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font size="3" color="#483d8b"> 雪を降らせたり、キラキラと加工を勝手にして下さるグーグル+だけど、似たような画像とかを続けてアップすると、こんな(前回のアルクマも)ミニ動画も作ってくれたりするさて、ここ最近はブログなどでも何人かが感想を書いていたりするのが映画「永遠の0」だが、その主人公を演じているのが、ジャニーズ系「V6」の岡田准一で、私がはまったのは昨春に公開された映画「図書館戦争」の堂上教官だけど♡年末には出世作となった「木更津キャッツアイ」の再放送もやっており共演をした「嵐」の櫻井からは紅白歌合戦で役名の「ぶっさん・・・」とか言われていたが、ジャニーズ枠が一杯で「V6」は出演が出来ないのに、メンバーの岡田准一が会場にいたのは今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で主役をするので審査員として参加をしていた為だ。そんな後輩の事を気遣ってか、「SMAP」の木村は自分たちの歌の時に、岡田にマイクを向けていたお正月明けの冬ドラマの番宣で、各民放局の番組などドラマの出演者が出没しているけど、それはNHKでも同じで、歴史系の番組はどれも豊臣系のからんだ戦国ものばかり。官兵衛が信長から貰った刀の名もばっちり覚えましたぞ →「圧(へ)し切り」 無論、徳川家康の宿敵とも呼ばれたこの男。真田幸村について取り扱ったものなどもあった。新大型時代劇として、NHKでも1年にわたって、「真田太平記」が昭和60年に放映をされていたそうだが、私は見てはいなかった。残念~戦国における真田昌幸(丹波哲郎)、信之(渡瀬恒彦)、幸村(草刈正雄)の生涯と一族の興亡を描いたものだそうで、なかなか硬派なものだったのでは? 私としては、大河「風林火山」での真田幸隆(昌幸の父)を演じた佐々木蔵之介も捨てがたいそんなテレビジョンなどマスコミで活躍する俳優さんに負けていないのが戦国武将ゆかりの地で、盛り上がりを見せている、ご当地おもてなし武将隊の皆さんだ。この御方、信州上田の真田幸村公だそうだが、織田信長でもいけちゃうんじゃない? 徳川家康に果敢に挑む真田家の中でも「大坂夏の陣」では寡兵3500を持って徳川家康の本陣まで攻め込んで、家康を追いつめた真田信繁(幸村)は、合戦に参陣・参戦をした将兵による記録や証言が基となって、江戸幕府の諸大名の各種史料に、その戦将振りが記録されているそうだ真田幸村の武勲にあやかろうと、諸将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合って、お守りにしたとも言われているそうだ本来は信繁であるのが、寛文12(1672)年の軍記物語「難波戦記」で幸村と明記されているのが最初で、人気を博して広く読まれたため「幸村」が一般的となったそうだ「幸」は真田家の通字(実家は万だった)で、「村」は信繁の姉の村松や、信繁系の真田家が後に仕えた伊達家当主の伊達綱村に、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来するのではないかと言われているそんな武勇を持つ武将をほっとくわけもないので、幸村を題材にした講談の流布とともに、真田人気もうなぎのぼり真田幸村に仕えたとされる10人の家臣、「真田十勇士」(伝承上の架空の人物とされるが、歴史的な由来を持つ人物もいるんだとか)も主君ともどもヒーローとなった 私が織田信長の事を知ったのは、幼いときにTVで見た「仮面の忍者赤影」なくらいな訳で、やっぱ真田幸村とかより、アニメ「サスケ」とかあたりでしょうかね。