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11月27日午後9時10分、入浴前、コップ1杯の水素水。 午後9時44分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重58.4kg、体温36.7度、最高血圧105、最低血圧53.5。 午後11時、就寝。 11月28日午前8時4分、起床。 朝の測定 体重57.7kg、体温36.4度、最高血圧131、最低血圧68.5。 ※2回共正常測定値 1回目135/67(71)、2回目127/70(70)。 午前8時9分、朝食。 朝食は、クロワッサン3個、安田ヨーグルト越後姫1本、リンゴ半個、野菜ジュースコップ1杯。 食後の薬は、野菜ジュースで服用。 今日は、大学同期の会、夕々の会の久々の例会開催の日である。 午前10時12分、徒歩、杖を持って外出。近鉄枚岡駅へ。(枚岡駅への道)(枚岡駅)(同上(同上) 電車がやって来ました。 午前10時26分、枚岡駅発(JR大阪環状線・鶴橋駅) 鶴橋駅で大阪環状線に乗り替えです。(同上) 午前11時12分、JR大阪駅到着(阪急東通り商店街入口交差点)(がんこ阪急東通り店) 2階、3階ががんこの店になっている。 2階に上がると、道麻呂君が既に来ていた。我々の宴会の部屋は3階であるとのことだが、未だ用意ができていないようなので、それが整うまで、2階で待っているのだと言う。 待つこと数分、3階の部屋に案内される。(三階の部屋の前の中庭の池と言うか水槽には、錦鯉が沢山) 開宴は12時であったが、道麻呂君とヤカモチほかの出席予定者、蝶〇君、広〇君、出〇君、中T〇君、中Z〇君、古〇君、山〇君、守〇君、黒〇君、全11名が順次来場、開宴5分前には全員が揃いました。 この「夕々の会」というのは大学同期の関西での有志の集まりであるが、直近では、2019年11月15日開催が最後の例会で、翌2020年5月22日開催予定の例会がコロナ禍で中止となって以来の開催なので、6年ぶりの開催になった次第。<参考>夕々の会2019.11.15. 2019.11.16. 30名ほどの人数に6年ぶりの例会開催の案内メールを差し上げたのであるが、この間に故人となられた人や病気に倒れ参加が叶わなくなった人やメールアドレスが変わってしまっていて連絡がつかなくなった人などもあって、今回は11名という少ない参加人数となりました(当初は永〇君も出席の旨連絡を頂戴していたので、12名の予定であったのだが、急な用事で不都合となり、キャンセルしたので11名)。 まあ、それでも11名が再会を果たし、旧交を温めることができたのは、嬉しい事でありました。徳島からご参加の古〇君、福井県鯖江市からご参加の中T〇君、東京方面からご参加の守〇君と中Z〇君など、遠方からご参加いただいたお方には特に感謝です。(宴会風景)(同上) 各人に近況をご報告いただくなどして楽しく、和気藹々のうちに午後2時半のタイムリミットを迎え、皆で記念写真を撮ることとしました。(記念の集合写真) 中庭側に並んで、お店の方に撮っていただきました。 午後2時30分、解散。 今後は、道麻呂君を幹事とし、黒〇君とヤカモチがこれを補佐するという形で、この会を運営することといたしました。ヤカモチも体調が許す限りは参加させて貰うが、幹事として中心になって切り盛りするのは、がん治療との兼ね合いもあり、ちと負担が大きいので、新しい体制になり、ヤレヤレといったところであります。 道麻呂君とは大阪環状線で京橋駅まで一緒、ここで彼と別れて、ヤカモチは鶴橋駅経由で、午後3時36分、枚岡駅着。 午後3時51分、帰宅。 足が疲れました。 本日は、ここまでとします。<参考>夕々の会関連の過去記事はコチラ。
2025.11.28
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友人・岬麻呂氏からの旅便りが届きました。 今回の旅は「現役時代勤務した甲府の仲間との会食、浜松時代のOB会参加が目的の一人旅」とのことです。〇旅報告349・甲府、浜松〇添付写真(その1) (その2) (その3) 11月19日ご自宅を車で出発。近畿道・京滋バイパス・新名神・伊勢湾岸・東名・新東名・中部縦貫道経由の460kmを走破して甲府に到着。 甲府ご在住のご友人W氏宅をご訪問、W氏ご夫妻、ご同居のお嬢様、そのお子さん(高3、W氏のお孫さん)らの歓迎を受けられたとのこと。 この日の宿は、現役時代の事業所の近隣の「古名屋ホテル」だったそうですが、「名古屋ホテル」と読み違えたヤカモチは、「なんで甲府に?」と頭が一時混乱しました。よく見ると、「名」と「古」の順序が違っていることに気が付いて苦笑であります。 W氏が予約して置いて下さったのでしょう、甲府駅近くの郷土料理店でW氏ご夫妻とMさんと岬麻呂氏4名で会食だったようです。 突如のMさんのご登場で、どういうご関係のご友人なのか不明なのであるが、後ろの20日の文章の「浜松」のアトに「療養中のMさんを訪ね長居してしまう。」とありますから、Mさんは甲府時代のお仲間の一人であると共に、浜松時代のお仲間でもあったということなんでしょう。 11月20日、武田神社(信玄公の館跡)、紅葉見頃の九十九折の坂を上って昇仙峡へ。(甲府盆地と富士山) 昇仙峡ロープウェイに乗って富士山を眺め・・。(昇仙峡ロープウェイ、パノラマ台からの富士山)(甲府盆地に下る道の紅葉) 河口湖、西湖、精進湖、本栖湖を巡り、それぞれの富士山の眺めを楽しみ・・・。(河口湖)(西湖)(精進湖)(本栖湖) 下部温泉(信玄公の隠し湯)に下りて・・・。(下部温泉の紅葉) 中部縦貫道を経て浜松へ。 Mさん宅は浜松にあるのでしょうね。療養中のMさん宅で長居をされたようです(笑)。 この日の宿は、駅前のクラウンホテル。 浜松のOB・OG会は36名(うち女性6名)参加の盛会。 2次会、3次会と順次人数は減少で最後は6名だったとのことですから、岬麻呂氏もその6名のうちのお一人であったということですな。 「深夜2時近くまで飲み交わす」とはお元気なことですが、翌日の呼気のアルコール濃度は大丈夫なんでしょうか。少し気になります。 11月22日、この日は、浜松時代の隣家Tさん宅をお訪ねになられたとのこと。「奥様お元気」とあるもTさんについての言及がありませんから、Tさんはお亡くなりになったということなんだろうか。 ヤカモチも訪ねたことがある龍潭寺に立ち寄られたアト、遠州森町・三倉の太慶寺に現役時代お世話になったお方のお墓があるということで、そのお墓参り。そのお方は勿論、森の石松さんではない。 袋井ICから高速道に入り帰阪。全1140kmのロングドライブ、お疲れ様でした。<参考> 過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。 フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。
2025.11.29
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11月25日午後7時16分、夕食。 夕食は、おでん。おでんは、大根、玉子、厚揚げ、ジャガイモ。大根と人参と柚子の甘酢和え。ご飯は茶碗八分目程度の量。それにみそ汁でした。勿論、完食でした。味覚異常は少しずつ正常化しつつあるようです。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 午後10時28分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重58.3kg、体温36.5度、最高・最低血圧測定不能。 ※5回連続脈異常 1回目99/53(70)、2回目87/63(68)、3回目96/56(59)、 4回目88/49(63)、5回目91/46(73)。 午後11時8分、就寝。 11月26日午前6時23分、起床。 朝の測定 体重58.3kg、体温36.0度、最高血圧117、最低血圧88。 ※5回中4回脈異常 1回目132/70(77)、2回目106/60(73)、3回目115/71(70)、 4回目100/68(73)、5回目117/88 (79)。※5回目のみ正常測定値。 午前8時10分、朝食。 朝食は、ラ・フランス・ジャムのトースト2分の1枚、野菜ジュースコップ2分の1杯、リンゴ2分の1個、島バナナ1本。 ジャムが甘過ぎてちょっと気持ち悪くなり、トーストは半分を食べ残してしまいました。そのあおりで、野菜ジュースも半分を残してしまう。 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 12時10分、昼食。 巻き寿司3個といなり寿司2個。 午後7時34分、夕食。 茶碗6分目程度の量のご飯、刺身(鮪、鮭、ハマチ、鯛)、オカラ、レンコン、みそ汁。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 午後10時20分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重57.6kg、体温36.4度、最高血圧98、最低血圧57.5。 ※2回共正常測定値 1回目99/63(75)、2回目97/52(74)。 午後11時20分、就寝。 11月27日午前8時19分、起床。 午前8時23分、朝食。 バタートースト1枚、R-1ヨーグルト1本、野菜ジュースコップ1杯、リンゴ半個、島バナナ1本(最後の1本でした。)。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 朝の測定(今回は朝食後の測定) 体重58.0kg、体温36.2度、最高血圧105、最低血圧53.5。 ※2回共正常測定値 1回目92/49(82)、2回目118/58(78)。 午前11時57分、CBで外出。妻が友人と会って昼食・夕食を一緒してから帰宅するということであったので、ヤカモチのランチは外食であります。 12時3分、瓢箪山駅前の商店街、ジンジャモール瓢箪山にある、讃岐うどんのお店、「豊力」に到着。 今日はここで昼食です。肉玉ぶっかけうどんを注文。 苦く感じるかもという不安がありましたが、そういうこともなく、ほぼ普通に食べることができました。かなり「味覚異常」が治って来ているようです。一口目は「美味しい」という感じでしたが、その後はそういうこともなく「普通」な感じであったので、未だ完全治癒ではないのでしょう。 昼食後、少し銀輪散歩です。 12時37分、枚岡郵便局。郵便局でミカンの注文書を投函。(枚岡郵便局) 振り返ると、生駒山系の山々の紅葉です。山越えを なせし元気の またもあれ もみぢ照る山 見つつ思ほゆ (照家持)(生駒山系の山々の紅葉)(同上)※奥のTV塔が林立している山が生駒山。 12時56分、ライフ新石切店到着。 夕食用のお弁当(「雑穀米と9品目のお弁当」・雑穀ご飯、シュウマイ、鶏唐揚げ、牛肉入りコロッケ、厚焼き玉子、いんげんと人参のおかか炒め、サツマイモのサラダ、人参煮、蓮根煮、金平ゴボウ)と朝食用のパン(クロワッサン4個入り)と安田ヨーグルト越後姫2本を購入。 午後1時31分、帰宅。 帰宅後、1時間半程度、昼寝。 午後7時10分、夕食。 夕食は、「雑穀米と9品目のお弁当」とみそ汁でした。 雑穀ご飯は一口か二口程度食べ残しましたが、ほぼ完食です。 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 ということで、本日の記事はここまでとします。<参考>入院・通院・闘病記はコチラ。
2025.11.27
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書斎に枯れ葉が舞い込んで来た。 と言っても、枯れ葉みたいな蛾、アケビコノハである。 虫の姿も殆ど見かけなくなった、この寒い夜に、何処から入り込んだのか、バタバタと部屋の電灯の周りを、比較的大型の蛾と思しき虫が飛び回ったのでありました。フェイスタオルを手にして、その飛び回る闖入者をはたき落としてみた。 (アケビコノハ)<参考>アケビコノハ・Wikipedia 木の葉そっくりの蛾。 少しピントが甘かったようなのが残念であるが、この見事な擬態を楽しんでいただきましょう。 撮影後は、ティッシュでそっと覆い、極力、翅を傷めないように注意を払いながら、包み込むようにして、これを捕獲。ベランダから外の闇へ、ティッシュを開いて、打ち捨ててやりました。もうそんなに長くはない命なんだろうが、我が家の庭の片隅でか、隣家の庭へと移動してかは知らねども、生きられるだけ生きよ、という次第。 本日は、ブログ記事を書く心算もなかったのであるが、妙な木の葉が舞い込んで来たので、急遽、記事アップすることとしました。<追記> 今朝(12/12)庭に降り立つと、昨夜の蛾が居ました。2階のベランダから投げ捨てた位置の直下の地面にじっとしています。 もう一度撮影させていただく。 真横からも。 正面からも。人相、いや「蛾相」や如何に。 掌に乗せてみると、肢を微かに動かしている。 寒いから身体を動かせないのであろう。 「凍て蝶」ならぬ「凍て蛾」である。 石の上に寝かせて撮影してみる。 顔の部分をアップで。 石の上では寒かろうと、柔らかな草の茂みの中へ入れて上げましたが、ほぼ冬眠状態にて、肢を微かに動かすだけ。既にして枯れ葉になっているこの蛾であるが、命尽きる時が近づいているようです。
2017.12.11
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<承前> 道の駅のレストラン「甘羅(かむら)」で昼食とする。 日本書紀・天武天皇元年6月24日(甲申)の条に「即日に吾城に到る。<略>甘羅村を過ぎ、猟者二十余人有り。大伴朴本連大国、猟者の首たり。」と出ている「甘羅」である。壬申の乱前夜、東国に逃れた大海人皇子はこの大宇陀を通って美濃を目指したのであります。「甘羅村」はここ大宇陀の神楽岡の地と言われている。 因みに「吾城(あき)」は、ここ「安騎野、阿騎の大野」の「あき」ですな。壬申の乱は家持から見れば曾祖父大伴長徳の時代のこと。その兄弟の大伴馬来田、大伴吹負らの活躍した時代である。(道の駅「宇陀路大宇陀」) (足湯) 昼食後建物の隣に足湯のコーナーがあったので、一息ならぬひと足、いや両足を入れてみました。むさい足をお見せして申し訳ありませぬ。これはヤカモチではなく足持の足ということにして置いて下され(笑)。 さて、いよいよ、かぎろひの丘です。 今は、万葉公園になって整備されているが、小生が犬養先生の「万葉の旅(上)」という文庫本を片手に、初めて訪れた頃は畑中の丘に歌碑がポツンとあるきりで、丘への登り口も定かでないような具合であったと記憶する。(かぎろひの丘万葉歌碑)(少しカメラをひいてみると。)東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ (柿本人麻呂 巻1-48) 上の歌碑は佐々木信綱博士揮毫。下の長歌の反歌4首の内の1首。万葉集を代表する歌の一つである。題詞には「輕皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」とある。 草壁皇子(日並皇子)亡き後、その遺児軽皇子<当時10歳>(後の文武天皇)が、安騎野に狩をしたのは、万葉集の歌の配列から、持統6年(692年)春以後、その年の冬と推定されている。 通常、宮廷行事としての狩は5月5日に行われるもの。真冬に10歳の少年に狩をさせるのは変だとして、目的は他にあったとする説もあるのだが、軽皇子の立太子は持統11年(697年)2月で文武即位同8月の直前であるから、少年軽皇子を皇太子にするための一種の通過儀礼であるとともに、皇太子でありながら早世し天皇位につけなかった草壁の子であることを強調し、その魂を引き継ぐための儀式であったのかも知れない。それでも立太子まで4年余を要しているから、持統天皇の目論見通りには行かぬ事情が色々とあったということであろう。(人麻呂の長歌・阿騎野遊猟歌の歌碑) 輕皇子の安騎野に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌 やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子(みこ))()()()()() 神( かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 眞(ま)木(き)立つ 荒(あら)山(やま)道を 石(いは)が根(ね)の 楚樹(しもと)おしなべ 坂鳥(さかどり)の 朝越えまして 玉かきる 夕さりくれば み雪ふる 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) しのおしなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす いにしへ思ひて (巻1-45) 「いにしへ思ひて」とあるように、単なる狩ではなく、父である「日の皇子」(草壁皇子)を偲ぶ狩であり、従駕する舎人達にとっては亡き皇太子草壁を偲び彼と輕皇子を重ね合わせる狩でもあった。(はだれのいまだ消え残りたる)かぎろひの 岡のすももの 散る花か はだれのいまだ 消えのこりたる (偐家持) 本家の歌の比喩を真似てみました(笑)。 かぎろひの丘を下ると直ぐに阿紀神社である。境内で写真を撮って鳥居前に引き返して来ると、停めてあった自転車の回りに人だかり。グループで歴史ウォーキングか万葉ウォーキングをされている人達のよう。神社の前の小川沿いの小道を続々と来られる。早々に自転車で退散。(阿紀神社)(阿紀神社拝殿) 阿紀神社を後にし、人麻呂公園に向かう。 中庄遺跡が人麻呂公園になっているのである。この遺跡発掘で弥生時代のそれとともに、飛鳥時代の建物遺構が発見され、話題になり、小生もはるばる現地説明会に参加したが、あれはいつの頃であったやら。今は建物が復原され人麻呂の乗馬像もある公園になっている。(人麻呂像)(復元掘立小屋<明日香時代>)(復元建物と塀) 万葉で詠われた軽皇子の狩も、野宿ではなく、このような建物で夜を明かしたのでしょうな。いつであったか、大晦日の夜に家を発ち、阿倍文殊院に初詣をして、その足で榛原まで電車で出て、かぎろひの丘で初日の出を見ようと、娘のブーイングを誤魔化しつつ、暗い道を歩いて、家族でやって来たことがあったが、日の出前の寒さは結構なものであった。この寒さでは野宿は応えるなあ、「いも寝らめやも」だなあ、と思ったりしたものだが、かかる建物なら少年軽皇子もゆっくり眠れたことでしょう(笑)。(人麻呂公園・中庄遺跡)(雪の山々、かぎろひは立たねど青みたるもまたよし。) 多分この山の向こうは明日香でしょう。人麻呂達はどのコースを通って安騎野にやって来たかについては諸説あるようだが、犬養先生の賛同される狛峠越えのルートに賛同して置きましょう。しかし、雪の山路を踏みなづみつつやって来るのは大変なこと。やはり単なる狩である筈もありませんな。<ここで、写真搭載一日当りの限度を超えました。続きは(その3)をご覧下さい。この後、菟田野古市場地区にある宇太水分神社(中社)に行きます。><追記・注>写真2枚(「足湯」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月12日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.01.08
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大伴家持には3人の母がいたことになる。 産みの母親、丹比郎女。養母、大伴郎女。大伴郎女亡き後、家持を養育し、義理の母ともなる坂上郎女。この3人である。 中でも、坂上郎女は家持の歌作りのお師匠さんとも言える存在であり、少年家持に大きな影響を与えたと推測される。 坂上郎女は大伴安麻呂と石川内命婦との間の娘。 石川内命婦は先妻の巨勢郎女(巨勢比等の娘)が亡くなった後に、安麻呂の後妻となったものと思われる。 安麻呂と先妻の巨勢郎女との間には、長男・旅人(田人か)、次男・田主、三男・宿奈麻呂が生まれている。従って、坂上郎女は旅人の異母妹になる。 旅人と丹比郎女との間に生れたのが家持であるから、坂上郎女は家持の叔母に当ることになる。 坂上郎女は最初、穂積皇子の妻となり、穂積皇子の死後、一時は(養老年間<717年~723年>)藤原麻呂の妻となった可能性もあるが、正室ではなかったろう。その後(養老末年頃)、異母兄の大伴宿奈麻呂(旅人の同母弟)の妻となり、坂上大嬢、二嬢の二人の娘を産んでいる。宿奈麻呂も早くに亡くなる(神亀4年<727年>頃)ので、坂上郎女は夫運には恵まれなかったと言う他ない。 坂上大嬢は家持の妻となるので、家持にとっては、義母でもある。 家持の実母の丹比郎女は大伴家には入らず、家持は大伴家に引き取られ、旅人の正妻の大伴郎女が育てることとなるが、家持11歳の時に亡くなり、以後は坂上郎女が母親代りとなって家持の面倒を見たものと思われる。 実母の丹比郎女は、家持が64歳の時に母の喪に服していることから、この時まで存命であったものと見られる。(家持の年齢は養老2年<718年>生誕説に基づく数え年で表示している。) 坂上郎女の歌や歌碑は当ブログにも何度か登場しているが、下記に歌碑の写真を再掲載して置きます。(元興寺塔跡の傍らにある歌碑 2011.7.31.)故郷(ふるさと)の 明日香はあれど あをによし 平城(なら)の飛鳥(あすか)を みらくしよしも (万葉集巻6-992)(奈良高畑の道の辺にある歌碑 2009.5.19.)猟高( かりたか)の 高円山を 高みかも 出で来る月の 遅く照るらむ (巻6-981)(佐保川畔にある歌碑 2009.5.3.)うちのぼる 佐保の川原の 青柳は 今は春へと なりにけるかも (万葉集巻8-1433)(奈良市一条通りにある歌碑 2009.4.20.) 吾背子が 見らむ佐保道の 青柳を 手折りてだにも 見しめてもがも (万葉集巻8-1432)(佐保川畔にある歌碑)月立ちて ただ三日月の 眉根(まよね)掻き 日(け)長く恋ひし 君に逢へるかも (万葉集巻6-993) <参考>田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩(その2) 2012.4.30. さて、もう1首。 下の歌は天平7年(735年)の作であるから、家持は18歳。 夫の宿奈麻呂は既に亡くなっている。また、一時は夫婦関係にあった藤原麻呂が天然痘で死亡するのは、天平9年7月であるから、未だ存命であったことになる。 この頃には、母である、大伴家の大刀自・石川内命婦に代って、実質的に大伴家の家内を取り仕切っていたのかも知れない。 七年乙亥、大伴坂上郎女、尼裡願(りぐわに)の死去(みまか)りしを悲嘆(なげ)きて 作れる歌1首並びに短歌たくづのの 新羅の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞こして 問ひ放(さ)くる 親族(うから)兄弟(はらから) 無き国に 渡り来まして 大君の しきます国に うち日さす 京(みやこ)しみみに 里家は 多(さは)にあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山辺に 泣く兒なす 慕ひ来まして しきたへの 宅(いへ)をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬとふことに 免(まぬ)れぬ ものにしあれば たのめりし 人のことごと 草まくら 旅なるほどに 佐保河を 朝川渡り 春日野を 背向(そがひ)に見つつ あしひきの 山辺を指して 晩(ゆふ)やみと 隠(かく)りましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに たもとほり ただひとりして 白たへの 衣手干(ほ)さず 嘆きつつ わが泣く涙 有間山 雲ゐたなびき 雨にふりきや (万葉集巻3-460) 反歌留(とど)め得ぬ 命(いのち)にしあれば しきたへの 家ゆは出でて 雲隠(くもがく)りにき (同巻3-461) 右は、新羅國の尼、名を裡願といへり。遠く王徳(おほきみのみうつくしび)に感(かま)けて 聖朝(みかど)に帰化(まゐ)きぬ。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄住(す)み、既に 数紀(あまたのとし)を経たり。ここに天平七年乙亥を以(もち)て、忽に運病(いたづき)に沈み、 既(はやく)に泉界(よみのさかひ)に趣く。ここに大家(おほとじ)石川命婦、餌薬(にやく)の事に依りて有 間の温泉(ゆ)に往きて、この喪(も)に会はず。ただ郎女独り留りて屍柩(ひつぎ)を 葬ること既に訖(をは)りぬ。よりてこの歌を作りて温泉に贈入(おく)れりき。
2012.09.17
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<承前> 松尾芭蕉は鶴岡にとっては行きずりの人。この地出身の文人と言えば、高山樗牛と藤沢周平。しかし、どちらも小生はその作品を読んではいないのであるから、ご両人について語るべきものを持ち合わせない(笑)。 中学・高校と同じ学校に学んだ友人のA君は無類の読書家にて、中学の頃であったか高校の頃であったか高山樗牛の「滝口入道」を読んでいたことがあったのを何故か記憶している。また、藤沢周平については、TVドラマや映画の「蝉しぐれ」、「たそがれ清兵衛」、「武士の一分」などで夙にその名は承知しているものの、これまでに読んだ彼の本はと言えば、新井白石を描いた「市塵」くらいなものであり、小生とは何故か縁の薄いご両人でありました。 <参考> 高山樗牛 藤沢周平 そんなご両人であるが、鶴岡にやって来た以上は少しばかりはその所縁の地を回ってみることと致しましょう。 先ず、般若寺。山王日枝神社から駅方向へ少し戻った処で路地を左に入って200mほど行った処にある。(般若寺) 藤沢周平作品にゆかりの場所には上のような表札が立っているので、それと分かる。 般若寺から路地を西へ広い道路に出て南へ下ると「高山樗牛誕生地」という碑が、ごく普通の民家の門柱と車庫か倉庫のような建物との間に建っていました。地図で見ると山王町1丁目、山王日枝神社のほぼ西側になる。(高山樗牛誕生地跡) 高山樗牛誕生地碑から50m位南の路地を右に入ると龍覚寺があり、此処も「蝉しぐれ」の舞台となっている寺。(龍覚寺)(「蝉しぐれ」では龍興寺という名で登場する。) そして、再び内川に架かる大泉橋です。(大泉橋と内川)(「秘太刀馬の骨」では大泉橋は千鳥橋で登場する。) 大泉橋を渡って対岸を下流に少し行くと「昔ながらの内川」と表示された一角があった。藤棚があって藤が盛りと咲いていたので、藤の花越しに内川を撮ってみた。(内川・奥に見える橋が大泉橋。その前が芭蕉の乗船地跡)(同上) 大泉橋の方に引き返す。大泉橋の一つ上流の橋が開運橋で、内川は開運橋から大泉橋に向かって大きく右(東)に蛇行している。 下の写真で、川の曲がった先に大泉橋があり、そのたもとに芭蕉乗船地跡がある。(内川・開運橋の上から) この日は鶴岡の天神祭の日でもあるようで、鶴岡駅前をスタートして天神祭パレードが行われるらしい。 内川べりの緑地で出会った年配の女性とその娘さんと思しき若い女性の二人連れと言葉を交わすことがありましたが、自転車姿の小生を見て地元の人間と思って居られたよう。まあ、自転車姿ならそう思うのが普通ですな。何処でもそのように間違えられる。 女性は「ゆうざ」からやって来た、と仰っていたが、漢字が浮かばないのでお尋ねすると「遊佐」だという。言われても何処とは分らなかったが、後で地図で見ると酒田市の北、秋田県との境の手前に遊佐町というのがあった。年配の女性はご実家が鶴岡で遊佐に嫁がれたとのことだから、天神祭に合せての里帰り、といった処か。(丙申堂) 丙申堂の前で出会った祭衣装の若者に話し掛け、写真に撮らせて欲しいと言うと、では笠を着けましょう、と事務所風の建物に行って、わざわざ笠を着けて出て来て下さった。(天神祭のパレードに参加の若者) 言われは存じ上げぬが、タオルで顔を隠した姿で行列をするらしい。踊りも伴うのでしょうか。 親切な若者に礼を述べて、再び内川沿いに出る。 妙なデザインの欄干が目を引いた。千歳橋。(千歳橋) 内川沿いを走り、鶴園橋で県道47号線を右(西)に入る。祭の人たちでいっぱい。先程の若者と同じ出で立ちの人も多く目につく。 一つ目の交差点角にタブノキの大木。この木は万葉に「つまま・都麻麻」として登場する木にてもあれば、無視もならず写真に撮る。鶴岡の つままも見れば 幹太く 枝葉繁けく 神さびにけり (偐家持) (本歌) 磯の上の つままを見れば 根を延(は)へて 年深からし 神(かむ)さびにけり (大伴家持 万葉集巻19-4159)(タブの木) 説明板によると、この大木、町内会の人たちが大事に守って居られるようです。 タブノキの一つ先の信号を渡ると鶴岡公園。祭とあって、車を通行止めにして、屋台が並び、大勢の人が行き交っている。 その一角に高山樗牛の文学碑がありました。(高山樗牛文学碑) (同上) 文は是に至りて畢竟人なり、命なり、人生也(同上副碑) どうやら制限字数に。本日はここまでです。(つづく)
2013.05.29
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ブロ友の英坊3氏が「雪月花」ならぬ「雪猿花」の記事を書いて居られる。 「雪月花」と来れば大伴家持の歌「雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛しき兒もがも(万葉集巻18-4134)」であるが、月に代えて猿を持って来られた処が英坊流の洒落。 そこで、その無視された「月」の方を、当ブログでは話題にしようという寸法なのであります。 と言っても、その月は「家持の月」ではなく「西行の月」の方であります。何故、西行かと言うと、以下の経緯にかこつけて、という次第。 先日(15日夜)、友人の蝶麻呂氏よりメールがあった。 PCを新しく買い替えたので、メールアドレスなどを整理移記しているが、あなたのそれはこれで間違いはないだろうか、というメール。そのことは、まあどうでもいいのだが、そのメールで「明日16日は西行忌」云々、西行が没した寺・弘川寺云々、が記されていました。弘川寺は何度となく訪ねて居り、当ブログでも紹介済みであるが、「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」と詠んだ彼は、その歌の通りに2月16日、桜花の咲き散る満月の日に亡くなっている。 しかし、西行さんの2月16日は旧暦のそれ。新暦の2月16日では、早咲きの例外は別として、桜も咲いていないし、夜空も満月ではなく半月(上弦)である。 半月は上弦と下弦があるが、共にこれを「弓張月」とも呼ぶ。で、その弓張月を撮影してみました。 さて、西行さんの「弓張月」の歌と言えば、この歌でしょうか。弓張の 月にはづれて 見しかげの やさしかりしは いつか忘れむ (山家集620)<弦月の光から外れて見たあの人のやさしく美しい姿は、いつ忘れることがあるだろうか。> 別れた恋人の面影。忘れ得ぬ恋人の面影という奴ですな。 山家集のこの次の歌はこれ。面影の 忘らるまじき 別れかな 名残を人の 月にとどめて (同621)<面影を忘れられそうにもない別れであることよ。その人の名残を月の光にとどめていて。>(弓張月 16日の撮影ではなく17日の撮影です。) しかし、弓張月も写真に撮ると、このようにあばた面にて、「雪月花」のかもすイメージとは必ずしもマッチしない。西行さんの忘れ得ぬ恋人が、写真写りの良くない「美人」であった、と申し上げているのでは勿論ない。 西行さんの「月の歌」や弘川寺の関連の記事は、下記の<参考>をご覧下さい。 <参考>月見れば・・ 2012.5.6. 弘川寺銀輪散歩 2012.4.17. 弘川寺銀輪散歩(2) 2012.4.18. 弘川寺銀輪散歩余録 2012.4.19. そして、本日、れんげの郎女さんから電話があり、小生の元勤務先の後輩3人が、当ブログで知ったとして、「れんげ亭」に昼食に立ち寄ってくれたとのこと。郎女さんは3人の名前は聞いて居られなかったから、正確には誰とも分からない。話の内容から、高〇氏、畑〇氏、荻〇氏の3人ではないかと見当をつけたが、その後、高〇氏から電話が入り、推測通りであることが判明しました。なかなか愉快な出来事でありました(笑)。 少しブログの記事更新をサボっていましたが、当ブログの記事でも少しばかりはPR効果ありということが分りましたので、今日は記事を更新することと致します(笑)。 <参考>「れんげ亭」の記事は下記をご覧下さい。 囲碁例会・大阪で2番目においしいお好み焼きの店 2015.3.11. 囲碁例会・節分に60万アクセス 2016.2.3.
