切れず、90分で後半終了。決着は延長戦に持ち越された。 延長前半4分、日本は佐藤がPA右に進入する。道脇とのワンツーから佐藤がゴール前に折り返すと、高岡が右足ダイレクト。しかし、イランの分厚いカバーにまたしても防がれた。9分には交代枠を使い、石井を下げてDF布施克真が左サイドハーフに入った。 1-1のまま延長後半へ。3分のFKは佐藤が蹴るも、相手GKに読まれてセーブされる。13分には足を攣った小倉に代え、DF桒原陸人が投入された。20本以上のシュートを放った日本だがゴールは遠く、勝敗はPK戦に委ねられた。 先攻イランの1人目、DFエルファン・ダルビッシュ・アーリが外すと、日本の1人目、中島は冷静に決める。イランは2人目もFWプーリア・シャフラバディが枠外に外した。日本の2人目、高岡が豪快にゴール。イランの3人目は決めるが、高橋がGKに止められる。4人目はイラク、日本の佐藤がともにゴール。5人目は先攻イランが決める。そして市原が正面に決め切り、勝利を掴んだ。
2025.02.24
ロシアが狙う「ヤルタ2・0」…米露接近、待ち受けるのは「米国が築いた世界秩序の崩壊だ」2/24(月)「ヤルタ2・0」第2次世界大戦終盤の1945年2月、米国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の3首脳が集まったのが旧ソ連南部クリミア半島のヤルタだった。当時の「大国」だけで、ドイツの分割管理を含め戦後の国際秩序が協議された。 ロシアでは今、ウクライナ紛争の終結をにらみ、ヤルタ会談を再現する「2・0」が必要だとの主張が広がっている。そこにウクライナの席はなく、話をつけるのは米国とロシア――。セルゲイ・ステパーシン氏は今月、露メディアに「ヤルタ2・0は可能だ」と語り、戦場で勝って交渉に臨むべきだと主張した。英紙フィナンシャル・タイムズは、18日に行われた米露の高官協議で、露側が北大西洋条約機構(NATO)軍の東欧からの撤退を求めたと報じた。米側は拒否したが、東欧ルーマニア政府高官は「トランプ政権が要求をのまない保証はない」と懸念する。 NATOは冷戦終結後、ポーランドや旧ソ連のバルト3国など東欧諸国も取り込み「東方拡大」を続けた。トランプ氏が欧州からも手を引こうとしていることに乗じ、欧州の安全保障体制を自国に有利に再編したいロシアの意図が透ける。トランプ政権がウクライナや欧州を排除し、プーチン政権との直接対話を急げば急ぐほど「ヤルタ2・0」は現実味を帯びる。その先に待ち受けるのは「第2次大戦後に米国が築いた(武力による領土拡大を禁じた)世界秩序の崩壊だ」。米国際政治学者のイアン・ブレマー氏はこう警告する。ウクライナ戦争終結時に二つのショック エマニュエル・トッド「敵はロシアなのか、それともアメリカなのか」2/23(日) ──ロシアのウクライナ侵攻からまもなく3年を迎えます。 私が見る限りウクライナは限界に近いですよね。私は軍事の専門家ではありませんが、おそらく軍事的な敗北の後に、ウクライナ政権の崩壊が訪れると思っています。昨年出版した『西洋の敗北』(文藝春秋)のあとがきにも書きましたが、ロシアはウクライナ最大の港湾都市オデーサを征服し、東部のハルキウを奪い、そこからドニプロ川東岸まで進み、ドニプロ川東岸のキーウを征服することでロシアにとって従順なウクライナ政権を樹立することを目的にしていると思っています。 ロシアにとってこの戦争を始めるのは、簡単なことではありませんでした。だからロシアは完全な勝利しか受け入れないでしょう。これほどまでの軍事努力は、今後しないし、できないでしょう。人口動態的に見て、出生率が低下し、少子高齢化が進むロシアがこの規模の戦争をもう一回するなどということは考えられないからです。 アメリカが介入することでロシアとウクライナの間の戦争を止めるのだ、とトランプが見せかけようとするかもしれません。しかし、この戦争の真の対立はアメリカとロシアなのです。そして今後ロシアは自らの目的を達成するまで戦争を続けるでしょう。また、そこには交渉などというものはないでしょう。ロシアは完全なる勝利を求めているからです。もちろん、核戦争のリスクなどから逃れるための見せかけの交渉はあるかもしれませんが。 今ヨーロッパの人々は、「ロシアこそが帝国主義的な敵だ」と考えているわけですが、戦争が終結する時に、二つのショックを受けると考えています。一つ目のショックは、ロシアが勝利してしまうということです。 二つ目は、ロシア軍の即時停止です。多くの西洋の人々が想像しているように、ロシアが西ヨーロッパまで侵攻するなどということはあり得ません。ロシア軍はおそらく目的を果たせば、すぐに行動を止めるでしょう。そこで、西洋の人々は、自ら科した制裁によって自分たちの経済を意味なく破壊してしまったことに気づくわけです。 そうなってようやく、私たちの敵は、果たしてロシアなのか、それともアメリカなのかという疑問も生まれてくるわけです。特にヨーロッパの中心にいるドイツなどは、こういった問題にぶち当たることになるわけですね。「いったい誰が私たちの敵なのか」と混乱するわけです。──トランプは戦争を止められるのでしょうか。 トランプ政権になり、今後ウクライナへの支援が止められる、あるいは抑えると見られています。しかし、もしトランプがウクライナの敗北が実はアメリカ勢力の終焉(しゅうえん)を意味するのだと気づけば、戦争をより深刻化させる危険性も出てきます。 戦争が再活性化することについては二つのシナリオが考えられます。まず、ドイツの軍事産業の活性化です。2月23日にはドイツ連邦議会(下院)の解散総選挙がありますが、アメリカがドイツの政権交代を活用し、ロシアとの戦争にドイツを巻き込むことに成功してしまうようなことになれば、これは深刻な問題です。ドイツの産業力は、アメリカよりもはるかに高いですし、ロシアにとって真の脅威になりかねません。そうなれば、ロシアも核利用を考え始めてしまうわけです。 それからもう一つは、アメリカの軍事産業の再活性化です。イーロン・マスクはテスラやスペースXを率いているわけですが、こうした最先端技術産業をアメリカが取り戻すべきだと考えている人々がいます。政権に近い立場にいるマスクがアメリカの軍事産業の復活を加速化させる可能性もあるわけです。ただ、これには時間がかかりすぎるでしょう。また、もしそうなった時には、世界の誰も太刀打ちできない中国産業が完全にロシアを支える側についてしまうでしょう。──今後のシナリオは? 私たちがいま目の当たりにしているのは、経済面での戦争、対立です。そういう意味で、私は以前から「第3次世界大戦は始まっている」と言っていますし、経済面では多くの国がその“世界戦争”に巻き込まれています。 ただし、それは軍事的な戦争というわけではなく経済戦争です。軍事的な争いはまだ一部ですが、アメリカがドイツを巻き込むなどして、軍事対立が世界規模に広がってしまうと、戦争の終結はあっという間でしょう。それはロシアの極超音速ミサイルや戦術核の利用を意味します。アメリカ側の航空母艦などは、あっという間に破壊され、終結は悲惨かつ早いものになるでしょう。 戦争の長期化の本質は経済です。そして、今まさに私たちはその世界的経済戦争のまっただ中にいるというわけです。それはもう皆が経験しているわけですよね。生活水準が下がるといったことも、そのうちの一つなわけですから。そして、アメリカがまさにこの戦争に負けつつあるのが現状なのです。
