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2025.12.02
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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この明治41年(1908年)は、藤三郎の幸運の絶頂であった。発明家として、信念を持った事業家として、一代の成功者として、また、この先どれだけ伸びるか、予測もできないほどに多幸な前途をもった実業家として、53歳の藤三郎は、世間から驚異の眼で仰がれていた。実業雑誌は争って、彼の談話筆記や逸話をのせた。当時、実業之日本社は『余の最も好む実業家』という題目のもと、一般から投稿を募集したところ、応募原稿が1,329篇で、この実業家の数が116人のうち、森村市左衛門の175篇、渋沢栄一の137篇に次いで、藤三郎は第3位の113篇を得ている。これに続いての編数は、荘田平五郎72,武藤山治58,服部金太郎45,岩崎久弥39、小林富次郎37、金原明善28、中野武営26、益田孝21という順位であったと、同誌7月15日号で発表している。これで、日露戦役の直後に活躍もし、また世人からも実業家として信頼されていた人々が、誰々であったかを知ることができるのは、興味あることである。
藤三郎に対して多大の好感を持ったのは、一般世人ばかりではなく、当時の東京商業会議所会頭中野武宮もまた、その一人であった。彼は、「余の観(み)たる実業界に傑出せる二人物」(『実業之日本』明治41年7月1日号)と題して、「森村市左衛門と鈴木藤三郎の二人は、人格の上から見てもわが国の実業の発達―前者は海外貿易に、後者は機械の発明と糖業に対する功績から見ても、当然授爵の恩命に浴する資格がある」とまで激賞した。
藤三郎は、明治35年(1902年)に静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いたころから、東京の屋敷内にも馬場を設けて、常に3,4頭の馬を飼って、朝の運動にはもちろんだが、市内へ出かけるにもたいていは乗馬だった。まだ自動車は、ごく少数の個人が所有しているだけで、乗物としては、馬車か人力車が一般に用いられていた時代であったから、これは実用的にも好都合であった。血色のよい肥満した体で、馬上ゆたかに小名木川岸を疾駆して行く藤三郎の姿は、まことに颯爽としたものであった。

※「熱と誠」-茶の精神を貫いて- 畠山一清著
日本橋の中洲に見越しの松の門構え、堂々たる別邸に、おしげさんが住むようになった。以来、鈴木社長は、毎朝7時の出勤まえに、その別邸をたずねることに相成る。肥馬にムチ打って、未明の5時に出かけ、お茶の1ぱいものんで、定刻の7時5分くらい前には必ず会社の門にはいる。
 私が小名木川の土手を歩いていると、よく朝がけの鈴木社長に出会ったものである。(略)
足かけ5年のサラリーマン生活だった。顧みれば、喜びも苦しみもかずかずあった。ただはっきりいえることは、鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を身をもって実践し、がんばってきたということだった。





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最終更新日  2025.12.02 05:00:07


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