2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全31件 (31件中 1-31件目)
1
↑すいません ↑規則.規則韓国人が見た、日本ですが、外国の人が「日本は公務員国家?即答できない、規則規則、すぐ、上司と相談、」って揶揄されますが、慣れてしまって、これが”普通”文化!って思ってる自分がそこにいるかも? 臨機応変が通用しない「規則の国」日本 2006/11/25 19:00 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 電話料金の領収証を紛失した。本社に料金を請求するには、領収証がなければならない。電話会社のKDDIに「領収証の再発行はできるか」と問い合わせた。すると「できない」という返事が返ってきた。「なぜ?」と聞くと、「領収証は金融会社が発行するもので、顧客に保管責任がある」と言う。 「領収証がだめなら、証明書でもいいから発行してほしい」と言った。料金を支払ったという証明書だ。するとまた「できない」と言う。証明書を発行する制度がないというのだ。かっと頭に血が上った。「わたしはあなたの会社が販売するサービスを購入した消費者だ。お金を支払ったということは、今あなたが見ているコンピューター画面にも出ている。証明できるはずのことをどうして証明できないのか」。向こうは日本特有の「申し訳ありません…」という言葉を繰り返すものの、結局「できない」と返事する。 「できない」と言われるたびに、こちらも語調が荒くなった。かっとなって「マニュアルだけ見ていないで、上司と相談でもして答えなさい」と、大声を上げた。すると「あとで連絡する」と言って向こうが電話を切った。10分後、電話が来た。「お客さま…今回だけ…1回だけ証明書を発行いたします」。当たり前なことを特典でも与えるかのように話す。再び頭に血が上った。「何で“今回だけ”なんだ?」と問い詰めた。向こうは「神経を逆なでしてしまった」と思ったのか、返事をせずにそのまま言葉を続けたが、その続けた言葉がわたしを爆発させた。 「お客さま…3週間後に証明書が届く予定です」「3週間…? ハンコ一つ押すのに3週間だって?」「手続き上、そうなります」「何の手続きですか?」「会社の手続きです」。この意味のない攻防を何度か繰り返すうちに、声が震え始めた。「ちょっと聞きなさい。あなたの会社はサービスを売る会社でしょう。通信サービスを! 何ですべてのことを会社中心に考えるんですか!?」。電話の向こうでため息が聞こえた。「まったく“たちの悪い相手”に当たったもんだ」という愚痴にも似たため息が。 「また電話する」と向こうが電話をいったん切った。そして3分後に電話が来た。「1週間後に届く予定です」。もう1度問い詰めるのも嫌だったし、1週間ならそれほど遅くもない。「分かった」と電話を切った。向こうも気分を害したのか、「失礼しました」とか「申し訳ありませんでした」とか「ありがとうございました」とかいう、日本のサービス企業が常日ごろ連発しているお決まりのあいさつ言葉もなかった。無愛想この上ない。 初めてこちらに引っ越して来て、駐車場を借りたときのことだ。車高が規定より2センチ高いという理由で、月2万円も高く、家から遠い隅の方の場所をあてがわれた。「日本は規則を守る先進国だから」と思い、承諾した。ところが、わが家の目の前の2万円安い駐車場に、わたしの車とまったく同じ車が駐車しているのを見た。「こんなことがあっていいのか」と抗議したが、1カ月間音さたがなかった。それで今度は言い方を変えた。「あなたたちの規則は外国人だけが守るのか」と。すると、すぐに家の前の駐車場に駐車できるようになった。 日本の友達に「こういうとき、君たちはどう対処するんだ?」と聞いてみた。すると「どぎつい性格の人でない限り、多分たいていのことは我慢するだろう」と言う。この言葉には、「韓国人のように、ちょっとしたことですぐに腹を立てるようなことはしない」というニュアンスも含まれている。日本は「規則の国」と言われる。話にならない規則だらけだ。しかし日本では、声を荒らげる消費者も、消費者団体もあまり目にしない。日本のサービス業の従業員は親切で優しい。ところが、日本のサービス業は「三流」との定評もある。消費者がモノを言わないからだ。 今も2万円高い駐車場に誰かの車が留まっている。日本は人が良すぎれば損をする国だ。どの国でも消費者はどぎつい性格であるべきだ。 東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員
2006.11.30
コメント(0)
ヨン様がCMに出ても日本で「ソナタ」が売れないワケ 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 現代自動車は昨年、米国、欧州で80万台以上を販売するなど輸出が大幅に増加した。しかし、日本では販売不調で、最近トヨタ、ホンダ、日産など日本車の国内販売が急増しているのとは対照的だ。現代自動車が法人設立から7年たとうとしている日本市場に定着できない理由は何か。専門家らは、日本車に比べて現代自動車のブランドイメージが低いせいもあるが、マーケティング戦略にも問題があると指摘する。 ペ・ヨンジュンがCMに出ても売れない理由 現代自動車日本販売法人の現代モータージャパンは、2005年9月から中型セダン・ソナタ(排気量2,400cc)の販売を開始した。『CAR GRAPHIC』のような日本の自動車専門誌もかなり好意的な評価を下した。 現代自動車は、ソナタの車名が日本の主婦に人気のペ・ヨンジュン主演のテレビドラマ『冬のソナタ』と同じという点に着目し、今年夏までペ・ヨンジュンをモデルに起用、新聞、テレビなどで大々的に広告してきた。当時の現代モータージャパン社長は「ソナタは日本市場開拓のためのカード」と強い意欲を示した。しかし、今年の日本の月間平均ソナタ販売台数は20台程度。国内で1カ月に1万台売れているのと比較すると、散々な結果だ。 ペ・ヨンジュンを広告に登場させて、「ヨン様」ファンの30-0代の主婦にソナタを売ろうとした戦略自体、間違っていたという指摘が多い。 「日本の主婦は、ソナタのような大型セダンには乗りません。主婦は買い物に便利な小さくてカワイイ多目的小型車を好みます」。在日韓国人のホン・ヒョンスさん(37)=医師/大阪市阿倍野区=は「中大型セダンは40代-50代の男性が主として乗るほかには、韓国とは異なり市場も大きくない」とし、「むしろ、TB (クリックの日本名)のようなハッチバック(後背部ドアが上に開く小型車)をペ・ヨンジュンが広告していれば、主婦にアピールできただろう」と話した。 チェ・ウォンソク記者 2006/11/27
2006.11.29
コメント(0)
《朝鮮日報》 東京特派員から李百万氏へ 東京移住のススメ ノ ムヒョン政権の失策からはじまった、ソウル江南地区を中心とした土地、建物の急激なバブル高騰に苦しむ庶民の痛烈な皮肉記事である。朝鮮日報/朝鮮日報JNS 記事: 2006/11/17【コラム】東京特派員から李百万氏へ:東京移住のススメ どう考えても李百万(イ・ベクマン)大統領府広報首席(不動産転売問題などにより14日に辞意を表明した)は東京に 引っ越した方がよさそうだ。江南の住民に「実はカネがあるくせによくも庶民のふりをしてきた」と非難されるくらいなら、いっそ思い切って国を後にしたほうがよいのではないか。 まずは自身が江南(カンナム)に持っている55坪(約180平方メートル)のマンションを20億ウォンで処分することだ。 自ら「模範」を示せば、李百万氏の言うように「不動産政策の確実な成功」も可能となるだろう。 20億ウォンを日本円に両替すると約2億5000万円になる。この金を持って引っ越しの準備をするのだ。先進国だからといって、生活の水準が維持できないなどという心配は無用だ。 まずソウルの江南区に相当する東京港区にマンションを購入するのだ。偶然にも日本語読みでは発音が江南と同じ になる港区の再開発地域、港南に専用面積 145平方メートルの物件が出ている。李百万氏が住んでいたマンションと同じような広さで、昨年1月に竣工した新築マンションだ。このマンションの価格は 1億2980万円。ソウルと東京で同じ ような条件の物件を購入しても、東京のほうが1億2020万円安いのだ。 この時から李百万氏の人生はさらに余裕のあるものとなる。今度は江南の富裕層に一番よく売れている「レクサス」の 最高級モデルを買って乗り回そう。韓国の平凡なサラリーマンには望むべくもない販売価格1億3000万ウォン(約1625万円)の車だ。その高級車も東京では965万円で買える。オプションを減らせば770万円でも買える。 ついでに軽井沢に別荘を買ってもいい。軽井沢は日本有数の別荘地だ。ソニーの創業者、井深大氏もここの別荘で余生を送った。軽井沢で今売りに出されている敷地151坪(約500平方メートル)、建坪40坪(約130平方メートル)の別荘の値段は3200万円だ。 それから東京にほど近い千葉の立派なゴルフ場の会員権を100万円で購入するのも悪くない。 こうして港区のマンション、レクサスの最高級モデル、軽井沢の別荘、ゴルフ場の会員券を購入しても、ソウル江南のマンションを売った代金から7755万円のお釣りが来る。後は余ったカネを使って生活すればいい。 2004 年に日本の総務省が「夫婦が老後に余裕のある生活をするために必要な額」を調べている。それによると一月37万9000円あれば暮らせるという。李百万氏は余ったカネで先進国に17年も余裕を持って生活することができる。家を担保に融資を受ければ、その後も20年くらいは心配なく暮らせる。 ニュージーランドやオーストラリア、カナダのように「孤独な生活」となる心配もない。目的はともかく、与野党の国会議員はもちろん、大統領選挙の候補まで、頻繁に東京を訪れる。彼らが来れば、時には韓国のクラブが密集した赤坂で「派手な宴会」も行われる。いくら赤っ恥をかいて引退したとはいえ、大統領府の広報首席まで務めた人物を邪険に扱いはしないだろう。 鮮于鉦(ソンウ・ジョン)=東京特派員
2006.11.28
コメント(2)
松坂 レッドソックスが60億円の裏事情: 暗躍するユダヤ資本 当初、西部のお家事情の足元を見られて買いたたかれると思われたが、ヤンキースとの競り状態になりとんでもない値段に引き上げられた。完全にバブル値段である。転売して利鞘を稼ぐのも難しい値段である。レッドソックスは何を考えているのだろう?露骨にヤンキースに転売するわけに行かないので、転売相手はメッツなのだろうが、5000万ドル以上の金額をメッツが支払うとも思えない。唯一考えられるのは、この金額はダミーで、目的は西武に対する経営参加にあるのではないだろうか?破綻状態の西武に触手を伸ばしたユダヤ資本が乗っ取り工作の一環として、松坂を利用したと考えられる。レッドソックス自体現在は完全にユダヤ系資本の傘下に置かれている。潤沢な資金もそこから出されているのである。ヤンキースもメッツも実はユダヤ系、競りもヤラセの疑いが強い。見かけはスポーツの話のようだが裏ではドス黒い資金が流れているものと思われる。 松坂 レッドソックスが60億円で交渉権 世界も驚愕、破格のマネーゲームhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061116-00000001-san-spo プロ野球西武球団と米大リーグ機構は15日、ポスティングシステム(入札制度)で大リーグ移籍を目指す松坂大輔投手(26)をレッドソックスが落札したと日米で同時に発表した。落札額は5111万1111ドル11セント(約60億円)の破格の金額となり、レッドソックスは30日間の松坂との独占交渉権を獲得した。 同日午後、成田空港内で記者会見した松坂は「昔からの名門チーム。契約できたらすぐにでも球場に行きたい」と笑顔で語った。約60億円という入札額については、「信じられなかった。うれしい半面、プレッシャーもある」と述べた。(参照)<松坂Rソックス決定>入札額60億円 日本球界草刈り場?http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20061116&a=20061116-00000008-mai-spoボストン・レッドソックスhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9セオ・エプスタインhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%97%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3 [ 憂国通信No.187より]
2006.11.28
コメント(0)
国と国籍と彼女と私 ともあれ彼女と私はわりと気の合う方ですぐに仲よくなった。でもある程度親しくなると韓国の友達とは違う変な距離感を感じた。親しくなってもふとした瞬間に一線をひかれてる感じを受けた。 私は心の中で「この人は韓国人でもやっぱり日本育ちだから日本人みたいな感覚なのだろうなあ。やっぱりなにか違う」と思った。そんな彼女に変化が訪れた。何がきっかけなのかはわからないが猛烈に韓国にのめり込んでいった。以前は和食が好きだった彼女が韓国食を好み、韓国人の友人が増え、話し方や行動までがだんだん韓国人みたいになってきた。彼女のだんなは日本人で彼女にたまに問いかけるそうだ。「なんで日本育ちの君がどうしてそんな韓国人みたいに振る舞うの?」私も全く同感だった。その反面バリバリの韓国人であるはずの私は最近彼女に「日本人みたいになってきたね」といわれるようになってきた。私はそうかな?とあまり深く考えてなかったが韓国に帰って久々に韓国の友だちを会うとみんなも口をそろえて同じ言葉をいう。初めは外見の事を言っているのかなと思った。だがそれは外見だけでなく日本に住む年を重ねるごとに考え方や行動もだんだん日本人チック(?)になってきてるそうだ。真相を確かめたくて日本の友だちに聞いてみたら私はやっぱり日本人とは違うらしい。私はどっち付かずの人間になってしまったのだろうか..? 転載元: 小さい韓国と日本
2006.11.27
コメント(0)
国と国籍と彼女と私 私はほとんどの教育を韓国で受けている。私が学生時代を過ごしていた80年から90年代はまだ冷戦時代の真っ只中でソ連やアメリカや西ドイツ東ドイツがいがみ合っていた。韓国と北朝鮮も同じであり、当時の韓国の一番の敵は赤である北朝鮮だった。私たちは共産主義がどういう思想で北朝鮮がどういう国か知る前に徹底した反共教育で育てられた。毎年6月25日が近づいてくると反共の映画を学校で上映されてみんなでみたり、反共ポスターや作文を書いてた。私も義務的にポスターを描いてよくわけもわからず賞をもらったことがある。同じ民族でも北朝鮮も北朝鮮人も憎むべき対象であり、とても恐ろしいものだった。でもその事を疑問に思い始めたのは大人になって日本に来てからだった。町で買い物をしてると白と黒の韓服(チマジョゴリ)をきた女の子達と遭遇した。韓国でもなかなか見られないそのモノクロの韓服をきた女の子達の姿は強い威圧感と印象をあたえた。私はその謎の子達の正体を知りたく知人に聞いてみた。するとそれは北朝鮮学校に通ってる子達だというのだ。私はかなりのショックを受けた。近くて一番遠い国である北朝鮮は恐れの対象であり、その国の子達を日本の町で遭遇するなんて考えても見なかった。馬鹿な話だが北朝鮮人は北朝鮮だけにいると思ってた。 転載元: 小さい韓国と日本
2006.11.26
コメント(0)