2025.02.24
谷川萌々子が開始18秒でスーパーゴール&田中美南が2戦連発!新体制2戦目のなでしこJ、コロンビア相手に2-1で後半へ2/24(月)なでしこジャパンは現地時間2月23日、2025 SheBelieves Cup第2戦で、コロンビア代表とアメリカで対戦している。なでしこジャパンは、開始わずか18秒で先制。19歳の谷川が距離のある位置から左足を振り抜き、豪快なミドルシュートでゴール右隅に叩き込んだ。 さらに8分、谷川が蹴ったCKに、田中が下がりながらのヘッドで上手く合わせ、リードを広げる。好調の背番号11は今大会3点目となった。 24分にはミスからカウンターを食らうも、素早く帰陣し、ピンチを防ぐ。 日本はその後も押し込み、41分に北川、藤野が立て続けにシュートを放つが、いずれもアンヘラ・バロンのブロックに阻まれる。前半中盤の植木の手当てに時間を要し、アディショナルタイムは5分取られるなか、45+4分にカウンターからリンダ・カイセドに被弾。今大会初失点を喫し、2-1でハーフタイムに入る。「なでしこつえええ」開始18秒ゴラッソなどでまた4発!また圧勝!早朝からファン大興奮!「谷川伝説は始まっている」試合開始わずか18秒ファーを打ち抜き日本先制!新体制初陣となった3日前のオーストラリア戦(4-0)から先発5人を変更。熊谷紗希、長谷川唯らはスタメンを外れたなか、開始わずか18秒で谷川萌々子が左足でスーパーゴールを奪い、先制に成功する。 その後、8分に田中美南、57分に浜野まいか、80分にPKで再び田中が追加点を挙げた。一方で、45+4分にハーフウェイライン付近でのボールロストからカウンターを浴び、リンダ・カイセドに被弾。今大会初失点を喫したものの、危なげなくコロンビアを退けた。💛アナウンサー「皆さん朝4時から見ていると思うんですけど、目の覚めるような谷川の一閃」SNS上は早朝から熱いコメントで溢れている。「またもや圧勝、そして4ゴール。素晴らしい1日の始まりだ!」「なでしこつえええ」「今日もまた驚愕のなでしこ」「まじで強くなったな~結果も内容も良かった」「長谷川唯を使わずに完勝だよ」「谷川伝説は始まっている」「次のアメリカ戦が楽しみだ」「アメリカも撃破して全勝優勝してもらいましょ」攻撃力光るなでしこ 2試合連続の4得点大勝 ニールセン監督「これからどんどん良くなる」2/24(月) ◇シービリーブス杯 日本 4―1 コロンビア(2025年2月23日 米国アリゾナ州) サッカーの女子日本代表「なでしこジャパン」はコロンビアに4―1で快勝。初戦のオーストラリア戦から先発5人を入れ替え、2試合連続の4得点で2連勝とした。ニルス・ニールセン監督「改善しないといけない場面はあり、ビルドアップは落ち着きがなかった。ただみんな全力を尽くしてくれた。まだ2、3回しかトレーニングしていない。これからどんどん良くなると思う」 4カ国総当たりのリーグ戦で争われる今大会最終戦は、26日(日本時間27日)にFIFAランキング1位の米国と対戦する。田中「得点する意識、ゴールに向かう姿勢がチャンスを生み出している。次を勝てば優勝が決まる。しっかり勝ちたい」
2025.02.24
ドイツ総選挙、最大野党の保守「キリスト教民主・社会同盟」メルツ党首が勝利宣言 政権交代へ 極右政党も第2党に躍進の見通しドイツでは23日に総選挙が行われ、最大野党の保守「キリスト教民主・社会同盟」のメルツ党首が勝利宣言し、政権交代する見通しとなりました。移民排斥を掲げる極右政党も第2党に躍進しています。記者(ドイツ・ベルリン)「地元メディアが出口調査の結果を報じていまして、保守政党『キリスト教民主・社会同盟』が第一党になる見通しだということです」公共放送「ARD」は出口調査の結果、最大野党の保守「キリスト教民主・社会同盟」が得票率29%で、第1党になる見通しだと報じ、メルツ党首は勝利を宣言しました。キリスト教民主・社会同盟 メルツ党首「最も重要なのは、できるだけ早く組閣することです。内政を立て直し、ヨーロッパで再び存在感を発揮できるように」また、移民排斥を掲げる極右政党「AfD=ドイツのための選択肢」も19.5%で、前回の選挙から倍増し、第2党に躍進すると伝えられています。一方、ショルツ首相率いる与党は、得票率が16%と伸びず、政権交代する見通しとなりました。
2025.02.24
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)57-60頁答えは問う人次第、百人百様。 自分の問いを持て ハーバート大学での講演のあと、「公案を用いないで、どのような独参をするか」という質問が出た。 中国に1700といわれる公案が伝えられている。それらはみな求道に生涯をかけた先人たちが、至り得た一句やそのありかたを記しとどめたもので、後の者たちはそれを手本とし、あるいは道に散ずるための手掛かりとして拝借する。それが公案を頂いて参禅し、独参するという在り方である。 たとえば「無字の公案」というのがある。これは唐代の禅の巨匠である趙州(じょうしゅう)に、ある僧が「狗子(くし)に仏性有りやまた無しや」ー犬に仏性が有るか無いかーとたずねた。趙州は「有り」と答えた。別の日、別の僧の同じ問いに対して趙州は「無し」と答えた。これが」「無字の公案」の出どころである。 問いに対する答えというものは、問う人の状態に応じて無限の対応をせねばならない。 答えは問いの域を出ないというけれど、問う人次第の答えとなる。 他人に問いに対する答えは、参考になっても私の答えではないのである。◎無の一字犬にも仏性はありますか。趙州和尚は答えました、「ない」。修行僧は、上は諸仏から下は蟻にいたるまですべて仏性があります、犬になぜないのですかと問うと、趙州和尚は、彼に業識性があるからだと答えました。業識性というのは、惜しい、欲しい、憎い、かわいいなどという迷いの性質をいいます。もともとはこういう単純な問答でありました。また趙州和尚の語録には、おなじく「犬にも仏性がありますか」と問われて、「家々の門前の道は、長安の都に通じている」と答えています。どの道も長安に通じるということは、みんな仏性を持っていて、必ず仏になれるということでありましょう。