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おかーさんです!4月25日午後4時、帝王切開で無事に女の子を出産しました(^o^)2878グラム、ちょっと小ぶりですが元気な赤ちゃんですよ(*^_^*)今回は腰椎麻酔で意識があったので、ちゃんと産声を聞けたしご対面もできました。先生が、「チュウしてもいいよ」って言ったのでチュウもしちゃった(^-^)もともと前置胎盤で出血が多いことを予測していたので輸血もスタンバイしてあって、そのあとおかーさんは全身麻酔に切り替え。眠っていた間、先生達は大量の出血に手を尽くしてくださいました。前回の帝王切開跡に胎盤が癒着していて剥がすとさらに出血してしまうため、最後の手段で子宮を摘出。合計6000ccの出血だったそうで・・我ながら、よく生きていたもんだ、と思います(^o^)。胎盤の癒着は前もって診断することはできないけれど、前置胎盤でさらに前回帝王切開だと癒着している可能性があるそうで・・それも見越して準備していたそうです。先生達、ありがとうございました(^人^)出産はやはり命懸け。私の命も、赤ちゃんの命も無事だったことに本当に感謝です。いよいよ我が家に次女様がデビューしました。皆さんどうぞよろしく(^-^)/
2011年04月28日
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入院中のおかーさんです。点滴につながったまま、おとなしく寝てます〓。お腹の張りは落ち着いていて、あと二日で出産です(決まっている、というのは不思議な感覚!)〓もうすぐです。ここにきてひとつ問題が・・。赤ちゃんの名前、です〓さーちゃんの名前はおかーさんが考えたので、今回はおとーさんに一任してました。・・が、ギブアップのようです。おかーさんも寝ながら考えてますが、なかなかひらめきません・・土壇場でいい名前が浮かんできますように・・〓
2011年04月22日
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みなさん、こんにちはおかーさんです。実は一昨日から入院しています出産予定日は5月9日なのですが、前置胎盤のため二週間早い4月25日に帝王切開する予定なのです。ところが、お腹がよく張るようになり陣痛のように痛むため入院して張り止めの点滴をしています25日まで持たせて帝王切開ですさーちゃんのことが心配でしたが、ばーちゃんによると、ちゃんと早寝早起きして自分のことは自分でやり、頑張っているそう「おかーさんがいると甘えん坊だけど、大丈夫だよ」・・そう、さーちゃん、おかーさんがいると超甘えん坊だったので本当に心配でしたが・・やればできるのにねぇ最近は特にベタベタしていたから、やはり赤ちゃん返りでしょうかねそんなわけで、ブログの更新もしばらくできないな・・と思っていましたが、携帯で更新できることに気がつきました産まれたら写真も即日アップできるかな?ワクワクお楽しみに~
2011年04月16日
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こんにちは。さーちゃんです。震災の影響がまだまだ続いている世の中ね。こちらはほぼ元の生活ができているので、みなさん安心してね。4月に入って、いよいよ私も進級したわよ。ことしは「うさぎぐみ」。いよいよ年少さん。またひとつグレードアップするわよ。2日に入園式でした。まずはことしの入園式ファッション、ごらんくださーいどう?どう?お嬢様っぽい?この写真は先にマリオで撮影してたの。おかーさんったら、入園早撮りキャンペーンに乗せられちゃって・・おバカねぇ。服はネットで購入したんだって!ちょうど入園時期が近くなって安くなっていたとかで・・ちょっと大きめだけど、来年も着れるわね。今まではおとーさんおかーさんと一緒だったけど、「うさぎぐみ」以上は整列して椅子に座ってお話を聞いたりお名前を呼ばれてお返事したりするのよ。ちょっと緊張した面持ちの私。お名前を呼ばれて「はい!」やったわ、おとーさん。見てた?ちゃんと撮れた?やっほ~園で家族写真も撮ってくれたから、出来上がったらアップするわね・・え?そこまでいらない?そんなぁ・・・・・というわけで、うさぎくみ生活がスタート!だったんだけど・・・入園式の翌日から私ったらお熱出しちゃったのうかつだったわ。「りすぐみ」のときは1年間お熱で休んだことがなかった(はっきり言って自慢よ!)のに・・。1年ぶりのお熱ね。おかーさんは、4月から産休に入ったの。だから「おかーさんがお休みに入るのを待っていたようだわね・・」って。そうよ、お休み直前は、震災や引き継ぎで忙しそうだったもの、お熱のほうが遠慮したんじゃない?今日(7日)から保育園復帰してまーす。うさぎぐみのさーちゃんを、よろしくね~