2016.02.18
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少し前のことになりますが、他の記事が色々とあってアップせぬままにいた銀輪散歩の記事をアップします。 小浜と三方五湖を銀輪で少しばかり走ってみようとやって来たのだが、三日間、酷い降りではないものの、ずっと雨でした。初日(4月24日) 京都発の湖西線敦賀行き新快速で敦賀へ。 敦賀から小浜線に乗り換え小浜へという段取り。 予めネットの路線検索で調べたところでは、敦賀着12時15分で、12時20分発の東舞鶴行きに乗り換えとなっていたのだが、京都発の時点で既に3~4分の遅れ、湖北に入って強風のための徐行運転と相成り、敦賀に着いたのは12時27分、乗る筈の電車は出たあと。次の電車は13時13分発。45分以上もの待ち時間となる。 敦賀での乗り継ぎ時間が短いので、京都で駅弁を買って、敦賀到着前に車内で昼食を済ませてしまったのですることもない。駅を出て、駅周辺をブラブラ。と言っても小雨が降っているので、アーケードのある通りだけであるから、意気は一向に上がらない。 既に出だしから雲行きの怪しいことになっていたのでありました。 尤も、近江塩津から新疋田にさしかかった頃から雨は降り出していたのであり、今更雲行きがどうのという問題ではなかったのであるが、それに追い打ちをかけての乗り継ぎ失敗は、わが前途を暗示していたのでありました。(敦賀駅) 崇神天皇の時代に朝鮮からやって来てこの地に来着、崇神天皇崩御に遭遇し、次の垂仁天皇に3年間仕え、帰国して任那を建国したという人物で、敦賀(角鹿・つぬが)の地名の由来となったという、ツヌガアラシトの像が駅前に建っていた。 敦賀は、気比神宮のすぐそばのホテルに宿をとって、金ヶ崎や海岸沿いを銀輪散歩したことがあるのだが、それはもう20年近くも昔の事であり、当時はこの像は無かった筈だし、以来この駅に降り立つということも無かったと記憶するので、ツヌガアラシトさんとは初対面ということになる。<参考>囲碁例会・比賣許曾神社 2012.2.8.(ツヌガアラシトの像)<参考>都怒我阿羅斯等・Wikipedia 敦賀発13時13分東舞鶴行きに乗車。 ワンマンカー2両編成で、ICOCAカードは使えないので、窓口で切符を買わなくてはならない。 小浜着14時17分。 予定よりも55分遅れての小浜到着である。(小浜駅 この写真は到着時のものではなく、翌日朝に撮影したもの。) 駅前のホテルにチェックイン。 宅配便で送って置いた自転車・トレンクルで早速に銀輪散歩に出る。 雨はパラパラ程度なので上衣だけ雨具を着用。 小浜城跡だけでも行ってみるかと走り出すが、少し商店街や路地なども走ってみようと暫くあちこちをウロウロ。徘徊である。 最初に目に入ったのは杉田玄白の顕彰碑。<参考>杉田玄白・Wikipedia(杉田玄白顕彰碑) この顕彰碑を見て、杉田玄白が小浜の出身であったことを初めて知る。 菊池寛の「蘭学事始」という小説をワクワクしながら読んだのは小学生の時。杉田玄白や前野良沢という名は、子供時代のヤカモチにも近しいものであったのだが、小浜とは結びつかぬまま今日まで来たようである。<参考>菊池寛「蘭学事始」青空文庫 隣の銅像が杉田玄白だろうと遠くからカメラを向けて撮影したる後、近寄ってみると、違った。 梅田雲浜という初めて聞く名前の幕末の志士であったが、安政の大獄で捕らえられた中の一人であったようです。<参考>安政の大獄・Wikipedia(梅田雲浜像) 安政の大獄で思い浮かぶ名前と言えば、吉田松陰や橋本佐内くらいですかな、ヤカモチ的認識は。 今日よりは、この梅田雲浜先生も覚えて置くこととしましょう。<参考>梅田雲浜・Wikipedia(同上・副碑) で、その杉田玄白であるが、その像は、ヤカモチの背後、顕彰碑や梅田雲浜像のある公園とは道路を挟んで向かい側の病院の前庭側の道路沿いに建っていたのでした。そして、この病院の名が杉田玄白記念公立小浜病院であるということにも気が付いたのでした。(杉田玄白像)<参考>杉田玄白・Wikipedia 杉田玄白記念公立小浜病院・Wikipedia(同上・副碑) さて、再び、前の公園に目を戻すと、もう一つこんな句碑があった。 西田當百という川柳作家の句碑であった。(西田當百句碑)天下泰平 晩酌の 量が増し (當百) 西田當百。この人物のことも存じ上げない。名前も初耳である。 大阪は法善寺横丁にこの人の句碑があると言うのだから、目にしたことがあったかも知れないのだが、記憶にはない。(同上・副碑) 路地に入ったり、広い通りに出たり、適当に走っていて、「蓮如上人御留錫舊地」という文字が目にはいったので、妙光寺という寺に立ち寄ってみたのだが・・。(妙光寺) 何と言ってこれに関する説明案内板のようなものは境内では見つからなかった。蓮如がこの妙光寺に立ち寄ったことがあるということなんだろうが、詳細は分からない。 ネットで調べると、この寺の開基は足利尊氏の孫で蓮智という人物によるもので、蓮如が1年間この寺に滞在した、と書かれている記事があったが、詳細が分からないので真偽のほどは不明である。(同上) 小浜城跡へ向かう。 小濱神社とあるのが小浜城跡でありました。 石垣が城跡であることを偲ばせる。(小濱神社) 小濱神社は、小浜藩初代藩主酒井忠勝を祀る神社。 旧幕臣らによって明治8年(1875年)に小浜城本丸跡に創建された。(同上・拝殿)(同上・本殿)<参考>小浜藩・Wikipedia(小浜城跡・天守台跡)<参考>小浜城・Wikipedia(同上) 本丸の石垣を残すのみ。 まあ、城跡なのだから、それでいいというものではある。(同上・説明碑)(同上・天守閣跡からの眺望 左:南、中央:西、右:北) 天守台に立ってパノラマ撮影したのが上の写真。 天守台に立つと西方向に若狭湾が見える筈なのだが、高さが不足、立ち並ぶ建物群に視界を遮られて、よく見えない。北寄り方向にわずかに小浜湾の海面が望まれる。(小浜城案内板)(初代藩主・酒井忠勝)<参考>酒井忠勝・Wikipedia 石垣を撮影していると、道端に出て居られたご近所の男性から「どちらから?」と声を掛けられる。 「大阪からです。」 「それはご苦労さま。」(小浜城石垣) パラパラ程度だった雨がそこそこに降って来たので、止む無し。早々に退散である。 ホテルへ引き上げる。二日目(4月25日) 朝、ホテルの窓から外を見ると、大した降りではないが、雨が降っている。山に雲がかかって、山上を隠している。(小浜駅南東側の山々 ホテルの窓から) ※写真左が東小浜・敦賀方向、右が小浜・勢浜・東舞鶴方向 小浜駅から鉄道で気山駅まで行き、そこを起点に三方五湖を最短コースで全部見て、三方駅に戻り、再び電車で小浜駅に帰って来るという計画であるが、それはページをあらためてということにし、本日はここまでとします。(つづく)
2019.05.05
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ブログ更新をサボっていました。 これと言ってネタがないので、銀輪散歩で見掛けた雀と鳩でも。 鳥というカテゴリを設定していたかと思ったら、それはアメブロ版偐万葉田舎家持歌集の方で、楽天ブログの方には鳥のカテゴリは現時点では未設定でありました。 それはさて置き、スズメたちです。(スズメ) これは、文字通り「嘴が未だ黄色い」ので、子どもの雀のようです。(同上)(同上)(同上) 何となく頼りなげな感じ。(同上)(同上)(同上・大人のスズメ) これは、多分大人の雀。 顔つきが全然違う。厳しいというか、しっかりした顔つきである。目つきも鋭い。(同上)(同上) そして、鳩。(ドバト)鳩の会話。雄鳩「どうかしたのか?」雌鳩「イヤリングの片方を落としたみたいなの。」雄鳩「一緒に探してあげよう。」(同上)「こっちにはないなあ。そっちはどうだ?」(同上)(同上)雄鳩「お前、元々、イヤリングなんかしてなかったのでは?」雌鳩「???そうだったかしら・・」 もう一つ、山鳩(キジバト)の写真も。(キジバト) これは、今年4月、枚方方面を偐山頭火氏と銀輪散歩した際に、百済王神社(大垣内神社)で撮影した写真です。<参考>偐偐銀輪散歩・枚方方面へ(その3) 2019.4.5.
2019.07.11
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(承前) 歌姫近隣公園に到着したところで前記事を中断しましたので、そこから始めます。 歌姫近隣公園に入って、前方左手に見える建屋から左に行くと歌姫西瓦窯跡がある。(歌姫西瓦窯跡) 瓦窯跡そのものは見当たらず建屋と説明碑があるだけ。 この建屋のある場所が瓦窯跡なんだろう。埋め戻されて建屋の地下に瓦窯が遺されているのだろうか。(同上・説明碑) この後、向かう近鉄京都線高の原駅前の西側広場に「歌姫西瓦窯出土軒瓦」のモニュメントがあるのだが、それと気が付かず写真を撮らなかったので、「奈良大好きくらぶ」のブログ記事に掲載の写真を以下に転載させていただきます。但し、トリミングするなど、少し修正を加えています。(歌姫西瓦窯出土軒瓦のモニュメント)(同上)<モニュメント台座の銘文>「平城相楽ニュータウン東部の歌姫西瓦窯で焼成された奈良時代前半の軒瓦である。軒丸瓦は花弁が盛りあがった蓮華文を表現し、軒平瓦は左右に流れる唐草文をあらわしている。同じ製品は平城宮・法華寺のほか、恭仁宮などからも出土している。」 歌姫近隣公園は北側に隣接する音浄ヶ谷公園と一体化していて、その境界は定かではないが、奥右手に行くと音如ヶ谷瓦窯跡があるから、その付近は音浄ヶ谷公園なのだろう。 歌姫近隣公園は奈良市に属し、音浄ヶ谷公園は京都府木津川市に属する。 今回の銀輪散歩は、瓦窯跡銀輪散歩であるとともに、京都府、奈良県を行ったり来たりする府県境銀輪散歩でもある。 さて、京都府側の音浄ヶ谷公園の方は、発掘された状態の瓦窯が実物展示されている。(音浄ヶ谷公園・音如ヶ谷瓦窯跡)(同上・左側の瓦窯)(同上・右側の瓦窯) 瓦窯跡は、鉄柵が設けられた正面は全面開口部、左右背後は縦長の細い開口部を備えた壁で囲まれているという構造の建屋の中に保存、展示されている。 右側面の壁の開口部から覗いて撮った写真が下掲の写真である。(同上)(同上・説明碑)(同上・工房跡)(同上・瓦窯跡) 上掲の説明碑の地図に「相楽山銅鐸出土地」という表示があった。 すぐ近くなので、立ち寄ってみようと公園を出る。(音浄ヶ谷公園から銅鐸出土地へ) 相楽台6・7丁目集会所建物があり、その入り口近くの建物壁面に掲示されていたのが、下掲の「相楽山銅鐸」の説明碑。(相楽山銅鐸の説明碑) ここが出土地かと思ったが、よく読むと、出土地は別の位置のよう。 出土地である旨を表示する碑か何か、そのようなものがあるようなので、説明文に示されている場所へ向かうこととしたが、住宅が立ち並んでいるだけで、それらしいものは見当たらない。 上掲の地図は帰宅後にグーグル地図を開いてゲットしたもので、当日はこのようなものを持参していなかったので、集会所の壁の説明碑の文章を読み誤ったかと、途中で引き返し反対方向に走ったのであったが、帰宅後に上掲の地図を見て、正しいルートを往復していたことに気が付き、なぜ気が付かなかったのかと不思議に思っている次第。 まあ、住宅団地の中の道。家々の玄関先・表口が両サイドに並んでいる環境なので、目立たないような表示のされ方をしていて、不注意ヤカモチの目にはとまらなかったということであったのかも。 そんなことで、すこしばかりの余計な回り道を余儀なくされたことで、遊歩道・エゴノキの道には、途中から入るということになりました。(エゴノキの道) 上の写真のエゴノキの道の奥、突き当りを左に入ると土師山公園である。 土師山公園で少し休憩してから、エゴノキの道の終点(始点かも)のエゴノキ第一歩道橋を渡る。 歩道橋を渡ると正面にイオンモールの駐輪場がある。 既に、正午を少し回っていたので、イオンモール2階のレストラン街で昼食とする。 昼食後は6月16日の万葉の小径への銀輪散歩の時と同じルートで石のカラト古墳のある神功一丁目緑地へと向かう。<参考>石のカラト古墳&万葉の小径(その2) 2023.6.18.(高の原駅前~押熊瓦窯跡コース図 ー線:往路 ー線:復路) 石のカラト古墳、万葉の小径は下記のブログ記事と重複するので、省略します。<参考>石のカラト古墳&万葉の小径(その1)(その2)(その3)(その4) 押熊瓦窯跡は、予め用意した手許地図では、万葉の小径の終点の小緑地の先の二つ目の辻を右に入ったところにあることになっているが、その場所と思われる、神功5丁目緑地の中に入ってみたが、雑木が茂り、下草茫々、枯れ葉が降り積もっているだけの荒れ果てた空間で、それらしきものが見当たらない。一段高くなった場所まで行くと、下に小屋のような建物が木立越しに見えたが、そこに至る道がない。加えて、はやく出て行けとでも言うのか、蚊の大群が盛んに攻め立てて来る。 緑地を出て、周辺を少し回ってみたが、そこに至る道の入口が見つからない。その小屋が押熊瓦窯跡に関係するものかどうかも不明であるから、探すのを諦めて、県道52号を南に下り、神功5丁目交差点でならやま大通りに入り、平城4号公園に向かう。(平城4号公園) 平城4号公園から石のカラト古墳に戻り、往路のコースを逆に辿って、イオンモール、高の原駅前に到着。 予定では、高の原駅から電車で帰るというものであったが、時刻は2時半になるかならない位。少し早過ぎるので、近鉄奈良駅まで銀輪で走ることに変更。 高の原駅前から南に下り、平城2号線道路を東に進み、朱雀5丁目交差点で県道751号に入る。 県道751号は歌姫街道、歌姫越えの道とされている道路である。(高の原駅前~ならやま大通り) 歌姫街道を南下し、平城1号線道路・通称ならやま大通りに入ってこれを東に進む。国道24号とJR大和路線を越えて更に直進。途中、何処かで右に入って、奈良サイクリング道路に入るつもりでいたが、その入口が見つからない。降り始めていた雨が少し強くなる。雨が強くなり過ぎても困るので、Uターンして、国道24号に入り、国道の高架下から奈良サイクリング道路に入ることとし、しばらく高架下を潜っている道で雨宿りして様子を見る。 この道は、秋篠川沿いの道、平城宮趾公園、磐之媛陵から続いている自転車道であるが、歩行者・自転車専用という訳ではないようで、一般の車も通行することができる部分があるようで、雨宿りしている間にも普通車2台が高架下の道を通り抜けた。(ならやま大通り~奈良自転車道~佐保川) 雨も小止みとなったので、JR線の高架下を潜って、奈良サイクリング道を走ることとする。(奈良自転車道案内図)(奈良自転車道) この道はこれまでに何回か走っている。<参考>奈良自転車道銀輪散歩(平城宮趾公園から般若寺へ) 2010.3.10. 奈良銀輪散歩 2010.11.7. こちらからは上り坂である。 坂を上り切って、左に下ると、県道44号に出る。 県道に出て右折。南へと坂道を下る。 途中でヤマト運輸の配送センターが目にとまったので、トレンクルを宅配で送る際の梱包袋を買い求めることにした。現在使っている梱包袋がかなり傷んでいるので、近々に買い求めようと思っていたので、偶々出くわしたのをこれ幸いと立ち寄った次第。 ロートフィールド奈良の前まで来たところで、前方にスターバックスが目に入る。丁度、かき氷か何かそのようなものが欲しくなっていたので、店に入る。店のおすすめ、として西瓜のフラッペなるものがメニューに大きく写真入りで表示されていたので、それを注文する。 体が店内の冷房と西瓜のフラッペによる体内からの冷却とで、体の火照りもすっかり消え去り、汗も引いてしまった。 そうなると、今度は「煙分」が欲しくなるようで、何となく落ち着かないヤカモチ。店を出て、トレンクルを駐輪していた池の畔で煙草を一服。 銀輪散歩再開です。と言っても、ゴール間近であります。(奈良鴻ノ池パーク~近鉄奈良駅前) 法蓮仲町交差点で転害門から西へと延びている一条通りを横切り、佐保川を渡り、高天交差点で近鉄奈良駅前到着でありました。 途中少しばかり雨に見舞われましたが、背中のザックに入れたレインウエアを取り出して着用するようなことも必要とせず、先ずは順調な銀輪行でありました 以上で、瓦窯跡銀輪散歩終了です。(完)<参考>過去の銀輪万葉・奈良県篇は下記参照銀輪万葉・奈良県篇(その1) 2007年4月~2019年2月銀輪万葉・奈良県篇(その2) 2019年3月~過去の銀輪万葉・京都府・滋賀県篇は下記参照 銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その1) 2007年7月~2019年3月銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その2) 2019年7月~
2023.09.08
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本日は大学の同窓会の総会。 総会は一部が同窓会(青雲会)の会務報告・決算承認などの会員総会、二部が講演会、三部が懇親パーティという構成になっているのであるが、今年は、小生と同期の藪中三十二氏(前外務事務次官)が講師となって講演をするということであり、また、懇親パーティ終了後は同期で彼を囲む会を持つということでもあったので、いつになく楽しみな同窓会総会となりました。 同窓会総会は100名余の出席を得て、梅田の大阪弥生会館にて午前10時半開会で始まり、11時から12時までが講演会。「国際社会と日本」と題して、藪中氏より、G7体制の終焉、G20の機能不全、日米関係、尖閣問題などの日中関係、対ASEAN外交の重要性などなど、長年に亘って日本外交の前線で努力して来られた氏の興味深いお話を拝聴することができました。(講演中の藪中氏)(開会直後の懇親パーティ) 二次会の「藪中氏を囲む同期の会」は、場所を変えて、サントリー経営のラウンジ燦・大丸店で午後4時から。 参加者は藪中氏、守◎氏、谷◎氏、広◎氏、西◎氏、堀◎氏、黒◎氏、水◎氏、小◎氏、仲◎氏、佐◎氏と小生の12名。 佐◎氏の司会進行、守◎氏の乾杯の発声で始まり、和やかで楽しい歓談。藪中氏の挨拶の後、各人の近況報告となり、色々とユニークなスピーチが続きました。意外だったのは、藪中氏が百人一首のカルタ取りが得意であったらしいことが一つ(学生時代に堀◎氏の自宅に遊びに行き、百人一首のカルタ取りをした処、百人一首の歌全部を覚えていてそれなりに自信を持っていた堀◎氏だったが藪中氏には全然歯が立たなかったらしい。)と、彼の口から、「万葉集はいいねえ。」という言葉が発せられたことです。最近にも明日香を自転車で走り、犬養孝記念館に立ち寄ったことや大津皇子と石川女郎との相聞歌のことなどの話が出たこと(これは小生が誘導した訳ではなく、小生が彼の対面の席に掛けるや否や彼の口から発せられたものでありました。彼も亦、犬養先生の講義を受けて万葉集に惹かれたものであるようです。)は、小生としては嬉しいことでありました。 まあ、そんなこともあって、小生のスピーチは、万葉調の戯れ歌で締め括ることとしました。 先般に富山の高岡を銀輪散歩した際に立ち寄った荊波神社にあった万葉歌碑の歌ともう1首別の万葉歌を掛け合わせての即席の歌を手許の紙に書き留めて、それを犬養節で朗唱することとしたのでありましたが、彼には喜んで貰えたようでありました。 で、その歌と元歌の2首を下に記して置くこととします。藪中の 君と席借り 思ふどち つどひてあれば うれしくもあるか (偐家持) (注)第5句の「うれしくもあるか」は敢えて8文字の字余りの ままといたしました。 その理由は藪中氏の名が「三十二」であることから、 和歌三十一文字を字余りの三十二文字とした、という 洒落っ気であります。 元歌2首新(あらた)しき 年の始めに 思ふどち い群れてをれば 嬉しくもあるか (道祖王 万葉集巻19-4284)荊波(やぶなみ)の 里に宿借り 春雨に 隠(こも)り障(つつ)むと 妹に告げつや (大伴家持 万葉集巻18-4138)<参考>高岡銀輪散歩(その5) 2012.6.27. 久々に母校へ 2011.6.16. 二次会は6時半過ぎ、小生の中締めでお開きとし、谷◎氏のデジカメで全員揃っての記念写真撮影後解散。黒◎氏、仲◎氏と小生はホテルグランヴィア大阪の喫茶店で珈琲しながら、更に1時間余雑談し、8時半頃に帰宅の途につきました。
2012.07.14
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大学同期の有志の飲み会にて旧交を温む。友人の名を折り込みて詠める歌六首藤の花 川面にうつす 影清み 田の上渡れる 風や染むらん田上の 山は青葉に 滴りて 山辺の村に 夏は来ぬらし原に草 野つ鳥鳴きて 夏芙蓉 咲きよそひたる この道ゆかめぬばたまの か黒き髪の 娘子らの 裳裾濡らしぬ 神の御田ゆく當麻路に 夏来たるらし 仲つ田の 家鶏鳴く村に 風さやに吹く夏されば 卯の花匂ふ この道は 願ひてぞ来し 神がまにまに偐(にせ)家持
2007.05.09
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この木は「チャボヒバ」というそうな。ヒバは檜葉だから、檜の一種。小ぶりで矮鶏(ちゃぼ)のイメージがあるのでこんな名になったんだろう。新芽は黄色っぽいので、日の光があたると金色に輝く。檜も色々種類があるのだ。 万葉集に出て来る「このてがしは」も檜の仲間だ。柏というのは、柏餅の葉でお馴染の、ブナ科の落葉高木のことであるが、松柏の柏がコノテガシワのことであるように、柏は元々はヒノキのことであったのだ。司馬遼太郎が「街道をゆく」の本の何処かで書いていたと記憶するが、詳しいことは忘れてしまった。奈良山の 児手柏(コノテガシハ)の 両面(ふたおも)に かにもかくにも 佞人(ねぢけびと)の徒(とも) (消奈行文大夫 巻16-3836)千葉の野の 児手柏の 含(ほほ)まれど あやにかなしみ 置きてたか来(き) (大田部足人 巻20-4387) 先月の健診で便潜血があったとのことで、昨日、大腸にバリウムを注入してのレントゲン撮影という検査を受けたが、結果は問題なし。先生から、腸粘膜が年齢にしては美しいと妙な褒め方をされたが、腸粘膜では男前にはなれませんなぁ。 ただ、S字結腸に二か所「憩室」があると言われた。憩室というのは初めて耳にする言葉であったが、ポリープが突起物なのに対し、腸壁が何らかの原因でくぼみ、袋状になっているのを云うらしい。これ自体は何ら問題はないのであるが、この窪みに便が入り込み、溜まるようになると炎症を起こすことが時にあるとか。丁度、盲腸炎のような腹痛症状らしいが、これは抗生物質で簡単に治療できるので、切る必要がないとのこと。要は、便秘にならぬよう気をつけなさいということであった。最近はのんびり休憩しているみたいな生活だから、体の中にまで休憩室ができてしまったようだ。4月24日追記本日、所用にて出かける駅への道すがらに、コノテガシワがあったので撮影してきた。写真を掲載しておく。
2008.04.22
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昨日は大学同期有志の会の例会にて、心斎橋まで出掛けて来ました。参加者は守○君、山○君、山◎君、古○君、油○君、道○君、仲○君、谷○君、小○君、中○君、広○君と小生の12名。今回は少し参加者が少なかったが、初参加の小○君は卒業以来の初顔合わせ。A新聞の記者をこの程退職、大阪に帰って来たので、初参加となったもの。近況を報告し合って、歓談。(大阪ミナミ) 夜の大阪ミナミを歩くのは久し振り。金曜日とあって人出が多い。近鉄難波駅で下車、心斎橋までブラブラ歩いて行く。(心斎橋筋・戎橋から) 会場は前回から心斎橋の大成閣と決めている。以前ここと決めていた店が閉店してしまったので、前回からこの店になった。(大成閣心斎橋店) 会食が始まってから友人たちの写真も撮りましたが、ブログに掲載することの了解までは得ていませんので差し控えます。次回、春の例会は来年の5月27日ということで散会としました。 会終了後、心斎橋から地下鉄で帰った者を除き、山○君、中○君、古○君、小○君、山◎君と小生の6人は難波駅方向に歩いて帰ることとし、途中で喫茶店に入って、また暫し談笑。 ここで愉快なことがありました。初参加の小○君と小生のサイクリングの話になり、彼の友人にも「サイクリングをする奴がいて」という話になった。その人物のある特長が、小生の友人偐山頭火氏とよく似ていたので、「僕の友人にも似たのが居る。」などと話していたのだが、段々話しているうちに同一人物かもという気がしてきて、偐山頭火氏の職場の名前を告げてみた。それではっきりしたのだが、僕らはどちらも偐山頭火氏その人のことを話していたのでありました(笑)。世間は狭いですな。思ふどち 集ひてミナミ 秋たけて なほし心に 春をしぞ見つ (偐家持)<追記・注>「大阪ミナミ」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.11.20
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一昨日(5月28日)は、大学同期との会食があり、心斎橋まで出掛けて来ました。出席者は、守麻呂(元銀行)、佐麻呂(元銀行)、宅郎女(弁護士)、文麻呂(府会議員)、黒麻呂(元大阪府庁)、広麻呂(元銀行)、前麻呂(元旅行社)、古麻呂(大学教授・元法務官僚)、中麻呂(元警察官僚)、谷麻呂(元航空会社)、道麻呂(元商社)とけん家持の12名。多くが「元○○」で、現役は12名中3名。勿論、けん家持も元○○のグループである。 次回は11月19日、心斎橋の大成閣(大阪市中央区東心斎橋1丁目18-12)にて、午後6時からです。楽浪さん、次回は出席してね(笑)。その他、同期のみなさん、もしこのページをご覧になられましたら、当日は予定を空けて置いて下さい。(枚岡梅林の梅の実・・記事と無関係です。本日の散歩から。) 昨日(5月29日)は、大槻能楽堂の第490回自主公演能(午後2時開演)を観賞して来ました。演目は「朝長」。 <参考> 大槻能楽堂公式サイト 開演に先立って、万葉学者で文化功労者の中西進先生の解説がありました。 朝長は源朝長のことで、源義朝の第2子である。兄が悪源太義平、弟が頼朝、義経である。平安末期、公家政治から武家政治へと転換してゆく時代、平治の乱で敗れた義朝は息子達と東国へと落ち延びようとするが、傷を負った朝長は、足手まといになることを憂え自害する。 能のあらすじは、「嵯峨清涼寺の僧が朝長が自害したと聞き、亡き跡を弔うため、青墓の宿へとやって来る。朝長の墓前で弔っているところへ、青墓の宿の長者が現れ、共に朝長の死を悼み、僧を伴って宿へと帰る。僧が観音懺法によって弔うと、朝長の霊が現れ、弔いに感謝し、修羅道の苦しみを述べ、自害の有様を見せ、回向を頼んで消え失せる。」というもの。 青墓というのは今の大垣市青墓町のこと。また訪ねてみたい場所ができました(笑)。<参考> 源朝長 平治の乱
2010.05.30