1945年終戦を向えた時、強制連行で日本につれてこられた人や自ら日本に渡ってきた人、かなりの朝鮮人が日本には住んでいた。韓半島が日本から解放され喜びもつかの間、またもや共産主義と民主主義という思想により半分に切断された。一つの国が分断されることにより韓民族は北朝鮮と韓国どちらかの国籍の選択をせざるえなくなった。多くの人は自分の故郷によって決めたり、なかには思想によって選んだり、そして地上樂園と言われた北朝鮮を選んだ人も多かったそうだ。冷戦時代に徹底した反共教育を行ってた韓国側としては北朝鮮の国籍を選んだ人がいる事は隠したかったのかもしれない。でも彼らが日本に連れられ植民地時代をどう生きたかだけではなく、その後どのような運命をたどったのか知るべきだったと思う。国とか民族とはいったい何なのだろう?私は今まで自分が受けた教育と現実の状況を知って混亂した。この事に関して強く考えるようになったのはある女の人とであってからだ。私が彼女にあったとき彼女は北朝鮮から韓国へ国籍を変えたばかりだった。彼女は小学から高校まで朝鮮学校を通った在日3世だった。彼女は自分の通った朝鮮学校を話してくれた。授業に思想教育の時間があって資本主義の批判や将軍様を讃える演説をしながら、なかには涙を流す学生もいたという。ホームルームの時間に「今日○○さんは日本語を使いました」とつけ愚痴をする時間もあったそうだ。私は「ありえない」と爆笑しながらも彼女の話に半信半疑だった。でも彼女の話してた内容はのちに「GO」という映画によりそっくり証明された。 はじめは彼女の話をただの興味とお笑いで聞いていたが話を聞くにつれ私はある疑問を思った。韓国は民主主義国家で言論の自由が保障されてる。メディアや言論媒体を通じていろいろな情報が入ってきて鎖国の北朝鮮とは違うと信じてた。でも一歩離れてみたら私が今まで何の疑いもなく受けてた半共教育も今も連日のようにニュースで流れる北朝鮮の鎖国と何の違があるのだろう?そう考えはじめたら韓国だけでなく、テレビから流れるニュースも、世界中で行われてる戦争の大義名分やいろいろな事が全部嘘っぱちに思えてきた。この頃から「今もしかして洗脳されてるんじゃないの?」と自分に問いかける癖ができた。もう一つ驚いたのは北朝鮮から韓国に国籍を変えられる事だった。北朝鮮籍で朝鮮学校を通って共産主義教育をうけた彼女が韓国人となり、韓国のパスポートを作ってグアムに行くとはしゃいでいた。私にはとても理解しがたかったが、改めて北朝鮮と韓国と一つの民族だと思った。 転載元: 小さい韓国と日本
2006.11.25
コメント(0)
【2006年最高の流行語は「テンジャン女」】 中央日報 今年のインターネットを熱くした最高の流行語は《テンジャン女》であることが調査で分かった。 検索ポータルのヤフーコリアは今年1-10月、ネチズンが最も頻繁に入力した検索語のうち、 新しく登場した新造語と流行語10語を選定し、23日発表した。 1位になった 「テンジャン女」高級コーヒーを飲み、名品バッグを持ちながら、金持ちの男性を探す女性の日課を描写した「テンジャン女の一日」というオンライン掲示文から始まった。 これを擁護する女性と非難する男性が《性対決》に近いオンライン論争が繰り広げ、 アンチテンジャン女サイトにはテンジャン女を育てるゲームまでが登場した。2位はドイツワールドカップ(W杯)前に映画俳優キム・スロが披露した「コクジジョムダンス」で、 W杯公式応援ダンスになるほど人気を集めた。3位は、テレビ番組で額をたたく動作で笑いを誘った「マッパギ」4位には、漫画家コ・ビョンギュ氏の2コマ漫画「朝三暮四」が入った。5位は芸能人のおかしな表情をとらえた写真「芸能人の屈辱シリーズ」、 6位は今年10月にわいせつ物流布の疑いで立件されたキム某容疑者を別称「キム・ボンジャ」だった。7位は、W杯決勝戦でフランスのサッカー選手ジダンがマテラッツィに頭突きしたのを、李乙容(イ・ウルヨン)が試合中に中国選手の後頭部を殴った「乙容打」にちなんで名づけた「ジダン打」で、8位はSBS(ソウル放送)「ギャグ夜」の人気コーナー「サモニム(奥様)」、9位は芸能人の顔を合成する《合成遊び》だった。10位は今年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)大会で「向う30年間、日本に勝てないと思わせる」と言った野球選手イチローの妄言だ。新造語と流行語を含めて今年ネチズンが最も頻繁に検索欄に入力した言葉は「ロト(宝くじ)」だった。 また「メープルストーリー」「カートライダー」「リネー ジュ」など10代向けのオンラインゲームが上位に入った。 映画俳優は「イ・ジ ュンギ」、歌手は「スーパージュニア」、テレビドラマは「宮」、スポーツ選手で は「朴智星(パク・チソン)」を検索したネチズンが多かった。 金元培(キム・ウォンベ)記者 onebye@joongang.co.kr
2006.11.24
コメント(2)
ハングル外国人に、「私、ヒラガナ少し話せますよ」と言われたら、「???」と思うだろう。「ハングル話せますよ」もまったく同じである。ハングル、とは朝鮮半島で使われている表音文字のこと。日本でいえばヒラガナ・カタカナにあたるから、「ハングルで書く」とは言っても、「ハングルで話す」のはおかしい。ところが、かなり多くの日本人は、ハングル=韓国語、の意味で使用している。これはたぶん、NHKのせいだ。80年代初め、NHKではじめて隣国の言葉の講座を開く際、名称でもめたらしい。分断以前の言葉なら、【朝鮮語】ですむのだが、南北に分かれて数十年経った今では、「朝鮮語」というと北朝鮮で使われている言葉とも解される。かといって、「韓国語」では片手落ち、とも考えたのだろう。 韓国で使われている言葉と北朝鮮で使われている言葉は、社会の異質性などを反映し、 今では相当な違いが出て来ている。 韓国のTVのニュースなどでは、北朝鮮の人が話している時、字幕を流す。苦肉の策で、NHKでは「ハングル講座」と決定。実際はここでは、現代韓国語を扱ったから、ハングル=韓国語という図式が、日本人の頭の中で出来上がってしまったわけだ。韓国の人たちは、よく【ウリマル・我々のことば】という言葉を使う。日本での【やまとことば】にあたるニュアンスだ。この【ウリマル】が、北朝鮮と韓国で使われている言葉の総称になるわけだが、外国人が「ウリ(我々)」というのは、これもまたおかしいわけで、NHKの講座も、やっぱり未だ「ハングル講座」のようだ。 転載元: いつでも韓国
2006.11.23
コメント(2)
日ハムの森本 稀哲(ヒチョリ) = ピッコロ 大魔王 新庄選手とは、大の仲良し!いつも楽しそうにお喋り!http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%AC%E7%A8%80%E5%93%B2ウイキ ペディア森本 稀哲(モリモト ヒチョル本名:李稀哲 1981年1月31日生)東京都荒川区日暮里出身。北海道日本ハムファイターズ所属日ハムの森本 稀哲(ヒチョリ)=ピッコロ大魔王」とは..本名で通す心のあかし日本プロ野球ではこれまで数多くの在日コリアン選手が過去も、現在も活躍してきました。韓国、朝鮮籍のまま活躍してるか、日本国籍に帰化したかは別として、前にも書きました張本勲氏や金村義明氏なども、自身のルーツを明らかにした人はいましが、本名読みのままで一軍登録した選手は初めてです。日本一になった北海道日本ハムファイターズで、ポスト新庄としての地位を獲得したスキンヘッドの25歳、彼は名前で球界に革命を起こす。(題目はAERA11月27日増大号参照)森本選手の存在は知ってましたが、人間、森本の事はまったく知りませんでした。出張の折、新幹線の中で読んだAERAに偶然、記事が載ってたんで、帰って少し調べてみました。時間があれば少しお付き合い下さい。 明るくてひょうきんな、日ハムの森本ヒチョリ(稀哲)韓国では名前の後に、○○君、とか、ちゃんの意味で、~「イ」とか「ア」とつけます。稀哲(ヒチョル)が名前で、その後ろに「イ」がついて発音が変化し「ヒチョリ」となります。(ややこしいですね、どうでもいいか)森本選手は、ピッコロ大魔王と言うキャラでスキンヘッドが売り物ですが、その裏には小学生の時、突然襲った原因不明の難病で「髪の毛がぬける」と言う子供にとっては想像を絶するコンプレックスの中で幼少時代を過ごしました。「国籍との問題より、僕にとってはどちらかと言えば、病気の事の方が心配でしたね」と語っています。今は病気も完治し、髪の毛は生えるが、今では毎日自身でカミソリをあてて頭を剃っている(キャラのため)森本 稀哲(もりもと ひちょり、本名:李稀哲 1981年1月31日生)東京都荒川区日暮里出身。北海道日本ハムファイターズ所属身長・体重 1m84cm、81kg 投打 右/右 血液型 B型 出身地 東京都荒川区 球歴・入団経緯 帝京高校-日本ハム(1999年~) ドラフト年度・順位 1998年4位 帝京高校では1998年に主将、遊撃手として夏の甲子園に出場。三回戦・浜田高校戦で和田毅(現福岡ソフトバンクホークス)から本塁打を放つも敗退。高校通算34本塁打。同年秋のドラフト4位で日本ハムに入団し、外野手に転向した。守備走塁に定評があり、パンチ力はあるが、打撃に波があったため、当初は控えに甘んじていました。2006年には打撃でも結果を出し、1番・左翼手または中堅手としてレギュラー出場して、規定打席にも到達しパリーグ得点王。新庄剛志・稲葉篤紀と共に、外野のレギュラーを確保しチームのレギュラーシーズン1位通過に貢献。父は在日韓国人で母は日本人。生家は日暮里駅前で焼肉店「絵理花」。(この店の名は森本の応援歌の歌詞にも登場しています)AERAのインタビュー記事より、「僕ね・・・・「あの人も在日だよ」とか聞きますけど全然まったくわからないんですよ。そもそも意識しないし。「在日コリアン」だと言うより、逆に、相手が自分を見て「実は俺もそうなんだ。」と言う選手が多いんです。在日だからと言ってそんな輪の中に入ろうとは思わないし。日本人とか在日だとか、そういうの関係ないし。韓国に住むなんて考えてないし、日本好きだし、僕は日本で生まれてに日本で育ったわけですから」記者-これから貴方の様な選手がどんどん出てくるかも知れませんね。森本「そういうことになれば、嬉しいですけどね」からっとした、前向きな姿がいいですね。私と同じ考え、スタンス、嬉しい限りです。記事に一部より抜粋、これが彼の生きてきたバックボーンでしょうか?記者-本はよく読む?「野球関係と違う普通の本を読むようになりました。(中略)例えば、奥さんが庭の雑草を全部取ったけど、一つだけ取り忘れたんです。でもその雑草は太陽に向って独力で伸び、頑張って生きようとしてる、そんなエピソードです。」稀哲(ひちょり)と言う名前は、めずらしくて覚えにくいと思います。それをそのまま、球団の意向に反して通すにはそれ相応の自信と実績がいっただろうと思います。この事実を知って、最初はスキンヘッドを見て、笑ってしまった自分が恥ずかしく思えてなりません。日ハムには何の興味も無かった私ですが、病気にもめげずに明るい森本選手のコメントや映像を見て、こうして調べていくうちに、彼の人としての強さに感動しました。新庄選手の裏方、弟分程度にしか評価していなかった私ですが、個人的に応援しようと思える選手と出合えたのも、このブログを始めたおかげだと感謝しています。この森本という選手、裏方を称え続けた新庄選手も、又、見直さなければならないと反省を込めてあげてみました。幼くして味わった、難病というハンデーを克服した彼にとって見れば、在日なんてことは二次的な問題でしかないんだと、私は自分の家族を通して、そう実感できます。個人の問題を国家に転化しようとする人々に森本 ヒチョリの考えは理解できないでしょう。最後に、日本ハムのファンがヒチョリの事を、何の偏見もなしに色眼鏡をかけずに人間、森本 ヒチョリとして、1人のスター選手として評価してくれてる事に拍手を送りたいと思います。 エピソード本塁打を放つと全力疾走でダイヤモンドを1周することがある。 2006年7月2日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で、試合後のヒーローインタビューの際、前年のファン感謝イベントで公約していた通りカラオケを披露、尾崎豊の『きっと忘れない』を熱唱。 同年7月21日のオールスターゲーム第1戦では顔を緑に塗った上に触角をつけ、漫画『ドラゴンボール』の登場人物「ピッコロ大魔王」の姿で登場した。しかしテレビ中継では原作版権の問題もありピッコロ森本は画面に映るもののアナウンサーが頑なに無視し続けた事もファンの爆笑を誘う。7月23日の第2戦では真ん中を空けたカツラをつけて、差し歯を抜いたスタイルで登場し、新庄らパ・リーグナインが大爆笑!(笑:)この試合では3安打1本塁打2打点、そして2年前の新庄に続きホームスチール(ただし重盗)を決めるなど活躍し、新人MVPを受賞。 同年7月26日の対東北楽天戦、4-4の同点で迎えた延長10回裏、二死満塁で福盛和男から劇的な決勝ヒットを放ち、オールスターでの大活躍が本物であることを見せつける。 同年8月13日、札幌ドームで行われた「ファイターズ超満員大作戦」第3回(対千葉ロッテマリーンズ戦)、日本ハムのスタメン選手らがラリージャパンの宣伝のためラリーカーに乗って入場してくる際に、自身は一番最後からラリージャパンののぼりをはためかせながら自転車を漕いで入場。転倒し、球場内のファンを沸かせた。
2006.11.22
コメント(5)
韓国の”国家保安法”と日本の”共謀罪”は一蓮托生 他人事ではない、、もうそこまで来てる《たれこみ社会》以前、韓国へ行けば「隠れたスパイを見つけよう。申告は国民の義務、電話申告は000000まで!」といたる所に横断幕が垂れ下がっていました。1970年代韓国では、身内、学校、団体、隣組に必ず政府の犬、密告、垂れ込み屋がいると言われていました。身近な親戚に「法事の日でも、人前では政治談議は絶対するな!」と注意されたのを今も覚えています。1990年代になっても、日本へ旅行した人が身内の家に遊びに行って、帰国後、安企部(旧KIACA)に連れて行かれ事情聴取されたと言う事件を目の当たりにしたことがあります。しかし、韓国や、旧ピノチェト政権のチリでも、人権侵害とたれこみ社会の弊害、それらの反省に立って廃案、もしくは、その検討がなされています。必ず、悪法は葬り去られる運命にあると言う事です。以下は、韓国での国家保安法関連の記事です。時間があればお読みください。国家保安法とは国家の安全を危うくする反国家的活動を取り締まるためとして李承晩(イ・スンマン)政権が1948年に制定。80年に反共法を吸収する形で大幅に改正されました。スパイ活動などだけでなく反政府運動や民主化運動の取り締まりなどに利用されたとの批判も多く、改廃が論議されてきました。国家機関の国家人権委員会が今年8月に廃止を勧告しましたが、憲法裁判所は同月、合憲とする判断を示しました。大法院(最高裁)が9月2日の判決で「北朝鮮が韓国の体制転覆を試みる可能性は残っている」として、同法を存続すべきだとするなど意見が割れています。(ソウル共同)2004/9/7 韓国=朝鮮日報2001/03/02 【コラム】永遠の「憎いアヒルの子」 権力が記者や論説委員を扱う方式には、政権ごとに特徴があった。権威主義政権におけるそれは、一言で「棒」を大家とみなした。「ソン・ウフィ編集局長ら、『南北、国連同時加入準備』記事で、反共法違反の嫌疑により拘束(1964)」「キム・チャンシク編集局長、スパイの『拳銃発見』記事で、報道禁止要請に反する反共法の嫌疑により拘束(1965)」「キム・ジンベ記者、『次官』記事で反共法違反の立件(1968)」「パク・ヨンス記者、『服毒自殺の女スパイ』記事で、利敵行為の嫌疑により拘束((1971))というように。 70年代の緊急措置9号の時期には、「流言飛語流布罪」でマスコミの口を大元から塞いだ。法にかけられない『不敬罪』の場合には、そのまま無断で引っ張って行き、殴り倒したり脅したりするのが常であった。80年代の第5共和国時代には、『浄化』『統廃合』『言論基本法』というもので、新聞・放送の首を掴んだ。その頃、ソウル太平路にあるプレスセンターでは、「言論基本法案」をめぐる公開討論会があった。パク判事が法案の内容を説明し、筆者と金重権(キム・ジュングォン)当時の民正党国会議員(現民主党代表)が、反対と賛成で互いに異なる見解を発表した。今の時点でも、筆者はその日その時の金重権氏の論理には絶対に同意しない。 暴力に疲れた記者や論説委員が、同僚の「解職マスコミ人」に対し、どうしようもないコンプレックスを感じながら、「暗くてつらい夜が明けるように」いつかは訪れるであろう民主化のその日を待ちこがれた。そうこうしながら、ついに「クォン・インスク」が現れ、「パク・ジョンチョル」が現れた。そして民主化が訪れた。記者や論説委員も、今やもう、筆先で災いが起こるようなことはないだろうと思っていた。ところがこれはどういうことか?民主化した政権もやはり、また違う種類の「権力・マスコミ」間の殺伐とした雰囲気を作り出した。 もちろん、記者や論説委員にも反省する点があるだろう。事実関係を誤って指摘した時もあっただろうし、個人の名誉と私生活を侵害したこともあっただろう。不本意ながら、誰かを悔しがらせた事例もあっただろうし、針小棒大と選定主義に逸脱したこともあっただろう。しかし、本当に驚くべきことは、 民主政権の「誰かのほおを打つ」式のマスコミ転がしと、神経質な「マスコミ批判に耐えられない」症だった。 権威主義政権は、「棒」を振り回しながらも、クーデター政権として、どこか生まれつきの劣等意識のようなものを感じているようだった。そのため、脅かしながらも、ちょこちょこと照れくささを見せるようなところがあった。ところが、民主政権はそうではなかった。「我々は民主化闘争を主導した神聖で偉大な人間だ。そして、改革と正義を具現しようという絶対線それ自体だ。だから、そういう我々に対し何だかんだとけんかをふっかけるような者をだまって見ている必要もなく、無条件反改革だ」という方式なのである。もちろん、「反改革」もあり得るし、「反改革=反政府」という等式も成立する。しかし、「民主政権に対する一切の異議申し出=一括反改革」という等式は、絶対に成り立たない。 「一列に並ばない」という意見を沈黙させようという新版画一主義旋風が起きている。 新聞と放送、新聞と新聞が互いを必要とすることなく、かみつき合うようになっている新版「グラディエーター広場」も行われている。そうかと思えば、マスコミの幹部を「裸捜索」しようという、新熱帯雨林の風俗図も広まっている。文章を書いて語る職業とは、民主化ではなく、さらにひどいことがあったとしても、このように昼夜にわたり、こっちでさく烈あっちでさく烈するという「みにくいあひるの子」ということか?いったい「マスコミ人=永遠の雨蛙」という機能は、いつになったら「職業」として公認の実体性を認められるのか?行っても行っても終わりの無い旅程だ。 リュウ・クンイル/論説主幹
