全56件 (56件中 1-50件目)
札幌農学校教授・宮部金吾 その5八 東京英語学校(二六頁) 明治7年3月東京外国語学校英語科の試験を受けて合格し、最下級なる英語学下等六級の丁組に編入された。学校は神田一ツ橋に在って、現在の学士会館前に当り、元の商科大学敷地内に位置していた。この外国語学校の英語学の部門はその年の一二月に分離して東京英語学校となり。旧校舎の筋向いの榊原邸に移った。その敷地は開成学校(後の東京大学)の敷地の隣接地である。東京英語学校は明治一〇年に廃せられ、大学予備門に変った。英語学校の教育方針は全部英語のいわゆる正則主義で、教師は英米人が主となり、下級には邦人が加わり、最下級は邦人のみで担当した。英語学校の学級は一級から六級にわかれ、一級から三級までは一組、四級は甲乙の二組、五級は甲乙丙の三組、六級は甲乙丙丁の四組から成っていた。最下級六級の丁組を振り出しに、各級担任教員監督指導のもとに、毎月もしくは二、三か月ごとに小試験が行われ、その成績の優良なものは抜擢進級させる制度であった。私は入学当時は、六級の丁組にいたが、同年五月には級のもの四、五名と共に丙組に進級、六月には乙組に、九月には甲組に、同月重ねて五級の丙組に、一一月には五級の乙組に、翌八年の三月には五級の甲組に、七月には四級の乙組に、一〇月には四級の甲組に、更に翌九年の三月には三級に、九月には二級に、一〇年の三月には一級に進んだ。このようにほとんど試験のたびごとに進級を続けた。入学当時、同校に在学していた札幌に関係のある士、または知名の士を、明治七年三月発行の「東京外国語学校官員並生徒一覧」により、その若干を採録してみよう。下等一級―伊藤鏗太郎(札幌農学校第二期生)、柳壮蔵(北大医学部柳教授の厳父)、真崎健 吉(北大医学部真崎教授の厳父)下等二級―橋口文蔵(札幌農学校長をした人)、飯島魁、下等三級―中島信之(札幌農学校第一期生)、藤田四郎(藤田九三郎氏の弟、元農商務次官)、加藤高明、下等四級―末松謙澄、野村龍太郎(工学博士)、内村鑑三、下等五級甲組―土方寧、下等六級甲組―田中館愛橘、下等六級乙組―石川千代松、下等六級丙組―広井勇(札幌農学校第二期生)、下等六級丁組―宮部金吾(札幌農学校第二期生)この頃を考えると、教育の制度がちょうど一つの大きな過渡時代にあったように思う。生徒は多く東京で正則教授をしていた神田の共立学校からか、横浜の高嶋学校から入って来た。一級全科目を通じ一外人が算術、読み方、綴り方、地理、歴史等皆英語の教科書を使用してこれを担当していたが、明治九年頃には漢学が課程の中に加わった。また翻訳の組も出来た。私がやったのは、MurryのPhysical Geographyで、二月位で卒業と認められた。この組の受持は教諭下条幸次郎氏であった。教師についての思い出は散漫になっているが、その二、三を記してみよう。六級の頃にポート(POAT)がいた。彼は歯医者志望の英人で、米国遊学の途中日本に立ち寄っていたものである。私の前歯二本が虫歯になっているのを見て、直してやるから来るようにと誘われたまま、彼を訪問した所、前歯の穴にゴムを埋めてくれた。一通りの治療器具が揃っていて、それが美しく清潔に見えた。五級の甲組にいた時はマッカーサー(MACARTHUR)という酒飲みの英人がいた。商人あがりらしく、数学も加減乗徐くらいしか判らなかった。彼は生徒をよくかわいがり、しばしば生徒に遊びに来ないかと誘いかけた。私は級友と共にそこに算術を教わりに行き、分数のことを聞いたら、「分数?そんなことは判らないさ」と平然と答えた。四級の甲組に進んだ時にはマイヤー(MEYER)というフランス人の太った教師がおり、彼は私の試験点等評に“A good hard working boy”「宮部君は頗る出精なり」との評を与えてくれた。四級を終った時、彼を中心として撮った記念写真が今私の手許に残っている。その中には穂積八束(後年法学博士、東大教授)、近藤仙太郎(後年工学博士)、松田武一郎(後年工学博士)、伊藤悌蔵(後年控訴院判事)、市嶋謙吉(後年早稲田大学教授)、梅岩誠太郎(後年早稲田大学予科教授)、高木甚平、横井左久、内藤信一郎、鶴見次昌、曾我鼎三郎、山田義容に諸氏がいる。三級の時の教師のフェントン(FENTON)はイギリス人で昆虫学者だった。私が札幌に来た翌年石川千代松君を助手として札幌に蝶類の採集にやって来たことがある。二級の時の教師レーシー(LECEY)はアメリカ人である。彼は金星が太陽の前を通過した時の観測班に加わって来たまま、居残って教師となったので、数学が得意であり、また音楽にも趣味を持っていた。彼は私の点等標に“A model pupil, would make a fine teacher of Arithmetic”なる評をくれた。一級の教師はスコット(Scott)という米国の教育家で、英作文を教えることが非常に巧みであった。この組に入ってから英作文の上達は飛躍的であったと思われ、それが非常に後年のためになった。スコットは後ハワイの中学校長になっていた。一級の時の同級生中には後年有名になった人も少なくなかった。その中でも抜群なのは穂積八束君や酒井佐保君であろう。穂積君は級中での秀才で、特に同君の英作文は卓越したものであった。同級生の奇才として根岸錬次郎君がいる。同君は長岡藩士であり、河井継之助や森源三氏の一族であって非常な論客であった。ある時スコット教師はアメリカ人は一般に発音(pronunciation)が良くないがケンタッキー人は正しい。自分はケンタッキー州の産であると言うや否や、根岸君は直ちに“Yes, your pronunciation is very clear” と大音で誉めたので、スコット教師は赤面し、級友一同どっと爆笑した。同君は永らく日本郵船会社のロンドン支店長をしていた。戦前ロンドンを非常に親しみ「おらが村」と呼んでいた。この英語学校時代は母の膝下で全く勉学に専念した。学校は一時の油断も許さぬ進級試験制度であったので、夜はうす暗いランプの下で一一時過ぎまで勉強し、時には深更に及んだ。このために視力を弱めた。勉学に急がしかったから交友も少なく、多くは御徒町方面から通う連中と往復を共にした位のものであるが、一級上の高田早苗君とは家の近かったため特に親交があり、同君とは竹馬の交を深くし、時には上野の山を散歩し、球投げに仲間の四人高田早苗、梅若誠太郎、伊藤悌蔵の三君と私で撮影した記念写真が残っている。高田君は当時御徒町三丁目にあった母堂の令弟にあたる富田冬三氏の家に身を寄せていた。富田氏は後年農商務省の商工局長まで勤めた人で、旧幕時代から幕命を帯びて洋行をし、また維新になってからも二、三度西洋へ赴き、岩倉大使の欧米巡遊に際しては随伴したという経歴があって時勢に通じていた。いつも高田君に向かって、「何でもこれからは英語を学び、まず世界の大勢に通じなくてはならぬ」と教えていた。高田君と共に富田氏方に世話になっていた梅若誠太郎君は私と同級であった関係から親しく交わった。同君はのち文学士となり、宮城県書記官を勤め更に早稲田大学予科の教授となられた。なお球投げの仲間の一人伊藤悌蔵君は、私と同級で学校の往復によく一緒になった。同君は法学部を卒業され後大審院の判事になった。
2026.09.07
【卓球】平野美宇が3年ぶり復活優勝! 決勝で同い年の早田ひなに4―1で勝利 ダブルスとの2冠達成…WTTコンテンダー・アルマトイ 9/6(日) ◆卓球 ◇WTTコンテンダー・アルマトイ(カザフスタン) 女子シングルス決勝が行われ、21年東京、24年パリ五輪団体銀メダルで世界ランク38位の平野美宇が、同じ2000年生まれ“黄金世代”で、24年パリ五輪女子シングルス銅メダリストで同6位の早田ひな(日本生命)を4―1で破って優勝した。決勝で世界ランク1位の孫穎莎(中国)を破った23年7月のWTTコンテンダー・ザグレブ以来、WTTシリーズでは3年2か月ぶりの復活Vとなった。 同日に決勝が行われた木原美悠(トップ名古屋)と組む女子ダブルスでは、インドペアを3―0で破って優勝し、2冠を達成した。 一方の早田は、7月のスターコンテンダー・サン・ジョゼ・ドス・カンポス(ブラジル)に続く今季3勝目に届かなかった。 男子は戸上隼輔(井村屋グループ)が決勝でベテランのシモン・ゴジ(フランス)を4―0で退け、優勝。日本勢の男女アベック制覇となった。💛美宇ちゃん、何度も復活凄い!!👏
2026.09.07
【フィギュア】17歳、島田麻央が衝撃のシニア国際大会デビューV! トリプルアクセル、4回転着氷で逆転優勝 北京五輪銀のトルソワに10点差つける9/6(日)◆フィギュアスケート チャレンジャーシリーズ木下グループ杯 最終日(6日、東京・田中貴金属アイスアリーナ)女子フリーが行われ、世界ジュニア4連覇で今季シニアデビューの島田麻央(木下グループ)が152・48点、合計231・32点で1位。ショートプログラム(SP)2位から逆転優勝した。ジュニア時代の国際大会連勝記録をシニアでも更新し、20とした。ミラノ・コルティナ五輪銅メダルでSP1位から出た中井亜美(TOKIOインカラミ)は、127・45点、合計207・72点で4位。青木祐奈(日本建物管財)は合計181・79点で7位だった。 島田はシニアで初となった国際大会のフリーで、冒頭からトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)、4回転トウループと大技を続けて成功。完璧な演技を披露し、22年北京五輪銀メダルのイグナトワ(旧姓トルソワ)に勝って衝撃の国際大会デビューVを果たした。【フィギュア】トルソワ復帰戦は2位 4回転4種5本の構成は「冗談で言ったりするけど…厳しい」9/6(日) 4年前の北京五輪はフリーで4回転ジャンプを4種5本降り切り、一躍注目を集めた。その後は結婚、出産を経て競技会に復帰。約4年ぶりの国際大会となったフィギュアスケートのチャレンジャー・シリーズ(CS)木下グループ杯最終日(6日、東京・田中貴金属アイスアリーナ)のフリーは4回転ルッツを着氷させるなど、146・14点をマークし、合計221・06点で2位に入った。 演技後には昨年8月に出産した長男を抱きながら、報道陣の取材に対応。「練習してきたことをすべてを滑りきることができてうれしい」と満面の笑みを浮かべた。ただ、出産前に戻るのは現実的に難しいとの見解。北京五輪と同様の構成は「時々冗談で言ったりするけど、厳しいと思う。以前のようなコンディションに戻すのは簡単ではないし、今のルールや格付けを考えても、そこまでする価値があるとは言えない」と断言。その上で「今の自分ができることを着実にやって、あとは様子を見ていくのがベストだと思っている」と語った。 現在のモチベーションは「自分が取り組んできた成果がしっかりと出すこと。他人の成功を見て刺激を受ける段階はもう過ぎた」と苦笑い。「当のモチベーションになるのは、周りのみんなが出産して、また跳び始めた時くらいですかね(笑い)」と冗談を飛ばす場面もあった。 最後には「今回積み重ねてきた努力が形になって、本当に満足しています。それが私にとって一番の成果」と充実の表情。自然体を貫くイグナトワは、日本勢の脅威となりそうだ。
2026.09.07
千葉市中央区の国道16号のアンダーパスを冠水前に全面通行止め 全国初の予防的な事前通行規制を実施9/7(月)千葉国道事務所は千葉市のアンダーパスについて、冠水前に全面通行止めとする全国で初めて予防的な事前通行規制を実施しました。千葉国道事務所は、千葉市に「レベル4大雨危険警報」が発表されたため、午前0時半から千葉市中央区の国道16号のアンダーパスを冠水前に全面通行止めとする全国で初めての予防的な事前通行規制を実施しました。このアンダーパスでは先月、千葉県を襲った記録的な豪雨で車が水没し1人が亡くなったことを受け、冠水前でも「レベル4大雨危険警報」が発表された場合などには通行止めにする事前通行規制が全国で初めて導入されていました。この辺りは8月13日の記録的豪雨で冠水したのですが、7日午前6時現在、雨はあまり激しく降っていないため、冠水は確認されていません。しかし、レベル4「大雨危険警報」が発令されているため、この先にあるアンダーパスは7日午前0時半から通行止めとなっています。
2026.09.07
【テニス】大坂なおみ 全米OP16強! 2時間38分の熱戦制す「正直、勝てたなんて信じられない」9/7(月) ◇テニス全米オープン第7日(2026年9月5日 ニューヨーク・ビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニスセンター) テニスの全米オープン女子シングルス3回戦が5日に行われ、第13シードの大坂なおみ(28=フリー)が第23シードのエリーズ・メルテンス(ベルギー)に6―3、3―6、7―5で競り勝ち、2年連続で4回戦に進んだ。第2シードのエレーナ・ルバキナ(カザフスタン)が勝ち、次戦で大坂と当たる。女子ダブルス2回戦では柴原瑛菜(橋本総業)ランラナ・タラルディー(タイ)組、内島萌夏(安藤証券)王欣瑜(中国)組が敗れた。 2時間38分の激闘の末に16強入りを決め、大きく息を吐いた。大坂は苦境で元世界ランキング1位の真価を発揮し「正直、勝てたなんて信じられない」と目を潤ませた。第3セットは2―4と劣勢になったが、サービスゲームをキープした後、左脚の治療を受けている間に「守備的に返球を続ける。この状況では、それが安全な選択肢」と戦術を整理。再開直後にブレークに成功し、4―4にすると、その後はラリー戦で辛抱強くプレーした。相手より多い凡ミスを記録しながらも2戦連続でフルセットを制した。💛大坂なおみさん、素晴らしい👏「守備的に返球を続ける。この状況では、それが安全な選択肢」冷静な状況判断と苦難を乗り越えた情熱
2026.09.07
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(三)その1【開爐(三)】 世界火爐闊一丈 (世界火炉闊きこと一丈)不知古鏡闊多少 (知らず古鏡闊きこと多少ぞ)落葉不禁霜後風 (落葉は禁えず霜後の風)獼猴怕寒永夜叫 (獼猴は寒を怕れて永夜に叫ぶ) ここに「世界火炉闊きこと一丈」これは、仏法のことを引いて、世界火炉闊きこと一丈、というた。この炉は幾らか、中国には白髪三千丈という言葉もある。「知らず古鏡闊きこと多少ぞ」日本でいえば八咫の鏡、中国では古鏡という。人人一面の古鏡がある。この古鏡のことを『涅槃経』では悉有仏性というであろう。この古鏡のことを『法華経』では諸法実相というであろう。この古鏡のことをめいめいなんと参ずるか。 ここに、世界火炉闊きこと一丈、知らず古鏡闊きこと多少ぞ、お前の背は世界いっぱい、澤木興道は五尺五寸六分、そうすれば、世界は何寸あるか。お前の名は釈迦牟尼仏という。そうすれば、世界の高さはどのだけあるか。世界火炉闊きこと一丈、世界は幾らか。物差しを以て世界を測る馬鹿はいない。この一丈の炉が世界である。眼科の医者は眼の中を覗いて、それが世界である。偕老同穴には海綿の巣の中に二匹のエビがいる。それが世界である。蝸牛は家を負うている。それが世界である。そうすれば、島の世界もあれば、モグラモチの世界もある。世界火炉闊きこと一丈。ここにわれわれは火炉を参究する。(大智禅師偈頌講話p.180-181)
2026.09.07
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(三)その2【開爐(三)】 世界火爐闊一丈 (世界火炉闊きこと一丈)不知古鏡闊多少 (知らず古鏡闊きこと多少ぞ)落葉不禁霜後風 (落葉は禁えず霜後の風)獼猴怕寒永夜叫 (獼猴は寒を怕れて永夜に叫ぶ) 闊いということはいったいどういうことか。知らず古鏡の闊きこと多少ぞ。古鏡にはどれだけの幅があるか。われわれは寝ても覚めても古鏡の闊さを知るべく努めねばならん。阿弥陀さんの大きさはどれほどか。仏教を参究する時に、いつでも無限ということをいう。だが、大きいばかりが無限じゃない。小さいものも無限である。仏というのは大きい小さい、長い短い、善くも悪くも、偉いも偉くないも、一切のところにどこにも引っ掛からない。それが尽十方であり、無礙光であり、無量無辺である。それでこの仏を、どういう具合に自分の生活の上に参究するか、というのが禅僧の行持、修行である。 ここに、世界火炉闊きこと一丈。世界いっぱい、それを料理番は包丁に拈ずる。会計係は算盤に拈ずる。書記は筆端に拈ずる。ここにめいめい自分の拈じ方があるわけである。知らず古鏡の闊きこと多少ぞ。それは大きゅうもない。小そうもない。極大は小に同じ、極小は大に同じ。一即一切、一切即一というのは、この古鏡の寸法書である。ようもない、悪うもない、好きもない。嫌いもない。うもうもない、味のうもない。諸法は因縁生、無自性皆空という。これも、この古鏡の寸法書である。 そいつを自己に持って来れば、諸法は無我である。だから、古鏡の闊きこと多少ぞ。サア、古鏡の寸法はどれだけあるか。ここに火炉のついでに古鏡が出て来た。ここに道というものと、人間というものと、無限というものとの、この交錯点に、永久に悩みがある。そしてその悩みをわが身に感ずるのが、この行者の常なのである。 良寛は死ぬ時に、眼をむいて死んだという。悩みなしに、苦しみなしに坐禅して死んだ人と違う。眼をむいて死んだ。 ここに無限というものがよくわれわれに飲み込めれば、有限に生きるわれわれに強味が生ずる。無限というものは、人が腹が減っておる。それが無限のものであるから、人が腹が減っておるのが、自分が腹が減っておるのである。宇宙は続きである。人が腹が減ったら、おれが腹が減ったんじゃ。人が飯を食うと思うと、焼餅が焼けてよだれが出て来る。その理屈は分っておる。 けれども西行が、 捨てはてて身はなきものと思へども雪の降る日は寒くこそあれ ハックションとやったという。ここに、古鏡が風邪を引くことがなかったら、われわれは面白くない。(大智禅師偈頌講話p.181-183)
2026.09.07
二宮先生巡視の方針及び巡視中の逸話 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十五号」)(現代語訳の試み) 午前0時に寝て、午前4時に起きるは先生のご家法でした。先生が巡視される時は、いつも前日夕方の握り飯を腰にして、朝暗いうちに門を出られました。その村に入ると、まず第一に、村民起床の早い遅い、道路や橋が補修が必要かどうかなどを点検され、その村の村人の一般の勤労か怠惰か、富裕の度合いを査察されました。そしてその精勤する者があるば、直ちにこれを賞し、怠惰な民があると、これをねんごろにいましめらます。また先生は、民家に立ちよられると、必ずまず便所を点検することが定例でした。ある人が、このことを先生に尋ねますと、便所が清潔か汚いか、肥料の肥桶は農家が勤労か怠惰かの試金石であると仰せられました。誠にそのとうりでございましょう。 ここに一つ面白い話があります。元平ヶ崎村になにがしという怠惰な農民があって、ある朝のこと、賭博にまけて、ふんどし一つになったので、家にも帰れず、寒さは寒い、困り果てて、田んぼの中をうろうろさまよっていました。たまたま先生がいつものように朝早くにそのかたわらを過ぎて、その様子を熟視されて、「なんじは何をしているのか」と問われますと、彼はすかさず「ハイ、私はこの村の貧農ですが、普通の働きではとても生計も立ちませんから、このように早朝から耕作に出ましたわけです」と言い逃れようとしました。先生はその実を察したのですが、わざと知らないふりをして、「それはそれは、感心な者だ。申し渡すことがあるから、今夕、予が役宅に来い」と命じて、行き過ぎました。こうしてその夕方、その者が約束どおり来たので、先生は農業に出精することを賞して、多くの金品を与えて、将来を励まされました。さすがの無頼漢も、この賜物を拝領するや、顔色が土色のように変わって、自らその罪を後悔して、かつ先生のご高恩に感泣して退いて、これから彼は大いに心を改めて、日夜農業に励んで、順良な農夫となったといいます。今もその子孫は中産以上の農家です。当時この事を聞くものは、皆、先生の機智と度量の大きいことに感激したといいます。 また先生が巡視中に、農夫や人夫たちにその主義を教えられるときには、よく卑近の例を採られました。その推譲の徳をさとされるようなときには、「あのタライの水を見てみよ。少し傾けて、水を前方に送るならば、その反動の結果、再び元にかえるのは必然の理である。だからおよそ物を得ようと思うならば、必ずまず人に物を与えよ」と、仰せられました。今も二宮先生のタライの教訓として、伝わって有名です。 ある時、開墾の人夫が、作業の休みに、ヤカンをかけた焼火を囲んで、多く休んでいたところへ、たまたま先生が巡視されて、共に休まれました。フト沸騰したヤカンの底に手をあてられ、これはどういう理があるかと質問されました。人夫はただ不思議な顔で、誰も答えるものがありません。先生はにっこりされておっしゃるには、「すべて液体は熱を得ると、必ず蒸騰しようとするものだから、下底は自ら熱を覚えないものだ。液体だけではないぞ、人間にもよくこれに似たものがあるのには困る。あの小人を見てみよ。僅かの小金ができて、少し名誉の地位を得ると、直ちに上を見始めて、それから次第に奢りを始め、衣服や住居や諸道具類から、唐物、和物を好むようになり、遊芸、茶の湯、俳諧、生け花などのなりわいをするいろんな遊客が寄り集まって、それから家業は次第に励まなくなり、飲み食いと色欲が増長して、貧乏で思う通りにならないという魔物が、足もとに襲って来ても、悟らないようになるものだ。浅ましいことではないか」と。これは自分の分度を守るべきことをさとされたものである。 また先生は、雷雨を非常に喜ばれて、この時には必ず数十人の人夫に休みを与えられた。その歌に 夕立と姿を変えて山里を めぐみたまふかはげしかりける二宮先生巡視の方針及び巡視中の逸話 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十五号」) 子(午前〇時)に臥し寅(午前四時)に起きるは先生のご家法にて、巡視される時は、いつも宵の握り飯を腰にして、未明に門出されるのが例なり。その村に入れば、まず第一に、村民起床の早い遅い、道路橋梁の修否等を検せられ、その村民一般の勤惰、富の度を査察され、そしてその精勤する者があれば、直にこれを賞し、惰民があればこれをねんごろにいましめられる。又先生は、民家に立ちよられれば、必ずまず厠(かわや:便所)を検することを例とする。ある人、これを先生に尋ねければ、厠の潔否、肥料の肥桶は農家勤惰の試金石なりと仰せられた。誠に左もあるべきであろう。 ここに一つ面白い話がある。元平ヶ崎村に某という惰農があって、ある朝のこと、賭博に敗けて、襦袢一つとなったので、家にも帰れず、寒さは寒し、困り果て、田んぼの中をうろうろさまよっていた。たまたま先生が例のごとく未明にその傍らを過ぎて、その様を熟視され、「汝は何を為しつつあるか」と問われると、彼はすかさず「ハイ私はこの村の貧農ですが、普通の働きではとても生計も立ちません故、かく早朝より耕作に出ました訳です」と言い逃れたのに、先生その実を察せられたけれども、わざと知らないまねをして、「それはそれは、感心の者である、申し渡すことがあるから、今夕予が役宅に来れ」と命じて、行き過ぎた。こうしてその夕方、かの者が約束どおり来たので、先生は農業に出精することを賞し、多くの金品を与えて、将来を励まされたので、さすがの無頼漢もこの賜物を拝領するや、顔色が土色のように変わり、自らその罪を悔い、かつ高恩に感泣して退いて、これより彼は大いに心を改めて、日夜その業を励み、順良な農夫となったという。今もその子孫は中産以上の農家である。当時この事を聞くもの、皆先生の機智宏量を感じたという。 また先生が巡視中、農夫・人夫どもにその主義を鼓吹されるには、よく卑近の例を採られた。その推譲の徳を諭される例の如きは、「かのタライの水を見よ。少し傾け、水を前方に送れば、その反動の結果、再び元に還るは必然の理である。故におよそ物を得んと思うならば、必ずまず人に物を与えよ」と、仰せられた。今も二宮先生のタライの訓示として、伝わって有名である。 ある時、開墾人夫、作業の休みにヤカンをかけた焼火を囲んで、多く休んでいたところへ、たまたま先生が巡視されて共に休まれ、フト沸騰したヤカンの底に手をあて、これはいかなる理があるかと質問された。人夫はただ不思議な顔で、誰も答えるものがなかった。先生はにっこりと仰せられるには、すべて液体は熱を得れば必ず蒸騰しようと欲するものであるから、下底は自ら熱を覚えないものだ。液体だけではなく、人間にもままこれに似たものがあるのには困る。かの小人を見よ。僅かの小金ができ、少しの名誉の地位を得ると、直に上を見始め、それより次第に奢りを始め、衣服、住居、諸道具類より、唐物、和物を好むに至れば、遊芸、茶の湯、俳諧、生け花などの業をする所々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精になり、飲み食いと色欲の増長とて、貧乏不如意という魔物が、足もとに襲い来ても悟らないようになるものである。浅ましいことではないかと。これは己が分度を守るべきことを諭されたものである。 また先生は、雷雨を非常に喜ばれて、この時にには必ず数十人の人夫に休みを与えられた。その歌に 夕立と姿を変えて山里を めぐみたまふかはげしかりける
2026.09.07
「人工網膜」国内初の治験開始、電極チップ使い物の形を判別可能に…難病「網膜色素変性症」の失明患者目の難病「網膜色素変性症」で失明した患者を対象に、大阪大などが「人工網膜」装置の国内初となる治験を始めた。小型カメラを備えた眼鏡や目に埋め込んだ電極チップを使い、物の形を判別できるようにする。これまでの研究で一定の効果が確認されており、治験の結果を踏まえ、2028年度にも国に医療機器としての製造販売を承認申請する。 目が捉えた映像は通常、眼球の奥にある網膜の「視細胞」で電気信号に変換されて脳に伝わるが、この病気は視細胞が徐々に減る。国内には3万人以上の患者がいるが、有効な治療法はない。 装置は、小型カメラが捉えた映像を体外の画像処理装置で電気信号に変換。手術で網膜の近くに埋め込んだ約7ミリ四方の電極チップに信号を送り、脳に伝える。先行研究では、患者が物の輪郭や動きを捉えることができた。 治験は今年から始まり、阪大、愛知医科大、杏林大の3施設で、失明した患者計6人に実施する計画だ。1年間、経過観察し、安全性や視力の回復度合いを検証する。阪大の森本 壮(たけし) 准教授(眼科学)は「色の判別は難しいが、物の存在が分かるだけでも生活水準は飛躍的に向上する。患者に光を届けるため、実用化を目指したい」と話す。💛凄い!将来目の見えない人に適用できますように
2026.09.06
