イベント・ショー 0
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早朝病院について、霊安室に安置された義母と対面した。眠っているような穏やかな顔だった。痛み止めの薬を使っていたので、苦しまずに眠るように亡くなったと言う。なるべく午前中に、遺体を運んでほしいので、葬儀社に頼んで欲しいと言う。それで、小さなお葬式の指定されたセレモニーホールへ行ったけれど、扉が閉まったまま。ここから突然のことで混乱してしまって、記憶がちょっとあいまい。小さなお葬式の人との電話だったのか、セレモニーホールの緊急電話だったのか、今朝亡くなったのでお世話になりたいと言うと、セレモニーホールが使えないので、予定が立てられるまで、自宅で安置させてほしいと言う。どうもセレモニーホールに、遺体を安置するところが無いらしい。小さなお葬式は、遠方の人たちの到着が遅かったら預かると言ってたけれど、安置所に空きがないような気配。敦賀の家は、数年前から水道が使えなくなって、私たちも行った時はいつもホテルに泊まっていたので、そこに運ぶわけにはいかない。私たちは、焦ってしまってとりあえず、他のセレモニーホールを探すことにした。早朝で閉まっているところもあって、2軒目だったと思う。アスピカホールと言うセレモニーホールは、女の人が対応してくれて、すぐに相談にのってくれた。2階の和室二間にダイニングキッチンが付いた部屋が、家族葬専門に使っていると部屋を見せてくれた。こじんまりと落ち着いた部屋。その人が、テキパキと、いろいろしなければならないことを教えてくれた。宗派は曹洞宗だけれど、2年前にお墓と仏壇を移して離檀したことを言うと、曹洞宗ではなく宗派にこだわらない僧侶の方がいいだろうと言う。お通夜もお葬式も俗名で行い、四十九日までに大阪で戒名を付けてもらった方がいいだろうと言うこと。それで、違う宗派の僧侶を頼んでくれた。遠方なので、明日のうちに帰られるように、火葬は明日の朝早くを頼みましょうと、死亡診断書を渡すと火葬許可書などの手続きをしてくれることになった。後のことは遺体を運んでから、打ち合わせをすることにした。病院に戻ると、義妹夫婦が来ていた。またアスピカホールに戻ると、義母がきれいなお布団に寝かされて、蠟燭が灯され、お線香がたかれていた。僧侶が来て、すぐに枕経をあげてくれた。明朝、朝9時半の火葬を予約してくれていた。それで、お通夜は午後4時から。葬儀は明朝8時から。祭壇の種類や、おくり湯や着物をどうするか聞かれた。壊死したところがあって、身体に包帯を巻いているところが多かったので、おくり湯は断わった。着物は、敦賀の家にまだ新しい着物が何着かあったので、それを着せてあげたいとお願いした。甥夫婦が来たので、義妹の夫は一緒にホテルに泊まることにし、私たち夫婦と義妹の3人でセレモニーホールに泊まることにし、寝具や食事の手配もした。納棺するときに入れたほうがいいものも、教えてくれた。いつも履いていた介護用の靴や、いつも持っているバッグ、補聴器、ブラシなど。物を入れるのを禁止している地域もあると思うけれど、敦賀は割と自由で、日ごろ使っていたものを入れてあげたほうがいいと言う。遺影用の写真がいると言うので、写真屋さんに寄ってから、敦賀の家に着物を取りに行った。娘が結婚するときに一緒に作ったようで、仕付け糸のついたままの着物が何枚かあったので、小紋と紬の着物と、絞りの羽織の3枚を持って行った。担当の人は、こんな良い着物を入れるんですかと言うけれど、義母は小さい人だったので寸法も合わないし、義妹も私も着物はいらない。米寿のお祝いに娘があげたフェイラーのバッグが気に入って、施設でも愛用していたので、その中に小物を色々入れてあげた。遺影も大きく焼いて額に入れてくれて、4時からの葬儀は、私たちと義妹夫婦、甥夫婦と、義母の姪二人の8人で。敦賀に住む姪二人(ダンナの従妹)は翌日の朝の葬儀にも来てくれた。施設に長く入っていたので、ご近所との付き合いもほとんどなくなり、他の親せきは高齢なので、後日知らせることにした。夜は義妹と3人で泊まったけれど、お風呂にも入れたし、久しぶりにいろいろ話もできた。僧侶は、枕経とお通夜と葬式、そして火葬の前にも計4回、読経してくれた。浄土真宗のようで、宗派は違うけれど、とても丁寧にお経を読んでくれて、いいお通夜とお葬式だなあと思えた。色紙を渡されて、8人でそこに義母に贈る言葉を書き、一緒に納棺した。火葬場で、お骨ももらって全て終わったのがお昼過ぎ。みんなで食事して別れ、セレモニーホールに支払いに行った。僧侶の支払いは別にして、40万円ぐらい。小さなお葬式と変わらないぐらい安かった。葬儀後の手続きなど、またいろいろなことを教えてくれて、最後までとても親切だった。その後、私たちは市役所へ行って、諸手続きをし、その日の夜大阪へ帰った。急なことで、うちの息子や娘たちも来れなかったけれど、すごくいいお葬式だったなあと思えるし、好きな物に囲まれて旅立ったお義母さんも喜んでいるんじゃないかなあと思えたのが嬉しかった。義父の命日の翌日で、やっぱりお義父さんが迎えに来たのかなあと思ったりした。義母の戒名は、四十九日の前に、地元の曹洞宗の僧侶が付けてくれた。義父の戒名の中と、名前の中から、ポーラ化粧品の仕事で若いときから歩いて回ってきた母親を表わす文字も入れて、義母らしい戒名を付けてくれた。でも、私たち夫婦は死んでからでも差別性の残る戒名には反対で、二人で俗名の位牌を作ろうと話しているけれど・・・小さなお葬式は使えなかったけれど、調べたら今は違うセレモニーホールになっている。霊安室が埋まってるって、特別なことだったかもしれない。
2022.05.30
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義母のことが当時の日記の下書きに残っている。*************5月13日の母の日に、敦賀の義母が亡くなった。9日の朝、義母の食欲が落ちていると病院から電話があった。11日には娘とイー君の1ヶ月検診で付いて行ってあげたかったし、12日はエルちゃんの幼稚園体験の日で、イー君を見てあげることになっていたし、息子のところの長男が中間テスト前で、土日にはうちに来ることになっていたし、13日の日曜日は、市議会議員選挙で、ダンナがいろいろ手伝っていたので、14日の月曜日から敦賀に行くことに決めた。でも、事前投票はしておいた方がいいかもと、9日に投票に行ったあと、選挙の応援に行ったダンナと別れて帰る途中、義父の命日は5月12日だったなあと思いだして、お墓参り。考えてみれば、義父の33回忌なんだなあと思ったら、義母を呼びに来るんじゃないかと不安になった。うちの母が亡くなったとき、突然で困ったのが写真。それで帰ってからすぐに義母の写真のいいのが無いかパソコンの中を探して、メモリースティックに保存してカバンの中に入れた。13日の夜中の2時過ぎに、敦賀の病院から、義母の状態が悪いので、すぐ来てほしいと電話があった。前の日の土曜日から、娘とエルちゃんとイー君、息子のところの長男と次男が来ていたので、娘に後のことを頼んで、ダンナとすぐに出発した。京都の辺りで、3時10分に亡くなったと連絡があった。延命措置は希望しないと連絡していたけれど、間に合わなかったのはちょっと辛かった。車の中から、小さなお葬式に電話したけれど、全然繋がらなかった。敦賀の病院に着いたのは、5時半ごろだった。**********下書きはここまで。また続きを思い出して書かなくちゃ。
2022.05.29
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義母の調子がどんどん悪くなってきて、もしもの場合のことを私たちは考え始めた。インフルエンザの流行で敦賀に行けなくなった頃、うちの家は、10年ほど前から、冠婚葬祭のS社の会員になっていたので、もしもの時にどうしたらいいか聞きに行った。敦賀までの距離は約200㎞。敦賀で亡くなった場合、ドライアイスを積んで往復して遺体を運んでくるだけで、20万円以上かかると言う。もう積み立ても終わっているけれど、試算してもらったら家族葬でもかなり費用が掛かる。別の家族葬専門のセレモニーホールにも聞きに行ったら、そこも運んでくるだけで費用は同じくらい。いろいろ話を聞いていると、遺体を運ぶとそれだけ日にちもかかるし、火葬場などの手続きも大変そうなので、現地で葬儀を済ます方がいいのではと思えた。そしてネットで見つけたのが「小さなお葬式」その頃は、テレビでCMもしていなかった。葬儀場を調べたら、敦賀のセレモニーホールも提携しているようなので、早速資料を取り寄せて、入会金を払った。入会金は、500円ととっても安かった。3月に敦賀に行った時、義母の施設に寄った後、小さなお葬式と提携しているセレモニーホールに寄って話を聞いた。提携しているだけで、もしもの場合には小さなお葬式の係員と打ち合わせをして決めるのだと言う。遠方なので、到着するまでの間預かる遺体安置所もあると言う。ほっと一安心で、敦賀から帰ってきた。その年の4月2日に、娘がイー君を出産し、とても忙しい日が続いた。その頃の日記にこんなことが書いてある。5月5日で96才になった敦賀の義母も、調子がよくない。足の部分に、ちょっと壊死した部分があり、4月18日に緊急でダンナが呼ばれ、老健施設から同じ建物の中の治療病棟に移動した。もう老健に戻れることはないだろうと言われ、衣服を持って帰ってきた。5月2日にダンナと二人で行って会ってきた。3月の末に行ったときは、手を握ると笑顔で嬉しそうにしたのに、今回は無表情。誰かわからなくなっているみたいだ。手の甲も腫れてむくんでいるのが気にかかる。
2022.05.28
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今日5月13日は、2018年に96才で亡くなった義母の命日だった。生きていたら、5月5日で100才だった。最近、テレビで小さなお葬式のCMがよく流れているけれど、それが入会しているのに使えなかった。義母が亡くなったときのことが、日記の下書きに残っている。覚えている間に、その時のことを書いておくことにしよう。敦賀の義母は、2009年、ダンナが退職する少し前から認知症が出始め、退職した直後に入院、病院から老健施設に入り、徐々に体力も聴力も視力も衰えていってた。2017年ごろには、車椅子で移動し、聞こえないのでホワイトボードの大きく書いた文字を見せて読んでもらっていたけれど、白内障も進んで文字もあまり見えないようだった。ダンナと私は、3週間ごとに敦賀の義母のところに行っていた。そんな状態でも、私たちの顔を見ると、いつもにっこり笑い嬉しそうだった。私は、季節の変わり目ごとに、下着や洋服の着替えを数枚持って行ってたけれど、好きな色のベストなどがあるといつも喜んで「ありがと、ありがと」と、何度も繰り返して言っていた。2018年の1月はインフルエンザが流行って、せっかく敦賀へ行ったのに面会禁止で会えなかった。それなら連絡が欲しいと言うと2月の時は、まだ面会できませんと言う連絡が入った。やっと会えたのは3月。にっこりは笑ってくれたけれど、何か様子がおかしかった。明らかに認知症が進んで、言葉を言ったり、ホワイトボードを見る意欲は無かった。