2006.11.21
コメント(0)
リアルパッチギ(青春時代編)第二章5-2 ほほ~~~い!一週間のご無沙汰でした。映画「パッチギ!2」の撮影も順調に進んでいるようです、いやいや主演の中村ゆりちゃん、かわいいですね!(うちの娘の方がかわいいかな?またまた親ばかでした~~~!)前回の「パッチギ!」は1968年の京都でしたが、今回の「パッチギ!2」はその6年後の1974年アンソンとキョンジャが東京に引っ越してきて生活を始めると言うところから始まるそうです。そう、1974年といえば、私が青春のど真ん中にいた時代です!!!!そうそう、前回のリアルパツチギ(青春時代編)は、キョンジャ!じゃない、ミョンジャ(仮名にします)との初めて出会ったところで終わりましたね。やっぱつづきを書かないといけないかな???(もったいぶってないで、早く書け~~~~)はいはい、というわけで記憶を30年前に引き戻すことに致します!(あかん、最近ボケが少し入ってきて記憶が????)ミョンジャとの強烈な出会いから、一日後、朝お店で掃除をしていると「チリン、チリン」と入り口の鈴がなり、いきなりミョンジャが「おはようございます~~」と入ってきて、そそくさと着替え、手伝いだしました。お、どうしたのかと兄さんに聞くと「ミョンジャは高校卒業して、就職するまでの間、店を手伝いにきたんや~」とのこと、おお~~これから毎日会えるんだ~~と心の中で叫びました!!それからの日々は、楽しくもあり、辛くもありの毎日でした。なぜ辛いかと言うと、私は、中華料理屋でバイトをしながら定時制高校に通っている身分ですし、実家も貧乏ですし(今思うと、実家の貧乏なんか関係ないと思いますが、当時はそれもコンプレックスと感じていました)何もない自分から見ると、はるか上の高嶺の花ですんで、「ほれたらアカン、ほれたらアカン」と自分に言い聞かせていました。それに毎日のように、どこで聞きつけたか、チョチョンの仲間や野球部の仲間が、それはもう羊に群がる狼のように、ミョンジャを口説こうと押し寄せてきてました。そんな光景を横目で見ながら、どうせ俺みたいな奴なんか、ミョンジャが相手してくれる分けはないと思い、密かに恋心を秘めたまま、決して悟られることの無いように、無関心を装い心を閉ざしつづける毎日でした。(なんせ皆さんご存知の通り、この頃は恥ずかしがり屋でとってもシャイな私でしたもんで!!今の私からは想像も出来ないでしょう、がはははははは~~~)そしていよいよ、ミョンジャが、大阪に帰る日がやってきました。ミョンジャを迎えにきたのかどうか分かりませんが、大阪のオモニの妹のおばさんもやってきてミョンジャと一緒に大阪に帰るというので、お店のヒョンニンが「荷物が一杯やから、東京駅までおくってや~」と、一言「イェー」とばかりに、いそいそと荷物を持ち、ああこれでお別れなんだと心の中で呟きながら終止無言のまま、東京駅の新幹線乗り場まで送くっていきました。大阪行きの新幹線が到着し、席をさがし荷物を棚に置き、さあいよいよお別れの時が来たと思い「それじゃあ、元気でね」と、心を閉ざしたまま挨拶をかわし帰ろうかと思ったその時!それこそ神様のいたずらか!運命なのか!とんでも無いことが起こりました。 みなさんなんだと思います。 で つづく。て言ったらみんな怒るだろうな~~~いやいや本当にびっくり、窓の外を見ると、な、なんと動き出しているではありませんか!!!!え、え、どうしたの???そうです!降り遅れてしまったんです。ほんとかよ~~ぜんぜん発車のベルなんか聞こえなかったぞ!どうなっちゃたんだ~~「あははは~~」振り向くと、大阪のおばさんと、ミョンジャが笑っていました。「ま、しゃ~あないわ、次の駅で降りてもどったらええやんか!」とおばさん。「そうですね、次は確か新横浜か?え、え、まてよ、これって確かひかりだよな~~て、次は名古屋ですよ」と私、それからの名古屋に着くまでの2時間、おばさんそして、ミョンジャと色々な話をしながら過ごしました。いままで秘めていた、私の心の中を悟られないようにしながら楽しくもあり、辛い時間でした。そしていよいよ、名古屋駅に近づき、「もうまもなく、名古屋駅に到着いたします」とアナウンスおばさんに別れを告げ、ミョンジャと共に出口のデッキに立ち,お互い何も話さずじっと目を見つめあいました。もうこれでミョンジャともついにお別れか!と思った瞬間私は、何も考えず口では言えない苦しみを吐き出すかのようにミョンジャを抱きしめました。するとミョンジャもぎゅっと力を込めて抱き返してくるではありませんか。そうお互いの気持ちを確かめるかのように!・・・・そして駅に着き 「プシュー」と扉が開き、「名古屋~、名古屋~」私は後ろも振り向かず分かれの言葉を交わすことも無く、飛び出すようにホームに出ました。それから、東京に戻るまで、ミョンジャへの引き裂けるような恋心を胸に秘めじっと耐える自分がいました。 つづく!と、まあここまで書きましたが、これからが本当の始まりです。南北に引き裂かれた恋人同士がリムジン河を、はさみ大恋愛を繰り広げるんですねえ。(こらこらそんな、大袈裟なんか!!)映画をも凌ぐ、リアルパッチギ、期待してください。これからは、R15指定にせなあかんかな~~?なんせ最年少のブログチングは幼稚園児やからな~~ま、いいか、一部表現を訂正しながらソフトタッチでいきます。よろしく!!!!がははっはは~~ 転載元: ■「パッチギ!」■(人生を突き破れ、リアルパッチギ,)
2006.11.20
コメント(0)
教育基本法改正:参院で審議入り 「在日の子はさらに委縮」 友人の金 光敏氏のコメントを新聞で見つけたので紹介します。毎日新聞/大阪ニュース - 11月18日(土) 朝刊 教育基本法改正:参院で審議入り 「在日の子はさらに委縮」3世の金光敏さん ◇愛国心教育強まれば「在日の子はさらに委縮」--学校飛び回り支援する金光敏さん指摘 教育基本法改正案が17日、参院で審議入りした。教育の機会均等を定めた現行法の下でも、十分な教育を受けられなかった在日コリアンらは複雑な思いを抱いている。 大阪市生野区の在日3世、金光敏(キムクァンミン)さん(35)の亡くなった母呉勝子(オスンジャ)さんは戦後、鉄くずを拾って家計を助ける傍ら、小学校に通ったが、教室で「外人」といじめられ、自然に足が遠のいた。 それでも、国語辞典を引きながら懸命に新聞を読み、子どもたちの学校の書類はたどたどしい字を書いて提出した。「私は、学校に通えんかったから頭が悪い。あんたは高校に行っておくれ」。そう嘆く母がふびんで、恥ずかしかった。狭い長屋の一室で靴作りの内職を続け、金さんが高校生の時、がんのため42歳で亡くなった。 教育基本法制定から59年。在日の人々にとっては、その理念が十分に生かされてきたとは言いがたい。日本在住の外国人が約200万人に達し、学校現場の多国籍化は進む一方だが、在日の子どもたちの多くは本名を隠しながら生きているという。 在日コリアンの教育支援の専門家として、府内の学校を飛び回る金さんは「愛国心教育が強まれば、在日の子はさらに委縮する。改正案を進める人々は、日本の学校には、日本人の子どもしかいないと思い込んでいる」と指摘する。【大場弘行】関連記事 KOREA NPOセンター事務局長 金 光敏氏【日韓】「戦争を知らない世代が、経済発展した韓国に違和感を覚え、差別意識を再生産した。」オーマイニュース・鳥越編集長[2006/08/01] ◇嫌韓流に苦悩の船出 「朝鮮メディアが反日活動を国内でやろうとしている」「日本に『朝鮮のアカニュース』は要りません」 7月になり、こんな書き込みが次々と寄せられている。今月28日創刊のインターネット新聞「オーマイニュース」の「開店準備中ブログ」だ。 韓国で00年に創刊した「オーマイニュース」の日本版。「市民記者」として登録すれば誰でも記事が書け、読者も意見を書き込める新媒体だ。 市民記者を増やす目的で6月に開設したブログ。韓国生まれのメディアのためか、記事と無縁の韓国攻撃も目立つ。書き込みは誰でも読める状態のままだ。 編集局内で議論が続く。氏名など事前登録した人だけが意見を書き込める「登録制」導入時期の議論だ。市民記者は約330人。 「根拠のない中傷が飛び交っては、誰も市民記者にならない」と危機感も強い。1日から、書き込める権限を登録済みの市民記者に限り、創刊後は読者である「準市民記者」を含め事前登録した人に限ることとした。 編集長の鳥越俊太郎さん(66)は「戦争を知らない若い世代が、経済発展した韓国に違和感を覚え、過去にあった差別意識を再生産した。 ネットという匿名の場に、ネガティブな感情が噴出している。書き込み可能な読者の登録制は、当初からの予定通り」と語る。 昨夏出版の「マンガ嫌韓流」。「嫌韓流2」と合わせ67万部売れた。日本人大学生が「韓国人自身も日韓併合を望んだ」などと、在日韓国人らを論破する。 戦後補償や外国人参政権、竹島領有などの問題で、韓国側の主張を否定する。 作者の山野車輪氏は、文書で答えた。「自分も参加していた一部のインターネット世論が反映されたもので、嫌韓流に描かれてあることが、彼らが考える歴史認識や問題意識であると思う」。 出版元「晋遊舎」の担当編集者も「ネット上で、マスコミの韓国や北朝鮮報道への不満を書き込んでいる若い層が買ってくれた」と分析する。 ネットが支える「嫌韓」。在日コリアンの人権・教育保障に取り組む「コリアNGOセンター」の金光敏(キムグァンミン)事務局長(34)が7月、大阪府内の公立校教師対象の研修で、在日コリアンの生徒が差別を受けた状況を説明した際、若い男性教師が言った。「韓国も反日運動をしてるじゃないか」。 金さんは「実際にあった差別の話をしているのに、すぐに国の論理に飛躍させる。『嫌韓流』などの影響では」と感じる。最近、同様の発言をぶつけられる機会が多い。
2006.11.19
コメント(0)
異民族への視線ーマルセ太郎異聞ー 【マルセ太郎さんの自伝、『芸人魂』(講談社)。決して上手な文章とは言えないですが、面白くやがて哀しい男の人生を魅力的に描いています。すでに絶版だと思いますが、古本屋などで見かけたら是非買って読んでみて下さい。少なくとも田代まさしの自伝よりかは面白いことは保証します(笑)】最近の靖国神社論争や日韓の北朝鮮への温度差の影響なんでしょうか?ブログやインターネット掲示板を見ると、随分在日コリアン含めた韓国関係の文化や人々を非難する内容が多いです。僕は、別に韓国が特別に好きなわけでもありません。また、韓国政府や韓国人、在日韓国人の対応は、日本人には理解しにくい部分もあります。正直なところ、アンタら、そりゃ違うやろ!と思うこともしばしばです。しかし、インターネットの話題の中には、ヒステリックに民族そのものを全否定しているものも多く、疑問を感じます。そして、そんな文面を見ながら、孤高の芸人 マルセ太郎さんのことを思い出していたのでした。大学時代、先輩と居酒屋で好きな芸人について話をしたときでした。ひょんなことから、形態模写が上手い芸人は誰か?と言う話題になり、様々な芸人が出てきた後、先輩の口からひょっこり出てきたのが、マルセさんでした。『ああ、そんなんいましたね。』冷酒に舌鼓をうちながら、興味なく相槌をうった記憶があります。僕もマルセさんの名前は知っていました。しかし、あくまで名前程度で興味も関心もありませんでした。正月の特番か何かで徳光アナウンサーの後ろで延々得意のゴリラの形態模写をしていた奇妙な芸人って印象ぐらい。結局、この時は、マルセさんのことはそれ以上話題にならず、あっという間に他の話題に移りました。そして、社会人。僕は、東京の本社に配属になりました。付き合っていた彼女も遠距離になり、デート三昧の休日は、一人盛り場をうろつく日々と変わりました。そんな退屈な週末のある雨の日、見たかった映画が満員で入れず、仕方なく入った場末の小劇場。そこで、偶然マルセさんに再会したのでした。演題は、マルセさんが1本の映画を丸々演じ、語る『スクリーンのない映画館』と言う奇妙な一人芝居でした。薄暗く、小汚い劇場は、驚くほど閑散としていました。僕を含め、お客さんは、10名もいなかったと思います。そこいらの学生演劇の方が余程集まるでしょう。あまりの少なさに何かのドッキリ企画ではないかとさえ思ったほどです。実際、マルセさんはこの頃、どん底状態。ほとんど世間から忘れられた存在でした。熱心なファンが何とか支えている状態だったと後で聞きました。客の少なさ(しかも半数以上は、明らかにマルセ信者)と言う状態に居心地が悪く、出て行こうかとも思いました。しかし、結局最後まで出て行きませんでした。何故なら、彼は題材とした映画『泥の河』をオリジナル以上に繊細に切なく演じていたからです。映画は終戦後間もない大阪で出会った少年と少女の交流を淡々と描いた作品でした。マルセさんの表情や仕草は、映画を思い出させるだけでなく、静かな気迫を伴って伝わりました。それは、僕の記憶にある“単なるゴリラの物真似をする妙な芸人”とは大きく違うものでした。誠に不恰好、しかし、真摯な熱演ぶりは、まさに彼が信奉し、名前を拝借したフランスのパントマイム演者 マルセル・マルソーを彷彿とさせるものでした。当時、マルセさんは、東京の某所に小さな店を開いていました。お店と言っても『人力車』と言うただの小さなスナックでした。このお店、芸人だけではとても食べていけないマルセさんが奥さんと一緒に営んでいたのでした。僕は、この店に時々マルセさんがいると聞き、何回か行ったことがあります。(ちなみにこのお店、無名時代の映画監督の崔洋一さんや作家のヤン・ソギル(梁石日)さんも来ていたそうです。ヤン氏の小説、特にデビュー作の『タクシー狂騒曲』は大好きな作品だけに、一度店で会って話してみたかったです。)確かに運がいいと、店の奥にマルセさんがいて、いろいろな話をしてくれました。人様に忘れられた単なる貧乏芸人。当然テレビにも出ないし、風貌もサエない労務者風。人気のタレントみたいな洗練された部分など微塵もなく、苦労ばかりが顔に出た単なるくたびれオヤジ。しかし、僕にとっては、憧れのスターです。大阪の下町 生野区出身のマルセさんは、大阪での子供時代の話や芸の苦労話を面白おかしく聞かせてくれました。僕は、憧れのスターが語りかけてくれる話を夢中になって聞きました。ある日、ひょんなことから彼が在日コリアンであることを知りました。しかし、在日コリアンであろうと、ブラジルであろうと、アフリカであろうと、日本であろうと、関係ありませんでした。何故なら、僕にとってそんなことは、さして重要ではなかったからです。そんなことより、彼の演技や芸こそ重要であり、大切だったからです。好きな芸人の芸を見れて、その人の店で心行くまで深酒ができる。それだけで、十分嬉しかったのです。その後、演芸に造詣が深い永六輔さんなどに再評価がされたものの、2001年、マルセさんは、大してブレークすることなく、亡くなりました。ここ数年、芸人ブームで様々な人がテレビや舞台で活躍しています。しかし、僕は、まだマルセさんほどの静かな迫力を持つ芸人には出会えていません。売れる売れないで判断すれば、芸人として落第だったマルセさん。しかし、そんな彼が僕にとって何故偉大だったのか?それは、単に芸の魅力だけではないでしょう。“国籍や出生、民族で判断するな、その人のありのままを見て判断しなさい。”そんな事を芸を通して僕に教えてくれたからだと思います。文化や民族が違えば確かに食い違いもあるでしょう。しかし、そんな違いを超え、人物を見据えて付き合っていくことはできないのでしょうか?『こいつは〇〇だから』と言うレッテルを貼らずに対人間として接することはできないのでしょうか?僕は必ずできると思います。彼の芸からそんなことを学んだ僕は、外国人と結婚しました。それもイデオロギーも文化も全く違う旧ソビエトの国、辺境の地、中央アジア出身の人でした。披露宴も新婚旅行もない出発でしたが、仲人は、天国のマルセさんだったと勝手に信じています。 転載元: シルクロードから嫁が来た!!