札幌農学校教授・宮部金吾 その4六 父の死と小学校(二〇頁)維新前後非常に繁雑であった駿府代官時代を終え、更に過渡の江戸に帰った父は、生来の虚弱に心身の疲労も出たのであろう、健康はすぐれなかったようである。そして退官後、ことに私が一一歳(明治三年)になった初夏から病床に親しみがちであった。病あらたまるや、父はその死を覚って、病床に肉親を呼び色々と遺言されたが、自分にはただ一言「金吾しっかり勉強せよ」と言われただけである。この一言は少年の肝に深く銘じた。父のいまわの際の言葉に添うような自分を築きあげたく、私は一生涯を通じて、この父の・言葉を真実に守ろうと堅く誓ったのである。父の逝きしは七月二五日の事である。享年五二歳。 一二歳(明治四年)の時、東京府下の六小学校を以て文部省の直轄となし、新しい教科規則下に近代的小学校の教育が始まった。その結果として、私の通っていた外国語の学校は閉鎖された。建物は在来の六校をそのまま使用することとなった。私は再び三味線堀の西福寺に戻って来た。しかし今度は文部省直轄となったので前とは全く総てが変っていた。寺小屋風の小さな机は既に姿を消し、テーブルとベンチが用いられ、黒板も用意されていた。習ったものは、かな使い、習字、単語、読方、洋法算術、学問のすすめ、究理図解、世界国尽等がある。自分の上級は一組あっただけで、それも生徒がたった一人、後に水産界に貢献した下(しも)啓助氏がいたのみである。下氏とは氏の逝去まで交友を続けたが、下氏はよく「君が、自然科学者になろうとはあの頃にはちっとも思わなかったよ。多分政治家にでもなりはしないかと考えていた。」と述懐された。私は小学校では首席を占めていたので時の村上校長から将来を嘱目され、非常に愛されていた。ところが、一三歳(明治五年)の夏、横浜高島学校に入学の希望が達成したので、退学の手続きを取るべく兄が村上校長の所にお願いに出頭した。この年に文部省の教育新制度が発布され、小学校より中学校、更に大学に進む過程が確立された。私の退学の件に関して村上校長は反対で「私立で洋学を修めたいとは以てのほかと憤慨し、かつ「官立で学業が進めば洋学は自然修めることとなるべく、敢えて好んで私立学校に進む必要はない。退学は許可しない。もしも断じて退学を望むならば将来官立学校に再び入れないようにする」と申し渡された。兄は逃げるがごとく引き下がって来た。一家額を集めて相談したが、他日官学に入る場合を顧慮し、横浜にいる間は宮部家の別姓である外松を名乗る事とし、ここに宮部金吾は外松金吾となり、横浜高嶋学校の生活は始まった。七 横浜高嶋学校(二二頁) 一三歳(明治五年)の八月下旬、私は始めて家を離れ横浜に遊学する事になった。忠僕に伴われ、品川を後に汽車で横浜に向かった。 新橋―横浜(現今の桜木町)間の京浜鉄道開通式は明治五年一二月に挙行されたもので、それ以前は便宜上、乗車を許可していたものと思われ、私が横浜へ行った当時は乗客の始発駅は品川であった。客車は用意されておらず、貨車内のベンチをならべ、別に車窓もなく扉が二尺くらいあけてあった。それでも始めて乗った私には非常に快適なものであり、風を切って進む速さに驚嘆したものである。横浜の学校へ行くようになったのは亡き父の友、神奈川県の高官の高木氏が保証人となってくれたためで、氏が一切の監督をしてくれる旨を申し出られ、母も安心して手離されたのであろう。それに文臣兄も同氏のお世話で神奈川県属官に採用され、同市戸部町の官舎に引き移っていたからである。高嶋学校は、この前年明治四年八月高嶋嘉右衛門氏が欧米の学問をわが国に普及させようと金三万円を投じて設立したものである。敷地として野毛山下のガス局の隣地(今の花咲町五丁目)に約一万坪を下し、そこに生徒数百の名を収容するに足る広大な校舎並びに寄宿舎を建てた。この建築は白ペンキ塗りの西洋風の建物で、正面(南北)に一三個、側面(東西)に一八個の西洋窓があり、かつ広中庭を囲んで廻り廊下があり、これに沿って寄宿生の室が並んでいたが、階上の窓には鉄色に塗った木製の格子が入っていた。平屋建ての附属小学校が廊下つづきに本校舎の西北に在った。学校の組織はいわゆる「正則学校」で、初級より英語の教科書を用いて米人の教師から読み方、文典、算術、地理、歴史等を教えられ、まるで米国の学校の観があった。この「正則学校」に対し、翻訳式の教法を「変則学校」と称していた。高嶋学校には当時数人の米人がいたが、西洋人の教師の組に入る前に附属小学校の一室で約一ヶ月間日本の先生から英語の初歩の教授を受けた。それから私達の級は始めモーリスという教師に、後にはバラー兄弟に就いた。バラー兄弟は宣教師であり、日曜日には兄のジェームス・バラーの自宅でバイブルクラスが開かれ、私も誘われて一、二度行った事がある。高嶋学校在学中、私は寄宿舎にいた。寄宿舎は既に記したようにこの校舎の大部分を占め、居室は畳を敷いた日本間であった。普通一室に舎生二人、大きな室に舎生四、五人いた。寄宿舎には随分多数の生徒がおり、後に知名の士となった人も少なくないと思うが、当時在舎していた者の名簿が手に入らないので残念ながら一向に判明しない。友人として一緒に写真を撮っている者に、横浜豪商の令息添田君と、高嶋家に関係のあった富田君の二人がある。この二人はいずれも通学生であった。日曜日にはよく高木氏の豪華な邸宅や文臣兄の野毛町官舎に行き、いろいろの厚遇を受けた。また居留地のあたりから海岸、さんばしにかけて散歩にも出かけた。時には郊外を散策したが、春早き山野に咲いていたタンポポの紅花や、シュンランの清楚な花は今も心に残っている。しかしまた、急に親の膝下を離れ、大人びた青年達の間に放り込まれたので、自分ながらその時の生活を思い出すと穴にでも入りたい気がしてくる。一四歳というのに喫煙の悪癖を覚え、煙草入を腰にさげていた。また芝居の味も知り、劇場に友達と足を運び、銭湯に行ってもすぐに風呂場に飛び込まず、年上の友だちと一緒に二階にあがって一休みした。牛肉屋にも出入りした。私の環境はあまり好かったとはいえない。そのままで行けばあるいはませた、ひどく生意気な者ができあがったかもしれないのである。明治七年(一五歳)の一月、朝授業が始まって間もなく東北隅教室のストーブから火を発した。折悪しくその教室には授業がなかったので誰も室におらず、そして誰も知らない間に天井裏に燃えぬけ、往来の通行人によって燃え上がった火が始めて発見され大騒ぎとなった。各室には石油ランプと石油入のガラスビンが置いてあったので、火の廻りは速く、また無風で小雨が降っていたため、煙が中庭や廊下にモウモウと停滞し、息苦しく廊下にはグズグズしていられなかった。それに階段は南側と西側のみであって、出口は東側の玄関と小学校へ続く廊下のみであり、下の室は窓が太い鉄格子なので、これを破ることは容易でない。生徒の大部分は僅かな手荷物を持ち、ほとんど身をもって煙が渦巻く玄関から避難した。私の居室は二階の西側すなわち野毛山に面した大きな室で四人おり、私を除いては皆二〇前後の青年であった。火事となるや一同室に帰り、窓の木製の格子を破壊し、窓の下の便所の屋根に下り、それより更に地上に飛び降りてどんどん避難してしまった。既に火の廻りが速く、煙は玄関は勿論小学校への入口にも満ち満ちて、階下の廊下は歩行困難となっていた。私は非常に困ってしまった。窓から下の屋根に降りてみたものの、小柄であった少年の私にはそこから下がいまだ相当の高さであり、かつ地上には窓から投げ出された本や机の引出しが雑然と打ち重なり、もしその上に飛び降りればケガをすること請け合いである。それで飛び降りることはできず、思案にくれたが、急に思いつき再び室に入り、夜具布団を全部窓から放り出してその上に飛び降りた。おかげで私はケガをしなかったばかりか、寄宿生中夜具布団を全部出し得たのは私一人であったかも知れない。この室は野毛山から眼下にみおろせる所にあったので、沢山の見物人がこれを見ていた。そして子供(私)が一人便所の屋根の上でまごまごしている様を見て、「早くハシゴを持って行ってやれ」とわめきたてた人もいた。ところがそのうちに布団を投げ下ろしてその上に無事飛び降りたので一同やんやの歓声を挙げて安全を祝ってくれた。私はその夕方野毛町の銭湯に入っている時、声高にかく語る人の話を聞いたのである。奇縁とでもいうものか、火事の際の同室の二人までがその後札幌で遭っている。一人は碇山晋君で、後札幌に来り、予科に英語を講じ生徒監となり、また更に後年、その有する語学の才もかわれて横浜居留地の加賀町署長となり、外人にも名署長の名声をはせた。またもう一人は川口宗晴君で、札幌農学校一年目の時、聴講生として入って来たが、一年余で退学の止むなきに至った。高島学校は火事後廃校となり、横浜在住の生徒はドクトル・ブラウンが教えていた修文館に転校することとなった。私もそこに転校した。この修文館は老松町上の元の十全病院の隣にあったように記憶する。その三月東京外国語学校英語科の入学試験を受け合格したので、私の横浜遊学はこれで終止符を打たれ、外松金吾は再び宮部金吾に帰って東京の生活に戻ったのである。思えばこれはまた私に非常に幸いであったので、もし私が思慮分別のない生意気盛りを、その上、気ままにひとりで横浜の寄宿生活を続けていたら、私はどうなっていたであろう。私はただわきの下に冷たい汗の湧き来たるのを覚えるのみである。
2026.09.06
鈴木おさむ氏「僕の中ではいまのところ、今年1位」の映画とは?「激しく心が震える」と絶賛9/5(土)鈴木氏は「映画『時には懺悔を』渋谷、12時から.満席。家族のカタチについて考える。本当に.激しく、心が震える映画」と投稿。 「宮藤官九郎さんがあの役を演じていることで救われるし 素晴らしすぎました。僕の中ではいまのところ、今年1位です」と絶賛していた。 「告白」「嫌われ松子の一生」などで知られる中島哲也監督の約8年ぶりとなる新作。打海文三氏の小説「時には懺悔を」を原作に、障がいのある子供との出会いをきっかけに変わっていく大人たちの姿を描く。脳性まひの13歳が俳優に「彼の笑顔には、生きることを楽しむ力を感じる」…映画撮影後の卒業式では変化が重い障害のある子どもを誘拐した犯人や、事件に関わった人たちの人間模様を描いた全国公開中の映画「時には 懺悔ざんげ を」に、子ども役として東京都内に住む重症心身障害児のしんすけさん(13)が出演している。しんすけさんは寝たきりで話せず、表情で演じた。母親(53)が取材に応じ、「感じたことを誰かと話してほしい。その積み重ねが社会の変化につながると思う」と語った。 しんすけさんは先天性の脳性まひで、特別支援学校に通っている。人工呼吸器をつけ、意思疎通は難しい。 映画出演のきっかけは2023年秋。制作陣が、障害児支援に取り組む理学療法士の安田一貴さん(40)に紹介を依頼。安田さんが、以前に関わりがあったしんすけさんとつないだ。 出演依頼を受けた母親は当初、「息子にどんな影響があるかわからない」という不安から断った。だが、その後もアプローチは続き、同年末には、監督の中島哲也さん(67)が自宅へ来た。「彼の笑顔には、生きることを楽しむ力を感じるんです」その言葉に、母親は「障害があれば誰でもいいわけではなく、息子を探してくれている」とうれしく感じた。原作小説の作者、打海文三さん(2007年に59歳で死去)が障害のある子を育てた親だったこともあり、「当事者の複雑な感情を表現していて、リアリティーがある」。夫、しんすけさんのきょうだいとも相談し、出演を決めた。撮影は2024年3~5月に行われた。しんすけさんは「感情を表情に出すのが得意」で、笑顔やキョトンと驚いた顔など、多彩な表情を見せた。 共演した西島秀俊さんは事務所を通じた取材に、「お互いに『プロの俳優』として向き合い、やりたい表現を一緒に作り上げていきました。しんすけ君は演出を受けると、まっすぐに応えようとします。本番で時折見せる笑顔や、戸惑いの表情に本当に魅了されました」とコメントした。 しんすけさん出演の橋渡し役となった安田さんは制作スタッフとして障害児への接し方を監修した。「俳優さん、カメラマン、メイクさん、みんなが撮影が進むうち、しんすけさんと自然に話すようになっていった。障害のある人たちとの共生は頭で考えるより、一緒に仕事をしていく中で理解できる」と話した。撮影後、しんすけさんに変化があった。 以前は、学芸会などの学校行事に参加しても「状況をわかっていないようだった」という。だが、昨春の小学部の卒業式では、先生から名前を呼ばれると、「はー」と返事をした。中学部に入った後も、学校へ行く時間になると、母親に「あーあーあー」と訴えかけてくるようになったという。 母親は「映画出演という環境の力は大きく、数ミリずつかもしれないけど、変わってきている」と喜ぶ。「自分の主張がうまくできない子こそ、いろんな経験をさせてあげてほしい」と語った。 映画は、探偵の佐竹(西島秀俊)と助手の聡子(満島ひかり)が、同業者の米本(佐藤二朗)が殺された事件を調べるところから始まる。2人は、米本が生前調査していた明野(宮藤官九郎)と重い障害がある少年、 新しん (しんすけ)の父子を追う中、9年前の新生児誘拐事件にたどり着く。新を巡り、周囲の大人たちの心が大きく揺れ動いていく――。 劇中では、「この子は生まれてこない方が幸せでした」と過激なセリフも飛び交う。母親は、明野が「ああ、どこにも行けない」とこぼしながら、新の世話を続ける場面が印象に残ったという。「きれい事じゃない現実を描きつつ、愛情にあふれた作品」と話した。
2026.09.06

「ユマニチュード」という革命p.118 ユマニチュードは人間性を取り戻すための哲学です。誰かをもの扱いするとき、そうしている人もまた人間性を失います。相手から人として認められ、自分も相手を人として認識する。それがユマニチュードの理念であり、そこに価値があるのです。・・・・・・ユマニチュードの定義と日本における普及の歩み優しさを伝えるためのケア哲学と造語の起源ユマニチュード(Humanitude)とは、フランスの体育学専門家であるイヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏によって1979年頃に提唱された、知覚・感情・言語に基づく包括的なコミュニケーション・ケア技法です。この言葉はフランス語の造語であり、「人間らしくあること」を意味しています。その根底には、認知症や身体機能の低下によって人間らしさが脅かされている人々に対して、「あなたは大切な存在である」という敬意を伝えるケアの哲学が存在しています。医療や介護の臨床現場では、業務の効率化を優先するあまり、患者や施設利用者の反応を待たずにケアを進めてしまうことが少なくありません。フランスの介護施設を対象とした調査では、入室の際にノックをしないスタッフが半数を占め、残りの半数もノックをしたものの返事を待たずに入室していたという実態が報告されています。こうした環境では、言葉を話さない患者に対して一方的なケアが行われがちになり、結果として患者の心を閉ざしてしまう原因になります。ユマニチュードは、このような一方的なケアを「強制的な介入」と位置づけ、150以上におよぶ具体的な技術を通じて、双方向の良好な関係性を再構築することを目指しています。日本への導入と普及のタイムライン日本への本格的な導入は、独立行政法人国立病院機構東京医療センターの総合内科医である本田美和子医師が、2011年秋に渡仏して創始者であるジネスト氏のもとで研修を受けたことから始まりました。翌2012年から日本国内での普及活動が開始され、全国の医療・介護機関で研修会が開催されるようになりました。日本におけるユマニチュード普及の歴史的歩みは、以下のタイムラインのように、専門職の口コミやメディアの報道、自治体による先進的な取り組みを通じて急速に拡大してきました。ケアの根幹を支える「4つの柱」とその生理学的意義ユマニチュードを特徴づけるのは、抽象的な精神論にとどまらず、対象者の五感に訴えかける具体的な行動指針として「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの柱を定義している点です。これらの技術は、認知機能が低下した人々が世界を認識するプロセスに基づき、生理学的な妥当性を持って体系化されています。各技術の生理学的特性と具体的アプローチ1. 「見る」技術認知症が進行すると、視野が狭窄し、周囲の状況を瞬時に把握することが困難になります。突然視野の外から触れられると、介護者を襲撃者と勘違いし、恐怖から暴言や暴力が生じることがあります。● 具体的技術: 相手の正面から、同じ目の高さ(水平線上)で、約20cmほどの非常に近い距離から、長く視線を合わせ続けます。● 生理学的意義: 水平な視線は「平等」、正面からの接近は「正直さ」、近距離でのアイコンタクトは「親密さ」を大脳へ直接伝達し、不安を取り除きます。見下ろす姿勢は支配的なメッセージとなるため、介護者は膝をつくなどして視線を低く保つ工夫が求められます。2. 「話す」技術言葉を返さない相手に対して、つい無言でケアを行ってしまう傾向がありますが、無言でのアプローチは「あなたの存在を無視している」という否定的なメッセージとして受け止められます。● 具体的技術: 低めの落ち着いたトーンを用い、歌うように優しく穏やかな口調で語りかけます。返事がない場合には、介護者が現在行っている動作(「背中を温かいタオルで拭きますね」など)を言語化する「オートフィードバック」を行います。● 生理学的意義: 聴覚情報と実際の体験を一致させることで、状況理解を促進し、突発的な刺激による驚きを和らげます。3. 「触れる」技術人間にとって、皮膚への刺激は情緒の安定に深く関わっています。しかし、介護の現場でよく見られる「手首を上からつかむ」といった接触は、自由を奪われる体験として恐怖を呼び起こします。● 具体的技術: 指先でトントンと叩くような接触を避け、手のひら全体を広げて広い面積で包み込むように下から支えます。また、顔や手、唇といった感覚が敏感な部位にいきなり触れず、背中や肩、上腕などの感度が比較的鈍い部位から優しく触れていきます。● 生理学的意義: 広い面積で包み込むような「面での接触」は、安心感と包容力を伝え、対象者の筋肉の緊張を緩めます。4. 「立つ」技術人間は直立して行動することで、身体のあらゆる生理機能が最適に働くように設計されています。寝たきりの状態が続くと、廃用症候群が急速に進み、認知機能の低下も加速します。● 具体的技術: トイレへの移動や洗面、着替えなど、日常生活の動作の中に立つ場面を自然に組み込み、1日に合計20分間立つ状態(立位)を確保します。● 生理学的意義: 骨に加重をかけることで骨粗しょう症を予防し、心肺機能や血液循環の改善、筋肉量の低下を防止します。また、視線が高くなり視野が広がることで脳により多くの情報が取り入れられ、認知症の周辺症状改善にもつながります。4つの柱における具体的技術と期待される効果関係性を築き上げる「5つのステップ」と日常生活への適用ユマニチュードでは、1つのケア行為を最初から最後まで流れるようなストーリーとして構成します。この手順は、人が親しい友人宅を訪ねて歓談し、次の約束をして帰宅するまでの自然な流れを模倣したものであり、認知症を患う人々との間に心理的障壁を作らない仕組みになっています。5つのステップのプロセス詳細ステップ1:出会いの準備(来訪の事前通知と脳の覚醒)認知機能が低下していると、音や気配に反応して「他人が入ってきた」と認識するまでに時間がかかります。● アプローチ: ドアを3回ノックし、3秒待ちます。反応がなければ再度3回ノックして3秒待ち、それでも反応がない場合は1回ノックして入室します。ベッドに近づいた際も、足元のボードや手すりを優しくノックして存在を知らせます。● 狙い: 段階的に聴覚を刺激することで、本人の脳が人と会う準備(覚醒水準の上昇)を調える時間を確保します。ステップ2:ケアの準備(関係性の構築と同意の獲得)部屋に入ってすぐに「お風呂に行きましょう」「オムツを替えます」と用件を伝えると、警戒心から拒否反応が起こりやすくなります。● アプローチ: 挨拶を交わし、「あなたに会えて嬉しい」という喜びを態度や笑顔、穏やかな言葉で表します。いきなり体に触れたり、ケアの話を切り出すことは厳禁です。会話を通じて徐々に距離を詰め、3分以内にケアに対する合意を得ることを目標とします。● 狙い: もし3分経過しても同意が得られない場合は、無理にケアを続けず「一度あきらめて出直す」という選択を行います。これにより、相手の中に「嫌なことを無理やりされた」という不快な記憶が残るのを防ぐことができます。ステップ3:知覚の連結(調和されたケアの実践)合意を得た後に実際のケアを行う段階です。● アプローチ: 「見る」「話す」「触れる」の感覚情報を連動させ、矛盾のないメッセージを送り続けます。例えば、「優しく声をかけながらも、手首を強引につかんで引っ張る」といった不一致があると、相手の脳は強い不安と抵抗感を引き起こします。● 狙い: 感覚の一致により状況把握を助け、安心した状態のままケアに協力的な姿勢(協調動作)を引き出すことができます。ステップ4:感情の固定(ポジティブな感情記憶の定着)ケアが終わった直後は、その心地よい余韻を本人の脳にしっかりと刻むための重要な時間です。● アプローチ: 「さっぱりして気持ちが良くなりましたね」「今日はお話がたくさんできて本当に楽しかったです」など、肯定的な言葉を掛け合います。● 狙い: 事実としての出来事(ケアを受けた内容や介護者の名前)は忘れてしまっても、「この人と一緒にいて心地よかった」というポジティブな感情の記憶は長期間保持されます。ステップ5:再会の約束(将来の安心感の担保)その場を離れる際に、別れの寂しさや孤立感を与えないようにするためのケアの締めくくりです。● アプローチ: 「またお話ししましょうね」「次の12時にお食事を一緒に行いましょう」と具体的な約束を伝えます。握手を交わしたり、予定を書いたメモやカレンダーを目に入りやすい場所に残すことも有効です。● 狙い: 「親切にしてくれた人がまた来てくれる」という安心感は、次回の訪問時に介護者が「心地よい時間を共有した人」として歓迎される関係性を作り出します。5つのステップと「友人宅への訪問」に例えたプロセス対比現場での具体的課題に対するアプローチ事例認知症ケアにおいて最も介護者が頭を悩ませるのは、入浴拒否や排泄ケア(オムツ交換)時の強い介護抵抗です。ユマニチュードの技術を適切に組み込み、相手のこだわりや認知特性に配慮することで、これらの困難なケースも劇的に改善することが実証されています。入浴拒否に対する実践事例入浴を拒む要因として、浴室の慣れない構造による混乱、衣服を脱がされる恐怖、また「風呂」という言葉そのものがもたらすストレスなどが挙げられます。 ある特別養護老人ホームでの取り組みにおいて、入浴エプロンを着用した介護スタッフを見ただけで激しく入浴を拒否していた利用者に対し、以下の方法が試みられました。● アプローチ: 介護スタッフは入浴用エプロンを着用せず、普段のユニフォームのままで「出会いの準備」と「ケアの準備」を行いました。また、本人が愛着を持っている人形を抱かせたまま浴室に誘導し、浴室には自宅の風呂に近い家庭的な構造の浴槽を使用しました。さらに、「シャワー」や「脱衣」といった直接的な言葉を使わず、好きな音楽を脱衣所から廊下にかけて流し、スタッフが手を握ってリズムを取りながら楽しく歩行を促しました。● 結果: 対象者は入浴中も笑顔を見せるようになり、入浴そのものに対する前向きな発言が聞かれるほど大きな変化を遂げました。オムツ交換時の抵抗に対する実践事例オムツ交換はプライベートな領域への介入であり、本人にとっては見知らぬ人から突然ズボンを脱がされ、臀部に冷たい刺激を与えられるなど、恐怖心が生じやすい場面です。● アプローチ: 訪室時にステップ1に沿って段階的に覚醒を促し、寝ている本人と同じ目線まで姿勢を下げてアイコンタクトを確立します。いきなり臀部に触れず、「おはようございます、良いお天気ですね」と挨拶を行い、手や顔などの敏感な部位を避けて上腕や肩へ手のひら全体を乗せます。これから行うケアの同意を得てから開始し、拭き取る際も「温かいタオルで拭きますね、気持ちが良いですよ」と動作の実況(オートフィードバック)を徹底しました。● 結果: これまで毎回抵抗のあったオムツ交換において、時間を置いて再チャレンジする回数が月を追うごとに減少し、利用者が自ら柵をつかんで体を横に向ける協調動作が見られるようになりました。科学的エビデンスと将来技術の展望ユマニチュードの有効性は単なる経験則にとどまらず、国内外の豊富な研究によって確認されています。1,000以上の文献を網羅的に検証したシステマティック・レビューでは、ユマニチュードの実践が認知症患者の不穏や興奮(アジテーション)を有意に軽減し、同時に介護スタッフの「燃え尽き症候群(バーンアウト)」を低減させる効果があると結論づけられています。さらに将来的な展望として、人工知能(AI)を用いたコーチング技術の導入が始まっています。介護スタッフが撮影した実際のケア動画をクラウド上にアップロードし、専門の指導者が動画上で軌道やタイミングを可視化して指導する動画ツールの活用が進められています。将来的には“ケアの棋譜化(見える化)”により、個人の感覚に頼らない技術の学習・継承が可能となり、家族介護者に対する学習サポート支援や負担軽減へ向けた革新が期待されています。結論およびこれからの展望超高齢社会を迎えた現在の日本において、認知症に伴う課題はもはや個人の問題ではなく、社会全体で支えるべき最も重要なテーマの一つです。ユマニチュードは、誰もが実践できる再現性の高い技術体系でありながら、認知症患者を「ケアの対象」としてだけではなく「意思と感情を持つ一人の人間」として尊重し直すという、本質的なパラダイムシフトをもたらします。現場でユマニチュードを導入する際は、すべてのスタッフが一度に完璧な実践を目指そうとすると現場に混乱を招きかねません。まずは「特定の対象者1人から実践を始める」こと、そして「実践前後の行動変化を客観的に記録し、チーム内で共有する」ことが成功への鍵となります。また、福岡市が「国境なきユマニチュード」の国際推進本部を開設したように、専門職や家族介護者だけにとどまらず、地域住民や子供たち、ひいてはデジタルテクノロジーを巻き込みながら「優しさが伝わる社会環境」を構築していくことが、今後の共生社会における極めて強力な一歩になることは間違いありません。ユマニチュードの哲学と実践的な技術は、これからの介護業界、ひいては社会全体の福祉水準を根幹から支え、より豊かで尊厳のある関係性をもたらしてくれることでしょう。
2026.09.06
磐田郡における耕地整理の起因 名倉太郎馬(大日本報徳学友会報第二十一回二四頁)第十八回の続き明治八年一月より着手して同年十二月に至りてことごとく竣功せり。而して当彦島も、これと同時に、右悪水路をはじめ道路及び畦畔溝渠等に至るまで、同年十二月地租改正の際、土地丈量とあわせて、これが竣功を告げたり。而して耕地整理のために増歩すること、実に十町八反余歩に達せり。これかくの如き多大なる増歩地を生じたるは、ひたすら当村は、水害多き所とて、不毛の地多く、沼沢等、かや又はその他の雑草叢生する所、多かりしによるべしと雖も、その増歩一割五分以上に達し、またこれが改良によって、爾後水害を免がるる事を得る等は、実にその効の大なるものありて存するなり。然して以上の如く、彦島区耕地悪水路修正に関する、諸費総額は、ハ百余円に及びしも、当時困窮の事とて、これが費用は一切徴収する事なく、これをことごとく県より無利息年賦償還をなせり。爾来水害のうれいなく、農産の術も進歩し、村民皆勉以てその業につとめたりしを以て、十分なる秋収を見るに至り、十ヶ年の見積仕法も、僅かに五ヶ年、すなわち明治十一年十二月に至り、十数年渋滞の公私の借財並びに、耕地整理費の借入金等合計四千余円は、これをことごとく償還し、なお八百余円の剰余を生ずるに至れり。 それ、耕地整理の効たるや、かくの如し。これら実況を他町村有志の聞知するところとなり、遠近各地より当村悪水路及び耕地区画の修正状況並びに報徳結社方法及び困窮村落回復の方法につき、来訪するもの日々多かりし。 今日静岡県において、報徳結社の隆盛を致せると共にまた耕地整理の盛大を極むる、また故なきにならず。(完)
2026.09.06
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(二)その3【開爐(二)】 風頭稍硬大家知 (風頭稍硬し大家知る)且聽商量暖處歸 (且く聴す商量暖処に帰ることを)般若如同大火聚 (般若は大火聚に如同す)近前燒郤兩莖眉 (近前すれば焼郤す両茎の眉) だから、例えば戒法を持つ。戒法を持っているという。しかし戒法を持っておるといっても、どういう具合に持っておるかということが大変な問題である。戒法を持っておるのは悪いのではないが、戒法を持っておると、そう思うておることがもう早や般若の傷である。『正法眼蔵私記』の中に修忘(しゅうぼう)ということがある。修行をしながら修行をしておるということを忘れておる。戒法を持ちながら、戒法を持っておるということを忘れておる。 悟りを開きながら悟りを開いておるということを忘れておる。これで初めて本当に悟りを開いておるのである。悟りを開いて、「おれは悟りを開いておるのを、ワイラ知っておるか。おれは悟りを開いておる」これがちょうど、今の学士院の会員になったとかいうように、悟りというものが社会的になって、つまり制度的になって、その組合に、どこの何某は悟りを開いておるという触れが回っておる。あにハカランや、それを見ると、実物を間違うておるのをしばしば見る。 何某は悟りを開いておるというと、そういう組合ではそのことが分っておる。何某は、どこそこの会下で悟りを開いたという。その悟りを開いたという人が迷うておる。十のうち九分九厘九毛われわれの知っておるところでは迷うておる。その悟りという実相般若は悟りながら悟りを忘れ、修行しながら修行を忘れる。だから「正戒の相も取らず、又邪念の心もなき」この正戒の相も取らず、邪念の心もなく、そういうことを象徴するのがこの大火聚である。悟りにも入らず、迷いにもズベリ込まず、そこのところをよう間違う。真宗の後生願いが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。悪人正機の御本願、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」という。ところが、善いことをしたら仏さんから救うて貰えんから、なるたけ悪いことをしよう。朝暗いうちにお寺詣りをするのに、よそのうちの茄子を一つちぎってはナンマンダブツ、二つちぎってはナンマンダブツ。「この悪人なればこそ如来様のお救いいただきます。ありがたいことでございます。ナンマンダブツ、ナンマンバブツ」両方の袂に茄子をいっぱい入れて戻ったという。それは正戒の相はないが、邪念の心がある。 律僧が蟻一匹を殺してももったいないというのは、正戒の相を取らず。だが、青瓢箪の栄養不良になって、お粥のズルズルをすすって、鰹節のだしもあがらん。そして「わたしは一生精進物で飯を食うた。生まれてから雑魚一匹食うたことはない。鰹節のだしも食うたことはない」という。そりゃ結構、まことに結構じゃけれども、それが忘れられんというのは、一つのまた煩悩である。そんなら「おれはもう鰯に限る」これもまた煩悩である。そこのところの間もむずかしいのである。 ここに般若は大火聚に如同す。正戒の相なく、邪念の心なく、うっかりすると正戒の相を取る。うっかりすると邪念の心を取る。うっかりすると半善人になり、本当の悪人になる。「近前すれば焼郤す両茎の眉」両茎の眉、うっかりすると、眉を焼く、眉を怪我をする。息を吸いも出来ん。ちょうどいい塩梅というのは、これは非常にむずかしい。『宝鏡三昧』に「大火聚の如し」今開炉は大火聚に如同す。 この大火聚の如し、これは今開炉であるから、大火聚の如し。近前すれば焼卻す両茎の眉。二つ眉が焼けしまうぞよ。眉が焼けるように進めば、正戒の相を取る。退けば邪念の心を取る。進むも、退くも、どうにもこうにも、二進も三進もならん。 色を以て見、音声を以て我れを求めば、この人邪道を行ず。それかといって、求めねばなんにもならん。求めれば邪道を行ず。どこにこれは開炉をすべきものであるか。ここが大いに参究せねばならぬところである。 次が三首目。(大智禅師偈頌講話p.178-180)