そして猿飛佐助、霧隠才蔵とかを漫画やアニメコンテンツから自然に覚えてた「真田十勇士」は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助(穴山小介)、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎が基本とされて作品によっては多少の名の入れ替えがあるようだ この愛らしい子は、火縄銃の名手の「筧十蔵(かけいじゅうぞう)」で、豪胆な性格だったといわれ、大坂夏の陣で徳川方を散々に苦しめたんだとか↑の最初の青年は、「穴山小助(あなやまこすけ)」で槍の名人。というか、昨今のおもてなし武将隊とかは武芸の腕よりも、ダンスが出来るとか、トークがうまいといったのがポイントになる。無論、顔だちも(汗) 更に、真田幸村公と記念写真を撮りたい庶民のカメラを受け取った筧十蔵殿の撮影&気配りもなかなかのものだちなみに「チーズ~」ではなく「真田十勇士~」と言うのが決まりだ地元の上田の宣伝にも抜かりなく、とにかく寒い菅平高原スキー場の紹介とか、「真田郷の湧水」なる飲料水を売りつけ・・・いや、無償でプレゼントして下さるそうでじゃんけん大会~~~。負けた 会場にかけつけた歴女の皆さんに「名刺」も配ったりと大忙しだ私も1枚貰いに行ったのだが、ちゃんと挨拶などもして下さるぞ。そんな彼らには徳川に屈しなかった上田城の他にも別所温泉などで会えるようだ 「 信州上田おもてなし武将隊 」信州で人気のアルクマも幸村公にご挨拶~。そんなトーク上手な幸村公は古風なお顔立ちなのに、ブログも面白すぎスキーリフト券をかけて、クイズ大会に参加している間にマックでくつろぐ武将姿を見損ねてしまったとは! 「 真田幸村の日本一の独り言 」 アルクマなる信州固有の新種のクマがやってきた山形村の松本アイシティ21には、峠を超えて信州上田から戦国の英雄、真田幸村御一行様もやってきていたのだった 平成26年1月11日に松本アイシティ21で撮影最新お気に入りブログに反映しなかった訳がわかりましたたぶん私は誤字脱字が多いので公開後に、日記編集をして再公開するんですが、そうする事で最新お知らせに出ないかもしれません
2014年01月16日
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子供の頃、京都の豊国神社で、太閤秀吉公が 使ったという獏(バク)の木彫りの枕を見た 悪夢を食べてしまうという獏は、東南アジアに 実際に存在をする哺乳類です 古来、中国の葬儀では、霊を見守る為に 「鎮墓獣」が埋葬をされました。また、睡眠中に 魂が、体から遊離をすると考えられていたので 魂が悪霊にさらわれないよう、悪霊祓いの 神獣の絵や、置物が飾られていたそうだ その風習が、日本に渡来し、室町時代あたりには 正月や節分の初夢に、獏の絵を枕の下に敷いたり 獏枕を使用するようになり、「獏食え、獏食え」 「夕べの夢は、獏にあげます」と唱えれば、悪夢の 難から逃れると信じられていたそうです 旦那が枕が古くなったので、新しいのが欲しいと ねだったので、スーパーで物色をした。さすがに 獏の枕は売っていないのだが、「これが欲しい」と 指差す先には、自分の頭の形に合わせてくれる 「低反発枕」が、値引き札でも8000円也! 備長炭入りの高級蕎麦枕は2個セットで、見切りの 4000円。これは心が揺り動かされたが、やはり いつもの「蕎麦枕」の¥980になったのだが 新しい枕は息子に強奪されて、息子の少し古く なった枕を、旦那は使うことになった 「まくら」の語源は幾つもあります 頭のすきまを支えるから 間座店(マクラ) 頭座(アタマクラ) 目座(メクラ) 昔、袖を巻いて枕としたので 巻座(マクラ) 纏座(マキクラ) 神霊を呼び出す手段として枕をする 真座(マクラ) 魂倉(タマクラ) 古事記には御枕方(マクラベ)、日本書紀には 摩苦羅陛(マクラベ)の記述が残っているそうです 人生の中で、かなりな時間を要する睡眠に 枕は欠かせません。なるべくなら悪夢ではなく 楽しい夢を見たいものです(私は得意なんですよ) 「その重要なアイテムの枕ですが あなたは、どんなものを使っていますか?」 まくらについて詳しいサイト http://www.makura-erabi.com/
2005年09月20日
