老師の言葉 0
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千葉県市川市にある千葉商科大学で、「第一回 ソーラーシェアリングフェスティバル」が開催された。行ってきた。まず会場となった千葉商大は面白い大学だ。100パーセント再生可能エネルギーで電力をまかなっている。そんな大学、ほかにはない。学長プロジェクトといって、原科学長主導のもと、電気を自給するだけでなく、ソーラーシェアリングの施設の下では、学生たちがブドウを栽培して、ワインにし、大学ブランドで販売もしているようだ。ほかの大学にも、その動きは広がりつつある。フェスティバルには200人ほどが集まった。2教室を使ってのトークステージがあって、ブースもたくさん出ていた。ソーラーシェアリングは、日本で生まれた技術。農業者を増やすことによって耕作放棄地を減らそうという目論見でのスタートだ。つまり、3~4メートルの支柱を立てて、上で発電、下では農業という、新しいスタイルの事業である。農業だけだと生活ができないため、農業従事者はどんどん減っている。畑や田んぼが放置されて、草だらけになってしまっているのが現状だ。農業をやっているのは高齢者ばかり。このままでは、日本の農業は壊滅する。今でも食料は海外からの輸入に頼り切っている。テレビではバカみたいにグルメ番組ばかりを流しているが、あんなのは砂上の楼閣。もし何かあって、食料が輸入できなくなったら、日本人は飢えてしまう。食べ物はいくらでもあるというのは、錯覚だということに気づかないといけない。だから、発電を行うことで、収入を増やそうというのがソーラーシェアリングのである。作ってしまえば、勝手にお金を産み出してくれる。この日本発祥の技術は、今では世界に広がっている。食とエネルギーというのは、どこの国でも一番の関心事なのだ。ところが、ソーラーシェアリングの日本での広がりは、世界から取り残されてしまっている。広がりを規制しようという動きもあると言うのだから、耳を疑ってしまう。食とエネルギーは、日本でも最大級の問題のはずだ。にもかかわらず、ピンチになれば、どこかの国が回してくれるだろうという根拠のない楽観論。校庭やゴルフ場で芋を作ればいいと、本気で考えている政治家もいるそうだから驚く。エネルギーは、原発を再稼働させようとか、耐用年数を伸ばすとか、気は確かですかと言いたくなるような流れがある。元旦の能登の地震。原発でもいろいろな被害が出た。福島と同じことが起こっても不思議ではなかったと思う。志賀原発の下には活断層があるとかないとか議論があって、ないということで落ち着いたのだったか、あってもなくても、あんな激しい揺れがくるところに原発が建っているということがおかしい。一番ひどく揺れた珠洲市には、原発が建っていたかもしれないという話にはぞっとした。揺れ続ける日本列島。「もう原発は止めようよ」と叫んでいるのだ。だったら電気はどうするの?というときに、ソーラーシェアリングが力を発揮する。みんながみんなやる必要がない。必要だと思った人が、自分の農地の上にソーラーシェアリングを建てる。そんな流れを作れば、電気は十分にまかなえる。日本中がソーラパネルに覆われるなんてことはない。山を崩して作るものでもない。食料と電気を自分たちで作り出そう。そういう動きを、一人ひとりがしないと、この国は変わらない。ぼくはそう思うし、フェスティバルに集まった人たちは、幕末の志士のような意気込みをもっていた。若い人たちが多かったのはうれしかった。ソーラーシェアリングは、もし、この世界が何かおかしいなと違和感をもっている人がいたら、世界を変える道具として、ソーラーシェアリングを考えてほしい。細かいところでは、まだまだ発展途上だ。でも、重箱の隅をほじっていても何も変わらない。やりながら、より良いものを作っていけばいい。我が家には、小さなソーラーシェアリングがある。ぼくは、作って良かったと思う。あれが、ちっちゃなところから世界を変えるという、ぼくの決意表明だから。
2024年02月18日
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一昨日は甲府市で山元加津子さん(かっこちゃん)のお話しと、かっこちゃんの作った映画『しあわせの森』の上映があった。かっこちゃんは、石川県小松市にお住いで、元旦の地震では大きな揺れがあったそうだ。久しぶりにお会いしたかっこちゃんは、相変わらず無邪気で素直で若々しくて賢くて楽しい人だった。ぼくがかっこちゃんを知ったのは、1995年か96年のこと。ぼくは東京に住んでいたのだが、故郷の三重県鈴鹿市に気の合う仲間ができて、けっこう大規模に映画『地球交響曲 ガイアシンフォニー 第二番』の上映会を開いた。出演者である佐藤初女先生にも青森から来ていただいて、講演会もやった。大きな施設を貸し切りにしたので、映画や講演会以外に、何人かに声をかけて、空いている部屋を使って、どんな活動をしているのか、展示をしてもらった。ぼくが直接知らない人も、仲間たちの縁で、展示に参加してくれた。そのうちの一人の女性が、かっこちゃんの活動を紹介する展示をしてくれた。ぼくはかっこちゃんのことをまるで知らなかった。かっこちゃんは、当時養護学校の先生で、教え子たちとの接し方がユニークで、子どもたちがとても生き生きと学校生活を送っているとのことだった。展示室には、かっこちゃんの著書や、かっこちゃんの教え子である原田大助くんの味のある文字で書かれた詩などが並んでいた。ぼくは興味をもって、部屋をゆっくりと見て回ったのだが、中でも、大助くんの詩は衝撃だった。さみしいのは心の風邪ですとか、地球のこと、戦争のことなど、心に響く言葉が並んでいた。僕が生まれたのには理由がある生まれるってことにはみんな理由があるんや読んでどきっとしたのを覚えている。あのころ、ぼくはに障がいある人たちのことを考えたことはなかった。まわりにはいなかったし(きっと、いても意識が向かなかった)、申し訳ないけれども、彼らに詩を書くというような知的な作業ができると思っていなかった。まして、こんな深いことを、彼らが考えているなんて、想像したこともなかった。いくつも詩が並んでいたが、どの詩も、ぼくの胸にどしんと突き刺さってきた。大助くんの詩を読みながら、かっこちゃんという先生に、会いたくなってきた。後日、この展示をしてくれた若い女性に、かっこちゃんの連絡先を教えてもらった。そして、かっこちゃんと連絡をとって、真氣光の機関誌の会長対談を依頼したのだ。かっこちゃんは快く引き受けてくれた。その対談をした場所が、小松市のかっこちゃんの自宅だった。昨日の懇親会でもそのときの話になった。「会長さん、あまりお話しされない人で、小原田さんとばっかり話していたわね」懐かしい話だ。中川会長は、まだ会長になったばかりのころだった。もともと物静かな方なので、ぼくも対談に加わりながら、いろんな話をした覚えがある。かっこちゃんのお話しが楽しくて、ぼくだけがおおはしゃぎして、会長を差し置いてしゃべっていたのも想像できる。「こんな人がいるんだ」ぼくは初対面のかっこちゃんにすっかり魅せられてしまった。教え子だけでなく、縁のあった方一人ひとりと、かけがえいのない友だちとして大切にかかわりうとする姿勢が、話を聞くうちに伝わってきた。ぼくも、会ったばかりなのに、「ああ、受け入れてもらっている」という、安心感、喜びでほっとするような感覚を味わった。大助くんが、あんなにも素晴らしい詩を書けるのは、かっこちゃんという存在があるからなのだろう。かっこちゃんは、その人がもっている本来の力や思いを引き出すきっかけをくれる人かもしれない。そう思った。彼女との出会いによって、ぼくは、障がい者と呼ばれる人たちへの目線が変わり始めた。ほんの少しだけれども、その方向に意識が向いた。2000年にぼくと妻との出産体験が『スピリチュアル・バース』というタイトルで出版された。そのとき、友だちが出版記念パーティを開いてくれたのだが、ぼくの希望で、かっこちゃんにゲストスピーカーとして来ていただいた。ちょうど、うちの三女の氣歩が生まれたばかりで、会場でかっこちゃんに抱っこしてもらった。氣歩にとって、かっこちゃんは運命の人。小学校のときにかっこちゃんの講演会に連れて行った。そのときから障がい者福祉の仕事をすると決めた。中学生になっても高校生になっても、かっこちゃんのような人になりたいと一途に思い続け、24歳の今、愛知県の障がい者施設でスタッフをしている。一昨日も、かっこちゃんと会うために愛知から山梨にやってきて、お話をして、写真を撮って、とてもうれしそうだった。かっこちゃんからこんなありがたい言葉をもらった。「氣歩ちゃんは、私にとっても似ていて、まるで分身みたいに思っているのよ」最高の言葉だった。昨日のお話しと映画では、すべてはつながっていて、いつかのいい日のためにあるということを、さまざまな形で伝えてくれた。30年近く前からの縁を振り返ると、まさに会うべき人と会ったのは間違いないし、それが娘にまで大きな影響を与えていると考えると、とんでもない奇跡だと思わずにいられない。今のぼくは、人生のラストシーンに向けて、とても大事な節目に立っていることを、すごく感じている。そんな中で、かっこちゃんと、また会えて、お話を聞けて、お話ができたのも、サムシンググレートの思し召しだな。昨日のイベントでは、かっこちゃんのお話し、映画、懐かしい東京の仲間たち、お世話になっている山梨の仲間たち、新しい知り合い、そして、妻と三女と、いろんなことが新鮮に映って、ぼくの中で、気持ちのいい化学反応が起こった。どんなことも、ベストのタイミングで起こることになっている。ありがたい一日だった。↓去年の春、かっこちゃんと