2026.09.06
「相馬市史6資料編3近世2」八―二三に、岩子村の村長渡部才兵衛が御仕法に深く感動して、米四十俵を仕法の資金へと上納し、生活に分度をもうけ、年々有余を推譲いたしますので他の困窮の家々を復興してくださいと申し立てたので、報徳役所が「推譲米無利五ヶ年賦貸附報徳米附雛形」を六十年分組み立てた書付に、誠明先生(二宮尊徳)の教えを再述し丁寧に記す。相馬仕法において仕法の趣意がどのように伝えられたかを知る上で興味深い。(現代語訳の試み)「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形誠明(二宮尊徳)先生の至教に基いて、一村平均、中庸の教えによってて、家株分限を改正し、分外の田畑からの収穫した米十五俵を、永久の推譲米と定めて、別冊に取調べたところ、なおまた先生の至教に基いて、推譲米を無利息五ケ年賦として繰り返し貸付する報徳冥加米についての雛形を組み立てましたところ、六十か年の貸付高は三万二千五百四十俵、幾百家、幾千人の困苦を除いて推譲する元米九百俵が備わり、報徳冥加米六千五百八俵と増しました。前に記したとおりです。先生の教えに言う。「無利息の功徳は、なお太陽が国土を照したまい、観音菩薩が衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与えたもうようなものである」と、太陽は世界を観じて、もろもろの苦悩を消し除き、もろもろの福徳を与えたまい、衰村の貧民に、借財があれば、利足や諸雑費の苦しみがある。質地があれば、収穫が不足するの苦しみがある。家株が不足すれば、食料が不足する苦しみがある。家が破れ、屋根が破れれば、風や雨や雪の苦しみがある、衣食が不足すれば、餓えや寒さの苦しみがある。農具や肥料がなければ、生育が不十分で収穫の不足の苦しみある。農馬がなければ、しろかきはもちろん重荷を負う苦しみがある。家財がなければ、万事不自由の苦しみがある。おのおのその苦しむところうぃ観察して、無利息五か年賦に貸し渡す時には、あるいは借財を償い、利息が出れ廃たる分の利益を生じ、あるいは質地を受け戻して、収穫物の利益を生じる。家株を得れば、暮し方に余裕がでる利益を生じる。家小屋を修理できれば風雨をしのぎ、また勤業安楽の利益を生じる。農馬を得るならば諸物運送の利益を生じる。家財を得れば、日々の生活の利益を生じる。おのおのその憂苦するところを免れて、その利益を得て、仰いでは父母を養い、俯しては妻子を育てて、一家が安心して相続する道が立つ。60年で循環するに及んでは、極難貧者が幾百、家の生産を安んじ、もし永久に取り行う時には、循環が極りなく、幾億万家の貧苦を除き、幾憶万人を相続させ、永安を得ること極りがない。実に先生の言われる日月の行く道に同じく、観音菩薩の無量の功徳に等しいとのたまわれた。またその通りである。人倫の道、何物をかこれに加えるものがあろうか。よって先生の至教に基いて、文学書算も手に取らない女子共にも呑み込みやすいように、雛形を組み立て、無利息の大徳を顕わした件、才兵衛の子々孫々に至るまで、慎んで遵奉し、分限を堅く守り、余米を年々推し譲り、雛形の通り取り行うように、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再び述べる経に曰く、願わくはこの功徳をもって一切に施し及ぼし同じく菩提心をおこし安楽国に往生せんことを。先生はこれを解して言われた。この無利息米をもって、一切の貧者に貸し与え、貧者が返納の志をおこすならば、貧富ともに永安の至楽を得るとおっしゃられた。富むものは、数千万余を積んでも、更に足ることを知らない、有るが上にも願い求めて、利欲に迷い、高利を貪って、他の者を省りみることなく、己一人の奢りに長じて、無慈悲の所行に陥って、遂に一家滅亡の禍いとなり、貧しいものは、家業を怠って、他の財を借りて、元利を返済する道を失い、いったん借用をもって、困苦を補い、助かった恩義を忘れることなく、ついに祖先以来の家株の退転となる、こように貧富とも、道を失い、利を失い、禍いを招くものは、凡情に通ずる患いである。先生はこれを富む者は驕り、貧しい者の惰弱の二つの弊害とし、富むものは自然の分にとどまり、驕奢の弊害を省みて、余分を生じ、貧者に譲り施して、貧しいものは怠惰の弊害を改めて、勤めてその徳に報じて、貧富が和する時には、財宝はその間に生じ、貧富は共に永安の地に至るとおっしゃった。才兵衛、このたび一村平均の中庸の天分にとどまり、驕奢を戒めて、倹約を守り、年々米十五俵の余分を生じ、推譲いたします。誠意の米穀は、得難い奇特というべきである、これを借用するものは、一粒たりとも如意宝珠のように尊敬し、それぞれ不足を補い、貧苦を免れ、五か年賦に返納致すならば、年二割の利息に当り、元来助成に預ったのと同じである。一家暮し方が整った上は、その恩義を理解しなければならない。恩を受けて恩を報じないものは、人ではない。父母の恩を報じる、これを孝という、主君の恩を報じる、これを忠という、もとより才兵衛は、報恩謝徳のために、差出した推譲米について、借用の面々は年賦を皆済した後に、冥加米を納めることはもちろん、その余、才兵衛の勤倹、推譲にのっとって、できるだけわきまえ、暮し方の中庸の節度を立てて、天分にとどまり、驕奢を戒めて、倹約を守って、年々余分を生じて推し譲る。これまた前書の雛形の通り取り行わなくてはならない。先生は「常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸し出すものを称して菩薩界とし、借用して助かるものを称して衆生とする、そして衆生で、困苦のために無利足の米財を借用して助かり、年賦返納する時には、返納米をすぐに他の貧者に循環し、もろもろの艱苦を除くために、一たび年賦を納めるものは、たちまち衆生を出離して、菩薩界に入る」と教えられた。そうであればこの推譲米を借用して、一家の暮し方が整い、才兵衛同様に、天分にとどまり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同くする。観音と経を同じくするようになろう。才兵衛一人この道を行うときすら、60年三万有余俵の功徳を顕わす、借りる者数百家、同じく推し譲るに至っては、その功徳、計算できる数量にも及ばない。日月の照らすところ、霜露のおちるところ、あまねく人民の窮苦を救済し、大小の貧富ともに至道にかない、貧賤の者は危亡の禍いを免がれ、富貴安存これを得る。国家永く安楽に至るであろう、あにふかく信じないでよかろうか。どうして勉め行わなくてはならない」(一〇三三―四一頁)「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形誠明先生の至教に基き、一村平均中庸の教えに因て、家株分限改正致し、分外田畑作徳米十五俵、永久推譲米と相定め別冊取調遣し候処、猶又先生の至教に基き、推譲米無利五ケ年賦繰返貸付報徳冥加米附雛形組立候処、六十ヶ年貸付高三万二千五百四十俵、幾百家、幾千人の困苦を相除き推譲元米九百俵相備り、報徳冥加米六千五百八俵と増益致し候処、前記の如し。先生の教えに曰く、無利足の功徳は、猶日陽の国土を照し給ひ、観音衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与へ給ふが如しと、夫れ日陽は世界を観じて、諸の苦悩を消除し、諸の福徳を与ひ給ふ、衰邑の貧民、借財あれば、利足諸雑費の苦あり、質地あれば、作徳不足の苦あり、家株不足なれば、夫食不足の苦あり、家破れ屋根破るれば、風雨雪の苦あり、衣食不足なれば、餓寒の苦あり。農具糞直なければ、麁作して取穀不足の苦あり。農馬なければ、代掻(しろかき)は勿論重荷を負ふの苦あり、家財なければ、万事不自由の苦あり。各其の苦む処を観察して、無利五ケ年賦に貸し渡す時は、或は借財を償ひ、利足出廃の利益を生じ、或は質地受戻し、作徳の利益を生じ、家株を得れば、暮方有余の利益を生じ、家小屋修覆を得れば風雨を凌ぎ、又勤業安楽の利益を生じ、農馬を得れば諸物運送の利益を生じ、家財を得れば日用自在の利益を生じ、各其の憂苦する処を免れ、其の利益を得仰いで父母を養ひ、俯して妻子を育し、一家安心相続の道立つ一固度循環するに及びては、極難貧者幾百、家の生産を安んじ、若し永久取り行いし時は、循環極りなく、幾億万家の貧苦を除き、幾憶万人の相続、永安を得ると極りあるべからず、実に先生日月の行く道に同じく、観音無量の功徳に等しと宣ふに、又宜(むべ)ならずや、人倫の道、何物か此に加ふるものあらんや、依て先生の至教に基き、文学書算も手に取らざる女子共にも呑込易き様、前書雛形組立て、無利足の大徳を顕し置候条、才兵衛子々孫々至る迄、慎んで遵奉致し、分限堅く相守り、余米年々推譲り、雛形の通り取り行い申すべく候、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再述経曰願以此功徳施及於一切同発菩提心往生安楽国先生之を解して曰く、此の無利足米を以て、一切の貧者に貸し与ひ、貧者返納の志を発せば、貧富ともに永安の至楽を得と宣ふに、夫れ富むるものは、数千万余を積むといへども、更に足るを知らず、有るが上にも願ひ求め、利欲に迷ひ、高利を貪り、他の者を省りみず、己一人の奢りに長じ、無慈悲の所行に陥り、遂に一家滅亡の禍となり、貧きものは、家業を怠り、他の財を借り、元利返済の道を失ひ、一旦借用を以て、困苦を補ひ、相助り候恩義を忘却致し、遂に祖先以来の家株退転となる、此の如く貧富共、道を失ひ、利を失ひ、禍を招くもの、凡情の通患なり、先生是を富驕惰弱の二弊とし、富むるものは自然の可分に止まり、驕奢の弊を省みて、有余を生じ、貧者に譲り施し、貧しきものは怠惰の弊を改め、勤めて其の徳に報じ、貧富相和する時は、財宝其の間に生じ、貧富共に永安の地に至ると宣ふ、才兵衛、今般一村平均、中庸の天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々米十五俵の有余を生じ、推譲候誠意の米穀は、得難き奇特と云ふべし、是を借用するもの、一粒たりとも如意宝珠の如く尊敬し、銘々不足を補ひ、貧苦を免れ、五ヶ年賦に返納致し候はゝ、年二割の利足のみに相当り、元来助成に預り候同様なり、一家暮方相整い候上は、其の恩義を解せずんばあるべからず、夫れ恩を受て恩を報ぜざるは、人にあらず、父母の恩を報ずる、是を孝と云ふ、君の恩を報ずる、是を忠といふ、素より才兵衛、報恩謝徳の為、差出し候推譲米に付、借用の面々年賦皆済後、冥加米相納候儀は勿論、其の余才兵衛の勤倹、推譲に法り、可分を弁ひ、暮方中庸の節度を立て、天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々有余を生じ推し譲り、是又前書雛形の通り取行い申すべく候。先生常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸出すものを称して菩薩界とし、借用して助かるものを称し衆生とす、然して衆生にして、困苦のために無利足の米財を借用し相助り、年賦返納する時は、返納米即他の貧者に循環し、諸々艱苦を除く故に、一たび年賦を納るものは、乍(たちま)ち衆生を出離して、菩薩界に入ると教え給ふ、然ば則ち此の推譲米を借用して、一家暮方相整い、才兵衛同様、天分に止まり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同ふし、観音と経を同ふするに至らん、才兵衛一人此道を行ふすら、一周度三万有余、俵の功徳を顕す、借る者数百家、同じく推し譲るに至ては、其の功徳、算勘数量にも及ぶべからず、日月の照す処、霜露の墜る処、偏く人民の窮苦を済救し、大小貧富共に至道に濠洽し、貧賤危亡の禍を免れ、富貴安存之を得、国家永く安楽に至るべし、豈可不暮信乎哉、豈可不勉行行乎哉」(一〇三三―四一頁)
2026.09.06
代表的なアルカリ性の飲み物をまとめた一覧。 飲み物 pH値の目安 特徴アルカリイオン水8.5〜9.5 胃酸を和らげ、体内のpHバランスを整える効果が期待される豆乳 約7.2〜7.5 植物性たんぱく質とイソフラボンを含み、弱アルカリ性で美容にも良い緑茶 約8.0 抗酸化成分カテキンを含み、リラックス効果も高いレモン水 約9.0(代謝後) 飲むと酸っぱいが体内でアルカリ性に変化する代表的な飲み物野菜ジュース 約8.0前後 食物繊維・ミネラルが豊富で手軽に摂取できる炭酸水(無糖) 約7.0〜7.4 中性に近く、胃腸を刺激して代謝を促す効果も期待できる見た目や味では酸っぱいものでも、体内でアルカリ性に変化する「代謝アルカリ性食品」もある。レモン水や梅干し水がその典型で、健康法として取り入れやすい。体をアルカリ性に整える飲み物に共通しているのは、「ミネラルが豊富で糖分が少ない」こと。ナトリウム・カリウム・カルシウム・マグネシウムといったミネラルは、体内の酸を中和する働きを持っている。反対に、砂糖が多い清涼飲料水やカフェインの強い飲み物(コーヒー・エナジードリンクなど)は酸性に傾ける要因になる。健康のためにアルカリ性を意識する場合、まずは「甘くない・自然由来・無添加」を基準に選ぶのが基本。💛胃酸過多を感じたら、豆乳を飲むかな、アルカリイオン水も買って来よう(^^)
2026.09.05
札幌農学校教授・宮部金吾 その3四 松浦竹四郎と宮部家(一六頁) 私たちがまだ駿府の代官屋敷に住んでいた時、松浦竹四郎氏が、明治元年閏四月六日付で京都大総督宮より「急々上京仰付」の命を拝し、京都往復の際、往復とも静岡の役宅に立ち寄られた。ことに御用を果たした帰途には数日間滞在されていった。松浦氏は当時における蝦夷(エゾ)地探検の第一人者であり、また著述家として令名のあった人で、後に開拓使の判官となり、北海道の国境を確立した。明治元年の御召の際にも京都滞在中に「蝦夷開拓基本献白書」を提出申し上げた。駿府に滞在中、徒然のままに唐紙にアイヌの絵を数枚書いて残していかれた。そのうちの一枚は今なお北海道帝国大学図書館にあり、一枚は故新渡戸稲造氏に贈呈し、アイヌが昆布を採っている絵のただ一枚が私の手もとに残っている。この絵は非常によくできているため、先年来朝した米国シカゴ大学教授スタールが札幌に来た時、これが複写を熱望され、数枚の複写をとったが、その一つは故河野常吉氏の所に蔵された。松浦家と宮部家とは極めてじっこんの間柄であり、江戸下谷の寓居は松浦家にごく近かった関係から、両家のゆききも相当に繁しかった。したがって数多い氏の名著はその都度我が家に寄贈された。このため、書物の中のアイヌや、蝦夷地の草花類や鳥獣などの絵を見ており、子ども心に早くも遠い蝦夷地に対し一種の親しみと憧れを持っていた。なお松浦氏は私に眼をかけられて、私を養子に懇望された由を、後になって、母から聞かせられた。けれどもこの話は父も母も進まなかったので取りやめになったという。しかし尽きせぬ縁というか、松浦氏が心血を注いだ北海道に、私は今日まで一生を捧ぐべき研究ひとすじの生活を送り来ったのである。五 修学のはじめ(一七頁)七歳(慶応二年)の時、私は初めて下谷仲御徒町岩村田藩儒者宮崎右膳氏に就き、漢学を修め始め、また近所の寺子屋にも通った。八歳の八月、父に従って駿府に移ってから九歳の一二月駿府を去る日までは同地の寺子屋に通っていた。一〇歳(明治二年)の二月、東京府にて全市を六学区に分かち、その各々に小学校が創設され、建物には皆大きな寺院を使用した。下谷と浅草の者は三味線堀に在った西福寺という寺を使用した。これが当時の東京府第五小学校である。寺小屋とほとんど同じで、学科は漢籍の素読、習字、珠算等であった。私は袴を着し、木刀を腰にして御徒町からそこに通った。その頃、父はまた私に手習いの先生として下谷長者町の服部随庵氏を選んでくれた。始めて先生の所にあがった時、父は「長兄は樋口逸斎氏に、次兄は高斎単山氏にご厄介になっていますが、この子は是非あなたのご指導に預かりたい」と申し述べた。随庵氏は大いによろこばれて直ちに快諾された。私は小学校に通う時、この随庵先生のお手本を持っていき、習字の時間にはこれを手本としていた。この年五月、生まれて始めて写真を撮る。この頃はいまだ写真の極めて珍しかった時である。父が烏帽子、直垂を賜った記念であったらしく、当時一流の名声をはせていた池の端橋本写真館に行き、父は一人で、私は文臣兄と二人で撮影してもらった。一一歳(明治三年)の初春、東京各小学校から四、五人の者が選ばれ、城内のある御邸に参上、書初めをした事がある。自分も幸にその選に入ったので、羽織、袴にお行儀よく、身を固めて御邸にあがり、帰りには扇子二本をご褒美としていただいて帰った。これは随分嬉しかったことの一つである。この一一歳の春の頃、ごく一時的であったが、外国語学校の前身と考えられるような学校ができた。建物は麹町の大きな旧旗本屋敷にあったように記憶する。各小学校において洋学希望のものでその学校に行きたいものは申し出よとの事に、父に願って、私も届け出た。入学の願いがかない、出頭の命に従って登校したところ、集まる者約七〇名。私はその中の最年少組であった。三味線堀の小学校から志願した者の内には、岡胤信者(後の工学博士)、原田鎮次君(後の工学博士)、が一緒であった。この学校には英独仏の三科があり、それぞれ希望する所を書けというので、英語を志願した。ところが英語志望者が大多数であったので、私はドイツ語の組に回された。ここで「アー、ベー、ツエー」の読み方が始まったのである。教師には西洋人が二人ほどいたらしく、屋敷内に住み、また見え隠れに陣笠を被った護衛の士も若干ついて同じ邸内に住み込んでいた。彼ら洋人は外出に際し、いつも乗馬を用い、護衛の士も騎馬でその前後を護って行った。一一歳の少年にとって登校は相当な道程であったが、ただ一人で御徒町から本郷の切通を通り、飯田橋を渡って麹町へ往復した。これより先、既にその前半頃から私は洋学修行の志を持っていたらしく、時の流れを考え、自分の発展を期して父もまた洋学修行をさせたかったらしい。後年父が石賀作助氏に宛てた手紙(明治二年四月九日付)が発見され、その事が明らかになった。石賀氏は祖父が自分の養子として石賀家を継がせた人で、父の義弟に当たり、当時横浜に在住していた。ところが当時横浜の高島学校はいまだ開校の運びに至らず、かつ適当な機関もなかったので、その話はまずそのままとなったのである。
2026.09.05
鹿児島出身の河東祐大が公式戦A代表デビュー 絶妙トスで得点演出【バレーボール 男子アジア選手権】9/4(金)鹿児島市出身のセッター河東祐大(J愛知)が17―12とリードした第2セットの途中から出場し、公式戦でA代表デビューを果たした。高橋藍(ルブリン)の強烈なバックアタックをトスで演出したほか、同セット奪取を決めた小野寺太志(サントリー)にも右手一本で絶妙な配球。五輪への切符が懸かる大会の初戦で、きっちりと役割を果たした。男子バレーアジア選手権日本代表に鹿児島商業出身のセッター・河東祐大選手が選出4日から福岡で行われる男子バレーボールのアジア選手権に出場する日本代表メンバーに、鹿児島商業高校出身のセッター、河東祐大選手(28)が選ばれました。河東選手は鹿児島商業高校から日体大に進み、現在はSVリーグのジェイテクトSTINGS愛知でプレーしています。河東選手は8月に鹿児島・薩摩川内市で行われた日本代表チームの合宿にも参加していて、紅白戦では地元鹿児島のファンにファイトあふれるプレーを披露していました。河東選手はウルフドッグス名古屋の深津英臣選手とともに日本代表のセッターとしてチームの司令塔を担います。河東選手をはじめ石川祐希選手、高橋藍選手らが出場する男子バレーボールのアジア選手権大会は9月4日から13日まで福岡・北九州市で開かれ、優勝すれば2028年ロサンゼルス五輪の切符が得られます。
2026.09.05

「ユマニチュード」という革命p.116 私の現実が正しくて相手の現実が正しくないと判断するとき、物事を決定する権利はどちらが持っているでしょうか。 私の現実を基準に判断するとき、彼女には権利がなくなり、両者には一方的な力関係が成立します。つまり、「支配するか・支配されるか」しかありえなくなります。ユマチチュードは自由を尊重します。それは自分より強い者に従うことからは生まれないからです。 ではどうすればいいでしょうか。力関係に陥らずに済む方法が、たったひとつあります。 ケアを受ける人とケアをする人とのあいだに絆を結ぶことです。それがあれば入浴に来てくれます。なぜでしょうか?ケアを受ける人がケアをする私のことを好ましいと思っているからこそ、一緒に風呂場まで来てくれるのです。それがポシティブな依存関係がもたらす絆です。 これから行うケアを好ましく思っていない人に、「あなたのためですよ」と強制的にケアをしたら、相手は私のことを好きだと思うでしょうか。優しく接しないと好きになってくれないでしょう。 歩きましょうと誘っても「嫌だ」と拒む高齢の人に私たちはどうしたらいいでしょうか。まずは自分の足で立つことの大事さを説明します。そして「私のためにやってほしいな。嬉しいから」と言います。でもどうしても本人がその気にならない場合もあります。「寝たきりになってしまうかもしれないからです。あなたにとって残念なことだと思うし、私の心はつらいです」と言います。けれども強要する権利は私にはありません。あくまで本人が選択するのです。だからこそ、私と一緒に立ちたいと思ってもるためにすべてのことをします。それが依存関係における、その人の自律と自主性の確保です。「すべての人は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」 ユマチチュードにおいては、この世界人権宣言は絵空事の理想ではなく、技術を伴う哲学によって実現されるべき目標なのです。人間はものではありません。しかし、認知症高齢者はもの扱いされる局面が多々あります。濱口竜介が考えるケアと資本主義──映画『急に具合が悪くなる』ロングインタビュー濱口竜介が考えるケアと資本主義──映画『急に具合が悪くなる』ロングインタビュー「資本主義は、ケアという誰かに配慮する時間や関心を向ける時間を食い潰していく構造を持っている」と濱口は語る。哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂による往復書簡集『急に具合が悪くなる』(晶文社)を原作にした本作は、異なる物語でありながら、原作と温度と核を共有する作品だ。介護施設長のマリー=ルーと演出家の森崎真理。同じ名前の響きを持つ二人の偶然の出会いと関係を通して、ケアと時間、そして思うようにはならない身体の問題に触れる。『ドライブ・マイ・カー』の各国での公開や、世界の映画賞・映画祭でのノミネーションにまつわる怒涛のプロモーションで体験した感覚が、本作の根底に流れ込んでいるという。過去作を振り返りながら、映画作家としての現在地を語る。──今回の作品『急に具合が悪くなる』について、プロデューサーの松田広子さんから企画をもらった際、どうやって映画にすればいいかわからないまま動かされたとおっしゃっていました。そういう「わからない」状態に対して、いつもどう向き合っていますか?基本的には、放っておきます。よく言えば「発酵させる」ということだと思います(笑)。その時々のさまざまな興味のあることをやっていると、何かしらの刺激が次々と入ってきます。どうやってそういうことが起きるか、その条件は未だにわかりませんが、ある時にふと「この方向でまとまるかもしれない」ということが起こります。今回は、フランスのプロデューサーからの依頼という、道が開けたわかりやすいきっかけがありましたが、それだけではなくて、読んでいる本や日常のものごとによって、「おや?」と、これまでとは違う道が開けるきっかけをもらうこともあります。──本作は、効率や速さが優先される社会に対して、人間として当たり前の感覚を取り戻そうとする映画だという印象を受けました。今回は、どんな社会への「おや?」が作品の根底にあったのでしょうか。そうですねえ。遡ると、『ドライブ・マイ・カー』で評価をいただいて、各国で劇場公開されました。これ自体は当然ありがたいことなんですけど、ちょうど『偶然と想像』の公開のタイミングと重なってしまったために、ほぼ1年間ずっと日本と海外でプロモーションをしなくてはならなくなった。当時はコロナ禍で、海外への移動に付随するホテル隔離なども重なって、精神的・肉体的な疲労が溜まる状況にありました。海外に行かないとしても、「30分か1時間、オンラインでインタビューできませんか?」という依頼が各国から来るようになりました。できないことはない。でも、ネット環境の安定した場所にいなければならないし、その時間以上に拘束されるわけです。時差があればそれは早朝か深夜になる。本当にじわじわと自分の時間が奪われていくような感覚がありました。「奪われる」というと言葉が強いですが、多くの人が、自分一人の有限な体力や時間から、できる限りのものを取っていこうとしているような感覚があったんです。どうやらこの状況において、一人一人には何の悪意もないようだ、と。それぞれの仕事を誠実に果たしているだけなのですが、しかし、この奪われていく感じは何なのか。自分の体に降りかかるものとして、システムの暴力のようなものを感じるところがあったわけです。それがシンプルに、おそらく『急に具合が悪くなる』にも『悪は存在しない』にも、ある種の「こんちくしょう」という気持ちとして流れ込んでいるところはあると思います(笑)。──「こんちくしょう」が映画になっているというのは、健康的な昇華法ですよね。ユマニチュード(フランスの体育学者イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティによって1979年に開発されたケア技法)を導入しようとしながら、必ずしもすべてが上手くいかない施設長の姿が直接の着想源になったそうですが、理想と現実の間で動く人間は、ご自身が監督として携わった映画の現場での体験とも重なるものですか?長らくそういう思いはあったと思います。完璧なものを作ったことは全くないので、もっとこうだったら、という気持ちは常に、随所にあります。ただ、それをどうすればいいかはやっぱりわからないという地点にいつも戻っていく。非常に愚かに、あちらを立てればこちらが立たず、ということをずっとやっています。ただ、「右往左往する力が身についた」というところはあるかもしれません。よく言えば(笑)。──これまでのフィルモグラフィーを振り返り、酒井耕さんとの共同監督である東北記録映画三部作、東日本大震災の被害者へのインタビューから成る『なみのおと』(11)『なみのこえ』(13)、東北地方の民話の記録『うたうひと』(13)、神戸に移り住み、年月をかけ、即興演技ワークショップから誕生した『ハッピーアワー』、商業映画デビュー作となった『寝ても覚めても』(18)、アカデミー賞®国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』、石橋英子さんとのコラボレーションから派生した『悪は存在しない』(23)などの作品がありますが、今振り返ってみたときのターニングポイントがあればお聞きしたいです。結局はどれも決して外せないものばかりですが、特に大きいものは二つだと思います。震災後にドキュメンタリー、東北記録映画三部作を撮ったこと、そしてその経験をフィクションとして『ハッピーアワー』に昇華させたこと。この二つがターニングポイントとして非常に大きい気がします。──特に、どんな側面で変化したと思いますか?人との関わり方、という面ですね。例えば、20代の頃、フィクションで俳優に出てもらうというのは、ある種のギブアンドテイクであると思っていた。向こうは演じたいという気持ちがあって、演じる機会を欲している。それをこちらが提供する代わりに、彼らの力や時間をもらう。でもドキュメンタリーの場合、そこに非対称がある、ということを強烈に意識するわけです。被写体が出てくれるとして、その理由やモチベーションは基本的にはこちら側にしかほぼない。特に被災体験を語ってもらう、というのは色々なリスクがあります。しかし、インタビュイーに還元できるものはほとんどありません。そうなると、その体験を語ることに歴史的な、もしくは未来にとっての意義を感じてもらえるか、ということが一つ。もう一つは、こちらが「どんな話でもあなたのことを聞きたい」という関心を、できる限り示すということが、被写体にカメラの前に立ってもらううえで必要になります。そのうえで、その語りが映画になるためには、その人が自由に話しているときにのみ出てくる、その人自身の人間性や魅力が溢れてくるような時間を捉える必要がある、というふうに考えていました。その人の本質を見せてもらうためには、安全な空間を作らなければならない。そういったことを共同監督の酒井耕とも話し合いながら、自分たちの方法を作っていきました。──どのように、安全な空間を作っていったのでしょうか?まず、自分たちがその話を心から聞きたいと思っているということを言葉でも伝えるし、肯定的な雰囲気を態度からも発していく。