2022.05.26
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昨日は、義母のいる老健施設の家族説明会だった。説明会の前に、義母のところへ行った時は、とてもしっかりしていて、時間に遅れないように促された。家族説明会では、当面の目標と、リハビリの様子、食事の内容や様子、介護面での様子や気になることなどを教えてもらう。94歳になる義母は、耳があまり聞こえず、白内障もひどくなって目も見えにくい。私たちと同じように、介護士さんたちもホワイトボードに大きく文字を書いて、話しかけてくれている。一人では歩けなくなって移動は車いす。今は、要介護3で、意欲などに波があるものの、食欲もあり、健康状態も良いということだった。入れ歯洗浄剤が切れているということなので、家族説明会の後、買い物と市役所の用事を済ませ、再び義母のところへ戻ったら、なんだかちょっと変。昼寝をして夢でも見たんだろうか。「天国の切符が当たったんや」と言う。「そやから、荷造りせんとあかんから、明日も来てや」とダンナに言う。「天国の切符当たって、みんなが喜んでくれとる」ダンナも私もさっぱり何のことかわからず、ホワイトボードに、「荷造りしてどこへ行くの?」と聞くと、「家へ帰るんやがな」と言う。家でへ帰っても、一人では無理と言っても、せっかく天国の切符当たったからいけると言って、何かわけがわからない。ホワイトボードではなかなか話が通じず、ダンナが「明日用事あるから帰る。」今度来る日を書こうとすると、帰ったらあかんとパニック状態。ベッドの柵を外してと言う。落ちるから危ないと言っても、いけるという。自分一人で歩けるようなイメージもあるみたいだ。ナースコールを何度も押して、誰か来て、誰か来てと呼んだ。介護士の男性が、車いすを押して持ってきてくれた。淡々と車いすに乗せ、夕食の部屋まで押して行ってくれた。いつもは、また来るねと握手をして別れるのに、今回は、隠れるようにしてバタバタと部屋を後にして。後味の悪い別れ方をしてしまった。天国の切符って何かなあ。家へ帰りたい要望が強いんだろうけれど、病気が治って歩けるようになる切符なのかな。家で寝ている間に、天国へ連れていかれるのは嫌だなあ。
2016.06.23
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昨日から、ダンナと敦賀に行っていた。まだ義母は、病院の療養型病棟。元の老健施設に戻るには、介護型病棟が空くのを待って移り、そこで老健施設の空くのを待つ。介護型に移ったら、オムツは施設側が準備してくれるが、今は個人で用意しないといけない。3週間分のオムツはすごい量で、ダンナ一人では大変そうなので、最近は一緒に行っている。昨日はお昼頃に敦賀に着いて病院に行き、オムツの残量を調べてから、ドラッグストアで買って、3時ごろ、また病院に戻ったら、「家お昼に出てきたんか?」と変なことを言う。一度来たのを忘れているようだ。その後も、え?と思うようなことが何度か。隣のベッドの人が、「かあちゃん、ご飯ほとんど食べてないんやわ。 スプーンでおかずつまめんよって、いつも残してる」と言う。え?と思って聞いてみると、きざみ食なのに、きざんでない様子。ナースステーションに問い合わせてみると、4階から変わってきた際に、引継ぎができていなかった模様。腹立たしいのを我慢して、夕食からきざみ食にするよう頼んだ。やっぱり食事と認知症ってとっても関係があるみたい、おかしいなと思った時は、いつも食事が満足に取れていない。今日は朝から、病院へ行って、食事を全部食べられたか確認してから大阪へ帰ってきた。いつか自分たちもと思うと、食生活きちんとしないとなあと思った。帰ってきてから、孫たちのところへ。Tちゃんがバレーの練習試合だったので、晩ごはんを一緒に食べて、お風呂も一緒に入ってきた。ちょっと疲れて眠い。
2014.11.05
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海洋実習に行く2日前、敦賀の義母が入院している病院から、今後のことを相談したいと言う電話が来た。それから、誰かが亡くなったと、意識が混濁していると言うような話も聞いた。敦賀へは、9月3日にダンナが1人で行く予定をしていたけれど、今後のことを決めるのならと私も一緒に行くことにした。朝7時に家を出て、敦賀に着いたのは10時半頃。話し合いの前に、義母のところに行ったら、ナースセンター横の大部屋に、病室が替わっていた。「お葬式に行った?」と聞くので、ホワイトボードに筆談で、ダンナが「誰のお葬式?」と聞くと、「○子」とダンナの妹の名前を言う。いろいろ聞いていくと、飛行機事故で娘夫婦が亡くなったと思って、泣いて過ごしていたのだと言う。2人とも元気というと、ほんと?と信じられないような顔をしていた。お盆にはずいぶん元気になったと思っていたけれど、かなりやつれた顔をしていると思った。話し合いの時聞いたら、急性期を過ぎて、身体状態が入院時よりかなり良くなったので、ナースセンターから離れた洋室に替わった直後、亡くなったと騒ぎ出したので、急きょ、ナースセンター近くの病室に移動したらしい。8月11日に来た妹夫婦が、お盆過ぎに鹿児島の義弟の実家に行くと言っていた。耳も聞こえにくい、目も見えにくいうえに、認知度に波があるので、夢を見たか何かで飛行機が事故に遭ったと思い込んだのかもしれない。一応入院時より身体状態が良くなったので、退院許可が下りて、ケアハウスに戻れます、と言うけれど、戻されても困る。ケアハウスにいる3カ月の間に、どんどん症状は悪くなってしまった。戻っても、また悪くなるだけだろう。あくまでも、元の老健施に戻ることが希望と言うことを伝えた。これから病室が空くのを待って、医療療養型病棟に移動し、そこからまた病室が空くのを待って、介護療養型病棟に移動し、そこで老健施設が空くのを待つ。いつになることやら・・・・ケアハウスの人たちはとっても親切で、義母の面倒をよく見てくれた、でも、義母が適応できないケアハウスに戻るつもりはないし、2重の支払いは経済的に厳しいことを伝えたら、今日付けで、ケアハウスの解約手続きをしてくれることになった。でも、解約日は今日から2か月後。結局4か月分、二重支払いをすることになる。ケアハウスを解約することにしたので、今まで頼んでいたオムツなどの購入も自分たちでしないといけない。当面必要なものを買いこんで預けたり、バタバタ過ごして終わったら、もう家に帰りたいなあと言うことになって、今日は日帰り。ダンナが運転して、安曇川の道の駅で夕食を食べてから交替。私が、そこから名神の桂川まで運転をした。疲れたけれど、退所手続きまでできて良かったなあと、ダンナと話し合って帰ってきた。お義母さんが、今度のことでずっと弱ってしまったように感じる。子どもが亡くなるって、考えただけでもショックだ。夫と娘と孫を失う経験をしているお義母さんだから、まだ気丈に耐えられたのかもしれない。ダンナ一人で行くことが多かったけれど、私もこれからできるだけ行ってあげなくては。今度は3週間後、ケアハウスから荷物を全部引き払うので、ベッドを運べるダンナのタントで一緒に行く予定だ。さあ、忘れないうちに、ダイビングの続きも書かなくっちゃ。
2014.09.03
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水曜日、義母の介護度を再審査してもらった。認知症は、表面上思ったほどひどくは無い。幻覚も、私が一緒にいる間に2回、何も落ちていないところに、「その白い紙なに?」と言ったりする程度。でも、審査の途中、義母が私も言わせてと、「この病院は、看護婦さんが朝8時にしか来ない。 夜中に何回呼んでも、男の人しか来てくれない。」と何度も訴える。このケアハウスを、病院だと思っているようだ。要介護から要支援に替わったことも、理解できてなかったのかもしれない。無理に歩いて転んだりしたので、ますます足の調子は悪く、シルバーカーを押しながらも3m進むのも大変な状態で、食事も着替えも排泄も手助けが必要で、要介護は間違いないだろうと言うこと。ただ、審査の結果が出るまでに2.3週間かかると言うこと。それでもまだ本人は、大変なことを隠そうとしていた。審査の人が来る前、部屋にあるオムツや、汚れて干してあるシーツを、押し入れに片付けて欲しいと言っていた。審査の時は、家族が詳しく伝えないといけないんだろうなあ。木曜日、病院で内科と整形外科を受診した。MRIやレントゲンをとってもらった。骨は折れていないけれど、変形して歩きにくいので、「入院させてもらえませんか?」と聞いたら、あっさりOKが出た。ただ今は空きベッドが無いので、空いたらと言うこと。手続きの用紙に記入して、ケアハウスの人に渡した。今後、空いたら整形外科に入院して、要介護の診断が出たら、以前いた老健施設に再入所させてもらう予定。でも、老健施設の方も今は空きがないそうだけど。ケアハウスに入ったままの入院や、老健に入所が決まってからも2か月間は、ケアハウスの費用がかかり、二重の支払いになる。8月から私の年金が入ることになって、やっと生活が楽になると思っていたのになあ。でも、元の老健施設も、4月から入ったケアハウスも、今度入院する整形外科も同じ系列。義母は替わったことによって、状態も悪くなり、介護度も重くなった。なんか、うまく回しているような気がしないでもない。
2014.07.05