2024年02月06日
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真氣光(気功の一流派)の機関誌「ハイゲンキ」の仕事を、1988年からだから、35年くらいやっている。巻頭の中川会長対談、山梨での生活のコラム、帯津先生や中川会長のページと、けっこうな量の原稿を書いている。巻頭対談は、対談相手を探すのが大変。会長からOKが出ないといけないし、相手も受けてくれる必要がある。かなりハードルが高いのに、よくぞ毎月穴をあけずにできたものだと、我ながら感心する。この仕事はきついけれども面白い。縁があるからだろうと思うが、いい人ばかりにつながる。前回は、若き炭焼き職人の原伸介さん。彼につながったのも、面白い流れだった。まずは、鈴鹿で炭焼きをやっているグループと縁ができた。南伊勢に右田さんという90歳の炭焼き職人がいると聞いた。鈴鹿のグループの師匠に当たる。電話で話をすることができた。炭を焼くというのは、単にエネルギー源を作り出すということではない。山を健全に管理すること。山が整備されていれば、川も海もきれいになり、魚がたくさん獲れる。「戦争のころ、食糧難だったわな。そのときも、このあたりの人は、魚があったから飢えんですんだ。山がきれいやったから、海も守られていたんやな」右田さんの貴重な体験だ。鈴鹿に右田さんが手がけた炭窯があるというので見学に行った。実家のすぐそばだった。規模はまったく違うが、ぼくが子どものころ、父親がそばの竹藪に小さな炭焼き窯(穴を掘っただけのように思っていたが)を作って、冬になると炭を焼いていたのを思い出した。急に炭焼きに興味が出てきた。山梨へ帰って、歯医者さん(七沢歯科医院)に行った。そこの待合室にチラシがあった。何気なく見たら、何と、原さんの講演会のお知らせだった。原さんも、七沢歯科に通っていたのだ。こういう偶然は、会ってみたら、というメッセージ。真氣光の中川会長に、こんな方がいるので対談はどうでしょう? と聞いたところ、「面白そうですね」ということで、対談をすることになったのだ。対談はこちら。原さんとの対談の中で、仕事の範囲が広がってきていろいろな人とコラボするようになったという話が出てきた。「たとえばどういう人とですか?」と質問したときに、「わびし」という言葉が出てきた。よくわからない。でも、そこはメインの話ではないので、スルーしたのだが気になって仕方ない。話の流れからすると、花火師と関係があるようだ。そこで調べた。あった。和火師。山梨の人だ。日本の伝統的な花火を「和火」というらしい。明治になって、西洋花火(洋火)が入ってきて、花火というと、あの派手で華々しいものになったが、もともとは、地味だけれども、暖かみがあって、いつまでも飽きがこない和火だった。そして、鑑賞用というよりも、慰霊・鎮魂の意味合いがあったと言うのだ。こういうのがぼくは大好き。さっそく、中川会長に「こういう人がいますよ」と連絡をした。「いいですね」ということで対談が決まって、この間、彼の花火工場を訪ねた。世界でただ一人、和火師を名乗る佐々木厳さん。まだ30代の若さだが、自分の人生は和火に捧げるというくらいの覚悟がある。それでいて、とても温和な性格で、話をしていて気持ちがいい。原さんといい佐々木さんといい、素直で謙虚で、それでいて腹が座っている人は、ぼくは好きだな。6月ごろには、原さんを連れて右田さんに会いに行くつもりだ。佐々木さんには、どこかで和火を上げてもらおうかな。
2024年01月30日
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15日、娘夫婦、長女の氣子と一緒に伊勢に行ってきた。協生農法の講習会があったからだ。ここに行き着くには、縁のつながりがあった。伊勢を本拠地としている今野華津子先生が、フェイスブックで農業のことを紹介していたのを見たのが始まりかな。それが協生農法とは知らなかった。次に、東京の櫻井本子さんの紹介で、伊勢で整体師をしている新垣玄龍さんにお会いした。その後、本子さんから、玄龍も面白いけれども、そのまわりにもユニークな人がいっぱいるよという話があって、そこに出てきたのが、ムーさんという方だった。しばらくして、今野先生がフェイスブックに協生農法がテレビ(報道特集)で紹介されるよという話をアップしていた。今野先生が応援している農法で、ぼくの故郷である三重県から生まれたものだからということで、その番組を見た。そしたら、何と、協生農法の創始者というのが、本子さんの話に出てきたムーさんだったのだ。これでつながった。今野先生とムーさんは親しくて、玄龍さんとムーさんとも親しくて、ぼくは、今野先生や玄龍さんと親しい。この流れだったら、ぼくにとって、ムーさんはとても大事な人に違いない。それで、講習会の日程を調べたら、1月14日15日と行われることを知り、空きのあった15日に参加したというわけだ。協生農法をひと口で話すのは難しい。畑にさまざまな種類の野菜や果樹が植えられていて、そこには虫も鳥もやってくる。野菜たちが育つ森が出来上がっている。そこには、外からは何も持ち込まない。自然が作り出す環境の中で、そこに適した野菜が、適した形で生育するわけだ。つまりは、生命エネルギーの高い場を畑に作るということ。アフリカの荒れ地が、数ヶ月で豊かな野菜と果樹の畑によみがえったそうだ。そして、貧しい農民たちが、普通の人たちの100倍の収入を得るまでになったとムーさんは話していた。面白いじゃないか。ほかにも、面白いことがいっぱいある。たとえば、協生農法だと、毎日何らかの野菜が収穫できるということ。ある程度の基礎さえしっかりすれば、草取りも必要ないし、ほとんど手がかからないそうだ。収穫さえしていればいい。朝、畑に行って採れた野菜を袋に詰めて、軽トラに積んで売りに行く。すべて無農薬無肥料。大きかったり小さかったり曲がっていたり、スーパーの野菜みたいに形がそろっていなくても、肥料をあげると、どうしても水っぽくなるので、無肥料だとしっかりした野菜の味を楽しむことができる。上手にやれば、それで生活を成り立たせることができる。農業、環境、健康、経済。問題がクリアされていく。大きなスペースではできないが、山梨と鈴鹿で試してみようと思っている。講習を聞いたり、ネットや本で勉強をするだけでは、わかった気になるだけ。実際にやってみると、わからないことがわかる。わからないことがわかると、質問もできるし、次に進める。まずは、今借りている桃畑の下を野菜畑にしようと思う。ムーさんブログ。
2024年01月17日
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池袋に用があって出かけた。相変わらず東京は人が多い。電車の中で座っている人、立っている人の顔を、チラチラとながめていた。「この人たち、がんばっているんだな」田舎の人もがんばっているのだが、がんばり方が違うのかもしれない。東京の人からは、がんばりエネルギーがひしひしと伝わってくる。どうしても、田舎にいるとぼんやりとしてしまう。場のエネルギーの違いだろう。今のぼくには、ぼんやりエネルギーの方が気持ちいい。夜7時半ごろ、新宿から中央線の通勤快速に乗った。この時間、我が家の最寄り駅で止まる特急があまりない。高尾まで出て、そこからゆっくり各駅停車の旅だ。中野を超えて、外を見ていて、「あれっ」と思った。なんか、東京が暗くなっている。一戸建てやマンションがびっしりと建っているのだが、家々の灯りもそうだし、外灯も心なしか暗めに見える。駅の近辺はまだピカピカしてるが、ちょっと離れると、全体が暗くなる。気のせいだろうか。いや、東京は郊外へ出ても、もっと輝いていたはずだ。世の中、いろいろなことが起こっている。明るい話が少ない。闇の時代に入っているのだろうか。山に囲まれた我が家に帰って、ふっと空を見上げた。星がきれいだ。北斗七星がくっきりと見える。闇の時代は、空を見上げればいい。光の時代には見えなかった星が輝いている。静かに心を澄ませると、星からのメッセージが伝わってくる。「このままで大丈夫だよ」ぼくには、そんなふうに聞こえた。
2023年12月14日