もともとは、何でもない会話であったのでしょう。趙州和尚にしても、命あるものは皆仏心を具えていると思いこんでいる観念を打破しようとされたのか、無いと答えたのかもしれません。朝比奈宗源老師は『無門関提唱』(山喜房佛書林)のなかで「たゞ無である。有無の無でも虚無の無でもない。強いて云え ば絶対の無だ。だからこの僧の引っかけようとしたわななど届きっこはない。全く摸索不着だ。しかし趙州はこの無の一字によって、仏性の絶対性、普遍性を、百千万言を費やす以上に明瞭に力強く吐露されたのだ。寸鉄人を刺すと云うがこの一箇の無字が魔のついた短刀のように、後来いかに数多くの祖師方の生命を奪ったか、本書の著者無門も、仏光国師も、白隠も皆この無字によって大死一番されたのだ。禅者の眼から見ればこの一ヶの無字が一大蔵経でもあり、全宇宙でもある、偉なるかな無字。」と述べておられるように、特別な意味を見いだしていったのでした。このように「無」の一字を特別に取り上げて、この「無」の一字を全身全霊をあげて工夫せよと、宋代の禅では説かれるようになりました。「看話(かんな)禅」とも呼ばれます。 「三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って通身に箇の疑団を起して箇の無の字に参ぜよ」と、『無門関』を編纂した無門慧開禅師は示されました。「三百六十の骨と八万四千の毛孔を挙げて、全身まるごと疑いのかたまりとなり、ただひとつの無字に参じて、昼となく夜となくこれを引っさげよ」というものです。「虚無の無であるとか、有無の無であるといった理解をしてはいけない」とも言われているのです。ではどうすればいいのかというと只ひたすら無になりきるのみなのです。その様子を『無門関』では、「真っ赤に焼けた鉄のかたまりを呑みこんだようなもので、吐きだそうにも吐きだすことができない」のような状態になって、「それまでの誤った認識を根絶やしにし、ただ「無字」のみとなってその状態をたもてば、いずれ内と外とが自ずとひとつに成るだろう。」と説かれています。ここを朝比奈宗源老師は、『箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し。』これは無字と自己と一枚になってすすむ様子だ、もし吾々が真赤に焼けた鉄の丸を呑んだとしたらどうだ。じゅうじゅうと音を立て五臓六腑は焼けただれて了うであらう。無字もまたそうだ。無字一つになりきつて坐わると、平生の意識分別は熱鉄丸に逢った五臓六腑のように、跡も片もなくなって了う。但しそれは本当に成り切って坐われた時にはだ。初めは中々そう行かない。少しなり切ったと思うと、ぽかぽかっと雑念が出て来る、又なり切る、又出る、又なり切る。この関係をよく落葉する庭を箒で掃くのにたとえる。掃けば散る、散れば掃く、それを繰り返し繰り返して生命の続く限り掃く、無字ならばつまり根(こん)限りなり切って行く。このところだ、掃き手と落葉とは別々だが、坐禅の上ではなり切るものと、ぽかりぽかり出る雑念とはもともと二つではない、さきに云つた坐禅の要領を心得て、じっくりと、しかし猛烈になり切つて行けば、いつの間にか雑念は消えて、濶然として澄みきって来る。えも云えずすがすがしくなる。その時大分よい境界になったぞと思う、それもまた妄念だ、それをも振り払って只只無になって行く、やがて無になつたと云う心もなくなる。心路を窮めて絶すると云うはこゝだ。」と丁寧に説いてくださっています。要するに全身まるごとで、この「無」とは何か、疑いのかたまりになって、参じてゆけと説いたのです。この無字を文字通り、体で工夫します。腰骨を立てて、下腹に気力を込めて、吸い込んだ息を下腹におさめて、下腹をふくらますようにして、そしてそのふくらませた下腹をそのまま保ったまま、むしろ前に押し出すように下腹に圧をかけながら、息を長く吐いてゆきます。その時にただ「無字」に合わせて息を吐いてゆくのです。これを繰り返し繰り返し行います。こんな事が何になるのかと思われるかもしれません。もっと思想的に究明した方がよいと思われるかもしれません。しかし、ただ馬鹿になって、こんな単純なことを繰り返すのです。そこに大きな意味があるのです。新しく僧堂に入って修行僧は、こういう修行に取り組みます。すでに数年取り組んできた先輩の修行僧に無字の公案をやってみてどんな感じがしたか聞いてみました。集中力がついたとか、体全身から気力がみなぎってくるのを感じたとか、大きな力が出てくるのを感じたなどいう感想がありました。やってみるといろんな気づきがあるものです。そんな無字の工夫について考えると、坂村真民先生の「鈍刀を磨く」という詩を思うのであります。 鈍刀を磨く鈍刀をいくら磨いても無駄なことだというが何もそんなことばに耳を貸す必要はないせっせと磨くのだ刀は光らないかも知れないが磨く本人が変わってくるつまり刀がすまぬすまぬと言いながら磨く本人を光るものにしてくれるのだそこが甚深微妙の世界だだからせっせと磨くのだこの詩と同じような世界であります。ただひたすら訳も分からずに、全身全霊で下腹に圧力をかけて無字になりきって息を吐いていると、無とは何か、思想的なことが解明されるわけではありませんが、ひたすら取り組んでいるその人が、「無」になってきます。「無」 になって、澄み切ってきます。更に光り輝いてくるのです。本人もまわりも光ってきます。「無」に成りきった者ほど、清らかですがすがしいものはありません。禅の本領でもある「すがすがしさ」や「さわやかさ」というようなものは、この訳も分からずただひたすら一呼吸一呼吸打ち込むことから現れてくるものです。それで、ただ全身全霊で無の一字の呼吸をするのです。
2025.02.24
【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す その2[報徳記&二宮翁夜話]199円応は、二宮先生の言葉に感動して烏山に帰り、家老の菅谷に「今の世にこのような偉大な人物がいようとは思いませんでした」とその説諭の次第を告げた。菅谷は、「ああ、二宮はなんという賢人か」と感嘆し、家臣をして桜町に遣って、近いうちに伺いたいと言わせた。二宮先生は他国の臣に面会する暇はないと断られたが、強いて面会した。二宮先生は「烏山の家老が当地に来たらんとする、何のためじゃ。 私は主君の命令を受けてこの地の民を撫育(ぶいく)している。 元より少しの暇もない。 どうして他藩の臣とのどかに話するヒマがあろうか。 菅谷氏は烏山藩の家老ではないか。 それ家老の任務というのは、上は君主を補佐して仁君の道を踏ましめ、下は国民を安んじその所を得させることを職務とする。 それであるのに今、飢饉の年にあたって米蔵は空っぽで救助の道なく、国民の飢渇を救うことができない。坐したままで国民が餓死していくのを見ようとするのか。これは常日頃の政治が当を得ていないからだ。