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昨日、今日とダンナと一緒に敦賀に行ってきた。ケアハウスに移って2ヶ月。義母の状態が、どんどん悪くなっている。老健施設にいたころは、ダンナは3週間ごとに敦賀に行ってたけれど、ケアハウスに移ってからは、呼び出されることが多くなっている。今回も、耳鳴りがするらしいので火曜日に耳鼻科へ連れて行って、水曜は、朝一番で内科の主治医に受診して薬をもらい、その後、先日下血して診察してもらった市民病院へ結果を効きに行く予定だった。ダンナ一人で、病院3か所は大変なので、私も一緒に行くことにしていた。それが月曜日の電話で激変。先週の火曜日に、部屋でこけて、心配したけれど、元気にしていると言ってたのに、一昨日の月曜日には痛くて起き上がることもできず、寝たままになっていると言う。それで耳鼻科に行くのは止めて、ケアマネージャーと話し合い。今、義母は要支援2。週2日のデイサービスと、週2回のヘルパーさんによる掃除と洗濯で、1割負担の介護サービスは枠いっぱい。それ以上のサービスを受けると、実費負担になってくる。動けないので、1日3回、30分の排せつ介助を受けると、枠以上になって、10割の実費負担。1回が2550円で1ヶ月に20万円近い出費になってしまう。それで、介護度の再審査をして欲しいと変更申請を出すことにした。ケアマネージャーさんが、サービスの計画書を作ってくれて、開始日時を昨日からにしてくれた。要介護2でも、1割負担の枠を出てしまう。要介護3が出れば収まるのかなあ。医師の診断が必要なので、今日は内科の診察をした後、整形外科を受診したら、12年前に大腿骨を骨折して、股関節に入れた人工関節が、ずれてしまっていた。両膝の変形も進み、関節の軟骨が減り、軟骨に石灰質がたまってきている。92才という年齢を考えると、再手術も難しいらしい。歩かなければ筋肉が衰えるし、もう歩けなくなるかもしれないなあ。義母は、痛み止めの薬の影響か、寝てばかりいる。1人部屋で、動けないと不安だろうなあ。今はしっかりしているけれど、認知症も出てくるんじゃないだろうか。今の施設では、訪問介護サービスしか受けられないので、元の老健施設に、再入所の希望も出してきた。来月、市役所からの介護審査があって、介護度が決まるのが、その1か月後。そこから老健施設の空きを待つことになる。7月に、ダンナと今年は北海道に行く計画を立てていたけれど、いつどんな連絡があるかもわからないので、もう中止することに決めた。
2014.06.04
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3月末まで義母がいた老健施設の追跡調査と、 ケアマネージャーさんとの話し合いがあるので、 朝から敦賀へ。 阪神高速の湾岸線を走っている時、見つけたのが一番上の鯉のぼり。 この時期、鯉のぼりを見つけると嬉しくなるけれど、こんなたくさん泳いでいるのは初めて。 テレビで見た四万十川にかかっていた鯉のぼりみたいだ。 渋滞もなく、お天気も良くて、気持ちのいいドライブができた。 その上、途中の道の駅で、いつも探していた葉山葵を見つけることができて嬉しかった。 義母は、先週もらった薬が効いたのか、落ち着いてきているようだ。 でも、デイサービスに行っても早く帰ってきて、部屋のベッドで寝ていることも多いらしく、まだまだ新しい環境には慣れていない。 他にも、気になることがいっぱい見えてきた。 これから大変になりそうだなあ。 夕方、ケアハウスから出たら、鮮やかな八重桜が満開だつた。
2014.04.23
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今日は2時起き。ダンナが2時過ぎに敦賀に出発した。昨日、義母の入ったケアハウスから連絡が入った。毎晩、ナースコールで、眠れなくて動悸がするからと呼ぶのだと言う。来週、前の施設の追跡調査と、ケアマネージャーとの話し合いがあるので、私もダンナと一緒に行く予定をしていたけれど、急遽、今日はダンナだけ行って病院に連れて行くことにした。車いすでの通院なので、すぐに診てもらいたいので、7時からの受付に間に合うように行くことに。早朝でスムーズに行けたようで、6時前に着いたと連絡が入った。駐車場でちょっと寝ると言うので、6時40分に電話をかけたら、もう受付が開いたから診察券を出したと言っていた。朝が早かったので、帰ってくるまで心配だったけれど、日帰りで、夜の7時頃帰ってきた。今までは4人部屋で、しょっちゅう看護師さんも来てくれたけど、急に1人部屋になって、不安になったみたい。精神安定剤を処方してもらってきたそうだ。月・木がデイサービスでお風呂に入れてもらうことになっているけれど、頭が痛いから、お風呂に入るのを止めて、違う日に入れてもらったそう。え~?それは別に費用がかかっているんじゃないの?これから先を考えると、不安だわあ。
2014.04.16
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9月の1日から4日まで、敦賀でお祭りがある。すごく大きなお祭りらしくて、昔からダンナがずっと自慢していて、一度見せたいと言っていた。ダンナが仕事を辞めてから、やっと行けると思っていたのに、一昨年は私が風邪をひいてしまうし、去年は、台風が来てお祭りが中止になってしまった。でも、今年は3日・4日で行こうと、ホテルを予約している。来週行くことになっているのに、敦賀の姑から、眼医者に連れて行って欲しいと急に電話。施設の人に取り次いでもらって電話をかけてきたけれど、姑は耳が遠く、自分の言いたいことだけ言ったら、こちらの返事は全く聞き取れない。それで昨日、ダンナは朝の4時から、敦賀に行くことに。ロッテ健康産業(株)BLACK★BLACKスパークリング100ml×6本入りあまり寝てなかったので、前日買っておいた、BLACK★BLACKスパークリングを持って行った。私も初めて飲んだら、眠いのに寝れない変な感じ。飲まないで、ダンナが出た後、二度寝すればよかったと思った。7時過ぎに、ダンナから着いたと電話。ものすごく眠いので、施設の駐車場で寝るから、8時半に起こしてと言う。8時半に電話して起こした後、いろいろバタバタ過ごしていたら、私も眠かったことを忘れてしまった。昨日は、お昼に従妹と約束していて一緒にランチ。その後プールへ行った。4時半ごろ終って、家に電話をかけたけれど、留守電のままなので、ダンナはまだだろうと思って、そのまま買い物に行った。6時過ぎに家に帰ってきたら、ソファーでダンナは爆睡中。3時ごろに帰って来ていたそうだ。ダンナは一人の時は、軽のタントで。小回りがきくのと、スライドドアなので姑を乗せやすいそうだ。でも、敦賀まで往復400km。日帰りは、しんどくないのかなあ。姑の、目の具合は大したことはなかったそう。先月、急に眼医者に連れて行ってと電話がかかってきた時は、眼の周りが真っ赤にはれあがっていたらしい。でも、今回は、眼科でもらった眼薬が無くなって、施設の人にもう大丈夫と言われたのが、嫌だったみたい。ダンナに、ちょっと甘えも出てきてるのかな。来月は、3・4日と一緒に敦賀に行くけれど、13日には、施設の家族説明会があるし、お彼岸にも来て、お墓参りして欲しいと言う。町内会費を払って欲しい。お墓の掃除をして欲しい。○○さんのお宅に、お供えを持って行って欲しい。庭の草取りをして欲しい。など、最近、姑はすごく要望を出すことが多くなっている。ダンナは、はいはいと聞いて、とても孝行息子。私の言うことは、なかなか聞いてくれないんだけどね。まあダンナは一人でも敦賀へ行くと言うので、私は、留守中のんびりさせてもらうことにしよう。
2012.08.29
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義父はその後、とても調子が良くなり、バイクに乗ったり、趣味の畑仕事もできるようになった。半年後には、もう一度京大病院でアイソトープの治療をしたけれど、癌と言うことを告知してなかったので、義父は、長寿の家系だから自分は大したことがないと思っているようだった。私たちも、余命宣告されたことも忘れてしまいそうになったけれど、しばらくたちと、義父は歩けなくなった。昭和61年の春休みを過ぎてから、、休みごとに敦賀に行って、病院の義母と交替でついた。寝たきりだったので、体を拭いたり下の世話をしたり。5月の連休の頃には、もう意識も朦朧としていた。余命3カ月の癌告知をうけてから、2年持ったことになる。老人の医療費無料は敦賀市はその頃は65歳からだったが、義父はまだ63才で、効かなかった。京大病院での治療など、その時代の最先端の治療を受けて、2年の間には、義妹の結婚や出産もあり、手伝いの人を頼むことも多く、どんどん出費はかさんだ。病院から延命治療を聞かれたけれど、ダンナと義母はもう十分看られたからと断った。そして5月12日、みんなが見守る中で義父は旅立った。私が親の介護をしたなあと思うのはこの時だけ。義父の葬儀に、まとまったお金と、喪服を持って来てくれた私の両親は、どちらも心筋梗塞で、私は下の世話をすることも一度もなかった。
2012.03.24
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来週の月曜日は、敦賀の義父の27回忌。今回は、法要をお寺でする。その後、敦賀市内のホテルで、会席を予定している。老健施設から外出してくる義母、岐阜から来る義妹、大学3年のその長男R君は、数年前に甲子園に出た子だ。中京大学で、高校から浅田真央ちゃんと同級生のR君は、うちの孫たちに会うのは初めてだ。それが終わったら、義母や義妹たちと別れ、うちの家族だけで、あわら温泉に行く。息子が結婚してから、初めての家族旅行だ。今まであわら温泉には何度も行ったけれど、忘れられない旅行があった。義父は、昭和61年5月12日に亡くなったが、その前年の春休みのことだ。その前に義父のことなど。義父はその前の年、昭和59年の5月に癌が見つかった。お正月に敦賀に行ったときは、腕が痛くて年賀状の文字が書けないから書いてほしいと頼まれた。3月ごろから腕が上がらなくなり、いろいろな病院へ行ったけれど治らないので、敦賀病院で調べてもらったら、甲状腺癌の影響だと言う。まだ本人に告知などはしない頃で、家族だけにあと3か月と言う余命宣告がされた。まだ義父は63才で、本人は長寿の家系だと信じて疑わなかった。その年の夏には、義妹の結婚が控えていて、式は、7月に名古屋と8月に鹿児島ですることになっていた。敦賀病院の先生に、甲状腺の切除手術を勧められた。福井大学付属病院に入院したら、金沢大学から専門の先生が来て、執刀してくれると言う。その頃はまだ土曜日も学校のあった時代。土曜日に仕事を終わってから、子どもをうちの実家に預けて、ダンナと一緒に福井の病院へ。福井までは5時間ぐらいで、着いたら夕飯ぐらいの時だ。福井と敦賀は、高速で片道約1時間。付添いのベッドもなく、お風呂も入ってないので、そこから、ダンナは義母をのせ敦賀まで戻る。私が病院について、ダンナと義母は敦賀の実家に、ごみ出しや家の用事をして、日曜日のお昼頃また戻ってくる。そして、夕方ダンナと一緒に大阪に帰ってくる。と毎週こんなパターンを、2カ月ぐらいした。その合間に、義妹の結婚式があった。その頃は、各自で家政婦さんを雇わないといけない。昼間だと1万円ぐらい。夜も見てもらうと1万5千円を超えた。