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昨日から気仙沼に来ている。塩山から大宮に出て、新幹線で一ノ関。レンタカーを借りて気仙沼まで。松野三枝子さんという女性に会いたかった。彼女のことは、「致知」という雑誌の記事をネットで読んで知った。末期がんでほとんど余命のない状況の中で、あの大震災に見舞われた。海から400メートルほどのところの病院に入院中だった。久しぶりにお風呂に入っていた。そこに激しい揺れ。大きな湯舟に張られたお湯が大暴れする。その勢いで、松野さんは廊下に投げ出されてしまう。これが幸いした。避難しようと通りかかったっ看護師さんに助けられ、バスタオルを巻いてもらって、非常階段から屋上へ逃げた。間一髪。松野さんが入っていたお風呂は3階にあった。4階のカーテンレールまで海水は押し寄せた。屋上では、水に流されていく人たちを見送った。末期がんの私が助かって、将来ある若い人たちが沈んでいく。世の不条理さをかみしめた。この体験をきっかけに、彼女の全身のがんが消えた。徐々にではない。たぶん、この瞬間に消えてしまったのだと思う。彼女に身に何が起こったのか?ぼくは何か理屈をつけくなってきた。これまで末期のがんから生還した人を何人も取材してきた。すごいと感動した。でも、こんな人はいなかった。瞬時に消えたがん。自然治癒力のすごさ。どうやって彼女と会おうかと試行錯誤していた。そんなときに、やはり末期がんから生還して、「末期がんでもあきらめなくていいよ」とがんの患者さんにメッセージを送り続けている、ミュージシャンの杉浦貴之さんから連絡があった。本を出版するので、ぼくの書いた「がんをのりこえた人が気づく7つのこと」を参考図書として掲載させていただきたいというていねいなメールだった。ありがたい話だ。そこに、新刊の目次があって、松野さんの名前を見つけた。「松野さんに興味があって会いたいんですよね」そんな返事を返したら、「7月9日に気仙沼で松野さんとのジョイント講演会をしますよ」という返事があった。こういう流れは乗るに限る。「行きます」とすぐに申し込んで実現した出会いだった。松野さんは、まず、話が面白い。引き込まれていく。そして、何よりもすごいのは、まわりの人たちをどんどん元気にしていくことだ。「私は食道、胃、脾臓、胆のう、胆管、片方の腎臓、あちこちのリンパ節を摘出しています。だから、もうがんが転移するところがなくなっている」この究極のプラス思考に、まわりは大笑い。それでも、大震災の直前には、肺に砂嵐のようにがんが転移していたそうだ。日を改めて、じっくりと話をお聞きしようと思っている。今日はこれから、松野さんが経営するレストラン「松野や」へ行ってランチをいただき、山梨へ帰る予定だ。
2023年07月10日
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ここ1年ほど注目してきたソーラーシェアリング。太陽光発電なのだが、農地に丈夫な柱を立てて、その上に太陽光パネルを設置するというもので、下は農地として、上は発電所として使う、太陽のエネルギーをシェアするシステムだ。小田原の「かなごてファーム」の見学に行ってきた。冷たい雨の降る中、代表の小山田大和さんが案内してくれた。こちらからは、ぼくと次女夫婦の3人。小山田さんとは、自然栽培の佐伯康人さん(シゼンタイ主宰)のパーティで知り合い、「これがぼくのやりたいことだ」とぴぴっとくるものがあった。しかし、ぼくはぴぴっとくる感覚は鋭いのだが、それを現実化する力に乏しい。そこで期待しているのが次女夫婦だ。2人は鈴鹿に住んでいて、鈴鹿には先祖代々の畑や田んぼや山があって、今は耕作放棄地になっている。ソーラーシェアリングを建てるのにとても適している。それに、次女の婿はたたき上げの土建屋。太陽光発電の工事の経験もあり、少し勉強すれば自分で柱も立ててパネルを設置できる。これからの自然エネルギーの需要を考えると、事業としても成り立つはずだ。食料とエネルギーの自給自足の必要性も、彼らは十分にわかっている。おかげさまで、昨日は盛り上がった。娘夫婦を連れて行って良かった。ぼくだけだったら、「すごいですね」で終わっていた。婿はとても興味をもって、やってみたいと言ってくれた。今年中に一号機を作りたい。今週末には鈴鹿へ帰り、どこに建てるか打ち合わせをしようと思う。面白くなってきた。ワクワクする。2~30年後、使えなくなった太陽光パネルの処置をどうするの?という心配をする人がいる。原発の廃炉に比べればはるかに簡単なことで、技術は着々と進んでいる。ネットニュースにも流れていた。ソーラーシェアリングを決めた翌日に、そんなニュースが目に入ってくるというのも奇遇だね。
2023年05月24日
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この写真を見ていただきたい。『HUR! friends』(小学館)という写真集の表紙だ。丹葉暁弥さんという写真家が撮った。彼はシロクマが大好きで大好きで、20年間、シロクマばかりを撮り続けている。この写真を撮ったのは、毎年行っている、カナダ北部のハドソン湾に面したチャーチルという町。10月になるとシロクマが集まってくる。ハドソン湾が凍るのを待って、北極への旅に出る。アザラシの猟の始まりだ。6月にはハドソン湾の氷が溶け始める。彼らの猟の終わり。シロクマはその後10月までは絶食なのだそうだ。つまり、上の写真は、北極に行く直前、お腹がペコペコのとき。地上最大の肉食獣と言われているシロクマ。そこに犬が現れたら、だれもが思う。「食べられちゃう」ところが、丹葉さんの目の前で繰り広げられた光景はまるで違っていた。シロクマと犬が遊び始めたと言うのだ。「悲惨な光景を撮ることになる」と覚悟を決めたそうだ。思ってもみなかった、シロクマが犬をハグするシーン。衝撃だったな。食欲は生きるものの最大の欲望だと思う。しかし、食欲を超えた何かが、シロクマをこんな行動に駆り立てた。それを、丹葉さんが写真におさめて、こうやって世に出ている。この写真をじっと見ていると、いろいろなことを感じることがあるはずだ。コロナで3年ほどシロクマにあいに行けないのだそうだ。シロクマにあわないと体調が悪くなるほど、シロクマが大好きな丹葉さんに、1時間半ほど話をお聞きしたが、こういう人だからこそ、あり得ないような場面に遭遇できるんだなと思った。丹葉さんのお話は、2月中旬発売の「月刊ハイゲンキ」で紹介する。
2023年01月14日
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先日、合気道の廣澤英雄先生にお会いして、ワークショップにも参加させてもらった(真氣光の会報誌・ハイゲンキの取材)。御年85歳。合気道の開祖である植芝盛平先生の内弟子だった。晩年を開祖を過ごした貴重な体験をおもちだ。参加者がころころと畳の上に転がされる。妙な光景だ。写真を撮っていたぼくも、カメラを横に置いて、先生の前に進み出た。「腕をつかんでみなさい」両手で先生の左腕をしっかりとつかむ。先生は呼吸をして、少しだけ腰をひねる。すると、ぼくの方は、体の力が抜けて、すとんと畳に崩れ落ちた。起き上がろうとするが、体が動かない。「はい、いいですよ」やっと体が動いた。何が起こっているの?笑えてくる。「柔道とかレスリングの選手が合気道を習えば敵なしですね」そう言うと、「合気道は戦いではない。勝ち負けを捨てることが大事。相手を倒そうとする意識があるとうまくいかない」とのこと。相手と一体になるのだそうだ。よく、「あなたは私、私はあなた」と言っている人がいるけれども、つまりワンネスという世界を廣澤先生は、武術で体現している。「目標は宇宙と一体になること」だそうだ。多くの人がそんな心境になれば世界は平和になる。戦わない武術だから。転がされて気持ちがいい。宇宙を感じるからか。平和が根底にあるからか。「65年かかりましたよ。まだまだあります」そうだと思う。どんな世界も「これでよし」はない。死後の世界まで宿題をもっていって、さらなる修行が続く。
2022年12月23日
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盲目の冒険者、岩本光弘さんにお会いした。真氣光の中川会長との対談。ヨットで太平洋を横断したのだからすごい。一度目はクジラとぶつかって、ヨットはほぼ沈没。ぎりぎりのところで助かった。そんなことがあれば、もうこりごりだとなるはずが、彼は再挑戦し、見事に成功するのだから恐れ入る。でも、怖かったと話してくれた。そりゃそうだ。海が荒れれば、6メートルほどの高さまでヨットが持ち上げられ、そこから一気に落下するのだそうだ。波で船がギシギシと音を立てる。粉々になるのではと恐怖に押しつぶされそうになる。ぼくは思った。この世に生まれたことは、小さなヨットが太平洋で大波小波に翻弄されながら少しずつ目的地に進んでいくようなもの。一度出航すれば、もう後戻りできない。覚悟を決めて進むしかない。池袋駅で待ち合わせて、真氣光のセンターまでご案内したが、目の見えない人は、どんなふうに世界をとられているのだろうか。前から人が来ても、ひるむこともない。気配がわかるのだそうだ。交差点でも車と人の気配で赤信号か青信号かを判断していると言う。ぼくたちの生活は、かなりの部分が目からの情報だ。それがなくなったとき、どんなふうにほかの感覚が補うのか。そんなこともさっぱりわからないわけだから、目が見えないのにヨットで太平洋を横断しようという感覚は理解を越えている。ただ、目が見えないことを言い訳にせず、やりたいと思ったからという理由でチャレンジする、その思いと行動力は、少しは見習わないといけない。年だからとか、お金がないからとか、子どもに手がかかるからとか、病気だからとか、大変なことではあるが、そこに安住してしまっていてはつまらない人生になってしまうのではないか。考えさせられた。ぼくたちが生まれてきたこと自体、彼と同じような冒険者だと考えるといい。みんなが勇者。冒険者。大したものだ。もう前へ進むしかない。どんな障がいがあろうが、悩んでいる暇なんかない。大波を乗り越えてやれ!その先には、すごいことが待っているよ。元気と勇気をもらった。ありがとう!!!