2006.11.18
コメント(0)
尹東柱 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/42491978.html と、金素月(1902~1934、韓国・朝鮮)の詩は全世界のKOREANのみならず、日本や中国にも多くのファンがいます。金素月は、日本の島崎藤村にあたると言ってもいいでしょう。 金素月の詩は”コスモスゆれて”のサイトでみれます。http://hw001.gate01.com/myongsuk-k/yellow.html 文学作品の訳の難しさを書いてるサイトを良くみかけます。以前、上田敏がフランスの詩を『海潮音』で見事なまでに日本語に訳しました。しかし、それは文学に傾倒し、その基礎知識と感受性、そして何よりも、その作家の心を知らないと読者には伝わってこないものです。以前、韓国の抵抗詩人、金 芝河の出獄後の書物を知人の女性が翻訳しましたが、さっぱり解らず、いったい何を言いたいの?って思いで原本を読まざるをえませんでした。そうしてやっと作者の意図が理解できました。よく言われることですが、「通訳や翻訳の世界では言葉を訳す”通訳馬鹿”はいらないんだ、文化を通訳する通訳が必要だ」と。金素月の詩をと通して、その翻訳のごく一部の紹介と、文学作品訳の難しさを取り上げてみました。 忘れ得ず 金 素月 (キム ソウオル)忘れ得ず思い出すでしょう それなりに一生をお過ごしなさい 生きていれば忘れる日もあるでしょう 忘れ得ず思い出すでしょう それなりに歳月をお過ごしなさい 忘れられなくもたまには忘れられるでしょう しかしまたこうなのです 「恋しくていちずに忘れ得ないのに どうしたら想いが消えるのでしょう」 (「つつじの花」より) 林 容澤 訳 (イム・ヨンテク) 同じ詩でも訳でこんなに違いが出ます。引き続き、同じ詩の金 素雲訳。 忘れねばこそ 金 素月わすれねばこそ こゝろもくるふ、 ならば一生を(ひとよ)をたゞ生きなされ 生きりゃ わすれる日もござる。 わすれねばこそ おもひはつのる、 ならば月日を ただ経(ふ)りなされ たまにやおもはぬ日もござる。 したが はてさて こればつかりは、 --しんじつ恋しいこゝろのひとを 束の間ぢやとて どうわすれよう。 金 素雲 訳 言い訳:プロでもこれだけの違いがあるんです。普段の私の幼稚な翻訳をお許し下さい~~。≪Nov 16, 2006 KBSワールドより≫今日の主人公は、歌謡曲にもなってしまったという有名な詩「つつじの花」を書いた詩人金素月です 金素月は1902年、今は北韓になっている平安北道で 生れました。ここは中国との国境に近いため、韓国の中でも最も早く西洋の文明が流入してきた地域の1つです。 その為ここからは、金素月の他にも多くの文化人がでています。 また金素月が産まれた村は、同じ公州金氏の一族100所帯余りが集まってくらす村でした。 そしてその中で素月は一族の長男の息子、つまり跡取り息子だったわけです。ただ幼い頃父が日本人の暴漢に襲われ重傷を負い、その後の一生を精神を患って過ごした事は、素月の人生にも暗い影を投げおとしました。 病んだ父の代わりに素月を教育した祖父は彼を民族教育の盛んな五山中学に進学させます。そしてここで素月は彼の文学的な先生である詩人・金億と出会い、詩を書き始めます。 1922年に発表された詩「つつじの花」で彼は一躍脚光を集め、 1925年には同名の唯一の詩集「つつじの花」が刊行されます。 しかしそれまででした。彼は33歳で、自らその命を絶ってしまいます。妻:あなた どこに行ってきたんです? 素月: 墓参りに行ってきた。街で酒を買ってきた、今夜は酒盛りだ!! 妻 :まあそれは、それは。そうですね、度重なる事業の失敗、あなたも辛いですよね今日はパーっと2人でやりましょう。 妻:あなたー 私もう飲めませんは。もうウイッ、焼酎が ウイッ、頭のてっぺんまで一杯! (ぐーぐー) 素月: 妻よ、酔って寝てしまったか。ふがいな亭主のせいで苦労をかけるな。私はもう人生につかれてしまった。思えば私の人生は挫折の連続だった。父は暴漢に襲われ気がおかしくなり、せっかくの留学も関東大震災のために途中で放棄し、結婚して始めた東亜日報の販売店の仕事もすぐにだめになってしまった。もういい、これ以上生きていて何になろう。街で買ってきたこの阿片で私の人生に終わりを告げるのだ。金素月の人生も日本による植民地支配の影があったと言う現実です。追記11/18http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&p=2 yahooブログで同一の記事を載せています。金素月の詩と歌を味わいたくて書いたつもりが、訳のわからないnet右翼?が場の空気すら読めずに詩の情緒を壊して喜んでるみたいです。ここに韓国の有名な詩人、韓 龍雲の≪ニムの沈黙≫から一節を追記します。氏は僧侶で民族主義者、その反国精神と詩は韓国の三大詩人とも言われるほどです。"ニム"とは”様”と言う意味ですが、又、次の機会に紹介します。 誹 謗世間には誹謗も多いし ねたみも少なくありません。あなたに誹謗とねたみの牙が向けられようと お気になさらぬように。誹謗好きの連中は 太陽に黒点があることさえ もっけの幸いと思うもんです。あなたには 誹謗することがないその点を誹謗するかもしれません。
2006.11.17
コメント(0)
朝鮮戦争勃発後に巻き込まれての悲劇と前後の心打たれる物語を、シルバー高知のメーリングリストで紹介された宮内治さんの作品を転載しました。 千鶴子は一人娘である。明治から大正に元号が変わった1912年、高知市若松町で生をうけた。若松町の碑文には「父・徳治、母・はる」とある――。 1919年、千鶴子が7歳の時、朝鮮総督府木浦市庁の役人だった父を頼って母・はるとともに海を渡った。暮らしは裕福だった。しかし、20歳の時、徳治が病で突然、他界した。はるは助産婦をしながら女手一つで千鶴子を育てた。 母・はるは熱心なクリスチャンだった。その影響か、女学校を卒業した千鶴子は、教会の日曜学校でオルガンを弾くようになった。ある日、女学校時代の恩師から、「木浦の郊外で孤児院を経営している韓国の青年が日本語の先生を探している。行ってみてくれないか」と頼まれることがあった。 それが尹到浩(ユン・チホ)との出会いだった。尹到浩はその孤児院の園長だった。千鶴子が訪ねると、尹到浩は遠くで作業をしている。背の低いやせた青年だった。丸坊主の頭に麦わら帽子をかぶり、わらじを履いて孤軍奮闘している。孤児院といっても、いまにも潰れそうなバラックである。障子も襖もない。殺風景な30畳ほどの部屋が一つあるばかりだった。むろん畳などあるはずはない。「かます」と呼ばれる穀物や石炭などを入れる粗末なむしろ袋が敷いてあるだけだった。 千鶴子がとまどいがちに声をかけると、尹到浩がようやく振り向いた。その目は澄み、気力に溢れていた。千鶴子の胸は少しく高鳴った。 その日から千鶴子の新しい生活が始まった。食うや食わずの40~50人の子どもたちの世話に明け暮れるのである。最初は笑顔を見せなかった孤児たちも、千鶴子の献身的な奉仕に次第に心を開き始めた。子どもたちは当然に、千鶴子に母親を求めた。千鶴子は園児たちにとってなくてはならない存在となっていった。 それは尹到浩にとっても同様であった。ある日、尹到浩は千鶴子に言った。二人でこの子どもたちの親にならないか、と。尹らしい朴訥な口調であり、最初、千鶴子にはよくその意味がのみこめなかった。しかし尹の顔が、異様に赤い。千鶴子にも異存はなかった。 しかし当時の日本人の朝鮮人に対する差別感情は根強く、二人の結婚には誰もが驚いた。ことに内地の親戚筋の反対の声は強かった。それでも二人は愛のほうを選んだ。1939(昭和14)年、尹が31歳、千鶴子が28歳の時だった。母・はるだけは千鶴子の気持ちをよく理解していた。千鶴子の手を取り、「神の前では日本人も朝鮮人もない。誰もが兄弟姉妹じゃきにね……」と、励ましてくれた。(つづく) 電気もガスもない凄まじい新婚生活だった。勿論、米などはめったに口にできない。二人だけのことではない。到浩も千鶴子も既に何十人という子持ちなのである。そのうえに園の子どもたちは裸足で園舎を出入りするし、朝、顔を洗うことすら知らない。生活習慣などまったく身につけていないのである。 千鶴子はまず、人間は規則正しく食事しなければいけないことから教え始めた。そして、食前には神に感謝の言葉を捧げ、顔や手を洗うことを教えた。園には風呂はない。近くの海に出かけて皆で体を洗った。夜は間仕切りのない部屋である。かますの上で雑魚寝をした。バラック建ての孤児院は何時、風で吹き飛ばされるかわからない……。 それに子どもたちはますます増えていくのである。木浦の周辺には無数の島々があり、いずれも寒村である。食いっぱずれた親たちが次々と捨て子のようにわが子を孤児園に託していく。尹到浩も千鶴子も決してそれを拒まなかった。 それにしても園舎の改善は急務だった。尹到浩と千鶴子はつてを頼って総督府に窮状を訴え、やっとオンドルつきの2部屋が造築されるところまでこぎつけた。 翌40年、長女・清美(チョンミ)、42年には長男・基(ギ)が誕生した。千鶴子はわが子と孤児を分け隔てはしなかった。実子たちも皆、園中で育てられた。 45年、終戦。36年にも及ぶ日本占領から解放され、南朝鮮は独立して大韓民国となった。立場の逆転である。千鶴子は「このまま韓国にとどまりたい」と願ったが、世情はそれを許さなかった。千鶴子や母・はるはやはり旧支配者の日本人であるのだ。悩みぬいた末、千鶴子は夫や園の子どもたちに別れを告げて、年老いた母・はると一旦、日本に帰ることにした。 千鶴子のお腹には三人目の子が宿っていた。辛い、切ない別れだった……。 故郷である高知市も惨状を極めていた。戦禍に加えて南海大震災の追撃。気丈な土佐ッ子も「この世に神も仏もないか」と嘆いたものだった。しかし千鶴子には、日本占領下の朝鮮の暮らしに比べればなにほどのことかと思えた。物がなければないで何とかなる。それな皆、何とか食えるのである。帰るべき故郷、家もある。高知で親類や近所の温情にもすいぶん触れた。しかし千鶴子には、夫や園の子どもたちのことが何よりも辛かった。 日に日に大きくなるわが腹を見つめながら、やがて千鶴子は強く決意するのである。この子を生んだら、私は木浦に帰るんだ、と……。47年、三人目の子を携えて千鶴子は再び木浦共生園の門前に立った。一年余の空白だった。目ざとい子が千鶴子を見つけた。「オモニが帰ってきた!」と叫び、園児たちは三々五々に数を増して、そこら中を駆け回った。やがて尹到浩が出迎えた。到浩は「千鶴子さん……」と、唸るように言った。後は言葉にならなかった。今度は、千鶴子が言った。「私、今日から尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗るわ……」尹到浩は眼を潤ませながら、しっかりと千鶴子の手を握りしめた。周囲では無数の子どもたちが眼を輝かしていた。 しかし当時の韓国人の反日感情は殺気すら帯びていた。ある日、この木浦共生園にも暴徒たちはやってきた。「倭奴(ウエノム)をぶっ殺せ!」―― 尹到浩は「話せばわかる」と皆を諫めようとする。しかし、なかなか治まらない。千鶴子は恐怖に青ざめた。すると、園の子どもたちが暴徒たちの前に立ちはだかるように千鶴子を取り囲んだ。「僕たちのオモニに何をするんだ!」 千鶴子は思った。この子たちのためなら、いつでも命を捨てられる……。 終戦から数年がたち、村人の暮らしもやや落ち着きを取り戻し始めた。村人たちも次第に千鶴子たちに心を開くようになった。木浦共生園が二十周年を迎えた年に、待望の講堂が完成した。その記念に、と村人たちがりっぱな記念碑までを建ててくれた。尹夫婦の長年の労苦がようやく実を結びつつあるかにみえた。 ところが、1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争が勃発するのである。北朝鮮軍が突然38度線を突破して南下してきた。それは破竹の勢いであり、瞬く間に全羅南道にある木浦も席巻された。北朝鮮軍は日本人や日本への協力者を極端に嫌った。あちこちの町や村で「人民裁判」が行われるようになった。やがて北朝鮮軍が木浦共生園にも立ち現れた。千鶴子も銃口の前に立たされることになった。さすがの千鶴子も覚悟を決めた。日本がこの国にしてきたことを思えば……。 夫の尹もクリスチャンである。共産軍に決して好まれてはいない。千鶴子を処刑するならば自分を先にしろ、と北の将校に迫った。と、そのとき、ユン・ハクジャは無罪だ、と叫んだ一人の村人がいた。「ユン・ハクジャはわれわれ貧民の仲間だ!」周りの村人たちも叫んだ。「そうだ! そうだ! もっと悪い奴をやれ!」 千鶴子は再び人々の愛に救われた――。「あの時、千鶴子は死んだのよ!」と、後に高知の親類の一人に語っている。彼女はこの時、一生を孤児たちに捧げると心に誓った。2004.7.2高新、伝えたい土佐の100人、言葉その言葉より、 だが、それは束の間の平穏だった。翌51年1月、食糧の調達に出かけた尹が行方不明になってしまったのだ。北朝鮮軍に拉致されたのでは、との噂も流れた。ともかくも、尹はそれっきり木浦共生園に帰ってはこなかった。 53年になって、やっと停戦になった。園の子どもたちも500人にふくれあがっていた。千鶴子自身にも四人の子がいた。周囲の人々は、けなげな千鶴子に心から勧めた。「子どもを連れて日本へ帰りなさい」。しかし、千鶴子は微動だにしなかった。「夫の20年の仕事、この木浦共生園は私の命なのだ」、と。 千鶴子は子どもたちだけにはひもじい思いをさせたくなかった。リヤカーを引き、村人たちの家々を漬け物や残飯をもらい歩いた。詐欺師にだまされて園を乗っ取られそうになったこともあった。そのたび、千鶴子は果敢に闘った。子どもたちはそうした千鶴子をよく見ていた。大きな子は街で靴磨きなどをして園の会計を助けた。 63年、千鶴子は韓国政府から文化勲章を授与された。65年には日韓国交が回復した。ようやく歴史に吹く風は南風になった。孤児たちの将来を憂う千鶴子は、かねてからの腹案であった職業訓練学校の設立に動いた。西走東奔し始めた。このとき彼女は「夫が帰るときまでと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と答えている、2004.7.2伝えたい土佐の100人、その言葉より しかし、長年の辛苦は千鶴子の体を確実に蝕んでいた。やがて千鶴子は病に倒れてしまうのである。千鶴子は「自分のために高い治療費をかけるのはだめよ。そのお金を園の子どもたちの進学資金に使いなさい」と、諄いほど指示していたという。 皆の祈りもむなしく千鶴子の病状は悪化するばかりだった。やがて千鶴子は死を覚悟して木浦共生園に戻ってきた。周囲にとってそれは哀しい帰園だった。その10日後、愛しい子どもたちに取り囲まれながら'''千鶴子は静かに息をひきとった。1968(昭和31)年10月31日、奇しくも千鶴子57歳の誕生日だった――。 悲報は韓国全国を駆けめぐった。国中に散らばった卒園生たちは号泣した。木浦市は初の市民葬とすることを決定した。葬儀には韓国全土から3万人が参列した。その日を、地元紙は、「木浦は泣いた」と報じた。'''77年、千鶴子の長年の夢だった職業訓練学校がソウルに完成した。これまでたくさんの人材を世界各地に送り出している。韓国・木浦共生園は、長女・清美が引き継いだ。いまは孫にあたる妙齢の女性が園長を務められている。 また、「梅干しが食べたい」と、死の床でうわごとを言った母の思い(生涯を閉じた56才の誕生日を迎えた日かすかな声で、夫の行方が分からなくなってから、韓国では一度も口にしたことのない日本語であった;2004.7.2高新、伝えた土佐の100人、その言葉より)を知る長男・基(ギ)は、大阪で在日同胞のために、キムチが食べられる老人ホームをつくった。尹到浩と千鶴子の遺志はこうして二人の子どもたちや孫たちに受け継がれている。なお、標題とした「愛の黙示録」は95年に完成した日韓合作の初めての映画の題である。監督は金洙容(キム・スヨン)。千鶴子の長男・尹基(ユン・ギ)原作の伝記を中島丈博が脚本化し、千鶴子役を石田ゆり、尹到浩役を吉用祐(キム・ヨンウ)が熱演している。「黙示録」とは、「新約聖書巻末の一書。小アジアで迫害されているキリスト教徒を慰藉、激励し、キリストの再来、神の国の到来と地上の王国の滅亡とを叙述。ヨハネ黙示録。ほかに、正典に属さないユダヤ教・キリスト教の黙示録的な類書がある」と辞書にある。
2006.11.16
コメント(0)