礼経に言うではないか。『国に三年の貯えなきは国その国に非ず』と。三年の蓄えがないことすら、このように戒めたのである。今、烏山の貯蓄は三年どころか、一年の飢饉ですら国民を飢渇に陥らせている。どこに仁政があるというのだ。それ諸侯の任務は天より民を預かって、これを養い、これを撫育し、これを安んずることにある、今、その預かるところの天民を飢死に落とすならば、どこに諸侯の道があろうか。君もこのようであり、家老もこれを知らないで人の上に立って、もっぱら衣食に飽いて、安逸にすることが自ら諸侯や家老の任務だと思っているのか。このような人物が私の門前に来ることを欲しない。ましてどうして面会しようか。あなたはすぐに帰って、菅谷氏が来るのを必ず止めよ。」と大声で戒められた。家臣は汗が肩や背まであふれて、ボウゼンとしてやっとのことで烏山に帰った。「大いに罵って、その声は雷のようでした。彼は正気ではありません。きっと狂人です。家老は決して行ってはなりません」と顔色を変えて尊徳先生が言われたことを報告した。菅谷はその報告に感激して、「本当に賢人である。一年の飢饉で民を飢えさせるのは君臣ともに道を失っていたからだ。今の世にこのように君臣が道を失っていると公然と教え諭す英傑がいようか。二宮の言は率直でその理は明らかである。この人に道を問わないで誰に問おう」とますます尊徳先生に親しく道を聞きたいと思ったのである。報徳記 巻之三【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す某(ぼう)なるものを呼びて曰はく、今、凶荒(きょうくわう)の憂(うれひ)既に甚(はなはだ)し。而(しか)して倉廩(そうりん)空乏(くうぼふ)百計(けい)民を救ふに術(じゅつ)なし。櫻町二宮なるもの、非常の英才なりと聞く。近日我(われ)往(ゆ)きて道を問はんとす。子(し)先づ往きて某(それがし)の至らんことを二宮に告げよ。是も亦二宮を敬するの一事(じ)なりと。某(ぼう)諾(だく)して直(たゞち)に櫻町に來り、此の條(でう)を告ぐ。先生又他邦の臣に面會(めんくわい)するの暇なきを以て之を辭(じ)す。某(ぼう)大いに心を苦しめ、先生大夫(たいふ)に逢はんとの言(げん)を聞かずして歸(かへ)らば、菅谷來(きた)るの道なからんか。我此の地に來り、面會を許さゞるの斷(ことわり)を得ずして退かば、來りたるの甲斐(かひ)は無かるべしと、再三面會を請ひて止まず。先生止む事を得ず、某を呼びて曰く、烏山(からすやま)の大夫(たいふ)當地(たうち)に來(きた)らんとする、何(なん)の爲(ため)ぞや。我(われ)主命(しゅめい)を受けて此(こ)の地の民を撫(ぶ)せり。元(もと)より寸暇(すんか)あらず。豈(あに)他邦(たほう)の臣(しん)と閑談(かんだん)するの暇(ひま)あらんや。菅谷某(ぼう)は烏山の大夫(たいふ)にあらずや。夫(そ)れ大夫(たいふ)の任(にん)は上(かみ)君(きみ)を補佐(ほさ)して仁君の道を蹈(ふま)しめ、下(しも)國民(こくみん)を安撫(あんぶ)して其(そ)の所を得(え)せしめ、國富み民豊かなるを以て大夫の職とせり。然るに今飢歳(きさい)に當(あた)り、倉廩(そうりん)空虚にして救荒(きうくわう)の道なく、國民(こくみん)の飢渇(きかつ)を救ふことあたはず、坐(ゐ)ながら民の餓死(がし)するを見るか。是(これ)平生(へいぜい)の政(まつりごと)其(そ)の至當(したう)を得ざるが故(ゆゑ)なり。禮(れい)に言わずや、國(くに)三年の蓄(たくはへ)なきは、國其の國に非ずと。三年の蓄(たくはへ)なきすら是(こ)の如く戒めたり。今烏山の儲蓄(ちょちく)豈(あに)三年を論ぜんや、一年の飢饉(ききん)だも國民をして飢渇に陥(おちい)らしむ。何(いづ)れの處(ところ)に仁政(じんせい)かある。夫(そ)れ諸侯の任は天民(てんみん)を預り、之を養ひ、之を撫(ぶ)し、之を安(やすん)ずるにあり。今其の預かる所の天民を飢亡(きぼう)に落さば、何を以て諸侯の道有らんや。君も是(こ)の如く、大夫も之を知らずして人の上に立ち、專ら衣食(いしょく)に飽き、安逸(あんいつ)を以て自ら諸侯大夫の任と思へるか。是(こ)の如(ごと)き人物我が門前にも至ることを欲せず。況(いはん)や何の爲(ため)に面會(めんくわい)せんや。子(し)速(すみやか)に歸(かへ)り、其の來(きた)ることを必ず止めよ と、大音(だいおん)にて之を戒め、直(たゞち)に立ちて再び見(み)えず。某(ぼう)なるもの流汗(りうかん)肩背(けんばい)に溢(あふ)れ、茫々然(ぼうぼうぜん)として烏山に歸(かへ)り、菅谷に告げて曰く、大夫(たいふ)の言(げん)に隨(したが)ひ、櫻町に至りて二宮に面會を請ふこと再三再四に及び、見(まみ)ゆることを得たり。然るに妄言(ぼうげん)是(こ)の如し。一歳(さい)の飢饉にだも國民を飢(うゑ)に陥らしむ。君も君の道を失ひ、大夫も大夫の道を知らず。自ら安逸遊惰(あんいついうだ)を以て、人の上に立ち、大夫の任と思へる歟(か)飢歳に至り民を救ふことさへ知らずんば、何を以て一日も其の職に安んずるや。是(こ)の如き者に逢ふことは我が欲せざる所なり。汝速に歸り、其の來ることを止めよと、大いに詈(ののし)る其の聲(こゑ)雷(らい)の如し。彼本心にはよもあらじ、定めて狂人ならん、大夫必ず往くことなかれと、顔色(がんしょく)を變(へん)じて之を告げたり。
2025.02.24
アメリカは「戦争が必須と考える国」トランプ大統領は変えられるか エマニュエル・トッドが語る世界の問題2/23(日)──ガザの状況はどうなりますか。 トランプの大統領就任前日から6週間の停戦に入ったわけですが、わかったことはイスラエルという国は一国では何もできない、アメリカの支援が必要だったということです。同時に、トランプが即座に停戦を実現できたということは、バイデンもいつでもこの惨状を止めることができたということです。ガザでの殺戮(さつりく)に関していかにアメリカに責任があったかが明らかになりました。アメリカはイスラエルと共にガザの人々の殺戮に参加していたとすら言えるでしょう。 ガザでの停戦はありましたがヨルダン川西岸では問題は深刻化しています。イスラエルがどんどんニヒリスト的な国になっている点も際立ってきました。物事が解決に向かっているとは思えないのが正直なところです。イスラエルという国は完全に極右の国になってしまったわけですけれども、アメリカが戦争の手段をイスラエルに与え続けることで、イスラエルはさらなる対立に進み続けてしまうだろうと思います。これは非常にばかげたことに聞こえるかもしれませんが、アメリカが崩壊したら中東にようやく平和が訪れるでしょう。 日本も含めて今ここにいる私たちは皆、西洋の人間ですね。アメリカのシステムに含まれているわけです。私たちはアメリカに守られているはずの国の人間です。