2021年04月07日
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がんの患者さんを取材して体験談をまとめる仕事が毎月ある。みなさん、貴重な体験をされている。昨日は60歳の女性。2年前に直腸がんになっている。手術と抗がん剤の治療で、ステージ3aから回復した。彼女には悲壮感がない。ちょうど、81歳の母親が心臓の疾患で入院中のがん告知。毎日、お見舞いに行っていて、自分のことよりも母親のことが気になって仕方なかった。がんはやっかいな病気だけど、とにかく、早く始末をつけて母の面倒を見たい。そんな気持ちだったので、がんと診断されても、お見舞いに行けないことが気になって、病気や死に対する不安は感じなかったようだ。いくつも印象的な言葉があった。がんになってから、とても密度の濃い日々を送っているそうだ。本当にやりたいと思うことだけをやるようにしていると言う。だいたい、気乗りしないことでも、義理でやったりすることはよくあるもの。それをやめたら、毎日がものすごく充実してきたそうだ。人間関係もそうだな。本当に会いたい人とだけ会う。がんを深刻に受け止めることはなかったが、それでもがんは人生を変えるきっかけになった。ぼくもときどき、自分ががんになったら生き方をどう変えるか、考えることがある。でも思い直す。がんになったらと考えないで、がんにならないうちに変えればいいじゃないか。窮地に立たされないと変化できないこともあるが、その前に動くことで窮地を逃れることもあるだろう。ぼくたちは、いつも生から病とか死を見ているが、ときには、病や死から生を見てみるのもいいだろう。光から闇を見ると怖くてたまらないけれども、闇に入って光を見ると希望が出てくる。人の体験からいろいろなことを考えさせてもらっている。いい仕事をさせてもらっているなと思う。
2020年07月03日
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今、地球は大きな節目にある。ホピの予言で言う「浄化の日」。大掃除と言ってもいいかもしれない。人間が汚し切った地球が、自らの治癒力によってきれいになろうとしている。人間も地球の一員だからその影響を受けて、地球を浄化するための大事な働きもする。そのため、封印がとかれて、霊的な能力を発揮する人が増えてきているように感じる。怪しい人も多いけれども、地球のために霊的な能力を開花させようとしている人もいるはずだ。今の地球の状態だと、たくさんの能力者を必要としているのではないか。昨日は「レイライン」という話を聞いた。そもそも、地球も生き物だから、人間で言う「経穴(つぼ)」や「経絡」があるはず。それがわかる人が大昔にはいて、経穴に当たるところに神社を建てて、エネルギーを高める儀式を行ってきた。経穴と経穴をつなぐ経絡に当たるのがレイラインだと、ぼくは理解した。富士山も重要な経穴だろうと思う。富士山と鹿島神宮を結ぶ線上に皇居がある。そして、東京スカイツリーもこの線上にある。あんなのなんで建てたのだろうと冷ややかに見ていたけれども、ひょっとしたら、レイラインを考慮してのものかもしれない。スカイツリーが東京を守ってくれているってことか。近畿地方には面白いレイラインがある。伊勢内宮、元伊勢、熊野大社本宮、伊吹山、伊弉諾神社(淡路島)を結ぶと五芒星になる。その中心が奈良(平城京)。五芒星には魔よけの効果があるそうだ。日本列島の真ん中に、強力なレイラインが置かれている。レイラインのことを教えてくれた方は、霊能力がある人で、長年、ずっと封印してきたけど、そろそろ使わないといけないという気がしていると言う。彼女のおばあちゃんは霊能力のある人だった。親せきにも同じような能力者人が何人もいるそうだ。いわゆる霊能一族の生まれだ。彼女のルーツは伊勢にあって、おばあちゃんは外宮のすぐそばで生まれたらしい。伊勢神宮という特殊な場所には、見えない世界とこの世をつなぐ力をもった人たちがたくさんいたはずだ。表立っての活動はなかっただろうが、その能力はひきつがれてきた。地球が危機を迎えた今、霊的な部分で世界を守ってきた人たちの子孫が、長年の封印を解き始めているのではないか。その影響で、たくさんの人の霊的な能力が芽生え始めている。そんな気がしていならない。昨日の彼女は、今、レイラインが緩んでいると言っていた。エネルギーが低下しているということだろう。それを締めるために(エネルギーが高めるために)活動している人が増えているそうだ。レイラインは日本中に張り巡らされている。〇〇神社はパワースポットだと、点だけで見るのではなく、ラインとして見ることで、新しい発見があるかもしれない。面白い話を聞かせてもらった。
2020年06月23日
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28日、29日と信州の松本へ行ってきた。ぼくが文章を書く仕事をするきっかけを作ってくださった恩人が10年前に松本へ移住した。彼が主催する会で健康に関する話をさせてもらうことになって、家内と一緒に出掛けたのが去年の夏のこと。久々にお会いした。今回はその二回目。行きは天気が良くて、富士山がきれいに見えた。5月だというのに寒波が入り込んでいて、富士山は真っ白だった。去年から五日市で畑を始め、目につくものが変わってきた。会場の「楽蔵ぴあの」というカフェのママさんは料理が得意で、おいしい郷土料理、山菜料理を用意してくださった。タラの芽のてんぷらも、食べたことはあると思うけど、山菜のおいしさを感じるようになったのは、畑を始めてからだと思う。だいたい、ふきのとうにしてもタラの芽にしても、あまり意識して食べることはなかった。さらに、知人の別荘に泊めてもらったのがだが、そこの庭にはタラの芽がたくさんあった。「これがタラの芽か」とびっくり。バラの茎みたいにとげがいっぱいあって、それがどんどん伸びて、3メートルほどにもなったタラの木があって、その先端にタラの芽がついている。ぼくも田舎育ちだけど、初めて見た。今年は、ふきのとうも食べた。いるかのはたけは、山菜の宝庫だと思う。来年は、だれかにレクチャーをしてもらおう。これから、自給自足で生きる必要が出てくると思う。作物を作ることも大切だけど、自然のギフトを上手にいただくことも覚えないと。連休の半ばにはいるかのはたけへ行くけど、タラの芽がないか探してみようと思う。新しい楽しみだな。
2019年05月01日
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今月は仙台へ二度行った。二度とも泉区で、片方はご自宅で、もうひとつは大学だったが、隣同士という距離のところ。両方とも霊的な話を聞きに行った。あそこはそういうエネルギーの場所なのだろうか。最初は、「霊能刑事」の阿部さんの取材。御年85歳。40代のときに、突然、いろいろな声が聴こえてきた。頭が狂ったと思い、自殺を試みた。そのときに、亡くなった母親の声がして、思い止まった。以来、霊的な能力で難事件を解決してきた。ただ、現役時代は内緒の話。FBIでは霊感捜査は当たり前なのに、日本では怪しいものとされている。もっと霊能力を活用すれば、迷宮入り事件は少なくなるのかもしれない。この話は「月刊ムー」で紹介する。昨日は東北学院大学の金菱先生を訪ねた。真氣光が発行している「月刊ハイゲンキ」の会長対談。災害社会学の先生で、霊性まで踏み込んで被災者にアプローチしている。たとえば、幽霊を乗せたタクシー運転手が何人もいる。学生たちが、そういう運転手を探し出し、仲良くなって話を聞いてまとめた。霊的現象に学術的にアプローチするのは珍しいことで、まわりからはいろいろ言われたことと想像する。でも、その必要性を先生は感じたのだろう。いいお話を聞くことができた。
2019年04月17日
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知り合いにお願いして鋳物工場の見学をさせてもらった。鋳物の街だった川口。今は、高層マンションがたくさん建つ、東京のベッドダウン。鋳物工場もどんどん店じまいしているようだ。知り合いの家も鋳物工場を経営していたが、5年ほど前に廃業した。鋳物はいろいろなところに使われているし、素材としてのすごく優秀で、活躍場所はいっぱいあるはずなのだけれども。魔法のフライパンも鋳物でできている。1日に100個しか作れず、評判がいいのでバカ売れしていて、今注文しても手元に届くのは3年9カ月後だそうだ。その記事を書くのに、この間、製造元である錦見鋳造にうかがって、錦見社長にお話をうかがったが、話を聞いたあと、どうしても見ておきたいものがあって、今回の鋳物工場見学になったわけだ。見たかったのは、鉄がドロドロに溶けている様子。1500度で溶かしていると言う。ドロドロになった鉄を型に流し込む(鋳込みという工程)のだそうだが、真っ赤(実際には濃いオレンジ色に見えた)な液体の鉄。これが太古の地球をイメージさせられる。命の記憶がよみがえる。見ているだけでエネルギーをもらえる。見学者は、これに感動するのだそうだ。取材を受けると、必ず「なんで1万円もするのですか?」と聞かれるそうだ。フライパンで1万円は高い。でも、鉄を溶かし、それを鋳込むのを見ると、だれもが納得する。その上、また見せてほしいと、訪ねてくる人も少なくないと言う。取材のときは、作業が終わったあとだったので、残念ながら見学できなかった。それを見ないで原稿は書けないだろうと、川口の鋳物工場に出かけていったのだ。溶けた鉄の様子が書き出しになるかな。頭の中では、記事のイメージが少しずつ出来上がっている。いいものを見せてもらった。
2019年04月03日