きっと笑って会える日をお兄さん元気ですか二年前の六月 八年ぶりに会えた時の 感激は忘れませんお互い 言葉もなく なつかしさと 嬉しさで 胸がはりさけそうでした。言葉が なかなか 見つからず ただ 涙ばかり あふれました私が「A地区」の人と 結婚したいといった時 「親に こんな想いをさせてまで……。」と ショックで 床にふせた お母さんの前で 言われましたね 今でも 私を恨んでいますか 親不孝な妹だと思っていますかそのお母さんも 今は”部落差別に”ぶつかって「人間にとって いちばん大切なことが 見えてきた 自分の中の何かが 変ってきた」と言ってくれています。でも……。このあいだ 家に帰ったとき 「お兄さんの結婚話が また だめになった」と聞きました。「私のことが 原因してるのかなあ」と聞いたら 「そんなこと ないと思うけど……」と 私によけいな心配をかけまいとしながらも 言葉を 濁してしまいましたそのことを聞くたびに 胸が痛みます。決して 後悔したり 卑下 しているのではないのですむしろ ここに来て 本当に よかった と 誇りをもって 言いきれますだけど お兄さんの結婚話が うまくいかない と聞くのは 本当に辛いですお兄さん!もっと強くなって! そんなことで 結婚をためらうようなひと!こっちから おことわりや!勝手な 言いぐさかもしれないけれど……そのぐらいの気持ちに なってほしい もし そのことで お兄さんが 私を恨んだり 憎んだりしているとしたら……部落に嫁いだ妹より”部落差別”を憎んでくださいでも きっと いい人が現れると思います 私と「A地区」の出逢いがあったように やさしいお兄さんだからこそ きっと きっと いい出逢いが……お姉さん「部落の人とは 親せきになりたくない」と猛反対したお姉さん あれっきり一度も 会っていないけど 子どもたちは 大きくなったでしょうねBちゃんは もうすぐ高校生? 私みたいな妹がいることは 知らないのかなあ でも Bちゃんたちも 大きくなって 学校で社会で”部落問題”にぶつかった時子どもに どう 言いますか?「差別しろ」と言うのですかもし 万が一 そうだとしたら あと 何十年たっても 会えることはないでしょうねでも 私は信じています お姉さんは 私のこと”かたときも 忘れてはいないし いちばん 気にしていくれている”といつか 会える日を楽しみにしていますきっと 笑って会える日を<お母さんの手記> 思い起こせば、十数年前、末娘が私達夫婦、姉兄の猛反対をふり切って部落の男性と結婚した当時は、筆舌に尽くしがたい思いでいっぱいでした。よりによって部落民と一緒になるなんて、その思いはなかなか捨てきれず世の中のあり方に腹を立てたりしたものです。 私達が子供の頃は親も又周囲も部落民を蔑んだものです。「あの地区へ行くとこわい人が居るから絶対行ってはいけない」とまでいわれて育てられて来ました。その位、異質の様に思はされて来た部落の人間を自分の生んだ娘が結婚相手に選んだ、「こんな馬鹿な事があるだろうか、悪い夢でも見ているのだったらさめてほしい」、何度もそう思ったものです。でもまぎれもなくそれは現実として私達一家を暗いものとしてしまったのです。つらい思いからのがれるべく主人は単身赴任地からめったに帰らなくなり、私もこのままでは参ってしまうとふと趣味を見つけました。幸いその事で幾分か心を和ます事はできましたがやはり苦しい歳月でした。 そのうち娘から連絡が入る様になり無事で暮らしてゐるのならいいと思う事としました。追々と子供も二人出来、その頃から私共も娘から、差別を受けた側の人達の事を聞かされたりさりげなく送ってくれる本を読んでいくにつれ、だんだんと私共の気持ちが変って行きました。 謂れなき差別に長い間苦しめられて来た人達に、私共は追い打ちをかける様に偏見を持って接して来た事が恥ずかしくさへ思える様になって参りました。 もし娘が部落の男性と結婚しなかったら私達は過った考えのまま人を平気で差別する人間として一生過ごす事となったでしょう。 私は娘に人間の本質を見る事を教へられ又本当の愛の強さを身に持って知らせてくれた事を有難いと思へる様になりました。 昨年、気になっていた息子の結婚の際も姉妹の中で一番気を使ってくれた心優しい娘夫婦に、今は感謝の気持ちで一パイです。未だ未だ差別は根強く残っているのも事実です。 「差別」ーこの言葉が地球上から消えさることを願ってペンを置きます。「心に翼を」”自分をたいせつにできない人は、他人もたいせつにできない”自分が「差別」というものを体験していちばん感じたことです。部落差別を知り、そこから始まったほんとうの人間としての営み。差別している立場を自覚することは、良いこと。決して恐れることはない。そこには、構造や仕組みがある。それを許さなければいい。許さないと思ったら、そういう生き方をしようと思う。自覚し行動することをやりつづけることができるのが、人間のすばらしさなのだから… これは、我が社で人権研修が行われたときの講師の先生の体験に基づく実話です。但し、匿名姓の強いネット社会なので氏名及びお住まいの地区名は伏せました。この度、先生はブログ掲載を快諾して下さいました。この場をもって厚く御礼申し上げます。 まったけ 拝【関連記事】まったけ日記100ー麻生太郎氏の部落差別発言を断じて許さない!ー http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/9495382.htmlまったけ日記156ーまったけの部落問題入門-【部落問題の参考文献一覧があります。】http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/21153413.html今日の独り言 野中シェーンシェイ、カムバアアアアーーーック京都亀岡国際秘宝館・本館 http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html
2006.11.15
コメント(0)
マザーテレサの言葉。いつも私を原点に戻してくれ、勇気を与えてくれる魔法の言葉。平和大賛成!!!!無料で募金ができるサイト。あなたのクリックで救える命がある! http://www.dff.jp 転載元: 認知症(?)の母とともに
2006.11.14
コメント(0)
日本と原子爆弾の誘惑ドイツの新聞 die WELTより 北朝鮮の石頭共産党員のごく最近の核兵器実験はアジアの強国を驚かせた。そして自身の核保有の可能性まで思い出させた。政府・政治家は日本が二度と原子攻撃の犠牲者にならない「全ての可能性」を議論したいのである。そして日本の隣人は仰天している怖い~~~。東京18時から19時:日本の安部晋三総理。11月にベトナムのハノイで開催されるアジアの太平洋経済フォーラム(APEC)では北朝鮮の原子爆弾の実験が重大な話題として参加する。21カ国からの国と政府指導者は一方で北朝鮮の原子爆弾実験に対して更なる議論と行動を提案したい意向である。その上で同国が原子爆弾を開発してはならず、そのことが地域を驚かせるかどうかに関係なく、現在かなり日本の政治家の間で激しい議論を巻き起こしているのだ。平壌核爆弾実験は、世界で2番目に最も大きい経済力を持ち潜在的に強い可能性を持つ国にあることを思い出させたのである。「日本は多分誘惑に屈するでしょう」と韓国の反対野党政治家リー・ミュンバクが恐れる。日本の政治の流れを彼は危惧する、彼は2007年の大統領選挙で最大野党に候補者にノミネートされている。APEC会談の2者の会話において安部総理は廻りで話をはっきりさせたいのである。日本政府の6週間は日本は大声でしばしば自国の核武装を明らかに発表している。そして明らかに北朝鮮の核実験の後でさえ自国の核兵器は北朝鮮に対するための選択肢ではないと言う。しかし、静かにならない慎重を要する話題についての全ての公式発表にもかかわらず議論は収まりそうもない。彼らは現在の自由民主党で最も著名な政治家のうちの2人、中川政調会長と麻生外相を激しく熱している。「核兵器は最大の抑止の形です」と中川昭一政調会長がしばしば言う。「我々は確かに日本が二度と原子攻撃の犠牲者にならないという全ての可能性を議論しなければなりません」。日本の麻生太郎外務大臣は北朝鮮の核実験の直後にすでに発言している。翻訳の途中でパソコンがアウト、急いで原文記事に戻るとなんと消滅していた。それで覚えている内容を以下に書き留めておく。1、韓国ハンナラ党の2007年大統領候補が日本は最終的に核を保有するだろうと恐れている。2、日本の原子力発電所は53基あるが使用済み核燃料が43,1トンある、これを100トンまで貯めて核兵器用に濃縮したプルトニウムでおよそ3千~4千個の核爆弾ができる。日本の技術なら小型化も敏速に出来る。こういう情報をどんどん特アに流せばいい、情報戦の価値が理解できないのは政治家もマスコミも同じ。 転載元: 問答無用の世界の現実
2006.11.13
コメント(0)
結婚差別の体験から「きっと笑って会える日を」 きっと笑って会える日をお兄さん元気ですか二年前の六月 八年ぶりに会えた時の 感激は忘れませんお互い 言葉もなく なつかしさと 嬉しさで 胸がはりさけそうでした。言葉が なかなか 見つからず ただ 涙ばかり あふれました私が「A地区」の人と 結婚したいといった時 「親に こんな想いをさせてまで……。」と ショックで 床にふせた お母さんの前で 言われましたね 今でも 私を恨んでいますか 親不孝な妹だと思っていますかそのお母さんも 今は”部落差別に”ぶつかって「人間にとって いちばん大切なことが 見えてきた 自分の中の何かが 変ってきた」と言ってくれています。でも……。このあいだ 家に帰ったとき 「お兄さんの結婚話が また だめになった」と聞きました。「私のことが 原因してるのかなあ」と聞いたら 「そんなこと ないと思うけど……」と 私によけいな心配をかけまいとしながらも 言葉を 濁してしまいましたそのことを聞くたびに 胸が痛みます。決して 後悔したり 卑下 しているのではないのですむしろ ここに来て 本当に よかった と 誇りをもって 言いきれますだけど お兄さんの結婚話が うまくいかない と聞くのは 本当に辛いですお兄さん!もっと強くなって! そんなことで 結婚をためらうようなひと!こっちから おことわりや!勝手な 言いぐさかもしれないけれど……そのぐらいの気持ちに なってほしい もし そのことで お兄さんが 私を恨んだり 憎んだりしているとしたら……部落に嫁いだ妹より”部落差別”を憎んでくださいでも きっと いい人が現れると思います 私と「A地区」の出逢いがあったように やさしいお兄さんだからこそ きっと きっと いい出逢いが……お姉さん「部落の人とは 親せきになりたくない」と猛反対したお姉さん あれっきり一度も 会っていないけど 子どもたちは 大きくなったでしょうねBちゃんは もうすぐ高校生? 私みたいな妹がいることは 知らないのかなあ でも Bちゃんたちも 大きくなって 学校で社会で”部落問題”にぶつかった時子どもに どう 言いますか?「差別しろ」と言うのですかもし 万が一 そうだとしたら あと 何十年たっても 会えることはないでしょうねでも 私は信じています お姉さんは 私のこと”かたときも 忘れてはいないし いちばん 気にしていくれている”といつか 会える日を楽しみにしていますきっと 笑って会える日を<お母さんの手記> 思い起こせば、十数年前、末娘が私達夫婦、姉兄の猛反対をふり切って部落の男性と結婚した当時は、筆舌に尽くしがたい思いでいっぱいでした。よりによって部落民と一緒になるなんて、その思いはなかなか捨てきれず世の中のあり方に腹を立てたりしたものです。 私達が子供の頃は親も又周囲も部落民を蔑んだものです。「あの地区へ行くとこわい人が居るから絶対行ってはいけない」とまでいわれて育てられて来ました。その位、異質の様に思はされて来た部落の人間を自分の生んだ娘が結婚相手に選んだ、「こんな馬鹿な事があるだろうか、悪い夢でも見ているのだったらさめてほしい」、何度もそう思ったものです。でもまぎれもなくそれは現実として私達一家を暗いものとしてしまったのです。つらい思いからのがれるべく主人は単身赴任地からめったに帰らなくなり、私もこのままでは参ってしまうとふと趣味を見つけました。幸いその事で幾分か心を和ます事はできましたがやはり苦しい歳月でした。 そのうち娘から連絡が入る様になり無事で暮らしてゐるのならいいと思う事としました。追々と子供も二人出来、その頃から私共も娘から、差別を受けた側の人達の事を聞かされたりさりげなく送ってくれる本を読んでいくにつれ、だんだんと私共の気持ちが変って行きました。 謂れなき差別に長い間苦しめられて来た人達に、私共は追い打ちをかける様に偏見を持って接して来た事が恥ずかしくさへ思える様になって参りました。 もし娘が部落の男性と結婚しなかったら私達は過った考えのまま人を平気で差別する人間として一生過ごす事となったでしょう。 私は娘に人間の本質を見る事を教へられ又本当の愛の強さを身に持って知らせてくれた事を有難いと思へる様になりました。 昨年、気になっていた息子の結婚の際も姉妹の中で一番気を使ってくれた心優しい娘夫婦に、今は感謝の気持ちで一パイです。未だ未だ差別は根強く残っているのも事実です。 「差別」ーこの言葉が地球上から消えさることを願ってペンを置きます。「心に翼を」”自分をたいせつにできない人は、他人もたいせつにできない”自分が「差別」というものを体験していちばん感じたことです。部落差別を知り、そこから始まったほんとうの人間としての営み。差別している立場を自覚することは、良いこと。決して恐れることはない。そこには、構造や仕組みがある。それを許さなければいい。許さないと思ったら、そういう生き方をしようと思う。自覚し行動することをやりつづけることができるのが、人間のすばらしさなのだから… これは、我が社で人権研修が行われたときの講師の先生の体験に基づく実話です。但し、匿名姓の強いネット社会なので氏名及びお住まいの地区名は伏せました。この度、先生はブログ掲載を快諾して下さいました。この場をもって厚く御礼申し上げます。 まったけ 拝【関連記事】まったけ日記100ー麻生太郎氏の部落差別発言を断じて許さない!ー http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/9495382.htmlまったけ日記156ーまったけの部落問題入門-【部落問題の参考文献一覧があります。】http://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/21153413.html
2006.11.12
コメント(0)
韓国動乱勃発後に巻き込まれての悲劇と前後の心打たれる物語を、シルバー高知のメーリングリストで紹介された宮内治さんの作品を転載しました。 千鶴子は一人娘である。明治から大正に元号が変わった1912年、高知市若松町で生をうけた。若松町の碑文には「父・徳治、母・はる」とある――。 1919年、千鶴子が7歳の時、朝鮮総督府木浦市庁の役人だった父を頼って母・はるとともに海を渡った。暮らしは裕福だった。しかし、20歳の時、徳治が病で突然、他界した。はるは助産婦をしながら女手一つで千鶴子を育てた。 母・はるは熱心なクリスチャンだった。その影響か、女学校を卒業した千鶴子は、教会の日曜学校でオルガンを弾くようになった。ある日、女学校時代の恩師から、「木浦の郊外で孤児院を経営している韓国の青年が日本語の先生を探している。行ってみてくれないか」と頼まれることがあった。 それが尹到浩(ユン・チホ)との出会いだった。尹到浩はその孤児院の園長だった。千鶴子が訪ねると、尹到浩は遠くで作業をしている。背の低いやせた青年だった。丸坊主の頭に麦わら帽子をかぶり、わらじを履いて孤軍奮闘している。孤児院といっても、いまにも潰れそうなバラックである。障子も襖もない。殺風景な30畳ほどの部屋が一つあるばかりだった。むろん畳などあるはずはない。「かます」と呼ばれる穀物や石炭などを入れる粗末なむしろ袋が敷いてあるだけだった。 千鶴子がとまどいがちに声をかけると、尹到浩がようやく振り向いた。その目は澄み、気力に溢れていた。千鶴子の胸は少しく高鳴った。 その日から千鶴子の新しい生活が始まった。食うや食わずの40~50人の子どもたちの世話に明け暮れるのである。最初は笑顔を見せなかった孤児たちも、千鶴子の献身的な奉仕に次第に心を開き始めた。子どもたちは当然に、千鶴子に母親を求めた。千鶴子は園児たちにとってなくてはならない存在となっていった。 それは尹到浩にとっても同様であった。ある日、尹到浩は千鶴子に言った。二人でこの子どもたちの親にならないか、と。尹らしい朴訥な口調であり、最初、千鶴子にはよくその意味がのみこめなかった。しかし尹の顔が、異様に赤い。千鶴子にも異存はなかった。 しかし当時の日本人の朝鮮人に対する差別感情は根強く、二人の結婚には誰もが驚いた。ことに内地の親戚筋の反対の声は強かった。それでも二人は愛のほうを選んだ。1939(昭和14)年、尹が31歳、千鶴子が28歳の時だった。母・はるだけは千鶴子の気持ちをよく理解していた。千鶴子の手を取り、「神の前では日本人も朝鮮人もない。誰もが兄弟姉妹じゃきにね……」と、励ましてくれた。(つづく) 電気もガスもない凄まじい新婚生活だった。勿論、米などはめったに口にできない。二人だけのことではない。到浩も千鶴子も既に何十人という子持ちなのである。そのうえに園の子どもたちは裸足で園舎を出入りするし、朝、顔を洗うことすら知らない。生活習慣などまったく身につけていないのである。 千鶴子はまず、人間は規則正しく食事しなければいけないことから教え始めた。