翻訳立国トラドキスタン
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なぜイタリア語が使えない(3) 私たちが子どもの頃、よく「外国語なんか現地へ行ったら3ヵ月でしゃべれるようになる」という大人がいた。 その真偽はともかく、このことばには実に重大なメッセージが秘められている。 明らかに、外国語だけは素質や能力だけではどうにもならないということである。 それなのに、日本人は外国語ができないことに引け目を感じ、劣等感を覚える。 よくよく考えてみると、このことは不思議でしょうがない。 できないことは能力の問題ではなく、環境の問題なのであるから、自分を卑下することなどないはずである。 ただ、ここには複雑な問題がある。 学校の英語の成績が抜群によくて、そのくせろくに喋れないからといって自分を卑下する人間にはお目にかかったことがない。もう少し厳密に言うと、英語を純然たる進学の手段として捉え、その目的を十二分に果たした者のなかには、しゃべれないことを卑下する人間はいないということである。 自分を卑下する人間は学校の成績でもやはり他人に遅れをとっている。これが理科や社会だともう万策尽きているわけで、魔法のような特効薬はない。ところが、外国語にはそれがある。現地に行くという手である。 できないことに劣等感を抱きながら、それを環境の問題にすりかえている。だから、日本にいてできることは残らずやったうえで、環境が整わないために叶わない部分があり、いったいどんな条件が満たされればそれが実現できるかということが認識できれば、はがゆい思いは残るにしても、劣等感そのものは払拭できるはずである。 イタリア語には果たして、そういうものがあっただろうか。 (加野)←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.09.08
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