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2026.09.07
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カテゴリ: 内村鑑三
札幌農学校教授・宮部金吾 その5

八 東京英語学校(二六頁)
 明治7年3月東京外国語学校英語科の試験を受けて合格し、最下級なる英語学下等六級の丁組に編入された。学校は神田一ツ橋に在って、現在の学士会館前に当り、元の商科大学敷地内に位置していた。この外国語学校の英語学の部門はその年の一二月に分離して東京英語学校となり。旧校舎の筋向いの榊原邸に移った。その敷地は開成学校(後の東京大学)の敷地の隣接地である。東京英語学校は明治一〇年に廃せられ、大学予備門に変った。英語学校の教育方針は全部英語のいわゆる正則主義で、教師は英米人が主となり、下級には邦人が加わり、最下級は邦人のみで担当した。英語学校の学級は一級から六級にわかれ、一級から三級までは一組、四級は甲乙の二組、五級は甲乙丙の三組、六級は甲乙丙丁の四組から成っていた。最下級六級の丁組を振り出しに、各級担任教員監督指導のもとに、毎月もしくは二、三か月ごとに小試験が行われ、その成績の優良なものは抜擢進級させる制度であった。私は入学当時は、六級の丁組にいたが、同年五月には級のもの四、五名と共に丙組に進級、六月には乙組に、九月には甲組に、同月重ねて五級の丙組に、一一月には五級の乙組に、翌八年の三月には五級の甲組に、七月には四級の乙組に、一〇月には四級の甲組に、更に翌九年の三月には三級に、九月には二級に、一〇年の三月には一級に進んだ。このようにほとんど試験のたびごとに進級を続けた。入学当時、同校に在学していた札幌に関係のある士、または知名の士を、明治七年三月発行の「東京外国語学校官員並生徒一覧」により、その若干を採録してみよう。
下等一級―伊藤鏗太郎(札幌農学校第二期生)、柳壮蔵(北大医学部柳教授の厳父)、真崎健 吉(北大医学部真崎教授の厳父)下等二級―橋口文蔵(札幌農学校長をした人)、飯島魁、下等三級―中島信之(札幌農学校第一期生)、藤田四郎(藤田九三郎氏の弟、元農商務次官)、加藤高明、下等四級―末松謙澄、野村龍太郎(工学博士)、内村鑑三、下等五級甲組―土方寧、下等六級甲組―田中館愛橘、下等六級乙組―石川千代松、下等六級丙組―広井勇(札幌農学校第二期生)、下等六級丁組―宮部金吾(札幌農学校第二期生)
この頃を考えると、教育の制度がちょうど一つの大きな過渡時代にあったように思う。生徒は多く東京で正則教授をしていた神田の共立学校からか、横浜の高嶋学校から入って来た。一級全科目を通じ一外人が算術、読み方、綴り方、地理、歴史等皆英語の教科書を使用してこれを担当していたが、明治九年頃には漢学が課程の中に加わった。また翻訳の組も出来た。私がやったのは、MurryのPhysical Geographyで、二月位で卒業と認められた。この組の受持は教諭下条幸次郎氏であった。教師についての思い出は散漫になっているが、その二、三を記してみよう。六級の頃にポート(POAT)がいた。彼は歯医者志望の英人で、米国遊学の途中日本に立ち寄っていたものである。私の前歯二本が虫歯になっているのを見て、直してやるから来るようにと誘われたまま、彼を訪問した所、前歯の穴にゴムを埋めてくれた。一通りの治療器具が揃っていて、それが美しく清潔に見えた。五級の甲組にいた時はマッカーサー(MACARTHUR)という酒飲みの英人がいた。商人あがりらしく、数学も加減乗徐くらいしか判らなかった。彼は生徒をよくかわいがり、しばしば生徒に遊びに来ないかと誘いかけた。私は級友と共にそこに算術を教わりに行き、分数のことを聞いたら、「分数?そんなことは判らないさ」と平然と答えた。