2012.03.21
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昨日、敦賀市役所から1通の封書が届いた。老健施設にいる義母の、介護審査が2月9日にあった。でも、施設からその連絡があったのは2月6日。もう少し後にして欲しいと言ったけれど、10日までに書類を出さないといけないと言う。介護審査は、家族がいなくてもできると言うけれど、要介護認定が出なければ、施設を出ないといけない。私たちの口から、気づいたことを言いたいし、お願いもしたい。その日は塾の担当日になっていたけれど、相棒に無理を言ってお願いした。そして、大雪の予報が出ていたので、敦賀へ行って、介護審査の後とんぼ返りしてきた。でも、この1ヶ月はドキドキ。こんな無茶な日程を組んだのは、できるだけ家族が来れないように、施設は出ていってほしいんじゃないかと勘ぐってみたり、連絡が急だったことで職員に苦情を言ったダンナは、施設の心証を悪くしたんじゃないかと思ってみたり、もし要支援になったら、市役所に不服申請をしようか、それでもだめだったら裁判所に訴えると言うダンナに、そんなことをしたら、よけい施設にいられなくなると言って、結果も出てないのに、ダンナとケンカになったり・・・義母の今の施設は、義母の年金で賄えているけれど、別のところに行くと、たちまち足らなくなる。不足分を出せるほど、うちの年金は余裕が無い。大阪に連れてくるにしても、今後症状が進んだときに、簡単に入られる施設が無い。義母は住み慣れた敦賀から離れたくないようなので、ダンナ一人で敦賀に住む?と言ってみたり。でも、封筒の中に、要介護1の認定書類があってホッ。喉の奥に引っかかっていたものが取れた感じ。
2012.03.10
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ブログも、タイムリーに書かないとだめですね。昨日、母が入院したので、今日は和歌山の病院へ。実は、入院してくれて、ちょっとほっとしている。84歳になる母は、糖尿病からくる慢性心不全、慢性腎不全。4年前の心筋梗塞のあと、何度も意識不明になって死にかけたけれど、去年、透析をしだしてから落ち着いてきている。食事制限もあり、和歌山の姉が面倒を見ているけれど、寒くなってきて、最近はお布団の中ばかり。動かないから、体力が衰えてきたのか、食欲がない。ちょっと風邪気味で、咳き込んで戻してしまうこともある。月曜日、「しんどい」と言って、喉がヒューヒューいうので、姉と二人で病院へ連れて行った。でも、検査の結果は、特に異常なし。げんきんなもので、結果に安心すると、急に元気な声になった。でも、また家に戻ってくると、「しんどい、寒い」の繰り返し。火曜日も咳き込んで戻したそうだけれど、血液検査も異常なかったので、もう少し様子を見ることに。でも、木曜日、食欲が落ちているし、気温も一気に低くなったので、結局入院することに。入ってみれば、温かいし、看護師さんは親切だし、「お正月も、ここで過ごそうかなあ」と、入って良かったと思ってるみたい。と、ここまでが夕べ書いいて、途中で眠くなって下書き保存した日記。昨日までは、風邪をひいている以外はこれと言って心配もなかったんだけど、今日、姉からちょっと気がかりな電話。母は、火・木・土と、週3回透析をしているんだけど、今日は透析ができなかったらしい。透析は、腕のシャントという血管の補強部分に針を入れるんだけど、そのシャント部分が脆くなって、使えないらしい。それで、月曜日、カテーテルを入れて、透析するらしい。月曜日から、弾丸ツアーを予定していたんだけど、ちょっと気になるので、明日様子を見てこようと思っている。
2011.12.17
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先週の土曜日から、今週の月曜日まで、和歌山から母が来ていた。腎臓が悪く、塩分制限(6g)があって、1600kcalにしないといけない母に作った食事。 好きなビールをちょっとだけ飲ませてあげた。
2011.10.26
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19日の月曜日のこと。敦賀の母から電話がかかってきた。母「明日、来てくれる?」ダンナ「あ~、か~ちゃんの携帯のことあるやろ、水曜日に買いに行こうと・・・」母「2時に来れる?来てくれるんやな」と言うところでガチャン。20日が彼岸の入りなので、敦賀に行くことになっていたけれど、3週間前には、新しい携帯電話を欲しがっていたので、娘の休みの21日に買ってから行くことに、変更しようと思っていた。そう話そうと思っていたのに、全く伝えられなかったダンナは、ちょっと腹が立ったらしく、「携帯電話、やっぱりいらんかなあ」と言いだした。義妹にいるかどうか、相談してみたら?と言ったら、「聞いてみる」とダンナが、義妹に電話をかけた。義妹も、いつも会話が通じにくくてすぐ切るので必要を感じないと言う。デジタルの置時計を買ってあげて、まだ携帯を欲しがったら買ってあげようと言うことで、予定通りに、20日に、ダンナは敦賀に行った。21日に帰ってきたダンナが言うには、デジタルの置時計はすごく喜んだとのこと。そして、携帯電話のことは、本人から全く話が出なかったらしい。3週間、持っていなかったら、他に持っている人もいないし、興味もなくなったのかもしれない。姑も89歳。一面しっかりしているけれど、忘れることも増えてきているのかな。
2011.09.21
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老健施設にいる姑の携帯が壊れた。その携帯は、4年前の誕生日にプレゼントしたもの。その頃姑は一人暮らしで、耳がどんどん不自由になり、電話をかけても繋がらないことが多くなった。伝えたいことがあれば、着信履歴を見て、週2回来てくれていたヘルパーさんが、かけるように言ってくれた。ドコモのらくらくフォンで、短縮ダイヤルにダンナと義妹と私と設定して、親戚や友だちなど、番号を入れてあげた。姑は、電話はほとんど使わないけれど、待ちうけ画面のデジタルの時計が見やすいと、充電が習慣になった。一昨年、入院して、その後老健施設に移っても、携帯は時計代わりにいつも愛用していた。電話を使うのは、うちのダンナに月2回程度。「明日、来るの?」「行くよ、行くよ、2時ごろ着くから。」耳が遠いので、他の会話はできず、いつも数秒で終わる。義妹とも話すこともあるようだけど、そちらも電話が聞きとりにくいので、数秒だと思う。今年になって、老健施設から、携帯などの電気代として、1日52円徴収するという連絡が来た。老健施設で、携帯を持っているのは、多分姑ぐらいだと思う。私には、施設側が携帯を持つことを良しとしていないように思えた。携帯を買いなおしたら高いし、施設にいたら連絡に困ることはないので、もう要らないんじゃないかと思ったけれど、姑は、携帯が欲しいと言う。老健施設の中での、一種のステータスになっているのかなと私は思う。ドコモショップで見てもらったら、携帯は、充電器の差し込み部分が壊れていて、修理代に15800円ぐらいかかると言う。電話は、施設の中に公衆電話があるし、詰所からでもかけられる。姑の電話代は、どう多く見積もっても月に1000円はかからない。それが、携帯だと、毎月、1500円の電気代に1800円の携帯代。時計は見やすいデジタルの物を買ってあげればいいし、不経済なので、もう無くてもいいんじゃないかと私が言うと、ダンナも諦めてもらおうと言っていた。うちの家は、ダンナと私と娘と姑と4人でファミリーを組んでいて、娘がプランを設定して、余った分はお互いに回せるようにし、料金は4人一括で払い込み。長年私のカードから引き落とすようにしていたけれど、去年から、娘のカードで引き落としてくれている。今日、仕事が休みの娘が来て、「かわいそうやん。買ってあげたらいいのに。」と言う。一回解約して、新規の電話を購入したら、番号は変わるけれど、8000円ぐらいで買えると言う。「番号が変わっても、誰も困れへんやん」と言うのを聞いて、ダンナは乗り気。「買ってあげてくれ」と言うけれど、私は、この機会に無くした方がいいと思う。ダンナは、「携帯は母親の生きがいだから無くなったら生きる意欲も無くなる」とか言うけれど、他の人は持ってないのに、そんなことはないと私は思う。そんなこんなで、ダンナとケンカ。私は、ダンナが私が意地悪しているみたいに思っているのが許せない。「そんなことでケンカせんといて。 私が、おばあちゃんにプレゼントしたことにするから。 電話代も、今まで通り、私が出すからいいやん。」と娘が言って、終わったけれど、なんかなあ、すっきりしない。今、姑の4人部屋で、テレビを個人で見ているのは姑だけ。テレビは1日210円で、経済的な理由で持てない人も多いのだと思う。姑は、毎月、新聞も取ってるけれど、施設の中では、数えるぐらいしかいないと思う。みんなが集まる部屋には、テレビも新聞もある。ダンナは、長年一人暮らしをさせてきた母親への親孝行、文化的な生活を本人が望んでいるんだからさせてあげてくれと言うけれど、金銭的に余裕があるわけでもない。遺族年金ぎりぎりで、他の施設に移ったらたちまち困る。施設の中で、浮いてしまうんじゃないだろうか。低価格で、100人近く待っている入所希望者がいると言うのに、余裕があるのなら出ていって欲しいと言われたらどうしよう、と思ってしまう私は、周りの目を気にしすぎなのかもしれない。テレビや新聞はそのままでもいいけれど、携帯ぐらい無くてもいいのにと思う私は非情かなあ。
2011.09.16
