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2025.12.04
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その22

  菩提を究尽(ぐうじん)するの修証なり。公案現成(げんじょう)羅籠(らもう)未だ到らず
菩提というのは道ということであり、実のごとく自分を知るということで、自分自身というものになりきることである。「究尽するの修証」というのはそのことである。そうして煩悩のとりこになっていない自己にゆきあたることである。それにはただ坐禅あるのみである。「行く先に我が家ありけりかたつむり」という句があるが、坐禅が飯を食い、坐禅が起き、坐禅が寝、坐禅が生活するのである。(『禅談』p.336-337)

  若し此の意を得ば、龍の水を得るが如く虎の山に靠(よ)るに似たり。当に知るべし。正法自ら現前して、昏散先ず撲落することを
 これは何ということであるかというと、本当に自己にゆきあたることである。つまり坐
禅をして本当の自分になりきる。そうすれば「龍の水を得るが如く虎の山に靠るに似たり」である。ふだんは人からほめられた時とか、あるいは人から謗られた時とか、その時、その場所によっていろいろな自分があるのである。
 シナの諺に「倭子(わし)戯(げ)を見る」というのがある。戯というのは浅草の観音様とか、名古屋の大須の観音、大阪ならば天王寺というようなところで、シナ人流に銅鑼をたたいていろいろの芸をやるやつである。それにまっくろになるほど人がたかっている。倭子は丈が低いものだから、前の者の影になって見えない。見えないのに前の者が笑うと、わはわはと、腹ごたえのない笑い方をしている。自分がおかしくって笑うのではない。群衆心理で笑うのである。ぱたぱた前のやつが手をたたく、これが倭子戯を見るということである。また、どこやらの議会には賛成議員というのがある。だれか賛成賛成というと、人気のありそうな方に賛成賛成といって集まる群衆心理である。お前もそうなら俺もそうだというわけである。
 坐禅はそれではない。本当の自己になりきる。本当の自己、澄み切った自己になりきる。これが坐禅の姿である。本当の自己、澄み切った自己になりきる。これが坐禅の姿である。むかし、道元禅師がシナの天童山というところにいっておられる時に、昼の御飯がすんで、食堂からお帰寮になる際―それは酷暑の炎天であったというがー一人の老僧が汗をふきながら、椎茸のカビの生えたのをムシロの上で干しておった。禅師は気の毒に思われて、礼を厚うして、「あなたはお幾つですか」と問われたら、腰を曲げて、はあはあ言いながら「68歳だ」という。そこでさらに「ご老体のあなたがご自分でなさらないでも、どなたか召使いをお使いになったらどうですか」といわれた。その時老僧は「他は是れ吾に非ず」といった。他人はわたしではないという。これは大変なことである。坐禅においては、まったく自己になりきるのである。本当の自分、他人と比較しない自分、自己に徹するのである。これを名付けて悟りという。しかし、それでもまだ道元禅師は「こんな暑いところでなされずとも、もっと涼しいところでなさってはいかがですか」と問われると、老僧答えて「ここが悪ければどこですか」とメいった。そこで道元禅師は「山僧忽ち休す」というておられる。飯炊きの和尚がこの禅機をもっている。そうすれば宗教は生活そのものであって、自分が自分になりきって自分の仕事を自分でもってして、本当の自分の職務を自分阿がやっている。ここが最も大切なことである。それは大小便が人にかわってもらえないのと同じことである。『参同契』に「万物(ばんぶつ)自ら功あり、当に用と処とを言うべし」とある。自己の天地に徹底する。自己の力いっぱいをつくすことである。





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最終更新日  2025.12.04 00:00:14


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