そして、食前には神に感謝の言葉を捧げ、顔や手を洗うことを教えた。園には風呂はない。近くの海に出かけて皆で体を洗った。夜は間仕切りのない部屋である。かますの上で雑魚寝をした。バラック建ての孤児院は何時、風で吹き飛ばされるかわからない……。 それに子どもたちはますます増えていくのである。木浦の周辺には無数の島々があり、いずれも寒村である。食いっぱずれた親たちが次々と捨て子のようにわが子を孤児園に託していく。尹到浩も千鶴子も決してそれを拒まなかった。 それにしても園舎の改善は急務だった。尹到浩と千鶴子はつてを頼って総督府に窮状を訴え、やっとオンドルつきの2部屋が造築されるところまでこぎつけた。 翌40年、長女・清美(チョンミ)、42年には長男・基(ギ)が誕生した。千鶴子はわが子と孤児を分け隔てはしなかった。実子たちも皆、園中で育てられた。 45年、終戦。36年にも及ぶ日本占領から解放され、南朝鮮は独立して大韓民国となった。立場の逆転である。千鶴子は「このまま韓国にとどまりたい」と願ったが、世情はそれを許さなかった。千鶴子や母・はるはやはり旧支配者の日本人であるのだ。悩みぬいた末、千鶴子は夫や園の子どもたちに別れを告げて、年老いた母・はると一旦、日本に帰ることにした。 千鶴子のお腹には三人目の子が宿っていた。辛い、切ない別れだった……。 故郷である高知市も惨状を極めていた。戦禍に加えて南海大震災の追撃。気丈な土佐ッ子も「この世に神も仏もないか」と嘆いたものだった。しかし千鶴子には、日本占領下の朝鮮の暮らしに比べればなにほどのことかと思えた。物がなければないで何とかなる。それな皆、何とか食えるのである。帰るべき故郷、家もある。高知で親類や近所の温情にもすいぶん触れた。しかし千鶴子には、夫や園の子どもたちのことが何よりも辛かった。 日に日に大きくなるわが腹を見つめながら、やがて千鶴子は強く決意するのである。この子を生んだら、私は木浦に帰るんだ、と……。47年、三人目の子を携えて千鶴子は再び木浦共生園の門前に立った。一年余の空白だった。目ざとい子が千鶴子を見つけた。「オモニが帰ってきた!」と叫び、園児たちは三々五々に数を増して、そこら中を駆け回った。やがて尹到浩が出迎えた。到浩は「千鶴子さん……」と、唸るように言った。後は言葉にならなかった。今度は、千鶴子が言った。「私、今日から尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗るわ……」尹到浩は眼を潤ませながら、しっかりと千鶴子の手を握りしめた。周囲では無数の子どもたちが眼を輝かしていた。 しかし当時の韓国人の反日感情は殺気すら帯びていた。ある日、この木浦共生園にも暴徒たちはやってきた。「倭奴(ウエノム)をぶっ殺せ!」―― 尹到浩は「話せばわかる」と皆を諫めようとする。しかし、なかなか治まらない。千鶴子は恐怖に青ざめた。すると、園の子どもたちが暴徒たちの前に立ちはだかるように千鶴子を取り囲んだ。「僕たちのオモニに何をするんだ!」 千鶴子は思った。この子たちのためなら、いつでも命を捨てられる……。 終戦から数年がたち、村人の暮らしもやや落ち着きを取り戻し始めた。村人たちも次第に千鶴子たちに心を開くようになった。木浦共生園が二十周年を迎えた年に、待望の講堂が完成した。その記念に、と村人たちがりっぱな記念碑までを建ててくれた。尹夫婦の長年の労苦がようやく実を結びつつあるかにみえた。 ところが、1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争が勃発するのである。北朝鮮軍が突然38度線を突破して南下してきた。それは破竹の勢いであり、瞬く間に全羅南道にある木浦も席巻された。北朝鮮軍は日本人や日本への協力者を極端に嫌った。あちこちの町や村で「人民裁判」が行われるようになった。やがて北朝鮮軍が木浦共生園にも立ち現れた。千鶴子も銃口の前に立たされることになった。さすがの千鶴子も覚悟を決めた。日本がこの国にしてきたことを思えば……。 夫の尹もクリスチャンである。共産軍に決して好まれてはいない。千鶴子を処刑するならば自分を先にしろ、と北の将校に迫った。と、そのとき、ユン・ハクジャは無罪だ、と叫んだ一人の村人がいた。「ユン・ハクジャはわれわれ貧民の仲間だ!」周りの村人たちも叫んだ。「そうだ! そうだ! もっと悪い奴をやれ!」 千鶴子は再び人々の愛に救われた――。「あの時、千鶴子は死んだのよ!」と、後に高知の親類の一人に語っている。彼女はこの時、一生を孤児たちに捧げると心に誓った。2004.7.2高新、伝えたい土佐の100人、言葉その言葉より、 だが、それは束の間の平穏だった。翌51年1月、食糧の調達に出かけた尹が行方不明になってしまったのだ。北朝鮮軍に拉致されたのでは、との噂も流れた。ともかくも、尹はそれっきり木浦共生園に帰ってはこなかった。 53年になって、やっと停戦になった。園の子どもたちも500人にふくれあがっていた。千鶴子自身にも四人の子がいた。周囲の人々は、けなげな千鶴子に心から勧めた。「子どもを連れて日本へ帰りなさい」。しかし、千鶴子は微動だにしなかった。「夫の20年の仕事、この木浦共生園は私の命なのだ」、と。 千鶴子は子どもたちだけにはひもじい思いをさせたくなかった。リヤカーを引き、村人たちの家々を漬け物や残飯をもらい歩いた。詐欺師にだまされて園を乗っ取られそうになったこともあった。そのたび、千鶴子は果敢に闘った。子どもたちはそうした千鶴子をよく見ていた。大きな子は街で靴磨きなどをして園の会計を助けた。 63年、千鶴子は韓国政府から文化勲章を授与された。65年には日韓国交が回復した。ようやく歴史に吹く風は南風になった。孤児たちの将来を憂う千鶴子は、かねてからの腹案であった職業訓練学校の設立に動いた。西走東奔し始めた。このとき彼女は「夫が帰るときまでと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と答えている、2004.7.2伝えたい土佐の100人、その言葉より しかし、長年の辛苦は千鶴子の体を確実に蝕んでいた。やがて千鶴子は病に倒れてしまうのである。千鶴子は「自分のために高い治療費をかけるのはだめよ。そのお金を園の子どもたちの進学資金に使いなさい」と、諄いほど指示していたという。 皆の祈りもむなしく千鶴子の病状は悪化するばかりだった。やがて千鶴子は死を覚悟して木浦共生園に戻ってきた。周囲にとってそれは哀しい帰園だった。その10日後、愛しい子どもたちに取り囲まれながら'''千鶴子は静かに息をひきとった。1968(昭和31)年10月31日、奇しくも千鶴子57歳の誕生日だった――。 悲報は韓国全国を駆けめぐった。国中に散らばった卒園生たちは号泣した。木浦市は初の市民葬とすることを決定した。葬儀には韓国全土から3万人が参列した。その日を、地元紙は、「木浦は泣いた」と報じた。'''77年、千鶴子の長年の夢だった職業訓練学校がソウルに完成した。これまでたくさんの人材を世界各地に送り出している。韓国・木浦共生園は、長女・清美が引き継いだ。いまは孫にあたる妙齢の女性が園長を務められている。 また、「梅干しが食べたい」と、死の床でうわごとを言った母の思い(生涯を閉じた56才の誕生日を迎えた日かすかな声で、夫の行方が分からなくなってから、韓国では一度も口にしたことのない日本語であった;2004.7.2高新、伝えた土佐の100人、その言葉より)を知る長男・基(ギ)は、大阪で在日同胞のために、キムチが食べられる老人ホームをつくった。尹到浩と千鶴子の遺志はこうして二人の子どもたちや孫たちに受け継がれている。 なお、標題とした「愛の黙示録」は95年に完成した日韓合作の初めての映画の題である。監督は金洙容(キム・スヨン)。千鶴子の長男・尹基(ユン・ギ)原作の伝記を中島丈博が脚本化し、千鶴子役を石田ゆり、尹到浩役を吉用祐(キム・ヨンウ)が熱演している。「黙示録」とは、「新約聖書巻末の一書。小アジアで迫害されているキリスト教徒を慰藉、激励し、キリストの再来、神の国の到来と地上の王国の滅亡とを叙述。ヨハネ黙示録。ほかに、正典に属さないユダヤ教・キリスト教の黙示録的な類書がある」と辞書にある。
2006.11.11
コメント(0)
毎日 なにに出会うかわからないものです。今日 ひさしぶりに 上京してきた弟と ランチをしておしゃべりしていたら’ジョハリの窓ーって知ってる?’’知らない’手元にある小さな紙で ちょっと説明してくれました。こういうの大好き! 早速 検索してみた結果です。☆☆☆ジョハリの窓出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』移動: ナビゲーション, 検索ジョハリの窓とは、自分をどのように公開し、隠蔽するか、コミュニケーションにおける自己の公開とコミュニケーションの円滑な勧め方を考えるために提案されたモデル。[編集]ジョハリの窓の誕生1955年夏にアメリカで開催された「グループ成長のためのラボラトリートレーニング」席上で、サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト (Joseph Luft) とハリー・インガム (Harry Ingham) が発表した「対人関係における気づきのグラフモデル」のことを後に「ジョハリの窓」と呼ぶようになった。 ジョハリ (Johari) は提案した2人の名前を組み合わせたもので、ジョハリという人物がいる訳ではない。[編集]ジョハリの窓と自己の関係ジョハリの窓自己には、「公開された自己 」(open self)、「隠された自己」がある (hidden self) と共に、「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己 」(blind self) もあるし、「誰からもまだ知られていない自己 」(unknown self) があると考えられる。これらを障子の格子のように図解し、格子をその四角の枠に固定されていないものとして、格子のみ移動しながら考えると、誰からもまだ知られていない自己が小さくなれば、それはフィードバックされているという事であるし、公開された自己が大きくなれば、それは自己開示が進んでいるととる事が出来るだろう。コミュニケーション心理学、健康心理学などでは、よく話題になるもの診断テストはこちらhttp://www.e-kotoba.net/e-top/e-mind/mind31.html
2006.11.10
コメント(0)
【カザフスタンの旧首都 アルマティでも有名なバザール(青空市場)、通称グリーンマーケット。コリョサラムも多く、ニンニク入りの朝鮮味噌やキムチを売っています。特に朝鮮味噌は、とてつもなく美味く、鍋のスープに、味付けにと大活躍しました。もちろん、そのまま舐めても十分酒の肴になるスグレ物です。今度中央アジアに行くときは、少しまとめた量を買い込もうかとまで考えています。】中央アジアに多数の朝鮮人が強制移住させられてきたことは、既に何度か触れてきました。彼らは、第二次世界大戦前後に日本軍のスパイ容疑などで、朝鮮半島やロシア沿海州から連れてこられた人々です。その数は、20万人とも30万人とも言われていますが、正確な数は誰にも分からないそうです。シベリアに抑留された日本人数は、一般に約60万人と呼ばれていますから、少なく見積もっても実に3倍以上です。現在は、40万人ほどが主にウズベキスタン、カザフスタン、キルギスで生活しています。さて、強制移住の理由である日本軍のスパイ容疑ですが、根拠のない濡れ衣でした。では、何故強引に彼らを中央アジアに連れてきたのか?答えは、簡単です。当時のソビエト政府が喉から手が出るほど欲しかった労働力確保のためでした。ドイツとの戦争で2000万人と空前の人的損害を出したソビエトでは、多数の働き手を失いました。そのため、荒廃した国土の立て直しのために、戦死したソビエト人の代わりとなる補充労働力が必要だったのです。(日本人のシベリア抑留も同様の理由です。)中央アジア、キルギスの北隣の国、カザフスタンの旧首都アルマティで、そんな朝鮮人の末裔にあったことがあります。グリーンマーケットと言われるアルマティ有数のバザール(青空市場)の片隅でキムチを売っていた青年でした。彼は、ロシア圏の人にしては珍しく、簡単なものですが、英語を話しました。親の店を手伝いながら、大学で英語を学んでいると言いました。彼は、冗談かと思うほどの安い代金でガイドなどもしてくれるなど、随分世話を焼いてくれました。興味深かったのは、彼が、自分のことを『コリョサラム』と呼んだことです。『朝鮮人』を意味するロシア語の『カリースキー』、英語の『コリアン』じゃないのか?と聞くと、心なしか誇らしげに、『ノー ノー アイム コリョサラム!』と言いました。この時は、彼の言うことがさっぱり分かりませんでした。そして、日本に帰国し、文献を読んで『コリョサラム』の意味を知ったのでした。『コリョサラム』とは、『高麗人』の意味なのだそうです。彼らが、自らを『朝鮮人』でなく『高麗人』と呼ぶことは、その苦難の歴史と運命を考えればよく分かります。強制移住で中央アジアに来た朝鮮人(後の『コリョサラム』)は、とんでもない苦難を押し付けられます。何日も家畜が乗る様な貨車に押し込められた挙句、石ころや草原だけの荒野に着のみ着のまま放り出されました。そして、農耕器具さえもろくに渡されないまま、『来年までに〇〇を〇〇トン収穫せよ!』なんてムチャなことをソビエト政府にいきなり言われたのです。収穫目標に達しなければ、努力が足らんと言うことで、重い刑罰や処刑が待っていました。すぐに慣れない土地での辛い開墾が始まりました。新生活のための家作りなどする余裕もありません。洞穴を家代わりに、岩や石を家具や農機具代わりにする人が続出する有様でした。僕もアルマティの郊外で、『コリョサラム』が住んでいたと言われる洞穴を見たことがあります。石器時代と何ら変わらぬただの洞穴に20世紀も人が住んでいたことに、驚いた記憶があります。農地として全く整備されていなかった中央アジアでの開墾は、想像を絶する作業だったはずです。しかし、厳しい自然や悪条件に悪戦苦闘しつつ、彼らは、目標を達成していきました。その血のにじむ様な努力は、次第に周囲に認められていきます。真面目さと努力ぶりでソビエト人を驚かせたシベリア抑留の日本人と合わせ、『東の連中(日本人と朝鮮人)は奇跡を起こす。』とまで言われました。この記憶は、今も中央アジアに生きています。この地域では、『日本人と朝鮮人の作るものにヘンなものはない。』と言う人は多いです。人気の日本製電化製品や車を買うお金がない人は、その代わりとして韓国製品を購入する人が少なくありません。かつての親分筋であるロシア製品の購入優先順位は、笑ってしまうぐらい低いです。家内も『朝鮮人は、アクラートナ(正確)で信頼できる人が多い。』と言います。(ちなみに家内がキルギス時代勤務した会社のオーナーは韓国人、そして、社長は、『コリョサラム』です。ぜひ一度お会いしてお話を聞きたいと考えています。)こんな感じで、優秀な人々と言うことで、中央アジアに定着した『コリョサラム』。しかし、彼らには、帰るべき祖国、約束の大地はありません。世界には、独立を求める民族が数多くいますが、『コリョサラム』には、その独立を求める土地さえないのです。ソビエトが崩壊し、移動制限が解除されたから、自由に行き来できるし、帰国できるんじゃないの?あるいは、そう思われるかもしれません。しかし、北朝鮮は、あの有様ですし、韓国とは、経済格差がありすぎます。一方、朝鮮半島だけでなく、当時朝鮮人が数多く住んでいたロシアの沿海州から来た人もいます。これらの人々も状況はあまり変わりません。最近のロシアは好景気で沿海州でも物価がスゴイ勢いで上がっており、経済格差が生まれつつあります。それに、同じロシア圏とは言え、慣れない沿海州に今更帰っても、新たに生活を始めるのは楽ではありません。結局、好む好まざるに関わらず、生活の基盤が出来た中央アジアに住み続ける人が多いのです。今年、ウクライナで元日本兵が見つかり、60年ぶりの里帰りを果たした方がいました。この方も、結局生活基盤が出来たウクライナに帰りました。『ウクライナなんて帰らずに日本にいりゃいいのに』と言う人がいましたが、『コリョサラム』が生活基盤が出来上がった中央アジアに住まざるを得ない理由と同じでしょう。さて、永住の地に選んだ中央アジアでも、早々簡単には行きません。『ここは、俺たち中央アジア人の土地だ。朝鮮人がエラそうにするな!』現地の人々とケンカになると、こんな心ない言葉を投げかけられることもあるそうです。韓国人でもなく、北朝鮮人でもない。朝鮮人でもないし、中央アジア人ですらない『コリョサラム』。母なる祖国を持たず、苦労して生活基盤を作った地でもヨソ者であることを意識せざるを得ない人々。それだけに、彼らは、国でなく、民族に誇りを持って自らを『コリョサラム』と呼ぶのかもしれません。彼らの前途は、必ずしも希望に溢れてはいません。まだまだ苦難は続きます。それでも、独自の誇りを持ちながら、これからもユーラシアの大地にたくましく生きていくのでしょう。 転載元: シルクロードから嫁が来た!!