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頭が発する言葉と心が発する言葉は、エネルギー(周波数)がまるで違う。頭が発する言葉は相手の頭に届く。心が発する音場は相手の心に届く。頭に届かせたいときには頭から発する。心に届かせたいときには心から発する。自分の文章を見直してみて、「イルカみたいに生きてみよう」という本を書いたときは、心から言葉を発することができた。本来のぼくの持ち味だと思う。だから、読者の心に届いた。このごろ、妙に大人になって、心の声を、頭で制御して、頭言葉で書いている。得意ではない頭言葉で書こうとするから、どうしても表現に伸びがない。本来のぼくから離れているかな。だから、なかなか読み手の心まで、思いが届かない。そんな気がしている。今、そのチャレンジというか、リセットというか、心の声を素直に言葉に乗せるトレーニング中。ある編集者のアドバイスから、そんなことを感じるようになって、60をすぎてからの文章修業。手ごたえがないわけではない。もうひとつかふたつ、鍵を外せば、一気にはじけ出しそうな気がする。こんなこと、今までまるで考えずに文章を書いてきた。だから良かったのかもしれないし、今、こうやって考えることが、次のステップに進むチャンスなのかもしれないし、とにかく、この迷路から早く抜け出さないとな。
2019年04月02日
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仙台での取材。85歳の元刑事。45歳のとき、気仙沼署に単身赴任。そこから摩訶不思議な刑事生活を送ることになる。霊感によって事件を解決したり、犯人を自首させたりできるようになったのだ。しかし、最初は、カラスが話しかけてきたり、職場の人の心の声が聴こえたりして、「気が狂った」と悩み抜く。警察をやめようとまで思いつめたが、息抜きに妻と出かけた温泉宿で、高貴な霊に出会い、霊感を受け入れる決意をした。タクシー強盗事件があった。犯人は山へ逃げ込んだ。現場へ駆けつけたとき、声が飛び込んできた。「困った・・・」犯人はこのまま山に潜伏するか逃げるか、迷っていた。日が沈み、あたりは暗くなり始めていた。霊感刑事は犯人にテレパシーを送った。「夜はじっとしていろ。明るくなったら逃げろ」早朝、山から下りてきた犯人を逮捕した。遺体が語りかけてきたこともあったそうだ。老女が殺された。顔見知りの犯行という線で進めていたが、「知らない人に殺された」という被害者の声を聴き、もっと広い範囲での捜査に変更したら、手がかりが次々と出てきたとか。FBIでは、霊感による捜査が公に認められている。成果もあげているようだ。しかし、日本ではなかなか受け入れられない。彼も、退職するまで霊感のことはだれにも言っていない。きっと「勘のいい人だ」くらいにしか見られてなかったのだろう。「私は、いろいろな体験をとおして、霊界はあると信じられるようになりました。死んだら終わりではなく、死んでからが本番だと思っています」隣にいた奥さんは、「いつもいつも霊界、霊界って、もう聞き飽きちゃった」と笑っていたが、とても魅力的な元刑事だった。
2019年03月30日
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三重県の木曽岬町という愛知県との県境にある町へ、錦見鋳造という会社を訪ねた。ここで作っているのは鋳物のフライパン。「魔法のフライパン」といえばわかる人はたくさんいる。テレビでもよく紹介される。これを使うと、家庭でもプロの味が出せるというので大人気。手作りなので生産量が限られており、今注文しても、届くのは3年9カ月後とか。その会社の錦見泰郎社長にインタビュー。2時間くらい、楽しい話を聞かせてもらった。今回は、あまり語ってないことを引き出そうとして、たぶん、うまくいったと思う。いい原稿が書ける予感がする。だれもがいろいろ苦労をしている。でも、その苦労を肥やしにできる人は、頭を抱えながらも、心に余裕をもっている。その余裕って何か。それが他力なのだと思う。やるだけのことはやった。がんばった。だから、「必ず助けてくれる」というあいまいな自信。ほんのわずかでもすき間を作れば、そこにエネルギーが流れ込む。そんなことを感じながら、錦見社長の「楽しい苦労話」をお聞きした。
2019年03月26日
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2017年11月に子宮体がんの手術をしたカコちゃん。生来楽天的で、がんなんかになるはずがないと思っていた。がんと診断され、切ってしまえばいいんだと割り切った。しかし、手術が近づくに連れ、子宮がなくなることに寂しさを感じるようになる。子宮は女性特有の臓器。そう言えば、「がんをのりこえた人が気づく7つのこと」の取材をしているとき、乳がんを手術して片方のお乳を切除した女性に、「お乳がなくなるってどういう気持ちですか」と聞いたことがあった。彼女は、「きっと、男の人がおちんちんを切り落とすようなものではないですか」と答えてくれた。自らの性のシンボルが消えてなくなる。平気ではいられるはずがない。しかし、がんを体験して、ものの見方ががらりと変わる。カコちゃんはこんなふうに言っていた。「手術をする前は不安があったり、悩んだりしたけど、手術をしたあとは、痛みとか苦しさで、悩んでいる余裕なんかない。ただ生きることに一生懸命になるだけ。あれをしたいという欲とか、自分への不満とか、そんなものが全部そぎ落とされて、生きている自分を感じるだけ」それまで生きていることは当たり前だった。生きていることを意識などしなかった。命が底辺にあって、その上を土足でどかどか歩いていた。しかし、手術のあとは、命を最上部に置いて、そこに、夢とか希望がぶら下がるという感じだと言う。生きていることの奇跡を感じつつ、生きているからこそできることを精いっぱい楽しむ。去年は小笠原へ行った。写真も本格的に始めた。音楽も再開し、ハープの発表会もやった。「写真も音楽も、以前は技術ばかり追いかけてきたけど、今は魂を込めて撮り、演奏しています」かっこいいね。明るい笑顔がすてきだった。そうそう、彼女のいいところ。すぐに行動すること。行動力のある人のところにはツキも寄ってくる。
2019年03月13日
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3人のがんを克服された方の話をお聞きした。去年「がんをのりこえた人が気づく7つのこと」(サンマーク出版)という本を出したが、がんが良くなった人が、どういうことをやり、どういう気持ちでがんと向き合ったか、その経過を追うのはとても大切なことだと思う。病気はすべてそうかもしれないが、特にがんは、こうやれば治るという決まったルートがあるわけではない。同じ部位に同じくらいのがんがある2人の人がいたとして、同じ治療をやって、まったく違う結果になることもある。あるいは、Aさんが末期から生還できた治療法を、それほど重症ではないBさんが受ければもっと簡単に治ってしまうかと言えばそうでもない。肺がんの4期だったTさんはありとあらゆる代替療法をがんばってやった。しかし、がんは全身に広がった。彼は、両手をあげた。自分の力ではもうどうにもならない。好きにしてくれ。生きるも死ぬもまかせた。そんな心境になった。そこから大きな変化が出てきた。西洋医学の治療も受け入れた。思わぬ効果が出た。心の問題も解決する糸口が見つかった。わずかな期間で、彼のがんは消えてしまった。彼は、がんからさまざまなことを学んだ。今は、楽に、楽しく生きている。「楽しむ」ことはキーワード。YさんやWさんからも、「楽しむ」ことを大切にしてから改善したという話があった。がんというと、「壮絶な闘病」という言葉が対になって出てくるが、確かに、肉体的にも精神的にも大変だが、視点を変える必要がある。大野聡克さんの「ガンは悪者なんかではない」(風雲舎)という本、ここでも、がんをこうとらえればいいという、発想の大転換が書かれている。心のもち方がいかに大切か、改めて知ることができた。
2019年03月12日
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腸内細菌のすごさを書いたら、横浜の歯科の先生が、「口内フローラもすごいですよ」という話をしてくれた。口の中にも細菌群があって、そのバランスが健康にも影響を与えているらしい。生き物の始まりは管だったようだ。人間の体も、口から肛門まで粘膜に覆われた管でつながっている。食べて出すという原始的な構造から始まった。それだけでは生命体として不十分なので、細菌と共生するようになった。たとえばミミズ。まさに、食べて出すだけ。しかし、彼らにも思考や感情があるわけで、それは細菌たちが作っていると思われる。腸内細菌は、ドーパミンとかセロトニンという神経伝達物質を作っていることがわかっている。感情のもとは腸にあると言う。口の中でも同じように、だれも知らないすごいことが細菌たちによってなされているかもしれない。キスは、細菌同志がコミュニケーションをして、お互いの相性をチェックする大切な行為だと言う人もいる。細菌が混ざり合うことで、深まる関係というのもあるだろうな。健康のためということで言えば、しっかりとかむことで、少々の毒なら細菌たちが解毒してくれる。菌を殺すような歯磨き、うがい薬を使うと、菌のバランスが崩れて、病気のもとになる。目に見えない細菌だけど、バカにしちゃいけない。すごいことをやってくれている。手洗いうがいも、菌を殺すようなものを使うと、かえって弱くなってしまう。水とか塩水とか、そのくらいのものにしよう。ぼくは、手洗いもよほど汚れないとしないし、うがいなんぞ、やったことがない。それでも、インフルエンザなんてならない。ぼくたちは細菌と共生していて、お互いが助け合って生きているんだと考えて行動したほうがいい。
2019年02月12日