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糖尿から来る慢性心不全と慢性腎不全の母は、塩分、たんぱく質、カリウムなどの食事制限と、週3回の透析で、ここ数年のうち一番状態が安定している。でも、前回の入院から4カ月、姉の家で、気兼ねがないこともあって、最近は食べ物にすごくわがままが出てきている。4月初めに風邪をひいたこともあって、身体を動かすのを嫌がるし、物忘れが多くなっているし、意欲が低下している。また検査入院したら?と病院からも言ってくれたので、お願いして、この機会に姉とまた旅行することに。それで今日は、午前中に母と一緒に入院準備。お昼ご飯を食べてから、3人で病院へ。受付に連絡してから、3階の詰め所に行くと、もうベッドを用意してくれていた。先生や看護師さんも顔なじみで、皆声をかけてくれるし、廊下を通る患者さんも顔なじみがいて、手を振ってくれる。母は、さっさとパジャマに着替え、「え~、また行くの?」とか言ってたのに、案外嬉しそうにしている。4か月の間に、テレビが地デジ対応の薄型テレビに変わっていた。母は、今月末まで入院の予定だ。姉とは、25日から3泊4日で、上海・蘇州へ行く予定。私が以前上海・蘇州へ行ったのは、今から15年前の夏。上海のテレビで、「和歌山カレー事件」の報道を見た。上海は旧租界地区の西洋の建物と、中国古来の歴史的なものが融合した都市だが、どこも人にあふれ、活気があったのを覚えている。そして、朝になるといろいろなところで太極拳が行われていた。蘇州へは、日帰りで、汽車に乗って行った。駅の構内で、印鑑を作る人がいて、猫目石を使って、息子の実印と私の印鑑を頼んでおいたら、帰ってきた時にできていた。食事をするところでは、どこでも掛け軸を勧められた。でも、15年たって、オリンピックも万博もあり、すごい都会になっているんだろうなあ。
2011.05.23
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お彼岸なので、ダンナは月曜日から一人で敦賀に来ていた。私は、昨日、塾の仕事が入っていたので、今日列車で。今回は、一度、特急に乗らず、湖西線の快速で行ってみようかと、ジョルダンの乗り換え案内で時間を調べてきたのに、天王寺でパンタグラフにビニール袋が巻き付く事故があったのと、山陽線で人身事故があったのとで、電車は大幅に遅れ、敦賀行きの快速電車は無くなってしまい、やっぱりサンダーバードで。今日私が来たのは、午後から家族説明会があったから。義母の入っている老健施設では、3ヶ月に一回、家族説明会がある。12月の家族説明会は、ダンナが一人で行ったのだけれど、施設の方から、介護認定が下りなければ退所しなければならないので、他の施設に申し込みをしておいて欲しいと言われたそうだ。ダンナは、要支援の人が入る、グループホームを何カ所か見てきていた。でも、認知症専門だったり、費用が高すぎたり、今のように個人でテレビを見られなかったり、なかなかいいところが見つからなかった。要介護1の義母は、シルバーカーを押して5cmぐらいずつ歩くが、何も持たずに歩くことはできない。お医者さんからも、一人暮らしは無理と言われている。でも、耳も遠くなっているが、認知症はなく、施設の中では一番元気なのだそうだ。先月末に、市役所から担当者が病院に来て、介護審査があった。どこのお年寄りでも一緒なんだろうけど、検査があると、いつも以上に元気になる。「ハイ!」と的確な受け答え。ベッドからさっと立ち上がるし、寝返りも速い。要介護が出るだろうかと、心配になった。でも、先日、要介護1の結果が来て、ホッ。もうしばらくは居させてくれそうだ。家族説明会でも、次回は3ヶ月後、と言われたので、やっと安心することができた。今日は、ルートインと言うホテルに泊まっている。敦賀で、ホテルに泊まるのは初めてだ。以前、金の像さんも泊まっていたところだけれど、ホテルなのに大浴場があって、夜中も朝も入れる。夕食は、歩いて行ける「大文字」へ。串カツのお店で、ダンナはホッとして、黒龍と言う地酒をいっぱい飲んで、気持ちよく寝てしまった。私も、ビールをいっぱい飲んだけどねえ。
2011.03.23
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明日から母が入院するので、今日は和歌山の姉の家に行ってきた。2008年の6月、心筋梗塞で心肺停止になり、1ヶ月生死の間をさまよった母が、奇跡のように、意識を取り戻し、歩けるようになった。その後も、心臓が悪くなったり、腎臓が悪くなったり、胃潰瘍になったり、意識が混濁したりと、入退院を繰り返してきたけれど、今、一番体調が安定している。でも、退院して姉の家で暮らして、3カ月、最近は、ちょっと味付けの濃いものを欲しがったり、寒いからと、寝てばかりして過ごしたりと、少し甘えも出てきている。いろいろ検査も必要な時期だったので、1週間の入院は、ちょうど良い機会だったようだ。最初、旅行に行きたいと言った時は、入院を渋っていた母だったけれど、お医者さんや看護師さんから温かい言葉をかけてもらったり、以前一緒の病室だった人たちに喜んでもらったりすると、こだわりも無くなったようで、もうちょっと長いこと、ヨーロッパとか行っても良かったのにとか言う。今まで入院する時に、実家から私が荷物を揃えていくことが多かったので、先週行ったときに、入院で準備するものの表を作って、カバンに入れたものから丸を付けるようにしてあげた。今日、姉が私に手伝ってもらって、残りのものをカバンに詰めたら?と言ったら、自分でできるよと答えていた。週3日の透析と、リハビリとお風呂のためのデイサービスで、平日は、9時に出て2時過ぎに帰ってくる生活。食事も、制限が多く何でもいいというわけにはいかない。実の娘だけれど、姉にもストレスの溜まってきている頃だと思う。1週間の入院中の旅行は、リフレッシュの良い機会になると思う。疲れの残らないように、行ってこないとなあ。
2011.01.16
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年末に来た姑が、31日にお風呂に入ったけれど、ほとんど湯船につかることもできず、身体や頭も洗わずに出てきた。大丈夫かとお風呂の外で中をうかがってたら、「あ~えら。あ~えら。やめとこ。やめとこ。」という声が、何度も聞こえてきた。姑は耳が遠いので、大きな声で独り言を言うのだ。姑は、腰と膝が曲がって、5cmくらいずつしか足が進まない。老健施設の中では、シルバーカーを押して歩いている。うちの家の中では、4点で支えられる杖を使っているが、両手を離すことができない。昨日も一昨日も、「お風呂は?」と聞いても、「もういいわ」と言う。施設のお風呂は月木だが、12月30日の木曜日は、お風呂に入らないで、大阪に来たし、明日帰っても木曜日までは入れない。ちょっと恥ずかしい思いもあるけれど、私も開き直って、ここは一緒に入って上げることにした。湯船の中に一緒につかると、お湯が上がって、姑の首のところまで来た。腰を支えてあげたら、両手が離せて、お湯の中で、タオルで顔を拭くことができた。「あ~気持ちええ、あ~気持ちええ」これも、多分独り言だろう。丸いパイプいすに座ってもらって、お風呂のふちを持ってもらい、身体や頭を洗ってあげたら、すっきりきれいになった。私は姑と同居したことはないけれど、自宅介護をしている人たちは、みんなしているのかなあ。
2011.01.03
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日曜日、母が退院した。9日・10日は大阪南部はだんじり祭の日で、通行止めになっている道も多いし、だんじりが通るときには足止めされて渋滞になる。「お祭りで行きにくいから、退院の日には行かんとくわ」と言ってたけれど、姉一人では大変かもと、やっぱり8時前に家を出ることにした。いつもよりずっと時間がかかって、ギリギリだった。姉が数日前から、少しずつ荷物を運んでいたので、思ったより荷物は少なかった。母と姉がナースセンターに挨拶に行ってる間、私は同室のおばあちゃんに挨拶。みんな寂しくなると言ってくれて、一人のおばあちゃんは泣いていた。この病室に入って5ヶ月。自分の家から離れた和歌山で慣れないかもと心配したけれど、母はみんなの輪の中にとけ込んだみたいだ。姉の家に帰ってきたら、姉が母のベッドを準備していた。姉が用事で出かけた間、母が横になったので、私も休んだ。風が気持ちよくて、やっぱりのんびりするねえ。と感慨深げ。3月6日に救急車で日赤に入院し、どんどん状態が悪くなって、3月14日に市民病院に転送されたときは、腎臓の障害を起こし、意識がもうろうとしていた。シャント手術をして透析を始め、5月に退院。1日家で過ごしただけで、次の日に今の病院に入院した。透析が良いのか、今までの3年間の中で一番調子が良さそうだ。これから、母は週3回の透析と、週1回の入浴と、週2回のリハビリで、ほぼ毎日病院へ通うことになる。送り迎えはしてくれるけれど、食事制限もあるし、病院から帰ってくる頃には必ず家にいなければならないし、姉の負担も多くなる。私は、週2回ぐらいの割合で和歌山に通っているけれど、出来るだけ姉が余裕を持てるような方法を考えていかないといけないなあ。
2010.10.12
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今日は、姑が入っている老健施設の家族説明会。姑が入っている老健施設では、2ヶ月に一度、リハビリの先生と、栄養士さん、ケアマネージャーさんの3人が、日頃の様子や、健康状態、今後の方針などの説明をしてくれる。そして、うちの家にも毎月、施設での様子が分かるような新聞を送ってくれる。姑は、腰が曲がっているのと、膝の調子が良くないので、シルバーカーを押しながらでないと歩けないけれど、それ以外、内蔵関係はとても元気。毎朝届けてもらっている、福井新聞を読んで、テレビで好きな野球中継を見て、元気に過ごしているそうだ。今年88の米寿で、先日、市から御祝いに来てくれたそうだ。施設の中で、米寿の人は3人。御祝いの賞状や記念品を頂いて、姑が代表でお礼を言ったのだそう。でも、途中から感極まって、泣きながら読んだのだという。前回敦賀から帰ってきたダンナにそれを聞いて、舅が亡くなってから25年。子どもたちが遠く離れ、娘と孫が一人亡くなり、寂しくて辛いときも、一人で頑張って耐えてきたんだろうなあと思った。敬老の日なのに、行ってあげられないので、手紙を書いて、ダンナに持っていってもらった。出産を控えたヨメのこと、孫たちのこと、上の孫が描いたゴセイジャーの絵も一緒に入れた。耳が遠いので、会話をしていてもあまり通じていないような姑なので、喜んでくれたかな?姑は「私は幸せや」とよく言う。定年退職してから、定期的に息子が来てくれるのが一番嬉しいのかも知れない。お彼岸なので、お墓のお参りなど、ダンナも二日間は忙しいだろうけれど。3人目の出産が心配で、私は行ってないけれど、まだみたい。電話で様子を聞きながら、昨日は髪をカットしに行き、今日はプールと仕事に行った。少し痛みがあるらしく、夕方も病院に行ったけれど、まだ入院しなくても良いのだそう。息子の休暇は短いので、ヨメは早く産まれて欲しそうで、病院からも20分ぐらいの道のりを、歩いて帰ってきたそうだ。明日ぐらいには、産まれるかな?