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義を見てせざるは勇無きなり。 ご隠居ヤカモチとなって以来、この言葉に当てはまるような状況に直面することは先ず無いヤカモチ。実を見て撮らざるは情無きなり。 このように言い換えれば、銀輪散歩・銀輪徘徊の場面でのヤカモチにも当てはまる言葉となるかもしれない。 この季節、実を見ると自ずからに情趣おぼえてカメラ向け、これを写真に撮るというヤカモチであります。 そんなことで、実の写真もかなり溜まっている。 ということで、実はあるが実のない話、或いは「身も蓋もない」実の話となってしまうことを予感しつつの、実の記事であります。 先ずは、ヤナギバシャリントウ。(ヤナギバシャリントウ) 中国原産の植物。バラ科シャリントウ属。 学名:Cotoneaster salicifolius 道に沿った土手の斜面を覆うように横に広がっていた背の低い木。 赤い実が生っていたが、何という名の木なのかわからなかった。 ネットで色々調べてみて、ヤナギバシャリントウ(柳葉車輪桃)という植物であることを知った。(同上) 「改良された園芸品種、オータム・ファイアーは地面を這う性質を持ち、都市緑化に利用される。」とあり、この木も地を這うように横に広がっているから、そのオータムファイアーであるのかもしれない。(同上)<参考>ヤナギバシャリントウ・松江の花図鑑 小さな赤い実が日に照らされて美しい。秋の日の 傾く時に いざ行かな 車輪桃(しゃりんたう)の実の 赤く照る見む (銀輪家持)(本歌)この雪の 消残(けのこ)る時に いざ行かな 山(やま)橘(たちばな)の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226) 次も赤い実。(カマツカ<鎌柄>の実) この木も当初、名前不明であったが、ネット検索でカマツカの実であることが判明。 バラ科カマツカ属。 カマツカ(鎌柄)という名称は、その材を鎌の柄に用いたことによる。 別名、ウシゴロシ(牛殺し)などという穏やかならざる名前。 学名、Pourthiaea villosa(同上)われはもや 鎌柄見たり 皆人の 見過ぐし行ける 鎌柄見たり (藤原鎌柄)(本歌)われはもや 安見児得たり 皆人の 得がてにすとふ 安見児得たり (藤原鎌足 万葉集巻2-95) カマツカ(鎌柄)とカマタリ(鎌足)とで遊んでみた戯れ歌です。 鎌足はカタマリとかカマボコとか遊びやすい名前である(笑)。 次も、赤い実でヒメリンゴ。 正式な和名はイヌリンゴと言うようだ。(イヌリンゴ 別名ヒメリンゴ)<参考>イヌリンゴ・Wikipedia 昨年の秋にもこの実を見ていて、ヒメリンゴのようだと思ったのだが、確信が持てず、不明としていたが、やはりヒメリンゴだろうというのが今回の結論。 サクランボくらいの小さな実。齧ってみたら、酸っぱいリンゴの味。 勿論、美味しくはない。しかし、ヒメリンゴと結論付けるには十分な味でありました。 バラ科リンゴ属のイヌリンゴ。別名、ヒメリンゴ。 学名:Malus prunifolia犬とあらば かじらなくあり 姫林檎 姫とありこそ かじりもぞする (犬家持)姫とありて 齧りみたるも 食へる実に あらずありけり 犬なる林檎 (猿家持) イヌとかサルとかヘビとかが名に付されていると、齧るのもいささか躊躇されるが、ヒメと付いているとちょっと齧ってもみるかという気になるから、面白い。 名前による印象で、人の行動も左右されるようであります。(同上) さて、赤い実が続き、目が充血してしまったかもしれないお方の「箸休め」ならぬ「目休め」にこんな実のような花はどうでしょうか。(ヒマラヤスギの雄花)<参考>ヒマラヤスギ・Wikipedia マツ科ヒマラヤスギ属の常緑針葉樹。 学名:Cedrus deodara 当初、実かと思ったが、そうではなく、これは雄花の蕾のようです。 ヒマラヤスギの花期は10月~11月だそうだから、季節的にも合致する。 花ではなく実であったとしても、さすがのヤカモチもこれを齧ってみようとは思わない。 ヒマラヤスギではなくヒメラヤスギという名であっても、同じである。 雄花は熟すと茶色になって開き、黄色の花粉を風に飛散させ、やがてポトリと落下する。 この木はヒンドゥー教では聖なる木とされているようだが、白っぽい薄緑色の雄花が幾つも並んでいる姿は、物静かで、何か爽やかな感じがする。ヒマラヤの 杉の雄花の 涼しかり 音無く風に 少し揺れける (杉家持)(同上) 再び、実の話に戻りましょう。 カリンの実です。(カリン<花梨>の実)<参考>カリン・Wikipedia これはお馴染みのカリン。その名を調べるまでもない。 バラ科カリン属の落葉高木。 学名:Pseudocydonia sinensis 果実は何やら間の抜けた顔立ちであるが、花は可愛い顔をしている。それ花は 可憐なれども 花梨の実 何処吹く風の 間抜け面して (実家持) 次は、クロガネモチの実。(クロガネモチ)<参考>クロガネモチ・Wikipedia モチノキ科モチノキ属の常緑中高木、クロガネモチ。 黒金餅、黒鉄黐が漢字表記。 別名、フクラシバ、フクラモチ。 学名:Ilex rotunda 庭木としてもよく植えられているが、それはクロガネモチが金持ちに通じるからだそうな。しかし、クロガネモチであってオオガネモチではないのだから、大金持ちになれるという訳ではない。熟して赤くなった実を沢山つけている姿は美しいものがあるから、それが愛されて庭木としての人気があるのでしょう。 写真の実は10月15日撮影のもので、まだ赤く熟する前の実であるが、今は濃い赤色になっていることだろう。先月の クロガネモチの 実のごとや まだ色浅き ヤカモチわれは (白金持)(同上) クロガネモチつながりで、次は黒い実。 同じ、モチノキの仲間では、ネズミモチは黒い実である。ネズミモチの写真は、過去記事の何処かに掲載されていると思うが、手許のブログ未掲載写真の中にそれはないので、クスノキの実の写真にします。(クスノキの実)<参考>クスノキ・Wikipedia クスノキ科ニッケイ属の常緑高木、クスノキ。別名、クス。 漢字表記は、楠または樟。 尤も、中国では、クスノキは樟で、楠は、タブノキのことだという。 学名:cinnamomum camphora アボカド、ニッケイ(シナモン)、タブノキなどはクスノキの近縁種。 近縁種のタブノキは、万葉では「つまま(都万麻)」と呼ばれて万葉植物の一角を張っているが、クスノキは登場しない。クスノキの 実の黒づけば 吹く風も 秋深からし 葉陰(はかげ)にそよぐ (偐樟持)(本歌)磯の上の 都万麻(つまま)を見れば 根を延(は)へて 年深からし 神(かむ)さびにけり (大伴家持 万葉集巻19-4159)(同上) 次はランタナの実。ランタナの実も黒い実である。(ランタナの実) 黒い実というのは美味しそうに見えない。 黒い実の植物は、実を小鳥に食べてもらって、種子を遠くへ運んでもらうということを期待していないのではないかと思ったりもしたが、そうでもないようで、鳥はこのような黒い実も食べるようです。 ランタナの種子にはランタニンという有毒成分が含まれているらしい。 しかし、鳥は実を丸呑みするだけで噛むということをしないから、問題ないが、哺乳類などは嚙み砕くので、危険と説明しているものもあれば、種子だけでなく実にも有毒成分があると説明するものや、その毒性は大したものではなくこれを摂取した殆どの人は無症状であり、一部の人に嘔吐の症状が出ただけなどと説明しているものもあったりで、よくはわからない。 まあ、ヤカモチもランタナの実は齧らないようにしよう(笑)。 勿論、丸呑みするということもしませんが。(ランタナの実)<参考>ランタナ・Wikipedia クマツヅラ科ランタナ属の常緑小低木。ランタナ。 和名は、シチヘンゲ(七変化)。 学名:Lantana camara 中南米原産。(同上) 黒い実と言えば、黒い実であるが、クスノキの実の黒とは違って、ランタナの実は、暗紫色と言うか、やや青味がかっているようです。ランタナの その実な食ひそ 毒ありと 言へる人あり 虚実知らねど (曲家持)
2021.11.14
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銀輪散歩その他で撮った花の写真で、記事に未掲載のものがかなり溜まってしまっています。撮影日時の古いものは、何処で撮ったものか記憶も曖昧になっていたりするが、この際まとめて記事アップすることとします。 先ずは、今日の銀輪散歩で見かけた花。(花園公園のサトザクラ) ソメイヨシノなどの桜が散ってしまった今、咲き匂っているのはサトザクラであります。(同上) 「花は一重なるよし・・・八重桜は異様の物なり。・・・植えずともありなん。遅桜又すさまじ。」(徒然草第139段)と兼好さんからは、散々な言われようの八重桜であるが、そんなことに頓着せず咲き匂っています。 そしてハナミズキです。こちらは一重ですが、兼好さんは何と仰いますでしょうか。(ハナミズキ)(同上) ライラックも咲いていました。(ライラック) そして、アイリスです。(アイリス) ツツジの花との競演です。(同上) 見上げると、エノキの青葉。 エノキの大木の木陰に休んでいたのでありました。(エノキ) もう青葉の季節ですね。(同上) 青葉と言えば、ケヤキですが、こんなケヤキが目に入りました。(変なケヤキ) 他のケヤキは青々とした若葉が芽吹いているのに、この木は殆ど葉が見えない。枝の先っぽだけに、緑の塊がある。 ヤドリギかと思って注目したが・・。(同上) ちょっとそれらしくもない。(同上) ズームアップしてみたが、どうやらヤドリギではなさそうだ。 この部分だけ若葉が芽吹いているというのはどういうこと?(普通のケヤキ) どうやら、ケヤキの若葉の芽吹きは、何やら塊のように見えるものであるようだから、上の変なケヤキのそれも若葉が芽吹いているということのようです。まあ、他の枝に芽吹きの兆候が全く見られないというのは何故かという疑問は解けないままであるが。 次は、珈琲休憩に立ち寄った馴染みの喫茶店・ペリカンの家の店先で目にした、クンシランとオダマキの花。(クンシラン)(オダマキ) 店主のももの郎女さんの旦那さんがユーチューブをやって居られて、そのフォロワーである男性が訪ねて来られていて、お二人で何やら楽し気に語らって居られました。<参考>youtubeペリカンの家 チャンネル登録者が間もなく1000人に届くところまで来ているので、早く1000人になって欲しいとももの郎女さんが仰っていましたので、ご紹介して置きます。お気に召せばチャンネル登録をよろしくお願いします。 そして、これは名前不明の花。(名前不明の花) 次は、先日の京都銀輪散歩で見かけたもの。(シュンラン<春蘭>) これは、京都市左京区鹿ケ谷にある泉屋博古館の庭で見かけたもの。 ピントが甘く、写りがイマイチです。(キブシ<木五倍子>の雄花) これは、哲学の道の南端を少し西に下った処で見かけたもの。 近くに寄れない立地で接近しての撮影はできず。(ヤマモモ<山桃>)(同上)(同上) これは、鴨川べりで桜に負けじと咲いていたヤマモモの花。桜花に 負けじと咲けど 山桃の 花を見る人 まづ無かるべし (偐家持) ヤマモモはやはり実をつけてこそのもの。そう言えば、ビワもこれによく似た花であるが、実にならないと人は見向いてはくれない。 地味過ぎる花が続いたので、花らしい花を。 これは何処で撮ったものやら。(ミモザ)(同上)(同上)(同上)(同上) ミモザも今はもう季節遅れとなりました。(アニソドンテア・カペンシス<アオイ科>) この舌を噛むような名前は、ヤカモチが覚えていたものではなく、ネット検索でそれと知ったものにて、覚える気にもならない名前にて候。(同上) 舌を噛みそうな名前と言えば、これもそうです。(グラプトセダム・フランチェスコ・バルディ) カタカナ名でもワックスフラワー位なら舌を噛むこともない(笑)。(ワックスフラワー)(同上)(同上) 最近はこの花も比較的よく目にするようになった。通りすがりの民家の軒先などでも見かけることがある。 ヒイラギの花はかなり前の撮影。(ヒイラギ)(同上)(同上) 以下は、多分もっと以前の撮影のものです。(ミズハコベ)(同上)(同上)(ブタナ)(タンポポの絮)(同上)(風に光る葉) ともかくも、花、植物の在庫写真は、これで記事アップ完了です。 記事アップが完了すると、PCのピクチャ・ファイルからそれらの写真を削除するというのがヤカモチ方式。 これで整理がつくというもの。そんなものを見せられる訪問者はたまったものではない? まあ、そういうことになりますが、「たまったもの」を見せられるのに「たまったものではない」とはこれ如何に(笑)。 今回の記事が丁度3000件目の記事になります。 節目の記事のよしみにて、ヤカモチ方式の蔵ざらえ記事アップもご容赦願いたく。We stand with Ukrainians.(STOP PUTIN STOP WAR)
2022.04.16
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(承前) 昨日(11月7日)の続きです。 会津若松駅前のホテルで一泊しての翌日が今日(11月8日)ということになりますので、以下単に「今日」ということで記事を書きます。 今日は朝、会津若松駅発7時41分の列車で会津柳津へと向かいます。 今回の旅の目的の一つは、大伴家持に因む伝説のある、福満虚空蔵菩薩霊厳山圓蔵寺を訪ねることにありました。(会津若松駅・4番ホーム・只見線)<参考>会津若松駅・Wikipedia 会津若松駅4番ホームが只見線。反対側の5番ホームが会津鉄道会津線の列車が乗り入れるホームになっているようです。 向かいの3番ホームが磐越西線のようです。 向かいホームに喜多方行きの普通列車が入って来ました。(同上・3番ホーム・磐越西線喜多方行きの列車) 7時18分、会津川口行き7時41分発の列車が入って来ました。(同上・只見線7時41分発会津川口行き列車) 乗車して、磐梯山が見える側の席は左か右か頭の中の地図と照合して、右側と判断して右側の座席に座る。(同上・5番ホーム・会津鉄道の列車) 少し遅れて会津鉄道の車両が入って来ました。 5番ホームであるが、「JR2」という表示。これはどういう意味なんでしょう。(同上) さて、わが列車の会津柳津までの各駅発車時刻表は次の通り。(会津若松発7:41普通列車の各駅発車時刻)<参考>七日町駅・Wikipedia 西若松駅・Wikipedia 会津若松から西若松までは南向きに列車は走るので、会津若松駅の南方向に西若松駅がある。その位置関係からは「南若松」という方が適切かと思うが、この「西若松」という名称は、会津若松駅から見てというものではなく、鶴ヶ城のほぼ西にあたるということで、お城から見ての名称のようです。 西若松駅を出ると列車は右にカーブし、西向きになって阿賀川を渡る。 列車の乗客は、昨夕と同じで、通学の高校生たちが多数。(阿賀川・西若松~会津本郷間)<参考>会津本郷駅・Wikipedia 会津高田駅で多くの高校生が下車したが、地図を見ると会津西陵高校というのが駅の南方にあるから、その学校の生徒たちなんだろう。 この先、会津坂下駅前に会津農林高校というのがあるが、会津坂下駅着が8時19分であり、この高校に通う生徒もこの列車で間に合うから、まだ車内にいる高校生は会津農林高校の生徒ということになる。 会津高田駅まではほぼ西方向に走るが、会津高田駅を過ぎると線路は北向きにカーブする。 かくして右窓は東窓となり、東方向にある磐梯山が見えて来る筈。(ススキと磐梯山・会津高田~根岸間)<参考>会津高田駅・Wikipedia 根岸駅(福島県)・Wikipedia 磐梯山が見えて来ましたが、山頂は雲の中であります。 この先、会津坂下駅の手前で線路が西向きにカーブするまでは磐梯山が車窓に見えるのだが、雲が晴れる気配はなく、往路はずっとこんな風に山頂は雲に隠れたままでありました。 新鶴駅、若宮駅と過ぎ、線路が西向きに変わって磐梯山が見えなくなると、会津坂下駅である。<参考>新鶴駅・Wikipedia 若宮駅・Wikipedia 会津坂下駅・Wikipedia 会津坂下駅からは上り坂となり、塔寺駅を過ぎトンネルを越えた辺りから下り坂となる。<参考>塔寺駅・Wikipedia 会津坂本駅・Wikipedia 会津坂本駅付近から只見川沿いを走ることになるが、川からは少し距離があり、右手、川と線路の間には国道252号(沼田街道)が通っているので、川沿いを走っているという感じはなく、国道沿いを走っている感じ。 そして、左にカーブして列車が南向きに走ったところで目的地の会津柳津駅である。8時41分着。<参考>会津柳津駅・Wikipedia 会津柳津駅の駅舎は、現在改築工事中で、工事用仮囲いシートに覆われていて、その姿は見えない。仮の通用口からの出入りとなる。 会津坂本駅を出てしばらくは隣の国道252号と線路はほぼ同じ高さにあったが、左にカーブする辺りから国道は線路よりもかなり低いところを通るようになるので、駅舎は国道よりも高い位置になる。従って、駅前の道も国道よりも高く、南に向かって下り坂になっている。この道は「赤べこ通り」と呼ばれているようだ。 その坂道を圓蔵寺目指して下って行く。(福満虚空蔵尊境内案内図) 坂の中ほどに圓蔵寺の山門への参道があった。北山門である。 これは、裏山門。表山門(南山門)は坂道を下り切ったところにある。 裏から入るのがヤカモチ流であるから、ここから入ることとする。(圓蔵寺・裏参道と北山門)(同上・北山門) 北山門を入って振り返ると、山門の向こうに只見川に架かる国道252号の柳津橋が見えている。 正面には大きなお堂。圓蔵寺の本堂、福満虚空蔵尊菊光堂である。 本堂の正面に回ろうとするが、表に回る通路がない。 本堂外縁の回廊に上がり、回廊を回って建物正面に出るというのが、裏から入って直接本堂にやって来た参拝者の、唯一の参拝ルートである。 北山門を入ってすぐの処で左に道をとり、ぐるりと大回りして本堂正面に出るというルートがあるので、本来はこのルートで行くのが裏から入った者のマナーであるのだろうが、そういう遠回りをする参拝者は居ないだろう。 目の前に大きなお堂が見えているのだから、足は自然にその方向に向かうというもの。 しかし、本堂の裏階段からお堂外縁回廊に昇って表に回っていいものかどうか迷う人もいるのだろう。お堂の壁面に「参拝者の皆さまへ。階段を上がり正面にお回りください。」と記された案内板が貼られている。(本堂回廊からの眺め。只見川と観月橋<手前>と瑞光寺橋) 回廊からの眺めは素晴らしい。 手前の橋が観月橋。奥の赤い橋が国道252号の瑞光寺橋。 観月橋の左詰にあるのがきよひめ公園。 この公園から川沿いに下りる階段があって、それを下りると川沿いに小さな赤い橋・きよひめ橋が架かっている。その付近が天然記念物ウグイが生息する淵となっているようで、ウグイ生息地の碑が建てられている。また、その隣には竹久夢二記念碑もある。後刻立ち寄ってみる予定。(圓蔵寺本堂・菊光堂)(霊厳山圓蔵寺縁起)<参考>福満虚空蔵菩薩霊厳山圓蔵寺 上掲の縁起によると、大同2年(807年)徳一大師開創とあり、本尊の福満虚空蔵菩薩は弘法大師の作とある。 ここで、大伴家持とは時代が合わないことに気が付く。 大伴家持が、本尊仏は行基作の尊い仏像であるから33年毎に開帳するように進言したという伝説があるのは、宮城県登米市にある柳津虚空蔵尊のことであったことを知る。<参考>柳津虚空蔵尊(登米市)・Wikipedia まあ、いかにも偐家持らしい間違いであります。 寺の開創も大伴家持の死後、弘法大師も大伴氏の支族である佐伯氏の出自ではあるが家持よりはずっと後世の人。とあれば、大伴家持が出る幕はないのである。(本堂前の紅葉)(撫で牛) 撫で牛というと天神さんの専売特許かと思っていたが、虚空蔵菩薩は丑・寅年生まれの人の守り本尊ということで、撫で牛がこの寺にも鎮座しているのか。 今から400年ほど前、会津で大きな地震があり、圓蔵寺本堂を再建するに当たり、何処からともなく赤牛の群れが現れ、巨大な木材を運び活躍し、工事が完成すると忽然と姿を消したという赤べこ伝説が生まれ、この地が「赤べこ伝説発祥の地」とされている。 虎も工事のお手伝いをしていたら、撫で牛と並んで撫で虎も鎮座することになったのだろうが、虎は甲子園球場の応援に忙しくて、会津まで手が回らなかったので、撫で虎になるチャンスも黄トラ伝説を作るチャンスも逃したという次第。 ということで、本堂前、鐘楼脇に赤べこがいます。(赤べこ・母、満子)(鐘楼) 鐘楼脇の赤べこと撫で牛がいる付近から階段道を上ってゆくと、美しい紅葉がありました。(本堂脇から一段上った場所の紅葉) 更に上ったところが、霊寶堂や圓蔵寺会館などがあるエリア。(左から水子地蔵尊、霊寶堂、圓蔵寺会館)(奥の院への案内板) 奥の院へと向かう。 鐘楼の南側まで戻り、庫裡の塀に沿った道を南へと進む。(圓蔵寺境内から見る柳津の家並み) 散り紅葉が降り積む道をサクサクと行く。(圓蔵寺・庫裡) 庫裡を過ぎると、道は七曲り(実際は3度曲がるだけのS字またはZ字)の下り坂となる。 表山門(南山門・仁王門)へと下る道は、赤べこがいた付近にあったようだが、「赤べこ」や「撫で牛」に気を取られていた所為で見過ごしたものと思われる。坂を下り切って出た広い道を右に進み、赤べこ通りに出る。 奥の院よりも先に、表門である南山門を撮影しようと、赤べこ通りを駅方向に少し戻ることにするが、本記事はここまでとし、続きはページを改めることにします。(つづく)<参考>銀輪万葉・その他篇
2023.11.14
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先日(4月25日)、新潟まで銀輪散歩に出掛け、竹内式部にゆかりの場所を巡って来ました。 2018年6月10日の記事で、白山公園の竹内式部顕彰碑の写真を掲載したことがありました。その折に竹内式部という人物のことや宝暦事件のことを初めて知り、いずれは彼にゆかりの場所を回ってみようと思っていたのでしたが、いつの間にか忘れてしまっていました。 そんな折、ブロ友・MoMo太郎氏の昨年10月31日の記事で、東京都葛飾区の宝蔵院の本尊・木造薬師如来立像が竹内式部の菩提を弔うために安置されたものであるということを知り、竹内式部のことを思い出したという次第。 <参考>竹内式部 2018.6.10. 金町からたどる下町歩き(その9)宝蔵院 2023.10.31. ということで、かつて海岸沿いの自転車道を銀輪散歩した際に日和山付近で目にしたと記憶する竹内式部の墓を目指す。 万代橋を渡り、寄居町交差点から北に入り、西大畑公園経由、市立美術館の西側の道を北進。しかし、遠い記憶だけが頼りとあっては心もとない限りで、なかなか見つからない。そこで、海岸べりの自転車道に出てみることにすると、どうやら行き過ぎていたようで、自転車道を南へと戻る。 記憶では海べりの白い展望台付近で、「←竹内式部墓」の案内表示板があった筈。果たして、展望台から少し南に行ったところにそれがありました。 案内表示板の「←」に従い、東に入り、坂道を下って行くと竹内式部の墓がありました。(竹内式部墓)(同上・副碑) 時計を見ると正午になっていたので、市立美術館まで戻り、館内にある喫茶店、こかげカフェで昼食とする。 昼食後、二葉公園にあるという竹内式部の銅像へと向かう。 この銅像も以前目にしているのだが、その場所の記憶が曖昧。二葉公園だろうと思われる場所を目指し行くと、運よくそれが的中。(竹内式部像・二葉公園)(同上) 銅像の台座には至誠奉公の銘が刻されている。(同上)(同上)(同上・副碑) 副碑全文は次の通り。 竹内式部(1712~67) 當地の医家に生る。青年の日、上洛して徳大寺家に仕え、儒学、神道を修め、後、家塾を開く。説くところ、神道に基づく尊王思想なり。少壮の公卿多く師事してその感化により朝廷の権威回復を志し、為に宝暦九年(1763)京都を追わる。宝暦事件と云い、尊王論者処罪の最初の事件とす。後、友人藤井右門、明和三年(1776※)を起こすや、累式部に及び、翌四年八丈島へ流罪の途中十二月五日寄港地三宅島にて病没す。※1766の誤り 遺蹟 墓 共同墓地 碑 白山公園 生地跡 本町九 祠堂 本覚寺 碑 入船地蔵 竹内式部や宝暦事件、明和事件の詳細については、下記<参考>をご参照ください。<参考>竹内敬持・Wikipedia 宝暦事件・Wikipedia 明和事件・Wikipedia 二葉公園は椿の木が沢山植えられていて、公園東側の道路は「椿の道」と名付けられているようだ。竹内式部像の近くにも椿の木が沢山あって、白い花、赤い花、ピンクの花が、盛りの時期は既に過ぎているようだが、それでもまだ沢山の花が咲いていた。前回立ち寄った際は椿の花の時期ではなかったようで、椿の花の印象はない。何やら薄暗い一角にひっそりと場違いにそれがあったという印象の記憶は、背の高い椿の木々が取り囲んでいたことによって醸されたその場の空気の所為であったのだろう。 誰かが植えたのか、それとも棄てられた球根が芽を出したのか、黄色と赤が混じった大きなチューリップの花が一輪、木の根元に咲いていました。 椿の木の背後の大きな木が枝を横に広げ、椿の葉が繁る背後からこれを突き破る形でこちらに飛び出した枝に樫や椎の花に似たものをつけていました。(ヤマグワの雄花であるか?) 葉を見ると、樫や椎のそれのように厚いものではなく、落葉樹のような薄い葉である。ということで、ヤマグワの雄花ではないかと推定したが、確証がないので、「?」付きで掲載して置きます。(同上) 二葉公園の東側の道、椿の道を南に辿ると、以前は會津八一記念館であったNSG美術館の前に出る。(NSG美術館) 會津八一記念館は現在は新潟市中央区万代3-1-1メディアシップ5階に移転しているが、會津八一記念館であった頃の名残が美術館前の歌碑である。(會津八一歌碑)(同上・副碑)於りたては なつなほあさき しほ可せの すそふきかへす ふるさとのはま (會津八一「寒燈集」)<参考>會津八一記念館であった頃に此処を訪ねた記事 長岡 2008.5.20. ヤカモチには「ふるさとの浜」ではないが、日本海、新潟の海岸を、西海岸公園越しに眺めてみることにします。(西海岸公園) この坂を下ると海岸である。海沿いには自転車道が通っているのだが、今回は一瞥のみ。 では、今回の銀輪散歩のそもそもの発端となった、白山公園の竹内式部顕彰碑を再訪してみることにしましょう。 寄居町交差点に戻り、東中通りを南に下ると新潟市役所前に出る。左折して東に行くと新潟地方裁判所である。(新潟地方裁判所) 裁判所の道路向かい南側が、白山神社、白山公園である。(竹内式部顕彰碑)(同上・副碑) 白山公園を出て、裁判所の東側の道、西堀前通りを北上すると、會津八一の墓があるという瑞光寺。 立ち寄ってみる。(會津八一墓・瑞光寺) 墓の隣に歌碑もある。(會津八一歌碑・瑞光寺)(同上・副碑)ふるさとの ふる江のや奈ぎ は可くれに ゆふべのふねの ものかしぐころ (會津八一「鹿鳴集」) 八一の墓の左隣には高浜虚子の句碑。(高浜虚子句碑・瑞光寺)三羽居し春の鴉の一羽居ず (虚子) 瑞光寺を出て、西堀前通りを北上。 本覚寺にあるという竹内式部の墓を目指すが、本覚寺がこの通りに面してあるのかどうかも不明。 途中に寺の名を列記した碑があったのでそれをのぞき込むと瑞光寺から四つ目か五つ目かに本覚寺があった。ところがこの碑の表示が現地の南北と逆になっていて、頭の中でこれをひっくり返して理解する必要があって、一瞬戸惑うという代物。幸い南端の瑞光寺から出て来て北へと進んでいたので、方角が逆だと気づいたのだが、これが中間位置の寺から出て来たのであったなら、反対方向に進んでしまったに違いない。 まあ、設置者の無神経に腹をたてても仕方がない。 本覚寺の場所が分かったのだからよしとするか。 本覚寺門前に到着(本覚寺・竹内式部先生菩提寺の碑) ぐるりと本堂裏の墓地を巡ってみたが、それらしき墓が見当たらない。 諦めて帰ろうかとしているところで、ご住職と思しきお方が運転の車が寺に入って来た。で、お尋ねすると、墓の場所まで案内してくださった。ご親切に感謝である。(竹内式部の墓・本覚寺)(同上) 本覚寺の墓については、事前にネットでこのような写真を目にしていたので、地面から直接にこのような形で建っているものと思い込んでしまった所為で、広い台座を備えた墓は除外して探していたものだから、すぐ近くを通っても、それとは気がつかなかったのだろう。(同上・左側面)(同上・裏面) 以上で、竹内式部めぐり終了とします。 本町通りには生地跡があるそうだが、本町通りが何処なのか分からないので、探索は諦める。同様に、入船地蔵にも何か関連の碑があるとのことだが、これも地理不案内でパス。今後の宿題とします。<参考>銀輪万葉・新潟県・長野県篇