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奈良には白毫寺というお寺があるのだが、この「白毫」とは 白い毛の事である。仏様の特徴の一つに「百毫相」があります これは、眉間から生えている2メートル程もある白い毛で クルクル巻かれ、仏の智恵を表しているそうです。仏像彫刻で 丸い水晶がはめ込まれており、多くの人はホクロと勘違いを しているのではないだろうか 2メートルも無いにしても、短いはずのうぶ毛が、やたらに 長くなったものを、福毛とか、宝毛というらしい。それが 自然に抜ける時、ラッキーな事が起こるらしく、抜いたり 切るのはよくないという 私にも、左のほっぺと右手のうち側に、3センチくらいまで のびた福毛がある。たまに、抜けたりしてるのだが、また 時間をかけて、3センチくらいまでに成長をするのだ か細くて、ほわほわした、まさにうぶ毛でしかないのだか この毛がある時には、懸賞に良く当たるような気もする まさに私にとって、宝毛なのかもしれない
2005年09月18日
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昨年、靖国神社の境内に桜が咲く頃 私は、娘と靖国神社に隣接する遊就館に 行った。ここは幕末からの戦争に関する 展示がされているのだが、零式艦上戦闘機 といったものの他に、戦争で命を失われた 兵士の遺品も、残されている ひめゆり部隊をはじめとした、若い人の写真が 壁面に、所狭しと貼れていた。昭和19年に フィリピンから、祖国に残した家族への想いを 「椰子の実」に託して流し、31年間ぶりに 彼の愛する妻の手元に届いた「奇跡の椰子の実」 妻をめとることなく戦死した息子に、母から お供えをされた、華やかな「花嫁人形」 彼らは好き好んで、戦争に赴いたのだろうか お国の為 家族の為、・・・。姑は、子供の時に 家族を残し、出征をする村の青年を、旗を振りながら 村境まで送っていき、みんなで「万歳!」をして 戦場に送った。しかし、故郷に帰ってこれなかった 兵士も多い。私の父も出征をし、九州において終戦を むかえた。あと少し戦争が長引いたら、海の藻屑と 消え去り、私も、この世に存在をしていないと思う 父は二十歳前に出征をした。祖父は息子の門出に 一山の木を全てを売って、一振りの日本刀を持たせた 終戦後に、無事に帰った父の日本刀を祖父は抱えて 汽車に乗り、三河の海に、投げ込んできたと言う その時、祖父は笑っていたに違いない。息子が生きて 帰ってきたのだから 「無言館」を知っていますか? 画学生として、また若手の画家であった青年達が 志半ばで、戦場にて命を落とし、遺族の手元に 遺された作品と、彼らの青春の息吹を伝える遺品の 数々を展示をするために、「信濃デッサン館」の 分館として、戦没画学生慰霊美術館「無言館」は 誕生をした 開館当初は、年配者の観覧が多かったのだが、年々 口コミにもよって、若い人達の観覧が増えてきたそうだ 自分の将来がわからない。夢が見つからない・・・ そういう若者達が、夢半ばにして、命を失う事になった 画学生の遺作を通して、何かを掴み取る事が出来たら そんな思いで、今年の春、無言館では成人式を公募し それに賛同をした新成人が、式典に臨んだ 描きかけの恋人の絵。「戦争から帰ってきたら、また 描きあげるから・・・」と言い残しながら、彼が帰る 事は、もう無かった。命を失った青年は無論、残された 家族や、恋人、友の60年の「思い」が、これらの作品に こめられている 戦後60年を記念して、展示ができない数多くの作品を 全国の多くの人たちに見ていただきたい、彼らの思いを 知って欲しいという気持ちから、他館の戦没画学生の 収蔵作品も併せ、100点以上の日本画・油彩・彫刻 などの遺作と、遺品資料の展覧会「無言館 遺された 絵画展」が、年明けから、全国を巡回をしている
2005年05月17日
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