2010.09.22
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母は、糖尿病からくる心不全と腎不全を患っていて、身体全体のちょっとしたバランスが崩れるだけで、心臓が良くなれば腎臓が悪くなり、腎臓が良くなれば心臓が悪くなるという具合で、とっても微妙な体重管理や食事制限をしていた。心筋梗塞でいくつかステントを入れた心臓は、心臓弁膜症になっていて、自力ではバランスを保てなくなってきたので、5月から透析をすることになった。透析のためのシャント手術を市立病院で受けた後、別の病院に転院しないといけなくなったけれど、近くに透析のできる病院はN総合病院、一軒だけ。そこに移ったら、今までの市民病院から主治医が代わってしまう。そして、過去に母親がその病院にかかっていたときに、不信感を感じたこともあって、避けたかった。それで、和歌山の姉の家の近くの病院に移ることにした。病院から近い姉が、朝晩顔を出し、洗濯ものを預かっていったりし、私は、週1回か2回、様子を見に行くようにしている。家から離れているので心配したが、透析が専門のその病院は、先生も看護師さんもとても親切で、4人部屋の同じ病室の人たちは、皆年齢も近く、同じような病気なので、話もしやすくなってきたみたいだ。心臓の方は、2ヶ月に一度、市民病院で診察を受けることになっているが、あまり数値が良くなく、透析が週2回に増えた。月曜日と木曜日の透析の後は、熱がでたりして、しんどそうだが、その他の日は、行くと少し歩いて、談話室で話ができたりする。透析をすると障害者の1級になって、入院費用がほとんどかからなくなると聞いたけれど、母の場合は、透析の障害者手帳はまだ貰っていない。基準は、透析をしているかどうかではなく、腎臓の働きを示す、クレアチニンという数値で決まるそうだ。母の場合は、心臓のために透析をしていると言う感じで、クレアチニンの数値はまだ低いそうだ。でも、他の病気のように、早く退院を薦められることはない。同じ病室の人も、何年も入院している人もいる。母は、最近病院食に飽きてきたらしく、そろそろ退院させて貰おうかなと言うことがあるけれど、「外、すごく暑いよ~。涼しくなるまでいさしてもらったら?」と言っている。
2010.08.02
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病院へ行くと、母が、「寝ながらお風呂に入れてもらった」と嬉しそうに言った。3月に救急で入った和歌山の病院から、救急車で搬送されて市民病院に入った時は、腰椎圧迫骨折で寝たきりの上、腎臓が急激に悪くなり、意識朦朧という状態だった。その時から2ヶ月間、時々シャンプーしてもらい、毎日体を拭いてもらうだけだったので、よっぱど気持ち良かったのだろう。市民病院には普通のお風呂しかなかったから、転んだりするのを一番心配していた。心臓が悪くて、血液をさらさらにする薬を使用しているので、骨折をしても手術できないらしいのだ。この病を数週間で退院したら、姉の家から透析に通って、時々、私が迎えに行き、うちに泊まって、昼間何時間か自分の家で過ごす、というパターンを予定しているけれど、家のお風呂にも入りにくいだろう。病院の横に、デイサービスの施設があるので、週2回ぐらい通うといいんちがう?と話していた。飲み物を買いに、1階に下りて、病院の中をうろうろしてみると、「デイケアルーム」と表示された部屋があった。中を見せてもらうと、5・6人の老人と、5人ぐらいのスタッフがいた。リハビリに来た人が、お風呂に入ったり、レクリエーションをして過ごすそうだ。この日は、折紙をしていた。みんな大きな声でおしゃべりしてとても楽しそうだった。お風呂を見せてもらったら、6畳ぐらいのタイルの部屋に、小さいお風呂が2つ。壁と浴槽に手摺りが付いていた。母が入った寝ながら入るお風呂は2階にあるらしいが、自分で入る時は、小さい方が、ひっくり返らなくて入っている人も安心らしい。障害者用の大きなお風呂椅子をおいていて、入りやすそうだった。家に帰ってきて調べてみたら、デイケアは病院が行うリハビリを主とした老人用のサービス。デイサービスは、老人福祉施設が行う介護サービスだそうだ。今後のことを考えると、友だちもできて欲しい。入院している間に、何回か参加させてもらって、退院してからも、デイケアルームに通えると良いなあと思っている。
2010.05.20
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昨日、母が和歌山の病院に入院したので、今日は様子を見に行ってきた。母は、先月から週一回の透析を始めたが、透析になれるためにも、しばらく入院した方がいいと言うことで、姉の家の近くの病院を選んだ。透析専門で、30床ぐらいの透析の設備を整えていること。整形とリハビリもあるので、腰の圧迫骨折も診てもらえて、リハビリで筋力を付けてもらえそうなこと。循環器科はないので、一番心配な心臓は、今までの市民病院に通院して診てもらえること。そしてこの病院の院長が女医さんで、話しやすそうなこと。などが選んだ理由。病室へ行ってみると、すごく広い4人部屋。少し古い建物だけど、明るくて風通りがいい。廊下の数メートル先にある談話室で話をした。「良い病院やねえ」と言っても、母は、ちょっと不満な様子。同じ病室の人が、みんなしんどそうで横になっている。重病人ばっかりで疲れるらしいのだ。同じ病室が、おばあさんばかりと思ってもいるようだ。「でも、お母ちゃんがこの中では一番重病人なんかもわかれへんよ」母が一旦悪くなれば、意識もない重病人になる。年齢と病名から見れば、この病室が妥当だと思われたのだろう。 続く
2010.05.19
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敦賀の義母は、先月末に要介護1の判定が出て、老健施設に入所することができた。老健施設と言っても、それまでと同じ病院で、去年の6月に、国立病院から移ってきてから、8月までは4階の、医療型病棟で過ごし、8月から先月までは、3階の療養型病棟にいた。病院ではシルバーカーを押してなんとか歩いているけれど、もう一人暮らしは危険なのでできないと言われている。私たちは、大阪に来たら?と言ったけれど、住み慣れた敦賀からは、離れたくないそうだ。足腰は不自由だけれど、入院してから、耳も以前より聞こえるようになって、話すこともしっかりするようになった。新聞を読むのとテレビを見るのが楽しみで、病室に新聞を届けてもらうようにしている。昨年末ぐらいから、次に移るところを探して欲しいと言われていたので、病院の5階の老健施設と、隣の特別養護老人ホームと、病院の近くのグループホームに入所希望を出していた。1月に、介護認定の検査をしたとき、ものすごくしっかり受け答えをして、元気さをアピールしたそうだ。要介護が出ないと、老健施設には入れないので、ダンナが要介護を外されたらどうしようと心配していた。グループホームは、要支援でも入れるそうだが、申し込んだところは、個室にテレビが無い。義母の年齢の女の人には珍しいと思うのだが、義母は、野球を見るのが大好きで、病院でみんなで見ているテレビなどにはあまり興味を示さない。だからグループホームは合わないだろうなあと思っていた。でも、まずは老健施設にはいることができて一安心。今の病院は、リハビリが充実していて、6月に転院してきたときには、立つこともできなかったのに、ここまで快復させてもらうことができた。老健施設の家族説明会でも、リハビリの先生から現在の状況やリハビリ内容などを説明してもらって、すごく好感が持てた。ここで、できるだけ長くいさせてくれたらいいんだけどなあ。敦賀二日目の外出では、お見舞いを頂いたところに快気祝いを返して一区切り。お昼には松月でお刺身定食を食べ、平和堂で下着などの買い物をし、桜の花を車窓から見ながら帰ってきた。松月は、今のところ敦賀で一番、味・値段共に私が気に入ってるところ。下の写真は病院横の桜。
2010.04.10
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昨日の夜、敦賀から帰ってきて、今日は、母のシャント手術。シャントと言うのは、人工透析を行うとき、短時間で多量の血液を浄化するために作った、人工的な血管の入り口。普通は、静脈と動脈をバイパスのように繋いで作るそうだけど、母親は、心臓も悪くて、細い静脈では上手く血液が入らないだろうと、動脈を皮膚近くまで上げてくる、表在化と言う手術。一昨年、去年と、何度か腎臓の機能が低下し、首や股関節近くから針を通して、人工透析をしたけれど、運良く、腎臓の機能は回復してきた。今回も、入院したときは意識もはっきりしなくて、腎臓の機能も悪かったのに、驚異的な快復を見せ、寝たきりだったのが、杖をついて歩けるようになったけれど、同じようなことを何度も繰り返しているので、体力のあるうちに作っておこうというわけ。今日は、午後2時半頃から手術室に入って、6時頃まで。あまりにも長いので、動脈の手術だし、心配したけれど、車いすに乗って、元気な顔で出てきた。当分は左手を使えないので不便だろうけど、無事済んで良かった。
2010.04.09
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朝起きると、喉が痛かった。今日は、退職仲間4人で大阪城のそばから出ている、アクアライナーという船に乗って、大阪城や造幣局の桜見物をする予定だった。でも、風邪を引けないのでパスしたいと電話した。ちょうど良かったと言う。退職仲間の一人のお母さんが亡くなって、お葬式だという。内輪だけでするので、3人で桜見物に行って来てと連絡があったそうだ。行かなくてもいいんだろうかと気になっていたそうだ。それで、二人でお葬式に行ってくれた。行けなくてごめんなさいとメールしたら、心おきなく看病できて良かったと返事が来た。退職して良かったと思うのは、年老いた親の看病ができることだ。今週の水・木曜日は敦賀に行く。姑が、先月末に老健施設に入所して、家族説明会が7日にある。次の日には、一時外出もさせてもらうつもりだ。そして、金曜日には、うちの母親の手術がある。今はちょっと安定しているけれど、慢性腎不全で、入退院を繰り返しているので、いつでも透析ができるように、シャント(血液を入れ替える入り口)を作る手術だ。心臓も悪いので、普通のシャントとは違い、(普通というのがよくわからないんだけど)動脈を皮膚近くまで持ち上げてくる手術だという。ブログのお友だちの集まりが、この日だったら行けないなあと思っていたけれど、ラッキーラッキー。お母さんが悪いのに、よく行くねえと思う人もいるかも知れないけれど、こうやって上手く気分転換しているから、二人の親の看病も気持ちよくできるんだと思う。でも、風邪は万病の元。年老いた二人には大敵だから、私は風邪を引けないの。
2010.04.05
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暮れの30日に入院した母は、1月22日に退院し、和歌山の姉のところにいた。昨日、姉のところに行って泊まり、今日、母と一緒に帰ってきた。うちで2泊し、土曜日にまた送っていく予定だ。母は、糖尿病から心臓と腎臓が悪く、厳しい食事療法をしなければならない。去年の秋頃までは、日中ヘルパーさんに手伝ってもらいながら、自分で作ったりもしていたけれど、調子が悪くなり入院。人工透析と言われていたけれど、持ち直した。でも、食生活の管理が大変で、もう一人暮らしは無理だろうと言われている。食生活で、まず大切なのが塩分の制限(1日6g)と、タンパク質の制限(1日30g)、糖分の制限。そしてカリウムが危険なので、生の野菜や果物の禁止。そして体力が落ちないように、1日1600Kcaを目安に摂取。というような内容。1日30グラムのタンパク質は、朝、卵を3分の1 昼 魚3分の1切れ夕 肉を1、2枚 そして豆腐を3cm角ぐらいの量野菜を多くして、タンパク質を含むものは少しにする。塩分を6グラムにするために、酢や生姜、辛子などで変化をつけたり、お醤油も薄めてかけたりいている。でも、ご飯は100gぐらいで、お茶碗8分目程度。1600Kcal摂取しようと思ったら、油を使ったり、野菜もたっぷりとるように心がける。私は、姉のところに行くたびに、食事を食べさせてもらい、料理の得意な姉の作り方を参考にする。塩分を少なくするのを心がけると、素材の持つ味のおいしさを感じる。母が来ている間の食事作りは、ちょっと緊張感もあるけれど、健康的な食事かもと思う。