特に『なみのこえ』以降は、「どんな話でもしてもいいのだ、それが被災体験でなくてもいいのだ」とインタビュイーの方たちに安心して話してもらうために、撮ったものを編集段階で本人に見せると約束をして、撮影しました。編集で実際に話してもらったことの順番を変えたり、時間をものすごく圧縮するわけなので、本人が言った意図とずれていないか、この提示の仕方は許容できるかどうかを確認して許諾をもらう。「許諾をもらえるまでは世に出しません」と撮影時に約束することで、安心して話してもらう。そしてこのカメラの前に立つ人にとっての「安心」の重要性は、劇映画の制作においても同じだろうと気づきました。俳優が輝きを放つかどうかは、単なるスキルの問題ではなく、その人が自分自身を表現してよいと感じるに足る安全な環境がなければ、観客を深く引きつけるような在り方にはならない、と。ただ、演じることを完全に安全な環境にすることもできません。だとしたら、俳優が飛び込む価値を感じられるような役柄や、そこに込められた感情が必要になるだろうと。おそらくそうした考えが、『ハッピーアワー』の制作を通じて作られていったのだと思います。──『不気味なものの肌に触れる』(13)の振り付け・演出や、『ハッピーアワー』(15)のワークショップ・演劇指導をされている砂連尾理(じゃれお・おさむ)さんが本作にも関わっていますが、彼との対話でダンスとケアについて考えたことがあればシェアしていただけますか。友人でもある砂連尾さんとは月1回の勉強会のようなものをずっとやっていて、共通の映画を観たうえで、動きをひたすら観察するということをしています。砂連尾さんは、手の動き一つとっても、動きのノイズすべてを捉え尽くすような観察をします。何でそんなところを見てるんだ、と。「物語、本当にわかってます?」と聞くこともあるぐらい(笑)。自分にとって砂連尾さんの、人と物をあまり区別しないという見方、そこにあるもの全てを等しく感じとるという感覚は、是非とも学びたい、映画の中にも取り入れられるならそうしたいと常々思っているものです。今回の映画は、自分だけの手に負えないと思ったので、久しぶりに直に参加をしてもらいました。我々が「足裏ダンス」と呼んでいた足裏マッサージのシーンは、元々は砂連尾さんのレパートリーです。自分ひとりではまだまだその境地には行けないけれど、砂連尾さんに手伝ってもらえば、そういうものが映るかもしれないという信頼がありました。──本作は、ケアをする側、される側の分断を超えていく可能性についての映画だと感じました。最後に、濱口さん自身のケアに対する考え方を聞かせてください。私自身の考え、というほど大層なものは持ってはないです。ただ、脚本執筆時に参照したナンシー・フレイザーが、資本主義というのは、まず社会の中のケアを食い潰していくシステムだと指摘しています。つまりその部分に賃金を払わない、ということですね。このことは介護産業における資金不足だけを指すのではなくて、家庭内で主に女性が担わされる家事労働、高齢者や子どものケア、そして仕事先から帰ってきた人間の感情的ケア、そういうものが無料で行われることが慣例となって、社会がそこに対価を払わないまま、ただ乗りしている事態を指しています。私が、さっき言ったような自分の経験も踏まえて感じるのは、資本主義的な社会システムは何よりも、人間を人間として扱う余裕や、本来なら「ケア」の根本にあるべき他者への関心そのものを奪ってしまう、ということです。関心というのは、ただ持っていればいいというものではありません。関心を寄せるとは実際に、誰かを見つめたり、耳を傾けたり、ときに触り合ったりする、そういう具体的な行為を通じて伝えられるものです。つまり、それには時間が必ず、一定程度かかるということです。そして、肉体は主に食事と睡眠によって、そして疲弊した精神は特に他者の関心を得ることで回復するように、私には思えます。この、他者への関心を表現するための時間や余力を、社会システムそのものが奪ってしまう。こうした状況で、多くの人が人間関係を維持できずに苦しむ、ということも当然、頻繁に起こります。なので、現代の社会で最も欠乏している資源は、実のところ「関心」であるという実感を持っています。劇中で真理が、資本主義のシステムの中で「外部」に置かれた人たちの怒りに正当性を認める箇所があります。SNSを追っていると、人びとがどこで強烈な反駁を始めるか、人びとの怒りが特にどこで火がつくかを見ることができます。それは特に知的・道徳的に劣っている、というジャッジを受けたときです。そして、この知的・道徳的なジャッジがある程度妥当であることも多いとは思っています。ただし、ジャッジする側が知識において、必ず劣っているものが一つあるとも思っています。それはジャッジを受けるその人の人生についての知識です。ジャッジする側は、それを受ける側の人生についてはほとんど無知です。例えば、「ネトウヨ」や「陰謀論者」としての平板な生しか想像しない。批判されるような「その意見」を持つに至る過程は、その当人にとっては合理的なものであるはずです。でも、そう考えるに至った人生のプロセスに、ジャッジする側はほとんど「関心」がない。無関心だからこそ、相手の人生に無知であることにもほとんど頓着しないわけです。ここで生じる怒りは、私もまた一定の正当性があると思っています。それが、自分自身の生への無関心に対する、根源的な怒りだからです。この怒りは簡単には解きほぐしがたいものだと思います。これは映画の中でのマリー=ルーと看護師のソフィのあいだに生じているわだかまりとも近いものです。自分自身が物語の語り手として、いったいどうすれば、この状況を解きほぐす糸口があるか、というのは必死に考えました。でも、できることはほとんどない、というのが結論です。魔法のような解決策はない。ただ、それこそが、映画でマリー=ルーが認めることとも言えます。自分の能力の限界を認める、ということ。自分の無知や無能力を認め、さらには敬意のなさを相手に謝罪をし、許しを乞うこと。そして改めて敬意を示し、相手の人生を、無知な自分に教えて欲しいと願うこと。これはもちろんフィクションだからこそできる振る舞いかも知れません。でも、自分の中ではマリー=ルーの中で真理と出会ったことから生じた変化として、納得できるものがありました。そしてソフィの側にも「このぐらいのことは起こるかもしれない」と思える変化を描けたと感じています。それが自分の人生でも常にできる振る舞いかと言われたら、そうではない、と言わなくてはなりません。でも、偶然を引き受けて、新たな自分になる、新たな「私たち」になるという原作に描かれた道筋は、こういう想像力を与えてくれました。おそらく「想像もしなかった偶然」という各々の人生に訪れる、個別具体的なできごとのなかに、「不可能を可能にする抜け道」があるのではないか。と言うか、あるとしたら、そこにしかない、と今は考えています。──カンヌでのお披露目を終えて、恐怖心はありますか。各国で公開され、多忙を極める日々がまた始まるという。ありますね(笑)。これはとてもありがたいことではあります。だからこそ、そこで制作と、身近な人との関係を第一とする自分のバイオリズムをどう守っていくかはとても難しい。ただ、最近は「No」と言うことを意識しています。ただし先方に、単に「拒絶された」と思われてしまわないように、その背景にある事情も、ある程度丁寧に伝えるようにしています。相手にとって、その事情まで読むことも一つの負担だとは思ってはいますが、これは相手との関係のもう一端を占める自分を守るための「No」であって、単純な「No」ではない。むしろ根本にあるのは関係性そのものを長く続けたいという「Yes」なのだという、そういうニュアンスまで伝えることが、今の自分にできる最善のコミュニケーションなのかなと、考えています。原作の中に、がん患者である宮野さんの荷物を持ってあげたいけれど、どうしたらいいのかという磯野さんの逡巡に対して、そういう簡単にはわりきれない関わり方でいいのではないか、と宮野さんが書いています。そうやって、簡単には決めきれないような関係性っていうのは、要するに人間的な関係性を結ぶっていうことです。これはシステムが決める「役割」からは零れ落ちる部分を拾うように、絶えず揺れながら、相手と関係を結ぶということです。それを仕事の場なんかでやるのは、とても面倒くさいことですよね。でも、どうもそれをやらないとあまり幸せになれなそうだということもわかってきました。常にそれができるわけでもない。けれど、無理をしなければ少しずつ、色んな人と、ある程度は作っていけるのではないかと、そういうわずかながらの希望を、今は持っています。
2026.09.05
五 第二期の二 明治三十四年より三十五年に至る ○洋行中の鈴木君 君渡航せんとするとき、ある人その任務の重大であるから信任する通訳者の同行をすすめる者があった。君はこれに答えて、この事業に関しては予の眼識はよくその巧拙を識別し、予の頭脳はよくその良否を判断することができるから、任務についての通訳の有無のごときは論ずべき事ではない。器械の購入に至っては彼れを制する唯一の利器である財を携えるから少しも心配することを要しないと言われた。このようにして君は横浜を出航してハワイに寄港し、同地の製糖所を視察し、それよりアメリカのサンフランシスコに上陸し、シカゴ、ワシントンを経てフィラデルフィアに行き、到る所有名な精製糖所を視察し、あるいはこの業界の第一人者を歴訪した。一日ブロクリンにおいて世界第一の精製糖所を視察するとき、会社の重役及び技師等は三十余種の見本を出し、その産地及び糖分の検定を求められた、君は熟視することしばらくして、一々指摘し終り、彼らがあらかじめ器械をもって検定した表を出して対照したところ、ほとんど符節を合わせるようであったので、彼らは大いに驚嘆してその眼識の高さに敬服したという事であった。このようにして君はアメリカの視察を終り、イギリスにわたりロンドンに到着し、各地の精製糖所を視察し、また器械製作所をも巡覧し、同国内地の旅行を終り、それから欧州大陸にわたり、ドイツ・フランス二国を巡回し、同年十二月二五日ロンドンに帰着した。君はアメリカ大陸上陸以来十五旬の間、汽車汽船に在るときの外は、日として製糖所及び器械工場の巡視をしないことなく、その足跡の到らない所なく、かつ知名の実際家学者を歴訪して研究したことから、各国の長所短所得失は胸中にはっきりとした。そこで君は各国の萃をぬき華をあつめて最新式の機械を選択して完全な精糖所の設計を立案し、これに要する諸器械の購入を為すこととした。この時にあたって各地の器械業者は皆な君の旅宿に集まり、その引請をなさんとし、君にくらわすに利をもってし、希望をとげようとするに至った。君はその卑劣をしかり一物の徴といえどもこれを受けなかったので、彼らもその手段を施すこともできず、遂に君を疑って会社の代表者ではないというに至った。このようにして君は一種の器械ごとに数工場に命じて競争入札をなさしめる事と定め、彼らが最上とするものに対し、詳細な説明書を作らせ、次に代価を入札させ、これを比較しその最優等のものを選んでこれを劣等品の代償にて買う注文をなした。彼はその注文を受けるやその品質を降さんことを請うもこれを許さず。その代償を増さんと乞うもまたこれを諾せず、彼をして最低の製造費をもって契約するの止むを得ざるに至らしめ、稀有の廉価で精良の器械を購入し、翌年二月十日イギリスのサウザンズトンを出航し、シンガポールに到着し、南洋ジャワに航海し内地の調査をし、それよりサイゴンを経て香港に来たり、南シナの産糖地を調査し、更に台湾に入り、同地における糖業の実況を調査し、五月帰京する事となった。
2026.09.05
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(二)その2【開爐(二)】 風頭稍硬大家知 (風頭稍硬し大家知る)且聽商量暖處歸 (且く聴す商量暖処に帰ることを)般若如同大火聚 (般若は大火聚に如同す)近前燒郤兩莖眉 (近前すれば焼郤す両茎の眉) それが且く聴す商量―というのは、問答ということで、昔はかけ値があった。「これ幾らか」「百円」「百円は高い、五十銭なら買おう」「馬鹿いえ、十円にしておこう」「十円は高い、一円出そう」「一円はべら棒な、一円五十銭出せ」「それでは一円五十銭で買うておこう」こういう理屈に商売するのを商量という。そこで、われわれはどこがよかろうか、商売せんならん。安全地帯はどこか、チャンと自分は自分で問わんならん。 これは、安全地帯はこの寺が一番いい。虫の音を聞いて、麦飯を食うておる。一番安全地帯、風邪も引かんというておる。電話もかからん。ラジオも喧しからず、これくらいいいところはない。こういう安全地帯を、ここに暖処という。これは安全地帯である。われわれはこの安全地帯がなければならん。というのは、風邪も引かんところである。「アア寒い、寒い」且く聴す商量暖処に帰ることを。一番安全地帯のよいところへ帰らんならん。「般若は大火聚に如同す」さて、この般若(智慧)というのは、いったいどんなものが般若か。われわれはこの般若をもとめなければならんが、般若はどこにあるのか。般若は大火聚に如何同すとある。大火聚というのは、火が燃えておる。そこでまず般若を文字般若、観照般若、実相般若の三種に分ける、まず文字般若、それから、われわれ般若の正味を観察し、その般若を意識し、般若というものはこんなもの、あんなものであると知る。 般若は口でいえんものである。あるいは、心で思えんものである。それだからむずかしい。般若でなくなってしまう。 ようわたしがいう『金剛般若経』の中にも「もし色を以って我を見」―われというのは仏のことだが、今は般若である。金剛般若のことである。「音声を以って我を求めば」―般若というものを声で求めるならば「この人は邪道を行じ、如来を見たてまつること能わず」とある。 この般若を今実相般若というのは、人格化してここに説法しておることは申すまでもない。色を以って我を見、音声を以って我れを求めば、この人は邪道を行じ、如来を見たてまつること能わず。そうすれば、如来をなへんに拝みたてまつるかということの参究である。如来を拝みたてまつるということは、自分が如何に修行するか、ということの問題である。(大智禅師偈頌講話p.176-178)
2026.09.05
「富田高慶日記抜粋 (表紙の裏) 覚一 金一七五両為替金手形。 右は先生より受取阿部氏方に預け帰国の上会所(役所)へ差出受取申すべき事。一 一村のうち百姓や給金の人が入り交ればきっと世法があろう、区別や故障もあろう。御仕法の意義は廃を挙げて開闢の古えを思って一円に起す法であるから、一村のうちどのような面々が入り交っても、皆平等に仕法を取り扱わなければならない。もし村中が平等に取り扱っては迷惑というのが少しでもあれば、この村はまず差し置くべきである。上の威厳で命令を下すならば随うようだが、その命令はその好む所に反するから、必ず手を引いて見合すことになろう。青田を威令で赤くしようとしてもこれは成らない事である。一 両村の仕法を始めるに当り、その開発用資金をその国から出させると上下の人情は穏かではない。ことに仕法が成就するかどうか計りがたくなる。だから仕法役所から年々村方で積み立てた米や金、縄ないの代金を倍増にして遣わし、村で積み立てた平均外の資金と合わせて、仕事に精出す人のうち入札の一番札から三番札まで金を貸し付け難渋の者を救い、そのほかは鍬一、二枚あたりを施し、その他の一同には鎌でも施して村の模様を見れば人情が進んでいくのではないか。一 翌年から領中一体の平均外が出るならば、そのうち両村土台外ばかりは年々仕法役所の仕法金と同様に取り扱って、一体の土台外の収入については当方の引き受けていないところであるから、もし成田村・坪田村の二村が立ち直ったと聞き及んで、ぜひ自分たちの村にも仕法を実施してほしいという村もあるだろうから、その時には諸郷の代官がそれぞれに村で入札した上で一村へ仕法を施そうとも、また分度外が多くなく諸郷へ及ぼすことができなければ、諸郷の中でくじを行い平均外の米金の引受を取扱う一村を興そうとも、その時・場所に従って実施すればよい。そうであれば諸郷からの仕法でそれぞれの村が立ち直るであろうし、両村が立直った上はこれから他村へ推し及ぼし、最後は領中に及ぶべきである。一 百姓が年来の困窮に陥って、ただ不足の事ばかりで人情が卑しくなる。だから、井戸の水を汲むように無尽の米金を年々差し出し取り扱わなければ、どれほど世話しても人情が一変しない。このため当方から年々繰入れる場合は、一同の怠惰の心を除くべきことが肝要である。一 村の者の一同の目鑑(めがね)で入札し、高札の者から三番まで五両、四両、三両も褒美として無償支給して村の気風がよくなるようであれば無償支給でもよい。しかし恩義になれて後々のためにいかがかということであれば金額を増して五年賦、十年賦で貸し付けたほうがよい。かつ一人、二人の落札した人には鍬一枚とか鎌一枚とか褒美として与えてよい。一 入札を二、三度も行えば村の気風もたいてい分ってくる。勧善の道も自然と説かなくても顕れてくる。一 村の極難の者で雨露の凌ぎもできない者は、ワラでもよいから当面のしのぎとして屋根を葺き替えたり、家の修繕を一同の入札をもって実施するべきである。一 特別の働きで複雑で多岐に取扱っては相馬藩復興という大望のことであるから、よろしくない。ただ単に善人を賞したくらいの事では人々も報徳仕法もこんなものかと思い、あれくらいは誰にでもできるなどと言い立てることであろう。後々はいろいろと起っていたしかたが無いほどになるであろうから、特別の働きは無い方がよい。一 扶持給(給与)は何ほどでも下されたら残らず村の仕法金に差し出すがよい。領中に余っている物はただこの扶持だけで、このように余っている物を計らうならば村は立ち直ることであろう。余分にあるほど村は早く立ち直るであろうから辞するに及ばない。一 立派な男だからできる仕法で、できないものと心得えて見切った後に手を下すのだ。仕法を行う者が間違いないといえば、人はその手違いを言い立てる。自分から手違い者といって始めれば人は嘲らない。人が嘲るものを自分から唱える、これが手違いが無い証拠である。恩義を受ければ人々の気風は不穏であるばかりでなく、内外の嘲りがある。それだけでなく事のもつれとなる。手を引き離し一金も受けなければ全て安らかだ。難しい事があればすぐに手を引けば、誰も可不可を論ずる事がない。(略)一 人は富む時は内が豊かだから善心があり恥を知る。困窮する時は内が豊かでないから善心が隠れ恥を忘れる。恥を忘れる時は至らない所はない。このような人情の所で外に恥を知らしめる道がない。だから入札をして善を褒めれば、人は皆方角を知って進む。テンビンのなかばを一分よればその重い方に傾く。一村で百軒あれば五十一、二軒善を知れば残らず恥を知る。恥を知らない時は年貢を納めていない事を表に言い立て大声で年貢がないことを話す。米がないと罵り借りる。これは皆恥を知らないからである。恥を知れば年貢を納めていないことを恥じ、米がないことを恥じ、ひそかに言ってこれを借りる。内外表裏してこのようである。百軒残らず入札が終らなくても人情は恥を知る。村五十軒よい者があれば四、五人入札してよい方に加えるならば残りは皆恥を知って善心がおこる。一 国を治めるのは譲にある。今公用をおいて私国を先にするのは先生が選ばれる道にあたらない。人は一盃の酒を譲る。ましてや国を起すのはなおさらである一 今の時に始める理はないようであるが、白米を飯にたき、書をそのまま置く時は空しくなる。この飯だけでなく、郡中米飯をたく思いを損じるであろうか。一 大井村の姿は、たとえば屋根屋が来るを知って何の用意もしないで坐して待っているようなものだ。屋根屋がどうしてこようか。村を起すそうだと見物している村へどうして求めてこちらから仕法を下そうか。一 帰国の際、まず村は差しおいて、役員一同と諸帳面をじっくり開いて見た上で、どのようにも差支えが無いか相談し、文言等も御国で通用している文体を用い、いよいよ決したところで村に仕法を始めるべきである。
2026.09.05

バスケ女子W杯 日本が劇的第4Q逆転勝ちで白星発進 林が圧巻連続3P、チームトップ27得点「決めるのが私の仕事」マリとの激闘制す チームで大会新記録1試合20本の3P成功9/4(金) 日本は序盤からフィジカルに勝るマリに苦戦。第1Qを21-25でリードを許すと、その後も差を詰め切れず。第3Q終了時点で71-73で最終第4Qを迎えた。 残り5分までリードを許していたが、林の3点シュートで逆転すると、さらに林が連続で3点シュートを決め、さらに渡嘉敷も3点シュートを沈めて突き放して、そのまま逃げ切った。 林がチームトップの27得点をマーク。3点シュート15本中9本を沈める活躍でチームをけん引した。試合後「決めることが私の仕事。最初良い流れをもってこれなかったので絶対決めようと。1本入ると、入ることが多かったので、自信をもって打っていた。最初は緊張したが勝ちたい思いが強くて。みんなで勝ちきった1勝。本当によかった」と笑顔で振り返り、今後に向けて「しっかり前を向いて全員で勝ちに行けたら」と見据えた。 日本はこの試合で20本の3点シュートを成功。FIBAによると新記録を樹立した。 日本は5日にドイツ、7日にスペインと対戦する。
2026.09.04
中国批判を続けてきた中国系カナダ人学者「中国人に謝罪せねば」「米国はあまりに異常」中国メディアの観察者網は3日、中国系カナダ人学者、教育者の江学勤(ジアン・シュエチン)氏が「米ロサンゼルスに3日間滞在して、中国の人々に謝らなければならないと思った」と発言した。・・・・・・江氏は英国の著名司会者ピアーズ・モーガンが8月18日に配信したネット番組に出演し、米国の報道記者アニー・ジェイコブセン氏、英国セント・アンドルーズ大学教授フィリップス・オブライエン氏と共に、核戦争、生物兵器、人工知能(AI)など、世界規模の災害につながる可能性のあるリスクをテーマに議論した。「私が今、本当にとても心配しているのは『ゾンビ・アポカリプス』だ。過去20年間、私は中国を批判し続けてきた。しかし、ロサンゼルスに3日間滞在している今、帰国したら中国の人々に謝らなければならないと思っている」ロサンゼルスについて「本当にハリウッドのスリラー映画の中に入り込んだようだった。まるでSFディストピア映画のようだった」と評し、超有名人が山の上の2000万ドル(約31億円)の豪邸に住んでいる一方、スキッド・ロウではホームレスや薬物使用者があふれていると説明。「私からするとこれはあまりにも異常な光景だ。人類史上最も豊かな国に、これほど絶望的な貧困が存在しているのだから」「米国人は国内の腐敗や格差に目を向けることなく、海外に出て愚かで意味のない戦争をすることを選んでいる。だから私は、核戦争や生物兵器による戦争よりも、国内からの衰退をより心配している」「私は今、サンタモニカのホテルに泊まっている。高級ホテルだ。ところが夜になると、ホテルの外にはホームレスが大勢いる。一晩中そこで大声で叫んでいて、ホテルが耳栓を用意してくれていた。これが私たちの生きている世界だ。私たちはこの問題に正面から向き合うのではなく、耳栓をして、自分たちの要塞の中で暮らし続けている。これこそが今日、人類を本当に脅かしているものなのだ」司会者「ここで目にした状況は、現在の中国と比べてどのような違いがあるか」江氏「中国では家族を大切にし、コミュニティーも大切にしている。だから実際のところ、これほど深刻なホームレス問題はない。私たちはもし自分の兄弟が困難な状況に陥ったら、家に迎え入れて一緒に暮らし、面倒を見て、立ち直るまで支える。しかし米国では、基本的に誰もが自分の力だけで生きていかなければならない。一度でもつまずけば――例えば、それまで問題なく暮らしていたのに突然病気になり、医療費の請求に押しつぶされ、破産してしまえば、その先には路上生活が待っている」「考えてみてほしい。世界で最も豊かな(米国)社会で、何百万人もの人々がこのように取り残されている。到底受け入れられることではない。この国では250ドル(約4万円)の急な出費さえ負担できない人が半数もいる」
2026.09.04
デカフェでもいいの?毎日5杯のコーヒーで「肝臓がんリスク47%減」英研究が示す真実9/4(金) 肝臓は体内のフィルターとして機能し、500以上の重要な働きを担う、私たちが全力でサポートすべき臓器だ。コーヒーと肝臓の結びつきは少し意外に思えるかもしれないが、実は肝臓の専門医たちは何年も前からコーヒーの利点を高く評価してきたのだ。最新の研究結果と、コーヒーが肝臓の健康をなぜ後押しするのか、そのメカニズムを見てみよう。専門家の紹介:ヒョンソク・キム医師(医学博士、シダーズ・サイナイ医療センターの移植肝臓専門医であり本研究の筆頭著者)、ラフィ・カラゴジアン医師(タフツ医療センターの移植肝臓専門医)、マリー・L・ボラム医師(ジョージ・ワシントン大学消化器・肝疾患部門責任者)この研究は、医学誌『Clinical Gastroenterology and Hepatology』に掲載されたもので、長期間にわたる生物医学データベース「UKバイオバンク」に参加した約35万5,000人の成人の食事と全体的な健康データを分析したものだ。研究チームは約13年間にわたり参加者を追跡調査し、肝硬変(肝臓の線維化)や肝臓がんなどの合併症、さらに肝臓関連の疾患による死亡リスクを調べた。その結果、コーヒーを飲む人は全体として、時間の経過とともに肝臓の合併症を発症しにくいことが判明した。具体的には、コーヒーを毎日5杯以上飲む人は、コーヒーを飲まない人と比較して、肝硬変のリスクが32%、肝臓がんの発症リスクが47%、肝疾患による死亡リスクが42%も低いことが分かったのだ。さらに驚くべきことに、これらのメリットはレギュラーコーヒーでも、カフェインレス(デカフェ)でも同様に見られ、1日あたりの摂取量が少なくても健康効果が確認されたという。また、コーヒーを飲む人は飲まない人に比べて、肝臓の炎症レベルが低く、健康な肝機能を示す特定のタンパク質レベルが高いことも明らかになった。研究チームは結論として、「無糖のコーヒーを適量飲むことは、肝疾患を予防するためのシンプルで効果的な戦略である」と述べている。今回の研究結果は、肝臓を保護する主な理由が「カフェインではない」可能性を示している。「デカフェのコーヒーにも、ポリフェノールやクロロゲン酸など、多くの生物活性化合物がそのまま含まれています」とキム医師は指摘する。「つまり、カフェイン以外の成分こそが、肝臓に良い影響を与えている可能性が高いのです」カラゴジアン医師も「カフェインに敏感な人にとって、デカフェは健康的な選択肢であり続けます」と同意する。ボラム医師も、「デカフェのコーヒーも、その潜在的な抗酸化作用や抗炎症作用により、肝臓を保護する可能性があります」と述べている。ただし、ボラム医師は「コーヒーが肝臓に与える有益な効果を完全に理解するためには、さらなる研究が必要です」と慎重な姿勢も見せている。肝臓のために無理にコーヒーを飲み始める必要はないが、もしあなたがコーヒー好きなら、毎日の1、2杯のコーヒーが「肝臓の健康を守ってくれているかもしれない」とポジティブに楽しみ続けてみよう。
2026.09.04