2006.11.09
コメント(0)
夫婦別姓法案成立にむけて活動する妻より以下のコメントと関連記事の紹介をうけました。fwapyさんのブログ記事『拉致被害者と暴力団の関係 しらじらしい「北朝鮮が日本参加拒否」報道』http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/43640250.htmlに関して登場した「日本会議」をしっているかとといあわせたところ、以下の回答がとどきました。「掲題の件、もちろん知っています。憲法改正、教育基本法改正、靖国公式参拝、「つくる会」の教科書は夫婦別姓法案反対と一蓮托生だから、私はどれもきな臭いと思っているのです。http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/0_conb07.htm#shukyouあと、「キリストの幕屋」とか「生長の家」なんかも、自民党の議員の一部とからんでいて、別姓法案が提出されそうになると、人海戦術でFAXや電話を送ったり、その豊富な資金にものをいわせて、本を作ったりしていたようです。右翼系の新興宗教はほとんど自民党の支持基盤だという人もいます。おとなしく、まじめに生きている市民は尊重されず、このような暴力団まがいの団体が尊重される日本が、美しい国なんてちゃんちゃらおかしい。だから、国旗掲揚も、国家斉唱も、国を愛する心も、市民が市民のために行う行為なら、本当は重要なはずなのだけど、こういう人たちに利用されるような気がして、なんか嫌な、きな臭い感じがしてしまうのです。」掲載したURLの記事は2003年の掲載記事ですのでけっしてあたらしいものではありませんが、日本会議の全容をしることができるとおもいます。 転載元: 頭の中の本箱
2006.11.08
コメント(0)
多分日本では余り報道されないのではないか、と思います。この夏のイスラエルのレバノン攻撃と破壊は広く報道され、世界中の非難を呼びました。国連軍が南レバノンに派遣され、紛争は治まったかのごとくに報道も静かになりました。でもパレスチナでは、今もイスラエル軍の進撃、破壊、殺戮は今でも続けられていますが、世界は動きません。この5日間でパレスチナ、ガザ自治区では51人死亡、200人以上の怪我人が出ています。 アラブ首長国連邦(U.A.E.)、首都のアブダビ、ドバイとも、イスラエル軍により負傷したパレスチナ人の子供の治療を引き受けています。 重度の火傷、難易度の高い手術や高度の医療手当てを必要とする負傷した子供たちのパレスチナからの輸送、手術費、医療費 家族共の滞在費など、一切の費用をU.A.E.で負担します大袈裟な政治発言や軍事、外交戦略はひけらかさないU.A.E.ですが、『出来る事』を長い間こつこつと、誠実に真摯に積み重ねる形でパレスチナを支えてきました。そして今も、地道に無言で『助けを必要な傷ついた子供たち』を助け出しています。「大金持ち」「石油成金」「派手な開発狂」...ドバイへの嫉み批判の声は大きいですが、U.A.E.の『抑圧される者・最弱小者の救援功績』を公平に評価する欧米日本メディアは皆無に等しいです。そんな不公平な世界のメディアに文句も言わず着々と『善を施し、海に捨てよ』と言う『わが道を行き』続けるU.A.E.アラブ人は実に潔く見えます。 『善をなし、海に捨てよ』とは、善行は見返りを見越したり、期待するものではなく、善を行った後は海に捨てて忘れてしまえ、お返しが来るなどと期待するな、と言う古いアラブの教え、だそうです。 転載元: ドバイで商売 -Personal version
2006.11.07
コメント(0)
《「平和憲法を死守するのが在日の使命」》と遺言1/23に記事をアップしましが、http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/24338076.html 私が、在日なのに何故、「九条」に拘るか?平和は私の名前から由来してます。そして、昨年末亡くなられた、私の尊敬する師であり先輩だった金敬得氏の、この思いがあるからです。在日第一号弁護士、故金 敬得氏が残した遺言は、今、日本に暮らす全ての市民に命をかけて語りたかった先輩のメッセージだったと思います。在日韓国人の故・金敬得弁護士1/23に記事をアップしましが、http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/24338076.html 私が、在日なのに何故、「九条」に拘るか?平和は私の名前から由来してます。そして、昨年末亡くなられた、私の尊敬する師であり先輩だった金敬得氏の、この思いがあるからです。在日第一号弁護士、故金 敬得氏が残した遺言は、今、日本に暮らす全ての市民に命をかけて語りたかった先輩のメッセージだったと思います。在日韓国人の故・金敬得弁護士、《「平和憲法を死守するのが在日の使命」》と遺言■故・金敬得弁護士:「海外同胞は平和憲法死守が使命」以下は20061/25 日付の朝日新聞の抜粋です。在日韓国人で初の弁護士で、海外同胞の人権運動に身を投じた故・金敬得(キム・ギョンドゥク) 弁護士(56)が、在日韓国人には日本の平和憲法を守る使命があるという遺言を残した。 「日本国憲法の平和主義は、植民地支配・侵略に対する反省の結果としてできた。在日韓国人の存在は植民地支配によるものだ。ナショナリズムを克服するためには平和が何より重要 だ。在日韓国人こそ、平和憲法の体現者だ。」 胃癌で闘病生活を送ってきた故人は昨年10月、病床で事務室の職員にこのような内容を口頭 で残した。分量はA4用紙で8枚。 在日海外同胞である故人は遺言で、1976年に司法試験をパスしたが当時日本人にだけ入学 を承諾していた司法修習所が帰化を慫慂したことなど自分が経験した差別を紹介したうえで、 最近の日本社会の改憲の動きを批判的に指摘した。 金氏は、「韓国と日本、北朝鮮と日本の架け橋である在日は、平和憲法を東アジアに広げて ゆく使命を持っている」と書き残した。 関連記事萬物相】金敬得 2006/1/3朝鮮日報▲金嬉老「清水署の小泉よ、忘れたわけではあるまいな。“この朝鮮人ヤローども。何をやってもだめな奴らだ”と侮辱したあの日のことを。その代価を払う時がやって来た。私の命と引き換えに答えてやろう」 金嬉老(本名:権嬉老)の手帳には、貧困と差別の中、心の奥底に刻まれた憎しみが一杯にしたためられていた。彼はヤクザ2人を殺害し、人質をとった後、31年の受刑生活を送った。 ▲力道山。本名金信洛(キム・シンラク)。シルム(韓国式相撲)で頭角を現わした彼は14歳になった1938年、日本人刑事が日本の力士に育て上げようと、日本に連れて行った。 日本人の息子として入籍し、帰化した後、プロレスラーになった力道山は1963年、ヤクザに刺されるまで生まれ持った体格とカリスマで英雄になった。力道山の興行性を高めるため、日本の興行社は彼の履歴から朝鮮という文字を完全に抹消した。 ▲先月28日に他界した金敬得(キム・ギョンドゥク)弁護士は巨大な差別を前に金嬉老式でも力道山式でもない、日本の中で韓国人として生きる道を先頭に立って開拓した人物だ。56年生まれの彼は人生の半分を徹底した日本人、半分を誰よりも熱烈的な韓国人として過ごした。 彼は日本で生まれ育ち、司法試験に合格したが、帰化しなければ司法研修院の教育は受けられず、よって弁護士の資格も得られないとの通達を受けた。彼は「これ以上、差別から目をそむけず、むしろ堂々と韓国人として生きよう」と考えを改めた。 ▲彼は1976年、朝日新聞の投稿欄で宣言した。「私はこれまで私の中の“韓国的なもの”を拒否して生きてきた。韓国語を学ぶこと自体も拒否し、道で母に会っても知らない振りをした。これからはこんな生き方はしない」 アルバイトで母校早稲田大の庭掃きをしながら、司法当局と孤独な闘いを続け、ついには差別の壁に穴を空けた。3年後、金敬得は日本初の外国人弁護士となったのだ。 ▲「日本の政策は、差別というフライパンに豆でも炒るかのように在日韓国人を入れ、負けて飛び出す人を1人ずつ同化させる政策に過ぎない」。彼の批判は強烈だった。 従軍慰安婦の訴訟にはじまり公務員の国籍差別訴訟まで、韓国人の痛みが込められた裁判には常に彼がいた。胆道がんという重病をわずらったが、闘病生活さえ惜しんで走り回った。 彼が生前、悔しく思っていたのは、毎年1万人ずつ増えていく海外同胞3世の帰化問題。その中でも血筋を隠すための「逃避性の帰化」だった。 彼は、世界に類を見ない閉鎖的な日本の国籍政策と慣行が帰化を急がせているとみた。この強要される帰化の隊列が長蛇化すればする程、短くしてこの世を去った彼が惜しまれてならない。 キム・ヒョンギ論説委員 hgkim@chosun.com
2006.11.06
コメント(0)
拉致被害者と暴力団の関係 しらじらしい「北朝鮮が日本参加拒否」報道 拉致被害者と暴力団の関係 しらじらしい「北朝鮮が日本参加拒否」報道 マスコミ報道の字面だけ見ると日本政府が頑張っているような印象を与えるが、とんでもない猿芝居である。この際拉致問題についてはっきり白黒をつけておいた方がいいだろう。 拉致被害者関連組織の多くは暴力団関係者によって構成されている事実を国民のどれくらいが知っているか?まずは参考文献を見てみよう。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AB%E6%8B%89%E8%87%B4%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%95%91%E5%87%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(きたちょうせんにらちされたにほんじんをきゅうしゅつするためのぜんこくきょうぎかい)、通称「救う会」は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人の拉致被害者のために結成して、日本政府に解決を求めている市民団体である。1998年4月より活動を開始した。アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュと面会する横田早紀江と拓也北朝鮮の工作員らによる日本の拉致被害者を救済するために結成された。基本的には、拉致された人の親族や友人らにより結成されているが、国民の関心も高いため、与野党の国会議員や大学教授等の有識者、朝鮮半島関連の研究者など多方面に亘り多数参加している。会長=佐藤勝巳(現代コリア研究所(旧・日本朝鮮研究所)長) 常任副会長=西岡力(同所・元主任研究員) 副会長=藤野義昭、島田洋一 事務局長=平田隆太郎 ちなみに、新潟「救う会」の会長は、住吉会系右翼団体「日本青年社」の現役幹部・水野孝吉である。住吉会は北朝鮮と麻薬・銃器の密輸を行っている。日本会議http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0「日本会議」とはhttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%c6%fc%cb%dc%b2%f1%b5%c4 「日本会議」とは、会長は三好達(元最高裁長官)、全国9ブロック47都道府県になんらかの組織をもつ、日本最大の保守系組織である。2002年9月以来、「10万人ネットワーク」(設立5周年事業リーフレット)を目指して活動を続けている。また、これに協力する「日本会議国会議員懇談会」(現在242人、会長・麻生太郎衆議院議員)を持ち、国会と地方議会に強い影響力がある。1997年、「日本を守る国民会議」(運営委員長・黛敏郎)と「日本を守る会」が組織統合して結成されたもので、機関誌『日本の息吹』を毎月発行してきた。 「日本会議」は、1.憲法改正 2.教育基本法改正 3.靖国公式参拝の定着 4.夫婦別姓法案反対 5.より良い教科書を子供たちに 6.日本会議の主張の発信、の6大スローガンを掲げて活動している。「日本会議国会議員懇談会」会長:麻生太郎(総務大臣) 会長代行:中川昭一(経産大臣) 副会長:谷垣禎一(財務大臣) 副幹事長:小池百合子(環境大臣)副幹事長:安倍晋三(前自民党幹事長)小野清子(国家公安委員会委員長)石破茂(前防衛庁長官)「民間教育臨調」と「日本会議」 「民間教育臨調」の副会長は5人のうち4人までを「日本会議」の役員が占め、同会に大きな影響力をもつ体制が作られている。「日本会議」の役員77人のうち、「民間教育臨調」に名を連ねている者は30人にも達する。名前を加えていない47人のうち25人は宗教団体役員であり、4人が「軍恩連盟?」日本遺族会」「日本郷友連盟」「英霊にこたえる会」など旧軍・自衛隊関係団体の役員、そして会長・事務総長の2人である。「日本会議」の四割近い(39%)役員を「民間教育臨調」に送り込みながら、明らかにそれと分かる会長・事務総長、および3分の1以上を占める宗教団体および旧軍関係者等を表に出さない工夫と努力がなされている。日本青年社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%9D%92%E5%B9%B4%E7%A4%BE日本青年社 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c6%fc%cb%dc%c0%c4%c7%af%bc%d2住吉会と安倍は岸が笹川や児玉誉士夫と組んでいた頃からの関係を継承している。住吉会にとって北朝鮮との密貿易パイプは重要な資金源である。まさにマッチポンプである。ブッシュが北朝鮮の脅威を利用してボロミサイルを法外な値段で売りつけているおこぼれに与るように、麻薬や拳銃で姑息なシノギをしているのである。ちなみに金正日は見返りに偽ドルの発行許可をブッシュから貰い、中共でばらまいている。ここまで来ると被害者の会も本当に被害者なのかと勘ぐりたくなる。こんな連中の力を借りなければ解決策を模索できなかったのかと考えると同情するが、事実を知れば知るほど一般国民は見放してしまうだろう。まだマスコミ報道を鵜呑みにしているおめでたい国民が多数を占めているからいいようなものの、インターネットをちょっと検索するだけでも事実は簡単に知れるのである。 政府がインターネットの言論統制に躍起になっているのも宜なるかなである。本ブログも来年あたりはイギリスのブログを借りて英語で発信しなければならない事態になっているかも知れない。「日本会議」に名を連ねている国賊連中の名前はよく覚えておいた方がいいだろう。「この方々のどこが国賊だ? 立派な愛国者ではないか」という人は暴力団員にでもなってください。[6カ国協議]北朝鮮が日本参加を拒否 拉致逮捕状に反発かhttp://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2671637/detail 《憂国ニュースより転載》
2006.11.05
コメント(0)
ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」(池谷薫監督作品)を見た。 http://www.arinoheitai.com 世にあまり知られていない、日本軍山西省残留問題(*)を元残留兵で戦後補償を求めて最高裁まで闘った奥村和一さん(80歳)にスポットを当てさらけ出し、国益だかなんだか知らないけれど「お国」の大儀の前には虫けら同然に扱われ翻弄される一般人の悲哀を克明に、そして冷静に描いている。 日本軍総司令官はさっさと日本に帰国して、前線の兵隊には残って共産党軍と戦えとの命令を下し、やっとの思いで命からがら日本に帰ってきた残留兵に対しては、いままで中国にいたのは自分の意思だったのだから補償はしないと門前払いにするなんて、まさに国家の横暴、国家に騙されたの一語に尽きる話だ。 地裁、高裁、最高裁とも、被告の国側勝訴の判決を出す。ろくに審議もしないで。奥村さんは最高裁の判決を前に、軍の命令で残留したことを証明するために、山西省へ過去と向き合う旅に出る。そこは少年兵だった奥村さんが初めて人を殺した、忘れようとしても忘れられない場所だった。 ところが人殺しの現場の様子は不思議なほど覚えていないという。20歳だった新兵はただおそろしくて視界を狭く狭くしていた。だから現場にいて生き残った現地の人に、その修羅場の全容を話してほしかったのだという。 その山西省で奥村さんは生き残り証人の息子だという人に面会したとき思わず詰問調になり、そのことを池谷監督は日本兵としての奥村さんの顔が覗いたと表したが、私は少し違うように思った。 奥村さんは自分が殺した中国人はどのような人生を送ってきた人で、自分が抹殺しなければどのような人生を歩んでいた人だったろうかと60年間ずっと考え続けて十字架を背負ってきたのだ。だから証人の証言には微塵の嘘もあってはならない。目の前にいる証人の息子という人が、真剣勝負をするに値する人かどうか奥村さんは確認する必要があったのだ。それで語気が荒くもなったのだろう。 しかしその証言によって、殺した中国人はいままで奥村さんが思っていたような普通の農民ではなく、日本軍がやってくることを知っていて逃げなかった護衛のような役目の人だったことがわかって、奥村さんが漏らした言葉も印象的だ。 人殺しは人殺しなのに、どこかで良心の呵責が少しだけ薄くなっていくのを感じて、そういう自分を発見してまた驚く、人間とはそんなものかと思う、、、のような言葉だった。 奥村さんは昔日本兵に輪姦され傷ついた老女にも会い、今となってはお互い穏やかな言葉を交わす。 人間を鬼にするのは戦争なのだ。軍の最上層部は自らは人殺しなどには手を染めず、一番いやな任務は一番下の兵士にさせ、敗戦が決まったらまず自分の身の安全を確保するために、こともあろうに中国軍の指揮官とコネをつける。 この上層部同士のつながりは、日本軍と中国軍にとどまらず日本政府さらにマッカーサー司令官にまで筒抜け黙認事項であったろうと、池谷監督は語る。 そうさ、戦争なんてそんなもんだ。馬鹿を見るのは愚直な庶民で、命令を下す指揮官は国益とか言ったって結局身勝手な振る舞いに終始する。 恐らくいつの時代だってそうだ。 現在の戦争だって、これから先の戦争だって。 だから犠牲になりやすい一般人は、うまい言葉に騙されないようにくれぐれも用心しなければいけない。騙されてから泣いたってもう遅い。 奥村和一さんは、役者顔負けの千両役者ぶりが際立つ逸材だ。 奥様ともどもいつまでもお元気で、国による矛盾をこれからも追及してほしいと願わずにいられない。 (*)終戦当時、中国の山西省にいた北支派遣軍第1軍の将兵 59000人のうち約2600人が、ポツダム宣言に違反して武装解除を受けることなく中国国民党系の軍閥に合流。戦後なお4年間共産党軍と戦い、約550人が戦死、700人以上が捕虜となった。元残留兵らは 、当時戦犯だった軍司令官が責任追及への恐れから軍閥と密約を交わし「祖国復興」を名目に残留を画策したと主張。一方、国は「自らの意志で残り、勝手に戦争を続けた」とみなし、元残留兵らが求める戦後補償を拒み続けてきた。 2005年、元残留兵らは軍人恩給の支給を求めて最高裁に上告した。 肝心な点を忘れてた。戦争に負けてもなお、なぜ日本軍を中国に残したかというと、なんとその理由は日本軍の温存だった。一部軍人の間には機会あれば再び中国大陸で侵略戦争の続きをするという考えもあったという。