2010.01.28
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10日の午後、義母が実家に戻ってきた。4月16日に救急車で運ばれて以来、4ヶ月ぶりだ。義母は、家に帰りたがっている。大阪へ来て、一緒に住みたいというのなら退院も考えるのだが、義母は、今までのように、気楽に、一人暮らしがしたいと言うのだ。「一人でも、できると思うんやけど・・・」と義母は言うが、入院する前の状況を考えると、ダンナも義妹も、1人暮らしは、絶対反対だった。ダンナと、どういう風に説得したらいいかと相談して、トイレや洗面は、できるだけ手出しをせず、家事も一度経験させてみようということになった。トイレに行くときも手を出さず、こけないように見守るだけにした。家の中で、シルバーカーを押しながら、5cmぐらいの歩幅で進み、ベッドに戻ると「ああ、しんど。ああ、しんど。」と繰り返している。退院したら「ご飯はどうするの?」と聞くと、ヘルパーさんに、おかずを買ってきてもらう、と言うので、ご飯だけ炊いてもらうことにした。車椅子を流しの前につけて、やっとのことでお水を入れて、かき回すが、水道の蛇口のレバーを上げ下げするだけでも大変で、片手を支えて立つのがやっとなので、お釜を、炊飯器の中へ入れるのも大変だ。ほかにも家事をしてもらおうかと言っていたけれど、しんどそうで、とても言えなかった。二日目のお昼。ダンナは、そろそろ説得しないといけないなあ、考えると頭が痛いと言っていたけれど、義母が自分から、「やっぱり、一人で住むのは無理みたいやなあ」と言い出した。入院して体力が戻って、認知症の症状は無くなり、義母は、意識面は非常にしっかりしている。ただ、国立病院で1ヶ月半寝たきりだったので、何も持たないで立てないし、歩けない。今月中に、介護病棟に移ることになるが、いま週5回しているリハビリが、週2回に減るという。病院にいるほうが、私たちは安心なのだが、かわいそうな気もしてしかたがない。
2009.08.12
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昨日から、敦賀に来ている。今回は、15日ごろまでとかなり長い滞在予定。今日は、お寺さんの御施餓鬼で、10日には、義母が一日外泊のために帰ってくる。お盆には、親戚周りやお墓参りをしないといけない。義母が帰れるように準備をしないといけないけれど、家に中を見ると頭がいたい。倒れて入院するまで、義母は認知症の症状がまだらに出ていたのかもしれない。押入れの中や、流しの下など、扉で隠された中がえらいことになっている。考えられないものが、考えられないものと一緒に、考えられない場所に突っ込まれていたりする。暖かくなってきて、ゴキブリが何匹も出てくるというので、先週きたときに、ホウ酸団子をいろいろな場所に置いていった。あれを見ると、家の中で食事をする気分にならないので、今日は朝から、洗濯物だけ干して、ネットカフェでモーニング。何日間か、大掃除しないといけないなあ。
2009.08.07
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昨日、ダンナと一緒に車で敦賀に出かけ、今日、私だけ電車で帰ってきた。敦賀で母のリハビリの様子を見てきた。リハビリ専門の今の病院に転院してきたのは、6月2日。その時は、寝たきりで、ベッドに一人で起きあがることもできなかった。ここの病院では、今週5回、1時間ほどのリハビリを入れてくれている。前回見学させてもらった時は、6月19日で、支えてもらっても、立つのもおぼつかない状態だった。でも、今回はずいぶん足腰がしっかりしてきた。リハビリの先生は、若い女の子だが、実に熱心に、メニューを工夫してくれる。前回、車いすを押してもらって、行ったリハビリ室への移動が、今回は、体を支えてもらいながら、シルバーカーを押していった。15分くらいの、関節や筋肉のマッサージ。そして、お手玉を使った訓練。先生がいろいろなところに置いたお手玉を、取る。このように床のお手玉を拾ったり、高い位置や左右など、手をあげたり、腰をねじって取ったり・・・毎日しているので、固くなった体の節々が、ずいぶん動くようになっている。最後に、体を支えられながら、杖をついて、ベッドの周りを回った。母は、とても自分の家に帰りたがっている。それを励みに、リハビリも頑張っているようだ。でも、四六時中誰かに支えてもらわないと立てないので、家に帰って生活するには厳しい状況かもと言われている。今の病棟にいられるのは、8月末まで。自分の力で立つことができなければ、介護療養型の病棟に移る。塾は、お盆の週を休みにしているので、来週の中頃から長めに敦賀にいる予定だ。リハビリの様子を見て、お盆に、一日外泊をさせてもらうことにした。自宅で生活することができるのか、試してみないとちょっとわからない。
2009.07.29
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心臓の検査のために、入院している母が、一昨日カテーテル検査をした。前日、医師からカテーテル検査の説明を受けた。足の付け根から、血管に細いファイバーを入れ、心臓のところまで行って造影剤を流して、心臓の状態を見るそうだ。母は、慢性的な心不全の状態で、心臓の中には、血管が詰まり機能していない部分もある。大きな血管は、去年の手術で修復されたが、細くなったままのところもある。医師は、いつも最悪の状態の場合の事例を説明する。・造影剤の影響で、腎臓の機能が悪くなり、透析しなくてはならないかも (これは一番可能性が高い)・血管が破れるかもしれない。・血栓が、脳や他の部分に飛ぶかもしれない。母はいつも、最悪の事態が自分に起こるような気になるらしい。検査の途中で悪いところが見つかったら、その場で風船を膨らませて、ステントを入れたり治療(手術)に切り替えるとのこと。麻酔が効いているので、本人は痛みもないとのこと。父が心筋梗塞で亡くなり、母も姉も心筋梗塞を経験している。私にとっても一番可能性のある病気かもしれないなあ。一昨日の検査の途中には、やはり狭窄部分が見つかり、急遽ステントを入れる手術をした。去年の6月の心筋梗塞の時は左側だったけれど、今回は右側の同じようなところ。左右の心房に分かれていく大元のところが、造影剤で見た1mmもないくらいに細くなっていた。入院が遅れていたら、心筋梗塞を起こしていただろう。そこがステントを入れたら6・7mmの太さになった。カテーテルを入れる際の造影剤が腎臓に悪く、人工透析をいつも心配するのだが、先生方はそのことをよく知ってくださっているので、通常の3分の1の造影剤しか使わなかったという。一日は、寝たままで、カテーテルを入れたところから出血したりもしたが、経過は良好で、きのうの午後からは動けるようになった。つくづく母は、強運だなあと思う。母が入院している病院は、心臓に関してはトップレベルの技術と器具が揃っている。心臓外科の3人の先生と、腎臓専門の先生と、糖尿病の先生が、チームを組んで、相談し合って取り組んでくれている。公立の病院なので、費用もそれほどかからない。これからも、少し危険信号がでれば、入院して、同じような治療が続けられるだろう。敦賀の母の治療に、不満や不安を案じることが多いのでなおさらだ。
2009.06.06
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義妹からの電話の後、敦賀の福祉事務所に電話した。ケアマネージャーに、かなり緊迫した状態なのでとお願いしたら、次の日訪問してくれたが、大丈夫そうだと言う。「大阪のおよめさんが、○○できないみたいだと言っているのですが・・・」と言っても大丈夫と言ってますという。それを聞いて、私は怒った。私は、ゴミだけでなく、お風呂に入れてないんじゃないか、トイレの失敗があるんじゃないかと、足が不自由だったら考えられる、心配なことをいろいろ相談した。こんなことを本人の知らない間に話題にしていると知ったら、誰だっていい気がしない。ヨメと姑の微妙な関係で、なんと言うことを言ってくれるんだ。お年寄りなら誰だって、気にしていること。そこを配慮して聞くのがケアマネージャーの仕事でしょう。敦賀は福祉が充実していると思うからこそお願いしているんですよ。言ってみるもんだ。ゴミは、今来てくれているヘルパーさんが、週一度、市のゴミステーションまで持っていってくれることになり、週一度、お風呂にも入れるデイサービスのできるところを探してくれた。そして、4月の私たちの行く日に会わせて、介護認定変更の審査に、市役所から来てくれることになり、デイサービスの施設も見学して、申し込みをするように予定を組んでくれた。
2009.04.14
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今回敦賀へ行ったのは、義母の介護認定の変更を申請するため。2月の末に、岐阜に住む義妹が敦賀へ行ったら、ゴミを出せて無いという。週2回ヘルパーさんにきてもらっているが、ゴミを出して欲しいと言えずに、隠していたようだ。お正月に、こちらにきたときから気になることはいろいろあったんだあ。敦賀の義母は、86歳で一人で暮らしている。昔、ポーラのセールスレディーを歩いてしていたこともあって、足腰が丈夫で、23年前に義父が亡くなってからは、一人で、畑仕事もしていた。2002年の11月、漬物にする大根を干していて、椅子から落ちて大腿骨を骨折し、右足に人工骨を入れた。年明けに退院し、大阪で住もうと誘ったが、住み慣れた所がいいと言い、近所の人や友だちに支えられながらまた一人暮らしを始めた。手術直後は要介護の認定ももらっていたが、数年前からは要支援1という一番軽い認定になってしまっていた。一昨年、私が1回目の手術をした後、足首の関節が無くなったので、障害者手帳をもらった。「お義母さんは、人工股関節なのに何でもらってないの?」と不思議に思った。私は手術直後で行けなかった2006年の暮れ、ダンナが手術した病院に言って、手帳の申請をしてもらった。その時、4年もほっとかれたことに文句を言ったそうだ。その時、耳が聞こえにくくなってきた義母のために、かなり高額の補聴器も買ってあげたが、使いこなせないままに今日まできている。耳が聞こえにくくなって、腰が曲がっていても、畑などしていた義母が、急に弱ったと思えたのは去年の夏。膝に針をしてもらったらよけい痛くなったと湿布を貼っていた。一時的なものかと思ったけれど、お正月に来たときはもっと歩きにくそうになっていた。一歩歩くのは5cm程度で、ちょっと移動するのも時間がかかる。杖をつくか、物を持たないと立てないみたいだし、生活できているんだろうかと気になった。ダンナは、定年退職後、再就職をしないことに決め、4月になったらしょっちゅう行くから頑張ってねと言って送っていった。
2009.04.12
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先日、ルミナリエを見て梅田で泊った次の日、BNPと言う心臓の元気度を測る数値が異常に高く、検査入院した母に電話をしたら、主治医の先生が話があると言う。それで、早く帰って病院に向かった。本人は自覚症状があまりないが、手術から6か月、前回は奇跡的に助かっているが、予断を許さない状況であると言う。年末年始の休暇に何かあると危険なので、カテーテル検査をなるべく早くしたいこと。この検査は、造影剤を使うので、腎臓に負担がかかり、前回せっかくとれた、人工透析を多分しないといけないだろうこと。血栓が飛んだり、感染症や合併症を併発したり、大変リスクを伴う検査であること。心不全で心臓弁膜症を起こしているので、外科の先生とも相談したいこと。など、姉や兄と一緒に母も聞いていたが、あまりの不安材料に、母はだんだん「は~」とため息を漏らしてばかり。その日から5日間、母は毎日ため息ばかり。お医者さんは、最悪の事態の説明をするんであって、その可能性は数%もないから、と言っても、検査の説明書のリスクのところばかりを見てる。もし先生の話が、二日早かったら、姉と一緒に泊まって来れなかったかもしれない。そして今日、お昼から、カテーテル検査が始まった。約一時間、出てきてすぐ、お医者さんが、大丈夫と言った。血管の状態も前回の退院時からそれほど悪くなっておらず、ステントやバルーンもしなくても良かったそうだ。数日様子を見ないとわからないが、造影剤も使用も少なかったので、透析もしなくてもすみそうだ。検査後、4時間ぐらいベッドで横になったままだったけれど、夕食時には、すわって食べられるようになった。82歳と言う年齢を考えると、無理はできないが、年末には家に帰って、お正月を気持ちよく迎えられそうだ。