2024.04.28
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只今入院して居り、病室からのブログアップとなります。 関節痛、胃痛、高血圧など体調不良が続いていましたが、尿が出なくなって救急搬送、尿排出の処置をして貰い、後日、泌尿器科を受診し、尿検査、血液検査、CT、レントゲン、エコー心電図など色々な検査の結果、前立腺ガンの疑いありということで、前立腺生検のため入院となりました。 予定では8月1日に生検、つまり前立腺組織を数か所採取して、悪性腫瘍であるかどうかの判定を行うとのことです。(見つつも居らむ生駒山 入院病棟の窓から撮影) 前立腺肥大は、はるか以前から指摘を受けていたことなので、前立腺ガンの疑いあり、というのは驚くことではないのだが、腰や膝などの関節痛で長らく苦しんで来た身としては、それに関連したことでの入院ではなく、偶発的に起こった「尿が出ない」ということで救急搬送され、休日明けの22日に泌尿器科を受診するよう指示された結果、前立腺ガンかもと来ての入院となったので、意外というか、「そう来たか」というような妙な感覚です。 まあ、ここ当分は、上の景色を窓から眺めるほかないので、「朝な夕な、見つつも居らむ生駒山」で過ごします。 取り敢えず、近況のご報告であります。
2025.07.26
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今日(17日)の銀輪散歩でも恩智川の川辺を走りました。 昨日の記事で「アシの穂」として紹介した写真について、何となく気になっていたのですが、再度、その花穂を撮影することにしました。 ススキではないし、川辺なのでアシだろうと思ったのであるが、アシにしてはほっそりの小柄タイプであること、穂もボリュームが無いことなどが気になっていたのでした。 で、その写真をネットの図鑑などのイネ科やアシの仲間の植物の写真と見比べてみました。すると、どうやらアシではなくセイバンモロコシという植物のようであるのでした。昨日の記事については、追記にてその旨の訂正を行いましたが、今日撮影したセイバンモロコシの花穂の写真を掲載して、今日の日記記事とさせていただきます。(セイバンモロコシの花穂) 昨日の記事では、何となく予感がしたのか、アシでなければ「あしからず」とエクスキューズの文言を書き添えていますが、その予感が的中でありました(笑)。 セイバンモロコシという植物の名は、ぼんやりとながら過去に耳にしたか、見たかした記憶はあるものの、どんな植物であるかは存じ上げませんでした。 (同上)<参考>セイバンモロコシ・Wikipedia これがセイバンモロコシなら、恩智川畔を走れば、直ぐに目に入るのでありますから、お馴染みの植物であります。小生はこれまで、これはアシの穂だろうと決めつけていたのでした。 今回、セイバンモロコシの花穂やアシの花穂の写真をネットで検索してみましたが、この写真の姿は、アシのそれよりもセイバンモロコシのそれに近いのでありました。 (同上)(同上) 穂の赤茶色とそこから垂れ下がっている小さな花の黄色が美しい。 (同上) 今日の日記は手抜きにてこれだけにして置きます。 野崎観音の前まで走っただけでしたが、色々な花を見掛けました。それらは、また銀輪花散歩の記事に使わせていただくこととします。 ただ、昨日の日記の末尾に写真掲載した名前不詳の花の今日の姿だけご紹介して置きます。今日見てみると、濃いピンク色の蕾が花苞の間から顔を覗かせていました。 どうやら、この植物は赤またはピンクの花を咲かせるようです。手掛かりが一つ増えましたので、明日にでもネットで心当たりを調べてみます。(名前不詳の花の今日の姿)
2017.06.17
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またまた、ブログの更新をサボってしまいました。どうも最近はサボり癖が付いてしまったようです(笑)。 で、何と言って話のネタもないのでありますが、銀輪散歩を記事にしてみます。(淀川)(シャリンバイの実)(同上)銀輪(ぎんりん)の 道にしあれば 車輪梅(シャリンバイ) 実の黒々と 生(な)るも洒落(しゃれ)なり (偐家持)我妹子は 葡萄のごとと 言ふなるも 鳥も食はぬか シャリンバイの実 (偐家持) シャリンバイ(車輪梅)は、その枝の分岐する様子が車輪のスポークに似ている処からこの名が付いたそうだから、銀輪散歩の道の辺にてよく目にするのは理に叶っていると言うべきか。 (参考:シャリンバイ・Wikipedia) 奄美大島の大島紬の染料はこの木から採るらしいが、最近は公園や街路でよく目にするのは、乾燥や大気汚染に強い木であるからだそうな。 シャリンバイと共によく見かける木にトベラがある。 トベラは「扉(トビラ)の木」がなまったものらしいが、それはこの木が枝葉を切ると悪臭を発することから、節分に魔除けとして鰯の頭などと共に戸口に掲げられたことに由来するらしい。 (参考:トベラ・Wikipedia)(トベラの実)(トベラの実・はじけた後)(トベラの実・はじける前)とべらの実 はじけて痛き 傷なれば 触れずもあらな 心のうちは (偐家持)節分は 鰯の頭 扉(とべら)の木 鬼も避(よ)くなる 屁屎(へくそ)ものかは (偐家持) トベラの枝葉がどんな匂いなのか今度しっかり確かめてみることとしますが、ヒイラギはその棘が買われて節分に鰯と共演するのに対してトベラは悪臭が買われて共演するのでありますな。しかし、悪臭を歌にするとどうしても品のない歌になってしまいますな(笑)。屁屎葛も苦笑いであります。 ところで、このトベラの実のはじけた様は何やらギョッとする生々しさで、痛々しい傷口を連想させますな。眺めて余り気持ちのいいものではありませぬ。 鳥はこの実をついばむようだが、それは傷口をつついているようでもあり、更にも気持ちのよいものではありませぬ。(枯れススキの原) はじけたトベラの実は見るにノーサンキューだが、枯れたススキの原は目にさやかである。日に輝いて風に靡く様はことに美しい。枯れた葉擦れの乾いた音も軽やかで素敵である。風の吹き渡って行く様が何とも感興をそそるのである。銀輪を停めてしばしたたずむヤカモチであります。枯れ薄、というと何やら侘びしいイメージであるが、群生する枯れ薄の風にそよぐ様の美しさは格別のものにて、枯れ薄も侘びしいばかりではないのである。銀色の 風の波立つ 小春日は 妹と行かまし すすきの原を (偐家持) 光る枯れ薄の原を掲載したついでに、光る川面の写真も。花逍遥の表題からは逸脱ですが、こちらは、光の華でありますな(笑)。(光る川面)銀輪(ぎんりん)の 走るに合はせ 光るらし 跳ねて川面(かはも)に 風吹き来れば (偐家持)冬こそは 光の雨の 降るならむ 川面(かはも)に跳ねて 見れども飽かず (偐家持) 花のない花逍遥でありましたが実のあるものとなりました(笑)。 実のありついでに、 自宅庭のアオキの実も登場させますかな。(12月22日追記)(アオキの実)アオキの実 赤く熟れゆく わが屋戸に 小鳥しば鳴く 朝は来にけり (偐家持)<追記・注>「トベラの実」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.12.21
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偐山頭火氏のコメントで、「か」と「ま」の続きの摩訶不思議な話を、というご要望がありましたが、今日は、「か」と「ま」の続きの話ではなく、「か」と「ま」の間にある「ぬ」の話であります。 というのも、昨日の銀輪散歩で思いもかけない動物を見かけたからであります。 場所は恩智川。 外環状道路(R170号)の鷹殿交差点西側、恩智川に架かる三六橋の下付近でのこと。大きな鯉が泳ぐ中に妙な動物が泳いでいる。(ヌートリア?) 橋の上から川面を覗いていたのだが、最初にそれに気づいた時は、背中を見せて、橋から遠ざかって行くところであったので、後ろ姿。何とも不明。 頭からお尻までの体長は40~50センチ位、猫程度の大きさだが、尻尾はネズミのそれのように黒っぽく細長いひも状。ネズミにしては巨大過ぎる。 幸い、右に旋回してコチラ向きに方向転換、顔が見えた。(同上) 何だか見たような気がする動物。カピバラを小さくしたような奴。 しかし、名前が思い出せない。 結局、帰宅し、「ネズミの仲間」でネット検索してヌートリアという名前を目にするまで「ヌートリア」という語は思い出せなかったのであるが、この字を見た瞬間に、これだと思い当たったのではありました。 勿論、ヌートリアの実物を見たことなどないので、断言はできないのであるが、こいつはきっとヌートリアに違いないと思ったった次第。(同上)<参考>ヌートリア・Wikipedia しかし、何故、ヌートリアが恩智川にいるのか? ヌートリアは南米が原産地。 ウィキぺディアによると、その事情は次のようだ。 「日本では、大日本帝国陸軍向けの毛皮採取を目的として導入されたが、第二次世界大戦終戦後、需要が激減したことに伴い、飼育されていた個体の多くが野外に放逐された。また、1950年代の毛皮ブームでは、本種の飼育が流行したが、その後の毛皮価格の暴落に伴い、このときも多数の個体が野に放たれ、野生化している。これらの子孫が各地に定着し、やはり特定外来生物のアライグマと同様に、野外繁殖が問題となっている。」 アライグマとかハクビシンとかのことは知っていたが、このヌートリアも特定外来生物に指定され、防除対象となっている動物であったのでした。 わが恩智川もヌートリアにノットラレないようにしなければならないが、その駆除は大変そうだ。(同上) 珍しい動物と遭遇したと喜んだヤカモチでしたが、歓迎されない有害生物とあっては、喜んでもいられないということです。 さりとて、どうすればいいのか。 アライグマに関して、以前、市の担当課へ電話で問い合わせしたことがあり、その時の経験から、市は害獣駆除には少しも熱心ではなく、面倒くさいということがよくわかる応対であった経験からして、市役所に通報しても駆除に動き出すとは思えないから、放って置くこととしよう。 それでなくとも今はコロナ、コロナで、ヌートリアどころではないだろうから。 彼は、悠然と泳ぎ、花や葉をすっかり落としてしまって、荒れ放題の藪といった状態のセイヨウカラシナの草むらに消えて行きました。 今は、恩智川には大きな鯉がウジャウジャといるが、その鯉に負けぬ位にヌートリアがウジャウジャと増えたら、さぞや不気味な川となることであろう。 それはともかく、ブログ的には助かりました(笑)。 そう言えば、今年は子年でした。ブログネタ 尽きんとする日 ヌートリア ぬっとや出でて 助太刀すらし (鼠小僧)
2020.05.09
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銀輪散歩で見かけた虫の写真もそこそこの数になりましたので、今日は銀輪虫散歩であります。 先ずは、蛾から。 偐山頭火氏との銀輪散歩で見かけた珍しい蛾、ホタルガです。 奈良県河合町にある廣瀬神社の手水舎のコンクリートの地面に居るのを見つけました。珍しい蛾だと偐山頭火氏にも見せようとしましたが、同氏は蛾などは苦手なのか、明らかな拒絶反応(笑)。(ホタルガ) 手水鉢の近くの地面にじっとしているので、死んでいるのかと思ったが、近寄ってよく見ると触角を動かしているから、生きていることが見てとれました。参拝の人が手を清めるため手水鉢の前に立ったりした場合に踏まれてしまう危険がある。どこか安全な木の葉か草地に移動させようと手を伸ばすと、ひらひらと飛び立ち、参道反対側の木の葉にとまりました。 ヤカモチの心のうちを読み取って、自力で移動したのは感心な行動であります(笑)。移動後の姿が下の写真です。(同上) ホタルガはチョウ目マダラガ科ホタルガ亜科の蛾。 その名が示すようにホタルによく似た体色である。 ホタルガがホタルに擬態したのか、ホタルがホタルガに擬態したのかは知らぬが、両者のような擬態の関係をミューラー型擬態と言うらしい。<参考>ミューラー型擬態・Wikipedia ホタルは悪臭を持つものが多い。マダラガにも悪臭を持つものがいる。 従って、黒い体色で頭部のみが赤いというホタルのようなデザインは捕食者に対して「私は臭くて不味いですよ。」という警告メッセージとなる。このように臭いとか有毒であるとかいった食べるのに適していない似た者同士がお互いの姿に似せることによって、擬態の警告信号のメッセージ性が高まり、結果として両者の種としての生存率が高くなるという効果が期待できるという訳である。このような擬態様式の存在を初めて提唱したのがドイツの博物学者フリッツ・ミューラーであることから、ミューラー型擬態と呼ばれるとのこと。 このホタルガが人間にとって実際に臭いのかどうかは触っていないので何とも言えないが、ホタルもホタルガもヤカモチは食べる気がないからどうでもいいことであります(笑)。 それはともかく、ホタルガの幼虫は、サカキやヒサカキの葉を食べるらしいから、この蛾が神社に居たことは理に叶っているのである。 次は、花園中央公園のトイレの手洗い場にいた蛾、カギモンヤガです。 鍵の紋がある夜蛾ということでカギモンヤガであります。(カギモンヤガ) チョウ目ヤガ科モンヤガ亜科の蛾である。 チョウ目はガ目とも言い、鱗翅目とも言う。 蛾にしてみれば、「チョウ目」ではなく「ガ目」と言うべきだとクレームを付けたくなることでしょうから「鱗翅目」と言うのが公平かもしれませんが、そんなことに「目くじら」を立てるなというのがヤカモチの立場ですから、このページでは一応「チョウ目」ということにして置きます。 次は、我が家の庭のナンテンの木にとまっていた名前不詳の蛾です。(名前不詳の蛾) ナンテンの木の近くのサツキの植え込みから飛び立ってナンテンの木に移動しました。それで気が付いたのですが、枯れ葉や木にじっとしていたら完全な保護色、それと気づかず見過ごすことでしょう。 少し前までは、そのサツキの葉にいくつかの毛虫が居ましたが、そのうちのどれかが、ひょっとするとこいつの幼虫であったかもしれません。(毛虫A)(毛虫B) 毛虫Bは毛がないから青虫と呼ぶべきかもしれませんが、体色が青ではなく黒なので、黒虫。しかし、黒虫では他者には伝わらない。芋虫というのも何かしっくり来ない。適切な別の呼び名があれば教えていただきたいものであります(笑)。 蛾が苦手な偐山頭火氏を辟易させたところで、次は蝶です。(ゴマダラチョウ) これは八尾市の心合寺山古墳で見かけた蝶。 目の前をスイ~スイ~と飛ぶミスジチョウを撮影しようと追っかけていて、見失ってしまいました。そこへこの蝶が飛んできて目の前の木の幹にとまりました。 「撮ってェ~」と言ったようなので撮りました。 翅を広げるのをしばらく待ちましたが、一向に広げる気配がない。 「撮ってェ~」というのはヤカモチの聞き違いであったようです。 チョウ目タテハチョウ科のゴマダラチョウだと思います。 普通のゴマダラチョウはもっと黒っぽいが、これは白っぽい種類か。(セマダラコガネ) これは庭先で死んでいたセマダラコガネ。 体長が1cm程度の小型のコガネムシ。(同上) コウチュウ目(鞘翅目)コガネムシ科の虫である。 広葉樹など様々な植物の葉や花を食べる草食昆虫なので、農作物にとっては害虫ということになる。 そして、次は更にも小さいコガネムシ。 名前は不明であるが、体長5mmあるかないかの超小型のコガネムシである。銀輪で走っている時に右目の視界中央にぼんやりとした虫の姿が現出しました。ヤカモチは眼鏡を着用しているので、眼鏡のレンズの外側に虫がとまったのかと指で払うも手応えなし。 自転車をとめて眼鏡を外すと、レンズの内側に米粒よりも小さな緑色に光るコガネムシが居ました。 そこで、近くにあった東屋に入って、これを撮影することに。(眼鏡のレンズにとまった超小型コガネムシ) ヤカモチの眼鏡の大きさと比べていただくと、この虫の小ささがお分かりいただけるかと。(同上) どうして、レンズの内側面に入り込んだのか。 最もあり得るケースとしては、走行中のヤカモチのマスクに先ずとまり、マスクの上部から眼鏡の枠をつたってレンズ内側に侵入したのではないか、というのがヤカモチの見解です。 コガネムシ君も妙なところに迷い込み、「飛んでいたら、とんだことになってしまった」とパニックに陥っていたのかもしれないので、ヤカモチも「とんでもない奴だ」とは思わず、優しく接することといたしました。(同上) レンズ表面は滑りやすいだろうから、足取りも何やらおぼつかないようにも見える。 真上から撮るとこんな感じ。 左側中肢を失ってしまって、5本肢のようです。(同上) 最後は、手にとまらせて、近くの木の枝に逃がしてあげました。 一期一会。 二度と会うことはないでしょうが、風邪をひかずに達者で暮らせ、という次第であります。 ここまではすべて昆虫。 普通に「虫」と言うと昆虫を想起し、蜘蛛やムカデなど多足類の虫なども虫とすることに異論をはさむ人はないであろうが、トカゲやカエルとなると虫の範囲に収めるべきかどうかいささかの躊躇を伴う。 しかし、カエル(蛙)もトカゲ(蜥蜴)も虫篇なので、虫のうちでいいだろう。カタツムリ(蝸牛)も「牛」がつくものの虫偏だから虫である。 ということで、次はカタツムリ。(カタツムリ) これは、藤原宮跡の小さな緑地のコンクリート標石に居ました。 カタツムリとアマガエルとアジサイは梅雨の三大風物かも。 で、次はアマガエル。 駅のホームの片隅にちょこんと居ました。(アマガエル) コンクリートの上での暮らしが長くなったか、黄緑色の体色が薄茶と黒褐色のまだら模様に変色し始めている。 草地など緑色の多い環境に居ると全身が緑色の「ペンキ塗りたて」の「青蛙」となるが、駅のホームではそのペンキも剥がれて行くようです。(同上)ぬりたての ペンキはがれて 青蛙 駅のホームも 住めば都と (青家持)(参考)青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか (芥川龍之介) 青とかげ-ペンキ塗り立て、ご用心 (ジュール・ルナール) ということで、最後は、青とかげならぬ二ホントカゲです。(二ホントカゲ) これは、春日大社の参道脇の杉の巨木の根方に居たトカゲ。 ヤカモチが小学生の頃、校門脇の空き地の草むらにトカゲが大量発生。 手掴みでいくらでも捕獲できる。 10匹余を捕まえて家に持ち帰り、何個かの木箱に金網を取り付け、これに分散して入れ、飼育してみようとしたことがあった。 自身の机の抽斗にその木箱を隠していたところ、数日後に母がこれを発見、虫嫌いの母が悲鳴を上げるという事件となり、すぐに捨てさせられたということがありました。 あゝそのような日もありき・・であります。
2021.06.29
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友人、岬麻呂氏からの旅便りです。 今回は、「台風26号が台湾上陸の後、八重山諸島直撃の予報。滞在中暴風雨でホテルに缶詰めや離島航路の欠航、復路の飛行機欠航を覚悟して出発した。」という石垣島・与那国島への、岬麻呂ご夫妻とお嬢様との3人旅であります。〇旅・岬巡り報告348・石垣島、与那国島※画像をクリックすると大きいサイズのフォト蔵写真が別窓で開きます。〇同添付写真(石垣島<1>) (石垣島<2>) (与那国島<1>) (与那国島<2>) 11月11日関西空港→石垣空港→玉取崎展望台→平久保埼灯台→川平湾→バンナ公園→唐人墓→離島ターミナル前のホテルミヤヒラ(3連泊) 石垣空港に到着すると予報通りの土砂降りであったが、レンタカーを借りる手続きをしている間に雨が上がったとのこと。 左回りに石垣島ドライブ観光です。 バンナ公園では、カエンボクが例年よりも早い咲き。(カエンボク)11月12日石垣空港→与那国空港→ダンヌ浜→日本最後の夕日の見える丘→久部良港→にし西崎(日本最西端之地碑)→南牧場(与那国馬)→比川浜(TVドラマ「Dr.コトー診療所」のロケ地)→立神岩→軍艦岩・サンニヌ台→東埼灯台→祖納港→ティンダバナ展望台→与那国空港→石垣空港 この日は、空路で与那国島へ。(祖納旧水路・飛行機から撮影) 与那国空港では、与那国ホンダの社長夫人のお出迎えを受けられたとのこと。社長の西條氏はインドネシアにお出掛けで、社長夫人のお出迎えということになったのでしょうが、旅先にこのようなお付き合いのあるご友人がいらっしゃるというのは素敵なことです。(日本国最西端之地碑)(西埼灯台) 最西端之地の碑は、西埼灯台の左脇に並んで設置されているのでした。(東埼灯台)(祖納旧水路・橋の上から撮影) 与那国空港に着陸する直前に機上から撮影された祖納旧水路ですが、同写真(前掲)に写っている橋の上から撮影されたのが、この写真なんでしょうか。 夕刻の便で石垣島に戻られたとのこと。11月13日サビチ鍾乳洞→御神埼灯台→観音埼灯台 この日は曇りだが、強風のため離島航路全便欠航。 予定していた西表島観光は取り止め、石垣島を、11日の左回りのドライブとは逆の右回りにドライブ。 車は左側通行なので、島は時計回り(右回り)に回るのが海側の車線を走ることになり、眺めが良いとされる。湖などの場合は、これとは逆に反時計回り(左回り)に走るのが眺めが良いとされる。湖岸側の車線を走ることになるからである。 自転車も車両なので、基本的には同じである。(トックリキワタが満開・バンナ公園) 満開のトックリキワタ。石垣の バンナの園に 咲く花は トックリキワタ 今盛りなり (徳利麻呂)(サビチ鍾乳洞)11月14日石垣港→竹富島→石垣港→石垣島を右回りドライブ→川平湾(昼食)→平久保崎→底原ダム→石垣空港→関西空港 竹富島に渡るも「水牛車観光」のバス3社全部が本日休業で、石垣港にトンボ返りであります。 仕方なく、またも石垣島を右回りドライブです。川平湾で昼食をとっている頃に薄日がさして来ました。平久保崎に急行です。いくたびも 回るドライブ 右左(みぎひだり) 石垣島を 三人(みたり)行く旅 (覚悟麻呂)薄日させば 平久保崎に いざ行きて つばらにぞ見む 青きちゅら海 (美海麻呂)(平久保の海) 美しいサンゴ礁の海に「やっと巡り会えた」とのことですが、まあ、「ホテルに缶詰め」も覚悟でやって来た今回の旅であることを思えば、上々の旅であったと言うべきでしょう(笑)。 夕刻の便で、関西空港にご帰着。お疲れ様でした。<参考> 過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。 フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。
2025.11.20
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11月21日午後9時54分、入浴前、コップ1杯の水素水。 午後10時21分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重57.3kg、体温36.4度、最高血圧99.5、最低血圧57。 ※1回目101/59(80)、2回目98/55(79)。 午後11時、就寝。 11月22日午前7時、起床。 朝の測定 体重57.0kg、体温36.3度、最高血圧135.5、最低血圧63.5。 ※5回中3回脈異常 1回目128/97(57)、2回目136/63(64)、3回目124/53(58)、 4回目137/60(56)、5回目135/64(64)。2、3回目が正常測定値。 午前8時3分、朝食。 朝食は、前日購入の「くるみとメープルのちぎりパン6個相当分」のうちの4個と安田ヨーグルト越後姫1本、島バナナ1本、リンゴ半個、亀田の柿の種(わさび)小袋1個。 食後の薬は、朝の最高血圧が135、136であったので、血圧降下剤(エンレスト錠、アムロジン錠)の服用を23日ぶりに再開です。勿論、コップ1杯の水素水で服用です。 12時、昼食。 昼食は、巻き寿司5個のうちの4個といなり寿司4個のうちの3個で、各1個は食べ残しました。デザートに島バナナ1本。 午後7時8分、夕食。 この日の夕食は家族皆が鍋。豚肉の水炊きです。 ヤカモチは、豚肉6切れ、豆腐4個、椎茸1個、エノキダケ・白菜・白葱それぞれ数切れをポン酢タレでいただき、茶碗1杯分の量のご飯を完食であります。食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 午後9時42分、入浴後、コップ3分の1杯の水素水。 夜の測定 体重57.3kg、体温36.4度、最高血圧81.5、最低血圧52。 ※4回中2回脈異常 1回目89/58(77)、2回目88/51(73)、3回目85/53(74)、 4回目78/57(75)。※3、4回目正常測定値。 午後10時40分、就寝。 11月23日午前6時20分、起床。 朝の測定 体重57.2kg、体温35.9度、最高・最低血圧測定不能。 ※5回連続脈異常 1回目130/77(66)、2回目116/66(53)、3回目94/49(59)、 4回目122/63(61)、5回目102/47(59)。 午前8時6分、朝食。 朝食は、「にゅう麵もどき」と島バナナ2本、リンゴ半個、安田ヨーグルト越後姫1本、完食。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 なお、前日朝の測定では最高血圧が2回とも130を超えていたので、エンレスト錠、アムロジン錠(血圧降下剤)の服用を23日ぶりに再開したが、その夜の測定では最高血圧が4回とも90を下回る低血圧数値となったので、当分の間血圧降下剤服用は停止することとしました。 そもそも、血圧降下剤を服用した途端に低血圧に陥るというのは、そもそも高血圧症ということではないのではないかと思ったりもするが、どうなんだろう。 12時32分、昼食。 昼食は、前日夕食の水炊きで茶碗1杯の雑炊。 デザートに島バナナ1本。 午後は何やら眠くて、NHK杯TV囲碁トーナメント富士田明彦八段vs鶴山敦志八段戦を見ながらウトウトしたり、でしたが、勝負は鶴山八段の3目半勝ちでありました。 午後7時5分、夕食。 夕食は、茶碗7分目程度のご飯、焼き餃子、シラスとワカメと胡瓜の甘酢和え、みそ汁&デザートは島バナナ1本。 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 午後9時33分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重57.6kg、体温36.8度、最高血圧97.5、最低血圧50.5。 ※3回中1回脈異常 1回目95/52(79)、2回目102/55(75)、3回目100/49(76)。 午後10時、就寝。 11月24日午前7時19分、起床。 朝の測定 体重57.5kg、体温36.5度、最高血圧109.5、最低血圧53.5。 ※3回中1回脈異常 1回目115/58(68)、2回目109/45(67)、3回目109/49(69)。 