“BTS・Vの紹介で話題”中国の人気小説「十六夜膳房」初の映像化 中村蒼が日テレドラマ初主演2026/09/04中国・韓国で話題の人気小説『十六夜膳房(いざよいぜんぼう)』が日本テレビ系月曜プラチナイト枠DRAMA DEEP枠にて初めて映像化(10月12日スタート/毎週月曜24時24分~)されることが決定した。俳優の中村蒼が主演を務め、渋谷凪咲、秋谷郁甫が共演する。◆「十六夜膳房」初の映像化決定原作は、連載1億Viewを突破した中国の人気小説『十六夜膳房(いざよいぜんぼう)』。2017年に中国で、2019年に韓国で出版されると、BTSのVがSNSに投稿、「人生の一冊になる」とメンバーに推薦し、中国・韓国を中心に話題に。日本でも11月に出版されることになった小説の著者・毛無が、現在日本テレビの社員ということもあり、世界初の映像化が決定した。物語の舞台は、亡くなった人が死後訪れる黄泉の世界。そこには、現世に残した後悔や未練を手放すための“最後の一皿”を振る舞う『黄泉の食堂』がある。毎回の客(死者)を、料理と言葉で癒やしていく主人公の料理人を実力派俳優・中村が、食堂を仕切る白猫の声を俳優としても活躍中の渋谷が、食堂を統括する閻魔王を『仮面ライダー』最新作主演の若手俳優・秋谷が演じる。◆「十六夜膳房」個性豊かな実力派俳優陣出演中村蒼、主人公の料理人を演じる2006年のデビューから20年、常に第一線で映画、ドラマ、舞台と数多くの話題作に出演し、幅広く活躍し続ける実力派俳優が、日テレドラマ初主演。今回演じるのは、死者を迎える食堂の料理人・孟婆。孟婆とは、中国の伝承では、記憶を忘れさせるスープ“孟婆湯”を飲ませるお婆さんだが、今作では男性となっている。毎回訪れる様々な後悔を抱えた死者を、おいしい料理と優しい言葉で包み込み、来世へと送りだす役どころだ。温かい空気感と包容力が魅力の癒やしの料理人を、持ち前の穏やかさと確かな表現力で演じる。渋谷凪咲、喋る白猫の声を担当食堂を取り仕切るしっかり者の白猫・白無常が、メインキャラクターとして登場する。生成AIで実際に話しているように動く白猫の声を、俳優として数々の作品に出演し、昨年、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した渋谷が担当。のびのびとした関西弁で、ワガママ、毒舌、姫気質の白無常をチャーミングに演じる。秋谷郁甫、日本とはひと味違う“閻魔様”を演じる“閻魔様”といえば、日本では、天国に行くか地獄に行くかを判定するイメージが一般的だが、今作の閻魔王は、パンクロッカーの風貌に軽い語り口。自由で明るいお調子者のキャラクター。連続ドラマ『良いこと悪いこと』、『人間標本』などに出演し、『仮面ライダー』最新作では主演を務める、若手俳優・秋谷が、魅力的に演じる。(modelpress編集部)◆「十六夜膳房」登場人物紹介孟婆(もうば)/中村蒼黄泉の食堂の主。料理人。毎晩、客のために“最後の一皿”を振る舞い、その魂を見送っている。穏やかで、すべての命を愛し尊ぶ。実は、自分が何者なのか分からないまま、100年もの間、この世界にとどまっていて…。白無常(しろむじょう)/渋谷凪咲(声)白猫。黄泉の食堂のバイトリーダー的存在。客の生前の情報や食事に関する思い出を収集し、資料にまとめるのが仕事。ドライで、マイペース、自己中心的だが憎めない。閻魔王には塩対応。閻魔王(えんまおう)/秋谷郁甫3000もの黄泉の食堂を統括するエリアマネージャー的存在。いわゆる“閻魔様”のように、人生の判定はしない。明るいお調子者。白無常をこよなく愛し、つれなくされても、めげない。◆中村蒼コメント私の演じる孟婆がいる黄泉の食堂には、生前、間違った選択をした人、愛する人に思いを伝えられなかった人など後悔や愛情、喪失を抱えた人がやってきます。今回の脚本を読んだ時、多くの人が人生に何かしら後悔を抱えているのではないかと思いました。ご多分に漏れず私もその一人です。でも人間はとても複雑で後悔や失敗も含めてその人の一生なんだと思います。だからこそ『自分の人生捨てたものじゃない』と改めて価値を見いだすきっかけとなる作品になったら良いなと思います。◆渋谷凪咲コメントこの度、猫の白無常役を演じさせていただきます渋谷凪咲です。オファーをいただいた時は猫の役と聞いて、ちょっぴり驚きましたが、元々猫を飼っていて大好きだったのでとてもうれしく、小学生の頃は毎日猫に生まれ変わりたいと思っていたので、同時に夢もかなってわくわくしています!作品のテーマは亡くなった方が訪れる死後のお話ではありますが、生涯の忘れられない食事を通して、人生の美しさや輝きに気づかせてくれる作品です。ファンタジーの世界に浸りながら、皆さまにとっての大切な食事も一緒に感じていただけたらうれしいです。よろしくお願いいたします!◆秋谷郁甫コメント閻魔王を演じさせていただきます。秋谷郁甫です。ビジュアルからも感じていただけるほど、パンクな閻魔王!一つの見方にとらわれず、軽やかでチャーミングな閻魔王ですが、中村さん演じる孟婆と、渋谷さん演じる白無常を見守らせていただいております。とにもかくにも、楽しく演じながら、作品を盛り上げる1人になれたらうれしいです!楽しみにしていて下さいませ!◆毛無(原作者)コメント原作者の毛無(マオ・ウー)です。この物語は、2015年、中国の医学部時代にICUで数々の命が散っていく最期に立ち会った経験から生まれました。人生の終わりに人がいちばん食べたいと願うものは、フォアグラでもフカヒレでもありませんでした。ワンタンや、甘酸っぱいりんごなど、そのほとんどが、人生の大切な思い出と結びついた食事だったのです。中国には「十五的月亮十六圆(満月は十五夜ではなく、十六夜にこそ本当に円くなる)」という言葉があります。悔いの残る人生こそ、円満な人生。その思いを込めて、この作品を『十六夜膳房』と名づけました。『十六夜膳房』は2017年に中国で出版され、2019年には韓国でも翻訳出版されました。けれど当時は花開くこともなく、小説家として食べていけないと感じた私は日本に渡り、日本テレビに入社して、大好きな「月曜から夜ふかし」などの制作に携わり、これ以上ないほど満ち足りた日々を過ごしました。転機は突然、訪れました。日本テレビでのドラマ化が実現したのです。現代の中国小説がリメークではなく直接ドラマ化されるのは、とても珍しい試みだと聞きました。中国で私を応援し、この一冊を世に出してくれたStoryBookの皆さん、ポプラ社の皆さん、そして10年間この小説を読み続けてくださった皆さん。感無量です。ドラマの制作チームは、私が全力で信頼する仲間たちです。原作者として、これほどうれしく心強いことはありません。『十六夜膳房』は中国の民俗と神鬼をめぐる物語で、日本の皆さまには少し遠い文化かもしれませんが、食と愛は天下大同です。私も一視聴者として、ドラマ『十六夜膳房』の食と愛に包まれる日を、楽しみにしております。感謝感激、謝謝です。◆鈴間広枝(日本テレビプロデューサー)コメント会社の後輩・徐ちゃんが、こんなに素敵な小説を書いていたなんて!中国の原作を読みながら、何度も何度も胸がきゅっとなり、目頭が熱くなりました。欠点も失敗も後悔も、人生ごと包み込み肯定してくれる。そんな主人公・孟婆を中村蒼さんが演じて下さることになり、本当に心強く嬉しく思います!そして、渋谷さんが話すキレッキレの関西弁の白無常が、秋谷さん演じる閻魔王にツッコむ場面は、きっとほっこりすること間違いなしです。このあと発表になる食堂の仲間たちや毎回のゲストにも、本当に素敵な俳優の皆さんが集まって下さっていて、今からワクワクしています。素晴らしいキャストの方々と共に、スタッフ一同、力を合わせ、丁寧に大切にお届けいたします。秋の夜長、この作品が、皆さまのほんの少しの息抜きに、明日を頑張るちょっとした活力になれたら幸いです。◆「十六夜膳房」原作StoryBook(SNSフォロワー100万超)にて「地獄膳房」シリーズとして連載されたもの。連載期間中に累計閲覧数1億回を突破し、読者数は600万人を超えるなど書籍化される前から注目度の高かった作品。2017年に中国にて書籍を出版、2019年には韓国でも翻訳出版され、発売後は人気アーティスト「BTS」のVが紹介したことで一気に話題に。現在、台湾でも繁体字版の出版や台湾版ドラマ企画も進行中。
2026.09.04
中田璃士が圧巻首位発進!SP96・48点「自信をもって挑めた」「100点狙っていたので悔しい」もシニア国際大会デビューで自己ベスト大幅更新 佐藤3位、三浦11位9/4(金) ISUチャレンジャーシリーズが開幕。世界ジュニア2連覇王者で今季からシニアに転向した中田璃士(17)=MFアカデミー=は自己ベストを大幅に更新する96・48点で首位発進を決めた。これまでのベストは3月世界ジュニアでの89・51点だった。ミラノ・コルティナ五輪銅メダリストの佐藤駿(22)=エームサービス・明大=は85・71点で3位、ミラノ・コルティナ五輪代表の三浦佳生(21)=明大=は68・44点で11位だった。冒頭の4回転サルコー-3回転トーループを軽やかに成功させると、続く4回転トーループもきっちり成功。最後のトリプルアクセルを決め、拳を握った。ステップ、スピンもミスなくまとめきり、演技を終えると、右拳で豪快にガッツポーズを繰り出した。 演技後は「この試合は自信をもって挑めた。練習通りのプログラムができたかなと思います。意外と緊張しなくて、やっぱり練習したから今回は自信があったので」と充実した表情で汗を拭い、得点に関しては「100点を狙っていたので出なかったのは悔しいですけど、レベルの取りこぼしもあると思うので後でジャッジスコアをみて改善できたらいいかなと思います」と、うなずいた。日本でのシニア国際大会デビュー。「名前を呼ばれた時の声援も大きくて、力になった。自分も頑張ろうと思った」と笑顔で明かし、フリーに向けては「明日のフリーは4回転3本。しっかり自分のやるべきことをやって、そのあと結果がついてくるので、とりあえずやることをやりたいと思います」と見据えた。
2026.09.04

大相撲 超異例50キロ台力士誕生へ「体が小さい分、人一倍稽古して十両に」総合格闘技から角界転向15歳が新弟子検査165センチ、57キロ 憧れは炎鵬9/4(金) 超異例の50キロ台力士が誕生する。大相撲の新弟子検査が4日、両国国技館で行われた。新道帝憲(ていけん、15)=高田川=は身長165センチ、57キロだったが、体格基準(身長167センチ、体重67キロ)を満たさない新弟子希望者を対象とした8月3日の運動能力検査にすでに合格。目標の力士には十両炎鵬(伊勢ケ浜)を挙げ、「小さいのに十両に上がっていてすごい。自分は他の力士よりも体が小さいので、その分、人一倍稽古して十両に上がりたい」と力を込めた。合否は秋場所初日の13日に発表される。4人が受けた新弟子検査では小さい体が目立つも、背筋力は153キロを記録。体重57キロと読み上げられた時は「うわぁ」とショックそうな声を上げ、親方衆から「減ったのか?」と突っ込まれる場面もあったが、入門した6月からは9キロ増量した。 茨城県大洗町出身で、小6で静岡浜松市に転居。ブラジリアン柔術を始め、中部地区の柔術大会で1位などの成績を収めた。得意はバックチョーク。RIZIN元フェザー級王者のクレベル・コイケからも指導を受けたこともあり、昨年大みそかのRIZIN甲子園決勝を制したヤマザト・エンゾ・マサミとはスパーリング仲間。祖父が高田川部屋関係者と縁があって入門し、6月から部屋で寝食をともにし稽古に励んでいる。 1932年に新弟子検査が明文化され、以降、2023年9月に事実上の体格基準撤廃となる運動能力検査が3年前に導入されたとはいえ、50キロ台の新弟子は史上最軽量となる。憧れる力士十両炎鵬「小さいのに十両に上がってすごい自分は他の力士よりも体が小さいので人一倍稽古し十両に上がりたい」
2026.09.04
札幌農学校教授・宮部金吾 その2二 祖父の死(同一三頁) 四歳の一二月六日祖父が急逝した。この日ちょうど家はすす払いで、祖父は朝早くより他出、知人の家を一回りして帰宅。既に掃除を終えた一室のみは、コタツの火もいれられ、祖父を待っていた。祖父はそのコタツの上に大きな鮨の皿をのせて、好みのものを食べていたが、突然起った脳溢血のため、そのまま急逝した。すす払い当日であり、大工左官その他大勢の手伝い達がいたこととて騒ぎは一層であった。そして江戸式のにぎやかな通夜がその夜行われた。 祖父の慈愛の程は、幼い私の脳裏にも深く刻まれている。ある時はお馬となって私を背にのせ家中を這い回ってくれた。祖父はまた来客が見えると客間に通し置き、居間の方からタバコ盆を下げておもむろに出ていくのを常とした。その時私は三番叟(さんばそう)のかぶる烏帽子をつけ、鈴を手に持っていつも祖父の後ろに付いていった。客の前に出ると、祖父は客に「まあまあ待って下さい。これを済ましてから」と手で制しつつ、煙草盆をキセルでたたいて、拍子をとりながら、「トッパヒアロ、トッパヒアロ」と囃し立てた。私は得意になって、それに合わせ舞ってから引き下がった。誰いうとなく、「宮部の三番叟小僧」という名が知人の間にひろまっていたそうである。三 駿府往還(同一四頁)八歳(慶応三年)の八月、父が駿府紺屋町代官陣屋に赴任したので、家族もこれに従って江戸を立った。もちろん駕籠(かご)の旅である。私は母と共に大きな私用の駕籠に乗った。随分あちらこちらで泊ったような気もするが、恐らく四五日のものであったろう。子供心に箱根山の険しかった事、所々母親に手をひかれて歩いた事なども記憶に残っており、湖水や大きな杉木立、また関所などおぼろげながら印象に残っている。父は代官の手附元締であったので紺屋町の役宅は大きかった。庭も広く、中にひょうたんの形の池があった。一方の池は湧水のため、水が極めて清冷で、庭の小石も一つ一つはっきり数えられた。大きな緋鯉が心地よさそうに泳いでおり、時折大きな音を立てて勢いよく跳ねかえった。ひょうたんのくびれの所には小橋がかかっており、またそこに魚の逃げないよう塞(せき)がしてあった。一方の池はアオミドロがいっぱい生じていて、どんよりとよどんでいた。それから水は流れはじめ、その小川にはメダカやフナやコエビがたくさんいて、池を中心とした水辺のあらゆるものが少年の日をゆたかに楽しくしてくれた。役宅は代官陣屋の一番奥のはずれにあり、すぐ近くの小高い所に社(やしろ)があった。社をめぐってこんもりとしげった大木のしげみがあり、季節季節にいろいろの鳥がやってきたが、特に群れてやってきて、盛んに鳴く百舌(もず)の声は今も忘れ難い思い出の一つである。屋敷の裏はうち続く水田で、裏木戸を開けて畦に出ていくとたくさんのイナゴがいたのも珍しく、またこれを捕らえるのも江戸育ちの少年には楽しい遊びであった。軒から軒へ、繁華な所狭い大江戸から急にひなびた自然に飛び込んだ私は、自然の美しさ、広さ、大きさに心をゆすぶられた。私はあらゆるものに驚きを感じ、また自然の中の楽しさを非常に豊かに感じた。後年自然科学に向かった私の意志は、あるいはこの時代に知らず知らずにしっかり培われていたのかもしれない。ここで九歳の初春を迎えたが、これが実に明治元年、即ち王政復古の新春である。しかし当時には色々な評が巷を飛び、正月二五日私は母等と共に避難のため江戸に帰された。三月すっかり平穏になったので私達は再び駿府に呼び返された。この時は父は朝臣となっていたのである。一二月ごろ同地に在住、一二月二日に完全な引上をなすべく東京(明治元年七月より江戸は東京となった)に向かって出発。そしてその帰途一同うち揃って江ノ島に一泊したことを記憶している。1 明治元年正月二日、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れ、海路で江戸に帰城した。正月五日官軍は先鋒総督橋本少将実梁が京都を出発し東海道を下る。二月六日、総督の使番が駿府に来て勅命を伝えた。二月一一日、代官は桑名で総督に謁見し、勘定所より勅命を遵守すべしとの許可を得て京都に上った。三月二条城で朝臣を命ぜられ、宮部金吾の父も田上駿府県令のもとで付属元締を拝命した。
2026.09.04

「ユマニチュード」という革命p.110 ユマニチュードは自律に関する定義を広げたいと思います。 あなたが何を志向しているかを伝えられる。あるいはそれを私たちが理解できる状態であれば、あなたは自律しています。伝える手段は必ずしも言葉だけではありません。ケアする側があなたの伝えようとすること、その志向性を把握できる状態であれば、あなたの自律は尊重されなければいけないのです。 私は、人はどんな状態になっても何を欲しているか、自分にとって何が好ましいかを伝えることができると思っています。ですから、最期のときまで自律は尊重されなければならないと提唱しています。 ある病院で撮影された映像に、アルツハイマー型の認知症の女性のシャワー介助の模様が記録されています。看護婦が、「温かいですよ」「気持ちいいですよ」と優しく声をかけています。けれども彼女は、「なんでこんなことするの!」「温かくないよ!」と絶叫しています。 ケアを行っている看護師たちはとても困惑して、悲しげな表情をしています。よかれと思ってやっていることがまったく受け入れられず、自分たちのケアが拒絶されているからです。 この女性は、自分の年齢が13歳だと思っています。彼女は、自分がシャワーを浴びていると理解しているでしょうか?体が汚れているから看護師が体を洗ってくれるのだということも理解していないでしょう。むしろ、彼女たちが看護師であることさえわかっていないし、ここがどこかも理解していません。 彼女にとって、これはいいことでしょうか。望んでいることでしょうか。違います。彼女はちゃんと表現しています。「そんなことはしてほしくない。嫌だ」 もしも彼女がきちんと言葉を話せたなら、おそらくこう言うでしょう。「いますぐ止めてください。私はシャワーを浴びたくありません」 看護師たちは、絶叫している彼女に対して申し訳ないと感じる表情を浮かべています。だからといって、シャワーを止めることはしません。 嫌がることをやり続けるのは拷問です。けれども、もちろん看護師たちはこのシャワーを拷問とは思ってはいません。ケアする側がすべての権利を持っていることへの自覚がないからです。 つまり、自覚を尊重するとは何かがわかっていないのです。彼女がこのケアを望んでいないことは、誰の目にも明らかなのにもかかわらず。 彼女のようなアルツハイマー性の認知症高齢者がこのような言動をするとき、私たちはこう考えています。「この人の認識が間違っている。彼女が思い込んでいる現実とケアする私たちの現実では、私たちのほうが正しい」。つまり妄想と現実の違いだと結論づけます。・・・・・・ 彼女の訴えはおかしなことであり、ケアする側の私たちのほうがまともだという見方はとても強固です。高齢者の現実が変なのではありません。私たちが「これが現実だ」と思っていることのほうがおかしいのです。 現実とはなんでしょう。「これをやらないといけない」「これはダメだ」といった考えで組み立てられたものではないでしょうか。そうであるならば、まず私たちが正しいと思っている現実を変えないといけません。自分を疑わない人間たちが、彼女の自律と自分らしく生きる権利を奪っているのです。この現実は、私たちの頭がつくった狂った世界です。 フランスでは毎日2万5000人の高齢者が強制的にケアを受けています。ケアを行っている人は、自分が虐待を行っているとは思っていません。ケアをするする人は、自分がよいことをしていると信じています。ケアをする人の現実にとって重要なことは、予定通りに仕事を終え、他のスタッフに迷惑をかけず、家族の要望に応えることです。 しかし、ケアを受ける高齢者の現実は違います。先ほどの高齢の女性の場合、彼女はシャワーを浴びたいと思っていません。彼女の現実では、自分は暴行を受けており、恐怖を感じ、助けを求めているのです。彼女の感情は恐怖でいっぱいとなり、この恐怖から逃れるためにできる限りのことをしているのです。だから叫んだり、外界との接触を自ら断ち切り、目を閉じて手足を縮めて黙り込む。これらは彼女が自分の身を守るための防御なのです。 ユマチチュードのケアにおいては、強制的なケアは絶対に行わないことを原則とします。 ユマニチュードは彼女の現実に即します。彼女は多大なる苦痛を受けており、それについて、「嫌だ」とはっきり態度で示しています。ケアする側に、相手の自律を奪う権利はありません。 認知症高齢者の認識を尊重すれば、「仕事ができなくなる」と思うかもしれません。けれども彼女の現実に即するとは、ケアの必要性を放棄することではありません。なぜなら体を清潔に保つことは大事だからです。 念頭に置いてほしいことはがります。ユマチチュードではその人の選択、自主性を尊重します。それに対して、私たちは真摯であらねばなりません。 だからこそ、彼女がシャワーを穏やかに浴びることができるような方法を考案するのです。彼女に合意してもらえ、順調に進行するような方法を私たちが見出さないといけないのです。なぜなら、私たちにはこれまでのやり方とは違う、人間的なやり方で行う可能性と力があるからです。 アプローチする技術を変える。担当の看護師を変える。シャワーの時間帯を変える。日中が無理なら夜間にケアする。相手の自律と自主性を第一に考えます。 つまり、シャワーを浴びたいという意思が、まず彼女になければならないのです。そのためユマニチュードでは、看護師が事前にきちんと計画し、ケアを準備します。 先ほどの高齢女性の話を続けましょう。後日、ユマニチュードの研修を受けた看護師が彼女にシャワーのケアを行いました。「お湯の温度はどうですか?」と問いかけると、「ちょうどいいです」「以前あんなに泣いたのはね、怖かったからなんです」と話し始めたのです。彼女は重度の認知症患者です。しかし、自分の身におきていること、起きていたこと、自分の周りの現実がどういうものか、感情に伴った記憶とともに、彼女はちゃんとわかっていたのです。『急に具合が悪くなる』を生んだユマニチュードと演出の結節点――濱口竜介監督インタビュー「基本的にはこれまでの演出方法をそのまま使いながら、黒崎(煌代)さん演じる智樹という役に関しては、少し例外的な方法を使いました。というのも、智樹は重度の自閉スペクトラム症を抱えている設定なので、他の役のように「本読み」を繰り返すための台詞はありません。代わりに、身振りや発声を基調とする彼独自の台詞をつくっていく必要があり、まずは黒崎さんやスタッフと一緒に自閉スペクトラム症の方々が入居する施設に通い、入居者のみなさんと接しながら、智樹の「台詞」をつくっていきました。それと、自閉スペクトラム症の智樹の動きを映画としてどう描いていくかについては、ダンサーで振付家の砂連尾理(じゃれお おさむ)さんともいろいろと相談をしました。砂連尾さんとはこれまでもたびたび一緒に仕事をしていて、特別養護老人ホームで高齢者や認知症患者と踊る「とつとつダンス」を実践していたり、ダウン症や障害のある方々と一緒にダンスをする、という試みをされている方でもあります。この映画では、我々が「足裏ダンス」と呼んでいた身体表現の振り付けもお願いしました。これはどの登場人物に関しても言えることですが、必ずしも脚本に台詞を書き、それを俳優が覚えることだけが役をつくるうえでのゴールではありません。台詞に代わる身振りや声を決めていきながら、同時に、智樹がどういう精神性を持っている人であるのかを、他の人物とはまた別のアプローチで黒崎さんと一緒に考えていきました」「ある時期、医学書院から出版されている『ケアをひらく』というシリーズをよく読んでいたんです。以前に手がけた『寝ても覚めても』(2018)でALS(筋委縮性側索硬化症)を扱うことにつながる、川口有美子さんの『逝かない身体―ALS的日常を生きる』を読んだり、熊谷晋一郎さんの『リハビリの夜』を読んだりするうち、ケアというものはどこかしら演出と近しいものがあるのでは、という印象が芽生えてきた。そして出会ったのが、別の出版社から出ていた『「ユマニチュード」という革命』という本でした。「ユマニチュード」の開発者であるイヴ・ジネストさんとロゼット・マレスコッティさんの技法や理念を日本で紹介するために出版された本なんですが、その本を読み、ここに書かれているケアの理念は、本質的に映画の現場での演出とも通ずるという印象を持ちました」
2026.09.04
二 第二期の一 明治二十七年より三十三年に至る △日本精製糖株式会社の設立 他人の資本を借りて事業を起そうとする過誤を悟られた君は、暫く雌伏して専ら財力を養い、東京に出る資本を作られ、かつて観察しておいた小名木川の地に移転し、工場を設け、精糖氷糖の業を営まれ、将に大いに雄飛しようとされた。由来人生の行路は険しさ、平らかは常でなく、順逆の境は予期することはできない。順風で波穏やかに事業を進めてきた君は、一朝火災にかかり、器械工場の有形の財産はすべてすっかりなくなる不幸に遭遇し、ほとんど立つことができない打撃をこうむり非常の逆境におちいった。しかし君の頭脳は災厄にあうごとに鍛錬いよいよ堅く、勇気ますます加わり、禍を転じて福と為す方策を講じ、初一念の貫徹に尽したので、よく経済界の変調をもしのぐことができ、事業は追々栄え行くこととなった。 明治二八年日清戦争は平和の終局を見ると共に、一時沈静した我が事業界は俄然活気を呈し各種の事業勃興し、糖業界の前途を想えば、その需要ほとんど無限というべく、砂糖の原料産地で有名な台湾島は我が版図に帰し、事業拡張上得難い好時期に際会いたといわなければならない。独力薄資この事業の拡張をはかれば数年後でなければ、十分の拡張をはかることができないと感じられた君は、むしろ一身の利益は減ずるも衆と共に利をわかち、この得難い時期に投じ規模を大にし、国家の利益を興すこそ愛国経世の士として取るべき方針であるとされ、断然その計画を立てられた。多少の障害に遭遇したものの例の頭脳はよくその障害に打ち勝ち、吉川・長尾両氏の賛成を得たので、ここに発起人会を開くことになって、長尾氏の別邸に集会して席上会社設立の要項を協定し株式の募集に着手することになった。そこでこれを発表すると大いに世人の歓迎を受け、旬日を出でずして予定株数に超過するの好況で、我が国唯一の精製糖株式会社は創立され、長尾氏は社長に、吉川氏は取締役に、君はその専任取締役に就任し、事業を担任する事となった。ここにおいて君は従来独力経営してきた精糖氷糖の両工場を挙げて会社に譲り、多少経験してきた手腕をふるって専ら拡張に従事された。従来資本のために制せられ、十分に能力を発揮することができなかったから、事業の発展はそれらを顧慮するところもなく、自由に手腕を振う事になったから、事業の発展は君の予期にたがわず、会社は太陽が東の空に昇る勢いをもって隆運に赴いた。君が生命をかけた事業はここに全く成功したので、その得意想うべく、会社創立より五年ばかりの間は天馬にむちうって広原をかける勢いであった。欧米糖業上の視察 君の計画は見事に的中し、社運の隆盛と共に、一たび欧米に渡航してかの地の糖業を視察し、精巧な新機械をも購入し、かつ南洋における原料産地の実況を調査し、一大拡張をはからんとされた。 社長はじめ重役一同君の計画を歓迎し、議はたちまち決して、君は万里の波濤を航して世界一周の壮途に上る事となった。これ明治二九年七月一四日で君が歳まさに四二歳の時であった。
2026.09.04
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(二)その1【開爐(二)】 風頭稍硬大家知 (風頭稍硬し大家知る)且聽商量暖處歸 (且く聴す商量暖処に帰ることを)般若如同大火聚 (般若は大火聚に如同す)近前燒郤兩莖眉 (近前すれば焼郤す両茎の眉)「風頭稍硬し」―硬しというのは、まあ手がかじかんで寒うなったことである。「ウワー、寒うなった」ということである。「大家知る」ということは、誰も彼もみな同感。大家というのは、今日の言葉でいえば諸君ということなのである。寒うなったことは、諸君もみな分る通り「且く聴す商量暖処に帰ることを」風頭稍硬し大家知る。これは人生である。人生は冷たい、寒い。かじける、どうもこの人生は風頭稍硬しである。 人生というものは、これは困ったもので、いろいろなことがある。この人生の困ったことは誰も知っておる通り。誰やらが「お寺の警策よりも、娑婆の警策はきつうございます」といった。そうか、このお寺の警策は痛いけれども、まずまずこれ安全地帯じゃ。梅干しとお粥を食って安全地帯、ただ眠たいだけで外の風は当らんが、娑婆ではずいぶん痛い風が当りよる。だから、もう娑婆で落伍したやつがお寺へ逃げ込みよる。 寺で五日間、ただ眠たいのと足が痛いのとで、外のことはなんにもない。サア電気が掛かったといえば、借金の催促ではないか知らん。ニュースを聞いておれば、物の値段の上がり下がりでビクビクせんならん。さてこの人生という人のは、痛い風が吹く。うまければうまいで、うまいものだけ食う。味なければ味ないで、味ないものは食わん。寒ければ寒い、暑ければ暑い。よければよい。よいことは寄り添うて来よる。実際人生、風頭稍硬し大家知るである。 そんならいいことをすればいいかといって、いいことばかりすれば、「いいことばかりしよる。コン畜生、ちょっとは悪いこともせんか」といいよる。困ったもんじゃ。人生はー。世の中というものは妙なもので、盗人仲間では盗人するのが偉い。「あの男はなかなか腕が冴えておる。ちょっと出たらすぐ搔っさらって来る。貴様みたいなノロマがあるか。いつでも手ぶらで戻って来る。この馬鹿野郎―」親方が拳骨をはめよる。「ヘエもう料簡入れ換えます」さっそく搔っ払いをやると、刑事に見つかって、ブタ箱に入れられてー。 なんとかしてわれわれは、人生の安全地帯を、求めなければならん。あぶない。それはこの町を歩いておると、ブーブー、チンチン、自転車が来る。われわれの袖の長いやつをしておると、とてもあぶのうてしようがない。ときどき自動車に泥をハネかけられたり、どうもこうもしようがない。やはり風頭稍硬し大家知るである。(大智禅師偈頌講話p.175-176)
2026.09.04
1 今市町における二宮先生の生活及び清廉 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十七号」) 二宮先生が、幕命を奉じて当地(日光)に赴任されたのは、六十七歳の時で、既に先生が各所において、永年の間、報徳の大道を実行され、功成り名遂げ、富もまた子孫を潤すに足るという境遇であった。尋常の人であれば、隠退自適、余生を過ごすべきに、いわんや当時大病の後であり、いまだ衰弱旧に復しない時であった。しかし、先生は志操が堅牢であり、その老衰の身を挺して公命を奉じ、その主義のために身を犠牲に供されたご決心のほどは、実に欽仰の情にたえない。 今、古老の伝えるところによれば、先生が平素自ら節倹を行われたのは、実に驚嘆するほかはない。衣服の如きも、平素は勿論、たとえ、高貴の前に出る時にも、木綿の外は決して身に着けられる事はなく、食物に至っては更に甚だしいもので、朝食は必ず茶漬け、その他一汁一菜は平生の常食である。先生は老体の上に、病後なお衰弱が甚だしいので、家人はこれを憂えてしきりに摂養を勧めるも、先生は頑としてこれをしりぞかれて、「いやしくも公命を奉じて、民衆をひきいるものが、たとえ、病を養うとはいえ、安眠美食をむさぼるのは、予が主義ではない。予は倒れて後止むものなり」と仰せられたという。先生が衆人に示さんとして、玄関の正面に、書かれた歌に 楽しみは木綿着物にめしとしる その余は我れをせむるのみなり 以て先生の平生を推知すべきである。先生はことに皮付き芋を嗜好されたが、決してその皮をむかせられなかった。これは農夫の辛苦を思いやって、捨てるに忍びない、とされたからという。 また先生が巡視中、時に民家に一泊されたことがある。当時、農民の官吏に対する取扱いは、極めて尊重していて、先生に対しても、また他の官吏の如く相当の膳部を供するものがあれば、先生はいかにも不興の体で、「予はもとより、農夫は一汁一菜に甘んじるべきことを奨励している。以来予に対してはこのような馳走を設けるに及ばない」と仰せられて、その一菜にのみ箸をつけられて召しあがられない。しかし、村民は先生の意を察しないで、一時の辞譲の言葉として、其の後再び前の如き膳部を供しければ、先生は大いに怒り、その不心得をせめ、始末書を徴されたという、奇談さえある。