2011年04月07日
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こんにちは。おかーさんです。震災後、ちょっとばかし不便な生活が続いていましたが、ここ1週間ほどでほぼ普通の生活に戻っています。震災の被害は、とうとう福島の原発事故にまで発展し、いったい全国で何人が避難生活をしてるんだろう・・。その中で、まず普通に暮らせていることに感謝です。3月末の土曜日に、スーパー2件はしごして食料品その他を買い、うちの野菜やお米と一緒におとーさんが日曜日釜石まで運んでくれました。釜石はまだ不便な生活のようですが、少しずつ、少しずつ、復旧している様子です。おとーさんが行ってくれて、様子が聞けて少し安心しました。何となく私の中でひと段落、といったところでしょうか。1日から産休に入り、とりあえず今までできなかった昼寝を毎日してやろうと目論んでいます。2日にさーちゃんの保育園の入園式(という名の進級式)がありました。震災の犠牲者へ黙とうをささげ(ありがたかったです)、そのときの園長先生のお話。今回の震災で保護者のみなさんもガソリン不足や物資不足、仕事、大変だったことと思います。こどもたちは、頑張っているお父さんお母さんの姿をちゃんと見ていて、将来親になったとき「お父さんお母さんはあのときこうしてくれた」と思い出すはずです。・・・被災地のお父さんお母さんたちに、この言葉を届けたいです。どう考えても異常な事態の中。子供たちは頑張っている親の姿をちゃんと、見てくれています。さて、震災後10日くらいは私も仕事にならず自宅待機の日が多く、さーちゃんも保育園を休んだのでじっくりと一緒にいることができました。おでかけもできず、不謹慎ではありますが「ちょっと、ヒマ」な日々でした。妙に時間がゆったりしていて、不思議な感覚でした。その期間の写真集です。まずは我が家の被害。床の間の壁が一部崩れました。これだけ。古い家って、丈夫!地震翌日。まだ電気が通っていません。ちょっとブレブレですが・・。必需品は反射式ストーブ!暖かいし、明るいよ。軽トラの荷台にはおとーさんが会社から持ってきた発電機。これでケータイの充電もできたしテレビも見れました。懐中電灯より明るいライトも点けることができました。おとーさん、かっこいいー。気分転換に近くのグランドを散歩。上空は自衛隊のヘリが飛び、グランドの周囲は近くのガソリンスタンドに並んだ車の行列がびっしり、でした。さーちゃんは木の枝を見つけ、「おばあしゃん・・」この人はおとーさんの弟。新幹線も高速も(もちろんガソリンも)ダメなので、東京から、飛行機が出るようになったら即「飛んで」来ました。我が家は古い農家の家。震災で実感したことは、「古い農家は、災害に強い!」その1・何でもあること。反射式ストーブも、避難所で使っているような大きなのが小屋にあるし、断水のときも水をためるものは野菜を洗ったりする大きな容器があったりして何でもありました。携帯ラジオもばーちゃんが毎日農作業の「友」にしているので探さなくてもOK。その2・食糧がある。米、味噌、野菜。そしてプロパンガスなので炊事には困らず。炊飯器もガスだったので困らず。すごい・・。その3・「いまだに水洗じゃない」地域のメリット。トイレに困らなかった。停電でも断水でも「流せなくて・・」ってことがない。思わずばーちゃんに私が言ったひとこと。「ばーちゃん、私、この家に嫁に来て、本当によかったわ・・」ばーちゃん「だべ?古いモノは悪くないんだよ。何でも今流行りにしてしまうとこういう時不便なもんだ。」いや、モノ的な(ハード)ことばかりでなく、人(ソフト)でもそう思ったよ。その1・職場の若い子がガソリン入手できず困っていて、ほぼ満タンだった私の車から抜き取ってあげようと思った時のこと。いまどきの車はガソリンを抜かれないようホース等が給油口から入らない構造らしく・・何か方法はないかとじーちゃんに相談したら、「うちの軽トラから抜いてけ。どうせ畑に行くしか使わねえよ。」・・分けてもらったガソリンのおかげで、その日開けているスタンドを探し給油できたそうです。その2・やはりおかーさんの職場の人が「お米が買えない・・」と困って、売ってくれないかと。ばーちゃんに相談すると「いーよー。10キロでも20キロでも。」・・太っ腹である。。その3・近所の人、親戚の人、用があってうちに来る人は必ず何かしら食料品を持ってきてくれる。おかげさまで、本当に食べるものには困らず。すごい助け合いだなぁ、と思いました。田舎の地域力って、すごい!それに、あせらず騒がず「そのうちガソリンも来るさー。モノも買えるようになるさー。」といった雰囲気。さすが、春までの長い冬をじっと待ってきた民族(?)。今回の震災で得たことは、本当に貴重で大きかったと思うおかーさんでした。