そして、民主主義を重要視している国の人間です。アメリカという国は、昔は楽観的なイメージを世界に普及させてくれる国でした。私もアングロ・サクソン文化に育てられてきました。ハリウッド映画もそうですし、アメリカの音楽を聴いて育ちました。アメリカは世界中の人々に夢を見させてくれたわけです。これまでの私の発言を見てみると、アメリカに関して、少しずつ意見を変えてきていることに気づかれると思いますが、どちらかというと常にアメリカに近い立場を取ってきました。ところがここに来てアメリカこそが世界の問題だというように考えざるを得なくなっているのです。いうのも、アメリカという国が国際社会でやっていくためには戦争こそが必須の手段の一つだと考えている国になってしまったからです。平和の実現は困難だと考えている。トランプがこうなってしまったアメリカを実際変えられるなどとは到底思えません。 ロシア・ウクライナ問題でもアメリカは、停戦は難しいと考えていますが、ロシアとの平和的な解決に向かうというのは実はとても簡単なことです。ロシアの人口は高齢化していて、そういう意味でも戦争を維持していくことには無理があります。そもそもロシアは合理的な考え方も持っている国ですし、ロシア人も結局は私たち西洋の人々と根本的には変わりません。何より、ロシアの人も私たちと同じく戦争を忌み嫌っているはずなんです。NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大などいろいろなファクターによってロシアは戦争を始めてしまったわけですが、ロシアだって実際は平和を願っているはずです。 ただ一つ言えるのは、トランプ自身は戦争を嫌っているということです。これは称賛に値する点ではないかと思います。戦争を嫌うというのはそれだけで素晴らしいことだと思います。ただし、トランプは勢力をあがめる人間です。勢力関係を重視する人間であり、アメリカの覇権を重要視する人間です。だから結局戦争に巻き込まれてしまうのです。■日本はどうすべきか──この世界の中で生き残っていくために日本はどうすべきですか。 すべての深刻な問題は今ヨーロッパにあります。だからアメリカもヨーロッパに集中しているわけです。今後アジアで戦争を始めるための手段はトランプにはないでしょう。だからアジアですぐに戦争が始まるということはないと考えます。日本は今まで通りに、鳴りを潜めて目立たなくしていることが大事です。もちろんアジアには中国という火種はありますが、少子化で人口減少が続き、人口動態的に非常に重要な弱点を抱えている国だということを忘れてはいけません。それに、中国はアメリカという脅威も考慮しなければならないので、中国側から見てもそう簡単には戦争にはならないでしょう。 ですから日本については、すでに何度も言ってきた通り、核兵器を保有し、アメリカとの通常軍事演習にはあまり参加しないことが大事です。問題はヨーロッパで終結するでしょう。少し前までは、中国とアメリカこそが世界の対立軸だと言われていました。もし本当に中国とアメリカの対立が起きていたら、もちろん日本は難しい状況に陥っていたでしょう。しかしそうはなっていません。いま起きているのは西洋世界の終焉です。 第1次、第2次、そして第3次世界大戦が、すべてヨーロッパを中心に起きているというのも非常に興味深い点です。おそらくこの戦争が終わった後は、多極化した世界が現れて、脱西洋化した世界になるはずです。そうなると、日本は非常に理想的な立場に置かれることになると思います。 というのも、日本というのは西洋側にいる国なのに歴史や文化的に非西洋の国だからです。そんな国は他にほとんど存在しません。アメリカ覇権が終焉した世界では、日本は交流の場となり、有望な協力の地となりうるでしょう。 最後に大事なことをひとつ。日本はもっと子どもをつくらないといけないですね。世界の問題というのは戦争ではなくて、むしろ出生率だからです。💛アメリカだけでなくロシアも「戦争が必須と考える国」? ベトナム戦争、アフガニスタン戦争は終結まで20年 イラク戦争はアメリカ軍撤退まで8年 ウクライナ戦争も終結まであと5年以上かかるのでは? アメリカ ロシア1955年~1975年(20年) ベトナム戦争2001年~2021年(20年) アフガニスタン戦争2003年~2011年(8年) イラク戦争2022年~ (現在3年) ウクライナ戦争
2025.02.23

水尻自子監督アニメに短編銀熊賞 ベルリン国際映画祭2/23(日) 世界三大映画祭の一つ、第75回ベルリン国際映画祭の授賞式が22日夜(日本時間23日未明)開かれ、短編部門で水尻自子監督のアニメ「普通の生活」が、最高賞に次ぐ銀熊賞(審査員賞)を受賞した。長編作品が競うコンペティション部門の最高賞の金熊賞には、ダーグ・ヨハン・ハウゲルード監督のノルウェー映画「ドリームズ(セックス、ラブ)」が選ばれた。水尻監督は授賞式にビデオメッセージを寄せ「言葉では言い表しにくいような感覚的な作品で賞を頂けたことは、本当に光栄に思います」とコメント。短編部門の銀熊賞は2012年に和田淳監督の「グレートラビット」が受賞している。 子ども向けの作品を集めた「ジェネレーションKプラス」部門では、横浜聡子監督の「海辺へ行く道」が国際審査員の特別表彰を受けた。 「普通の生活」は女性の装いの人物が指先で犬の口に触れたり、水があふれた靴に足を入れたりと、人や物が接触する感覚を淡い色彩で描いた。授賞式「単純なものと微細な部分を巧みに組み合わせて、詩的なパステル調の世界へと導いてくれた。普通の生活を催眠術のような芸術作品にしたことに魅了された」水尻監督は、授賞式に寄せたビデオメッセージ「明確な物語やセリフもなく、言葉で言い表しにくい感覚的な作品で賞をいただけたことはほんとうに光栄です。〝普通〟は人によってさまざまですが、どの〝普通〟も感触を感じることができる身体を持って生きていることは共通していると思います。その中での感触的な心地よさや不思議さを表現しているアニメーション作品です。今までの作品で最も多くの人が関わり、協力してもらってできた作品なので、プロデューサーをはじめ音楽家の方、スタッフのみなさんにも感謝しています。そして作品の中に登場する犬は私の愛犬がモデルなのですが、いつもそばにいて素朴で温かい幸せをありがとうと言いたいです」」
2025.02.23