2026.09.04
ノーベル化学賞の白川英樹氏が死去、90歳…電気通すプラスチック開発で2000年に受賞2025年度「科学・技術の最前線」ノーベル化学賞 白川英樹 特別講義 「知るということ~セレンディピティと待ち構えた知性~」電気を通すプラスチックの開発で2000年のノーベル化学賞を受賞した筑波大名誉教授の白川英樹氏が8月24日、横浜市内の病院で死去した。90歳だった。 1936年東京都出身。61年に東京工業大(現東京科学大)理工学部を卒業後、同大助手となった白川氏は67年、加工が難しいとされたプラスチックの一種「ポリアセチレン」の薄膜化に成功。研究員として招かれた米ペンシルベニア大で76年、この薄膜に少量の臭素を加えると、電気の通りやすさが1000万倍も高まることを発見した。 常識を打ち破る「電気を通すプラスチック(導電性ポリマー)の開発」は、情報技術(IT)産業を発展させる起爆剤の一つとなり、タッチパネルの表面やコンピューター用のコンデンサー、携帯電話の電池などに幅広く利用されている。これらの業績で、2000年に米国の2氏とともにノーベル化学賞を受賞した。 日本人の同賞受賞は1981年の福井謙一博士以来19年ぶりだった。翌年の2001年には野依良治博士、02年の田中耕一氏、08年の下村脩博士、10年の鈴木章、根岸英一両博士ら受賞が相次ぎ、日本の化学研究の実力を世界に知らしめるきっかけになった。 1982年から2000年まで筑波大で教授として教べんを執った。同年に文化勲章受章。01年から2年間、政府の総合科学技術会議(当時)の議員を務め、日本が新世紀に選択すべき科学技術政策の指針づくりに貢献した。特に、急成長が期待されるナノテクノロジー部門の責任者として、研究戦略立案を指揮した。 科学の普及活動にも熱心で、読売新聞社が主催するノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀の創造」などで、子供たちへ科学の面白さを伝えていた。◎1967年秋、東京工業 大学資源 化学研究所の一室で、その前提を崩す物質が偶然に生まれた。アセチレンを重合させて黒い粉末を得るはずの実験で、ビーカーの液面に銀色に光る膜が張っていたのだ。原因は触媒濃度の取り違え——単位の「m(ミリ)」を見落として1000倍濃い触媒溶液を使ったことだった。この膜を捨てずに追いかけた助手が白川英樹(Hideki Shirakawa, 1936–)である。そして9年後、ペンシルベニア大学の実験室で、その膜に臭素蒸気をひと滴垂らした瞬間に電気抵抗が1000万分の1まで落ちた。2000年、白川はアラン・マクダイアミッド、アラン・ヒーガーとともに「導電性高分子の発見と発展」でノーベル化学賞を受賞する。この記事では、「共役していれば電気を通る」という素朴な直感がなぜ間違いなのかから出発して、パイエルス転移によるバンドギャップの発生、ドーピングという名の酸化還元反応、そしてソリトン・ポーラロンという電荷キャリアの正体までを、有機化学の言葉で順に解きほぐしていく。
2026.09.03
札幌農学校教授・宮部金吾 その11 誕生(『宮部金吾』十二頁)「私(宮部金吾)が生まれたのは万延元年である。万延元年といえば、正月、安藤信正老中が始めて西洋に我が使節を送り、三月三日井伊大老の桜田門外の変が起った時で、国内では一方に尊王攘夷の論が起り、一方には佐幕開港の議があり、国内騒然としていた時代である。この年、東亜大陸においては、英仏の東洋進出の機が熟し、七月英仏連合軍北京に進み、八月には早くもこれを陥れ、九月には天津条約が成立し、ロシアはウラジオストク東岸の地を得た。植物学の方面ではこの年にロシアの植物学者マキシモウィッチが函館に渡来し、日本の植物に対して徹底的に採集研究し始めたのである。また生物学界を見るに一新紀元を劃したダーウィンの有名な「種の起源」の発表がその前年に当っている。 生まれた日は、閏三月七日、その巳刻(午前十時)に誕生した。この時、父四二歳、母三二歳、その五男として、祖父母、父母、兄姉揃える中にココの声をあげた。父の自筆になる金吾誕生記と臍の緒並びに産毛が保存されている。文久三年に更に妹、三女の甲子が生まれたが夭折したので、私は末子として一家の寵愛を一身に集めた。 生れた場所は江戸下谷和泉橋通御徒町で、後に御徒町二丁目一五番地となった。これは現在上野広小路松坂屋南側に通ずる青石横町を和泉橋通に出た所から程近く、大震災後は昭和通の道路となってしまった。その頃の御徒町は名の示すように徒士の人が多く住んでいたが、伊予大津加藤の屋敷があり、また文人、書家、画家等が住む者も多く、閑静な住宅地であった。そして我が家は加藤の屋敷の西南隅に面した角屋敷であった。
2026.09.03
高木美帆さん、東京科学大で特別講演会 鉄人の土台は幼少期から磨き続けた「体にセンサーを張り巡らせる意識と感度の高さ」9/2(水)スピードスケートで日本女子最多の五輪メダル10個を獲得した高木美帆さん(32)が2日、東京科学大湯島キャンパスで同大学の教職員、学生に向けて特別講演会を開催約1時間マイクを握り、現役時代の体との向き合い方について語った。五輪に4度出場し、31歳で臨んだ2月のミラノ・コルティナ五輪で3つの銅メダルを獲得した高木美帆さんは、自身の強みのひとつとして「ケガをしにくかったこと」を挙げた。その背景にあるのは、体への理解度の高さ。最初のきっかけは、小学5年時に少年団のコーチから「ハムストリングを意識して滑りなさい」と声を掛けられたことだった。聞きなれない筋肉の名前に「当時はチンプンカンプンだった」と笑うが、以降はどれだけ急いでいても、階段を上る際は「一段飛ばしせずに、一段一段ハムストリングを意識した」。小学生の頃から特定の筋肉を動かす感覚が養われ「体にセンサーを張り巡らす意識と感度の高さが身についた」と振り返った。高校時代はケアを受けながら理学療法士に「クイズを出して」とお願いし、「ここは?」と直接触れられながら筋肉の名前と動かし方を勉強。それぞれの筋肉が連動して動いていることを身をもって学び、「体の構造を立体的に理解できるようになった」と語った。「自分の体の変化に気が付けるようになった。そして、いろいろな引き出しを持てるようになった」。若い時期に自身の体への理解を深めたことが、後の競技力向上やケガしない体づくりにつながった。若手アスリートに向けて「自分の体を知って損はない」と力説し、医療スタッフには「アスリートに体を見つめる機会を」と呼びかけた。 「スポーツ医学にできること」 「スケートを始めたのは5歳。四つ上の兄が始めたのがきっかけです。留守番が苦痛で兄について行き、練習を始めました。当時は外のリンク。寒いし、足も腰も肌も痛い。あんまり楽しくないと思った記憶があります。練習で会える友達やお菓子が楽しみでした」その後、水泳、ヒップホップダンス、サッカー、陸上と幼少期から多くのスポーツを体験。「結果的にスピードスケートに進みましたが、いろいろやってよかったと思います。小学2年生で始めたサッカーでは心肺機能や体力が鍛えられました。ダンスではリズム感、柔軟性、けがにつながりにくい体の動かし方を学んだと感じます」整形外科医の山下学長「スピードスケートは前傾姿勢で腰を痛める人が多い。どうでしたか長高木「腰が痛くて動けなかったことはありません。私はむちゃな体の使い方はしない、体を大切に扱うことを大事にしていました。スピードスケートは臀筋(お尻の筋肉)が大きくなり、よく使います。その上部が硬くなると腰の不快感につながるのでテニスボールを使ってほぐしていましたね」渡辺教授「指導者から『美帆さんは他の選手と違う』と聞いたことがある。自身はどう思うか」高木 「比べたことがないので難しいですね。でも、もし私が小中学生に伝えるとしたら、若い頃から自分の体に興味を持つことを勧めたい。私は高校生の頃から、筋肉の名前や働きを覚えたり、トレーナーさんに問題を出してもらったり教わったりしていました。自分の体がどうなっていて、どう動かしたらいいか。その蓄積が後の開花につながったと思うからです」トップ選手としての心得と取り組み。高木さんが冬季五輪4大会に出場し獲得したメダルは10個。どう心身を整えてレースに臨んだか。高木「レース当日に何かしてばたついても結果は変えられない。過去の失敗から学んでいます。甘い世界ではありません。週末の金土日にレースがあれば、最低でも月曜日から木曜日まで行う練習の流れの中で必要なことに淡々と取り組んでいく。次第に集中力が高まりレースに挑んでいました」疲労回復、睡眠や食事への対応高木「アスリートとして最大のパフォーマンスを出すため、いろいろな情報を探し、実践しては反省の繰り返しでした。食事は血糖値の乱高下が良くないと言われているので野菜から食べるように。眠れなかったら体が必要としていないんだ、と受け入れました」高木「私の中で姉はどこまでいっても姉です。2学年上で学ぶことが多かった。スケートの技術だけでなく選ぶ道も。こういう所に進むとこういうことがあるんだと。姉なくして自分の選択は生まれなかったと思いますね」今後やりたいことや目標「多くの方の応援や支援で現役を全うできました。まずは北海道や全国を巡ってお礼を伝えたい。同時に、将来につながる自分の学びも深めたい。スポーツが体や健康に与える影響は大きい。脳にいい影響があると、現役中に読んだ本で興味を持ち、そういうスポーツ医学の活動に関われたらいいなとも思っています。私が考えるスポーツは競技スポーツと違い、生活に溶け込んでいるもの。スポーツの可能性は大きい。皆さんもきょうから新しいスポーツに取り組んでもらえたらうれしいですね」
2026.09.03

「ユマニチュード」という革命p.104 ケアの哲学は、ただ生理的ニーズを満たすためにあるのではなく、私たちが自律して生きるための哲学でなければいけません。そうであるならば、ケアする側は、認知症であれ身体機能が衰えている人であれ、これまで生きてきたのと同じような生活の場を実現するよう努めなくてはなりません。そこに価値があるからです。 社会にはさまざまな価値があります。ユマチチュードにおいては、自律と自由と依存を掲げます。誰かに依存していなければ私たちは生きていけない。これも重要な価値として定義しているのです。自律を可能にする依存。ここにユマチチュードの革命性があります。 依存は価値のないもの、回避すべきものとしてとらえられがちです。しかしユマチチュードにおいては、高齢者が依存する状態をマイナスとは捉えず、依存こそが力になりうると考えています。 たとえば、私は日本に来て研修や講演を行います。日本語が話せないので、いつも通訳に依存せざるを得ません。彼女がいて初めて会話は成立します。私にとって通訳への依存はポシティブで価値のあるものです。私ができないことを可能にしてくれるからです。 もしも彼女が私の話す内容を誤って通訳するならば、私と彼女の依存関係は悲惨なものになります。しかし、ものすごくいい通訳なら、私の依存はすばらしいものになります。 通訳がいなければ、依存関係は生じません。私は完全に独立して自由です。けれども依存していなければ、日本で本は出版されないし、日本人と理解しあうこともないでしょう。 つまり依存は価値あるものなのです。「誰に依存するか」ということが重要なのです。多くの人は、病気になることと依存することを混同しています。病気になることを望む人はいません。しかし、病気になった結果として誰かに依存することはあります。あなたが重篤な病気になり、誰からの助けも拒むとすれば、あんたは死んでしまうからです。あなたの自律を実現させるために、誰かがあなたを助け、あなたはそれに依存するのです。「誰に依存するか」。あなたは、あなたの自律を実現させるために助けてくれる人に依存するのです。 私がもし病気になったときに、私の自律を実現させるための助けは、私に話しかけてくれないケアでも、痛いことをするケアでも、私を縛る危険性のあるケアでもありません。これらのケアを行う人と私のあいだに築かれるのはネガティブな関係です。私が必要とするケアは、その正反対のものです。私がユマチチュードにおいて依存を大切な価値としている理由は、私たちは依存関係なしに絆を結ぶことができないからです。関係を築く絆は私とあなたを結びます。絆がなくなると孤独になります。ユマチチュードは絆の哲学です。「誰に依存するか」を言い換えるならば、「いかにポシティブな絆をつくるか」になります。ポシティブな依存の哲学です。・・・・・・依存とは幸せな状況なのです。なぜなら、人が社会で生きていこうとするならば、依存は必要不可欠なものだからです。 私の人生の目的は物事から離脱することではなく、つながることにあります。地球に住むすべての人が互いに手をつないだら、武器を持つ手は無くなります。・・・・・・〇一般社団法人日本ユマニチュード学会(東京都目黒区、代表理事:本田美和子)は、ユマニチュードブロンズ認証事業所として「西部ガスライフサポート株式会社 アンペレーナ百道 ケアセンター」を新たに決定しました。西部ガスライフサポート株式会社アンペレーナ百道 ケアセンター福岡県福岡市早良区百道浜3-9-17介護付き有料老人ホーム定員 33名西部ガスライフサポート株式会社 アンペレーナ百道 ケアセンターでは、ユマニチュードの哲学と5原則を大切にし、スタッフが共通理解のもとケアに取り組んでいます。日々の関わりを通じてご入居者の尊厳と安心を守り、住み慣れた生活を支える「良いケア・良い生活の場」の実現を目指しています。
2026.09.03
二 第一期の三 明治二三年より二八年に至る △白糖製造の決心 君は非常な苦心をもって殆んど身命を賭して氷糖製造の法を発明した。しかしその原料として使用すべものは白砂糖であった。この頃我が国の糖業界の実況を見れば極めて幼稚で、下等な黒砂糖は製造できても、精良な白砂糖に至ってはいまだ我が邦人の手によって製造する事は殆んどできないありさまであった。たまたまこれが製造場を起こしたものがあっても、いずれも失敗に終わっているし、また政府事業として外国の技師を招いて北海道紋別のテンサイ製糖場も収支が償わないありさまであった。このような次第であるから、我が国民の消費する白砂糖は主として清国の香港より便船ごとに運送船に満載されて来るので、白砂糖は輸入品中一の主要なものとして数えなければならない。殊に君は久しく菓子業者として朝夕砂糖を手にし、氷糖製造の法を発明して以来、その事業の成功と共にますます白糖を消費する所より、このようでは香港糖の輸入を増加し、いたずらに外人の嚢中を肥やす事の大なるを思い、憂憤の情禁ずることができず、自らこの難事業に従事し、白糖製造の法を極め、輸入糖と対抗してこれを市場より放逐して国家の富源を興さんと決意されたのである。ああ、富豪の力をもってし、政府の力をもってし専門技師の力をもってし、なおかつ成功することのできない難事業に向い、徒手これに当り、国家の富源を涵養しようとするその熱誠その大胆、真に二宮尊徳翁の精神を得たものでなければ、どうしてこの大業を企てる事ができようか。君はこのように白糖製造を思い立ち、また氷糖業の前途を思い、交通不便の地において営業することが得策ではないと感じ、製造場の移転の急を思う事極めて切であった。しかし現在の氷糖業すらなお、他人の仁助により資金を弁じていたので、移転の資金はこれを他に仰がざるを得ないのである。故にあるいは地方にあるいは東京に資金の供給者をもとめたけれども、事象期する所にたがい、その資本を得る道がなく失望落胆の秘境に陥った。しかし君はいたずらに失望落胆するものにあらず、翻然として悟っていわく、ああ、我れ過てり、私は事業の急速を欲する余り、資本の全部を他人の財によろうとしていた。これが他の信用を得ることができない理由である。事は迂遠に似ているが、暫く郷里にあって、氷糖製造の業を拡張し、小利を積んで大となし、自力をもって精糖の業を興したほうがよいと、これより君は朝起きて夜寝るまで、絶えて他念なくその事にのみ、思いを注ぎ、心を砕き、人力の限りを尽くして従事された。この時、君の境遇は二宮尊徳翁の道歌、「身をすててここをせんどとつとむれば月日の数も知らぬなりけり」といわれたように月日のたつのも知らず、ただ事業の発達をのみつとめられたのであった。しかし最初数年の間は少しの利益も見えなかったが、苦心の結果は次第にあらわれ、一ヶ年の利益はほとんど一万円に達するようになりました。ここにおいて、多年氷雪のうちに苦しめられた君は将に東帝(春)の恵みに浴せんとする好運に向かいました。
2026.09.03
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉 その3【開爐三首】 十月正當初一日 (十月正当初一日)霜風吹葉滿空階 (霜風葉を吹いて空階に満つ)今朝喚作開爐節 (今朝喚んで開炉の節となす)道火何曾燒口來 (火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん) 火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。言(こと)を尋ね語を逐うの解行を休すべし。仏法は言葉ではない。実物である。この実物は空砲射撃ではない。 宗教がもし世の中から馬鹿にされることがあるとするならば、それは空砲射撃をやっておるからである。極楽というても空砲射撃をやっておる。糞でもなんでもない。坐禅というても空砲射撃である。糞でもない話である。 学者が空砲射撃をやっておる。実弾射撃ではない。「そらドンというぞ」というても屁でもない。子供が射つ鉄砲なら、屁でもない。糸でくくってあるコルクがポンというだけじゃ。サア射ってみい。それはコルクに紐がついておる。それならなんでもない。ところが、実弾なら大変だ。「しまった」といっても、ちょっとさわったら、ドンと行ってしまう。 そこで、今も禅は空砲射撃であってはならん。今も火のない開炉であってはならん。火という必要はない。ここに、この実物、音を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし、黙ってヌクタイ。この黙ってヌクタイ火にあたる。黙ってヌクタイ仏法にあたる。理屈を言わん。左右前後へかたむかず、黙って坐る炉である。 火というてもちょっともヌクウない火もある。火といわんでも黙ってヌクタイ。ただ炉を開きさえすればー。開炉の節は火という必要もなければ、ヌクタイという必要もない。ヌクタイという言葉も要らん。火という言葉も要らん。ただ炉を開いて、そこに真っ赤な火をおこしさえすれば、ただ黙ってホッとする。 一月二月の、鼻の先に凍傷が出来るような寒い時に、寺へ来て坐る。そしてお粥のあついやつを、腹の中へ入れると、細胞のすみずみまで熱がグッと行きわたる。それはホッとする。「そろそろヌクタイぞよ」そんなことはいわん。 炉のそばへ行ってあたっても、黙ってヌクタイ。言葉ではない。これが教外別伝、不立文字である。実物は言葉のほかにある。言葉ばかりあって、実物のないものはない。実あって名のないものじゃ。そこで、今朝喫んで開炉の節となす。なんでも開炉しなければいかん。ホッとするところがなければいかん。火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。火と言うても口は焼けんぞよ。それは言葉ではないぞよ。それは実物であるぞよ。サア、ヌクタイかどうか。 それで次の「風頭稍硬し大家知る」と。(大智禅師偈頌講話p.173-174)
2026.09.03
1 二宮先生巡視の方針及び巡視中の逸話 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十五号」) 子(午前〇時)に臥し寅(午前四時)に起きるは先生のご家法にて、巡視される時は、いつも宵の握り飯を腰にして、未明に門出されるのが例なり。その村に入れば、まず第一に、村民起床の早い遅い、道路橋梁の修否等を検せられ、その村民一般の勤惰、富の度を査察され、そしてその精勤する者があれば、直にこれを賞し、惰民があればこれをねんごろにいましめられる。又先生は、民家に立ちよられれば、必ずまず厠(かわや:便所)を検することを例とする。ある人、これを先生に尋ねければ、厠の潔否、肥料の肥桶は農家勤惰の試金石なりと仰せられた。誠に左もあるべきであろう。 ここに一つ面白い話がある。元平ヶ崎村に某という惰農があって、ある朝のこと、賭博に敗けて、襦袢一つとなったので、家にも帰れず、寒さは寒し、困り果て、田んぼの中をうろうろさまよっていた。たまたま先生が例のごとく未明にその傍らを過ぎて、その様を熟視され、「汝は何を為しつつあるか」と問われると、彼はすかさず「ハイ私はこの村の貧農ですが、普通の働きではとても生計も立ちません故、かく早朝より耕作に出ました訳です」と言い逃れたのに、先生その実を察せられたけれども、わざと知らないまねをして、「それはそれは、感心の者である、申し渡すことがあるから、今夕予が役宅に来れ」と命じて、行き過ぎた。こうしてその夕方、かの者が約束どおり来たので、先生は農業に出精することを賞し、多くの金品を与えて、将来を励まされたので、さすがの無頼漢もこの賜物を拝領するや、顔色が土色のように変わり、自らその罪を悔い、かつ高恩に感泣して退いて、これより彼は大いに心を改めて、日夜その業を励み、順良な農夫となったという。今もその子孫は中産以上の農家である。当時この事を聞くもの、皆先生の機智宏量を感じたという。 また先生が巡視中、農夫・人夫どもにその主義を鼓吹されるには、よく卑近の例を採られた。その推譲の徳を諭される例の如きは、「かのタライの水を見よ。少し傾け、水を前方に送れば、その反動の結果、再び元に還るは必然の理である。故におよそ物を得んと思うならば、必ずまず人に物を与えよ」と、仰せられた。今も二宮先生のタライの訓示として、伝わって有名である。 ある時、開墾人夫、作業の休みにヤカンをかけた焼火を囲んで、多く休んでいたところへ、たまたま先生が巡視されて共に休まれ、フト沸騰したヤカンの底に手をあて、これはいかなる理があるかと質問された。人夫はただ不思議な顔で、誰も答えるものがなかった。先生はにっこりと仰せられるには、すべて液体は熱を得れば必ず蒸騰しようと欲するものであるから、下底は自ら熱を覚えないものだ。液体だけではなく、人間にもままこれに似たものがあるのには困る。かの小人を見よ。僅かの小金ができ、少しの名誉の地位を得ると、直に上を見始め、それより次第に奢りを始め、衣服、住居、諸道具類より、唐物、和物を好むに至れば、遊芸、茶の湯、俳諧、生け花などの業をする所々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精になり、飲み食いと色欲の増長とて、貧乏不如意という魔物が、足もとに襲い来ても悟らないようになるものである。浅ましいことではないかと。これは己が分度を守るべきことを諭されたものである。 また先生は、雷雨を非常に喜ばれて、この時にには必ず数十人の人夫に休みを与えられた。その歌に 夕立と姿を変えて山里を めぐみたまふかはげしかりける
2026.09.03
静岡社会健康医学大学院大学の研究グループが高血圧と大腸がんの関係を示す研究結果を報告しました。同研究グループによると、静岡県の医療データを用いた大規模な調査で、高血圧の人は正常血圧の人に比べて大腸がんを発症するリスクがやや高い可能性があると分かった。前島先生静岡社会健康医学大学院大学の研究員らは、県内の医療保険データと健診データを用いた研究で、高血圧の人は正常血圧の人に比べて大腸がんになりやすい傾向があり、そのリスクは約1.15倍だったと発表しました。研究では、降圧薬を使っていない正常血圧の人(約11万人)と高血圧の人(約8万5000人)を対象に、背景をそろえて比較する統計手法(傾向スコアマッチング)を用いて、平均4年ほどの追跡期間中の大腸がんの発生率を比較しました。この傾向は特に男性で、また降圧薬を使っている人では女性で見られました。一方、生まれつきの体質による血圧の上がりやすさ(遺伝的リスク)を、別の追跡調査データを用いて調べたところ、大腸がんとの明確な関連は見られませんでした。この食い違いから、高血圧と大腸がんの両方に関わる、まだ知られていない生活習慣や環境の影響がある可能性が考えられます。大腸がんの発生には、喫煙、飲酒、肥満、高身長といった生活習慣が関わっているとされ、女性では加工肉や赤肉の摂取も危険性を高める可能性があります。また炎症性腸疾患や、家族性大腸腺腫症・リンチ症候群などの家族歴も発生の危険性を高めるとされています。予防には禁煙や節酒、バランスのよい食事、適度な運動、適正な体重の維持が効果的で、特に運動はほぼ確実に有効とされています。がん検診は40歳以上を対象に年1回、問診と便潜血検査で行われ、「要精密検査」となれば大腸内視鏡検査などを受けます。便に血が混じるなど気になる症状があれば、検診を待たず早めに医療機関を受診しましょう。日頃から生活習慣を見直し、毎年がん検診を受けてください。今回の研究は、日本人約20万人の実診療データから、高血圧と大腸がん発症との関連を示した点で意義があります。リスクが約1.15倍という結果だけで、高血圧が大腸がんを直接引き起こすと断定することはできません。遺伝的に血圧が上がりやすい体質との明確な関連が示されなかったことからも、肥満、運動不足、飲酒、食生活、糖尿病など、両者に共通する生活習慣や健康状態が影響している可能性があります。一方で、今回の結果は、高血圧を指摘された人が大腸がんを含めて自分の健康を見直すきっかけになるという点で、前向きに捉えられます。 血圧を適切に管理し、適正体重の維持、運動、禁煙、節酒、バランスのよい食事を心がけることは、心臓や血管の病気を防ぐだけでなく、大腸がんのリスクを下げることにもつながります。また、大腸がんは早期に発見できれば、内視鏡治療や手術によって根治を目指せる可能性が高い病気です。高血圧の有無にかかわらず、40歳以上は年1回の便潜血検査を受け、陽性の場合は症状がなくても必ず精密検査を受けましょう。血便や便通の変化、腹痛などが続く場合には、検診を待たず早めに医療機関を受診することが大切です。
2026.09.02
血糖値を下げる食べ物!最新研究で証明された最強食材ランキング第3位:海藻類 ― 多糖類が食後血糖の急上昇を防ぐわかめ、めかぶ、昆布などの褐藻類に含まれるアルギン酸やフコイダンなどの多糖類が、糖の消化・吸収を抑制します。2023年の包括的メタアナリシス(Kim YR et al., Nutrients)では、海藻摂取により食後血糖、HbA1c、HOMA-IRが有意に低下することが証明されました。高用量(1000mg以上)で特に効果的です。第2位:お酢 ― 酢酸が胃排出を遅らせ、糖吸収をコントロールお酢に含まれる酢酸は、胃の排出を遅らせ、腸内酵素の働きを抑え、食後血糖の上昇を抑制します。2025年のGRADE評価付き系統的レビューおよび用量反応メタアナリシス(Arjmandfard D et al., Frontiers in Nutrition)では、2型糖尿病患者において空腹時血糖がWMD: −21.93 mg/dL、HbA1cが−1.53%低下することが確認されました。1日10mL以上で効果が高まります。第1位:納豆 ― γ-ポリグルタミン酸が最強の血糖抑制力を発揮納豆特有の発酵成分γ-ポリグルタミン酸(γ-PGA)が、食後血糖およびインスリンの急上昇を強く抑制します。2023年の研究(Hashimoto Y et al., Journal of Diabetes Investigation)および関連論文では、高γ-PGA納豆の摂取により食後血糖曲線下面積が有意に低下し、長期的に糖尿病リスクを低減することが示されています。また、動物実験でも高脂肪食下での血糖・脂質改善効果が確認されています。*チーズは糖質の含有量が少ない食品であるため、血糖値が急上昇しません。一般的なプロセスチーズやナチュラルチーズの糖質量は、100gあたり0.1〜2g程度と非常に少なめです。そのため、食後の血糖値の上昇に与える影響はほとんどなく、良好な血糖値の管理を目標とする人に適しています。さらにチーズに含まれるたんぱく質やカルシウム、ビタミンB群などの栄養素は、身体の健康をサポートします。一般的なチーズの糖質量は非常に低く血糖値の急上昇を招く可能性は低いチーズの主成分はたんぱく質と脂質であるため糖質量が非常に低く、血糖値の急激な上昇を招く可能性は低いです。一般的にチーズはナチュラルチーズとプロセスチーズの2つに大きく分類され、それぞれで製造工程が以下のように異なります。ナチュラルチーズは発酵の過程で乳糖が乳酸菌に分解されるため、糖質が少ないのが特徴です。
2026.09.02