午前7時53分、朝食。 朝食は、「やわらかぶどうパン」1個、ブルーベリーヨーグルト1本、島バナナ1本。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 12時、昼食。昼食は、茶碗7分目位のご飯、玉子焼き、野菜サラダ、みそ汁、島バナナ1本。 午後7時11分、夕食。食欲がないので、夕飯は少なめに。茶碗半分位のご飯、厚揚げ、笹かまぼこ、野菜サラダ、オカラ、みそ汁、島バナナ1本。(このところ、岬麻呂さんからいただいた島バナナが食べ頃を一気に迎え、盛んにこれを食べているのですが、まだ4本残っています。頑張ってこれを食べ切らないといけない<笑>。) 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 午後9時17分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重57.8kg、体温36.4度、最高血圧96、最低血圧54.5。 ※1回目98/51(75)、2回目94/58(74)。 午後10時10分、就寝。 11月25日午前6時21分、起床。 朝の測定 体重57.5kg、体温36.1度、最高・最低血圧測定不能。 ※5回連続脈異常 1回目140/97(66)、2回目133/72(65)、3回目138/77(66)、 4回目141/62(66)、5回目136/101(66)。 5回連続して130以上の高い数値を記録しているが、降下剤の服用を再開するかどうかは、もう1日様子を見てから判断することとする。 午前7時18分、朝食。 朝食は、「やわらかぶどうパン」1個、グリコ・アーモンド効果・プロテイン・ナッツミックス1本、リンゴ半個、島バナナ1本、素焼きミックスナッツひとつまみ。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。血圧降下剤の服用停止は継続中であります。 午前10時13分、杖を持って徒歩外出。近鉄奈良線枚岡駅へ。(老人センター) 今日は雨なので、自転車ではなく、電車&シャトルバスで石切生喜病院リハビリ室への通院です。(近鉄奈良線・枚岡駅) 上は、近鉄の特急車両。 下は、阪神電車の車両。 近鉄と阪神電車は、奈良・三宮間で相互乗り入れをしている。(同上) 午前10時26分、枚岡駅発。 午前10時33分、東花園駅着。(東花園駅前・病院のシャトルバス) 午前10時40分、東花園駅前発。(病院のシャトルバス・車内) 我がカメラの時計設定が正しい時刻よりも3分ほど早い時刻になっているようなので、設定し直さなければならないのだが、その設定変更のやり方を忘れてしまったので、今の処、設定変更ができない状況下にあり、困ったことです(笑)。(同上・東花園駅前) 午前10時48分、石切生喜病院着。 午前10時52分、リハビリ室受付。 予定よりも2便早い電車に乗ったので、待ち時間が1時間以上もある。 ところが、前の時間帯に予約していた人がキャンセルしたとのことで、リハビリ開始時刻が繰り上げとなりました。ラッキーです。 午前11時30分、リハビリ開始。 午前11時50分、リハビリ終了。 リハビリ室を出て、傘立てから自分の傘を取り出し、昼食にと喫茶・ペリカンの家に向かいましたが、喫茶店の入口ドア前の傘立てに傘を立てかけたところ、取っ手に「藤原」という名前の表示があることに気が付き、傘を取り違えたことに気が付く。 すぐにリハビリ室に取って返して、自身の正しい傘を取り出し、藤原さんの傘を取り違えたことを職員の方に説明し、善処をお願いして、病院を退出でした。 そんなことで、喫茶・ペリカンの家に入ったのは、12時20分前後になっていたかと思います。 白身魚のフライ定食を注文。完食でした。食後、ホット珈琲に挑戦すべく、これを注文。店主・ももの郎女さんのお薦めもあって、デザートにチョコレートケーキも注文。珈琲は少し変な味と言うか、自身の記憶にある味と少し異なる味ではあったが、嫌な味であるとか、極端に苦いとかというのではなく、すんなりと飲めたので、どうやら珈琲もクリアできたようです。 昼食を終えて、喫茶・ペリカンの家を出ると、雨も上がり、青空が覗き、日が射して来ました。 リハビリを兼ねて、自宅まで歩いて帰ることとします。(もう一つの黄色の家) 先般(11月5日)、黄色の家を紹介しましたが、もう一つの黄色の家を見つけましたので、紹介して置きます。<参考>自宅療養記・霜月の珍事 2025.11.5. 黄色の家から少し歩くと針金工場です。(鉄線工場) そして、生駒山系の紅葉です。(生駒山の紅葉) 我が家の裏山も漸く紅葉が美しい時期となりました。(同上)(楽しい飾りつけ) 家の近くまで帰って来ると、こんな楽しい飾りつけをしたお家もありました。 午後1時50分、帰宅。 午後3時、手指と足指の先っぽが痺れるという状況が、もう1ヶ月以上も続いているのであるが、今日しみじみと両手を眺めてみたら、お風呂上りでもないのに、指先がシワシワになっていることに気がつきました。痺れていることと、このシワシワとは何か関係があるのだろうか。(シワシワになった右手の指先ほか)(シワシワになった左手の指先ほか) アト、最近気が付いたのは、左足にむくみが生じているということ。入院していた頃に、むくみが生じていた記憶があったものの、いつの頃からかむくみが生じなくなっていたように思うのだが、数日前頃からむくみが気になり出し、痺れが指先だけでなく足首、脛、膝へと広がって来ているように思われるのが、いささか気がかり。 まあ、そんなことを余り気にし過ぎるのもよくないこと。 ここまでで、本日の記事とします。<参考>入院・通院・闘病記はコチラ。
2025.11.25
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ポルトガルの女性と結婚、リスボンに住んでいる大学同期の友人、M君が一時帰国したので、F君の呼び掛けで、北新地の一角で食事会を持った。小生はM君とは卒業以来だから38年ぶりの再会である。大学同期というのは不思議なもので38年ぶりでも昨日会ったばかりのように昔に帰って心が通い合ってしまい、心地よい。「日本語はいいね。」長く海外で生活している彼の何げない言葉が心に残るが、海外生活の経験のないヤカモチにはこの感覚の本当の処は分からない。ファド、ワイン、ユーロ高、少女誘拐(?)事件、味覚の国際比較、日本の首相交代、宗教、と話は転変、愉快なひと時でした。
2007.09.14
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宿泊を伴う場合のヤカモチの銀輪散歩は、ホテルに宅配便で軽量折りたたみ自転車・トレンクルを送って置き、それをホテルで受け取って走るというのが最近のスタイルである。 以前は、電車移動であれ、飛行機移動であれ、自転車を輪行バッグに収納して持ってゆくということをしていたが、宅配便で送ることが可能であることを知ってからは、これを利用することが多い。 先般、新潟から山形方面を銀輪散歩しようと、宅配便でこれを送ったところ、受け取ってみると、折りたたみハンドルの「折りたたみ連結部」の台座部分が割れて、ストッパー金具が脱落してしまって用をなさない状況になっているという不運に見舞われ、銀輪散歩を断念するという最悪の旅になってしまったのでした。 帰阪して、昨日、そのトレンクルを馴染みにしている自転車屋さんに持ち込み、入院させて来ました。 このトレンクルは、もうメーカーが生産を中止しているので、修理部品が調達できるのか、不明。自転車屋さんも明確なことは言えないようで、追って連絡するとのこと。(トレンクル、折りたたんだ状態)(折りたたんでいないトレンクル) 上の写真の〇部分がハンドル連結部。 ストッパー金具を下げて、ハンドルを折りたたむと、台座が現れる。(台座部分) 割れて脱落した台座破損部分とストッパー金具をはめ込んで撮ったのが上の写真。破損部分を取り外したのが下の写真。(台座破損部分を取り除いた状態) ストッパー金具が、今にも外れ落ちそうになっている。 勿論、この状態ではなく、輪行バッグから取り出した時には、ストッパー金具と台座破損部分が外れて、バッグの底に落ちてしまっていたので、下のような状態でした。(台座破損部分とストッパー金具が外れ落ちた状態) これでは、ハンドルを立てても上下を固定することができず、2枚目の写真の「折りたたんでいないトレンクル」のようにはなりませんから、自転車としての用をなさない。(台座破損部分の欠片とストッパー金具) まあ、人間で言えば、膝のお皿が割れ、上肢と下肢を連結する筋肉が断裂してしまって、足が立たないようなものか。 このような事故は以前にも起こしている。その時は、宅配便の輸送中ではなく、直江津から糸魚川への銀輪散歩で、糸魚川のホテルに到着して、自転車を折りたたもうとしたら、台座が割れていて、ストッパー金具が脱落したことで、そのことに気づいたのであるから、走行中の何処かで、台座が破損していたのであった。 その時にも写真撮影して、ブログにそのことを掲載しているので、同じような割れ方であることが分かる。<参考>直江津から糸魚川へ(その1) 2010.11.14.(上の参考記事掲載写真) 写真を比べてみると、よく似た割れ方をしている。 今回は、以前の割れ方に比べて、台座中央の切れ込み部分のより浅い部分から割れているので、破損欠片は少し小さめである。 いずれにせよ、この部分が割れやすいということを示している。 そんなこともあって、宅配便で送る時は、この部分を保護するクッション材で防護して、「ワレモノ」という区分指定をして送っているのであるが、今回は、「ワレモノ」指定はしたものの、クッション材での防護をしないまま送ってしまったのでありました。 輸送中に、この部分に何らかの強い衝撃が加わり、割れたということが考えられるが、長らくの使用で金属疲労を起こしていた可能性も否定できない。
2022.09.11
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11月18日午後7時5分、夕食。 夕食は、今日もお一人様鍋。豚肉の水炊き。 ご飯は茶碗3分の1程度の量。豚肉は4切れ、豆腐は3個、白菜・葱は少々、椎茸は1個、以上を完食。デザートに島バナナ1本。 食後の薬は、水素水で服用です。 午後10時3分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重55.1kg、体温36.3度、最高血圧118.5、最低血圧72。 血圧は、11日ぶりに2回共に正常測定値となりました。 ※1回目118/80(90)、2回目119/64(89)。 午後11時、就寝。 11月19日午前7時、起床。 朝の測定 体重54.9kg、体温36.4度、最高・最低血圧測定不能。 ※5回連続脈異常 1回目115/59(63)、2回目129/48(54)、3回目112/76(57)、 4回目111/56(55)、5回目113/59(58)。 午前8時5分、朝食。 朝食は、通常より量半分の「にゅう麵もどき」、島バナナ2本、ナシ半個。スターフルーツは3切れ食べたが、酸味が少しあるものの、甘味は殆どない平板な味で、殆どを食べ残す。 まあ、話の種にはなりますな(笑)。 見た目には、美味しそうなんだけど・・。(スターフルーツ) 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 午前9時12分、CBで外出。石切生喜病院循環器内科受診の日です。 先ず、銀行に立ち寄り、昨日の株式買い替えに伴う買取代金不足分見込み相当概算額を振り込み送金してから、病院に向かう。 午前9時47分、病院到着。(石切生喜病院の駐輪場) 先日のホルター心電図の検査結果を聴くための受診でもあったが、心臓に期外収縮が頻発しているとのこと。6回の収縮のうち1回の割合で期外収縮が発生しているらしい。 これを抑える薬(メインテート錠2.5mg)があるということなので、1ヶ月分を処方して貰い、様子をみることとしました。 午後1時23分、病院を出て、喫茶・ペリカンの家へ。 白身魚のフライ定食。完食でした。 昼食の後、ライフに立ち寄り、朝食用のパンとヨーグルトを購入。併せて、柿の種(わさび)や素焼きミックスナッツと「じゃこ気分」という名のカルシウム補充の煎餅などを購入。 午後2時40分、帰宅。 帰宅後、少し昼寝。 午後7時17分、夕食。 今日は、刺身がおかずだというので、ヤカモチも家族と同じものを食べることに。ご飯は茶碗に半分位の量を、鮪、鮭、鯛各2切れの刺身とみそ汁で完食です。デザートは、島バナナ1本、しらすとアーモンドのさくさくせんべい2枚。 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 午後10時14分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重55.9kg、体温36.5度、最高血圧101、最低血圧58.5。 ※1回目100/58(93)、2回目102/59(93)。 午後11時30分、就寝。 11月20日午前6時59分、起床。 朝の測定 体重56.1kg、体温36.0度、最高血圧108、最低血圧61。 ※但し、5回中4回が脈異常 1回目108/61(83)、2回目96/53(69)、3回目110/57(77)、 4回目115/58(71)、5回目107/55(73)。※1回目のみ正常測定値。 午前7時56分、朝食。 朝食は、アンパン1個、島バナナ1本、ナシ4分の1個、リンゴ4分の1個、安田ヨーグルト越後姫1本。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。今日から28日間、不整脈の薬であるメインテート錠2.5mg(毎朝食後1回)も服用開始であります。 12時、昼食。 昼食は、玉子焼きとみそ汁で、茶碗7分目程度の量のご飯を完食。 午後6時48分、夕食。 夕食のご飯は茶碗8分目位の量。少しずつ増やしています。 副菜はおでん。大根、ジャガイモ、玉子、ちくわ、厚揚げ各1個、それにみそ汁。大根を一口程残してしまいましたが、それを除いて全てを食べ切りましたので、少し食べ過ぎた感じです。 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 午後9時29分、入浴前、コップ1杯の水素水。 午後9時50分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重56.5kg、体温36.0度、最高血圧96.5、最低血圧54.5。 ※2回共に正常測定値 1回目96/54(82)、2回目97/55(82)。 午後10時35分、就寝。 11月21日午前7時、起床。 朝の測定 体重56.4kg、体温36.3度、最高・最低血圧測定不能。 ※5回連続脈異常 1回目124/70(64)、2回目126/55(54)、3回目 120/54(58)、 4回目131/51(63)、5回目110/60(64)。 午前8時15分、朝食。 朝食は、通常より半分の量の「にゅう麵もどき」、リンゴ半個、島バナナ1本、亀田の柿の種・わさび小袋1個、じゃこ気分せんべい2枚。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 午前11時45分、マイCBで外出。石切生喜病院リハビリ室受診のため。(石切生喜病院)(同上・駐輪場) 午前11時57分、病院到着。 12時5分、リハビリ室受付。 12時35分、リハビリ開始。 ストレッチの後、負荷をかけての膝の開閉運動、膝屈伸腹筋運動、仰臥姿勢でエビ反り背筋運動、四つん這い姿勢での片手片足伸ばしの運動、平行棒を前にしての屈伸スクワット運動と左右開脚運動などを行う。 結構、疲れて息が弾むと言うか、荒くなる。20分ほどで終了。 次回予約は11月25日(火)11時55分と決まる。 午後1時7分、会計を済ませ、病院を出て、ペリカンの家で昼食。アジフライ定食を完食。デザートは、ブルーベリー・ジュースとチョコレートケーキ。 午後1時54分、ライフで「くるみとメープルちぎりパン」1個と安田ヨーグルト越後姫2本を購入。(帰宅途上の道) 午後2時44分、帰宅。 通院とリハビリとで疲れたか、帰宅後少し昼寝。 午後6時50分、夕食。 夕食は、茶碗9分目位の量のご飯、笹蒲鉾3切れ、ホウレンソウの胡麻和え小鉢、エンドウ豆の玉子とじ、みそ汁。完食です。 デザートは島バナナ1本。食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 ということで、本日の記事はここまでとします。 本日より、記事カテゴリ「入院・通院・自宅療養記」を追加。<参考>入院・通院・闘病記はコチラ。
2025.11.21
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本日は大学同期のF君の声掛けで、F君、D君、Tni君、Tmu君、K君と小生の6名が集っての久しぶりの会食。ホテル日航大阪のロビーで待ち合わせ、地下の店で楽しく愉快なひと時を過ごしました。 声掛け人のF君は昨年某企業の役員を退任して、悠々自適の生活に入ったのであるが、久しぶりの来阪ということで、その呼びかけで小生以下5名が集ったという次第。 このF君、昨年の10月からブログを始めたというので、URLとハンドルネームを聴きだし、帰宅してから早速に覗かせていただき、ご挨拶コメントを入れて置いた。残念ながら、楽天ブログでないので「お友達登録」はできないのであるが、ブックマークに登録し、本ブログの「ホーム」のページに入口を表示するとともに、PCに「お気に入り」登録をして置いた。 ブログの内容はゴルフ・シングルプレーヤーらしく、ゴルフのことあれこれであり、この5年間ほどゴルフから遠ざかって居り、元々それ程ゴルフが好きでもなかった「けん家持」には、ちょっとお門違いの内容なのであるが、まあ、追々に、小生が混ぜ返してその他の記事も色々と書かせてみようか・・なんぞと思ったりもして居ります(笑)。 因みに、彼のハンドルネームは「楽老」であるので、今後はF君でなく、楽老氏または楽老君と呼ばせて貰うこととしよう。 <参考>楽老氏のブログ「ゴルフ浪漫街道・シングルへの道」 という訳で関連する写真は無いのであるが、難波駅から待ち合わせ場所のホテル日航大阪まで、ブラブラと御堂筋の一つ西の裏道を歩いて行ったので、途中にあった神社をアップして置きます。 ミナミを歩いていても、アメリカ村やそれらしき繁華街の写真でなく神社の写真である処が、いかにもヤカモチらしいのである(笑)(御津八幡神社) 万葉の頃、大阪市を中心とする広い地域が大伴氏の領地であったようで、難波津は、「三津」とか「大伴の御津」と呼ばれたのである。従って、この神社の名に「御津」とあるのも、家持と無関係ではないのであります。 おまけの写真。6日の我が先祖代々墓への墓参りの際の写真を二、三掲載して置きます。(墓からの眺め) 我が家の墓は生駒山系の山の裾、高台にある。だから眺めはよい。その分、墓参りは急坂を登ることとなり、「いい運動」にもなるのである。 上の写真中央のスタジアムは高校ラガーマン憧れの花園ラグビー場である。(同上) 上の写真、手前左手に近鉄瓢箪山駅が見える。遠景は大阪市内のビル街である。(ミモザの木) 墓参りのついでに、少し山裾の道を散策してみました。今日は「ミモザの日」にてもあれば、その際に撮ったミモザの写真も載せて置きましょう。 そう言えば、ホテル日航へ向かう道ですれ違った二人連れの女の子がミモザの花束を持っていました。誰かにプレゼントされたのでしょうな。バレンタインデーに続いてミモザデー、男には面倒な日がまた一つ増えてしまったようだ。(サンシュユ・山茱萸)<参考> サンシュユ
2010.03.08
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11月1日午後11時33分、夜の測定 体重55.1kg、体温36.0度、最高血圧110、最低血圧64。 ※5回中4回脈異常 1回目103/64(78)、2回目109/69(65)、3回目110/64(81)、 4回目100/60(78)、5回目102/56(66)。※3回目のみ正常測定値 11月2日0時20分、就寝。 午前4時49分、起床。 朝の測定 体重55.0kg、体温36.8度、最高血圧130、最低血圧69。 ※5回中4回脈異常 1回目120/59(77)、2回目118/54(68)、3回目123/70(69)、 4回目118/71(69)、5回目130/69(77)。※5回目のみ正常測定値 プレ朝食:バナナ1本、ミックスナッツひとつまみ、ひとくちセサミン・小魚カルシウム2個、コップ1杯の水素水。 午前7時56分、朝食。 朝食は、「にゅう麵もどき」と蜜柑1個、ヤクルト1本、亀田の柿の種梅しそ小袋1個。 食後の薬は、コップ1杯の水素水で服用。 まだ、コロナ陽性の体調不良を引きずっているのか、風邪症状(頭痛、鼻水など)が消えていないので、PL顆粒1包も服用です。 午前中は家でゴロゴロ。 12時13分、昼食。水炊き鍋の翌日お昼は雑炊というのがお決まりなので、雑炊に挑戦です。少し大きめの椀に熱い雑炊。 しかし、薄味にしているからなのか、ヤカモチの味覚が機能停止しているからなのか、何の味も感じられない。味というものが感じられない雑炊はそう多くは食べられない。椀1杯で十分です(笑)。 味覚異常に加えて、風邪症状の鼻詰まりで嗅覚が遮断されているというのが、その原因なんだろう。 午後7時40分、夕食。夕食は餃子にしました。何個食べたか記憶が曖昧ですが、5~6個程度だったかと。それにみそ汁。ご飯は茶碗に軽く七分目程度。最後にバナナ1本。 食後の薬はコップ1杯の水素水で服用。 午後9時40分、入浴後、コップ1杯の水素水。 夜の測定 体重55.8kg、体温37.1度、最高・最低血圧測定不能。 ※5回連続脈異常 1回目120/66(91)、2回目104/56(88)、3回目114/67(87)、 4回目116/68(89)、5回目117/63(88)。 午後10時33分、就寝。 11月3日午前5時31分、起床。 朝の測定 体重55.1kg、体温36.4度、最高・最低血圧測定不能。 ※5回連続脈異常 1回目118/68(71)、2回目121/73(69)、3回目115/59(69)、 4回目117/55(66)、5回目115/63(66)。 プレ朝食:バナナ1本、ひとくちセサミン小魚カルシウム2個、コップ1杯の水素水。 午前8時24分、朝食。 朝食は、味噌仕立ての「にゅう麵もどき」とヤクルト1本、洋梨2分の1個であります。 味噌汁を飲んでいて、味噌だと味が感じられるということに気が付いたので、両者をドッキングして味噌仕立てにしたのだが、味噌の量が少なかったのか、殆ど味は感じられなかった。 午前11時48分、CBで外出。昼食に出掛ける。 花園中央公園から近鉄・東花園駅前に出て、恩智川沿いの道を南へと走る。(近鉄奈良線・東花園駅前)(恩智川) 池島弥生橋の北詰には葦が群れて穂を風になびかせている。 近畿地方のこの日の風は木枯らし1号だとのこと。(池島弥生橋北詰の葦)(池島弥生橋) この橋をもう少し南(奥)へと進み、左手(東方向)を見ると・・。(セイタカアワダチソウとススキ) かつての好敵手、セイタカアワダチソウとススキとが仲良く寄り添っていました。前者が後者を駆逐してしまうのではないかと危惧されましたが、今は、セイタカアワダチソウも随分と温和になり、腰も低くなっているようです。(恩智川沿いのハナミズキの紅葉<グレース宣教会グレース大聖堂前) 高安近くで右折し、西に入った処にあった「蕎麦処・葵」で昼食としました。注文したのは、鴨南蛮蕎麦。苦くならないかという不安が脳裏をよぎりましたが、幸いにそういうことはなく、完食です。 もう少し南へ走ろうかと思ったが、小万知さんの「復路の余力を残してお楽しみください」を思い出して、引き返すことにしました(笑)。(東大阪市上下水道局池島配水場) 池島配水場が見える付近まで帰って来ましたが、この建物、いつ見ても何やら人間の顔のように見えてしまう。 東花園駅近くまで帰って来た頃には雨がぱらつき出したが、濡れてしまう前にライフ花園中央公園店に到着。 夕食用に彩り洋風幕の内弁当を購入。 また、今後の鍋料理用に牛肉と豚肉も購入。オヤツ用にミックスナッツとアップルパイも購入。明日の朝食は久しぶりにパンを食べたいと海老カツバーガーも購入。 午後2時14分、帰宅。コップ1杯の水素水。 本日はここまでとします。<参考>入院・通院・闘病記はコチラ。 近隣散歩関連過去記事は下記です。 近隣散歩(その1) 2009~2013 近隣散歩(その2) 2014~2025.10.31. 近隣散歩(その3) 2025.11~
2025.11.03
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偐家持が幼い頃から慣れ親しんだ神社、それが枚岡神社である。 自宅から徒歩数分の距離にある。 神社の裏手の道は生駒山上への登山口でもあり、休日にはハイカーの姿がよく目につく。 毎年10月14・15日の秋祭(正式には「秋郷祭」というらしい。)には、近郷の村々から布団太鼓台が出て賑うが、小学生の頃には、この太鼓台に乗って太鼓を叩くというのが楽しみで、太鼓の音が聞こえてくると、教室にいても先生の話など耳に入らず、我が村の太鼓台は今頃どの辺りを練り歩いているものやらと、そればかりが気になって、真赤な、勇壮華麗な太鼓台の姿を思い描いて、気もそぞろという状態であったことが思い出される。(秋の祭の、太鼓台の写真は2007年10月15日の記事をご参照下さい。) この神社の縁起によると、神武東征の折に、国土平定祈願のため、天種子命が勅命を奉じて、現社殿の裏東方の山、神津嶽の頂上に、天児屋根大神(アメノコヤネノミコト)と比売大神(ヒメオオカミ)を祀ったのが、その起源である。 現在も、神社の裏手から「府民の森」へのハイキングコースを辿って、神津嶽に登ると、山頂に「枚岡神社創祀の地」の碑があり、小さな祠がある。 その後孝徳天皇の時代、白雉元年(650年)に、平岡連などが現在地に社殿を造営、山上の二神を奉遷したとのこと。春日大社はこの地から天児屋根命を招致して祀っていることから、この神社は元春日とも呼ばれる。 桓武天皇の父で志貴皇子の子になる光仁天皇の時代、宝亀9年(778年)香取の経津主大神(フツヌシノミコト)、鹿島の武甕槌大神(タケミカヅチノミコト)勧請奉斎し、以来、春日大社と同じ四神を祀っている。 中世よりは、河内国の一の宮として河内一円の諸衆の信仰を集めているという、由緒ある神社である。
2008.07.12