『べらぼう』はなぜ新しい大河なのか “完全な善人も悪人”も存在させない森下佳子の信念2/23(日)脚本家・森下佳子「蔦重が育ち愛着も持っていただろう吉原は、今の価値観からするとさまざまな意見が出る場所です。でも、その『非』について語り尽くされた今も、似た状況を全くなくせていないのが私たちの現実。ならば、是非論に軸足を置きすぎず、過剰な否定も肯定もしない、そこに生きた人を見守るのがこのドラマの取れるスタンスかな、と。見守ることで見えてくる人や社会のどうしようもなさ。その中で、皆何を考えどう生きたか。そんな事も少し伝わればいいと思っています」蔦屋重三郎は、浮世絵師の葛飾北斎や喜多川歌麿、戯作者の山東京伝や曲亭馬琴(滝沢馬琴)、十返舎一九らを世に送り出した「江戸のメディア王」。出版業で成功した人物として認識している方が多いでしょう。 私は彼のそのサクセスストーリーよりも、彼がまわりを巻き込みながら人々を豊かにしていく人間性を大切に描いていきたいなと思いました。彼のお墓に「陶朱公のように生きた」と刻まれていたことがそのきっかけ。陶朱公というのは『史記』に登場するほど有名な中国の政治家・軍人で、のちに商人となって移り住んだ土地に富をもたらしていったという伝説の人物・范蠡(はんれい)のこと。つまり、蔦重はビジネスで成功を収めただけでなく、陶朱公のようにまわりの人を豊かにした人だと残されているのです。 もうひとつ、彼が育てた江戸のベストセラー作家のひとりである滝沢馬琴が「蔦重はとにかく人に好かれて、それでやってこられた」というような言葉を残していました。滝沢馬琴ってかなり性格が悪いらしく、そんな男にこうも言わせた蔦重は相当の吸引力があり好かれた、まさに人に囲まれて生きた人だったと思います。蔦重は貧しい生まれで親もいなくなり、二十歳ごろまで厳しい境遇のなか吉原で生きているんです。過酷な境遇を生きてきた人を描くときに「復讐心」を原動力に突き進む人物像につながりがちですが、親がいなくなった蔦重の場合は吉原の人たちに活(い)かしてもらったという気持ちがあるのではと思いました。親に売られた女郎たちを見て「自分だけがつらいわけではない」と支えられた。さらには、そういう女性たちがいる吉原のおかげで、自分は食えて生かせてもらっている。生まれつき人を恨まないタチかもしれないけれど、そうはせず、周りの人のために行動する人物として描くことにしました。 演じる横浜流星さんはこれまで思いを内に秘めるような役が多かったと思いますが、「べらぼう」ではまた違ったキャラクターに挑戦していただきました。面白くてパワフルで、目が吸い付けられるような蔦重を私も楽しみにしています。そんな蔦重を育んだ吉原を描くにあたっては良いところも悪いところも、そこにいる登場人物一人一人が「人」なのだということを忘れてはいけないと思っています。そこに生きた人たちにどういう選択が許されていて、どう生きたのか。光と影の両方を大事に描いていきたいですね。江戸時代の後期は、長く続いていた武家社会に商人が台頭してくるようになり、武家が権威にあぐらをかいているわけにはいかなくなりました。 政治的な面での重要人物でもある田沼意次は、そんなふうに世の中が変動していくなかで成り上がった人。私の中では、もう一人の蔦重のような存在です。すごく政が好きで世の中をこうしたいというビジョンがあったんじゃないかと思います。現代に通じるところも多いので、彼がもがいた痕跡は成功も失敗も描いていきたいですね。「べらぼう」で描く江戸中期は泰平の世。争いといえば、お金や見栄(みえ)、承認欲求の戦いだという気がします。同時に災害が多かった時代でもあり、まさに現代の私たちが体験していることと全く同じですよね。 格差が埋められなかったり、頭打ちといわれていたりと日本人の元気がない現代。社会のせいにしたいところではあるけれど、ただただ膝をかかえていたり、人を責めたりしていても誰かが助けてくれることって、現実的にはあまりない。 若いころの蔦重は豊かなアイデアで人々が求めるコンテンツを生み出すだけでなく、しきたりや慣習だらけの社会のなかで、それをどう世に広めるかを必死に考えていました。だから蔦重には「すり抜けろ、生き抜け」という思いが強いですね。どこに隙間があって、どうやれば思いを通すことができるのか。現代の我々も同じでアイデアとノウハウのどちらも必要というか、物事が達成されるためにはその両面が必要なんだと思います。――江戸時代中期を描く楽しさは、どんなところにありますか?森下さん:戦国時代ではなく太平な世に出てくるのは、金・見栄・承認欲求の戦で、現代と変わらない状態だと思います。同時に、当時は噴火など自然災害も多く、冷夏で米ができない異常気象が続き、それも私たちは体験しています。そんな中で人間のすることはどの時代も変わらない。おもしろいなぁって感じます。――ドラマ10「大奥」(原作:よしながふみ)の脚本も担当されましたが、参考になる部分はありましたか?森下さん:男女逆転という設定ですが、よしなが先生がすばらしい江戸時代の通史をつくってくださったので、この時代の政治的な動乱についてはとても呑み込みやすかったです。――大奥でも、蔦重が生まれ育った吉原でも、女性が働く点では同じです。今回、吉原を描く際に大切にされていることはありますか?森下さん:今の価値観からすると、大奥も吉原もどうかという意見もあると思いますが、実際に存在していたものなので、できるだけ光も影の部分も描きたい。吉原では、そこで働く人も訪れる人も皆人である、という点を忘れないようにしています。――蔦重のキャラクターはどんなふうにつくられていますか?森下さん:蔦重について、滝沢馬琴が「教養はなかったが、人に好かれていたのでやっていけた」という趣旨のことを書き残しています。あまり性格がよくないと言われている馬琴でさえ、蔦重を評価している。それほどの吸引力があり、人に好かれる人物だったという点を大事にして描いています。――蔦重は貧しい庶民の子として生まれ、幼いときに両親とも生き別れたという設定ですが、周りの人を思いやる人物として描かれています。森下さん:貧しく踏みつけにされた人は復讐心をもつ、という描き方もあったと思います。でも、彼は吉原の大人にひどく扱われながらも食べさせてもらっています。また、周りには親に売られてきた女郎もたくさんいるので、自分だけがつらいとは思わなかったのではないかな、と。残された本などを見ても、蔦重は「じゃあみんなで何とか幸せになろう」と、ポジティブに生きていった人だと想像しました。――蔦重を演じる横浜流星さんに期待されている点は?森下さん:横浜さんは、内に熱を込めた、熱のこもったキャラクターの役が多かった気がするので、このドラマでは明るくパワフルな彼の芝居を見られるのが楽しみです。――視聴者には、蔦重からどんなことが伝わればいいとお考えですか?森下さん:今の日本はあまり元気がない状態で、格差もどんどん開いている。でも、そこで膝を抱え込んでいても、人を責めても変わらない。困難にぶつかりながらも隙を見つけてすり抜け羽ばたいた蔦重のように、どこかにきっとチャンスはあるよ、と伝えたいです。「蔦重、うまくやれ!生き抜いて!」と思いながら書いています。――江戸城にいる政治家たちは、どんなふうに描こうとされていますか?森下さん:例えば田沼意次は足軽から成り上がって生き抜いてきた人なので、もうひとりの蔦重ともいえます。