2008.12.17
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気がつけば1週間もブログを放りっぱなし。29日、大安。母親が無事退院した。29日は、私と姉が、実家に泊まり、30・31日の土日は、我が家で孫たちも来て、24時間テレビを見ながら楽しく過ごした。月曜日からは、日中ヘルパーさんに来てもらって、家事などを手伝ってもらい、夜は、うちで泊っている。母は数年前股関節の手術をし、要支援2で、週一日ヘルパーさんに来てもらっていたが、今回、再審査をした時が、まだ人工透析が続くかどうかといわれているときで、要介護3.毎日、来てもらえることになった。掃除や、食事作り、入浴介助などをしてもらう。今週の木曜日の夜は、ジムへ行きたいので、母がはじめて、自分の家で一人で寝る予定。様子を見ながら、少しずつ今までの生活に戻していければと思っている。母は順調に回復しているが、私のほうが、ちょっと疲れがたまっているみたい。朝起きたら背中が痛くて、調子悪し。そしてまたまた、咳が出だしたら止まらなくなってきた。老人医療の制度も、知ってみたらかなり不思議で、うさんくさいことがいろいろあるし、昨日の福田さんの突然の辞任も、ばからしいし腹立たしいし、書きたいことはいろいろあるのに、なんかしんどいよ。
2008.09.02
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6月の10日に、心筋梗塞で入院した母が、来週の金曜日に退院する予定。両足の付け根、両腕、首の両側、喉、鼻、指先、あらゆるところから管が出て、人工呼吸器、人工心肺、人工透析など、たくさんの機械が周りを取り囲み、3週間意識がなかった。母のいたICUでは、同じ様な機械をつけた人が、どんどんやせ衰え、ある日ベッドからいなくなった。そんな中で、母だけが、一つ一つ周りから機械が減っていき、顔についた、管を押さえるためのテープのあとの傷が、少しずつ癒えていった。人工呼吸器が外れても、口の中が傷だらけで、ものが食べられなかった。私は、多分これだけ寝込んだら、歩けないだろうと思ったし、意識障害は避けられないだろうと思っていた。そんな母が、今では普通にしゃべり、先週からは杖をついて歩いている。先月までは、こんな風に回復するとは思えず、別の病院に転院して、リハビリをする予定だった。でも、転院先の病院は、ほとんど寝たきりの人たち。思いのほか、母の回復速度が速く、転院先でなじめそうにない。それで、今の病院でできるだけ置いてもらって、退院して家に戻ることにした。時々、ICUの看護師さんに出会うと、こんなに元気になったの?とびっくりするそうだ。意識のなかった1ヶ月間、夢をいっぱい見たそうだ。身体中傷だらけで、何度も顔をゆがめていたのに、痛みの記憶は全くないそうで、時々目を開けていたけれど、ICUの中は、ショッピングセンターの中だと思っていたらしい。カウンターの向こうにいる看護師さんが、ショーウインドーの向こうにいる店員に見えたらしい。年齢からすると、奇跡のような回復だが、ものすごく強運の持ち主なんじゃないかと思えてきた。そんな母は、細木数子さんの六星占術によると、霊合星人と言う特殊な運命。どんな運命なのか、本を買って調べたくなってきた。
2008.08.22
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母の病状はどんどん驚くほどの回復ぶりで、今週から常時付いていた人工透析の機械も外されて、週3回となり、口からものを食べる訓練が始まった。そして、時々車椅子にのる訓練も始まり、明日には、ICUを出て、一般病棟に移る。透析の日は辛そうで、終わった後はぐったりしているが、ない日は、体調がよさそうでよくしゃべる。2週間も人工呼吸器が入っていたので、声がかすれて何を言ってるのかわからなかったけれど、やっとコミュニケーションが取れるようになってきた。夢を見ていたのか、何のことを言ってるの?と思う時もあるけれど、理解力や記憶力はしっかりしている。脳の働きをよくするには手先を動かすといいというが、パッチワークや陶芸が趣味というのが、すごく良かったのかもしれないなあ。「『ふりだしにもどる』やなあ。」今週の火曜日、初めてはっきり聞き取れた母の言葉。どうしてこの言葉が出たのはわからなけれど、ちょっと心に残った。一緒に聞いていた姉も、感慨深かったようだ。
2008.07.04
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今日、母の口の中に入っていた人工呼吸器が外された。酸素マスクをつけて、自分で呼吸している。まだ、肺に水がたまって、透析もしながらで、安心できる状態ではないが、またひとつ、大きな山を越えた。こんなことってあるんだ。本当に奇跡のような日々。10日の日、心筋梗塞の手術はしたものの、人工呼吸器や人工心肺装置、人工透析など、母の周りは機械と管だらけだった。人工心肺は、寿命があるのでいつ止まるかわからず、家族など会いたい人に会わせておくように言われ、私は、母から頼まれていたとおり、もしものときのために、何日かに分けて貯金を下ろした。血圧が下がると薬で上げる。おしっこが出ないと、透析の機械で水分を取る。死なないように、人工的に操作する様子を見て、これが延命治療なのだと思った。自分は、延命治療はいらないと書面に残しておこうと思った。数日後、止まっていた心臓がかすかに動き出し、一つ一つ機械がはずれていった。でも、人工呼吸器は一度外して自己呼吸ができなければ、喉の穴を開けてまた呼吸器をつなぐかもしれないと言うので、今日の午前中まで安心ができなかった。お昼に外した直後は、まだ辛そうで見ていられなかった。今までほとんど寝たままだったのに、自己呼吸をさせるために、睡眠剤が制限される。でも、夕方、はっきりと目を開けて、視線が合った。とても辛そうで、痛々しいけれど、「おかあちゃん、よう頑張ったなあ。どんどんよなってるよ。」と、声をかけられるのが嬉しい。姉や兄、義姉たちの顔を見ながら、「わかるか?」と聞くたびにうなずく母を見て、今日はICUの中で、初めて笑い声が漏れた。先生や看護師さんたちが、奇跡のような生命力だと言っていた。病室から出る時、「明日また来るからね。大丈夫やから、安心して寝てな。」と言うと、母が頷いた。明日、行くのが楽しみだ。
2008.06.22
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母の体についていた機械が、今日またひとつ外れた。心臓のポンプ代わりをしていた機械。数日間心臓が止まっていたというのに、一昨日ぐらいから、時々は目を開けて、私たち子どもの声に反応するようになった。最近の医学ってすごいなあとただただ感心している。塾のほうも、生徒が少しずつ増えている。今月、体験的に週1回と言ってた子が、来月から週4回来たいと言うし、来月から弟も来たいといってる。という子もいる。来月から、延べ人数にすると25人。3ヶ月にしては着実な伸びだと思う。母の状態が徐々に落ち着いてきているので、無理のない程度に、普段していたことをしていこうと思っている。法事の前から休んでいたスポーツクラブに、明日からは時間を見つけて、行くつもりだ。ブログも、書いたり読んだりできるかな?
2008.06.18
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ご心配をおかけしています。母は、心筋梗塞でした。最大十日前ぐらいに起こっていたというのに、先週の土日、一緒に名古屋に法事にいっていました。糖尿病と高血圧で、腎臓に不安を持っていましたが、本人も心臓が悪くなっているとは思ってもいませんでした。心筋梗塞の箇所が大きく、心不全を起こしていました。カテーテル手術をし、人工心肺をつけていました。人工心肺は寿命があり、取り外すときがリスクが大きいと言われていました。先週末から、やっと自分の心臓が動き始め、昨日、取り外す手術に成功しました。腎臓も悪くなり、透析もし、体に管がいっぱい付いた状態でまだ予断を許さない状況ですが、ひとつ不安が消えました。ちょっと長丁場になると思います。
2008.06.16
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昨日の晩、9時半頃、姉から電話がかかった。母親の家に電話をかけても、携帯に電話をかけても出ないと言う。変な胸騒ぎがして、ダンナと一緒に様子を見に行くことにした。毎週火曜日と土曜日は、母親とプールへ行く。一昨日の土曜日も、ショッピングセンターの中の本屋で買い物して、お昼を食べて、プールへ行って・・・というコース。プールへ行きだしたのは、10年ほど前、母親の股関節の調子が悪くなってきてから。運動など一度もしたことが無い母だったが、毎週土曜日にプールへ行くのを楽しみにしていて、買い物をしたり、お墓参りをしたり、一日を過ごす。プールでだんだん友だちも出来てきて、5年前に人工股関節を入れて、リハビリを始めてからは、もう一日増やし、自分でも行くようになってきたが、去年、私が休職してからは、火曜と土曜、用事が重なれば次の日というのがパターンになっている。でも、最近ちょっと体調が良くないようで、一昨日本屋の中でもずっと椅子に座って、私が買うのを待っていた。実家へ行くと、玄関の鍵がかかっている。持っている鍵で開けようとしたが、実家の玄関は内側から鍵を閉めると外から開けられない。ダンナとガタガタしていると、別棟に住む兄嫁が出てきた。宅急便が届いているので、届けようと何度も来たが、玄関が閉まっているので、私と出かけたと思っていたらしい。電話が鳴っているのに、まだ出ない。大慌てで、勝手口を開けて中に入ると、ベッドに母が寝ていた。「電話かけたのにどうしてでえへんの」と聞いても、「電話鳴ってた?」と全くろれつが回っていない。目がうつろで、口の周りに戻したのか白い跡がある。救急車を呼ぶと、下着やパジャマを着替えている途中でもう来てくれた。救急車に私が同乗し、名前や住所、既往症などを書類に書いて、病院が決まったら、兄や姉に電話した。自分の名前を聞かれたが、やっと言えるという感じで、私は、(認知症って、こんな風にある日突然来ることもあるんだ)と思った。救急処置室に入って、待合いで待つように言われた。私は、脳溢血か何か、どこかの血管が切れたんだろうと思っていたが、低血糖によるショック状態で、点滴で徐々に回復しているという。兄や姉が到着する頃には、だんだん普通にしゃべれるようになってきた。そのまま入院し、今日の状態は、足下がふらつくような感じがするものの、跡は平常に戻っている。母親は、糖尿病と高血圧の持病があるが、最近風邪を引いたり下痢をしたりして血糖値が低くなっている時に、糖尿病の薬を飲むと低血糖になってしまうことがあるそうだ。母親は、土曜日の夜から意識がとんでいて、ほぼ24時間寝ていたことになる。母親は、見に来てくれて助かったと言いながらも、このまま次の日までほってたら、楽に死ねたかもと言う。私は、そんな風に簡単には死ねへんでしょう。何年も寝たきりになってしまうんと違うの?と思う。
2007.07.02
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