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芦屋で開業している城谷昌彦先生に、腸内フローラ移植の話を聞いている。腸内フローラというのは、腸内細菌の集まりのことで、簡単に言えば、ウンチを移植するということ。先生自身、潰瘍性大腸炎で、大腸を切除している。腸では苦しんだ。そんな体験をへて、腸内フローラ移植もやって、調子はすこぶるいいそうだ。健康な人の便を特殊な液を使って濾過して、食物繊維を取り除き、腸内細菌の溶液を作り、それをカテーテルで肛門から入れる。人のウンチを入れるなんて気持ち悪いという人もいるだろうけれども、ぼくはウンチやおしっこが汚いとは思えなくて、おしっこも飲めるし、ウンチだって素手で触れる。さっきまで自分の体の中にあったものなのに、外に出たとたんに「汚い」と思うのはおかしな話です。子どもが生まれたとき、ぼくは、あの子たちのウンチを牛乳に入れてヨーグルトを作ろうと思ったことがあります。やれば良かった。孫が生まれたらやってみよう。腸内細菌のバランスを整え、腸内環境が整うと、体調は良くなる。そのためには、発酵食品と食物繊維をたくさんとることです(まれにそれが合わない人がいるようです)。いいウンチが出たときの気持ちいいこと。腸内細菌のバランスがいいときはいいウンチが出るのだと思う。ぼくは、流す前に手を合わせる。「ありがとう、ウンチ君。ありがとう腸内細菌さん」腸内フローラ移植は、大学病院でも臨床試験が行われているし、これから広がっていくんじゃないかな。ただ、微生物というのは見えない世界に半分入っているから、現代医学の経験と知識だけでは難しいかもしれない。体調が悪い人は、まずは、自分で腸内環境を整えることを心がけるといいのではないだろうか。ぼくは、寒天を食べている。気持ち良く生きるには健康は大事。病気の人は、病気を糧に次に進める方たち。3月9日に講演していただく西本真司先生(フェイスブックのイベントページ)も、自らが潰瘍性大腸炎を患って、ぼくには想像ができないほどの苦しみを味わった。その体験をもとに診療に当たっているから、病人という視点ももって治療をしてくれる。なかなかこういう先生はいないだろうな。今回は、先生の病気のときの体験も聞きたいと思う。お問合せ、お申し込みはこちらまで。officeoharada@yahoo.co.jp
2019年02月11日
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去年の忘年会。ライター仲間のKikiさんから、「面白い女の子がいるんです」と教えてもらったことから始まる。アメリカに留学している20歳くらいの女の子。彼女は、宇宙人にさらわれた記憶があるのだそうだ。そして、背中に何やらチップを埋め込まれた。「なぜ、自分はそんなことをされたのだろう?」彼女は、ずっと考えているけど、答えが出ない。今は、大学の寮に入っているのだが、同室の人は、何と、ホピ族の末裔。これも何か意味ありげな展開だ。ぼくがこの話に乗らないはずがない。何しろ、宇宙人と言えば、奇跡のリンゴの木村秋則さん。彼の宇宙人話は、何度も聞いている。本にも雑誌にも書いた。そして、「ホピの予言」という映画を作った宮田雪監督と一緒に、ホピの村にも行っている。本にも書いた。昨日は、Kikiさんが幹事となって、UFO好きを集めてくれた。横浜で歯科医をやっている中城先生ご夫妻。「ムー」の帽子をかぶって現れたのはびっくり。子どものころから、宇宙の神秘に魅せられているそうだ。「UFOをはっきりと見ないことには死ねない」と言う。女の子は、中城先生の患者さん。30分の診察中、25分はUFOの話で盛り上がっていたと言う。「夏休みに彼女は帰ってくるので、みんなで会いましょう」とうれしいことを言ってくれた。川田さんは忘年会にも参加してくれた青年。どう見ても30歳くらいの青年なんだけど、もう40歳だと言う。彼も、UFOはしょっちゅう見ているし、アブダクションも体験しているようだ。チップも埋め込まれた記憶があるとの話。宇佐美さんは、医療ジャーナリスト。彼は、まだこの世界は初心者らしい。弘美を含めて、7人で、大いに盛り上がった。UFOに興味のある人、宇宙人と接触したことのある人は、きっとたくさんいるのだと思う。中城先生は、「われわれは『知的マイノリティ』だ」とおっしゃっていた。UFOや宇宙人の話をすると、バカにされるところがある。知的な立場にいる人は、こういう話はしない。しかし、本当にバカな話なのか?そうじゃないと思う。面白い展開になりそうな気配だ。
2019年02月08日
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「イルカが人を癒す」を世に出してくれた編集者と、2年ぶりくらいの再会。彼と一緒にやった作品は、「イルカが人を癒す」のほか、「ホピ的感覚」「イルカに教えてもらったこと」、そして「佐藤初女さん こころのメッセージ」。初女さんの本が2003年だから、15年以上、一緒に仕事をしていない。彼は、あの本のあと、会社を辞めて独立した。今年になって、ぼくのほうから彼に連絡をとった。彼の夢を見たからだ。彼は飄々としていて、人生訓や哲学めいたことは言わないのだが、夢の中の彼は、ぼくに滔々と、生き方について説いた。詳細は忘れたが、「このままでいいのか?」という厳しい問いだった。「やりたいことをやっているんですか?」そんなことも言われた気がする。それが気になって、「久々に会いませんか?」とメールをしてみたわけだ。ぼくは、ここ何年か、不完全燃焼感がある。何かもやもやしている。あんまりいい気分ではない。すっきりしたい。ひょっとしたら、何か彼が、このもやもや感を払しょくするヒントをくれるのではと期待した。2時間ほど、世間話に終始したけれども、彼と話す中で思い出したのは、「イルカが人を癒す」が出たころの自分だった。氣の世界があって、イルカがいて、毎日がものすごく新鮮だった。日々、発見することがたくさんあった。それをぼくは、表に出したくて仕方なかった。本の企画も、彼との1時間ほどの雑談の中から決まった。夢中になって、自分が見てきたこと、感じたことを話したのだと思う。そして、拙い技術だったが、力いっぱい、原稿に思いをぶつけて書いた。自分が言いたいことが出せた。自分なりの満足感。あの夢は、彼を登場させることで、ぼくにあのころを思い出させようとしたのかもしれない。
2019年02月07日
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今やっているのは腸内細菌のこと。人間の体には、とんでもない数の細菌が棲んでいる。人体を作っている細胞は数十兆個と言われているが、細菌はその10倍以上、いるのだそうだ。「人体の90パーセントは細菌ですよ」という人もいる。数から言えば、そうなる。細胞は、一個一個がDNAをもっていて、それぞれ独立して生きている。それでいて、彼らは人体にしか棲めないし、彼らがいないと、ぼくたちは生きていけない。すばらしい共生関係のもとで暮している。自分一人で生きていると思うなよ! というけど、自分の体だって、「自分の」というのはおこがましくて、細菌たちにどれだけお世話になっているか。腸内細菌だけど、腸の中で、食べ物を分解しているだけではなくて、とんでもなく知的な働きもしている。人間の感情のもとを作っているのだ。ドーパミンとかセロトニンとか、やる気を出したり、幸せを感じる神経伝達物質の前駆体は、腸で作られ、脳に伝達されるのだそうだ。腸は第二の脳と言われる所以だ。ぼくが勉強した限りで言うと、どうも、肉体的なコントロールは脳が中心になってやり、精神的なコントロールは腸が行っているのではないか。精神的に不安定な人は、腸内細菌を整えることをやってみるといい。食べものは、発酵食品と食物繊維。(まれに発酵食品や食物繊維が合わない人もいるそうだ)お腹をねじるような運動(散歩でも、体を左右にねじりながら歩いてみる)。マッサージ(愛しい気持ちでなでるくらい)。お腹を温める(腹巻とか湯たんぽとか)。腸に氣を送る(お風呂に入ったとき、寝るときに手をお腹に当てて、宇宙のエネルギーが腸を満たすイメージをもつ)。腸内細菌に語りかける(ご苦労さま、ありがとうね、で十分)。意識して思考をポジに切り替える(無理はいけない。だれかのことを憎く思ったら、その人を憎ったらしく感じていることを認めて、でも、いいところもあるかもよ、くらいで止めておく。憎く思っている人と仲良くしようと思う必要はない)。といったことをやってみると、腸内細菌が元気になって、気持ちを前向きにしてくれる。そんなふうにぼくは思っている。腹が立つとか、腹に据えかねるとか、腹が座るとか、「腹」で気持ちを表す日本語がたくさんある。意味があってのことだと思うよ。ぼくがもうひとつやっているのは、ウンチに感謝すること。出るたびに手を合わせている。
2019年01月31日
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インフルエンザが流行っているようだ。わが家は、今のところ大丈夫。今日のニュースで、いい薬が出たけど、耐性ウイルスが出て、それに感染すると長引いたり、重篤化するという話をしていた。抗生物質で耐性菌が出るというのは前から言われていた。そろそろやっつける発想から脱出しないと、病気とのいたちごっこはなくならないだろうな。もうすぐ「ガンは悪者なんかじゃない」(風雲舎)という本が出る。著者は、30年近く前に直腸がん4期と診断され、そこから回復した大野聡克さん。帯津三敬病院で、気功やビワ葉温灸の指導をしている。ぼくの書いた「「がん」をのりこえた人が気づく7つのこと」(サンマーク出版)でも少し紹介したが、彼の発想は、病気とは何か? を考える上で、大事なヒントになるだろうと思う。がんは何のためにできたのだろうか?人を殺すためにできたのだろうか?今は悪魔だと思われていて、それをどうやったら排除できるかという治療ばかり。西洋医学はもちろん、代替療法も、がんをやっつけろ! という考え方が根底にある。彼は、自分ががんになって以来、本当にそうだろうかと、考え続けてきた。そして、「そうじゃない」という結論に達した。がんは、その人を助けるため、救うためにできたんだ。彼はそう言っている。その人の生き方や考え方が変わるという意味で、「人を救う」という言い方はされてきた。しかし、彼は、自然の法則にのっとり、肉体的なレベルでもそうなんだと言う。もちろん、彼の言うことは、仮説でしかない。専門家からは、稽な話でだと切って捨てられるようなものかもしれない。しかし、ぼくは、ここにこそ、真実の一片があるのではないかと思えて仕方ない。2月中には発売になると思う。ぜひ読んでいただきたい。
2019年01月30日