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昨日は大阪も雪景色になりました。 先般の雪の時は入院中であり、病室の窓から眺めたきりでありましたが、今回は自由の身、枚岡梅林や枚岡神社の雪を見に外へ出てみました。午後遅くなってからであったので、かなり融けてしまっていました。 雪が滅多に降らぬ地に住んでいると、雪は「雪景色」というものとなり、「雪見」なんぞという言葉さえも生まれるのである。芭蕉さんも「馬をさへながむる雪の朝(あした)哉」(雪の朝というのは何もかもが新鮮で、旅人ばかりかその馬をさえ、普段と印象が違って、じっと眺めてしまう。)と吟じて居られますが、総じて我々は、そのようなのである。 もっとも、地域によっては、足止めを食ったり、大渋滞を引き起こしたり、便欠航で空港で一夜を明かしたり、事故に巻き込まれたりと、色々の難儀を生じさせた今回の雪でもあれば、そう呑気なことを言って居ては不謹慎の謗りも免れぬ処だが、雪国暮らしでないヤカモチとしては雪を目にすると自ずと心そわそわと「さやぎて」ということになってしまうのは、仕方なきことなのではあります。(2014年2月14日の雪)(同上・枚岡神社)(同上・枚岡梅林) ついでに、芭蕉さんの「雪」の句を列挙して置くこととしましょう。 はつゆきや幸庵(さいはひあん)にまかりある(待ちに待った初雪だが、幸いにも私は庵に居合せている。)初雪や水仙のはのたはむまで(水仙の葉がたわむほどに初雪が降り積もっている。)面白し雪にやならん冬の雨(面白いことに、冬の雨は雪に変りそうだ。)初雪に兎の皮の髭つくれ(初雪には兎の皮で付け髭を作って兎の気分になれ。)初雪やいつ大仏の柱立(はしらだて)(もう初雪が降り出した。大仏殿の柱立てはいつのことになるのやら。)はつ雪や聖小僧(ひじりこぞう)の笈(おひ)の色(初雪の中を行く行脚僧の笈の色は長旅を示すように色褪せている。)雪をまつ上戸(じやうご)の顏やいなびかり(稲光が走るたびに、雪を待つ上戸たちの顔が照らしだされる。)初雪やかけかゝりたる橋の上(初雪が架けかけの橋の上に積もっている。)たはみては雪まつ竹のけしきかな(この絵の竹はよくたわんでいて雪を待っている風情である。)霰まじる帷子(かたびら)雪はこもんかな(霰まじりの帷子雪は霰小紋のようだ。)時雨をやもどかしがりて松の雪(時雨はいくら降っても松の葉を紅葉させることはない。それをじれったく思って松は雪をかぶってしまった。)しほれふすや世はさかさまの雪の竹(雪の重みで竹が節をさかさまに萎れ伏している。子に先立たれたあなたのように。)波の花と雪もや水にかえり花(海に降り込む雪は水にもどって、波の花となって返り咲くのだろうか。)富士の雪盧生(ろせい)が夢をつかせたり(雪をかむった富士の姿は露生が夢で築かせた白銀の山のようなものだ。)今朝の雪根深(ねぶか)を薗(その)の枝折(しをり)哉(今朝はあたり一面の雪、頭を出している葱が畑の目印になっている。)雪の朝独リ干鮭(からざけ)を噛(かみ)得タリ(雪の朝に独り私は干し鮭を噛み得ている。)黒森をなにといふともけさの雪(黒森(くろもり)の由来を何と言おうが今朝の雪ですっかり白森だ。)馬をさへながむる雪の朝(あした)哉(上記参照)市人(いちびと)よ此(この)笠うらふ雪の傘(市に集まっている人々よ、この笠をあなたがたに売ろう。この雪の積もった笠を。)雪と雪今宵師走の名月歟(雪と雪が照り合って、今宵は師走なのに中秋の名月のような明るさだ。)君火をたけよきもの見せむ雪まるげ(君は火を焚け。私はよいものを作ってみせよう。雪の大玉を。)京まではまだ半空や雪の雲(京まではまだ道の半ば。中空には雪雲が居座っている。)ゆきや砂むまより落(おち)よ酒の酔(よひ)(下は雪の砂地だ。馬より落ちてみなさい。酒の酔いも醒めるから。)磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花(研ぎ直された鏡も清らかで、折しもそこへ雪が花のように降りかかる。)箱根こす人も有(ある)らし今朝の雪(今朝は雪。この雪の中を箱根を越えて行く人もいるらしい。)いざ行かむ雪見にころぶ所まで(さあ、雪見に行こう。転ぶ所まで、どこまでも。)酒のめばいとど寐(ね)られね夜の雪(酒を飲むといよいよ眠れなくなる雪の夜であることだ。)二人見し雪は今年もふりけるか(去年二人で見た雪は今年も降っただろうか。)少将のあまの咄(はなし)や志賀の雪(をのがねの少将と尼の話を聞いている中、ここ志賀の里には雪が降っていることだ。)ひごろにくき烏も雪の朝(あした)哉(日頃は憎らしく思っている烏も、雪の朝は風情がある。)貴(たふと)さや雪降(ふら)ぬ日も蓑と笠(尊いことだ。雪降らぬ日にも蓑と笠を身につけている小町の画像は。)比良(ひら)みかみ雪指(さ)シわたせ鷺の橋(比良山と三上山の間に、鷺よ、翼並べて、雪のように白い橋、鷺の橋を、さし渡せ。)雪ちるや穂屋(ほや)の薄(すすき)の刈(かり)残し(雪が降り散る枯れすすきは穂屋を作った際に刈り残したものだろうか。)庭はきて雪をわするゝはゝきかな(庭の雪を掃きながら、雪のことは忘れて、ただ無心に箒を動かしていることだ。)
2014.02.15
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本日は、月例の墓参。 月例の墓参は毎月上旬の土日の何れかと決めているが、今月は本日7日となりました。今年も残り僅かとなりましたが、年末28~30日頃に、もう一度、今年最後の墓参をして、新年を迎えることとなります。 墓へは結構な勾配の坂道を上って行きます。所々にこのような昔ながらの佇まいの家があるのもいい。(墓地への道A )(同上B) 上の写真Bの家の西隣の家の庭先に、下のような実が生っていました。見た瞬間は何の実だろうと思いましたが、バラの実であることに思い到りました。バラも種類が多く、このバラの実は棘がビッシリ。何と言うバラであるかまでは小生には分かる筈もないことである。(何の実?) 蝋梅も辛夷も蕾が少し膨らんで、早くも春の備えをしている風。よく見ると気の早い蝋梅の花が一輪、二輪、既に咲いているものもある。 上の写真Bの家の向かい側がお寺である。その門前に貼り出された言葉は、今日はこんなのでありました。(今日の言葉) 悩むことは、本人にとっては「辛いこと」「苦しいこと」であるのでしょうが、それは、思索を深め、感性を磨き、心を成長させる営みでもあれば、それを「負」ととらえず「尊いこと」と思いなすだけでも、悩みの幾分かは軽減されるというものでしょうな。悩み事は解決するに越したことはないが、解決しなくても、悩むことによってなにがしかのものを人はそこから得ている、ということでもある。 ホモ・サピエンスはホモ・クーラースでもある(笑)。(墓地) 墓地の南側の藪の向こうには東大阪市立郷土博物館がある。前はよく通るがもう長らく中に入ったことがない。 娘が小学1年生だった頃の夏休み、大阪南港からフェリーで九州へ向かったことがあったが、夕刻の出航まで時間があるので、長居公園にある大阪市立自然史博物館に立ち寄った。そこには恐竜やナウマン象の骨格復元標本などが展示されていたが、彼女にはそれが印象に残ったようで、夏休みの宿題の絵日記のその日の日記に、家族と郷土博物館に行って恐竜の骨を見ました、というようなことを書いた。彼女にとっては「博物館」は全て「キョウドハクブツカン」であったのですな。まあ、小学1年生には「キョウド(郷土)」の意味は分かるものではなく、博物館という言葉の意味も正しくは理解できていない。よって、何やら色んな物が展示してある建物は「キョウドハクブツカン」と言うのだと思っていたのでしょう。小6の兄に笑われて彼女は「キョウド・ハクブツカン」だと言うことを知り、このような展示用建物は「ハクブツカン」というのだということを学んだという次第。(墓地からの眺め) 墓地からの眺めはいつもの通り。近鉄電車が瓢箪山駅を出て東花園駅へと向かっているのが見えます。線路の左に見えているのは恩智川。恩智川は写真の左方向から流れて来て、東花園駅前で直角に東(こちら)方向に向きを変え、瓢箪山駅の西側でまた直角に向きを変えて北方向(右側)へと流れています。
2014.12.07
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本日(22日)は秋に案内を依頼されている万葉ウオークの下見を兼ねて、珍しく自転車を自宅に置いて、奈良を「足」で歩いて来ました。 コースは、近鉄奈良駅集合・出発で、氷室神社→吉城川→水谷神社→春日大社→新薬師寺・鏡神社・比賣神社→能登川→白毫寺→崇道天皇社→御霊神社・元興寺塔跡→元興寺極楽坊→猿沢池・采女神社→率川神社→近鉄奈良駅解散という7~8kmの行程である。(近鉄電車・万葉車両)(同上) 万葉ウォークの下見とあって、乗った電車も万葉調でありました。まあ、この車両は随分以前から走っているもので珍しくもないのですが。(氷室神社)(同上)(吉城(よしき)川) 吉城川は、若草山と御蓋山との間に源を発し、西流して佐保川に合流する川。源流から春日山原始林を流れている間は水谷(みずや)川と呼ばれ、東大寺南大門前を流れる辺りから吉城川と称される。 水谷川上流に「月日の磐」がある。これは奈良時代・和銅年間に氷室が置かれた跡で、都祁の氷室の神をここに遷し、この地の氷池で製氷し貯蔵した。国立博物館向いの氷室神社は、元はここにあったとのこと。 吉城川は、万葉集では宜寸川と表記され、歌が1首ある。我妹子(わぎもこ)に 衣(ころも)春日(かすが)の 宜寸川(よしきがは) よしもあらぬか 妹が目を見む (巻12-3011)(あの娘に衣を貸したいけれど、あの娘に逢う何かいい口実はないものだろう か。)(同上) 東大寺南大門前から吉城川に沿って上流へ歩き、浮雲橋を渡り、新公会堂の前を過ぎて、水谷茶屋の処で、若草山の前から続いて来る歴史の道に入り、水谷神社を経て、春日大社へ。(春日大社)(同上) 春日大社の二の鳥居前から森の小道に入る。(下の禰宜道) この道は、通称「ささやきの小道」、志賀直哉旧居へと行ける道であるが、今回歩く道はこの先の「中の禰宜道」である。 森を抜けて、地獄谷から下って来る道を渡り数分行くと新薬師寺である。(比賣神社) 新薬師寺の門前に十市皇女を祀る比賣神社と藤原広嗣を祀る鏡神社がある。 十市皇女は天武天皇と額田王との間の娘。天智天皇の息子(弘文天皇)の妃となるが、壬申の乱で夫と父とが戦うこととなり、夫が敗れて死ぬ、という、まあ、お市の方に似ていなくもない悲劇の女性であります。彼女自身の歌は万葉にはありませんが、彼女のことを詠った万葉歌はいくつかある。十市皇女(とをちのひめみこ)、伊勢神宮に参赴(まゐむ)きし時、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹?刀自(ふぶきのとじ)の作れる歌川上(かはのへ)の ゆつ岩群(いはむら)に 草むさず 常にもがもな 常処女(とこをとめ)にて (巻1-22)(川のほとりの神聖な岩々に草が生えていないように、いつまでも変ることなく あって欲しい。おとめのままの姿で。) 新薬師寺の前の喫茶店で昼食。この店の未だお若いオーナー氏は自転車がご趣味のようで、ロードバイクや様々の自転車グッズが店を飾ってある。(能登川)能登川の 水底(みなそこ)さへに 照るまでに 三笠の山は 咲きにけるかも(巻10-1861)(能登川の水の底までも照り輝かせるほどに、三笠の山は花が咲いていることだ。)(注)おおかたの説は桜の花とするが、山吹の花とする説(土屋文明「万葉 集私注」)もある。 コースからは外れるが、赤乳神社350mという表示があったのでちょっと寄ってみる。途中に中尾谷地蔵尊という由来などは知らぬお地蔵さんがあり、その先に小さな祠。(中尾谷地蔵尊)(赤乳神社) 腰より下の病気から守って下さる神社らしい。更に300m程行くと腰より上の病気から守って下さる白乳神社もあるらしいが、引き返すこととしました。(宅春日神社) これは、我が家の近くの枚岡神社と同じ天児屋根命と比賣大神とを祀っている神社なので、ちょっとご挨拶。 道の先に若い男性が一人で歩いて行くのが見える。服装から、先程昼食した店で小生の後から入って来た若者のようだ。どうやら、彼も白毫寺へ向かっているよう。白毫寺前の坂道で追いついて声を掛ける。千葉からやって来た明治大学商学部の学生さんであった。旅は道連れとて、しばらく彼と一緒に歩く。ついでに白毫寺境内の犬養万葉歌碑や志貴皇子のことなどを説明して上げたりしながら。 白毫寺は志貴皇子の別荘であった場所である。そして境内にある犬養万葉歌碑の下記の歌は志貴皇子の葬送の情景をドラマチックに詠い上げた笠金村の長歌(挽歌)の反歌の一つである。高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに (笠金村 巻2-231)(高円の野辺の秋萩はむなしく咲いては散っているのだろうか。見る人もいないのに。)(白毫寺) 白毫寺を出て、崇道天皇社から「なら町」を散策、喫茶店でかき氷を食べ、猿沢池でこの若者とは別れ、小生は率川神社へと向かうのだが、もう文字数制限一杯です。これにて以下省略です。(徳融寺)(采女神社)(率川神社)<参考>昨年のウォークの記事 <追記・注>「能登川」及び「百毫寺」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.22
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27日は朝8時20分鳥取駅前のホテルを自転車で出発。鳥取砂丘に向かう。袋川に出て、袋川沿いの道を川下へと走る。(袋川沿いの道・鹿野橋付近) 国道53号線が走る湯所橋に出た処では車の往来が激しく、横断歩道もないので、右か左に迂回しなければならない。で、コース変更。国道を左(北西)に進み、丸山交差点で県道318号線に入ることとする。 県道を600mほど北東に進んだ処で「原爆慰霊碑・平和の塔」の案内表示板が目に入ったので立ち寄ってみることに。(八幡池) 行って見ると八幡池という大きな池があり、水面が朝日にキラキラ輝いているのでありました。池の畔には「平和」と刻された慰霊碑と広島平和公園の被爆アオギリの種を発芽させたという被爆2世アオギリの木がありました。(慰霊碑は撮影した心算でしたが、カメラには残っていなかったので、どうやら撮り忘れていたよう。) この碑は、原爆投下40周年となる1985年に核廃絶・平和を祈念して県民の浄財により建立されたとある。(被爆二世のアオギリ) 国道9号線の下を潜った辺りから道はゆっくりと左にカーブしつつ上り坂となり、砂丘大橋に差し掛かる。眺望もよくなり、市街が見下ろせるようになって、やがてトンネルになる。砂丘トンネルである。(砂丘大橋から丸山方面を望む。) 砂丘トンネルの手前で道路脇に白い花が。コウヤボウキである。これは万葉に出て来る花。たまばはき(玉箒)である。始春(はつはる)の 初子(はつね)の今日の 玉(たま)箒(ばはき) 手に執(と)るからに ゆらく玉の緒 (大伴家持 巻20-4493)(初春の初子の日の今日の玉箒は、手に取っただけで玉の緒が鳴ってすがすがしく 美しいことです。) (注)「たまばはき」については、クサネム、ホウキギ、メドハギ、ヤハズソウ だとする異説がある。(コウヤボウキ)(砂丘トンネル) 砂丘トンネルを出ると左に因幡自転車道の起点がある。この自転車道は砂丘を掠めて袋川に出て、千代川との合流点で千代川沿いに上流へ、片山までの約20km余の道である。28日にこの道を一部走ってみることにし、この日は有島武郎の歌碑を見に行くため、少しだけ先まで行ってみることとした。(因幡自転車道)(こどもの国) 途中に「こどもの国」があって、D51の蒸気機関車が園の前庭広場に展示されていました。トイレ休憩に立ち寄る。 自転車道は「こどもの国」園地の外周に沿って走っているので、園の駐車場から自転車道に戻る。自転車道と一般道路が接する地点に「武郎晶子沱涙の地」と刻された碑があり、その奥に与謝野晶子の歌碑がある。(武郎晶子沱涙の地碑)(与謝野晶子歌碑) 左側が晶子の歌で右側が有島武郎の歌だろうか。字が読みづらくてよく分らない。左側の歌は、昭和5年に与謝野鉄幹・晶子夫妻が砂丘を訪れた際に、先に心中した友人の有島武郎のことを偲んで詠んだ歌だそうな。沙丘踏み さびしき夢に 与かれる われと覚えて 涙ながるる 右側の歌は、「濱坂の遠き砂丘の中に・・」と読めるので、武郎の歌だろう。武郎のこの歌の歌碑は案内地図板を見ると少し道を戻った処にある。「こどもの国」に立ち寄ってショートカットしたので、やり過ごしてしまったようだ。(有島武郎歌碑)浜坂の 遠き砂丘の 中にして さびしき我を 見出でけるかも この歌は、大正12年4月、水脈社主催の自由大学講座の講師として鳥取にやって来た有島武郎が、30日に砂丘に案内されて詠んだものだそうな。この後、帰京した武郎は6月9日軽井沢の別荘で愛人と情死してしまう。そんな次第でこの歌は武郎の遺歌として注目を集め、鳥取砂丘も有名になったとのこと。 武郎の歌碑から少し自転車道を戻った処に駐車場へと下る道があり、駐車場前から、砂丘へと入って行けるので、自転車を担いで砂丘へと入る。リフトのある砂丘入口からは1kmほど西側になるので、観光客も殆ど居ない場所である。(鳥取砂丘)(風紋1)(風紋2) 観光客が歩き回る東側と違うので、所々草が生えていたりもするが、小生にはその方が興味深い発見があるというもの。(ハマニガナ1)(ハマニガナ2)(ハマゴウ1) ハマゴウはブログ友のビッグジョンさんのブログで知った名前である。(ハマゴウ2)(ウンラン1) これは、たまたま砂丘で行き合った、立派なカメラをお持ちのご夫妻と思しき年配のお二人連れの男性の方から声を掛けられてそば近くまで行ってみると咲いていた花で、「ウンラン」だと教えて戴いた。珍しい花でそう簡単には見つからないのだという。(ウンラン2) 砂丘入口から浜辺まで直線で1.2km位の距離。この後浜辺まで歩いて行くのであるが、文字数制限一杯となりましたので、本日はここまでとします。続きはまた明日です。 <追記・注>縦長写真(「被爆二世のアオギリ」の写真)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月28日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.10.29
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1.大学同期会 一昨日(11月25日)は、大学の同期の集まりが心斎橋でありました。 久し振りに夜の繁華街を歩きました(笑)が、何かしっくりしないのは、銀輪野歩きを専らとする生活が身についてしまったということでありましょうか。 さて、この同期会は入学年次を同じくする者の集まりであり、卒業年次は少し違う者もいますな。何年か前から集まり出して、最近は5月と11月を定例に集まっている。 関西に在住する同期で連絡のつく者たちに声掛けしての有志の集まりでありますから、同期会というのは少し僭越かも知れませんね(笑)。 現在声掛けしているのは23名。今回はそのうちの11名(小◎君、佐◎君、谷◎君、道◎君、古◎君、前◎君、守◎君、山◎A君、山◎B君、油◎君と小生の11名)が出席でありました。 小生の頃は法学部の1学年の定員が100名でありましたから、これでも10パーセント以上の人数にはなるのであります。2.中学同期会 本日(11月27日)は、中学校の同期会でありました。一昨日の大学のそれと違って、学年全体に案内しての、正真正銘の同期会である。(受付付近) こちらは、昼間の開催。会場は上本町のシェラトン都ホテル大阪。天気も問題なかったので、ヤカモチはMTBで出掛ける心算でいましたが、朝のんびりしているうちに自転車では遅刻かもという時間になってしまっていて、電車で出掛けました。 小生と同じクラスの者は、金◎、田◎、谷◎、森◎と小生の5名。前回の平成19年の同期会では全体で100名を上回る出席がありましたが、今回は50名余と半減。事前の声掛けが不十分であったようです。 学年全体では500名程度ですから、全体の出席率も10%程度であった訳で、我がクラスだけが低調というのではありませなんだ。それでも、同じクラスの面々は勿論、杉◎君、西◎さん、藤◎さん、石◎君、栗◎君その他色々と懐かしいお顔を拝見することができたのは嬉しいことでありました。 もっとも、顔を拝見しても誰とも分らぬ方が多く居られましたが、それは経年変化の故と言うよりも、一学年500名を超える多数の所為であったということにして置きましょう。 お開きは2時頃、二次会どうのこうのという声も何処かでしていましたが、ヤカモチは、「大阪秋の陣」の投票もあるので、帰途に。帰りは谷◎君と瓢箪山駅まで一緒になり、あれやこれやの雑談をしているうちに、駅に着きました。 帰宅してから府知事選の投票に行って来ましたが、さて、「大阪秋の陣」の結果はいかが相なりますやら。
2011.11.27
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昨日は銀杏の落ち葉散り敷く道を銀輪散歩し、黄色の世界を堪能致しましたが、「銀杏」で思い浮かぶ短歌と俳句は・・と思い返すも意外に浮かんでは来ない。金色の ちひさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に(与謝野晶子) と鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺 (夏目漱石)位なものでしょうか。(大阪城公園の銀杏) 考えてみれば、銀杏は万葉集には登場しない。古今集や新古今集には登場するのかどうか、調べてはいないので知らないが、古歌とはあまり馴染まないのが「いてふ」のようでありますな。 何でも、銀杏は中国原産で我が国には平安時代から鎌倉時代にかけて入って来たとされているようです。源実朝が殺されたのは鶴岡八幡宮の銀杏の大木の陰に隠れ潜んでいた公暁によってでありますから、鎌倉時代には銀杏の大木が存在する状況であったことになる(笑)。 藤原定家は知っていたが大伴家持は知らなかった。それが銀杏でありますな。万葉で「もみぢ」と言えば「黄葉」と書くのが一般的で「紅葉」と書くのは1首あるのみとのこと。奈良時代に銀杏の木が普通に見られる状況であったら、大伴家持もきっと「銀杏」の歌を詠んだに違いないと思うのですが、残念です(笑)。しぐれたる のちの晴れ間を いざ行かな もみついてふの 葉の照るも見む (偐家持) (本歌) この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)(同上)(同上) 街路樹に最も多く採用されているのが銀杏の木であるらしい。大阪の御堂筋がまさにそれですな。それかあらぬか銀杏は大阪府の木でもあり、大阪大学の木でもある。そして八尾市(大阪府)の木も銀杏だそうな。(同上)(同上)(同上)
2012.12.06
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クヌギの黄葉も日に照りて輝くと、なかなかに美しいが、カエデやイチョウなどのように、この「もみぢ」をわざわざ見に行く人は居ないだろう。 美しいと言っても、それは夜目遠目の類で間近くで見るとそれ程美しくもなく、いかにも地味なのであるから、致し方のないことである。 そんなクヌギであるが日に照らされて美しく輝く一瞬もあるので、今日はそのようなクヌギの黄葉をご紹介して置くことと致しましょう。もみぢなるは かへでいてふと 人は言へ われつるばみも よしとや言はむ (偐家持) (クヌギの黄葉) クヌギの実(ドングリ)のことを万葉では「つるばみ」と言う。 もっとも、「つるばみ」については、クヌギではなくトチノキやイチイガシのことであるとする説もあるようですが、此処ではクヌギ説を採用して置きます。 クヌギは炭焼きの炭の材料になったり、薪として利用されたり、椎茸栽培の原木に使われたりと人々の生活に密着した樹木である。里山にこの木が多いのも古来人々に利用されて来た有用な木であるからだろう。クヌギという名も「国木」が訛ったものだという説もある。 (同上) (クヌギの巨木) そのような生活に密着した木は万葉歌には相応しい木であるというべきであるが、古女房とかの喩えにも使われたりしているのは、まあ、この地味な木ならではと言うべきですかね。橡(つるばみ)の 衣(きぬ)は人皆 事無しと いひし時より 着欲しく思ほゆ (万葉集巻7-1311)<つるばみ染めのように目立たない衣が無難であると皆が言うので、それを聞いた時以来それを着たいと思うようになったことだ。>橡の 解濯衣(ときあらひぎぬ)の あやしくも 殊に着欲しき この夕(ゆふべ)かも (同巻7-1314)<つるばみ染めの粗末な衣の、それもほどいて洗い直したのを、不思議にも、とくに着たいと思われるこの夕暮れであることだ。>橡の 袷(あはせ)の衣(ころも) 裏にせば われ強(し)ひめやも 君が来まさぬ (同巻12-2965)<つるばみの袷の衣を裏返しにするような態度ですから、来て欲しいと無理強いなど、どうしてわたしが致しましょうか。それにしてもあなたはいらっしゃらないのですね。>橡の 一重の衣(ころも) うらもなく あるらむ兒ゆゑ 恋ひ渡るかも (同巻12-2968)<つるばみの一重の衣のよいうに裏もなく無邪気に私のことを気にもかけていないあの娘なので、私は恋続けることだ。>橡の 衣(きぬ)解き洗ひ 真土山(まつちやま) 本(もと)つ人には なほ如(し)かずけり (同巻12-3009)<つるばみの衣を解いて洗って打つ槌の真土山ではないが、元々の人がやはり一番いい。>紅(くれなゐ)は 移ろふものそ 橡の 馴れにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (大伴家持 同巻18-4109)<紅色は華やかだが直ぐに色褪せてしまうものだ。つるばみ染めの慣れ親しんだ衣に及ぶものではない。>
2013.12.03
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(承前) 今回の銀輪散歩は、山上憶良の万葉歌碑が近くにあるかと調べていたら、この八尾第一万葉植物公園にある、ということでやって来たもの。 他には、万博公園の「万葉の里」に1基、春日大社の北参道に2基あるようだが、思った以上に歌碑は少ないようだ。大伴家持は和歌のことを「山柿の門」と呼んだが、その「山」とは山上憶良のことだともされる歌人にしては少ないのは「社会派」と称されるその歌風によるのだろうか。 それはさて置き、八尾第一万葉植物公園は、国道170号(旧道)脇の恩智神社一之鳥居を潜って東へ、恩智神社への参道の坂道を上って行く途中、右に少し入った処、恩智城趾公園の東側に隣接して、ひっそりとある。 恩智城趾や恩智神社は別のページで取り上げることとし、歌碑の未掲載分を紹介して置きます。 17.もも<モモ>春の苑 くれなゐにほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ (大伴家持 万葉集巻19-4139)18.をばな<ススキ>人皆は 萩を秋といふ よし吾は 尾花が末(うれ)を 秋とはいはむ (万葉集巻10-2110) 19.つつじ<ツツジ>水伝ふ 磯の浦廻の 石(いは)つつじ もく咲く道を また見なむかも (草壁皇子の舎人 万葉集巻2-185)20.やなぎ<ヤナギ>うちなびく 春立ちぬらし わが門の 柳の末(うれ)に 鶯なきつ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1819) 21.つばき<ツバキ>巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を (坂門人足 万葉集巻1-54)22.まゆみ<マユミ>南淵の 細川山に 立つ檀(まゆみ) 弓束(ゆづか)まくまで 人に知らえじ (万葉集巻7-1330)<参考> カテゴリー「万葉」の記事はコチラからどうぞ。
2014.01.12