当時の経済システムが米主体から貨幣に変わるなかで、意次には政(まつりごと)に対する強い意欲やビジョンがあったのだと思います。結局は失敗という評価になるのでしょうが、彼がもがいた軌跡は描きたいです。 ――松平定信はいかがですか。出版弾圧はどう描きたいですか?森下さん:そこは複雑で、定信個人としては黄表紙が大好きで自分でも書いているくらいなのです。でも、政治的部分では、彼はやらなければならないと思ったんではないでしょうかね。そこは話としてはとてもおもしろいところだと思います。――平賀源内はいかがですか?森下さん:源内は、生まれる時代が早すぎたのかな。源内の書いている文章を見ると、中二男子みたいな感じで毒を吐いているのですが(笑)、本質論はしっかりしているし、本当に賢くて同時に大馬鹿者で大好きです。――黄表紙のお話も出ましたが、江戸のエンタメをどう伝えたいですか?森下さん:私自身、この企画をはじめるまでまったく黄表紙は知らなかったのですが、ナンセンスでシュールで、すごくおもしろい。全部紹介するわけにはいかないのですが、できる限り伝えたいですし、これをきっかけに興味を持つ方がひとりでも出ればいいなと思いながら書いています。――特にお好きな作品はありますか?森下さん:恋川春町の『廓ばかむら費字尽(さとのばかむらむだじづくし)』*が大好きで、こんな本が日本にあったんだと感動しました。ドラマでも出てくるので、ぜひ注目していただきたいです。――黄表紙は、現代の人に伝えるのが難しそうなイメージもあります。森下さん:できるだけわかりやすく伝えたいのですが、考証の先生方に「黄表紙は読むものではなく見るもの」と教えていただいたので、絵解きもしなければならない。大変ですが、出てくる名作については最低限のストーリーくらいは何とか説明したいです。 ――ドラマ後半に出てくる写楽について、楽しみにしている視聴者も多いと思います。どんなふうに描きたいですか?森下さん:私は写楽が誰かということよりも、なぜ蔦重が写楽をプロデュースしたのかという部分に興味があります。写楽の売り出し方に不可解なところがたくさんあり、なぜあまり売れない絵を出し続けたのか、蔦重は何を考えていたのか、まだ整理ができていなくて。プロデューサー蔦重が何を狙っていたのか、そこに最大の謎を持っていきたいと思っています。――大河ドラマは歴史劇ですが、エンタメとして描きたいですか?森下さん:大前提としてテレビドラマはエンタメですから。歴史の流れは抑えつつも、何とかエンタメとして成立させたいですね。以前、「おんな城主 直虎」のときに、何をもって大河ドラマというのかNHKの方に聞いたら、「祭り」だと。スターをキャスティングして祭りのように派手にやるのが大河の原点ということなので、「祭り」の心意気を大切に描いていきたいと思ってます。*
2025.02.23
報徳の歌ー二宮尊徳道歌から学ぶー」小関栄著 4 修学の歌 (72頁)常に行く道だにさらにわかたなむ 積もれば雪もくろく見ゆらん この歌には題として論語の「過ぎたるはなお及ばざるが如し」が付けられている。 雪は小量なれば景色も美しいが、雪が降りすぎると、景色どころではない。通行にも不便、常に行く野辺の道でさえもはっきりしないで側溝に落ちることもある。 この「くろく見ゆらん」は、野山に積もった白い雪さえも、眼を刺激して灰色を及んで見えることがある。過度にいって黒くと表現しているが、すべてのものは度合いが大切であるというのである。 三才独楽集には、過度を戒める歌として修学の項に入っている次のような歌があります。 常に行く野辺だに今朝は白雪の 積もれば道もわかたざらなん
2025.02.23
【動画】三笘薫が40メートル独走ドリブルから絶妙ループ弾「神業すぎ」「誰も追いつけない」3戦連発!三笘薫の40メートル独走→絶妙ループ弾に驚嘆の声続々!「速すぎて見失うとこだったわ」2/23(日) 現地2月22日に開催されたプレミアリーグ第26節で、三笘薫を擁するブライトンは菅原由勢が所属するサウサンプトンとアウェーで対戦。4-0で大勝を飾った。左サイドハーフで先発した三笘は2-0で迎えた71分、ハーフウェーラインを越えたあたりでジョアン・ペドロのパスを受けると、そこから約40メートルを独走。最後はふわりと浮かせたループシュートで、3試合連続ゴールを奪ってみせた。◎現地メディア『Sussex World』「ミトマがここ7試合で5点目を決めた。(ジョアン・)ペドロとの連係からのラブリーなフィニッシュだった。ただ、サウサンプトンから見れば、あまりに簡単にやられた」採点では8点を与えた。「守備も良かったし、前へと進み1日中脅威となった。自身2度目のチャンスで、ミスなく(相手GKアーロン・)ラムズデールの頭上を越して3-0とした」三苫「抜け出した後、キーパーと1対1だったので...ペドロが1点目を決めたところのイメージも残っていましたし、(ラムズデールと)近かったので、ループの方が良いかなと思っていました」【動画】三笘薫が超絶トラップから圧巻のスーパーゴール英公共放送『BBC』元イングランド代表DFのジェイミー・キャラガー氏「いま見たものは何だ? ミトマのプレーはとんでもない」「このタッチは今シーズンのプレミアリーグで最高のものではないか。フィニッシュも悪くない!見てくれ。メッシのようだ。軽々しく言っているわけではない。天才的なプレーだった」
2025.02.23
青山俊董老師「今、ここから始めよう」(2013年12月)53-56頁言葉や文字を超えて、 真意をどう読み取るか「黄檗の仏法多子なし」の一句であるが、この一句を文字通り訳せば「黄檗の仏法といったって大したことではなかったわい」ということになろうか。私はこの質問を受けながら、まずは二つのことを思った。一つは文字を通してのみ学ぶことの危険と、翻訳物を通してしか読むことのできない者の限界である。二つ目は文字や言葉を通さず、直接その人に会う「面授」を大切にされた道元禅師のお心の深さである。私は次のように答えた。 私たちはよく否定的な言葉を使ってほめたり肯定したりする。たとえば「馬鹿野郎」の一言も、かわいくてしようがない思いをこの一言に托して言う場合もある。反対に憎悪をこめた「馬鹿野郎」もある。この一言で生きる勇気を与えられる「馬鹿野郎」もあれば、再び立ち上がれないほど相手を傷つけ、うちのめす「馬鹿野郎」もある。 文字だけ見れば同じ「馬鹿野郎」の四文字であるが、直接その人の口から発せられたとき、その四文字を通してその人の人格が、そのときの思いが流れ出し、相手を勇気づける原動力にもなれば、反対に相手をうちのめす凶器ともなる。「黄檗の仏法多子なし」という言葉は、師の黄檗の仏法への讃嘆の思いと、それを了得することができたよろこびの叫びと受け止めるべきであろう。