2011年04月04日
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東北関東大震災から3週間がたちました。今回の震災では、たくさんの人たちにご心配をいただきました。本当に、本当にありがとうございます。このブログにいつもあそびに来てくれているぽろんちゃん、遠い四国から、何かできること・・と心を砕いてくれました。さーちゃんの七五三の着物の直しをお願いした京都の着物職人さんも、お見舞いのメールをくださいました。温かい言葉が身にしみました。ネットで知り合えた、会ったこともない遠方の人たちが、とてもとても心配してくれていました。嬉しくて、涙が出ました。人の優しさを、これほど感じたことはありません。そして、被災地へ支援をくださった全国のみなさん、本当にありがとうございます。震災から3週間、盛岡は、普通の生活に戻っています。スーパーやコンビニは通常より物が少ないことは確かですが、だから「困る」というほどではないです。生鮮食品や野菜は普通に手に入るし、パンも入り始めました。節電でスーパーは電気が暗めだし音楽もかかっていなくて、通常より早い閉店時間だけど、同僚とは「何か昭和の頃みたいだよね~」なんて言っています。そして、ガソリン不足で自転車や歩行者が多くなり、日曜などは家族連れが手をつないで歩いていたり、どこか微笑ましいとまで思えてしまいます。そうか、今までの生活は確かに「便利」だけど、必ずしも「必要」というものでもなかったんだな・・これならこれで、十分暮らせているし困らないし・・と思いました。そして深刻だったガソリン不足は、ここ2~3日でガソリン供給が安定してきて、行列なしでスタンドで給油できるようになりました。タンクローリーをたくさん見かけるようになり、ほっとしているところです。良かった。今の盛岡はこんな感じです。みなさん、ご安心くださいね。ほぼ普通の生活ができています。余震はまだ毎日のようにあり、時々震度3や4の余震も感じますが、慣れてしまいました私が生まれ育ったのは釜石市。津波で大きな被害を受けました。最初に釜石の映像を見たとき、信じられない思いで、泣くしかありませんでした。家族や親せきの安否は3~4日たった頃に確認できました。釜石をはじめ、三陸沿岸は明治と昭和の大津波を経験しています。釜石には世界1としてギネスにも登録されている湾口防波堤、田老には日本一を自負する防潮堤がありました。今回の大津波は、湾口防波堤を破壊し、防潮堤を軽々と越えてしまっています。誰もが、学者さんさえもが想定できなかった規模。避難場所としていた場所までも津波に襲われました。そして日に日に大きくなる人的被害。死亡者はとうとう1万人を超えました。信じられない大災害です。家族を失った人、家を失った人、仕事を失った人・・私の産休代替えで2月末から来てくれていたOさんは、ご主人が陸前高田の出身。お母さんが一人で暮らしていたそうですが、いまだに安否の確認ができていません。震災後は仕事を休み1週間ほど捜索に行っていましたが、私の産休も間近だということもあり仕事に戻ってきました。一緒に仕事をする機会の多い包括支援センターのSさん。私と同じ釜石の出身。年齢は違いますが、卒業した学校が中学校高校大学と同じで、ローカルな話題でよくもりあがっていました。Sさんはお母さんがいまだに安否不明。それでも気丈に、普通に仕事をこなしています。出入りしている介護用品業者さんは、宮古市の支店が津波に襲われ、事務員さん一人いまだ行方不明。・・・直接被害にあっていない私たち盛岡の人たちも、つながりのある沿岸の大切な人を失ったり安否の確認ができずにいたりしています。ニュースで被災地の状況を見たりしていると、本当に心が痛くて。家族が無事だった私は、なんて幸せなんだろうと思います。これから岩手は、前を向いて一歩一歩進んで行かなければなりません。復興までは、長い長い時間がかかることでしょう。でも。三陸のキレイな海を、豊かな海を取り戻してほしい。沿岸地域の人々の生活を取り戻してほしい。全国からいただいているたくさんの支援とエールを力にして、がんばっていって欲しい。私もできる限りの応援をしたい・・*震災の記録、フリーページに載せてみました。少しずつまた書き足していきますね。
2011年04月01日
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