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ぼくの本を何冊か企画してくれた編集者と久々にゆっくりと話をした。「管理職になったので雑用が多くて」と大変そうだった。出版業界は右肩下がり。若者も就職したいと思わないらしく、会社はどんどん高齢化しているようだ。ぼくたちライターも、原稿料はいいときの半分くらい。やっていけなくなって廃業した人も多いと思う。ぼくは死ぬまで原稿を書いていくつもり。出版が華やかなころだったら、こんなロートルライターなんか出る幕はなかっただろうが、若い人たちが魅力を感じない仕事なので、声はかかってくる。右肩下がりのおかげだ。なんて情けないことを考えているわけではない。せっかく表現者という仕事についているのだから、自分が考え、感じていることを、思い切って形にしていかないとと、思っている。まだそれができていないことは自分が一番知っている。不完全燃焼の日々が続いている。そんなことを彼に話した。かつて一緒に仕事をした仲間だから、ぼくのこともよくわかってくれている。何よりも、ぼくを正しく評価してくれているのがありがたい。今年は、彼と2人でいいのを世に出す。
2019年01月23日
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ぼくの本を何冊か企画してくれた編集者と久々にゆっくりと話をした。「管理職になったので雑用が多くて」と大変そうだった。出版業界は右肩下がり。若者も就職したいと思わないらしく、会社はどんどん高齢化しているようだ。ぼくたちライターも、原稿料はいいときの半分くらい。やっていけなくなって廃業した人も多いと思う。ぼくは死ぬまで原稿を書いていくつもり。出版が華やかなころだったら、こんなロートルライターなんか出る幕はなかっただろうが、若い人たちが魅力を感じない仕事なので、声はかかってくる。右肩下がりのおかげだ。なんて情けないことを考えているわけではない。せっかく表現者という仕事についているのだから、自分が考え、感じていることを、思い切って形にしていかないとと、思っている。まだそれができていないことは自分が一番知っている。不完全燃焼の日々が続いている。そんなことを彼に話した。かつて一緒に仕事をした仲間だから、ぼくのこともよくわかってくれている。何よりも、ぼくを正しく評価してくれているのがありがたい。今年は、彼と2人でいいのを世に出す。
2019年01月23日
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ライターになりたてのころ、単行本の執筆を頼まれた。本を一冊なんて、初めてのことだった。著者は、ある新興宗教団体の幹部だった。霊的な話もたくさん出てくる。決して嫌いな世界ではない。半分くらいは順調に書いた。ところが、そこで筆がぴたっと止まってしまった。何を書いていいかわからない。毎日、図書館へ行って、参考になる本はないかと探した。でも、気持ちばかりが焦って、もう一度話を聞きに行こうとか、編集者に相談しようとか、そんなことが頭に浮かばない。ひたすら、自分で何とかしようとして、どんどんとドツボにはまっていく。「ああ、やっぱり自分は才能がないんだ」と、頭を抱えながら、3日、4日と時間ばかりが過ぎていく。結局、どうやって解決したのだろうか。今では覚えていない。あれは、本になったのだろうか?その後も苦戦は続いた。一冊書き上げて、編集者に見せたら、最初から書き直せと言われたこともあった。ライターなんて、自分には無理だと、ずいぶんと落ち込んだものだ。あれから30年以上もライターを続けている。経験を積むのは大切なことで、図太くもなった。それなりに身のこなし方も覚えた。ある方向で行き詰ったら、別の視点から考えることで打開策が見つかることがある。才能がないからこそ、やり方も考え方もいろいろと工夫をした。だから、35年も続けられたのだと思う。何でもそうだけど、できないことで自分を責めるのはいいことではない。どんな人でも、できることとできないことがある。得意なことならすごく力を発揮できるが、苦手なことはできなくて当たり前。そう開き直ればいい。あと15年ライターを続けて、50年やったという満足感をもって引退したいね。きっと、15年の間に、いい作品も書けると思う。
2019年01月16日
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腸内細菌の話を聞いた。人間の体は、細胞が30兆とか60兆あって、細菌は数百兆個もいる。90%くらいが細菌でできているそうだ。DNAレベルで言うと、どう数えるのかはわからないけれども、99%が細菌だと言う。とにかく、細菌を考えずして、ぼくたちは生きていけないのだ。細菌の中には、ぼくたちが病原菌と呼んでいるものもある。ぼくたちの体の中では、病原菌も含めて、それぞれがバランスをとる役割をもっている。にもかかわらず、どんどんと広がっている抗菌生活。あるいは、食べものに含まれている化学物質は菌を殺してしまう。皮膚にもたくさんの菌がいて、それがぼくたちを守ってくれている。薬用せっけんでごしごしとこすったら、菌は死んでしまう。さまざまな病気が、細菌のバランスの悪さから発生している可能性がある。細菌と共生していく生き方が、実はすごく健康的なのだ。
2018年12月02日
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真氣光の会報誌「月刊ハイゲンキ」。毎月、巻頭に中川会長とすてきな人たちの対談がある。ぼくは、対談相手の人選と取材・まとめをしている。最新号では講談師の田辺鶴瑛さん(介護講談)、その前は物理学者の三田一郎先生、テレビにもよく出ておられる池田清彦先生、自然栽培パーティの佐伯康人さん・・・など、楽しくてたまになる話をしてくださる人たちが並んでいる。昨日は、拓殖大学教授でノンフィクションライターの野村進先生にお話をうかがった。野村先生は、25歳でノンフィクションライターとしてデビューし、大宅ノンフィクション賞という、この分野では最高峰の賞も受賞している。彼の最新作が、「どこにでも神様」というこれまでの作品とは趣が違うもの。娘さんがスーパーの福引で、出雲の旅を当てたことから、彼は出雲の神様に興味をもつ。あの地域は、独特の神様とのかかわり方がある。石見神楽に熱狂する子どもたち。舞手のおじいちゃんはスーパースター。まるで高倉健の前に立ったように直立不動でおじいちゃんの話を聞く。子どもたちが新聞紙で作った刀をもって見得を切る。クリスマスのプレゼントに神楽の面をねだる。何なのだろう? と彼は思う。日本全体を見渡すと神社ブームが起こっている。特に若い女性たち。神社ガールとか神女とか、マスコミではからかうようなことを言うけれども、そこには何か世相を映し出すものがありそうだ。野村先生は、10代の女性3人と出雲を回る。そこで見えてきたものは?さらに境港の水木ロード。妖怪のブロンズ像が並んでいるだけのところに、上野動物園と多摩動物園の入場者を合わせた数の人が押し寄せている。神様とか妖怪に、人がひきつけられている。どういうことだろうか?野村先生は、深いところで大きな変化が起っているのではと分析する。軽く扱えるものではないと言う。ぜひ「どこにでも神様」を読んでいただきたい。月刊ハイゲンキの新年号の対談もお楽しみに。これまでの対談はこちらで見られます。雑誌を購入したい方は、株式会社エスエーエスまで。
2018年11月23日
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有名な話らしいのだけれども、ぼくは知らなかった。ノーマン・ラスムッセンという偉い物理学者をリーダーとする研究者グループが、確率論的に原子炉の安全性を評価した「原子炉安全性研究」という報告書を出した。約3000ページにもわたる膨大な量の報告書なのだそうだ。1975年のことだ。その報告書によると、「原子力発電所における大規模事故の確率は、原子炉一基あたり10億年に1回で、それはヤンキースタジアムに隕石が落ちるのを心配するようなものである」となっていて、この報告が安全神話の根拠となっている。10億年に1回。そう専門家に言われたら、「事故は絶対に起きない」と安心してしまう。ところがその4年後(1979年)にスリーマイル島原発が重大な事故を起こした。さらにチェルノブイリで大事故が起こり(1986年)、2011年には福島。この報告書が出されてから40年のうちに3回も「10億年に1回」の原発事故が起こった。たまたま10億年に1回が重なったという見方は、あまりにもお人好し過ぎないか。たとえ、この報告書が正しくて、10億年に1回しか重大事故が起きないとしても、もし起こったらどういうことになるかは、チェルノブイリでも福島でも、明らかにされていることだ。10億年後の子孫のために、そんな危険なものを残しておいていいのだろうか?福島第一原発の事故でも、さまざまな奇跡的な偶然が重なって、このレベルでとどまることができたそうだ(それでも大変なことになっている)。もし水素爆発寸前までいっていた2号機が爆発していたら・・・。関東から東北にかけて人が住めなくなり、4000万人が避難することになったという。東京は首都として機能を果たせなくなり、政治も経済も大混乱。他国からの干渉が入って、日本は国としても成り立っていかなくなっていたかもしれない。10億年に1回であっても、たまたま、ほかの原発も10億年に1回の事故を明日起こすかもしれない。それでもうジ・エンド。ぼくのような日和見人間でも、これはまずいと思ってしまう。ラスムッセン報告書は、リスク管理の領域では有効に活用され、とても役に立っていると言う。しかし、原発に関しては、どうも認識が甘かったのではないか。今日の新聞には、東海第二原発が耐用年数の40年を間もなく迎えると出ていた。原子力規制委員会が20年の延長を認めた。そんなこと、ラスムッセンさんは計算に入れてなかっただろうと思う。ラスムッセンさんは2003年に亡くなっている。もし、あの世にいるなら、どんな思いで、今の時代を見ているのだろうか。
2018年11月20日