文字を通してしか学べないときは、心して心して文字の裏のひびきを、書かれざる行間の教えを読み取る努力をせねばならない。まして原典を読破するだけの語学力がなく、翻訳物を通してしか学ぶことができない者は、それを翻訳した人がどういう人か、どれほど仏法がわかって翻訳しているか、翻訳者を択ぶことが大切であることを忘れてはならない。 宗教的、思想的深みを持ったものの翻訳は、言葉ができるというだけで訳せるものではなく、その教えがほんとうに自分のものとして消化しきっていなければ、訳せるものではないからである。 もう一つ、「多子なし」という言葉で語ろうとしている中身について考えておきたい。 私の知人で長く参禅にきていたEさんは「鍋や釜など台所の器をピカピカに磨くことから始めようと思います」といい、Hさんは,「何をするにも音をたてないようにするところから始めます」と語ってくれた。 今この一つ一つ、一言一言に心をとどめて語り、行ずる。そのほかに仏法はない、それが「多子なし」という一句で示そうとする中身の一つではなかろうか。スティーブ・ジョブズが果たした、ある禅僧との“運命的な出会い”「彼には奥さんと2人の子どもがいてね…」「文藝春秋」2025年3月号 掲載「ジョブズは和と禅に人生を救われた」20歳を目前にしたジョブズは、2つの根本問題を抱えていた。世間に馴染めぬ生きづらさと、この世で何をすべきか定められない焦燥。彼は小学校で飛び級するほど才気に溢れていたものの、幼い頃から激烈な気性で、周囲に妥協できず過剰な自己を持て余していた。加えて、生後すぐに養子に出されたことから、自分は何者なのかを知りたいという強迫的な欲求も抱えていた。青白い顔をしたジョブズは、ある日、近傍にあった「俳句禅堂」の門を叩く。俳句禅堂は、ガレージを改造した、俳句の文字数と同じ17人だけが坐禅できる小さな禅道場だった。ここで、ジョブズは運命的な邂逅を果たす。 禅僧、乙川弘文(おとがわこうぶん、1938〜2002)――。 新潟の寺に生まれ、京都大学大学院で仏教学を修めた後、曹洞宗の大本山永平寺で修行中に宗門から俳句禅堂に派遣された禅僧だった。「まことに禅の世界は、奇妙なところがあって、他宗派とちがって、傑出した僧侶ほど、表面に出ることをきらい、身をくらまして生きた」 禅の修行僧を経て作家になった水上勉は著書『良寛』にこう書いたが、乙川弘文も同じくこの系譜にあった。弘文は、世俗欲から遠く離れ、天真(てんしん)に任すような独特の禅境を開き、求められれば禅を伝えに赴くという一処不住の生涯を送った。また、やや天然ボケともいえる飄然とした人柄で、欧米の人々、とくに社会常識からはみ出た人たちから深く愛された。中国唐代に南泉普願(なんせんふがん)なる禅僧がいて、好んで世間から疎んじられた人々と生きたことからその宗風は「異類中行(いるいちゅうぎょう)」と呼ばれたが、弘文にも同じ香気が漂う。 ジョブズは、急速に、烈しく弘文に傾斜していく。ジョブズが語った思い出「真夜中に帰宅した奥さんに…」 ジョブズが語ったその頃の思い出を、自身が唯一公認した伝記、『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン著)から紹介しよう。「気づいたら、でき得る限り長い時間をコウブンと一緒に過ごすようになっていた。彼には、スタンフォード大学病院で看護師をしている奥さんと2人の子どもがいてね。奥さんは夜勤だったので、僕は夕方にコウブンを訪ねては遅くまで話し込んだ。で、真夜中に帰宅した奥さんに放り出されるわけだ」(筆者訳。以下同) 京大時代に、西洋哲学との関わりのなかで仏教を研鑽した弘文は、アメリカ人のジョブズにも禅が理解できるように伝える技量を培っていた。たとえば、『般若心経』をテーマにしたある法話ではこんな説法をしている。「私たちには、普段は気づかない心、潜在的に横たわる深く広い心があります。ですが、知識や理解、許容範囲をすべて自分の尺度で築いている限り、盲目なままその心に出逢うことはできません。それは、プラトンの『洞窟の比喩』と同じことなのです」 プラトンの「洞窟の比喩」は、「人が見ている現実は往々にして真実ではない」と説いた欧米人には馴染みの喩え話であり、弘文が言う「潜在的に横たわる深く広い心」とは、仏教の阿頼耶識(あらやしき、過去から未来へと連続する心の領域で、もっとも根源的な心)を指す。仏教をギリシャ哲学と比較しながら英語で提唱する日本人僧侶など、弘文のほかまずいまい。 いまひとつ、弘文の法話から引用したい。「あなた自身は、いつだってそこここにいるのです。本当のあなたを発見するのは、川の源流を探しあてることに似ています。源流に行ったことはありますか? とても神秘的な場所です。そこにいると目眩がするほど。霧深く、湿度が高く、肌寒くて、そして原始の香りがする。きっとあなたは『ここに立ち入ってはいけない』と感じることでしょう。けれども実際には、誰の心の芯にもこういう場所があるのです。その場所からは原始の声が聞こえます――『どうして私を見つけてくれないの。こんなに長い歳月、私と一緒にいるのに、どうして私の本当の名前を呼んでくれないの?』」 憔悴するほど自分探しをしていたジョブズにとって、これほど文学的で血肉となる言葉があっただろうか。
2025.02.23
「沢木興道 この古心の人」よりp.65-68その頃、恐ろしい事件が起こった。文吉のうしろについて商売見習いのため椋本という村へ行く途中だった。足袋無しの素足で、膝の抜けた股引をはき、13歳の少年には大きすぎる提灯張替えの道具類を肩にかついでいた。文吉は手ぶらでぶらぶら歩いていた。 突然大勢の人の叫び声が聞こえた。たちまち何十人もの斬り合いが始まった。文吉は顔面蒼白になって腰が抜けたか、その場でへなへなになった。よく見ると侠客どもは眼をつむってめくらめっぽうに刀をふり回していた。 才吉は生来の豪胆さで、70人ばかりの乱闘をじっと眺めていた。平素は強そうなことを言い、いつも自分を殴りつける養父に「そんなところで腰を抜かしていると、危ない、危ない」とおどかした。 何人か死人が出て、乱闘は一段落ついたらしく侠客どもは刀をしまって散っていった。 少年才吉は養父を励まし、知り合いの家に喧嘩の模様を知らせ、山へ逃げ込んだ男たちの今後の連絡方法を示し合す必要があった。「よし、俺が行く」と才吉は提灯片手に傘をさし裸足で雨の中出て行って大任を果した。 養父はあとで、「あのときほど才吉が気味の悪いことはなかった」と語った。 そのとき以来文吉は今までのように才吉を殴らなくなった。 才吉が出家して禅僧になったとき、文吉は「あいつは坊主になりよったが、じつは恐ろしい奴であのとき以来、わしはあいつをよう殴らなくなった」と語った。
2025.02.23
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