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なぜイタリア語が使えない(2) 確かに、単複と男女の変化は学習者にとって大きな壁となる。 たとえば、requisito(資格)この仕事に(per questo lavoro)求められる資格(複数)となると、定冠詞が i、あともrequisiti richiesti となって、i requisiti richiesti per questo lavoroと、全部語尾が i で揃う。 こうなると、話すときにもリズムがとりやすい。 文法のことをあまり気にしなくても、口の方が自然に動く。 ところが、たとえばrete(網)を使って国内の高速道路網と言おうとすると、eで終わっていても女性だから、la rete となる。さいわい、あとの形容詞はふたつとも(高速道路の、国内の)eで終わればよい。とりあえず、ここまでは定冠詞の語尾だけがaであとはeで揃えればよいから(autostradale nazionale)、かろうじてリズムがとれる。 さて、これがテレビの放送網になると、la rete televisiva のように、a-e-aとなる。 さらに複数形になって、numeroso「多数の」がつこうものなら、le numerose reti televisive となり、これにlocale、nazionaleがつくと、le numerose reti televisive locali e nazionali(e-e-i-e-i-i)になる。 いったい、こんな切り替えが瞬時にできるだろうか。それが初心者がいちばん最初にぶつかる心理的壁であり、人によっては一生越えられない壁となる。 しかし、ここで冷静になってよく考えてみよう。 こんなことは語学の習得にとって本質的なことでもなんでもない。まして、イタリア語の本質でもない。 スポーツでも音楽でも、これぐらいのことはいくらでもある。 試合を戦う以前に、基本的な動作が確実にできるようにしておかなければ、勝つことはおろか、相手にすらしてもらえない。 rete が女性であるから、複数の定冠詞がleになり、数多くのという形容詞numerosoがつくと、numeroseに、さらに地方のlocaleはlocaliになるなどと考えていては、実際にle reti numerose televisive locali e nazionaliという内容のことが言いたいときにとてもおぼつかない。 球技だと、実際に球が飛んできたときに、こういう状況でこの球だから、手足はこう使って、上半身はこう使ってなどと考えていては間に合わない。無意識のうちに体が反応するのでなければ、ゲームなんかできるわけがない。 文法も何もなく、瞬時にle reti numerose televisive locali e nazionaliという一塊のものが浮かんでくるのでなければ勝負にならない。 語学というゲームに求められるのは、そういう蓄積がどれだけあるかであって、その場で文法を頼りに文を組み立てる能力ではない。少なくとも、そんなことをする母語話者はいない。どのような状況にも対応できるようにしようとすれば、相当な量を蓄積しておかねばならず、一朝一夕にできることではない。そうなったとき、とにかく覚えて、必要なときに出てこなければならないのであれば、l* ret* numeros* televisiv* local* e nazional* であっても、le reti numerose televisive locali e nazionaliであっても、大差はないはずである。基本動作を確実に身につけなければならないスポーツと同じであると思えば、要するに何が何でも覚えていつでも口をついて出てくるようにしなければならない。 こうして、心理的な壁は消えるはずである。(加野)←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.08.27
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× 朝青龍騒動のすべての発端は、(草野仁) ○ 朝青龍騒動のそもそもの発端は
2007.08.19
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なぜイタリア語が使えない(1) ほかの外国語に比べれば、学習条件などはるかに優れているのに、未だに「なぜ英語が使えないか」などというたわごとを聞くと、ぶん殴りたくなる。 要するに「本当は英語なんか好きじゃないから」というだけのことだ。 私も英語なんか大嫌いだから、使えるようになりたいとは思わない。 それにひきかえ、あれだけ使えるようになりたいと思ったイタリア語でなかなか壁を越えることができなかったことは、やはりもう一度よく考えてみる必要があると思う。 言語間距離という概念がある。習得しようとする外国語が自分の母語とどれだけ違うかによって、習得までの時間に差が出るという考え方である。 私はこの言語間距離についても、話半分に聞いておく必要があると思っている。 言語間距離によって生じるいちばんの問題は心理的な壁ではないだろうか。 外国語学習の過程では、何度か学習が止まってしまうときがある。 要するに、「こんなややこしいもの、こんなむずかしいもの私にはムリだ」と感じた瞬間に始まり、気を取り直してもう一度挑戦してみようと思い直すまでの時間である。 これがけっこう長い。けっこう長くてあとあとまで尾を引く。 だから私は、言語間距離による習得時間の差には、この心理的な壁の前で結局は何もしないで立ちすくんでいる時間が占める部分がかなり大きいのではないかと思う。 イタリア語で心理的な壁となって立ちはだかるのはまず、名詞に男性形と女性形があるだけでなく、基本的に単数がoで終わるものの語尾がiになり、 eがi、aがeになるという規則である。これに形容詞が重なると、とても「人間技」とは思えないような変化になる。 もちろん、例外もたくさんあり、理屈を理解しようともがいている尻から、よしんば理屈が理解できても、瞬時に判断しなければならない会話の「現場」でいったいそんな使い分けができるだろうかという不安がよぎる。 それに比べれば、動詞の複雑な時制、人称と単複の変化など生易しいものに感じられる。 (加野)←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.08.11
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× まともな発言ができない状況 (朝青龍を診察した精神科医) ○ まともな発言ができない状態 状況というのは、何らかの集団が置かれている条件についてはどんな場合でもほぼ使えるが、一人の人間について言う場合には、何らかの社会的拘束などがないと「状況」とは言えない。 こんな精神科医にまともな診断ができるわけがなく、北原先生などには高いお金を払って庶民の日本語に難癖をつけるくせに、こんな状況の使い方ひとつ「見破れない」テレビ局にまともな報道ができるわけがない。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.08.10
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× 生活保護を廃止され (北九州市、フジテレビ) 廃止というのは、制度などに使うもの。個人の生活保護は打ち切るものであって、廃止するものではない。 北九州市の人権無視がこういうところにも如実に表れている。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.08.09
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× 皆様とお目にかかり、(安倍総理、被爆者に対して) ○ 皆様にお目にかかり、 ちょっとしたいい間違いを問題にしているのではない。総理の「美しい国」の構想には、国歌や国旗はあっても国語がない。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.08.06
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オーサカキングの実施に抗議してスト決行中。 8月5日まで、大阪城公園は関独裁政権のバカ騒ぎの場。
2007.08.03
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