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昨日(1日)は墓参でした。 毎月の墓参恒例の門前の言葉。今月はこんな言葉でした。 近頃は夜も闇ではないので、「夜明け前の闇」も「百鬼夜行」も、都会にあってはリアリティを持たない。 それはともかく、夜も明け、既に日は高く昇ってからの墓参でありましたが、その道すがらに見た草木などをご紹介して今日の記事とします。(今月の言葉)※拡大画面はコチラ この門前の言葉の寺から少し行った処の民家の庭先にあるのが棗の木。最近は昔ほどナツメの木は見かけなくなったので、墓参の際にこの木を眺めて行くのが、楽しみと言うか、何となく習慣になっている。ナツメと言う名は夏に芽を出すからとも夏梅の省略形だとも言われる。夏芽説と夏梅説である。夏目漱石が何れの説に組したかは不明である(笑)。(棗・ナツメ)※拡大画面はコチラ(棗の実)※拡大画面はコチラ 実はすっかりいい色になっているので、食べ頃かと思うが、他人様の庭先の木。断りもなく摘んで口に運ぶのもよろしくなかろうと、眺めるだけである。道教では、棗の実は不老長寿の薬効があるとされ、仙人の食べ物である。 (同上)※拡大画面はコチラ しかし、1299歳のヤカモチ。既にして仙人みたいなものだから、今更これを食べて更なる長寿を願う気はないのであります。子どもの頃に食べた記憶では、林檎のような味であったかと。水分のいささか抜けたスカスカの林檎の味と言えばよいだろうか。花は初夏に咲き、小さな黄色の花である。枝にくっつくようにして咲く(下記<参考>を参照)。 ナツメを詠んだ歌は万葉集に2首あるが、古今集以下新古今集までの八代勅撰集には登場しないので、歌には馴染まないと言うか、風流や雅とは無縁の植物であったようです。<参考>墓参・花散歩・姫蔓蕎麦からアメリカデイゴまで 2016.6.4.(同上)※拡大画面はコチラ このナツメの家から更に少し坂を登った処にあるのがムクロジの古木。 先日、オオモクゲンジの実をご紹介したが、オオモクゲンジはムクロジ科の植物。言わば、ムクロジの親戚みたいなものである。ということで、以前にもムクロジは紹介しているのであるが、あらためてとりあげることとした次第。<参考>オオモクゲンジの記事 道の辺の壱師の花と木欒子 2017.9.27. ムクロジの記事 ムクロジ(無患子)・銀輪花散歩 2013.4.13. 幻想のムクロジ 2013.4.20. 墓参・ロウバイ・ムクロジ、河内寺廃寺跡 2016.12.28.(ムクロジの木)※拡大画面はコチラ(ムクロジの葉)※拡大画面はコチラ 葉もオオモクゲンジと同じような付き方で形も似ている。しかし、実の姿形は全く違っている。まあ、親戚とは言え、「かいもんこうもくかぞくしゅ(界門綱目科属種)」と高校「生物」で呪文のようにして覚えた階級分類に照らしても、科が同じという程度では、かなり遠い親戚と言うべきですから、当然でありますな。 この実にはサポニンが含まれるので水に溶かすと泡立つ。石鹸として古代の人は利用したと言う。平安時代にはそういう使われ方が既にされていたと言うから、紫式部も清少納言も和泉式部もこれを利用したということになるのでしょう。(ムクロジの実)※拡大画面はコチラ 実が熟して来ると、黄色味を帯びた半透明の、樹脂のような感じになるのであるが、若い実はこのようにツルリとした光沢のある浅い緑色なんですね。高木なので、実は地に落ちたものを拾って見たことがあるだけで、このような若い実は未だ手に取って見たことがない。今回も、手の届かぬ高所に実がなっていたので、写真に撮るだけであります。 (同上)※拡大画面はコチラ 次はアキニレ。秋楡である。この木は、ノコギリクワガタなどがよくいる木として、子どもの頃は、この木の樹液がしみ出している穴などを覗いて回ったものだが、近頃はクワガタムシそのものを殆ど見かけないから、そういうことをする子どももいないのでしょう。 (アキニレの実)※拡大画面はコチラ アキニレと言うから、ハルニレも勿論ある。春に花咲くのがハルニレ。秋に花咲くのがアキニレ。実に分りやすいのであるが、花の時期を外せば、ハルニレかアキニレかの区別などは小生には無理。ただ、ハルニレは寒冷地に多く、アキニレは南方系の植物ということで、西日本に多いらしいから、関西でニレを見たらアキニレと考えていいのだろう。ハルニレに比べてアキニレは樹高が低いとのことだが、これを以って目の前にあるニレを春か秋か判別することは無理があるだろう。(同上)※拡大画面はコチラ で、その花であるが、下の写真に写っている、種苞の先端に見える白いものがそれなんだろうか。カメラワークがイマイチにて鮮明には写っていませんが、次に機会があれば、もう少しピント合わせを上手くして、その姿がよく分かる写真を撮りたいものと思う。何しろ小さいものですからね。(先端の白いものはアキニレの花でしょうか。)※拡大画面はコチラ<参考>ハルニレ、アキニレの記事 ハルニレの葉に赤い花 2016.5.23. 墓参・花散歩(ツユクサなど) 2016.10.1. 風の音秋は葉ぞ匂ふ 2015.10.20. 白い花と言えば、イタドリです。路の辺の壱師の花のいちしろく・・という万葉歌の「壱師」はヒガンバナというのが一般的というか、有力説であるが、このイタドリの花のことだとする説も、この花の咲いている姿を見ると、捨てがたい気がします。 「いちしろく」というのは「いち白く」ではなく「いちしるく」などとも言うように、「いちじるしい」という現代語にも通じる言葉で、よく目立っている様を表す言葉なのである。だから、花の色は関係ないのであります。しかし、白くて目だっている花の方が「いちしろく」という語呂とは合うので、今風には目立つ「白い花」の方が相応しい感じがすると言うものではある。(イタドリの雄花)※拡大画面はコチラ<参考>イタドリの記事 いたどり・すかんぽ 2008.9.14. 京都から奥琵琶湖へ(3) 2010.10.1. 続・銀輪の風も秋なり花遍路 2014.9.17. 銀輪花散歩・秋づけば 2016.9.17.(同上)※拡大画面はコチラ(同上)※拡大画面はコチラ 次は棉の実と花。これは、道の辺の畑に咲いていたもの。中也の詩に「丘の上では棉の実が弾ける」というような語句があったかと思うが、こちらは道脇の畑で棉の実が弾けていました。河内木綿と言うようにかつては河内は棉の栽培が盛んな地でありました。随所にこのような棉の畑が広がっていたのでしょう。(棉・ワタ)※拡大画面はコチラ 棉の花は黄色である。露出を低く抑えて撮影すると黄色に写るが、標準露出で撮影すると黄色がとんでしまって白っぽい花に写ってしまう。で、下の写真は露出を抑えて撮りました。決して、夜中に出掛けて行って撮影した訳ではありません。 (棉の花)※拡大画面はコチラ(左)(右) そして、「蓼食う虫も好き好き 」の蓼です。ルコウソウが咲き乱れる中に、蓼があったで、という訳。(蓼・タデ)※拡大画面はコチラ 次はエノコログサ。と言っても、ムラサキエノコログサという穂の赤いエノコログサである。穂がもう少し小さめで黄色っぽい穂のキンエノコロなどもあり、エノコログサも色々である。(ムラサキエノコログサ)※拡大画面はコチラ この日、墓地で見つけたのは、この赤い、ムラサキエノコログサでありました。普通のエノコログサはと探しましたが、墓地では見つからず、ムラサキエノコログサばかり。 (同上)※拡大画面はコチラ(同上)※拡大画面はコチラ 帰宅して、家の前の、最近空き地になったばかりの土地に、普通のエノコログサがありましたので、併せて掲載して置きます。<参考>キンエノコロの記事 ガガイモの実 2016.9.14.(普通のエノコログサ)※拡大画面はコチラ 次は、これも墓地に生えていたチカラシバです。別名ミチシバ。万葉では「芝草」で登場するが、芝草については、このチカラシバのこととする説のほか、コウライシバ説、ノシバ説、雑草説などがある。まゐる人 まれにしなると 見るまでに 墓の芝草 長く生ひにけり (偐家持)(本歌)立ちかはり 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生ひにけり (万葉集巻6-1048)(都が恭仁へと移って奈良は古都となってしまたので、道ばたの芝草も長く伸びていることだ。)(チカラシバ)※拡大画面はコチラ 伸びてしまっているのは芝草ばかりではない。お参りする人の長らく絶えている墓の周りは色々な草が伸びている。そんな中で何とも分からぬ草がありました。蕾が未だ固いので何の花かは想像がつかない。 (不明) ※拡大画面はコチラ(左)(右)(同上) ※拡大画面はコチラわが名をば知りたくあらば十日のち 訪ね来て見よ咲く花見せむ (蕾式部)と言っているようです。
2017.10.02
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本日は若草読書会のお花見会。 今年は例年になく桜の開花が早く、3月中に満開を迎えてしまい、ソメイヨシノは既に葉桜。少し遅れて咲く八重のサトザクラの木の下でのお花見会となりました。 例年通り、場所取りはヤカモチの担当。ソメイヨシノ目当ての場合には、多くの花見客との競争に負けぬよう、朝5時~6時には現地に出向くのであるが、今年は7時過ぎに現地到着とゆっくり目の行動。それでも、他にお花見の席を取る人の姿はなし。 持参の銀色のビニールシートを広げて場所確保の占有明示。シートの表面を雑巾がけの拭き掃除。それを終えて、東屋で休憩されていた朝の散歩の男性と暫し閑談。その後、周辺をぶらぶら散策して、花の写真などを撮る。(花園中央公園のサトザクラ) 上の写真の左手前に写っているのが、花見用のシートと愛車のMTB。 この一角だけでサトザクラが14本ある。(見上げれば花、花、花) 家持なら「下照る道に出で立つをとめ」と詠みたくなるのだろうが、偐家持の現実は、少女ならぬ年配の通りかかったおばさんがスマホを取り出してこの桜を撮影して行かれる、というものでありました。里桜 咲きぬる下に スマホ出し 撮るや照れなど 無縁の年増 (幻滅家持) で、ヤカモチも接近してパチリ。 勿論、年増女を撮るに非ず。桜花を撮ったのである。(近付いて見れば) 花は一重よし、兼好さんは八重桜はお好きではなかったようだが、花の好みは人それぞれ。粋だ、野暮だと、人の好みをあれこれ評することこそ野暮というもの。それぞれの花をそれぞれに愛でるをこそよし、というのがヤカモチ流であります。 若草読書会のお花見会の集合時間は午前11時。 それまでの時間を利用して、近所に住まいせる中学時代の同級生、喜多麻呂君と谷麻呂君に声掛けして集まって貰い、モーニングコーヒーしながらミニ・クラス会をしようというのが、同じく同級生のひろみの郎女さんの提案。それにヤカモチも賛同し、ミニ・クラス会を開くこととし、その集合時間を8時半と定めました。 先ず、喜多麻呂君が到着。続いて谷麻呂君。最後にひろみの郎女さんが車で到着。前々日の5日に積み込んだ椅子や小型テーブルなど花見用の諸々の品物を、彼女の車からシートの場所に皆で運ぶ。何のことはない、同級生にお花見の準備を手伝わせたようなもの(笑)。(ハナミズキ) 周辺にはハナミズキも咲いていました。(同上) 赤い花のハナミズキと白い花のハナミズキ。 谷麻呂君の話では、白い花のハナミズキよりも赤い花のハナミズキの方がその苗木は数段高値だそうな。 しかし、ヤカモチは白い花のハナミズキの方が好みではある。(同上) さて、全員集合したところで、ミニ同窓会と言うかミニ・クラス会を開催。と言っても、ヤカモチが途中のコンビニで買って来たサンドイッチとひろみの郎女さんがご持参下さったホットコーヒーがこの日のモーニングのメニューにて、これをいただきながらのあれやこれやのお喋りである。 朝食後は、ひろみの郎女さんがご用意下さったケーキと喜多麻呂君がお持ち下さった桜のお饅頭で珈琲のお代り。 そんな中で、凡鬼さんから電話があり、風邪を引いてしまったので、今日のお花見は欠席するとの連絡。 ややあって、若草読書会メンバーの偐山頭火さんがトレンクルに乗って到着。ミニ・クラス会と若草読書会のお花見会とがこの時点から交差、重複して進行。 暫くして、喜多麻呂、谷麻呂、の両君が去り、読書会花見会のみが続行。これより、お花見会の記事となります。 昨日の雨も止み、お天気に問題はないのだが、その雨をもたらした前線が連れて来た大陸の寒気団の所為で気温が低くなった上、風も結構あって、かなり寒い。ひろみの郎女さんは毛布を車に積んで2枚ご持参。「寒い、寒い」と毛布を身体に巻き付けての浮浪者スタイルに。「照れなど無縁の年増」は此処にも居たか、とヤカモチ(笑)。 そこへ、はるばる東京からの祥麻呂氏到着。 続いて智麻呂・恒郎女ご夫妻が到着。少し遅れて小万知さん到着。最後に槇麻呂氏到着で全員集合。お弁当を広げてのお花見会の開始となりました。 雀が我々の輪の中にやって来たりもして楽しい花見となりました。 道を挟んで反対側でもひと組のお花見の数人の集団がありましたが、他にはそのような集まりが見られない、という例年とは随分異なる景色のお花見でありました。 午後1時過ぎに宴会終了とし、智麻呂邸に総員引き上げ。智麻呂邸での二次会は午後4時45分まで。 次回、読書会は6月30日と決めて、解散となりました。<追記参考> ひろみの郎女さんのブログ記事 今日は若草読書会の花園中央公園お花見会 2018.4.7.
2018.04.07
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(承前) 昨日の記事の続きです。 大山守皇子墓から一条通りへ戻り、平城宮趾公園へと向かいます。思えば平城宮趾公園も久しぶりである。ブログ過去記事で調てみると、昨年の8月29日以来だからほぼ1年ぶりということになる。<参考>叡尊墓と北山十八間戸へ 2017.8.29. 例によって、裏口から入ることとする。東院庭園の裏にある法華寺旧境内阿弥陀浄土院跡から公園に入ることとする。(大山守皇子墓から平城宮趾公園への走行コース)(法華寺旧境内・阿弥陀浄土院跡)(同上・説明板) 説明板に記載されている「地上に見える花崗岩の大きな立石」というのはこれのことか。(田圃の中の大きな石) 白洲正子「十一面観音巡礼」(講談社文芸文庫)の第3章の「幻の寺」という項で「神社のそばの田圃の中に、動かすと祟りがあるという大きな石が遺っているが、もしかすると、お堂はそこにあったのではないか。」(50頁)と記載されている石も多分これであるのだろう。 同書によると、法華寺には本尊の十一面観音のほかにもう一体の十一面観音像があり、その光背裏面に、 桜梅天神十一面観音 延宝五年丁巳二月□日 御本地堂後光基座 願主 法華寺高慶という銘があり、御本地堂から法華寺本堂に引っ越して来られたものらしい。そして、この御本地堂は、宇奈多理神社の境内に明治の頃まで建っていたらしいが、この石のある辺りに建っていたのではないかと推理されている訳である。「十一面観音巡礼」単行本(新潮社)は昭和50年(1975年)12月刊行だから、2000年の発掘調査でそれが裏付けられる25年前のことである。 ということで、ついでにその宇奈多理神社にも立ち寄って行くこととする。その正式な名称は宇奈多理坐高御魂神社である。(宇奈多理坐高御魂神社)<参考>宇奈多理坐高御魂神社 この神社には何度か来ているが、門が閉まっていることが多く、中に入ったという記憶が余りない。この日は門が開いていました。(同上)(同上・由緒)(同上・境内)(同上・櫻梅神社の銘ある燈籠) この神社は江戸時代には桜梅天神、桜梅神社とも呼ばれたようだが、その名残が境内の燈籠の銘に見られる。これは「楊梅」の誤りだろうと考えられる。 平城天皇の陵を「楊梅陵(やまもものみささぎ)」と呼ぶことや、孝謙(称徳)天皇や光仁天皇の時代に「楊梅宮」と呼ばれたのは東院のことと解されているところ、その東院庭園がこの神社に隣接して存在していることなどを考えれば、「御所の神社」と言う意味で、これを「楊梅神社」と呼んだものと見るのが自然であろう。その「ようばい」が訛って「おうばい」となり、「楊梅」が「桜梅」と誤記されるに至ったという訳である。(同上・本殿) 宇奈多理神社と東院庭園との間の細道、即ち、楊梅神社と楊梅宮との間の細道から平城宮趾公園に進入であります。<参考>第一次大極殿跡付近から見た宇奈多理神社の杜の写真掲載記事 奈良銀輪逍遥 2010.4.9. 大極殿のあるブロックへと向かう途中、ナラガシワの木陰にベンチがあったので、其処でしばし休憩です。(楢柏の木陰で・・) 大極殿の方を見やると手前に工事仮設の構造物が高々と。 築地回廊や門の復元工事が行われているようですが、これは、南側の朝堂院ブロックとの間を隔てる閤門を築造するためのものであるのだろうか。(大極殿まわりの復元工事) 北側の県道104号から大極殿を撮影。これはうしろ姿ということになりますかな。(大極殿) 平城宮趾公園を出て、県道104号を西へ。 近鉄奈良線大和西大寺駅前を通り過ぎて駅西側の踏切を渡り、南へ。西大寺の北側の細道を西へと行きます。(史蹟・西大寺境内伝称徳天皇山荘跡●印) 上の地図では西大寺の表示がされていませんが、護国院とある場所の周囲全体が西大寺境内です。<参考>西大寺については下記記事をご覧下さい。 大和西大寺駅から矢田寺経由富雄駅まで 2010.3.5. 西大寺の北側の細道を西へ入って行くと、西大寺奥之院たる体性院がある。ここは、西大寺中興の祖、叡尊の墓があるというので、昨年の8月29日に訪れていることでもあり、今回はスルーして、その北側にある飛び地の境内地へと向かう。<参考>叡尊と北山十八間戸へ 2018.8.29. 伝称徳天皇山荘跡というのは、どのような典拠、根拠があってのものかは存じ上げないが、西大寺に関するウィキペディアの記述から知ったのである。しかし、場所が西大寺宝ヶ丘と表示されているだけで、正確な位置が不明。自衛隊官舎のある付近ではないかと見当をつけて行ったら、ドンピシャ正解でした。(史跡 西大寺境内、伝称徳天皇山荘跡) されど、其処はご覧のように何もない草地と言うか雑木林と言うか、陰気な空き地なのでありました。あるのはこの石碑のみ。 称徳天皇山荘跡という表示も関連の説明表示もないので、此処がそうだという確証はないのであるが、宝ヶ丘という地名からして此処であることは先ず間違いないものと思う。それ此処はまことみかどの跡なるや わが見る限り何とてもなし(偐家持)夏草の継ぎて生ひ敷くこの原に 置きしわぎへを如何にか偲ばむ(孝偐天皇) (本歌)この里は継ぎて霜や置く夏の野にわが見し草はもみちたりけり (孝謙天皇 万葉集巻19-4268) 以上で、15日午後の銀輪散歩完結です。 何んとも尻切れトンボの結末でしたが、戯れ歌で誤魔化して置きます。 これより西大寺駅前に戻り、近鉄線で帰途につきます。 お付き合いどうもありがとうございました。(完)<参考>銀輪万葉・奈良県篇はコチラ
2018.08.17
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近頃は「平成最後の」というのが、何にでも付けるようですが、それに倣うなら、平成最後のお花見という次第。 この読書会の花見は2009年が第1回目で、この時は枚岡公園で開いている。翌年のお花見から場所を花園中央公園に変更して今日に至っているので、お花見としては、11回目、花園中央公園での開催ということでは丁度10回目ということになる。キリのいいところで、平成から令和に切り替わることになると言えます。 まあ、そんなことはどうでもよろしい。 このお花見の場所確保は初回以来、ヤカモチの担当と決まっている。 朝5時5分起床。5時33分にMTBで家を出て、花園中央公園桜広場に向かう。大型のザックには熱湯を入れた保温タイプの水筒が大小3本入っている。途中コンビニに立ち寄りサンドイッチや珈琲、みそ汁などを購入。6時前後に現地到着。 持参のシートを張って、場所の占有宣言。 公園の水道をお借りして、シートの雑巾がけ。家事を殆ど(全く、と言うべきか)しないヤカモチであるが、こういう場合は拭き掃除もするのであるから、おかしなものである(笑)。(場所取り完了・雑巾がけ完了)(南西方向) 満開の桜です。 これらの写真は朝7時過ぎの撮影ですから、場所取り完了からは既に1時間以上経過しているものです。 場所取り後、上の写真の道の奥、左寄りに人が写っている辺りになるが、そこが酷い状態になっていました。(南方向) その酷い状態というのが、これです。(狼藉の後片付け前) 昨日の花見客がゴミの始末をきちんとしないで帰ったのであろう。それをカラスが更にまき散らしたものか、何とも見苦しい有様。 見かねて、ゴミの片付けを始める。暫くすると、通りかかったご婦人が手伝って下さって、瞬く間に綺麗に片付きました。 それが下の写真です。 上の写真が6時15分撮影。下の写真が6時33分撮影である。 つまり、二人で18分もあれば片付くのである。 何人の団体だったか知らないが、ちょっとのことで、このようなことにはならなかった筈。何とも情けない人たちであることだ。(狼藉の後片付け後) 思えば、毎年こんなことをしている気がする(笑)。 まあ、皆が来るまでの間の時間潰しになって、退屈しないという意味では、そう悪くもないか、などと思ったりも(笑)。 8時になって、ひろみの郎女さんが車で到着。昨日、若草ホールで積み込んだ椅子6脚を運ぶ。家持持参の小さな椅子二つと合わせて椅子は合計8脚。参加者は全12名なので、車椅子の智麻呂さんを除き、3人は椅子ではなくシートに座っていただかねばならない。 昨年、同様に、中学時代の同級生である谷麻呂君と喜麻呂君にも声掛けしていて、同じく同級生のひろみの郎女さんとの4人で、サンドイッチとモーニングコーヒー付きのミニクラス会を開催する予定であったのだが、8時25分になっているのに、谷麻呂君も喜麻呂君も現れない。 ドタキャンかと思った頃に、喜麻呂君が自転車で現れ、暫くして谷麻呂君がやって来た。何とか、ミニクラス会となりました。 そこへ、偐山頭火君が珍しくトレンクルでやって来た。トレンクルというのは折りたたみ式の軽量小型自転車である。趣味でやっている卵や何やらの燻製を差し入れに持参。我々4人とは同級生でもないのだが、特別参加であります。 若草読書会のお花見集合時間は11時である。10時を回った頃に、谷麻呂君、喜麻呂君は退席し、ミニクラス会終了。若草読書会お花見会となる。 槇麻呂さんが来られ、智麻呂・恒郎女ご夫妻、東京から参加の祥麻呂さんが来られ、すぐに和郎女さん、小万知さん、凡鬼・景郎女ご夫妻が来られ、賑やかになる。11時10分。謙麻呂さんが未だであったが、定刻を過ぎているので、会を始めることにする。直後に謙麻呂さんも到着。全12名が揃いました。飲む人、食う人、喋る人、時々は、花見なので、花も眺めつつ、好き勝手に会は進行である(笑)。(満開の花) 今年は、ドンピシャのタイミングで満開のお花見となりました。 我々のお花見の日程は、前年の秋の内に決めるので、当り外れは時の運であるが、今年は命中でした。 昨年は、同じく4月7日でしたが、ソメイヨシノは散った後、遅れて咲く、八重のサトザクラの下でのお花見であったのでした。<参考>若草読書会のお花見2018 2018.4.7.(同上) お花見に入ってからの写真はないので、昨日(4月6日)の午後2時半頃の桜広場の様子を撮影した写真がありますので、これを掲載して置きます。 参考映像というヤツですな。(前日の花見風景)(同上)(同上) 桜ばかりでなく、カイドウも満開。 カイドウの写真も、昨日の撮影です。(カイドウ)(同上) コチラは花ではなく葉でありますが、今朝撮影カナメモチの若葉です。(カナメモチ・若葉燃ゆ)(同上) 12時半頃であったか。 ちょっと時間の方は定かではないが、撤収開始。 智麻呂邸・若草ホールへ引き上げる。 和郎女さんのみ、他用ありとかで、お帰りになる。 恒郎女さん、景郎女さん、小万知さん、それに積み込んだ椅子などの荷物降ろし要員として槇麻呂さんが、ひろみの郎女さんの車で、ひと足先に智麻呂邸へ。 ヤカモチ(MTBを手押し)と凡鬼さん、祥麻呂さん、謙麻呂さんの4人は、車椅子の智麻呂さんと一緒に徒歩で智麻呂邸へ。偐山頭火さんはトレンクルに乗って。 智麻呂邸・若草ホールで二次会である。 ひろみの郎女さん購入の和菓子が行方不明となるハプニングもありましたが、これは結局見つからず。 二次会のとっかかりは景郎女さんが楽しい絵本の読み聞かせを演じて下さって、和郎女さんが偐山頭火さんから貰ったタオルを原材料にして製作されたウサギの人形などを希望者に分配。(ひながうまれました!おはなもまんかい、はるがきました。)<追記>黄色の折り紙で作る「たんぽぽコプター」も教えていただきました。 和郎女さんの作品は追って、当ブログで紹介しますので、ここでは割愛であります。 つづいて、凡鬼さんから、イギリス、ベルギー、オランダなどをご旅行されたことに関連しての講話。同じくイギリスを旅された槇麻呂さんからもメアリー・スチャートのお話。 最後に、たこ焼きパーテイーで締め。午後4時半解散でした。 次回は6月30日(日)開催とし、講話は謙麻呂さんにお願いするということに決定。
2019.04.07
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毎朝、クマゼミの合唱とともに目覚めるこの頃。わが庭に くまぜみ来鳴く 朝なれば 起きよみな人 はげめと言ふや (寝坊家持)(クマゼミ) これは、わが庭の木に鳴いていた奴ではなく、銀輪散歩で立ち寄った花園中央公園に居たクマゼミ。 近くにはニイニイゼミとキマダラカメムシも居ました。(ニイニイゼミとキマダラカメムシ) 実際にはこんな感じで一つの幹にとまっていました。(クマゼミとニイニイゼミとキマダラカメムシ) これは桜の木。桜の木にはキマダラカメムシがよく居る。 カメラを向けた時は、キマダラカメムシには気づかず、クマゼミとニイニイゼミ、というつもりで撮ったのですが、画像を見るとカメムシも写っていたという次第。 この日、アブラゼミは、声はすれども姿は見えずで、撮影できず、別の日に、加納緑地で撮った写真がこれ。(アブラゼミ1)(同上2)(同上3) アブラゼミ1の居た木には、ハナムグリも居ました。(ハナムグリ) 加納緑地には、こんな木もありました。 蝉の脱け殻がいっぱい。やたら蝉にもててしまった木。 この木にもカメムシが居て、カメラを向けていたら、犬を連れて通りかかった男性から「何か珍しいものでもいるのですか?」と声を掛けられましたが、「いや、別に。カメムシを撮っていただけです。」とヤカモチ。 十分に「変人」ですかな。(蝉の脱け殻がいっぱいの木) クマゼミ、アブラゼミ、ニイニイゼミがよく見かける蝉。 ミンミンゼミやヒグラシは余り見かけない。 ツクツクボウシはお盆が過ぎてからで、この時期の蝉ではない。夏の終わり頃にはツクツクボウシが盛んに鳴く。 閑しづかさや岩にしみ入いる蝉の声 (芭蕉 おくのほそ道) これは、芭蕉が山形県の立石寺で詠んだ有名な句。 斎藤茂吉はこの蝉をアブラゼミと断じたが、小宮豊隆はニイニイゼミと主張し論争となった。斎藤茂吉が自らの誤りを認め、ニイニイゼミ説に落ち着いたようだが、ニイニイゼミの合唱の声は「し~ん」という感じで、確かに「岩にしみ入る」音調・音色であり、妥当な結論だとヤカモチも思う。 クマゼミやアブラゼミなら、猛暑日や岩響かせて蝉の声、とでもいうこととなり、岩にしみ入ることはないだろう。朝床に 聞けばかしまし くまぜみの をちこち分かず しゃんしゃんしゃんと (蝉家持)(本歌)朝床どこに 聞けば遙はるけし 射水川 朝こぎしつつ 唱うたふ船人 (大伴家持 万葉集巻19-4150) 万葉の頃は、ヒグラシが隆盛を極めていたのか、蝉はヒグラシのみが詠まれている。ひぐらしは 時と鳴けども 恋ふるにし 手弱女たわやめ我は 時わかず泣く (万葉集巻10-1982)夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてぞ吾あが来る 妹が目を欲ほり (秦間満はたのはしまろ 同巻15-3589)石走いはばしる 瀧たきもとどろに 鳴く蝉せみの 声をし聞けば 京都みやこしおもほゆ (大石蓑麻呂おほいしのみのまろ 同巻15-3617) 三首目の蓑麻呂の歌は、単に「蝉」とあるのみであるから、何ゼミとも断定できないが、これもヒグラシなんだろう。暮れなづむ 峠の道や ひぐらしの 夏もかなしき かなかなかなと (蝉家持) この夏、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシの鳴く声は未だ耳にしていない。 子どもの頃には、初夏、ハルゼミの声も耳にすることがあったが、近ごろは全く聞かない。 一方、ニイニイゼミはわが耳の奥で「耳鳴り」として年中鳴っているので、実際のニイニイゼミの声を耳にしても、それがニイニイゼミの声であるのか耳鳴りであるのかがよく分からないというのが、ヤカモチさんなのであります(笑)。わが耳の 奥にもシ~ンと 蝉の声 まあ、耳鳴りのそれが、アブラゼミやクマゼミの声ではなく、ニイニイゼミの声でよかった、とは思っています。 今日は蝉の話でした。
