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2025.11.26
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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「報徳物語」抜粋

序(現代語訳)

この遺書はすなわち尊徳が満身の熱血をそそいだ痕跡として、その子孫である私の深く感激し愛蔵する所である。
幸いに志のある人や仁の心ある人がこれをひもとくならば、きっと世の利益に貢献する所があろう。
尊徳の泉下の霊もまた心安らかに目を閉じるであろう。
このため更にその謄本を別の所に所蔵して、たとえ非常の災いがあっても原本、写本どちらかその一つをを永遠に保存し、民衆が観覧する参考する利便を失わないことを望んできたが、いまだ果すことができないことを残念に思っていた。
こうして何年もたったが、遠江(とおとおみ)の人、鈴木藤三郎氏は以前から深く尊徳の遺教を信じ、これを工業に応用して成功するもの、一つだけにとどまたず、また常に最も遺教の普及に努められている。
氏はたまたま、彼の遺書があるを聞き知って大変喜んですぐにその謄本を野州今市の報徳二宮神社の境内に実際に所蔵し、一つには保存上の固く安全にすることをはかり、一つには志のある人の研究の材料に供しようとし、すなわち原書を謄写する承諾を私に求めた。
私は喜んでこれを承諾した。
それから三年を期して本年本月に謄写が終了し、全部で九千巻を二千五百冊として、既に築造していた文庫に納めた。
ああ私の永年の希望がここに始めて達することができ、永く世の志のある人の研究に資することができた。
こんなに喜ばしいことはない。
深く氏の篤志に感動し、いささか思うところをしるして序とするところである。
明治戊申(つちのえさる)初冬                
二宮尊親しるす。

報徳全書謄本事略
二宮尊徳先生の世に在るや一意至誠、興国安民の事業に慎みかしこまって力を尽くし日もまた足らずとされた。その麗しく立派な徳は良法の恵みによって地を開き生産を増やし、その風俗を変えて人民の生活を安らかにするものは枚挙して数えることができない。そしてその教義で人民の救済に関する書類は積んで棟にみち、今なお厳存している。ああ、この書はこれ皆先生の涙と血との結晶したものであって二宮家の子孫は一つにはこれを霊宝として受け継ぎ収蔵し、また他方では報徳学の研究の良師として尊重するところである。報徳社徒鈴木藤三郎君はまた常に先生の遺教を拡張して、国家の元気を発揮しようと望んで、熱心に努め励んで多年努力している。明治38年11月二宮尊徳先生の五十回忌に野州今市の報徳二宮神社において大祭典を行うに当って、遠近諸州の信徒で来拝する者はほぼ3万人。鈴木君もまた来拝して石造の大きな鳥居1基、神饌所1棟及び境内に檜の木を若干寄付し、まさに去ろうとするときに、たまたま二宮先生が終生心血をそそがれた遺書おおよそ1万巻が二宮家に収蔵されていると聞いて躍りあがって喜ぶことただならず、すぐに決断して、神社の境内に報徳文庫を建造して遺書の謄本を宝蔵し、永久の保存及び教義研究の両益を挙げようとし、すなわち令孫尊親先生にその承諾を乞い、文庫建築の指揮はこれを今市の篤志家に託し去年既に落成して謄写完成の期を待った。そして謄写の指揮監督は相馬の同志者に託して明治39年1月事業について今年今月完成を告げた。全部で9,014巻を2,500冊とし、236帙(チツ:和本を包んで保存する装具)に収めて今市に輸送して鈴木君に渡すことができた。文庫の建築及び謄本一切の費用はおおよそ7,000円である。相馬の地は元来東のはての辺境にあって用務に便利ではなく、用紙は遠く駿河に仰いで、筆生は4,5里内外から招いて、製本職工は仙台に、書冊の表紙は東京に求めた。そのためにおのずから成功するのに長い歳月を費やし、したがって多額の費用を必要としたのもまた止むを得なかった。しかし事業に要した家屋倉庫及び諸什器等はすべて相馬子爵の好意によって3年間無償で借用することができたのは不便中の便であって、その厚意には実に感激するところである。ここに謄本に関する顛末をおおよそ叙述して後の人の指摘にまつ。そもそも先生の遺書は先生の涙血の結晶であることはもとよりである。しかもこの結晶を溶解しなければ人道の世益に活用することが難しい。これを溶解活用するものは果して誰か。すなわちまた熱誠な人の涙血にまたざるをえない。将来有志の士が先生の神前にぬかずいてその清澄な頭脳とその堅実な信念とをもって先生の足跡というべき遺書をひもといて先生はどのような教旨によって人々を救済しようとしたか、その熱涙熱血のそそぐ所はどのように感化を与えたか。そしてどのように人道・世益に貢献したかを反復研究して感奮興起し、涙があふれ血が沸きたつような報徳的活動が各地に勃興するようになれば、すなわち次第に人民は勤労に励み、物産は増殖し、まごころ厚く推譲の徳風が行われ、ついに先生のいわゆる真楽国の実現を見るに至るであろう。想うに鈴木君の文庫を神社境内に建設する趣旨もまたここに存するであろう。ああ、なんという善いことであろうか。
 明治41年11月  磐州相馬中村 報徳社徒 大槻吉直花押