2006.11.04
コメント(0)
【はるか90年前に「友情と韓流」 朝鮮をこよなく愛した柳宗悦】最初に柳 宗悦が残した言葉の一説です。(昨今の嫌韓の人たちに捧げる言葉?)「私は想う、或国の者が他国を理解する最も深い道は科学や政治上の知識ではなく宗教や芸術的な内面の理解であると思う。言い換えれば経済や法律の知識が我々を他の国の心へ導くのではなくして、純な愛情に基く理解が最も深くその国を内より味わしめるのであると考えている。」「我々日本人が今、朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。恐らく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。中略」李朝工藝から民藝運動へ柳は、李朝陶磁に惹かれ、李朝の工芸品の美しさに引き込まれていきますが、これらの作品はみな無名の工人によって造られた物であることを思い、民族の工藝の伝統は日本にもあると着想し、日本の工芸へと、自身の目をむけていきます。後に木喰仏(もくじきぶつ)を見出し、それを探し求める旅は、同時に日本民芸運動への旅ともなり、1936年(昭和11年)10/24の「日本民芸館開館」へと繋がっていくことになるのです。大正10年雑誌《白樺》1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用(「これは骨董ではない」晶文社より)「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」 柳は消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとしてほしかったのでしょう。名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美は宿ると記してます。 柳宗悦(1889~1961)は日本民芸運動の創始者、日本民藝館の開設者です。20歳の時、神田の骨董店ではじめて朝鮮白磁を見て、その芸術の優秀さ、美に魅せられ、72歳でこの世を去るまでの生涯を、朝鮮を愛しつづけた日本の良心を代表する数少ない知識人の一人であります。 陶磁器をはじめ朝鮮の芸術品を愛した彼はその作者である朝鮮人、朝鮮民族を尊敬し、朝鮮を限りなく愛した。幾度となく夫人を伴って朝鮮を訪問した彼は「朝鮮に住みたい」とまで講演会で述べています。柳はただ朝鮮をこよなく愛しただけではなく、多くの著作と芸術品収集等の活動によって朝鮮と日本の関係史に多くの業績を残しました。その業績を大別して書いて見ます。一、柳は日本の朝鮮支配、植民地化は不当であると反対し、正義の言論を行ないました。そして朝鮮民族を抹殺する同化政策を徹頭徹尾批判しました。 1919年(大正8年)、朝鮮全土で朝鮮人民の3・1独立運動が起きます。「独立万歳」を叫ぶ平和的なデモですが、日本は軍隊まで動員して苛酷な弾圧をおこないました。しかし独立運動は、ソウルのパゴダ公園を中心に、朝鮮全土に広がりました。この時、軍による弾圧によって死者は韓国全土で約6,670人、負傷者は14,600人、投獄された者、52,730人にのぼったといわれています。日本の侵略と暴虐行為にたいし、日本の一般大衆はもちろん、知識人も沈黙していました。「黙している事が私には一つの罪と思えた」という柳は、当時の「読売新聞」に論文『朝鮮人を想う』を発表して、日本の罪行を告発しました。「先ず彼等から奪ったものは軍隊であり、我々から送ったものは彼等のでない我々の軍隊であった。我々は先ず永遠の独立を彼等に不可能ならしめる固定した方法をとった。」 「日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果たして相互の理解を生み、協力を果たし、結合を可能にするだろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう。」 柳はその後の論文「朝鮮とその芸術」で朝鮮は独立すべきであり、日本の同化政策は間違いであると次のように批判します。 「2つの国にある不自然な関係が正される日のくることを切にねがっている。正に日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも日本にとっての恥辱の恥辱である。」 「朝鮮固有の美や心の自由は他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯されるものではない真の一致は同化から来るものではない。個性と個性との相互の尊敬に於いてのみ結ばれる一があるのみである…」 柳のこのような発言は日本の官憲から睨まれることになり、私服刑事が家の周辺をうろつき、終戦の日まで常に監視されます。二、朝鮮の芸術品の美を発見して、その優秀さを賞賛するだけでなく、ひろく内外に紹介した。 当時、多くの日本の知識人は朝鮮の芸術は中国の模倣であるといわれていました。それにたいして柳は、 「朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をも又は追随をもゆるさぬ自律の美である。只朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉の為にもこれ等のことを明晰にしたい。」(『朝鮮の友に贈る書』) 「日本が国宝として世界に誇り…国宝の国宝とよばれねばならぬもの殆ど凡ては、実に朝鮮の民族によって作られたのではないか…正等に言えば朝鮮の国宝とこそよばれねばならぬ。」(『朝鮮の美術』) 柳はそのあかしとして法隆寺の「百済観音」、「玉虫厨子」、広隆寺の「弥勒菩薩」をあげ、奈良正倉院に伝蔵されている古作品の「大部分は恐らく朝鮮から伝来したものであろう。」推古の黄金時代の日本は「朝鮮の美で飾られていた」といい、朝鮮の芸術は「世界の最高の栄冠を戴く」と賞賛もしています。三、に光化門を総督府の破壊から守り、散逸していた朝鮮の美術品を募集して「朝鮮民族美術館」を開設して、これを保存しました。 柳は景福宮の前に立つ歴史的建造物である光化門を総督府が破壊する計画を知り、抗議文「失われんとする一朝鮮建築のために」を書いて内外に訴えた。これが功を奏して、光化門は破壊を免れ、移転保存されることになったといわれています。1922年「改造」9月号に『失われんとする朝鮮建築の為に』と題する文章引用「一つの芸術の失われんとする運命に対する追惜と、王宮の正門であるあの壮大な光化門が取り壊されることについて、東洋古建築の破壊に対して胸を締め付けられる想いを感じている」と、嘆く柳宗悦の文章でありました。 柳はまた、陶磁器、仏像、木工品、民画、民芸品等の貴重な芸術品が朝鮮から散逸していることに心を痛め、私財を投じてこれ等の芸術品を集め、当時朝鮮林業試験所に技師として勤めていた淺川巧の協力を受けて、1924年ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設します。総督府は「朝鮮」という文字を看板から抜くように迫っりますが、柳は最後まで抵抗して、「朝鮮」と言う言葉を守ります。柳が集めた芸術品は現在、韓国国立博物館に保管されています。また、柳はこの経験を生かして、日本に民芸運動をおこし、12年後の1936年東京に日本民藝館を開設します。今も、一室には朝鮮の芸術品が常時陳列されています。 第四に21回にわたり朝鮮を訪問し、多数の朝鮮人と接触して文化交流、心の交流を行ないます。以下は1921/5/5の東亜日報の記事には「朝鮮人を本当の心で愛する人は東洋大学教授の柳宗悦である。また豊かな、円熟した技芸を持つ…柳兼子氏はその夫人である。…朝鮮の友である彼らは、朝鮮を愛し、朝鮮の美術を愛するので…民族の命が流れる古代美術品が朝鮮から流失することを誰よりも惜しく思って、朝鮮民族美術館をたてた。」と記されています。 大正10年雑誌「白樺」1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用より。ポジャギ 《これは骨董ではない》晶文社より「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」 消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとして、名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美はやどる。この美に反応する心の韻律をもち、豊かな共鳴の心を持つならば、あらゆるものに宿る美を感ずる事ができる。柳の朝鮮観にはもちろん、「独立のために革命をしてはならない」等の思想的な限界もみられますが、当時、植民地となった、まさに暗黒の時代であった朝鮮にあって「民族」を否定され、日本の暴虐に訴えることもできなかった朝鮮人にかわって、柳が勇気ある正義の発言をしたことや、朝鮮の芸術品の優秀さ、美を発見し、世界に紹介したこと、朝鮮人と心からの交流をしたことなどは、彼の思想的限界をはるかに超える立派な行動とし、高く評価されるべきでしょう。 今も尚、蔑視、偏見、差別がいまだ残っている日本の中で人間としての誇りと自覚をもって生きるためには、民族文化を理解し、異国の民や文化に敬念と情愛をもって接してくれた柳のような日本の友は、依然として今日も貴重な存在であると思います。《柳宗悦の文化賞授与》1957.11(67歳) 文化功労賞 1960.1(71歳) 朝日文化賞 1984 (没 後)韓国政府より宝冠文化勲章 [編集] 著作手仕事の日本(岩波文庫) 南無阿弥陀仏(岩波文庫)茶と美(講談社文庫)民芸四十年(岩波文庫)工芸への道(講談社文庫) 美の法門(岩波文庫) 柳宗悦茶道論集(岩波文庫)柳宗悦妙好人論集(岩波文庫)柳宗悦随筆集(岩波文庫)工芸文化(岩波文庫) 蒐集物語(中公文庫)朝鮮を想う(筑摩書房) 柳宗悦全集(筑摩書房) [編集] 外部リンク日本民藝館 http://www.mingeikan.or.jp/index.html
2006.11.03
コメント(0)
左翼はいったい北朝鮮での人権抑圧をどう考えているのか? AMLに竹井氏という人から「平和運動を担う者は、朝鮮の核実験批判は止めるべきだ」という投稿がなされた。例によって北朝鮮を追い込んだのは米帝だ、政府・マスコミの論調に流されるなというような主張だ。投稿文は短く論旨も不充分だが、参照すべしとされた労働党の主張はかなりボリュームがある。長いが一読してあきれ果てた。北朝鮮国内での人権侵害や抑圧体制に一切触れることなく、米帝のみが糾弾される。これを左翼のご都合主義と言われてもしょうがないだろう。以下がそのURLhttp://www.jlp.net/syasetu/061025a.html左翼は一体全体人権というものについてどう考えているのだろう。自らの革命理論に都合のいい事実だけを見て、都合の悪い事実は無視するか、何もしない。今やアムネステイの方がはるかに人権問題については公平な取り組みをしていると言っていい。中国や北朝鮮にも「良心の囚人」はいる。左翼は(サヨクでも左派でも何でもいいが)それについてどう考えるのか明白な見解を出すべきだろう。北朝鮮が米国に追い込まれたから核を持った、というならイスラエルは周囲のアラブ諸国に四面楚歌の状況に追い込まれ核を持った、だからしょうがないと言うことになるだろう。インドとパキスタンの核はどうか。お互いに牽制しあっているからしょうがない、としかならないではないか。こんなこともわからない連中が左翼にはいるわけだ。9/11事件にせよ、拉致事件にせよ、左翼側の運動や主張は自分の手で自分のクビを締めている側面がないか。少なくとも自分にとっては非常に違和感のある主張に多くぶつかっている。労働党の主張など、ヘドが出そうな代物だ。実際、集会で北朝鮮を理想的社会主義国家とかするとんでもない発言に出会ったことがあるが、まだまだいたわけだ。これでは左翼運動の先などお先真っ暗だと言われてもしょうがない。 転載元: ロシア・CIS・チェチェン
2006.11.02
コメント(2)
1200万部の『巨大ベストセラー』って、何? 本などの出版物の場合、だいたい10万部売れたら、けっこうすごいベストセラーと言っていいでしょう。100万部だったら、もうミリオンセラーです!!それが、1200万部ときたら、これはもう尋常ではありません。そんな本、あるんですか?あります!!2002年から文部科学省が、全国の小中学生全員に配布している「心のノート」です!小学校低学年用、中学年用、高学年用そして中学生用の4バージョンがあります。全国の小中学生の数は、約1200万人。毎年子どもたちは進級しますから、400万部は、毎年確実に増刷されます。「心のノート」は、約11億円の巨費を投じて、文科省によって作られ、『道徳教育の補助教材』として日本全国の沖縄から北海道までの子どもたちに、‘直接’配布されているのです。(ただし、例外がある・・養護学校の子どもたちには配られていない・・この意味は、けっこう深い・・)実は、こういうこと(国家が直接教育内容に関わること)は、絶対にやってはいけないことなのです。それは、たとえどんなに「心のノート」の内容が、万々が一、素晴らしいものであったとしても、許されないことです!たとえば、学校現場で子どもたちに使用させる教材や教科書は、きちんと手続きを踏んで、採用されます。教科書は、検定(これも問題があるのだが)でまず合格したもので、現場の先生方が中心となり、複数の教科書を見比べて、どれを使用するかを決めます。(最近、教育委員会の権限が強まり、自治体によっては、現場の声が反映されにくくなってきていますが・・。)副読本や教材は、それこそ現場の先生たちで、その都度、子どもたちの実情などを勘案しつつ選び、採用します。(あとで教育委員会に届け出があります。)・・というように、子どもたちに直接向き合っている現場の裁量によって、決められるのです。ところが、「心のノート」はちがいます!!「心のノート」の奥付けを見ると、それは明らかです。「発行 文部科学省」です。教科書や副教材などには、必ず出版社名や、著作者名、発行年月日、定価などが詳しく明記されています。文科省がフリーハンドでテキストを作成し、ダイレクトに現場におろすという方法は、国家権力が直接、教育内容に関わるということになり、戦前の国定教科書と同じになります。「心のノート」は国定・道徳教科書であり、当然、教育基本法第10条「教育は、・・国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」に反します。ちなみに「改正」案では、この文章が案の定、削除されています。「改正」された暁には、どんどん国家・行政が、教育に介入しようというわけですから・・。時の国家権力が、教科書を好き勝手に作れてしまうというのは、まぁ~、その~、北朝鮮と同じですね(苦笑)。他の先進国から笑われるのがオチ、ではないでしょうか?(政府与党はけっこう本気で、「改正」案を通そうとしてますけれど) 転載元: はんのき日記 PART2
2006.11.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

![]()