2021.07.27
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(承前) 前ページ記事の続きです。 鳩の公園を出て、左に行くとメリケンパーク入口。 バイク乗り入れ禁止とあるので、これに自転車が含まれるのであれば、乗ったまま進入してはいけないことになる。ひとまず降車して手押しで歩いて入ることとする。しばらく行くと向こうから自転車で走って来る人の姿。どうやら自転車に乗ったまま進んでもよいようなので、再び乗車。(メリケンパーク入口) 正面の建物はホテルオークラ神戸。 前を横切っているのは阪神高速3号神戸線の高架。(メリケンパーク、神戸海洋博物館と神戸ポートタワー) 神戸震災メモリアルパークの先にあったのは、昭和天皇の歌碑。(昭和天皇御製歌碑)港まつり 光りかがやく 夜の舟に こたへてわれも ともしびをふる(同上・裏面) 歌碑裏面の説明をみると、この歌は昭和32年の宮中歌会始で詠まれたもので、前年の昭和31年10月の御来神の折、宿舎であったオリエンタルホテルの屋上から、神戸みなと祭の海上の提灯行列の光景をご覧になっての印象を歌にされたものだという。 このオリエンタルホテルというのは、京町筋にあるオリエンタルホテルのことであるから、上の写真の歌碑の背後に見えている神戸メリケンパークホテルのことではない。 また、京町筋のオリエンタルホテルも平成7年の阪神淡路大震災で全壊して建て替えられているので、現在のそれでもないということになる。 天皇のこの歌と何らかの関係があるのかどうかは知らぬが、昭和39年にオリエンタルホテル屋上に、港町神戸のシンボルとして公式灯台が設置されるという異例の展開となる。 しかし、震災によるホテル全壊により、日本で唯一のホテル灯台も一時姿を消すことになる。 この時、姉妹ホテルとして建築中であった神戸メリケンパークホテルに灯台が引き継がれることとなり、同ホテルの最上階デッキにこれが設置され、ホテル灯台は復活、再び灯をともすこととなり、今日に至っている。(神戸メリケンパークホテル灯台)※神戸メリケンパークホテルのホームページより借用(メリケン波止場と神戸メリケンパークホテル)<参考>メリケン波止場・Wikipedia メリケン波止場とはアメリカ船が着く波止場という意味、転じて外国船が着く波止場という意味も。俗称であるから、外国船が発着する波止場であればどこの波止場でも成立する呼称ということになるが、横浜と神戸のメリケン波止場が有名で、普通にメリケン波止場と言えばこのどちらかのことということになる。 「窓を開ければ港が見える。メリケン波止場の灯が見える。」という淡谷のり子の「別れのブルース」のメリケン波止場は、歌詞そのものからはどちらとも言えないが、作詞・作曲の経緯からみて、神戸のメリケン波止場ではなく、横浜のメリケン波止場のようである。<参考>別れのブルース・Wikipedia(メリケン波止場) メリケンパークを横断、神戸ポートタワーの下を通って、かもめりあ中突堤へ。 遊覧船が停泊して居り、そのうちの一艘が出航するところであった。(停泊中の御座船)<参考>御座船・Wikipedia 御座船の船尾後方、観覧車の手前に見えている白い船は、神戸クルーズのコンチェルトだろうか。 もう12年も前のことになるが、神戸クルーズの社長(当時)が同窓生であるということもあって、大学の同窓会の幹事会をこのコンチェルトでのディナークルージングに乗船して行うというようなことがあった。<参考>神戸クルージング 2009.9.26.(参考地図 神戸港とハーバーランド 赤線―は走行コース) かもめりあ中突堤を通り抜けて道路に出ると、向かいの建物がホームセンターのコーナンで、2階の窓にはサイクルサポートセンターとかなんとかの表示があった。 ここなら、空気入れが借りられるのではないかと、店に入ってみると、一階入り口脇に空気入れが2~3個置いてあった。 店のお方に申し出ると「どうぞお使いください。外では暑いでしょうから、店の中に入って空気を入れてください。」とまことに親切なお言葉が返って来ました。冷房のきいた館内で空気入れを使わせていただく。 お蔭で、後輪タイヤの空気圧は万全。安心して心置きなくこの後の行程を走ることができるというものであります。感謝です。お礼を述べて先へと進む。(神戸港) 上の写真はコンチェルト乗り場にある建物”umie MOSAIC”の前から撮影したもの。中央に先ほど通り過ぎた御座船のマストと屋根部分が見えている。<参考>神戸コンチェルト・ホームページ コンチェルト乗り場を通り抜けると、こんなものがありました。(旧・新港第五突堤信号所) 説明碑には「当信号所は、神戸港に入出港する船舶に対する信号所として、大正10年に新港第四突堤に建設され、昭和12年に新港第五突堤に移設された。以来平成2年に役目をおえるまで、神戸海上保安部の運営のもとで、半世紀以上にわたって神戸港を見守り続けた。往年を偲ばせる信号所を当地に移築し、永く保存する。 最高高さ46.30m 平成4年3月 神戸市長 笹山幸俊」とある。(同上・説明碑) 見上げると塔の上空に太陽がかかっていたので、姿勢を低くして塔の尖端に太陽がかかるようにして撮影してみたのが上の写真であります。 ハーバーランドの街路に戻り、ハーバーランド中央交差点の先で国道2号に出て左折直進、西出町交差点からは国道2号に別れ、海岸線道路を南下。 4~500mほど行ったところで、賀川豊彦生誕地と書かれた碑を見つけました。賀川豊彦がこの付近で生まれたということを初めて知りました。(賀川豊彦生誕地碑)<参考>賀川豊彦・Wikipedia 道なりに行くと兵庫運河の新川に出る。 新川に沿って右に行くと、新川の湾曲した地点にあったのが、古代大輪田の泊の石椋。(古代大輪田の泊の石椋)(同上・説明碑)※画像をクリックすると大きいサイズの写真画面が開きます。 しばらく、万葉と関係のない銀輪散歩でありましたが、ここで、大輪田の泊が出てまいりました。この付近から和田岬の先にかけての海岸が「大和太の浜」であったのでしょう。(その1)で取り上げた下記の田辺福麻呂歌(1067番)に詠まれている「大和太の浜」である。浜清きよみ 浦うるはしみ 神代かみよより 千船ちふねの泊はつる 大わだの浜 (田辺福麻呂 万葉集巻6-1067) 銀輪万葉の面目が立ったところで、新川沿いにさらに進むと、新川に架かる入江橋の上でヤカモチを出迎えてくれたのが、清盛くん。 (清盛くん) う~ん残念。 万葉集の福麻呂くんではなく、平家物語の清盛くんであった。 兵庫港の発展は平清盛にまで遡るのであるか。 たしかに、清盛が京都から遷都した福原もこの地でありました。 兵庫区では平清盛を地域のシンボルとし、「清盛くん」をキャラクターにこの辺り一帯を「平清盛のまち」と定めているようです。 新川沿いの遊歩道を、対岸にイオンの建物を見つつ行くと、兵庫城跡碑なるものがありました。(兵庫城跡碑)(同上・説明副碑)<参考>兵庫城・Wikipedia 池田恒興が天正9年(1581年)に築城した兵庫城の跡である。 池田恒興の兵庫城、片桐且元の片桐陣屋、尼崎藩の陣屋(兵庫津奉行所)などと名を変えつつ存続し、明治になって兵庫県庁が置かれるが、その移転後の明治7年(1874年)には、兵庫港拡充改修に伴う新川運河開削により、すべて取り壊された。その中心部はこの運河の辺りだそうだが、それを偲ばせるものは、この石碑のみである。 因みに、初代兵庫県知事は伊藤博文(慶応4年<1868年>5月3日就任、明治2年<1869年>4月10日退任)だそうな。 新川運河沿いに、さらに南に下り、県道489号の広い道に突き当たった右角にあるのが、清盛塚。(清盛塚)(清盛塚石造十三重塔)(同上・説明副碑) 説明碑には「この石塔は、清盛の墓と言われていましたが・・調査で、墳墓でないことが確認され・・」と水をさすようなことが書かれている。 そもそも「墓」とは何であるのか。遺体や骨などを埋葬してこれを祀る場所に限定されるべきなのか。分骨墓などというものもあり、その態様は色々である。何らかの遺品を納め供養する施設も墓と呼んでいいなら、皆が墓と思い、そのような扱いをしているのであれば、それは墓ではないと誰が言えるだろうか。「お墓の前で泣かないでください。そこにわたしは居ません。」ということでもあるから、遺体が埋葬されているかどうか、もっと言えば、遺品などゆかりのものが埋葬されているかどうか、などでこれを区別することは無意味な気がしないでもない。 中央にあるのは、清盛の像。 神戸市出身の彫刻家、柳原義達氏の作だそうな。(平清盛像) 像の右手にあるのが琵琶塚。(琵琶塚) こちらは、その平面形が琵琶の形に似ていることから琵琶塚と呼ばれていたそうだが、説明碑には「(江戸時代から)琵琶の名手、平経正の墓と信じられていました。」とある。 経正は、清盛の弟・経盛の長男。敦盛の兄に当たる。 この後、敦盛の墓にも立ち寄るので、奇しき縁という奴である。 さて、下調べで、目に付いた兵庫大仏のある能福寺というのも立ち寄り先に予定していましたが、ヤカモチの思い込みで所在位置を勘違い、行き着くことができませんでした。 この寺には、平清盛廟や清盛供養塔の十三重石塔もあるとか。 地図をよく確認しないまま、清盛塚の前の県道489号を西に行った先の3~4番目の辻を右に入った所にあると思い込んでしまっていました。 実際には、清盛くんが居た入江橋の通りを西へ行った先の3~4番目の辻であったのでした。 これでかなり無駄な時間を費やしましたが、見つけるのを断念し、清盛塚に取って返し、その南側の清盛橋を渡って先へと進むことにしました。(兵庫運河<新川>を渡る。清盛橋の上から。奥の橋は住吉橋) 橋を渡った先の左側に薬仙寺という寺がありました。 この寺はノーマークでしたが、「萱の御所跡」という文字が目に入ったので立ち寄ることとしました。(薬仙寺)(同上・本堂)(同上・案内板) 先ず、萱の御所蹟碑。(萱の御所蹟碑) 清盛が、対立することとなった後白河法皇を、福原に行幸させ、茅葺の家に幽閉したのだそうだが、それが兵庫港の近くにあったとされているとのこと。 この碑は寺の北東100m位の場所に建てられていたのだが、新川運河の拡張工事で、水没することになることから、当寺の境内に移設したものだそうです。 法皇を幽閉したのは、清盛の弟の平教盛の屋敷だそうで、その屋敷跡とされる場所が兵庫区の夢野町にあるらしく、実際の萱の御所はそちらの方だとする説が有力だとか。 夢野町は、湊川公園にある兵庫区役所から数百メートル北西に行ったところであるから、かなり内陸の方になる。(同上・説明副碑) 境内には、大施餓鬼會日本最初之道場の碑や花山法皇の歌碑や後醍醐天皇の病を治癒した霊薬水湧出の井戸など色々なものがあり、ブログネタには事欠かないお寺でもあります。 しかし、さすがのヤカモチもいささか疲れましたので、写真だけ紹介して置きます。(大施餓鬼會日本最初之道場の碑)(花山法皇歌碑)有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かと聞けば 小野の松風(同上・副碑)(後醍醐天皇御薬水 薬師出現古跡涌水)(同上・説明碑) この後、和田神社、ノエビアスタジアムへと走りますが、そろそろどこかで昼飯も食わなければならない。 ということで、何が「ということ」なのかは分からぬが、今日はここまでとします。 なお、今日の立ち寄り先などを地図に落とし込んだものを作成しましたので、少し不器用な出来になっていますが、この先の立ち寄り先なども少し含ませて居り、心づもりにもなるのではと、参考までに、以下に掲載して置きます。(参考コース地図 ハーバーランドから駒栄橋まで)(つづく)
2021.08.09
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昨日(16日)は、大学同期の友人・堀〇君からのお声掛けに応えて、「IRカジノSTOP!10・16市民集会」に参加して来ました。 会場は、阪急宝塚線曽根駅から徒歩5分の豊中市立文化芸術センターの多目的室。午後6時半開会~8時半閉会ということなので、少し早めに行って、曽根駅近くの東光院・萩の寺を訪ね、その後、何処かで夕食を済ませてから、会場に入ろうと考えていましたが、ネットで東光院を検索すると、コロナ対策で同寺の拝観時間は午前10時から午後4時までとなっていることを知る。 午後4時過ぎに寺を訪ね、5時半頃に夕食、6時過ぎ会場入りという当初目論見の修正を余儀なくされました。 ということで、出発を午後1時過ぎに早める。曽根駅到着が午後2時過ぎ。 しかし、さすがに早く来過ぎたようで、時間を持て余す羽目に。 東光院訪問の後、付近を徘徊、豊島(てしま)公園散策、「喫煙処」という札が掛かっている喫茶店で珈琲休憩、会場の市立文化芸術センター向かいのヴァイキングビルの喫茶店で早い夕食。(ヴァイキングビル) 早食いのヤカモチであるが、意識的にゆっくり食べ、食後の珈琲もゆっくり味わいましたが・・。 それでも時間が余り、市立文化芸術センターには午後5時16分に到着してしまった。まあ、道路1本を挟んでいるだけですから、当然ではありますが(笑)。(豊中市立文化芸術センター) 館内をブラブラしていたが、2階のミーテイングルームに何人かの人が入って行くのを見て、主催の「大阪カジノに反対する市民の会」の人たちだろうと見当をつけ行ってみると、果たしてその通りで、堀〇君やその仲間の皆さんが集会参加者に配布するチラシなど各種ペーパーをセットされていた。 で、堀〇君に挨拶するついでに、小生もそれに加わって、少しばかりお手伝い。 定刻に開会。 入場の際にいただいたペーパーセットの中に入っていたのは、こんな手作りのストラップ。(カジノNO) 裏側(まあ、どちらが裏でどちらが表かは分からぬが)は、こんな感じ。(同上)(会場・開会前)(集会のリーフレット) 前半は、カジノ反対団体リレートーク、全国カジノ反対団体からのメーセージ紹介、立憲民主党・日本共産党・れいわ新選組など政党代表の挨拶。 後半は熊谷貞俊氏(大阪大学名誉教授)と桜田照雄氏(阪南大学教授)の対談。 カジノ誘致撤回に成功した、横浜カジノ誘致反対横浜連絡会からのメッセージ紹介では、横浜から贈られた50本の傘が披露されました。(カジノ誘致反対横浜連絡会からのメッセージ)(横浜からの50本の傘) この会主催の集会に参加するのは3回目。 前2回は一昨年のことであるから、2年ぶりのことになる。<参考>〇カジノはあかん!という市民集会に 2019.3.23.〇大阪カジノに反対する市民の会結成1周年記念集会 2019.9.15. さて、おまけの話。 市立文化芸術センターの館内をブラブラしていて、地階から1階へと上がる壁面にマチカネワニの骨格のレプリカが展示されているのに気づきましたので、ついでの掲載です。(マチカネワニ)(同上・少し角度を変えて撮影)(同上・説明プレート)(同上・説明プレート英語版) マチカネワニは大阪大学豊中キャンパス構内で発掘された45万年前のワニの全身骨格化石。 大阪大学の公式マスコットキャラクター「ワニ博士」や豊中市のキャラクター「マチカネくん」となって親しまれている。 豊中市のマンホールもマチカネくんの図柄である。<参考>マチカネワニ・Wikipedia 銀輪散歩・マンホール(その11) 2018.8.5.(ワニ博士)(マチカネくん) 東光院や豊島公園は別途ページをあらためて後日紹介します。 本日は、これまで。
2021.10.17
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友人・岬麻呂氏からの旅便りです。 前回に続き沖縄ですが、今回は「沖縄本島の西にある慶良間諸島のなお西にある小さな島で・・・出来るだけ何もしないで島時間を楽しむのが目的の夫婦旅」という、12月7日~10日、3泊4日の久米島の旅であります。(旅・岬巡り報告283・久米島&同写真説明)(同上)(久米島の地図)<参考>過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。 では、例によって、旅程に従い、別途メールで送っていただいた旅の写真をご紹介申し上げることといたします。 しかし、今回は「何もしない旅」というコンセプトの旅、でありますから、どうなりますことやら、であります(笑)。何もせぬ 旅としあらば その旅の ことを述ぶるは 苦しきものぞ (無為家持)12月7日関西空港→那覇空港→久米島空港→奥武島の畳石→イーフビーチホテル(3連泊) 久米島空港は島の西側。 宿泊ホテルのあるイーフビーチは島の東端。 イーフビーチの向かいの島が奥武(おう)島。(畳石<奥武島の海岸>) 初日は、畳石訪問のみで、午後2時ホテルにチェックイン。 チェックイン後は「部屋から海を夕刻まで眺め島時間」であったそうですが、その島時間に入る前にマンホールの写真だけは撮っていただいたようであります(笑)。 そして、島時間の締めは、地元の泡盛・久米仙古酒であったということになるのでしょうか。(久米島町<旧具志川村地区>のマンホール) 五枝の松とクメジマボタルの図柄のマンホール。 具志川村という表示があるから、2002年4月1日隣村の仲里村と合併して久米島町となる以前の、具志川村時代のマンホールということになる。(久米島町のマンホール) これは「波」の図柄でしょうか。(久米島町<旧仲里村地区>のマンホール) 久米島の西半分が旧具志川村、東半分が旧仲里村で、両村が合併して久米島町となったことは、前述の通りであるが、このマンホールは、中央に「村章」と「なかざと」という文字が見て取れ、岬麻呂氏からのメール説明にも「仲里」という記述がありましたから、旧仲里村時代のものであるのでしょう。12月8日ハテの浜ツアー参加→ハテの浜上陸→久米島灯台→具志川城址→ミーフガー→比屋定バンダ展望台→宇江城(うえぐすく)城址→旧仲間切蔵元跡→真謝(まじゃ)チュラフクギ並木(久米島と奥武島の間の水路 新奥武島橋の上から撮影) ハテの浜ツアーに参加される前の、この日最初の写真がこれ。 写真中央に見える「黒いもの」はアオウミガメだそうな。 岬麻呂氏によると、撮影しようとしたら、潜ってしまったようで、このような写真になってしまったとのこと。亀だけども写真はウェルカメではなかったようで、それと察して潜ってしまったのかも。 大阪の亀なら「カメへんでぇ~」と撮らせてくれたかと思うが、クメ島のカメはそうではないのでありました。(真謝のフクギ並木) 道路拡張のため、住宅が取り壊されることになったが、その屋敷林のフクギを伐採するのか保存するのかで意見が対立したらしい。その結果、結局、このように道路の中央分離帯という形で残されることになったとのことであります。(ハテの浜<東方向>) さて、ハテの浜ツアーです。 ホテルのベランダからもその一部が見えていたとのことですが、砂だけの島、ハテの浜です。 グラスボートに乗客6人が乗船し、船長さんのご案内で、その砂だけの島に上陸するというツアーであります。(ハテの浜<西方向>) 上の写真及び下の写真に黒い帯のように広がっているのは、海底火山の噴火で押し寄せて来た今話題の軽石だとのこと。 小笠原諸島の海底火山「福徳岡ノ場」の噴火で噴出した軽石が海流に乗ってはるばると漂着したのであるが、ニライカナイ信仰のある沖縄であってもさすがにこれはノーサンキューな漂着物である。 美しい砂浜の景観も台無しであります。(ハテの浜に漂着の軽石群) さて、ここで、クイズであります。 下の写真に写っている構築物は何でしょう? ハテの浜ツアーの船長さんが乗船客に出したクイズだそうです。 6名の乗船客は岬麻呂氏は別として、誰も答えられなかったそうでありますが、何度も来られている岬麻呂氏は干潮時のこの構築物の全体像を以前に見て居られたので答えを知って居られたとのこと。 皆さんは、分かりますか?(答えは、末尾に記しています。)(海の中の構築物) 次は、具志川城址とミーフガー。(具志川城址)(ミーフガー) 石灰岩と凝灰角礫岩の海蝕崖。 7月中旬から数週間は、この岩の穴から日の出が望めるらしい。 女性がこれを拝むと子宝に恵まれるというパワースポットだという。(宇江城・城址からの展望) 宇江城は久米島の最高峰に築かれた15世紀の城だそうですが、その城址からの展望が、上の写真。 そして、この日もマンホール写真であります。(久米島町のマンホール<町名あり>) 上掲の旧仲里村のマンホールと同じデザインであるが、中央に町章と久米島町という町名が入っているから、旧仲里村時代のデザインをマイナーチェンジして、久米島町発足後に作成されたマンホールなんだろう。12月9日タチジャミ自然公園→おばけ坂→上江洲家(琉球王朝時代の地頭代の古民家)→五枝の松→シンリ浜→ホテルに戻り昼食→午後は何もせず 久米島の日の出です。(久米島の日の出) イーフビーチホテルのベランダから撮影の、この日最初の写真。 そして、前日に訪ねた宇江城城址を遠望です。(宇江城城址遠望) 城址のある山は宇江城岳という名の山。久米島の最高峰。 おばけ坂に向かう途中で撮影されたのでしょうか。宇江ぐすくの 城址仰ぎ 見つつ君 おばけ坂への 道行くらむか (坂家持)(おばけ坂) その妙ちくりんな名前の、おばけ坂がこれです。 では、この坂についても、クイズです。 奥に向かって、この坂は上り坂でしょうか、下り坂でしょうか。それとも、傾斜のない平坦な道でしょうか。(答えは末尾に記しています。)(五枝の松) これは、国指定の天然記念物である「五枝の松」。 琉球松にて、1839年植栽との記録があるといい、根元から枝が分岐して約250平米に広がっているとのこと。 唐崎の松も真っ青、五枝の松であります。(イーフビーチ) イーフビーチは、「日本の渚百選」に選ばれる久米島を代表するビーチであり、白砂が2kmに渡って続く砂浜、サンゴ礁内側の穏やかな海の、人気の海水浴場でもある。12月10日島の南端・鳥の口→アーラ浜→久米島空港→那覇空港→識名園→那覇空港→関西空港(久米島灯台遠望<帰途の飛行機から>) 昼前の便で那覇へ。 10年ぶり、6度目の久米島訪問の旅も「いざ、さらば」であります。わぎもこと こしくめじまは いくたびか くめどつきせじ くめじまのたび (くめ家持)(識名園) 飛行機の乗り継ぎ時間を利用して、琉球王朝の迎賓館であった識名園を訪ね、ついでにマンホールも撮影であります。(那覇市のマンホール・シーサーの図柄<カラー>)(同上・魚の図柄<モノクロ>) 極力何もしないことが目的の旅とのことでしたが、結構内容のある旅、おまけのマンホールの写真もクイズもありで、外野席のヤカモチも十分に楽しませていただきました(笑)。<クイズの答え>〇海の中の構築物は、橋です。 干潮時にも漁船が出せるように、漁港から外海に向かって、サンゴ礁(岩)を削って水路を開削しました。すると、それまで干潮時には干潟に出て貝を採ったり、魚を釣ったりしていた島の人たちは、その水路の所為で、従来のように徒歩で干潟に行くことができなくなる。ということで、水路開削と同時に、水路を渡るための橋を設置しました。潮が満ちて来ると、水路と橋(上部構造部を除き)は海中に没してしまうので、写真のような光景になるという次第。 干潮時には出題されないクイズだそうです。(追記・補注)この橋の名はシールガチ橋だそうです。(岬麻呂氏コメント参照)〇おばけ坂は、奥に向かって上り坂です。 まあ、ヤカモチは、写真では下り坂に見えるので、答えが「下り坂」ではクイズにならないだろうから、「上り坂」と考えました。 岬麻呂氏の出題では、上りか下りかの二択でしたが、それでは簡単過ぎるので、もう一つの選択肢「平坦な道」というのを付加して三択にしてみました。
2021.12.15
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中也銀輪散歩で見かけた蛾の写真を紹介して置きます。 蛾は苦手という人はパスしてください。 ひとつは、権現山・熊野神社の境内で見かけた、オオシロオビアオシャクと思われる蛾です。下記<参考>のブログ記事の文中、熊野神社のところで、その蛾のことに言及していますが、追って、「虫」カテゴリの記事でとり上げようと、写真は敢えて掲載しないで置きました。<参考>中也銀輪散歩・お墓参りとザビエル記念聖堂 2022.11.16. 翅を広げた状態だと5cm程度ある大型の、薄緑色の蛾です。(オオシロオビアオシャク)<参考>シャクガ科・Wikipedia シャクガ科、アオシャク亜科の蛾。アオシャクの仲間も沢山の種類がいるので、オオシロオビアオシャクとは異なる種類の蛾である可能性も否定できないが、多分オオシロオビアオシャクだろうと思います。(同上) カメラを地面近くに下げて、蛾の目線と同じレベルで撮影。(同上) ちょっとピントが甘くなってしまって、蛾の表情は不鮮明ですが、彼と視線を合わせた状態です。 警戒をしているのか、まったく動かない。 しかし、敵ではないと認識したのか、警戒を解いた風で、広げていた翅をたたみ始めた。(同上) 翅をたたむと、随分とコンパクトになった。 それでも動かないので、枯れ葉を下に差し入れて、それにとまらせて、神社境内の隅の木々の間の草むらに置いてあげた。 神社の参道脇の地面なので、参拝する人影が殆どないとはいえ、人に踏まれないとも限らないという訳で、「保護した」という次第(笑)。 もう一つは長門峡駅で見かけた蛾。(名前不明の蛾) これは、長門峡駅前の案内看板にとまっていた蛾。 これも下記<参考>の記事の文中で言及しているが・・。<参考>中也銀輪散歩・長門峡(その2) 2022.11.12. 最初は、枯れ葉が引っかかっているのかと思ったのだが、よく見ると蛾でありました。それも交尾をしたままじっとしていて、生きているのか死んでいるのかもわからない状態。 上の方の蛾が多分メスだろう。腹部が下のオスのそれに比べてふっくらとしているから、卵がいっぱい詰まっているのだろう。 枯れ葉に似ているから、カレハガの仲間かもと考えた「が・蛾」、これもシャクガの一種かもしれない。「蛾の世界はそんなに単純ではないのだ」と彼らも言っているようでもあるので、ここは正体不明として置きましょう。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。
2022.11.22
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