「二宮先生五十年祭講演 第六席」(「二宮先生五拾年祭紀念号」p27-37)明治38年4月2日衆議院議員 鈴木藤三郎君 諸君、今日は二宮先生の五十年祭を御執行になる、実に御盛大のご祭典で私もここにおいて末席を汚すことを得ましたのは誠にありがたい仕合せでございます。それで今晩は岡田先生が折角遠方から来たから何か話をしろというおすすめを受けましてございます。然るに私はご承知のとおり当時遠方におりますし、又諸君のごとくこの会堂に毎回出席して、あらゆる先生のご講話を聴聞する事は出来ませんが、然し私は以前は時折この報徳社にまいりましてこの道を聞いたこともあります。今日別に諸君にお話を申し上げるような種は元よりないのでございます。しかしながら誠にこの有難いところの祭典に列した光栄として何でもよいから是非話すがよいというおすすめを受けましたから、私も元よりこの報徳の教えを熱心に信ずる一人でございますから、自分の不才を顧りみず、今晩一言お話いたしたいと存じます。どうか暫くおききを願いまする。 それで私は今晩ちょっとお話を申し上げたいのは、もう昼間のうちに報徳の大体の上より、かわるがわる諸先生方が種々お説がございまして、私は先刻申す通り不才なものでお話を致す力はございません。ただ二宮先師の教えにつきまして、もっともこの報徳と申しましたなれば実に大きなこと、どうもどのくらい大きいか分りません。これを天下に行いまする時は天下を経営する事が出来る、天下の治乱にも関係する、戦国にも応用ができる、又これを教育の一般にも応用しましたなれば、天下の教育という事になりまする。人類一般の事が則ち報徳ということになりましょうと存じます。このごとくなれば実に大なるものでございますから、その全体の事は到底かれこれ云う事は固より申し上げ得ません。ただ自分が実業に身を投じておりますから、大いなる報徳の教えより云えば、一節、報徳の一節という法が、これが実業と申しても宜しいことでございますから、先ず直接実業に従事する所の実業の経営の上に、この報徳を以て参って、ただこの方面の所感をお話致します。で、この二宮先師の教えの内に、荒地を開くに荒地の力を以てするとこういうことがございます。諸君はご承知の事でございまするが、さてこの意味を私は広く実業のいずれの方面にも、これをよく咀嚼しまして何事にも応用したなれば、最も今日の日本に適するものではないかとこう思います。それはどういうことかというに、もう先生が荒地ということをいわれましたが、これは一つの例でございます。未墾の地を開く、荒蕪を拓く、荒蕪の力を以てする、こうある、誠に意味のある所と考える。然ればどういう訳かというに、その事について一言申しますれば、荒蕪の力で荒蕪を開く。一番最初に荒蕪を開く資金を得にゃならん。それは手間取りをしても一反歩くらいの資本は、これは容易に得られるもので、勤労すればきっと行われる。初めにかかる資本を以て、一反歩の土地を開きまして、しかしてその一反歩の土地を開いて余った所の収入をまず善い塩梅に豊年と云うて空しくしてしまったなれば、荒蕪の力で荒蕪を開くことは出来ない。そこでどういう風に荒蕪の力で荒蕪を開くかというに、その開くことは一つの手段でございますと思う。それにその道がなくてはならん。それはどうかと云うに、報徳の道を一つ応用して見ますると、誠心を以て本とする、勤労を以て主とする、分度を守り、推譲を要とする。これが報徳の道でござります。何事もその道が土台になっておらにゃならん。その道を土台にしておきまして、しかしてそのなす仕事に現れて荒蕪を開く。荒蕪を開くに仮に一反歩を開いて五斗の米が獲れるとすれば、その半ばを衣食に取る。又その半ばを以て明年の開墾の資本とする。それには分度を立てる。もし分度を立てませんと、5斗獲るその獲ったものを食うてしまう。5斗のものは2斗5升剰して明年の資本として、また一反歩の荒蕪を開く。又今度は一石獲れる、一石獲ればその五斗を以て資本とする。そうなれば二反三反と開けて往く。こういう仕組みにして段々やりますれば、何千町歩でも開けるという事に聞き及んでおります。これは一つの例でございます。然ればこれは荒地を開くことばかりであれば、荒地のない所はいかんともすることは出来ない。この方法は荒地を開くのみの小さな方法ではない。この道とこの手段をすべての方面、何事に用いても農工商三業でも、あるいは何事業に応用してもその効績はある事と思います。それで私が今晩申し上げますることはお断りして置きますが、教えがこうであるという事を申すじゃございません。そもそも私が報徳の道を耳に致したのは、明治8、9年頃でございます。段々この教えを聞いて研究しているうちに、いわゆる今の荒地を開くの力を以てするということが、私の脳にしみまして・・・・・・非常に感じました。その感じ方がただいまの様なものになった。どうかこれを外の仕事に用いてやったならば、やはり功績があろうと考えた。その当時私は菓子商をしておりました。それにこれを応用して見ました。その仕方は細かな事を申す必要はございません。とにかく応用しまして5か年を期して明治10年より明治14年までこの事を実行しました。この事は外の方面にも応用が出来るか出来ないか試そうと思うて5か年やってみました。やってみましたところが、誠に歴然としてその効が顕れました。というものは、その1年の初年は明治10年の1月1日を以て初年と決しました。それ以前は捨てまして、全くその道を開きまして、これにのっとりてやろうと決心しましたが、明治10年の1月1日、満5年やりました。ところがその最初の時の資本は261円でございました。それが14年になってみました時に1万円を越しました。その当時はこの節と違いまして、とにかく駄菓子を1万円売るという事は大変でございます。信州辺りにてお得意が出来まして、その5年前までは300円ほどしか売れないものが1万円余にもなった。もっともそう売れるようになったのは廉(やす)く売ったから売れたに違いない。かように自分の営業に実験をしまして、それで誠にこの荒地を開くに荒地の力を以てすることが、独り荒地のみならず何れの道にも用いる事が出来るという観念が堅くなりました。けれどもそれで許す訳にはまいりません。その5年目に私はその証拠書類を提げまして倉真(くらみ)村にまわって、岡田先生にお目にかけました。こういう事をえましたと云うてお目にかけました。岡田先生それを見て、なるほどよくやった。こういうように応用することは面白い、結構であると。師匠と云うべき岡田先生にとにかく許しを受けました。そこで私もますます自分の決心が堅くなりまして、どうも私はそこで金力であると思うのは、分度と云うものを確乎と立って、それで例えば自分の財産が幾らあって幾ら資本がある。その半ばを取って分度を立って明年の営業の方に回して荒地を開く。それは荒地の力を以てする。これが土台になる。こう私は信念を固めました。少しは報徳の道を味わいかけた。これを味わいかけたので、その当時駄菓子を1万円売った。これもなかなか容易な事ではない。いやしくも国民としてこれを我が国家に一つ応用してみたい。出来るだけその方面に向かってやってみたい。こう心を起こしました。それからその菓子業は雇人に任せまして、専ら砂糖業を起こす事にかかりました。その初年は氷砂糖でございます。それをやはり同じ筆法でよろしいものとこう自分は決心しました。それからして東京に行きましてこれも段々拡張してやりました。それゆえに事業は多少大きになる。大きになれば力も大きくなる。そこで東京に移りました。東京に移りまして、ますます節約勤倹をして、その余裕を皆事業の拡張費に充てました。それでございますから、その間には種々な事もございますが、しかし今日に至るまでやっておりまする。それでまずそういうふうにして参ったおかげで、とにかく今日では東京に参ってもどうかこうか一つの仕事がまとまりました。それから明治33年に台湾にまいって砂糖業を起こしました。これは随分困難でございましたが、ようやく昨年より確かになりまして、まず安心する事業となりました。一の営業となったのであります。これもいわゆる言い換ゆれば、経済は経済の力を以て開く、砂糖業は砂糖業の力によって発達する。何でもそのものから出たものは、そのものにかける、儲けで何事も出来る。お百姓なれば今年の儲けを明年の肥料に充てる。何事業もその通り制限を立て、分度を立てて翌年の業に充てる、一つの営業をなすのにも、その営業者が金さえこしらえればよろしいのじゃない。どうかその事業を発達して拡張する、それが一つの土台でございます。これを名付けて誠心という。細かく云えば限りはございませんが、この誠心と勤労、分度、推譲、この四つは前にもお話がございましたから私は略します。何事もこの四つが備わらにゃ営業の発達はできないでございますから、ただ何事をする場合にもそれだけのものが並び行われんければ、それだけのものであります。この四つのものが備われば、およそ天下の事業としてならざるものはないと信じております。この道、この法を以て行ったなれば、いかなる事業といえども必ず成功するものでありますと、こう自分は考えております。ただ儲からんでは困る。あの業はあわん。この業は得だという、決して営業はこれは得な業、これが損なことという業はない。何でも差支えない。例えば酒屋をして身上を興す、又身上をへらす。必ず興すとも果たすとも罪はその業にない。その人にある。事業そのものに成敗はない。事業は人によって興りもし衰えもする。その興す人はどういう人であるか。この報徳の道を守り実行するとせん人であり、これによって成敗が分かれる。これが大体原則であると考える。それで今日は不景気で仕方がない。こうどこでも云う。どうも私はそういう事はないと思う。天則から云うと、日本の人は今5千万人、統計家の話で聞けばある。それに年々1万について、138人の割に人が殖(ふ)える。1か年60万人の人が殖える。そういうふうにこれだけの面積に5千万人ある。そうして年々60万人殖えるという有様でございます。そこでこれまであり来った事業では、とても仕方がない。しかし、何にも仕事がなくなった道理ではない。人が殖えるだけ、仕事が殖えにゃならん、それを「あう」の「あわぬ」の食える食えぬと云う事は私はないと思う。全体すべての事は発達をせにゃならん。もし発達をせないなれば、日本の前途いかにという事になります。いわんや今日はご承知のごとく世界に最大強国というロシアを打ち懲らして、実に連戦連勝の有様であって、この上もない幸福であるが、これより先、終局を見ることは長いかも知れん。勝つ事はたしかに見とめがついた。その戦争は勝って世界列国も日本人は驚くべき所の人種ということは今日では各国ともに称賛しているという事を聞いております。今、称賛される以上は誇ってもよろしい。しかしながらこれより戦後の事はいかがでございます。どうしても日本の富、この日本の富は農工商の実業を発達させにゃならん。これが全く発達をせんければ富は思いもよらん。然るに実業界はどういう有様かと云うに、一体の上より云うと外国とは非常の違いがある。戦争では世界人の耳目を驚かしたる所の日本人が実業上の事になると云うと所詮遠く及ばない。誠にこれは遺憾な事であります。私も実業者の一人でございます。甚だ面目はない。遺憾に感じておりまする。実業上の方面より見れば、日本人は外国人に遠く及ばん。戦争とすれば世界の人を驚かすような働きがある。これは余程不思議でございます。然れば日本人の能は戦争の事より外にないかと云うに、そもそも戦争において命をすてる目ざましき戦争をして国を取る、日本人が外国人より勝れた働きをするなれば、やはり産業上においても自然発達を早くかけにゃならぬ。日本人がこの方よりはいけないことは、何が故にいけないかと云うに余程講究せにゃならん問題だと思う。それは要するに今日の昼の間に諸先生の講話中にもありましたが、戦争をする決心が産業上にない。あれ程の真心がない。この真心を名付けて大和魂という。報徳ではこれを誠心と云う。その誠心が実業上に現れさえすれば戦争に勝つごとく実業上にも勝たにゃならん。実業上の大和魂が不安であるから何と云うても、ものにならんように思う。それはどうかと云うに諸君が熱心に日々研究をなさる処の報徳の道、報徳の教えをこの実業上に直ちに応用して行ったなれば、この戦争と同じようにかつてヨーロッパ人にない所の功績を実業の上に果して発揮することが出来ようと思う。でございますからして諸君は年来報徳の道をご研究になっておりまして何事にも行うておりましょう。しかしなおその上にも大小の区別を論ぜず、報徳の道を信じて実業に従事して荒地を開くに荒地の力を以てすると云うこの意味を応用して、そうして誠心誠意勤勉せられましたなれば、いかなる事業も遂げられんことはどうしてもないと自分は確信致します。それから自分の事を申しましては甚だおかしいようでございますが、近頃は私はある自分の嗜(す)きと云うより、少しこの器械につきましていささか工夫を致しました。それは2、3年この方発明が出来ました、その内もっともまだこれは確かに例証を挙げまして申すことは出来ません。今年中くらい掛かりますが、どうか有益であろうと思う。常にハンゼシメンショードそれは石炭と申すことであります。当時電気が非常に盛んでございます。その電気の基は石炭でございます。それ故にこの石炭を作らにゃならん。電気はいずれも石炭が必要でございます。もっとも水の原動力もある。しかし土地によりましてはことごとく水を引いて応用することは出来ない。石炭については新聞にもだいぶん出てきますが、我が国の石炭は九州北海道等の石炭が沢山あって堆積しておって大いに売るにも困るということは4、5年前の事であります。然るに各方面より近頃工業が盛んになりまして、石炭の消費が非常に殖えて来まして船舶の費消する高も大変な事になりまして、近来全く九州あるいは北海道の石炭の堆積もなくなりまして、今日掘って明日積み出すような訳になりました。需要一方になりましてその処で石炭は何れの方面に向かっても近頃不足をつける傾向になりまして、だいぶんその不足を唱えるようになりました。大洋中より石炭を採らにゃならんと云うておる。こういう事になりました。こういう事になれば前途誠に考慮を要する事になります。石炭は人為で出来るものでない。どうしても地層によって掘る、それを掘らにゃ作ることは出来ない。それはどのくらいの年限を経て出来るか、なかなか容易なことで出来るものではない。それほど貴いものでございます。これが又妙なことがあります。どういうことかと云うにこの石炭を分析すれば百の中に八十くらい燃えるものがある。然るにそのどれだけ燃やしているかと云うにまず普通燃えるに五分即ち半分でございます。全国中の工場でその統計で見れば非常に沢山つかわれているその部分でカスがある。燃えない石炭がつかわれている。燃すべきものは三分の一であります。世界中外国もその通りでございます。そういう事になっておりまする。その事をちょっと以前にある学者から聞きまして、それから明治29年30年にかけて外国を調べてみました所が外国でも同じであります。それから自分もどうかしてこれを誰か工夫するものがあろうと思うて人に実は求めておりました。所がそれが出て来ません。それから本来私も専門家ではございません。工夫をしよう考えようと思うことはない、世間に求めておりました。ある時、このランプを点(つ)けておりまして、やったではないが、炎(エン)がたつと火が赤くなる。どうすればエンが立つ芯の出しようによって油は一つ油でも赤くなってエンが立つ。又ホヤの掛け様でエンが立つ。そんなことを妙だと感じまして、彼の小さい手ランプあるいは豆ランプのごときホヤのないものは火が赤くなる。ホヤを着せれば火が白くなる。私はこれを始めに感じました。それから段々この事について考えて見ました。これはその温度と空気の量と油と心とを加減して適当に行けばよろしいという事がわかりました。その処で竈(かまど)もかくのごとしと思うて、これは一番工夫して見ようと云うことがその処に起こりました。それで4、,5年前でございます。段々工夫に工夫を加えまして、昨年7月ようやく形が出来ました。その効用と云うものは今までの石炭の三分の一を用いて足りまする。この事柄を細かに申し上げれば大変でございます。要するにちょうどこのランプのようなもので、またこの竈のようなもので火が燃えて煙りになる。その燃えても煙りにならぬと云う事が自分の理想でございます。それを大学その他の工学博士に鑑定して見て貰いました。確かによろしい理論的にも適(あ)っているが、今それの実験中でございますから本年中には確かに計算が出来、方法が出来ましょうと思う、これを工夫した原因は何んかと云うに、やはり報徳の道であって倹約という事が頭にございます。世の中に石炭というものが出来ている。その出来ているものは空しく失わんことが倹約でございます。織物にしてももしこれが手置が悪く粗末にすればある一部が切れる。もう着物にならん。又着物にしても注意して大切に悪くなれば洗い張りをして手置きをよくすれば5年も10年も一つものを着る。もしその手置きを怠れば1年か2年で、もう着物にはならなくなる。倹約はその処でございます。人工を加えて出来るものを捨ててその用をなさで終ることは極く不経済なことであります。それでございますから、この石炭の事も倹約と云う道に教わって、倹約と云うことの頭より見れば煙突より出る。濛々として雲の上に立つ様なものが出る事も甚だ勿体ないものとこう感じます。別に工夫して銭を儲けようという事じゃない。それを工夫して空しく煙りにせずば大いに利益のあること、わざわざ煙りにするのは実に勿体ないことであると思う。大きな考えを以て来て人生の上に及ぼしたなれば大変なことである。石炭に限らず何事も三分の一とか、あるいは半分を倹約することになれば、十年のものは二十年もつかえる。人生の進歩の上にも関係する処の問題と思うて、つまり倹約思想から段々研究しましたのが・・・・・また公然社会に公然発表して見ません故に確かなことは申されません。しかしこれまでやって来たのは、原因は勤勉という事の頭より出て来ましたので、そこで工夫してやったのが勤勉でございます。とにかく教えを聞いた所の勤倹というに基きましてかかる、結果に至ったのでございます。これも先輩の諸先生方に薫陶されましたものが、頭の底に残っておりまして、かような事になったものかと思います。しかしながら私のこれまでなし来ったことは変則でありまして、こういうふうに諸君にやってよろしかろうということは申されません。ただ私がこれまで実行して来たもとの考えの起こりがこの道を信じて。それに基いて来たということを申し上げたのであります。どっと変則と思いますから諸君もそういうふうにおやりなさいとは云われません。ただ何事にも使う精神は同一でございます。何職業も違った事はない。例えば駄菓子屋をやるにしても、よくこの考えを緻密に致してそうして一生懸命に勉強して、一生懸命に勉強するものが少ない。年が年中何事も一生懸命になりませんと全力を注いで仕事をすることができない。この精神さえ、あってしたなれば、いかなる大事業も出来る事と私は信じておりまする。思うに二宮先生のごときその人であろうと思う。たとえ学問があっても智恵があっても一生懸命に全力を注いで事をなさんものは充分な効果を得ることは出来ない。故に私は諸君と共にこの精神を以て報徳の教えを実行致したいと思うて、長い事を申し上げて甚だ恐れ入りました。これでご免を蒙ります。(拍手喝采)
2026.09.02
「ユマニチュード」という革命p100 多くの国の看護師は、「忙しくてよいケアをするための十分な時間がとれない」と言っています。では、それほどまでに多忙で時間がないとすればどうなるでしょうか。優先順位を決めて、できるだけのことをしようとします。そうして選択されるのが生理的なニーズです。 優先順位に基づいて生理的なニーズにだけ注目するのは、人間の中の動物的な部分だけをケアしているにすぎません。それは人間に対するケアとは言えません。 私はかつて、フランスの看護師の使っている看護記録用のコンピュータソフトと獣医が使っているそれとの比較をしました。どちらも同じで、記録されていることもほぼ同様。つまりどれだけの量を食べ、飲んだのかや排尿量、便の硬軟が主な内容です。 ケアはそれぞれの国の文化に左右されるだけではありません。普遍性があると思われている哲学にも縛られてしまう可能性があるのです。ヘンダーソンの理論*は素晴らしいものです。しかしながら、時代を経て、彼女の哲学に根差したはずのケアは、「14のニーズだけを満たせばいい」とあまりに狭い考え方をするようになっています。 ヘンダーソンの理論に並んで、ケアに関わる人に影響を与えているのは、心理学者のアブラハム・マルローの提示した欲求5段階説、いわゆる「マズローの法則」です。ヘンダーソンと同じように人間の基本となるニーズとして「生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現のニーズ」について言及しています。 彼はこれら5つのニーズをピラミッド構造として示しており、人間の本質についてのモデルとして看護学校でも教えられています。私はこれに異議を唱えます。 まずピラミッドは何を語っているのでしょうか。生理的欲求から安全への欲求、愛情、尊敬、自己実現へのニーズが階層上にあるということです。 つまり、基礎となる生理的なニーズが満たされていないと次のステップには行けないのです。ニーズにはヒエラルキーがあるからです。この考えは時代に合っていません。 日本の自殺者は年間約2万人もいます。お腹が空いているから死ぬのでしょうか。いえ、おそらく、孤独だからです。生理的なニーズが満たされていても、私たちは生きることはできないのです。したがって、このモデルは実情とずれています。 あなたが介護施設に入居するとします。スタッフがマズローの法則に基づいて分類し、あなたに一番大切とだと考えるのは、あなたに食事をちやんと摂ってもらうこと。そして排泄をきちんとしてもらうことです。しかし、それだけではケアとは呼べません。それは入れて出すのを見届ける。水道管の詰まりを取り除く工事と同じです。そもそも、あなたにとって食べることは大事でも、ある人にとってはそれよりも読書のほうが大事かもしれません。 そうやって考えていくと、あなたにとっていちばん大切なことは、他者にとっていちばん大切なことと必ずしも同じでないかもしれません。それぞれに、「私だけの大切な、基礎的なニーズ」があります。そして、それらに共通しているのは「自由」です。自由が私たちを生かしているのです。 ケアにヒエラルキーがあると考えるのは、ナンセンスです。生きている実態ではなく、頭の中だけでニーズが考えられたとき、ピラミッド状の優先順位がつけられてしまいました。そうではありません。ひとりひとりの優先順位があります。私たちは、それぞれが大切にしているもののために生きています。私の知人は、蝶を捕まえるために世界中を飛び回っています。彼をケアの哲学が示すヒエラルキーの中に組み込むのは難しい。少なくとも彼から蝶を取り上げたら死ぬでしょう。*ヘンダーソンの理論は、患者の自立支援を中心に据えた「14の基本的欲求」に基づく看護理論です。理論の概要ヴァージニア・ヘンダーソン(1897-1996)は、看護の本質を「患者が自分でできる力を取り戻すまで支えること」と定義しました 。彼女は看護を、患者が健康を保持・回復し、可能な限り自立した生活を送れるように援助する専門職として位置づけています 。看護師は、患者が必要な体力、意志力、知識を持っていれば自分で行える活動を補助し、できるだけ早く自立できるよう支援します 。14の基本的欲求ヘンダーソンは、人間が生きるために共通して持つ14の基本的欲求を定義しました 。これらは、患者の生活行動や健康維持に必要な要素であり、看護師はこれらの欲求を満たすために援助を行います。代表的な項目には以下があります正常に呼吸する適切に飲食する排泄を適切に行う体温を維持する運動・休息を行う衣服の着脱安全・危険回避コミュニケーション宗教的・精神的欲求学習・成長遊び・余暇社会的関係自立・自己管理安らかな死看護師の役割ヘンダーソンは看護師の役割を3つの側面で説明しています代替的役割:患者に代わって行う援助(例:意識のない患者の口腔ケア)補足的役割:患者を手助けしながら行う援助(例:歩行困難な患者の移動補助)補完的役割:患者と協働して目標達成を目指す援助(例:退院指導や自己管理教育)理論の特徴と臨床応用ヘンダーソンの理論は、患者の自立支援を中心に据え、過剰介入を避けつつ必要な部分だけを補う点が特徴です 。臨床では、患者の14の基本的欲求に基づきアセスメントを行い、看護計画を立てることで、効率的かつ個別化されたケアが可能になります 。この理論は、看護師だけでなく介護や家庭でのケア、育児など幅広い場面で応用可能です 。ヘンダーソンの理論は、看護学の基盤として、患者の自立支援と包括的ケアの実践に直結する重要な枠組みを提供しています。
2026.09.02
二 第一期の二 明治十年より二十一年に至る △氷糖発明の苦心 君は暇があれば常に二宮翁の伝記を読んではその成功の跡を慕い、報徳四要の文を誦してはその精神のあるところを考え、至誠勤労の二句は成功の秘訣であることを悟り、炎々たる胸中の熱火は些々たる菓子製造業に満足することを許さない。この業界に雄飛しようとの大希望を起し、これより後の君は報徳活用のために奮闘的態度をもって家業に従事された。この時、君の境遇を察すれば、めざす境地は千里のかなた、思えばはるかな行く手の空や、見渡すかぎりは幾重の霞、とでもいうべき感があったであろう。しかし君は成功を確信し、第一着手として氷砂糖製造をなそうと思い立ちました。その事業たるや、新規の事業に属し、相談すべき人もなく、また自身とても少しの経験もなく、全く自己の胸中より製法を案出しなければならないので、その困難はとても筆紙の尽すべきところではなかった。しかし君は一たび決心した後は、ほとんど睡眠や食事を廃し、その考案に従事された。このようにして方法を案出し、実験に付すれば、事は予期に反し、試験も成功せず苦心は水泡に帰してしまうような場合で、更に考案をめぐらし再実験すれば、またまた失敗に帰し、このようなことが幾十回。意志の薄弱な者であれば、失望落胆遂にその事を廃するに至るべきであるが、君の剛健な一敗は、一敗より勇気を増し、この秘密を見出すのでなければ倒れてもやめないと、かの欧米の陶工バリッシーが陶器製造の方法を発明した時のように、百折不撓の熱誠をもって考案に重ねるに考案をもってされた。しかし容易に成功するに至らないで数年を経過した。 ある年君は野州今市二宮神社に参詣せんと旅装を整え旅程はるかに宇都宮に着し、旅亭某に投宿された、孤灯影暗いところに旅日記をしたため終り、例の氷糖製造方法を熟考しつつあった、たまたま隣室投宿の書生数人学術上の談話をなし、化学の事に及んだ。君はこれを耳にし、大いに興味を感じ、これを聞いていたが、ふと感ずるところあり、手をうって喜び疑問氷解の時至れりと、帰国し、旅中得た考案により製造を試み、翌朝これを見るに果然一種の結晶糖を得たれば、夢かとばかり喜び、再三その実験をなすに一回は一回より次第に好成績を得たれば、その方法を基礎とし、改良に改良を加えて遂に完全なる氷糖製造法を発明する事になった。これ実に明治十年より同二十一年頃までのことで、十余年の間、苦心経営の結果ようやくその目的を達する事を得られた。君はこの発明をもって二宮神霊の加護によるものと信じられているということであるが、いかにも感心な事と申さなければなりません。これより君は製品の販路を東西各地に求める事に尽力しましたが、製造高の少なさと土地の僻在なると、その他多くの不便を感じられたが、殊に身深く糖業界に入って見ると更に大計画を立てるの急を認められ、奮って第一期の三時代の事業を企てる事となった
2026.09.02
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉 その2【開爐三首】 十月正當初一日 (十月正当初一日)霜風吹葉滿空階 (霜風葉を吹いて空階に満つ)今朝喚作開爐節 (今朝喚んで開炉の節となす)道火何曾燒口來 (火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん)「霜風葉を吹いて空階に満つ」まあ霜がおりる。そこで、ここに開炉ということをよく参究せねばならん。炉を開く。火、これはいつでもいう通り、火というてただ字のとおりに火を火といえば、それはなんでもない話である。火というものは、なにを象徴するか。火という奥に意味がなければならん。火という字の外に、なにも意味がない。これでは、まことにつまらん。 火、炉を開く。ここにわれわれ火をおこす。火といえば光るものである。光るといえば、いったいなにをいうか。われわれの光るもの、あるいは温かなもの、冷たいものでも光るもの、温かいもの。この温かい光るものを、ここに開く。いったいいうたら、日々是れ好日ではあるけれども、日々是れ好日でなければならんが、特に光る日が好日でなければならん。温かいものを開くということが、好日でなければならん。 ここに開炉、それが十月当初一日というのは、この開炉の火である。霜風葉を吹いて空階に満つ。サア、霜がおりた、葉がパラパラと散る。このデコボコの石段の上に葉が落ちて、どこがどことも見当が分らずに、すべってころぶ。霜風葉を吹いて空階に満つ。 「今朝喚んで開炉の節となす」そこで、今日この十月当初一日を開炉の節とする。今日はこれ開炉の節である。これが叢林の開炉の節である。これが叢林の開炉の節という参究なのである。サア、炉を開く。「火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん」ここにわれわれが参究せねばならんのは、口でいうだけではいけない。火というたら口が熱いか。ここに教外別伝、不立文字。禅宗の坊んさんが参究するのは、火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。火というたらどうか。一向口が熱くない。 そうすれば真如を真如といいながら発明する。悟りという字を書きながら迷うておる。悟って迷うておる。これは非常に微妙な模様である。火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。火というても口は焼けんぞよ。火そのものだぞよ。その火だぞよ。 ゆえに道元禅師は『普勧坐禅儀』に「須らく言(こと)を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし」とある。言葉ではない。口で火というても駄目だぞよ。(大智禅師偈頌講話p.172-173)