四級の甲組に進んだ時にはマイヤー(MEYER)というフランス人の太った教師がおり、彼は私の試験点等評に“A good hard working boy”「宮部君は頗る出精なり」との評を与えてくれた。四級を終った時、彼を中心として撮った記念写真が今私の手許に残っている。その中には穂積八束(後年法学博士、東大教授)、近藤仙太郎(後年工学博士)、松田武一郎(後年工学博士)、伊藤悌蔵(後年控訴院判事)、市嶋謙吉(後年早稲田大学教授)、梅岩誠太郎(後年早稲田大学予科教授)、高木甚平、横井左久、内藤信一郎、鶴見次昌、曾我鼎三郎、山田義容に諸氏がいる。三級の時の教師のフェントン(FENTON)はイギリス人で昆虫学者だった。私が札幌に来た翌年石川千代松君を助手として札幌に蝶類の採集にやって来たことがある。二級の時の教師レーシー(LECEY)はアメリカ人である。彼は金星が太陽の前を通過した時の観測班に加わって来たまま、居残って教師となったので、数学が得意であり、また音楽にも趣味を持っていた。彼は私の点等標に“A model pupil, would make a fine teacher of Arithmetic”なる評をくれた。一級の教師はスコット(Scott)という米国の教育家で、英作文を教えることが非常に巧みであった。この組に入ってから英作文の上達は飛躍的であったと思われ、それが非常に後年のためになった。スコットは後ハワイの中学校長になっていた。一級の時の同級生中には後年有名になった人も少なくなかった。その中でも抜群なのは穂積八束君や酒井佐保君であろう。穂積君は級中での秀才で、特に同君の英作文は卓越したものであった。同級生の奇才として根岸錬次郎君がいる。同君は長岡藩士であり、河井継之助や森源三氏の一族であって非常な論客であった。ある時スコット教師はアメリカ人は一般に発音(pronunciation)が良くないがケンタッキー人は正しい。自分はケンタッキー州の産であると言うや否や、根岸君は直ちに“Yes, your pronunciation is very clear” と大音で誉めたので、スコット教師は赤面し、級友一同どっと爆笑した。同君は永らく日本郵船会社のロンドン支店長をしていた。戦前ロンドンを非常に親しみ「おらが村」と呼んでいた。この英語学校時代は母の膝下で全く勉学に専念した。学校は一時の油断も許さぬ進級試験制度であったので、夜はうす暗いランプの下で一一時過ぎまで勉強し、時には深更に及んだ。このために視力を弱めた。勉学に急がしかったから交友も少なく、多くは御徒町方面から通う連中と往復を共にした位のものであるが、一級上の高田早苗君とは家の近かったため特に親交があり、同君とは竹馬の交を深くし、時には上野の山を散歩し、球投げに仲間の四人高田早苗、梅若誠太郎、伊藤悌蔵の三君と私で撮影した記念写真が残っている。高田君は当時御徒町三丁目にあった母堂の令弟にあたる富田冬三氏の家に身を寄せていた。富田氏は後年農商務省の商工局長まで勤めた人で、旧幕時代から幕命を帯びて洋行をし、また維新になってからも二、三度西洋へ赴き、岩倉大使の欧米巡遊に際しては随伴したという経歴があって時勢に通じていた。いつも高田君に向かって、「何でもこれからは英語を学び、まず世界の大勢に通じなくてはならぬ」と教えていた。高田君と共に富田氏方に世話になっていた梅若誠太郎君は私と同級であった関係から親しく交わった。同君はのち文学士となり、宮城県書記官を勤め更に早稲田大学予科の教授となられた。なお球投げの仲間の一人伊藤悌蔵君は、私と同級で学校の往復によく一緒になった。同君は法学部を卒業され後大審院の判事になった。





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最終更新日  2026.09.07 12:00:05


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