※日光神領仕法後の動き(その3) (「いまいち一円会 通信151号」所収」)
「今回は、関係する史料を紹介してみたい。 A家に保管されていた史料に「今昔談全」根本源庫 七十七才紀年 と表紙に書かれている史料がある。その一部に次の記録がある。
『明治弐拾七年四月ヨリ有志ノ寄付六千有余金ヲ以テ
 八百十一番地ニ反別六反七畝歩余ニ二宮神社新設セリ
               町長原田照宣氏勤役中
  二宮神社倉庫   千五拾円
  鳥居ハ      七百二十円
  御供所      弐百参拾円
  宝物弐千五百部  雑費共合計金八千六百円圓也
             寄付人東京市住人
                      鈴木藤三郎氏』
根本源庫は、二宮神社創建を最初に提案(明治14年)した人物。「今昔談全」として自筆で年表形式にまとめてある。
 今市報徳ニ宮神社建設工事着工は、明治28年9月とされている。その前年からの「有志の寄附六千有余金」で社殿建築に着工したということだろう。
 「宝物弐千五百部」とは『報徳全書』のことである。この報徳全書について、「八十年祭記念」と銘うって、昭和十一年に今市町農会(会長平野喜一)が発行した「二宮先生遺跡案内」には、次のように記されている。
「報徳全書」
 遠州の人鈴木藤三郎(当時東京市深川区小名木砂村に居住)先生の遺徳を追慕し、明治四十二年五月この文庫を建造し、先生の遺著、二宮家に存するもの全部を謄写して茲に蔵む。其数九千余巻、二千五百冊其費用約三万円を要したりと、(中略)
鈴木藤三郎は遠州の人にして熱心なる報徳社の社員なりけるが、翁の五十年祭に参列の為め、今市の地に来たり翁の遺書無慮一萬巻、二宮家に蔵せられるを聞き、大いに喜び、当社境内に報徳文庫を建造し、右の遺書を謄写して之を永久に保存し、兼ねて教義研究の利益に資せんことを企て、先ず翁の嫡孫たる尊親氏に謀りて其允諾を得、謄写の大事業は原本の所在地相馬に於いて之を行ふ、筆生二十余人を以て明治三十九年一月開始し、同四十一年十一月成功、全部で約九千十四巻、之を二千五百冊に収め二百三十六冊に合綴して此地に送り、文庫の創設竣るや之に納む、この時明治四十二年五月三十日、而して之に要せし費用約七千圓は悉く鈴木氏に於いて之を負担し、当社に之を寄附したるものである。(後略)
今市町農会が発行した「八十年祭記念二宮先生遺跡案内」は、九十三頁の労作であり、現在平野家(平野博)に一冊有るだけの貴重本である。それにしても、鈴木藤三郎の寄付金はすごい。現在の貨幣に概算すると二億円とか三億円になるかもしれない。」

<鈴木藤三郎の報徳に関する講演録一覧明治39年~41年>
「報徳実業論」(「斯民」第1編第1号 明治39年4月26日)
「荒地開発主義の実行」(「斯民」第1編第9号 明治39年12月23日)
「職務本位」(「斯民」第2編第7号 明治40年10月7日) 
「実用的の悟道」(「報徳の研究」)           
「報徳の精神」(「斯民」第2編第10号 明治41年1月7日)
「一意専心主義」(「斯民」第3編第5号 明治41年7月7日) 
「分度推譲論」(「明石講演集」)            
「報徳と実業」(明治41年8月4,5日京都「報徳講演集」)
「報徳実践談」(明治41年12月18日、船井蚕業同士会総会)






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最終更新日  2025.11.26 05:40:04


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