2026.09.02
報徳参会説話 故岡田無息軒翁 現代語訳本年(明治9年)2月11日常会の折に、誠をもって陰陽の働きをほどよく制して、世のため国のため人のためにと、家職を精勤したいものですと、説話いたしました。これは、ほどがよいということは、世間においていずれも善とする事で、物事をよくいたしたいものです。中道の中の意味、また竹の節を程がよいと申しまして、古人も竹を愛しております。竹の節は、本が繁り、中は延びて、末はまた繁り、しまってはのび、しまってはのび、太さや細さに随って、善い加減に生じたもので、一年の季節も、節分とか正月の節とか、節と唱えて、竹のふしという字を用いています。人の世もこのとおりで、日曜に休むとか、暮れに取り遣りをしないとか、節を立てるために、だらしなく締まりがないようにならずに、節なしという事は必ずないです。陰にしまって陽にのびて、固すぎてもいかず、のびすぎてもいかず、陰陽の理は、ケシの一粒より、九天の外までも同じ訳で、至って広いのです。学校へ入って、幼年から修行すれば、その理を極めるのでしょうが、差当り急務とするところは、人の世が立ち行く道の相談が大切です。大先生(二宮尊徳)のご教諭に、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と仰せられております。誠と申す意味は、うそがない事で、誠を離れては、何事もたちゆきません。そうではありますが世の中は種々で、どれが先でどれが後と、先後・終始がわかりません。先生は「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」とおおせられました。この文章は分度を立てると申す一句が、道の本体であり大変大事です。これがすなわち人の世が盛んになる土台であり、正業はどうのようにするのかというに、家政調べをもって、家の分をわきまえるです。十俵の収入の家が、十二俵にて暮らせば、二俵のうそで、誠ではありません。百円の収入の者が、百二十円で暮らす。二十円のうそ、そのうそが積もると分散退転してしまいます。この所へ誠をしかと用いたいものです。古人が、徳満と名付けた、まん丸い水を入れる器を製作し、水をいっぱい入れると、その器がくつがえってしまい、八分ではちゃんとしております。これは満ちればくつがえると申すたとえの教訓です。この理は古から今まで申す事で、珍しくはない事ですがそのとおりです。そうであれば十俵の収入の者は、八俵で暮らすのが誠の至極の場合で、大先生が分内の図をもってご教訓されました、十俵の収入の者は五俵、百両の者は五十両で暮し、何でも半分で暮し、半分は譲るべきであると仰せられました。また中道の分度に止まるというご教訓ですが、この中と申す意義は、かたかたによらない、かたよらない、大変程よい事になります、中は古人も困難とする所です。なぜかというと、一尺のまん中は、これは中には相違ありません。物によってかたよってて中になりますと、中は容易に得がたいものです。大先生にご理解に、ナスを作って五つもなったら、まず三つも取り、そして肥しをやるべきだ。霜の降るまでナスがなるぞ、この理は間違いないぞと仰せられました。五つなったら、きっと三つとれとはおっしゃいません、まず三つとおっしゃいました。三つ取るのも二つ取るのもあり、その程を見てとる事ですから、きっといくつというような決まりはない。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきとしていて、古今かつてなかったところで、誠に極妙です。このご理解に基づいて分度を立てると財宝が余り、身体は必ずよくなるです。身体さえよくなるならば、よしとばかり決定しては、心得違いとなります。積善がなければ災いが来ます。災害が来るとどれほど大身代も水の泡となります。積善は誠です。ですから積善がないならば、人に生まれた甲斐はないのです。積善の第一は譲りです。農家は作物の肥料、作工は素人の及ばない所を入念にし、家を手がたく作り、商家は正直に商売し、世界の融通をよく付け、相互に譲り、助け合う、それにてよいのですが、病難火難水難そのほか不慮の天災はのがれがたい。貧窮に陥るものも多いのですが、この貧窮は人事の大患です。貧にせまられると本性の人心をくらましてしまい、悪念を生じ悪事をかもし、五倫の道を守らないようになり、この上もない皇国に生れて、有り難いという事を思わない。恐るべき事です。この大きな憂いを救う仕法を窮民撫育と申しまして、報徳善行のまっ先に行うところです。ですから結社を結んで分度外に報徳善種金を積み立て、これを種として社中はもちろん、国に貧窮の者がないようにすす仕法です。諺に棒ほど願えば針ほど叶うと申します。往々貧窮のもの無くなりましたら、なんと愉快ではございませんか。当国報徳社中に次第に増して、大いに盛んな事に成り、歴々の皆さん方中にも、たんと見えます。この社中が奮発致したならば、どのような善行もできるわけですから、愛国のご教則にちゃんと叶い、めでたい事はこの上ありません。ですから、報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に、大先生が仰せられました。自他の宝は、実に大切です。大日本報徳学友会報第二十回二頁報徳参会説話 故岡田無息軒翁本年(明治九年)二月十一日常会の節、誠を以て陰陽の働きを程よく制し、世のため国のため人のためと、家職を精勤いたしたきと、説話に及びましたが、これ程よいという一義、世上一統善とする事にて、物ごとよくいたしたきものでござる。中道の中の意味、また竹の節を程よいと申して、古人も竹を愛したまいしなり。竹のふしは、本しげく、中程延び、末また繁く、しまりてはのび、しまりてはのび、太さ細さに随い、善き加減に生じたるものにして、一年の季節も、節分とか正月の節とか、ききめ節と唱え、竹のふしという字を用い、人の世もこのとおり、日曜に休むとか、暮に取り遣りをしまうとか、節を立てるゆえ、しだらくにならず、節なしという事必ずないでござる。陰にしまり陽にのび、固すぎていかず、のびすぎていかず、陰陽の理は、ケシ一粒より、九天の外までも同じ訳にて、至って広い事ゆえ、学校へ入り、幼年より修行いたしたならば、その理を極むるでもござろうが、差当り急務とするところ、人の世の立ち行く道の、ご相談肝要なり。大先生(二宮尊徳)ご教諭、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と仰せおかれ、誠と申す義は、うそのなき事にて、誠が離れては、何事もゆきませぬ。さりながら世の中種々、いずれが先いずれが後と、先後終始わかりませんが、先生「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と、この御文は分度を立つると申す一句、道の本体にて至極大事、これすなわち人の世の盛んになる土台にて、正業いかんというに、家政調べを以て、家の分をわきまえるでござる。十俵徳の家、十二俵にて暮らす、二俵のうそ、誠ではござらぬ。百円徳のもの、百二十円にて暮らす、二十円のうそ、そのうそが積もると分散退転、この所へ誠をしかと用いたきものでござる。古人、徳満と名付けたる、まん丸き水を入れる器を製し、水をいっぱい入れると、その器くつがえり、八分にてはちゃんと致しおりまする。満ちればくつがえると申すたとえの教訓、この理は古今沙汰致す事にて、珍しからぬ事なれどもそのとおり、然れば十俵徳のもの、八俵にて暮らすが誠の至極の場合、大先生分内の図をもってご教訓、十俵徳は五俵、百両は五十両にて暮し、何でも半分にて暮し、半分は譲るべしと仰せおかれ、また中道の分度に止まるとのご教訓でござるが、この中と申す義は、かたかたよらず、かたよらず、至極程よい事、中は古人も難(かた)しとする所、なぜなれば、一尺のまん中、これは中には相違なし。物によりてかたよりて中になりますれば、中には容易に得がたし。大先生ご理解、ナスを作り五つもなったら、まず三つも取り、そして肥しをやるべし。霜の降るまでなる、この理は間違いないぞと仰せられたり。五つなったら、きっと三つとれとは仰せられぬ、まず三つと仰せられたり。三つ取るのも二つとるのもあり、その程を見てとる事ゆえに、きっといくつ決まりたる事なし。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきして、古今未曾有、誠に極妙なり。このご理解に基づき分度を立つると財宝余り、身体は必ずよくなるでござるが、身体さえよくなれば、よしとばかり決定いたしては、心得違いとなります。積善がなければわざわいが来ります。災害が来ると、何程大身代も水の泡となるでござる。積善は誠なり。故に積善がなければ人に生まれたる甲斐はないでござる。積善の第一は譲りなり。農家は作物の肥料、作工は素人の及ばざる所へ念を入れ、家を手がたく作り、商家は正直に致し、世界の融通をよく付け、相互に譲り助け合う、それにてよろしきなれども、病難火難水難そのほか不慮の天災のがれがたく、貧窮に陥るものも多いでござるが、この貧窮は人事の大患でござる。貧にせまると本性の人心をくらまし、悪念を生じ悪事をかもし、五倫の道を守らざるようになり、上もなき皇国に生れて、有り難いという事を思わず、恐るべき事でござる。この大いなるうれいを救う仕法を窮民撫育と申して、報徳善行のまっ先なり。故に社を結んで分度外に報徳善種金を積み立て、これを種として社中はもちろん、国に貧窮のものこれなきように致す仕法でござる。諺に棒ほど願えば針ほど叶うと、往々貧窮ものこれ無くありたらば、なんと愉快ではござらぬか。当国報徳社中おいおいあい増し、大いに盛んなる事に相成り、歴々の衆中、たんと見えます。この社中奮発致したなら、どのようなる善行もできるわけでござるから、愛国の御教則にちゃんと相叶い、めでたき事の上なし、よって、報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に、大先生仰せおかれ、自他の宝、実に大切の場合でござる。
2026.09.02
黒酢を含む「酢」は、食事と一緒に適量をとると、食後血糖値の上昇をゆるやかにする可能性があると報告されています。黒酢・酢と血糖値の関係酢に含まれる酢酸は、糖質の消化・吸収を遅らせ、食後血糖の上昇を抑える作用が報告されています。複数研究をまとめた解析でも、日常的な酢の摂取が、2型糖尿病患者の空腹時血糖やHbA1cの改善に一定の寄与をする可能性が示されています。黒酢も酢酸を含むため、一般の食酢と同様に食後血糖への影響が期待されますが、黒酢「だけ」の特別な効果を示す決定的データは限られます。血圧を下げる効果黒酢には、高血圧の人の血圧を下げる効果があります。黒酢には、血圧上昇に関わる「アンジオテンシン変換酵素(ACE)」を阻害する物質が含まれます。ACE阻害物質の作用により、血圧が高めの人が黒酢を継続的に摂取すると、収縮期血圧が低下したという研究報告もあります。
2026.09.01
報徳参会説話 故岡田無息軒翁(現代語訳の試み)大日本報徳学友会報第二十回二頁報徳参会説話 故岡田無息軒翁本年(明治9年)2月11日常会の折に、誠をもって陰陽の働きをほどよく制し、世のため国のため人のためと、家職を精勤したいものですと、説話に及びました。この「ほどよい」ということは、世間のすべてにおいて善とすることで、万事よくいたしたいものです。 中道の中の意味は、また竹の節をほどよいと申しまして、古人も竹を愛しております。竹のふしは、本がしげり、中程が延びて、末はまた繁り、しまってはのび、しまってはのび、太さや細さに随って、善い加減に生じたものです。一年の季節も、節分とか正月の節とか、決まった節といい、竹のふしという字を用いて、人の世もこのとおりです。日曜日に休むとか、暮に遣り取りをしまうとか、節を立てるために、しだらくにならず、節なしという事は必ずないのです。陰にしまり、陽にのび、固すぎてもいかず、のびすぎてもいかず、陰陽の理は、ケシ一粒から、九天の外までも同じ訳で、いたって広い事ですから、学校へ入り、幼年から修行したならば、その理を極めるのでしょうが、差し当り急務とするところは、人の世の立ち行く道の、ご相談が肝要です。大先生(二宮尊徳)のご教諭、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と仰せられました。誠という意味は、うそのない事で、誠を離れては、何事もゆきません。しかしながら世の中は種々、いずれが先、いずれが後と、先後終始わかりませんが、先生「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と申されました。この御文は分度を立てると申す一句は、道の本体で至極大事です。これがすなわち人の世が盛んになる土台であって、正業はどうかというに、家政調べを行なって、家の分をわきまえるです。十俵を収入の家が、十二俵で暮らすと、二俵のうそとなり、誠ではありません。百円の収入の者が、百二十円で暮らすならば、二十円のうそ、そのうそが積もってしまうと分散し退転する、この所へ誠をしっかりと用いたいものです。古人は、徳満と名付けています、まん丸い水を入れる器を製作し、水をいっぱい入れると、その器はくつがえり、八分ではちゃんとしています。満ちれば、くつがえるというたとえる教訓です、この理は古今言われる事で、珍しくはない事ですがそのとおりです。ですから十俵を収入の者が、八俵で暮らすのが誠の至極であるということを、大先生が分内の図をもってご教訓なされました、十俵の収入の者は五俵、百両の収入の者は五十両で暮して、何でも半分で暮して、半分は譲らなければならないと仰せられました。また中道が分度に止まるというご教訓でするが、この中と申す意義は、かたかたよらず、かたよらず、ちょうどほどよい事です。中とは古人も難しいとする所です、なぜかというと、一尺のまん中は、これは中には相違ありません。物によってかたよってて中になりますので、中は容易には得がたいのです。大先生のご理解には、ナスを作って五つもなったら、まず三つも取り、そして肥しをやるべきだ。霜の降るまでナスがなる、この理は間違いないぞとおっしゃられました。五つなったら、きっと三つとれとはおっしゃいません、まず三つとおっしゃいました。三つ取ることも、二つとることもあり、そのほどを見てとる事であるので、きっといくつと決まった事はない。朝と晩とは違う、この中道のご理解は生き生きとして、古今未曾有、誠に極妙です。このご理解に基づいて分度を立てると財宝が余り、身体は必ずよくなるですが、身体さえよくなれば、よいとばかり決定しては、心得違いとなります。積善がなければわざわいが来ます。災害が来ると、何ほど大きな身代も水の泡となるのです。積善は誠です。ですから積善がなければ人に生まれたる甲斐はないのです。積善の第一は譲りです。農家は作物の肥料、作工は素人の及ばない所へ念を入れ、家を手がたく作り、商家は正直にし、世界の融通をよく付けて、相互に譲り助け合う、それにてよろしいようですが、病難火難水難そのほか不慮の天災はのがれがたく、貧窮に陥るものも多いのです、この貧窮は人事の大患です。貧乏にせまられると本性の人心をくらまして、悪念を生じ悪事をかもして、五倫の道を守らないようになり、この上もない皇国に生れて、有り難いという事を思わず、恐るべき事です。この大きな憂いを救う仕法を窮民撫育と申して、報徳善行のまっ先です。ですから社を結んで分度外に報徳善種金を積み立てて、これを種として社中はもちろん、国に貧窮のものがないように致す仕法です。ことわざに棒ほど願えば針ほど叶うと、往々、貧窮の者が無くなったら、なんと愉快ではございませんか。当国報徳社中も次第に増えて、大いに盛んなる事となって、歴々のなかまの衆も、たくさん見えます。この社中が奮発したならば、どのような善行もできるわけですから、愛国のご教則にちゃんと叶って、めでたい事はこの上ないことです。よって、報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に、大先生がおっしゃられ、自他の宝は、実に大切の場合です。💛実に素晴らしい報徳の教えである!!大日本報徳学友会報第二十回二頁報徳参会説話 故岡田無息軒翁本年(明治九年)二月十一日常会の節、誠を以て陰陽の働きを程よく制し、世のため国のため人のためと、家職を精勤いたしたきと、説話に及びましたが、これ程よいという一義、世上一統善とする事にて、物ごとよくいたしたきものでござる。中道の中の意味、また竹の節を程よいと申して、古人も竹を愛したまいしなり。竹のふしは、本しげく、中程延び、末また繁く、しまりてはのび、しまりてはのび、太さ細さに随い、善き加減に生じたるものにして、一年の季節も、節分とか正月の節とか、ききめ節と唱え、竹のふしという字を用い、人の世もこのとおり、日曜に休むとか、暮に取り遣りをしまうとか、節を立てるゆえ、しだらくにならず、節なしという事必ずないでござる。陰にしまり陽にのび、固すぎていかず、のびすぎていかず、陰陽の理は、ケシ一粒より、九天の外までも同じ訳にて、至って広い事ゆえ、学校へ入り、幼年より修行いたしたならば、その理を極むるでもござろうが、差当り急務とするところ、人の世の立ち行く道の、ご相談肝要なり。大先生(二宮尊徳)ご教諭、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と仰せおかれ、誠と申す義は、うそのなき事にて、誠が離れては、何事もゆきませぬ。さりながら世の中種々、いずれが先いずれが後と、先後終始わかりませんが、先生「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と、この御文は分度を立つると申す一句、道の本体にて至極大事、これすなわち人の世の盛んになる土台にて、正業いかんというに、家政調べを以て、家の分をわきまえるでござる。十俵徳の家、十二俵にて暮らす、二俵のうそ、誠ではござらぬ。百円徳のもの、百二十円にて暮らす、二十円のうそ、そのうそが積もると分散退転、この所へ誠をしかと用いたきものでござる。古人、徳満と名付けたる、まん丸き水を入れる器を製し、水をいっぱい入れると、その器くつがえり、八分にてはちゃんと致しおりまする。満ちればくつがえると申すたとえの教訓、この理は古今沙汰致す事にて、珍しからぬ事なれどもそのとおり、然れば十俵徳のもの、八俵にて暮らすが誠の至極の場合、大先生分内の図をもってご教訓、十俵徳は五俵、百両は五十両にて暮し、何でも半分にて暮し、半分は譲るべしと仰せおかれ、また中道の分度に止まるとのご教訓でござるが、この中と申す義は、かたかたよらず、かたよらず、至極程よい事、中は古人も難(かた)しとする所、なぜなれば、一尺のまん中、これは中には相違なし。物によりてかたよりて中になりますれば、中には容易に得がたし。大先生ご理解、ナスを作り五つもなったら、まず三つも取り、そして肥しをやるべし。霜の降るまでなる、この理は間違いないぞと仰せられたり。五つなったら、きっと三つとれとは仰せられぬ、まず三つと仰せられたり。三つ取るのも二つとるのもあり、その程を見てとる事ゆえに、きっといくつ決まりたる事なし。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきして、古今未曾有、誠に極妙なり。このご理解に基づき分度を立つると財宝余り、身体は必ずよくなるでござるが、身体さえよくなれば、よしとばかり決定いたしては、心得違いとなります。積善がなければわざわいが来ります。災害が来ると、何程大身代も水の泡となるでござる。積善は誠なり。故に積善がなければ人に生まれたる甲斐はないでござる。積善の第一は譲りなり。農家は作物の肥料、作工は素人の及ばざる所へ念を入れ、家を手がたく作り、商家は正直に致し、世界の融通をよく付け、相互に譲り助け合う、それにてよろしきなれども、病難火難水難そのほか不慮の天災のがれがたく、貧窮に陥るものも多いでござるが、この貧窮は人事の大患でござる。貧にせまると本性の人心をくらまし、悪念を生じ悪事をかもし、五倫の道を守らざるようになり、上もなき皇国に生れて、有り難いという事を思わず、恐るべき事でござる。この大いなるうれいを救う仕法を窮民撫育と申して、報徳善行のまっ先なり。故に社を結んで分度外に報徳善種金を積み立て、これを種として社中はもちろん、国に貧窮のものこれなきように致す仕法でござる。諺に棒ほど願えば針ほど叶うと、往々貧窮ものこれ無くありたらば、なんと愉快ではござらぬか。当国報徳社中おいおいあい増し、大いに盛んなる事に相成り、歴々の衆中、たんと見えます。この社中奮発致したなら、どのようなる善行もできるわけでござるから、愛国の御教則にちゃんと相叶い、めでたき事の上なし、よって、報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に、大先生仰せおかれ、自他の宝、実に大切の場合でござる。
2026.09.01
「報徳記を読む第四集」の序文に代えて『報徳記を読む第四集』は、『報徳記』の巻の六から巻の八を収録します。報徳仕法のうち、下館仕法、相馬仕法、日光仕法という、報徳仕法の集大成です。報徳仕法とは「荒地は荒地の力にて起こす」という荒地開発法と「借財は借財の利息等の費えを以て元金返済に向ける」という借金返済法にあります。(全集第二五巻六四頁)下館仕法の特徴は、借金返済のため天保十年一~八月分の経常費を桜町、御用商人、石川本家の無利息金で立替、高利の元金を返済し、また藩士の俸禄の二割八分削減により、藩財政を無借金にしようということにありました。しかし大坂加番による経費増大や藩士が三割近い減俸に難色を示し、藩主も減俸を撤回するなど、財政緊縮を実施できず、新たな借財を行うなど混迷しました。本集に載録した「下館談話記」はその経緯をよく示すとともに、『報徳記』にはない我が子を結婚させてやれないという金次郎の人間的な苦悩も示され、『報徳記』の成立を考える上で興味深いものです。相馬仕法は『報徳記』の中心となるもので、最後まで当初立てた分度を守り成功した仕法です。『報徳記』では、相馬藩と他藩の仕法における、藩主と家老(草野、池田)・仕法責任者(富田)の至誠が対照的に描かれます。尊徳は一藩仕法の重なる失敗から、「興国安民は主者の道である」(「報徳論」)の主張を強めました。大藤修氏はその著『二宮尊徳』において、下館藩の奥津小一郎の「上々の者が趣法を守り、誠の徳を以て窮民を救うならば、国家が永久に治まる大道になるが、趣法を守らない時は国民は乱れる」を指摘し、領主階級が金次郎の仕法を忌避したのは厳しい財政緊縮の他に「領民が反乱を起こしかねない契機を内在させていた」ことにあるとされています。(『二宮尊徳』二三七頁) 幕府領仕法は当初新法(報徳仕法)に反対する役人の抵抗にあい嘉永元年まで五年以上停滞します。金次郎はその間、標準仕法マニュアルといえる「日光仕法雛形」六四巻を作成しますが、弘化三年には小田原藩が仕法を廃止し、領民との接触を禁じ、金次郎は一時は諸藩の仕法の指導の中止も考えます。嘉永六年二月十三日「日光御神領興復」の命を受け、相馬藩からの仕法資金推譲も得て、順調に進みますが、安政三年十月二〇日六九歳で死去します。『報徳記』は、著者富田高慶の入門以前と入門以後で性格が異なります。入門以前は、聞書きや記録による記述で、「例言」で、幼年時代は「村民の口碑かつ伝聞」で「誤聞でないことを保証できない」とし、一藩仕法については「私がいまだ先生に入門以前のことは目視していないために、先後順序を誤っているかもしれない」とし、後日の研究を待ちたいと記します。富田は相馬藩出身でその財政を復興する志願を立て、江戸へ出て学びましたが目的を果たせず苦悩していました。たまたま桜町で三村の復興に功績を挙げている金次郎の話を聞き、相馬藩江戸家老草野の添書をもって、天保十年(一八三九)六月その門をたたき、九月入門を許されました。富田二十七歳の時です。一藩仕法のうち谷田部藩仕法は天保六年、烏山仕法は天保八年、下館仕法は天保九年発業していました。富田の最大関心事はいかにして相馬仕法を発業できるかでした。『報徳記』で一藩仕法の導入経過が詳しく記され、仕法指導者の在り方について記述が多いのは富田自身の関心がそこにあったからです。しかし天保十年十二月烏山藩は仕法を中絶し、仕法指導者の菅谷を追放します。天保十三年には谷田部藩との関係も断絶し、下館藩も分度が定まらず、仕法をめぐる情勢は厳しくなります。金次郎は一藩仕法の停滞・中断を踏まえ、容易に相馬仕法を認めません。「国を興し民を安んずるは分度を立てるにあり」「報徳は主者の道である」(『報徳論』)とし、分度を重視し、藩主など上に立つ者の決意と、藩全体が分度を守り抜くという同意を要求しました。天保十三年、金次郎は幕府の官僚となり、一藩仕法の指導中止を関係諸藩に通知します。幕府登用後、金次郎の不遇は長く続き、金次郎は仕法廃止を口にするほどでした。これは相馬藩にとって一大事であり、富田は幕府の要職に金次郎の人格の高潔や事業の功績を説いて回り、幕府領への仕法の発業を熱誠をこめて懇請します。その結果、天保十四年に谷田部藩を除いて藩仕法の指導は「相対にて苦しからず」という老中水野忠邦の指示を得、相馬藩も同八月二八日に金次郎の指導が認められます。金次郎は分度設定のため相馬藩に諸帳簿の提出を促し、同年一二月に相馬の「為政鑑土台帳」が完成します。金次郎が相馬の成田村に発業したのは、弘化二年(一八四五)十二月でした。仕法停滞期は「報徳の教義」が深まる上で、また『報徳記』形成の上で重要だったといえるようです。富田が『報徳記』の資料としたのは、入門以前の聞書きや入門後の記録であり、富田は金次郎の言動を忠実に記録に遺そうとしました。『報徳記』の文章の熱気を帯びた文体は、幕府登用後の不遇時代に富田が幕閣要職者に繰り返し説く中で、語り物として形成されたようです。その対象は儒教的教養を有する武士層であり、金次郎も武士道の鑑(かがみ)として聖人化され描かれます。内村鑑三が『代表的日本人』や『後世への最大遺物』で金次郎を称揚し、「『報徳記』は、実にバイブルを読む考えがいたします」と言うのは、富田が儒教的聖人、武士道的理想像として金次郎を描き出した(高級武士層が感動した話を載録した)からで、内村も理想化された尊徳像に共鳴したのです。『修身教授録』の森信三氏は、『報徳要典』に「これ正に古今に通ずる永遠の真理なり」と記し、日本大学内山稔教授は「尊徳の実践経済倫理」に「尊徳の生涯と事業、あるいはさらにその精神を知るには、彼の高弟富田高慶が熱誠をこめて綴った伝記『報徳記』にしくものはない」、「『報徳記』を読んで感動しない者は、たとえ他にどんなにたくさん解説書・研究書を読んでも、尊徳の精神、尊徳の事業を正しく理解することはできないし、その神髄に迫ることはできないであろう。」(一三九頁)と記しました。『報徳記』は、日本人にとって「バイブル」(聖典)といえます。江戸後期の儒教的教養の高級武士層が感動した要素が凝縮されています。新渡戸稲造の『武士道』が世界的ベストセラーになったように世界に通用する「永遠の真理」があります。内村鑑三は「代表的日本人」を読んだ欧米人が「もっとも驚嘆せしは二宮尊徳先生」と伝えます。(『予が見たる二宮尊徳翁』)明治後半に砂糖王と称された鈴木藤三郎は、報徳運動の盛んだった遠州の出身で、「荒地の力を以て荒地を開く」(収益を資本に再投資し事業を発展させる)を、当初五年計画で家業の菓子業に適用し、五年後に売上げが十倍、資本金が五倍となり、「荒地の力を以て荒地を開くという主義は、どんな事業にも応用ができる、天下これによって起らない事業はないという尊徳先生の教えは一点の疑いはない」と信じました。(「報徳実業論」)報徳は決して江戸時代の過去の遺物ではなく、単なる農業振興策でもありません。報徳は現代においても世界において適用できる真理があります。鈴木藤三郎は報徳が近代資本主義に適用できることを、その一生を通じて証明し、「願文」で「報徳の教えは東洋西洋を論ぜず、人種・宗教を問わず世界に生存する人類が貴賤、貧富、男女、老幼の別なく順守しなければならない大切な教え」だとし、「人類必至の要道である報徳の教義が広く天下に普及し真正な文明の実を見んことを」と願いました。『報徳記を読む』第四集の副題は「願文」に由来します。本会では、『報徳記』を「いつでも、どこでも、誰でも読めるものにしたい」と願い、全国の大学図書館・公共図書館に寄贈してきました。『報徳記』の全ルビ版と現代語訳を収めた『報徳記を読む』によって、「報徳の教えが広く世界に普及し真正な文明が実現する」ことを願って本集を刊行します。平成二八年(二〇一六年)八月 編者
2026.09.01
全56件 (56件中 1-50件目)