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何とかぎりぎりで原稿を仕上げた。ぼくの仕事は、自分が著者になる場合と、別の著者がいて、その人の話を聞いて、ぼくが原稿にまとめるという、2つのパターンがある。今回は後者のパターン。すごく面白いテーマだったけれども、素人がなに勝手なことを言っているんだと思われてしまいそうな話だったから、いかにして説得力をもって表現できるか、けっこう苦労した。うまくいったかどうかは、編集者が見てくれて、著者も、どう感じるか。これからまだまだいくつも山がある。でも取りあえず、原稿をおさめてひと段落だ。午後は本でも読むか、DVDでも見るか。休憩だ。あしたは久しぶりにはたけへ行く。大根はどれくらい成長しているだろうか。3日は、ラグビーの日本代表対オールブラックス。どこまで通用するのか。4日は山梨へ行く。桃を栽培している人がいて、農福連携に興味があるということでお訪ねする。その方の息子さんが自閉症なのだそうだ。楽しい週末が待っている。原稿が何とか間に合って本当によかった。
2018年11月01日
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真氣光の会報誌「月刊ハイゲンキ」。中川会長との巻頭対談のゲストは講談師の田辺鶴瑛(かくえい)さん。ある人の紹介で知って、対談をお願いした。全国で「介護講談」というのをやって、大いに話題になっている。彼女自身、3度の介護体験がある。10代のころに実母、結婚してから義母、そして秀逸なのが3度目の義父の介護。実母と義母のときは、「大変だ、大変だ」と言いながら介護をした。「介護はまじめにやると疲れる。自分だけがどうしてこんな目にあわないといけないのと、ついつい愚痴、不平、不満が出てしまう」そうだと思う。それでみんながクタクタになってしまっている。義父のときは違った。だいたいが、自分勝手な義父のことが、彼女は嫌いだった。義母の死後、愛人のところへ転がり込んで、認知症になって追い出されてきた。なんで、そんな人の面倒を見ないといけないのだ。でも、1年くらいであっちの世界へ行ってくれるだろう。そんな感じで始めた介護。呼びつけられるとイライラする。1年たっても元気いっぱい。ちょっと話が違うじゃないか。あるとき、義父が「助けてくれ!」と呼ぶので、「ああ、またか」とため息をつく。ふと横を見ると、洗濯ネットがあった。それをかぶって、「どうしたの?」と義父のところへ。義父は大慌て。それが面白くて、義父が呼ぶと、必ずかぶりものをしていくことにした。介護を遊び始めた。義父は競馬が好きだったので、東急ハンズで馬のかぶりものを買ってきた。「背中がかゆいからかいてくれ」と義父が呼ぶ。馬のかぶりものをかぶって部屋へ行った。義父はぎょっとする。「ああ、馬か。馬では背中がかけんわな。もう、あっちへ行ってくれ」そんなふうに楽しみ出すと、介護が苦痛ではなくなり、義父のことが好きになってきた。笑った、笑った。介護=大変。そう刷り込まれている。鶴瑛さんは、介護=楽しいに変えた。こういう発想はとても大切。ネガをポジに変えていく。それがこれからの時代を生きる力なのかもしれない。ああ、面白かった。「介護講談」という映画にもなっているから、上映場所を調べて見に行くこと、おすすめしたい。自主上映もできる。
2018年10月27日
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真氣光の機関誌「月刊ハイゲンキ」の対談があった。今回のゲストは、「僕のうしろに道はできる」「日本一幸せな従業員をつくる!」という映画を作った岩崎靖子さん。本当に魅力的な人だ。彼女は、もともとOLで、映画畑で働いていた人ではない。とにかく、すばらしい話を、世の中に人に伝えたいという思いで、映画作りの世界に足を踏み入れた。やろうと決めたら、次から次へと、彼女を応援するような出会いが起こってきた。まわりの人に後押しされながら、彼女は、目の前に置かれたハードルを次々と飛び越えてきた。「僕のうしろに道はできる」は、山元加津子さんが、脳幹出血で倒れた同僚の宮ぷーを、献身的に介護して、ほとんど植物状態だったのを、車いすに乗って散歩できるまでに回復させる物語だ。倒れたときには、3時間の命ですと宣告された人だ。それが、ここまで回復するというのは、奇跡としか言いようがない。でも、奇跡は思いによって現実化することもある。あきらめちゃいけない。常識にとらわれてもいけない。心を揺さぶられ、勇気をもらえる作品だ。「日本一幸せな従業員をつくる」も、すばらしい。名古屋のターミナルホテルで起こった実際の話だ。総支配人の柴田さんが、いかにして従業員を幸せにするかという視点で、さまざまな工夫を凝らし、自ら動き、ホテルを再生していく話だ。柴田さんの言うことは、「きれいごと」。彼の話を聞けば、「でも、現実はね」と、言い返されてしまう。しかし、彼は、それを現実にやってのけているのだから、ここが感動のツボだ。ここにも奇跡がある。岩崎さんという女性が、こうした映画を作り、これが、たくさんの方に見られるというのも、奇跡だ。映画に感動した人たちが、グループを作って、各地で上映会を開いている。このうねりも奇跡。そして、重度の障がいをもった方と、筆談でコミュニケーションをしたり、認知症の方の話を聞いたり、コウヤ君の詩集が出たのもそうだし、奇跡、奇跡、奇跡の連続だ。なんだよ、奇跡なんか、そこらじゅうにあるじゃないかと、この映画の周辺からは、感じ取ることができる。実は、奇跡じゃないことの方が少ない。いやいや、世の中で起こっていることは、すべて奇跡。そうだよ。ぼくたちが生きていることも奇跡だし、人と出あうことも奇跡。そんな中で生きているぼくたちは、本当に幸せ者。それを忘れちゃいけない。
2014年04月12日
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その女性は、細身の体に、だぼっとした緑のずぼんと、上はピンクのカーディガン、知的で上品な雰囲気をもった方だった。にこやかにお店に入ってきたが、心の中は、まだまだ混乱が宿っているだろう。ご主人が倒れたのは3か月前のこと。65歳だったというから、これまで、一生懸命に働いてきて、これからのんびりと過ごそうと思っていた矢先のことだっただろうと思われる。「私が家へ帰りましたら、大声で、『頭が痛い、頭が痛い』と叫んでいました。結婚してから、彼のあんな大声は聞いたことがありませんでした」ということで、救急搬送。ご主人は、そのまま意識をなくしてしまった。脳幹出血だった。息子さんは、仕事の関係で、広島にいる。老夫婦2人暮らしだった。意識が薄れていくご主人を病院へ連れて行き、医師から、絶望的な話を聞かされ、さぞかし心細かっただろうと思う。「病院から帰ると、いつも泣きながら息子に電話していました。息子は、そんなにつらいなら、病院へ行かなくていいよと申します。病院できちんと面倒見てくれるからと言うのですが、私は行きたいんです。そばにいてあげたいんです」仲のいい夫婦だったのだろうと思う。「夫が入院してから、家族の大切さがよくわかりました。このトマトおいしいねって言って、そうだねという答えが返ってくるだけで、どれだけ幸せなのかということがわかりました。8月には初孫が生まれます。夫も、楽しみにしていたはずです。やりたいこともいっぱいあったと思うし・・・」そう言うと、言葉に詰まって、彼女の目からは、涙が一筋、ふた筋と流れ落ちた。ぼくは、「僕のうしろの道はできる」という本を、彼女に見せて、あきらめることはない、反応がなくても、意識はあるから、話しかけてあげてほしいと、訴えた。このご夫妻は、ぼくたちに「奇跡」を体験させるために、サムシンググレートがつかわせた人たちかもしれないと思った。「復活の物語を作りましょう」ぼくの口から、そんな言葉が飛び出した。最初はきょとんとしてた彼女だが、すぐに、すてきな笑顔を見せ、力強い言葉を、ぼくに返してくれた。「そうですね。夫が倒れて、夫の友だちの間では衝撃が走りました。いつ自分も同じことになるかもしれないという不安も湧き上がってきただろうと思います。でも、夫が復活すれば、みなさんの勇気にもなりますからね」女性の強さなんだろうと思う。もし、これが逆で、ご主人が残されたとしたら、こういう展開にはならなかったかもしれない。筋書きのないドラマが、これから始まる。感動の予感がしてならない。
2013年06月20日
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知り合いのベテラン編集者が、「木村さんのリンゴ」について、書評を書いてくださった。それを読んで、書いたぼくが、「なるほど」と思わされた。そうだ、その通り。そのつもりで書いたんだと、読んでいて、うれしくなってきた。書評はこちら。今は、新しい文明が創造されていく過程にある。それも、かなり重要なところに、ぼくたちは立っている。原発に象徴されるような、環境を破壊しながら、自分たちだけの快適さを求める、なんとも愚かしい文明から、自分たちは地球の一部であり、さらに言うなら宇宙の一員なんだという、本当の意味での共生の文明への移行である。そこに目覚めるきっかけとして、木村秋則という人はいる。自然栽培があり、UFOや宇宙人が、そこにつながってくる。木村さんが偉いということではなく、彼は、そういう役割をもたされ、あの素直な性格で、その役割を愚直に果たそうとしている人なのだ。木村さんリンゴは、だれもがほしがる貴重品となり、映画になるほど有名人になって、本もたくさん出て、あちこちから講演に呼ばれて、普通は、UFOにさらわれたとか、龍や宇宙人に遭遇したとか、言わない方がいい。たぶん、「そんな話をすると、リンゴの話も怪しく思われるからやめた方がいい」というアドバイスももらったことだろう。しかし、木村さんは、「無農薬でリンゴを栽培したのも、UFOや宇宙人のことも、自分にとっては真実だから」と、語り続けている。それは、木村さんが、自然栽培を広げることだけが自分の役割ではないことを知っているからだ。自然栽培を道具として、新しい文明を築く礎を作っていくことが、彼の役割だからだ。ぼくは、そういう視点で、「木村さんのリンゴ」を書かせてもらった。書評を読ませてもらって、あらためて、「これで良かった」と思っている次第だ。
2013年06月13日
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